【4月20日(日)】


【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

息をきらせながら脇目も振らず、必死に目的地を目指して走っている。
走っている理由は簡単、走らないと間に合わない時間に眼が覚めてしまったからだ。

【一条】
「俺が遅れるわけにはいかないんだよな……」

遅れた方にはペナルティー、そんな取り決めをした記憶がある。
そんな取り決めが考えられた元の話を説明すると、話は少し過去にさかのぼる……

……

【一条】
「音々、明日の日曜日、一緒に買い物でも行かないか?」

【音々】
「誠人さんとご一緒にですか……それは他の方は?」

【一条】
「他のやつらには内緒の方向で、2人だけで行きたいんだ」

【音々】
「ひょっとして……デートのお誘いですか?」

【一条】
「平たく云うとそういうこと、当然誘いを受ける受けないは音々の自由だから。
もし受けてくれるのなら、腕に噛み付いてくれ」

後ろから音々の体を抱きしめる形になっているので、俺の腕は音々の口の近くにある。
だけどなんで俺はそんな応答を求めたんだろう、今考えてみるとあまりにも滅茶苦茶なことだったな。

【音々】
「……」

【一条】
「……」

【音々】
「……あぐ」

【一条】
「いた! 本気で噛み付くなよ……」

腕に音々の歯が食い込んで鈍い痛みが走る、血は出てないと思うけど結構痛い。

【音々】
「ふふ、噛み付けと云ったのは誠人さんの方ですよ。
それに、誠人さんには今までたくさん意地悪されてきましたから、お返しです」

ぺろっと舌を出して、悪戯っ子のような子供じみた笑顔を見せた。

……

そんな約束があり、そこに発生したのがペナルティーの取り決めだ。

【一条】
「ちょと厳しいかもな……」

待ち合わせ場所は駅の改札口、指定した時間は10時きっかり。
今腕時計の針が指しているのは9時50分、普通に走っていたら絶対に間に合いそうもない。

【一条】
「……近道しかないか」

一般道をそれ、脇道へと足を向ける、以前廓のやつが教えてくれた駅までのショートカット。
ここを通るとかなりの時間短縮が可能になるんだけど……

バキバキバキバキ!!!

突き出た木立が体に当たって痛い、ここは人が通るような道ではない。
なんだってあいつはこんな道を見つけたんだ?

……文句は止めよう、ここを通らなかったら確実に遅刻するんだ。

バキバキバキバキ!!!

もう1度生い茂る木立の中を駆け抜けると、眼の前に広がるのは駅の姿。
時計の針は58分を指している、何とか間に合ったみたいだ。
急いで改札口に向かうと、1人ぼんやりと時計を眺める音々の姿があった。

【一条】
「音々……はぁ、はぁ、はぁ……お待たせ」

【音々】
「誠人さ……どうしたんですかその恰好は?」

【一条】
「恰好ってなんの……うわぁ」

体を見下ろしてみると、体のあちこちに小さな枝切れや葉っぱの残骸が無数に付着していた。
急いでいたので気にも留めなかったけど……まるで浮浪者だな。

【一条】
「ちょっと外で落としてくるわ」

【音々】
「払ったくらいじゃ落ちませんよ、お手伝いしますね」

駅の外に出て体に付着した木々の残骸を払い落とす、俺の眼が届かない背中に近い部分は音々が払ってくれる。

【音々】
「一体どうしてこんな恰好になってしまったんですか?」

【一条】
「ちょっと寝坊してさ、人が通らない道を走った結果がこれだよ」

【音々】
「どうしてそんなところを通るんですか、普通に来たら良いじゃないですか」

【一条】
「普通に来たら間に合わなかったんだよ、間に合わないとペナルティー食らうからね」

【音々】
「お洋服が汚れるよりも、ペナルティーになった方が良いと思うんですが……」

内容が一切わかっていないペナルティーはさすがに嫌ですよ……

ある程度体を払った後、最後に軽く体を叩いて付着していた木々の撤去を完了する。

【一条】
「こんなもんかな、後ろの方はまだなにか付いてる?」

【音々】
「後ろの方ももう大丈夫ですよ、あら、誠人さんその手は?」

音々に云われて手の甲を見てみると、手の甲には一筋の赤い曲線ができ上がっている。
触れてみるとじんわりと痛みが走る、どうやら木々で傷つけてしまったのだろう。

【一条】
「ちょっとした切り傷だね、大したことないよ」

【音々】
「駄目ですよ、ちゃんと手当てをしないと治りも遅くなってしまいますよ」

音々がポケットからハンカチを取り出して俺の手の甲に当ててくれる。

【音々】
「手当ての道具が無いのでこんなことしかできませんが、なにもしないよりは良いですから」

【一条】
「色々と世話かけるね、こんな男のどこを好きになっちゃったの?」

【音々】
「そういった質問はご法度ですよ、誠人さんの知らないところです」

上手く逃げたな、だけど俺の知らないところってどこだろうか?

【音々】
「それで、今日はどういったご予定になってるんですか?」

【一条】
「とりあえず隣町に行こうと思ってるけど、その先のことはあっちで決めようと思ってさ」

【音々】
「でしたら1つわがままを聞いてもらってもよろしいですか?」

【一条】
「俺ができることなら何でもどうぞ、荷物持ちくらいなら快く引き受けるけど」

【音々】
「ありがとうございます、それではあちらに着いたらお願いしますね」

……

電車に揺られること数分、隣町に電車は到着した。

【一条】
「到着ですよ、それで、わがままってなんのことで?」

【音々】
「そんなに大した用事じゃないんですけど、寄りたい所があるんです」

【一条】
「お好きな所へどうぞ、予定は決まってないんだから」

【音々】
「ありがとうございます、それではあちらへ」

……

音々に連れられてやって来たのは小さな店、名前が英語で書いてあったので何の店なのかはわからない。

【音々】
「誠人さんにも少しだけお手伝いしていただきますね」

【一条】
「お手伝いって云われても、俺なんかで役に立つかどうか」

【音々】
「大丈夫ですよ、誠人さんのご意見をいただくだけですから」

そう云うと音々は店の中へ消えて行く、俺も後を追って店の中に入ると。
店の中には彩り豊かなビーズや様々な色の毛糸が所狭しと並べられている、今まで見たことのない世界。
この店はいわゆる手芸道具を売っている店なんだ。

【一条】
「なんか不思議な空間だな、こんな店見たことないよ」

【音々】
「男の方にはこういったお店はあまり馴染みがありませんからね」

【一条】
「馴染みがないというか、普通こんな店に男は来ないと思うんだけど」

男で手芸に興味があるのはたぶん全人口合わせても一握り二握りの人だけだろう。
周りの客も皆女性ばかりで、俺1人だけなんだか浮いた存在になっているぞ。

【音々】
「私と一緒にいれば付き添いだと思われますから大丈夫ですよ。
なるべく早く選びますから少しだけ辛抱してくださいね」

ビーズと毛糸を見比べながらうんうんと小さく悩み始める。
音々の頭の中では様々な組み合わせが渦を巻いていることだろう。
だけど男の俺にとってこの空間はどうも落ち着かない、この店に在る物は皆かわいらし小物類。
布地でできたチューリップとか、ビーズで作られたネズミのオブジェとか、男の俺には似つかわしくない物ばかりだ。

早くここから抜け出したい、もう限界が近い俺を尻目に音々は……

【音々】
「この布地を使うとしたらビーズはこっちの方が……」

子供のような無邪気な表情、しかし、その奥の瞳には真剣さが滲み出ていた。

【音々】
「すいません誠人さん」

【一条】
「なんでしょうか、そろそろ限界が近いんですが……」

【音々】
「誠人さんは白い布地と茶色い布地はどちらがお好きでしょうか?」

【一条】
「どちらがって云われても音々が何を作るのかわからないから答えようがないんだけど」

それ以前にその2つの色の好みを聞かれたのは初めてだ、普通は赤か青かだもんな

【音々】
「ちょっとぬいぐるみを作ってみようと思ったんですけど。
どちらの布地にしたら良いかと思って、誠人さんはどちらの色が好きですか?」

【一条】
「そうだなあ……どちらかって云われたら白かな」

【音々】
「白ですか、どうしてそちらの色を選んだんですか?」

【一条】
「ぬいぐるみを作るんだったら白い方が良いと思ってさ。
白いぬいぐるみは時間の中で自分の色を付けていく、白は可能性のある色だからかな。
最初から決められた色で終わるのじゃつまらないだろ」

【音々】
「白は可能性の色ですか、夢のある言葉ですね……決めた」

茶色の布を棚に戻す、どうやら俺の意見を反映してくれたみたいだ。

【一条】
「あんまり俺の言葉をあてにしないほうが良いと思うけど、俺はセンス無いんだし」

【音々】
「色を決めるのにセンスも何も無いですよ、色選びはあくまで1歩にすぎません。
そこからどのように仕上げていくのか、後は私次第なんですから。
だけど、この布を選べたのは誠人さんのおかげですね」

【一条】
「そうなってくれると良いけど……」

【音々】
「そうなってくれますよ、それじゃあお会計済ませてきますね」

パタパタと布地を持ってレジへ急ぐ、まるで玩具を与えられた子供のようなはしゃぎぐあい。
昨日音々の家でベッドの上に様々なぬいぐるみが並んでいるのを見たけど、あれってもしかしたら音々が作った物なのかもな。

【音々】
「お待たせしました」

布地の入った袋を嬉しそうに抱きかかえながら満面の笑みを向ける。

【一条】
「それじゃあ出ますか、さすがにこんな店に男が長居するのはきつい」

【音々】
「ふふふ、はい」

……

【音々】
「大丈夫ですか? なんだか顔色があまりよろしくないですけど」

【一条】
「いや……あんな空間に今までいたことが無かったから」

【音々】
「どうでしたか、初体験は?」

【一条】
「それってなんか卑猥な表現だね、音々ってばやーらしー」

【音々】
「ち、違いますよ、そう意味ではなくて、その……」

【一条】
「その、何?」

【音々】
「だから、あの、あうぅぅぅ……」

相変わらず音々らしい反応だな、もう意地悪するのも可哀想だし止めとこうか。

【一条】
「なんてな、音々ってばすぐに口車に乗っちゃうよね」

【音々】
「うううぅぅぅぅー……」

あ、怒ってる、口を横に紡いで小さくうなり声を上げる、頬も少し赤くなっているかな。

【一条】
「あんまり怒らない方が良いよ、怒ってばかりいるとかわいい顔が台無しになるぞ」

【音々】
「うううぅぅぅ……誰のせいですか!」

【一条】
「俺のせいって云いたいところだけど、悪いのは全部音々の方だな」

【音々】
「どうして私のせいになるんですか……」

【一条】
「音々が俺のことを好きでいるから、よく云うだろ、好きな子ほどいじめたくなるって」

【音々】
「もう……本当に口が上手いんですから」

正確には立場が逆なんだけど、そんなことは気にしていなかった。
再び頬を赤く染めるも今度のは怒っているからではない、あの顔は照れている表情だ。

【一条】
「そういえば、ぬいぐるみを作るって云ってたけど、もしかして音々の部屋にあったのは」

【音々】
「あれは私が作った物です、まだあまり上手くはできないんですけど。
自分で作った物ですから変に愛着がわいてしまって」

【一条】
「料理ができて裁縫ができて、音々には花嫁修業なんてのは必要無さそうだな」

【音々】
「そんなことはありませんよ、私にはまだまだ覚えなくてはならないことがたくさんありますから。
今しか時間は無いんですから、今のうちにできるだけのことを覚えないと」

今しか時間が無いか、俺もそうだ、このまま無駄に時間を過ごしてしまえば後に待っているのは後悔だけ。
今の時間にしかできないことを今の時間の中でやっていこう、後で後悔はしたくないからな。

【一条】
「さてと、次はどこに行こうか?」

【音々】
「私のわがままを聞いていただいたんですから、今度は誠人さんがわがままを云っても良いんですよ」

【一条】
「さいですか、そういうことなら……」

【音々】
「云っておきますけど、お姫様抱っこさせろとかは無しですからね」

【一条】
「……」

【音々】
「どうしてそこで沈黙するんですか、もしかして本当にさせようとか思ってたんですか?」

【一条】
「……ちぇっ」

【音々】
「ちぇっじゃないですよ、ちぇっじゃ!
こんな人通りの多い所でやられる身にもなってください」

プンプンといった表現がぴったりくるような怒り方をする、また怒らせちゃったか。

【一条】
「そんなに怒らないでくれよ、音々にはこれからちょっと手伝って欲しいことがあるんだから」

【音々】
「エッチなことか、人目をはばかれるようなことは無しですからね」

【一条】
「……」

【音々】
「なんでまた黙るんですか!」

ぽかぽか頭を叩かれる、今のは黙ったんじゃなくて考えてただけなのに……

……

音々の機嫌を直しつつ俺たちは買い物を続けた。
服を見たり、帽子を見たり、音々がアクセサリーを見たり。
途中で昼食を採り、午後も2人で一緒に様々な店を観てまわった。
楽しい、最近忘れてしまっていた感情が再び手元に戻ってくる、この時間が永遠に続けば良いと願うがそれはできないこと。
時計の針が指し示す時間は4時、帰る予定の電車の時刻がもう迫っていた。

【音々】
「そろそろ電車もまいりますね」

【一条】
「あぁ……もうすぐ日曜も終わり、明日からまた学校か……」

【音々】
「学校って楽しいじゃないですか、学校に行けるのだって今のうちだけなんですから。
今この時間にも、自分がやれることは減っていってるんです、学校も同じ。
今のうちに残せる物は残しておかないと、空っぽのままじゃ寂しいですもんね」

【一条】
「……」

音々の云わんとしていることがわからない、最初の方は解るんだけど後半の方。
残せるうちに残すって云うのは、空っぽのままじゃ寂しいって云うのは一体……?

『まもなく4番線、電車が参ります、危険ですので白線の内側まで下がってお待ちください』

ホームにアナウンスが響き渡り、電車の到着を予告する。

【一条】
「そういえば、まだ何もわがまま云ってなかったな、あれってまだ有効だろ?」

【音々】
「恥ずかしいこと以外なら大丈夫ですけど?」

【一条】
「桃瀬に戻ったら1箇所だけ、一緒に来てもらいたいところがあるんだ……」

【音々】
「誠人さんのお誘いでしたら、喜んで付き添わせていただきますよ」

よし、これで下準備はできた、後は野となれ山となれ……

……

桃瀬の駅に降り立ったその足で、俺は音々を目的の場所まで連れていく。
その場所とは……

……

【一条】
「なんとか間に合ったかな……」

【音々】
「ここは……」

眼前に広がるのは流れる水流、流れる風、そよぐ草、揺れる木立……ここはあの川原。
色付き始めた夕日に照らし出され、全体が炎にでも包まれたように赤く燃えている。

【一条】
「どうしても来ておきたかったんだ、今日を忘れないためにね」

【音々】
「忘れないため……ですか?」

【一条】
「どうしてかって聞きたそうだね、それはもう少ししたら、もうすぐだから」

眼を閉じるて時が過ぎるのを待つ、閉じた先に広がるのは暗闇ではなく、赤みを帯びた赤光世界。
赤光世界が変わるその時こそ、俺が待っている時間なんだ。

そして……世界は色を変えた。

今だ

【一条】
「音々……」

【音々】
「どうかしました……へ!」

振り向いた音々の口に自分の唇を重ねる、突然のでき事に音々の体が固まって動かなくなってしまう。

【音々】
「!」

【一条】
「力、抜いて……」

【音々】
「は、はい……」

少しだけ脱力した音々の後ろ頭を押さえ、唇同士が離れるのを拒む。
それは時間にして数秒の行為だったはずなのに、俺には1分にも2分にも感じられる時間だった。

【一条】
「ふぅ……」

【音々】
「はぁ、はぁ、はぁ……どうして、急にキスなんてするんですか、足が震えちゃってますよ」

【一条】
「これが俺のわがまま、今日を忘れないためのわがままかな」

【音々】
「どうしてそれが……キスなんですか……?」

【一条】
「自分が忘れてしまわないために、ここでキスしたことで俺には消えることの無い記憶を植えつけた。
俺を思ってくれている女の子がいることを、俺が音々に全てを打ち明けられるまで決して忘れないように。
俺自身、音々を思う気持ちを忘れてしまわないようにね」

後で聞いたら恥ずかしくなるようなことを、俺はよく云えるもんだ。

【音々】
「誠人さん……」

両手で顔を覆い、手の隙間からぽろぽろと水の雫が零れ落ちる、泣いている……

【音々】
「嬉しいです……私が、誠人さんの記憶の一部に残ることができて……」

【一条】
「今はこんなことしかできない、待っていてくれとは云わない。
でももし、音々が待ってくれるのなら、必ず応えて見せるから……」

【音々】
「……はい」

最高潮に燃える夕日を全身に浴びながら、俺は音々に誓いをたてた。
どんな答えを導き出そうとも、音々にははっきりと返事を返そう、たとえそれが2人にとって残酷な物であったとしても……

【一条】
「行こう……」

【音々】
「はい……」

スッと手を差し出した、今日1日一緒に過ごしていたが1回も手を繋ぐことはなかった。
せめて最後くらい手を繋いで音々を家まで送って行こうと思い、手を差し出した。
それに応えるように音々の手も伸びる。

しかし、手と手が触れるか触れないかのところで音々の手が引き戻される。
それと同時に、音々の体ががくがくと震え始めた……

【音々】
「あ……はぁ……くぁ……うぅ……」

膝が折れてその場にへたり込み、苦しみの声を上げる。

【一条】
「音々! もしかしてまた発作か!」

答えを待つまでもない、服の上から心臓の場所を強く握り締めている。

【一条】
「薬はどこにあるんだ、早くしないと」

【音々】
「はぁ……く、薬は……あ、ありません……」

【一条】
「何を云っているんだ! 薬がないと命の危険だってありえるのに、ふざけるのは止せ!」

【音々】
「ふざけてなんか……いませんよ……本当に……薬はありません。
今日は……薬を持ってこないって……決めて家を出てきましたから……」

【一条】
「何故だ! 自分が死ぬ可能性だってあるのに、どうして薬を持って来なかったんだ!」

【音々】
「そ……それは……あうぅ……」

再び苦しそうに体を振るわせる、今は薬を持ってこなかった理由なんか聞いてる暇じゃない。
発作を抑えるには薬か医師の治療しかない、薬が無い今、一刻も早く病院に連れて行かなければならない。
携帯を取り出し、素早く番号をコールする、しかし、今の俺には平常心でいることができなかった……

TrrrrrrrrTrrrrrrrrr

【新藤】
「はい新藤ですが、どうかしたのかい一条君?」

【一条】
「先生! 知り合いが発作になって、今薬が無くてどうしたら良いですか!」

119をコールすれば済むことだったのに、どうして新藤先生に電話をしてしまったのか?

これが今の俺の精神状況を表している。
頭の中は真っ白で自分が何を考えているのかもわからない。

【新藤】
「一条君おちつきたまえ、聞くところによると今大変まずい状況のようだね。
とりあえず今の現在地を教えてもらえるかい」

……

【音々】
「くぁ……はぁ……くぅ……」

【一条】
「もう少し、もう少しの辛抱だからな……」

苦しむ音々の肩を抱いて苦しみを紛らわせようと試みる、気休めにさえなるとは思わないが……

【音々】
「も、申し訳ありません……迷惑ばかり……かけてしまって……」

【一条】
「何も喋るな、喋ると余計に辛くなるだろ」

【音々】
「……」

返事ではなく、無理に笑顔を作って応える、それがひどく胸に痛い……
しばらくすると、ピーポーとサイレンの音が近づいてくる、新藤先生が呼んでくれた救急車の音。
到着した救急車から救命士が2人、担架を担いで降りてくる。

【救命士】
「こちらの方ですね、ゆっくりと寝かせるんだ、あまり揺らすんじゃないぞ」

担架に寝かされた音々の顔が苦しげに歪む、そんな音々の顔を直視することができない……

【救命士】
「貴方の方もご一緒に来ていただけますか、こちらの方も誰か付き添いの方がいたほうが安心できますから」

【一条】
「わかりました……」

担架で運ばれる音々と共に救急車に乗り込む、中に運ばれた音々はベッドに寝かされ、酸素マスクを取り付けられた。

【救命士】
「この方は体のどこが悪いか知っていますか?」

【一条】
「生まれつき心臓が弱いと聞いています……」

【救命士】
「心臓か……血圧と脈拍を測れ、時間はかけられないぞ!」

心臓と聞いて救命士の声が車内に響く、車内にいる救命士の動きが忙しなく、休む間もなく様々な機器を操作する。

時折苦しそうな音々の声がマスクからもれて俺の耳に聞こえてくる。
音々が苦しがってる時に俺にはどうすることもできない、俺ができることはそんな音々を見守ることだけ……
耐え切れなくなり両方の耳を塞ぐ。

俺は今、音々を拒んだ……

……

【一条】
「……」

診察室前の椅子に腰を下ろしてぼんやり診察室の扉を眺める。
音々が運びこまれてからもう1時間、1時間前からずっと診察室の扉を眺めていた。
人の通りが全く無い、恐ろしいほどの静寂が当り一体を包んでいた。

静寂を破ったのは扉が開く音、診察室の扉が開いて中から1人の男が姿を見せる。
その男は音々の担当医、名前は確か……秋山だったか……

【秋山】
「おや……君は以前、姫崎君と一緒にいた」

【一条】
「先生、音々の容態はどうなったんですか?」

【秋山】
「幸いにも処置が間に合ったので命の危険はありません。
しかし、あと少し遅れていたらどうなっていたかはわかりかねますね」

【一条】
「そうですか……」

命の危険は無いと聞いてホッと胸を撫で下ろす、とりあえず最悪の事態は避けられたようだ。

【秋山】
「だけど、どうして姫崎君は薬を持っていなかったのでしょうか?
あの薬は今の彼女にとって空気と同じように重要な物なのに、あれでは死にたいと云っているのと同じだ」

【一条】
「あいつは……死のうなんて思ってはいませんよ……」

【秋山】
「私もそう思うんだ、しかし、そうなると彼女が薬を持っていなかった理由が見当たらないんですよ」

音々にとってあの薬は己の命を繋ぎとめる物。
云ってみれば、あれは音々にとっての生命維持装置と同等の役割を果たしている。
それなのに音々はその薬を持っていなかった、いや、自わから持ってくることを拒んだんだ。

一体、何故……?

【秋山】
「まあ、我々がいくら頭を捻ったところで本当の答えなんか出るわけが無いんだ。
姫崎君の意識が戻ったらそれとなく聞いてみることにしましょう」

【一条】
「あいつは……応えてくれますかね……?」

【秋山】
「さあどうだろう、全ては彼女次第だからね……」

もしかして、先生はもう気付いているのかもしれない。
理由を聞いても、決して音々が応えてはくれないことを、先生の空しい苦笑が全てを物語っていた……

【秋山】
「それにしても、新藤先生から一報を貰った時は驚きましたよ」

俺が電話した後に、新藤先生が秋山先生に話を伝えていてくれたみたいだ。

【一条】
「病院っていうと俺にとっては119じゃなくて新藤先生の印象の方が強いんです」

【秋山】
「君は確か新藤先生の元患者だったね、先生の患者なら否が応でも印象が残ってしまうかな」

【一条】
「その代わりに、先生には色々と助けてもらっていますから。
先生と知り合ったことは良かったと思ってますよ」

【秋山】
「それは私も同じだね、先生と出会っていなかった、たぶん私がここにいることはありえなかったでしょう」

2人とも新藤先生と出会っていたから今がある、そう考えると俺たちは先生に頭が上がらないな。

【一条】
「それで……音々は今どうしているんですか?」

【秋山】
「ベッドの上で眠っていますよ、命の危険もありませんし明日には意識が戻ると思いますが……」

2人の会話に割り込むように、バタバタと足音が近づいてくる。
その足音の正体は2人の男女、女性の方は着物を着た日本美人、男性の方は黒めのスーツに身を包んだ風格漂う男。
俺は男の方に見覚えがあった……

【女性】
「先生、音々は、音々は無事なんですか!」

【秋山】
「命に別状はありません、こちらの方の連絡が早かったのでね」

話を聞く限りだとこの女性は音々の母親、すると男性の方は音々の父親か……?

【女性】
「本当にありがとうございます、なんとお礼を云って良いのか……」

お礼なんて云われる権利など俺には無い、俺は苦しむ音々の側にいながら何もしてやれなかった……
そのまま秋山先生と女性が診察室の中へと消えて行く、その場に残されたのは俺と男性の2人。

【男】
「この度はありがとうございます、確か貴方は以前、音々が倒れ時に側にいた男の方ではないですか?
よろしかったら御名前の方を教えていただけますか?」

【一条】
「一条、一条誠人です……」

【男】
「一条……そうか、君が一条君だったんですか。
娘から何度か話を聞かせてもらってますよ」

【一条】
「どんな話を伺ったのかは知りませんが、初めまして……」

【男】
「こちらこそ……娘はこの通り生まれつき体が弱く、今まで私の前で笑ったことなど無かったのですが。
最近よく君の話を聞かせてくれてね、その時、初めて見たんですよ、あいつの笑った顔を……」

いつも学校や俺の前では笑顔の耐えない音々なのに、家では笑ったことが無かった?……
たぶんこの親父さんの云っている笑顔はいつもの何気無い笑顔のことじゃない。
音々の本音、音々が心の底から見せる本当の表情のことを云っているんだ……

【男】
「一条君、1つ聞かせていただきたいことがある」

【一条】
「……なんでしょうか?」

【男】
「君はあいつに、音々に少なからずでも恋愛感情は存在するのかね?」

一瞬で親父さんの眼が変わる、元から風格や威厳のある眼をしていたが。
今の眼はそれら全てを卓越した、云ってみれば怖さを覚えるほどの真剣な眼をしている。

【一条】
「俺は……あいつのこと、好きですよ……友達としてではなく、1人の女の子として」

【男】
「……」

【一条】
「……」

2人の間に流れる沈黙、その間も男の眼が鋭さを失うことは無かった。

【男】
「なるほど……君の言葉に偽りは無さそうだ」

ふっと男の眼が閉じられ、次に開いた時には男の眼から鋭さは失われていた。

【男】
「君のことを話すあいつの顔を見て薄々感じてはいた、本当に嬉しそうに君のことを話すあいつの顔を見て。
音々は君に好意を持っている、それが上辺だけの物ではなく、あいつが心から願う気持ちであることも……」

【一条】
「俺なんかじゃ音々とつりあうとは到底思えないんですけどね……」

【男】
「ふふ、そんなことを気にする必要は無いんだよ、人の恋路につりあうもつりあわないも無いんだから。
それに、音々に君のような男では勿体ないと思うがね」

小さく笑う男の顔に感じられたのは紛れも無い、愛娘を思う親の顔。

【男】
「しかし、音々が薬を持っていなかったのを確認できなかったのはいただけないな」

【一条】
「すいません、いつも常備している物と思って気にかけられなくて……」

【男】
「確かに、私もその事実を聞いた時は驚いた、今まで音々が薬を持たずに外出することはなかったからね。
どんな意図があったのかはわからないが、何かしら思うことがあっての行動だろう。
その答えを知ることができるのは、一条君、君だけだろう」

【一条】
「親父さん……」

【男】
「親父さんっか……いつかその呼び名が変わることを期待しているよ」

ふふっと笑って親父さんは手を差し出した、親父さんが差し出したその手を、俺は強めに握り返した。
握手を済ませると親父さんも診察室の中へと消える。

【一条】
「……」

先生と音々の両親2人が消えた診察室の扉の前、俺にはこの診察室の中に入ることはできない。
今俺が入ったところで何か進展があるとも思えない、もし進展があったとしても、そこに俺が入る隙間などは無いんだ。
踵を返し、後ろを振り返ることも泣く診察室の前から立ち去った。

……

自動販売機から注がれる紅茶を眺めながら小さく溜め息。

【一条】
「はぁ……」

ポーンと自動販売機が紅茶のでき上がりを知らせる、取り出したカップの中のストレートティーの上辺がゆらゆら揺らぐ。
注ぎたての紅茶を口に含み、横に備え付けられているベンチに腰を下ろす。

【一条】
「俺には……音々を好きでいる資格があるのか……」

俺は音々のことが好きだった、ちゃんとした返事を返してはいないが、その気持ちに嘘は無い。
それなのに、俺は音々の行動の変化を感じ取ることができなかった。

音々の行動、言葉は悪いが……云ってみれば異様だ。

もしかしたら、音々には何か大きな悩みがあるのではないだろうか?
音々の性格だから、たぶん自分からその悩みを打ち明けることはない、だとしたら気付いてやるのは俺しかいない。

今回の行動はもしかしたら、音々が俺に向けたメッセージなのかもしれない……

【一条】
「……はは、悲観的すぎるか……」

頭を振るって残された紅茶を一気に飲み干す、まだ少し熱かったので飲んだ後も咽の奥が熱い。
ベンチを立ち上がって病院を去ろうとした瞬間、見覚えのある恰好をした人に眼が止まる。

【一条】
「あれは……」

廊下の先、あっちはまだ俺に気付いていない、廊下の角に消えた背中を追いかけるように。
足は廊下の先へ向かって駆け出した。

……

角を曲がった先に、求めていた人物の背中をとらえる。

【一条】
「萬屋さん!」

【萬屋】
「……一条君か……こんなところで出遭ってしまうとはな……」

【一条】
「萬屋さんこそ、こんなところで何をしているんですか?」

【萬屋】
「病院関係者でない私がすることといったら、1つしかないと思うがね……」

【一条】
「誰かの見舞いですか……?」

【萬屋】
「そんなところだ、良かったら君もついてくるかい、どうせ私をそのまま帰してはくれないのだろう?」

ははっと苦笑いを浮かべる俺を尻目に、萬屋さんは歩みを進めた、俺も萬屋さんの後ろをついて歩く。

……

どんどんと人の気配が皆無になっていく、ここは患者の中でも特に症状の重い患者が揃う病棟。
地元の病院で俺が最初に入れられていたのも同じ特別病棟だっけ……
静けさの中にコツコツと萬屋さんの足音が響く、この人は一体どんな患者の見舞いに来たのだろう?

【萬屋】
「ここだ……」

立ち止まった病室のプレートには『天見 楓』と名前が書かれている。
扉を開けて中に入る萬屋さんの後に俺も病室に入室すると……

【一条】
「……」

病室の中では女の子が1人ベッドに横たわっている。
しかし、その口には酸素マスクがはめられ、両腕からは何本ものコードが延びている。
一目見ただけで重症患者と判断できた

【萬屋】
「彼女の名は天見楓と云ってね、2週間前に肺に腫瘍が見つかって今危険な状態だ」

淡々と語る萬屋さんの口調には生気が感じられない、まるで書面を棒読みするような無感情な口調。

【萬屋】
「医師の話では助かる確率は半分以下、たぶん助からないだろうというのが大半の予想らしい」

特別病棟に来る患者には2つパターンがある
1つは命が危険な状態にある患者、助かるか助からないかわからない患者は大方ここに運ばれる。
もう1つ、これはとても残酷な患者……もう助かる見込みのない患者のこと。

この子はどっちだろう、俺の場合は……たぶん後者だったんじゃないかな……

【萬屋】
「数日前に来た時には彼女もまだ元気でね、マスクもコードも無い普通の患者としか思えなかったのにな……」

被っていた帽子を脱ぎ、胸の前に手を当てる、彼女に対して萬屋さんの頭の中ではどんな感情がまわっているのだろう?

……

【萬屋】
「さて、面会も終わったことだ、君の用件を聞かせてもらおうか?」

【一条】
「いえ、今日は止めておきます……なんだかそんな気分じゃなくなってしまいましたから」

【萬屋】
「珍しいな、君は私に対していくつもの疑問があるはずなのに、何か心境の変化でもあったかな?」

【一条】
「そういうわけじゃないですよ、ただ、今日は何も聞かない方が良いような気がして……」

本当は萬屋さんには色々と教えてもらいたいことがたくさんある。
だけど、さっき一緒に患者を見て、萬屋さんの心境を考えたらなんだか聞きたいことも聞き辛くなってしまった。

【萬屋】
「君がそう云うんならそうさせてもらおう、と私も云いたいんだが、1つだけ君に教えておくことがあるんだ」

【一条】
「なんですか?」

【萬屋】
「少々針の進みが悪くてね、このままいったらもしかすると、私は君の敵になる可能性がでてきてね」

【一条】
「え……それって……?」

【萬屋】
「どういった結果になるのかまだわからないが、可能性の1つとして考えていてくれたまへ」

寒気を感じるほどの不気味な笑みを口元に浮かべ、萬屋さんはその場を立ち去った。

【一条】
「萬屋さんが……俺の敵……?」

……

ベッドの上に大の字に寝転んでぼんやりと宙を見つめる。
今日は日曜日、普段と同じような日曜日になるはずが、激動(?)の日曜日となった。
中でも俺に謎を残したのは萬屋さんの言葉。


【萬屋】
「少々針の進みが悪くてね、このままいったらもしかすると、私は君の敵になる可能性がでてきてね」


萬屋さんの言葉、何1つ俺は理解できていない。

敵になる可能性云々もそうだが、前半部の針の進みとは?
堂々巡りはいつまでも続く、宇宙に果てが無いように、疑問はいつまでも回り続ける。

【一条】
「八方塞か……」

考えるのを諦めて電気を消す、眠りにつこうとしても眠れない、萬屋さんの言葉を考えないようにしても。
それ以外に俺を悩ませる因子は大量に残されている……音々のことだ。

【一条】
「明日見舞いに行こう……」

なんの助けになることもできない俺にはそんなことしかできない。
眼を閉じても、暗闇の中に浮かぶ音々の苦しげな表情が俺を睡眠から遠ざけるだけだった。





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