【4月21日(月)】


眼を覚ますと時計の針は7時を指している、1時間くらいは眠れたみたいだ。

【一条】
「学校行きたくないな……」

そう思うがそうではいけない、最近学校には行ってないも同じ、そろそろ行っておかないと何かと面倒だし。
眠気の抜け切らない顔に冷水で喝をいれ、学校へ行く準備をする。

……

澄み渡った青空の下、学校への歩みを進める。
歩いている時でも俺の頭が休まる時は無い、頭の中では様々な引っ掛かりが渦を巻いて脳を刺激している。

【一条】
「……はぁ」

もう溜め息しか出ない、俺なんかの内容積の小さい頭には問題が多すぎるよ……

【美織】
「おっはよー」

【一条】
「おはよ……」

【美織】
「久しぶりに会ったのにつれないわね、最近学校に来ないで何やってるの?」

【一条】
「特に何もしてないさ……」

いつもいつも無駄に元気な美織のペースに巻き込まれないうちに退散しよう。

【美織】
「ちょっと待ってよ、まだ姫が来てないでしょ、待っていてあげようよ」

【一条】
「音々は来ないよ……」

【美織】
「来ないってどういうことよ? マコにそんなことわかるわけないじゃない」

それがわかるんだ、美織の口ぶりからすると美織は音々が倒れた事実を知らないのか。

【一条】
「昨日音々が倒れたんだ、今は病院で意識の回復を待っている」

【美織】
「え……」

予想通り驚いた顔をする、眼を大きく見開いてポカンと口を開けたまま動かない。

【美織】
「嘘……」

【一条】
「……」

【美織】
「じゃないんだ……意識の回復を待ってるって、もしかして危険な状態なの?」

【一条】
「命に別状は無いらしい、医者の話だと意識の回復も時間の問題だと」

【美織】
「そうなんだ……良かった……」

ホッと胸を撫で下ろし、表情も穏やかに落ち着きを取り戻す。
美織にとって音々は親友と呼べる存在と云ってもおかしくない、そんな親友の無事を聞いて安心できたのだろう。

【美織】
「それで、姫が倒れた原因はやっぱり発作?」

【一条】
「ああ、前と同じように元々弱い心臓にくる発作」

【美織】
「そういえば、どうしてマコは姫が倒れたことを知ってるの?
あたしですらあんたに聞くまで知らなかったのに?」

【一条】
「昨日はちょっとした理由で音々と一緒にいたんだ、しかも、発作を起こしたのは俺の眼の前だった」

デートをしていたというのは伏せておく、美織のことだから茶化すか、もしくは信じてもくれないだろうからな。

【美織】
「ふーん、マコが一緒にねえ……音々が男と2人で過ごすなんて珍しいな」

【一条】
「たまにはそんなこともあるだろうさ」

【美織】
「マコが変なことでも吹き込んだんじゃないでしょうね?」

じろりと疑いの眼差しを向けられる、変なことを吹き込むのはむしろ……

【一条】
「俺をおまえと一緒にしないでくれるか」

【美織】
「どういう意味かー!!」

……

散々美織の追い回されて、昼休みの時間になってようやく開放してくれた。

【一条】
「余計な体力使わせやがって……」

屋上の給水塔の上、流れる風を感じながら仰向けに寝転がる。
学校にいても何か1つ足りない、それがなんなのかはわかっている。
……音々の存在だ。

音々が教室にいないだけ、俺の近くにいないだけでなんだか穴でも開いてしまったかのようにしっくりこない。

【一条】
「こんなふうに思うってことは、俺はやっぱり……」

昨日音々の親父さんの前での証言、気持ちに素直に答えたはずなのにどこかで自分を信じきれていなかった。
だけど今日、横に音々がいないことで、俺は何の楽しさもなくなってしまった。
それだけ俺は音々を必要としている、1人の友人としてではなく、1人の女の子として……

【一条】
「……」

オカリナを取り出して立ち上がる、ここ最近オカリナを吹いていなかったな。
オカリナに口をつけ、ゆっくりと息を吹き込むと、柔らかな風に乗って音が響き渡る。
久しぶりに吹くオカリナの音はいつもと変わらない、それなのに、何故か空しい感じに聞こえるのは気のせいだろうか?
曲も終焉を向かえ、フゥッと溜め息1つ……

パチパチパチ

突然の拍手に後ろを振り返ると、そこにいたのは……

【水鏡】
「……」

あの少女だ、最近は音々とばかり一緒にいたからこの子に会うこともなかったな。

【一条】
「君は確か……」

【水鏡】
「水鏡です……」

【一条】
「久しぶり、とはいってもほとんど話したことも無かったよね、こんなところに何か用でも?」

十中八九こんなところに用事などあるわけない、考えられるのはオカリナの音に気になったか、あるいはこの俺に用事があるか。

【水鏡】
「お上手ですね……オカリナ」

【一条】
「お褒めの言葉として受け取っておくよ、だけどそれは君の本当の意見じゃない……」

水鏡は以前俺のオカリナの音を悲しんでいると云った、悲しんでいる音は上手い音では決してない。

【一条】
「今日の音はどうだった?」

【水鏡】
「……」

沈黙が水鏡の答えを代弁している、今日も前と同じ……

【一条】
「教えてくれないか、俺の音が悲しんでいるっていうのはどういうことなんだ?」

【水鏡】
「音そのもの自体はとても澄んでいます、悲しんでいる原因は音にはありません。
原因はあなた自身、音を生み出す人間自体が悲しんでいるために、感情が音にも影響を及ぼしています。
だけど、あなたは自分が悲しんでいることを隠している、内に秘めた感情は必ず自分にはわからない形で姿を主張します。
今のあなたはそんな状態じゃないんですか?」

【一条】
「……」

水鏡の言葉に納得してしまう、まるで心の中を見透かされたようだ。
確かに俺は悲しみを隠している、記憶を失ってしまったという事実がそれにあたる。
できることなら隠し通したい、人に哀れまれるのは酷く辛いものだから。
この悲しみを背負っている限り、オカリナの音が澄むこともないのだろう……

【一条】
「……そういうことか……」

【水鏡】
「思い当たる節、あるみたいですね……」

【一条】
「ああ、君のおかげだありがとう」

【水鏡】
「お礼を云われることはなにもしていませんよ、えっと……」

言葉につまっている、顎に手を当ててちらりと俺に視線を向け、そわそわと落ち着かないような仕草。
どうしたんだろう? 顔になにかついているんだろうか?

【一条】
「何か云いたそうだけね、遠慮しないで何でも云ってくれ」

【水鏡】
「あの……なんとお呼びしたら良いですか?」

【一条】
「はい? なんとって普通に……あぁ、そういえば俺まだ名前も名乗ってなかったっけ」

【水鏡】
「……コクン」

【一条】
「ごめんごめん、俺は一条誠人、好きなように呼んでくれて良いから」

【水鏡】
「それじゃあ……誠人先輩」

【一条】
「なんか先輩って云われると照れるな」

【水鏡】
「と云われましても呼び捨てにするわけにもいきませんから。
そろそろ休み時間も終わりますので私は失礼します」

背を向けてはしごをコツコツと降りていく、後姿を見送りながらふと疑問が沸いた。
今日はいつもと違う、いつもなら水鏡と対峙すると体の自由が利かなくなっていたのに、今日はいたって普通。
1人残された屋上で、もう1つ疑問は増えてしまった。

……

6時限目も終了、暇の一言で片付けられてしまう学校もようやく放課後に突入か。

【美織】
「やほー、午後の授業は全部寝てたみたいだけど、もう学校終わったよ」

【一条】
「わかってるよ、云っておくけど6時限目の後半はちゃんと起きてたぞ」

【美織】
「後半って云っても終了十分前じゃない、あれは起きてたんじゃなくて偶然起きたって云うのよ」

【一条】
「どっちでも良いよそんなことは……」

手早く帰り支度を済ませる、今日はもうここに用も無いし。

【美織】
「せっかくだからたまには一緒に帰らない?」

【一条】
「お誘いはありがたいけどお断りだ、今日は病院によっておきたいから」

【美織】
「そっか、姫のお見舞いか……ねぇ、あたしも一緒に行っちゃ駄目かな?」

【一条】
「駄目なわけないだろ、美織が来てくれたら音々も喜ぶんじゃないか、もっとも意識が戻ってるかはわからないけど」

【美織】
「それでも良いよ、支度するからちょっと待ってて」

病院と聞いて音々が倒れたことを思い出したのか、慌てて帰り支度を始めるんだけど……焦りすぎですって。

……

【美織】
「ねえ、朝から気になってたんだけど聞いても良いかな?」

【一条】
「内容を云ってくれないと俺にはどうも云えないんだけど……」

【美織】
「姫が発作で倒れたって云うのはわかってるんだけど、どうして倒れたの?」

【一条】
「今自分で最初に発作で倒れたって云わなかったか」

【美織】
「違う違うそうじゃなくて、発作が起きても薬を飲めば倒れたりなんてしないはずだと思うんだけど」

なるほど、まだ美織のは音々が薬を持ってなかったことを話してなかったな。

【一条】
「音々のやつ、その薬を持っていなかったんだよ」

【美織】
「え……そんなのおかしいよ、だってあの薬が無いと姫は……」

【一条】
「おかしいと思うかもしれないけど、実際に持ってなかったんだから」

【美織】
「どうしてなんだろう……姫だってわかってるはずなのに……」

当人である音々がわからないはずがない、しかし、音々が薬を持っていなかったのは紛れも無い事実。
一体そこにどんな真意があったのか、音々が話してくれない限り俺たちが知ることは不可能なんだ……

……

病院について、開口一番に美織が発した言葉は。

【美織】
「病院ってこんななんだ」

【一条】
「こんななんだって、まるで初めて来たみたいな云い方だな」

【美織】
「だって初めて来たんだもん、あたしは今まで病気とかにはなったこと無いもん」

【一条】
「嘘つけ、もう10何年も生きてて風邪の1回くらい……あぁ、なるほど」

【美織】
「むぅ、何1人で納得してるのよ」

【一条】
「ようはあれだ、なんとかは風邪引かないってやつか」

スパーン!

後頭部をおもいっきりひっぱたかれた、なんの身構えもしていなかったからストレートに痛みが響く。

【美織】
「誰が莫迦だって云うのよ!」

【一条】
「痛いな、一言も莫迦とは云ってないだろ、せっかく穴埋めにしたのに自分で埋めるんじゃない」

【美織】
「むぅ」

眼が不自然につりあがってるけど、今は美織と莫迦やってる暇じゃないんだ。
とりあえず担当の秋山先生を探さないと、音々の意識が戻ったかどうかもわからないしな。

【一条】
「いつまでもむくれた顔してるんじゃない、俺は先生に挨拶しに行くけど美織はどうする?」

【美織】
「こんなところに1人にされたら何もできないでしょ、ついて行くわよ」

……

秋山先生がいる可能性がある場所で、俺が知っているのはこの診察室だけ。
診察室の扉を数回ノックすると……

【秋山】
「開いてますよ、どうぞ」

【一条】
「失礼します」

扉を開けると、中には椅子に座ってカルテらしき物を眺める秋山先生の姿があった。

【秋山】
「やはり君でしたか、来るのではないかと予想していましたよ」

【一条】
「予想的中ですね、それで音々の容態は……?」

【秋山】
「今朝方意識も回復しましたよ、病室の方は私が案内しましょう」

【一条】
「助かります」

【秋山】
「礼には及びませんよ、それよりもそちらの方は?」

【一条】
「音々の友達です、見舞いに行くって云ったら一緒に行きたいと云われまして」

【秋山】
「そうですか、私はてっきり君の……」

【一条】
「断じて違いますからそれ以上云わないでください」

はははと楽しげに先生は笑っているけど、俺の方は楽しくない。

【美織】
「あたしがマコのなんだって?」

【一条】
「気にしなくて良い、この先生特有のジョークだ」

【美織】
「なんか引っかかるな……」

小首を傾げる美織をよそに、先生の笑顔は崩れていない、やっぱり新藤先生の教え子だけある……

……

【秋山】
「ここですよ」

連れてこられたの病室のプレートには『姫崎 音々』と書かれている、病室の番号は403号室、個室だ。

【秋山】
「私は少し用事があるのでこれで」

【一条】
「ありがとうございました」

そそくさと先生は階段の奥に姿を消す、もしかして気を使ってくれたのかな?
気を使ってくれたのか本当に用事があったのかなんてどうでも良いか、病室の扉をノックする。

【音々】
「どうぞ、開いてらっしゃいますから」

【一条】
「失礼ー」

【美織】
「やっほー」

【音々】
「誠人さん、それに美織ちゃんまで、一体どうしたんですか?」

【一条】
「どうしたって病室に尋ねてくるとしたら見舞いしかないだろうに」

【美織】
「そういうこと、姫会いたかったー!」

ベッドの上で寝巻き姿の音々にガバッと抱きつく、突然の行動に音々はおろおろと焦り始めた。

【音々】
「きゃ、美織ちゃん、いきなり抱きつかないでくださいよ」

【美織】
「マコに聞いて心配したんだぞ、心配させたお返しだ」

抱きついたまま音々の胸に顔を擦り付ける、しっかりと抱きつかれて身動きの取れない音々に拒む手段は無い。

【音々】
「ふな、美織ちゃん、くすぐったい……」

【美織】
「うりうりうりー」

【音々】
「はうぅ、ま、誠人さんも見てないで助けてくださいよ」

【一条】
「女同士久しぶりにじゃれあうのも良いんじゃない?」

【音々】
「は、薄情者ー!!」

その後、美織が満足するまで音々は解放されず、美織が満足するころには音々はがっくりとしていた。

【音々】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

【一条】
「終わったか、どうしたやけに疲れてるけど?」

【美織】
「まだあんまり無理しちゃ駄目だよー」

【音々】
「もう……お2人とも嫌いです」

頬を膨らませてプイとそっぽを向く、そんな音々の仕草に2人は同時に笑みをもらす

【美織】
「あはははは、姫ってば怒った顔もかわいいー」

【一条】
「はは、まあそんなに怒らないで、今日は渡したい物があるんだから」

【音々】
「渡したい物、ですか?」

【一条】
「そ、ちょっと待ってて」

鞄の中をあさって袋を1つ取り出す。

【一条】
「はいこれ」

【音々】
「これは……あ!」

袋から取り出された物、それは昨日音々が買った手芸用の布地だった。

【美織】
「それって手芸で小物作ったりするのに使う布だよね、マコが買ってきたの?」

【一条】
「いや、昨日音々が買った忘れ物、倒れた時に取り落としてたから俺が預かっておいたんだ」

【音々】
「ありがとうございます、昨日のことはあまり覚えていなくて布もどうしたかと思ったんですが。
誠人さんのおかげで予定通り作業にとりかかれそうです」

【美織】
「布地ってことは、またぬいぐるみ作るの?」

【音々】
「はい、また当分の間は学校に行けそうもありませんから」

【一条】
「当分の間ってどういうことだ? 意識が戻ったんだからすぐに学校に来れるんじゃないのか?」

【音々】
「普通の方ならすぐにでも戻れますけど、私は特別ですから……」

すっと音々の視線が布地に落ちる、それと同時に美織の肘が俺の脇腹をとらえた。

【美織】
「あんたにはデリカシーって物が無いの?」

俺だけに聞こえるような小声でそっと呟く、わかっている、聞いてからしまったと思った。
しかし、ここで俺が謝ることは許されない……

何故なら、人は他人に同情されることを極端に嫌うからだ。

鈍く脇腹に残る痛みが報い、この痛みが消えるまで、俺の罪は消えることは無い。

【美織】
「もう、何そんなにしょげちゃってるのよ、そんなの姫らしくないよ。
いつもの姫みたいに笑って、しんみりしてるといつまでも良くならないよ」

【音々】
「ふふ……そうですね」

顔を上げ、ニッコリと微笑んだ音々の笑顔はどこか痛みを隠しているようなそんな感じがする。

【音々】
「やだ……私ったらお客様が来ているのにこんな恰好で」

寝巻き姿の自分を見て少しだけ頬を染める、寝巻きのままでもかわいいと思うけど。

【美織】
「マコ良かったね、女の子のパジャマ姿なんて滅多に見られるもんじゃないよ。
この際だからしっかりと眼に焼きつけておいたら?」

【一条】
「そうだな、せっかくだし……」

【音々】
「ま、誠人さん! あ、あんまりじろじろ見ないでくださいよ」

【美織】
「マコってばやらしぃー」

【一条】
「見ろって云ったの誰だよ……」

3人の顔に宿るのは笑顔、音々の笑顔もさっきのような痛々しさは無い。

【音々】
「あの、少し汗をかいてしまいまして、服を着替えたいんですが……」

【美織】
「それならあたしも手伝うよ、背中の汗とか1人じゃ不便でしょ」

【音々】
「それでは、お願いします」

音々の手が第一ボタンにかかる、と、振り返った美織の眼がキッとつりあがる。

【美織】
「ちょっと、女の子が着替えたいって云ってるんだよ、男は出て行きなさい!」

【一条】
「やっぱり出なきゃ駄目か……」

【美織】
「当たり前でしょ! さっさと出ないとこれが飛ぶわよ」

美織が手にしているのは……なんでそんな物持ってるんだよ。

……

どうもあいつは食べ物のありがたさがわかっていない、食べ物で遊ぶなって教えられてないのか?

【一条】
「今度やろうとしたらゲンコツでもお見舞いしないと駄目だな」

締め出された扉の奥では女の子2人で何かやってるだろうけど、入ったら死にかねないしな。
特にピンクの方は要注意、何をしてくるかわかったもんじゃない……

ブル……

なんだか不思議な寒気を背中に覚えた、この寒気は部屋の中から?

ゾオォ……

怖くなったので席を外そう、食われた後じゃ後悔しても遅いもんな……

【美織】
「な・に・か・い・っ・た・か・し・ら・!?」

【一条】
「出たー!!」

後ろに聞こえたのはたぶん鬼の声だ、絶対に鬼だ、鬼だと信じよう。

……

走って鬼から逃げてきたら凄い疲れた、あの鬼とんでもない地獄耳だこと。
口に出してなかったから地獄耳とはちょっと違うか……同じで良いか。

【一条】
「架空の生物って本当にいるんだな……」

鬼から逃げたせいで咽が渇いた、紅茶でも買って飲むか。
紅茶を買おうと自販機の置いてある休憩所に向かうと、そこにはすでに先客があった。

【萬屋】
「……奇遇だね、一条君」

【一条】
「萬屋さん……」

ベンチに腰掛けて紙コップの中のに注がれたコーヒーを一口含み、ニィと笑みを見せる。

【萬屋】
「今日も病院に用事とは、もしかして君は何か病魔持ちかい?」

【一条】
「怖いことを云わないでくださいよ、昨日も今日も知り合いのお見舞いですよ。
そういう萬屋さんも今日もお見舞いに来たんじゃないんですか? 確か、『天見 楓』さんでしたよね」

【萬屋】
「まぁ今日も彼女に用があったわけだが、それも今日でお終いだ」

【一条】
「お終いって……退院でもしたんですか?」

【萬屋】
「彼女は死んだよ、ついさきほどね」

【一条】
「え……」

生気が感じられない機械のような無感情な口調で語る、そこに萬屋さんの感情は存在しない。

【萬屋】
「医者の予想どおりだな、最近の医者は患者を見る眼がある」

【一条】
「すいません……軽率なことを云ってしまって」

【萬屋】
「気にすることは無い、私も彼女のことなど気にしてはいない」

この無感情な口調の中に嘘は無い、萬屋さんは彼女の死に関して悲しんでいる様子は無かった。

【一条】
「知っていたんですか? 彼女がもう助からなかったことを」

【萬屋】
「知っていたよ、あの顔は生人の顔ではない、あれは死者の顔だ」

淡々と萬屋さんは言葉を続ける、結末を全て知っている人間は皆こうなってしまうのだろうか?
一切の感情が欠落した、機械のような冷徹な人間になってしまうのだろうか……

【萬屋】
「人間とは不便なものだ、なまじ知識があるせいで己が死へ近づいていることに気付いてしまう。
己の死期を悟ることは恐怖の入り口だ、いずれ訪れる死の瞬間まで、人は脅え続けなくてはならない。
そう考えると、己の死期を知ることもなかった彼女は幸せだったのかもしれないな」

【一条】
「……」

萬屋さんが一呼吸置き、コーヒーを飲み干して立ち上がった。

【萬屋】
「人とは例えてみれば氷だ、個体を外世界に出しておけば徐々に形を失っていく。
少しずつ原形を歪め、最後には肉体である固体を失い、その場に残るのは氷であったという記憶だ。
記憶は再結晶すれば再び現実に存在を戻す、しかしそれも一時的なもの、いつかはその記憶さえも消えてしまう」

ゆっくりと歩みを進めた萬屋さんの後姿が立ち止まり、聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で囁いた。

【萬屋】
「まぁ、記憶を失った君には無縁の話だったかもしれないな……」

【一条】
「!」

俺の耳は聞き逃さなかった、すぐにでも詰め寄って萬屋さんに詳しく聞きたかったけど。
後ろ手に萬屋さんは俺に向かって何かを放った。

【一条】
「……っ」

飛んできた物体を受け止める、恐る恐る手を開いてみると、そこには小さな鍵が1つ。

【一条】
「これは……!」

鍵から視線を萬屋さんに戻すと、そこに萬屋さんは留まっていなかった。

……

音々の病室の扉を開ける、もし音々の着替えが済んでいなかったらと考えたけど、もう遅い。

【美織】
「ちょっと、女の子の病室にノックも無しに入ってくるんじゃないの」

【一条】
「鬼だ……」

【美織】
「誰が鬼だってー!」

美織……もとい、鬼がガアガア怒っているけど気にする必要も無いだろう。

【音々】
「すみません、私の勝手で追い出してしまって」

【一条】
「気にしなくて良いさ」

鬼と違って音々がかける言葉は優しい、見ると音々は寝巻きの上に上着を羽織ったために少しダボついて見える。

【一条】
「パジャマも良かったけど、今度のも良いじゃない」

【音々】
「そうですか、あまり人様にお見せするような服装ではないのですけれど」

ぽっと頬を染める、恥ずかしがっていると云うよりは嬉しがっていると云った方がシックリくる反応だ。

【一条】
「もうこんな時間か、あまり長居するわけにもいかないからそろっとおいとまするよ」

【音々】
「そうですか、誠人さん、お時間を割いてまで来ていただいて今日はありがとうございました」

【一条】
「良いってことさ、また時間みつけて来るから、あまり無茶するんじゃないぞ」

【音々】
「ふふ、はい」

【一条】
「ついでだからこのやかましい鬼もつれて帰るわ、ほら来い」

未だ興奮冷めやらない鬼の首に腕をまわし、引きずって部屋から連れ出す。

【美織】
「また今度ね、ちょっと放しなさいよ!」

最後まで鬼はガアガアうるさかった、キャラメル投げ返してやろうか。

……

【音々】
「はぁ……」

あの人が消えていった扉に向かって溜め息をはく、私の体がこんなではなかったらあの人ともっと長い時間一緒にいられたのに。
呪うのはこの体、生まれつき持ってしまった病巣がいつまでも私を苦しめる。
痛みを伴うだけの生命の拠点、いつもそんなふうにしか思っていなかったけど……

なんだろう、あの人の顔を見た途端に、胸の奥がほんのりと暖かくなった。

【音々】
「私、もう少しがんばってみますね、誠人さん……」

今まで感じることの無かった心の変化、これから先もたぶんこんな気持ちになることは無い。
初めて感じることのできた私の想い、私はまだその応えを頂いていない。

【音々】
「待ってます、時間の許す限り、いつまでも……」

窓の外では遅咲きの桜がちらほらと花を咲かせ始めている、応えを急ぐ必要は無い。
早咲きの桜も遅咲きの桜も、同じように美しい花を咲かせるのだから……

……

【美織】
「むぐむぐむぐー」

【一条】
「少しは静かにしてくれよ、ここは病院なんだぞ」

【美織】
「だったら放しなさいよ!」

素早く腕を振りほどくとぜぇぜぇと荒くなった呼吸を整える。

【美織】
「苦しかった……ちょっと酷いじゃない危うく死ぬところだったんだから」

【一条】
「病院だから死んでも処理には困らないだろうな」

【美織】
「こういう時に笑えない冗談云うんじゃなーい!」

バガン!

【一条】
「ぐおおぉぉぉぉ……」

酷い、酷すぎる、何もグーで殴ることないじゃないか……

【美織】
「まったく……こんなやつのどこが良いのかしら?」

【一条】
「いたたたた……何か云ったか?」

【美織】
「別に、あんなたには関係の無いことよ、用も済んだことだし帰るよ」

なんて自分勝手な鬼だ……

【美織】
「誰が鬼かー!」

ひぃ! 地獄耳、それよりも俺声に出してたのかよ!

……

【一条】
「酷い眼にあった……」

結局あれから、機嫌を損ねた美織に喫茶店でおごらされる羽目になった。
しかもしこたま食べるんだ、財布が寂しい状況ですよ……

【一条】
「寝よう……」

完全なる現実逃避、寝てしまえば明日になったら覚えてないだろう……忘れてくれ。
ポケットからオカリナを出そうと手を入れると、オカリナとは違う金属の感触がある。
取り出してみると、それは病院で萬屋さんの投げた小さな鍵だった。

【一条】
「一体、萬屋さんはどうして俺に鍵を?」

金色に光る小さな鍵、鍵だけ渡されても俺にはどうすることもできない。
開ける物さえ知らない俺に鍵は無意味だ、捨ててしまっても良いのだが……

【一条】
「……」

何故だろう、鍵を捨てようという気にはならない。
それどころかこの鍵、どこかで見たことがあるような懐かしい気がする……
気のせいといってしまえばそれきりなのだが、それではどうしても腑に落ちない。

いつものように謎がぐるぐる回り始める、それと一緒になって眠気までも回り始める。
俺の思考が勝つか、体が求める休息が勝つか……

精神が肉体の限界に勝てるなどやはりありえなかった……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜