【4月22日(火)】


手にした鍵が太陽に照らされて輝いている。
昨日は結局、鍵がなんであるのか見当もつかなかった。

【一条】
「金庫か何かの鍵か? それともどこかの部屋の鍵?」

一口に鍵と云っても様々な用途で使われている、その中でも可能性があるのは部屋もしくは金庫などの重要物を閉まっている物の鍵。
しかし、どちらにせよ萬屋さんがこの鍵を俺に渡して萬屋さんに利益があるとは思えない。

ならどうして、萬屋さんはこの鍵を渡したんだろう?

不意に視界が暗くなる、誰かが後ろに立ったせいで日差しが遮られたんだろう。

【二階堂】
「……よ」

【一条】
「勇か、急に後ろに立たないでくれよ、通学中におまえに会うなんて珍しいな」

【二階堂】
「そうか? おまえにとって珍しいかもしれんが、俺にとっては特に珍しくもなんとも無いんだぞ」

【一条】
「どうして、俺たち今まで一緒に登校したことあったか?」

【二階堂】
「一緒には無い、一緒には無いがいつもおまえの後姿は眼に入っている」

【一条】
「だったら声でもかけてくれれば良いのに」

【二階堂】
「俺にはできんよ、いつも女生徒と一緒にいるおまえの邪魔をすることなんてな」

常に無表情な二階堂の口元が僅かにほくそ笑んだ、こいつは大きな勘違いをしているぞ。

【一条】
「ちょと待て、俺が一緒にいる女生徒って美織か音々じゃないか、あの2人とは知り合いだからよく一緒になるだけで」

【二階堂】
「そんな何気無い所から始まるものだぞ、恋心とはな」

うぅ……確かにそうなのかもしれない、何気無く一緒にいただけなのに、俺は音々を好きになっていた。

【一条】
「茶化さないでくれ、俺はその手の話は苦手なんだ」

【二階堂】
「だろうな、それよりさっき何を見ていたんだ?」

【一条】
「大した物じゃないさ、これをな……」

【二階堂】
「鍵か、しかもそれはジュエルケースの類についている鍵だな」

【一条】
「わかるのか?」

【二階堂】
「部屋鍵や南京錠の類ではない、となれば、残るはジュエルケースしか考えられん」

【一条】
「そのジュエルケースっていうのは?」

【二階堂】
「聞いての通り宝石などを閉まっておく箱のことだ。
宝石に限らず自分の大切な物を閉まっておく、云ってみれば自分にとっての宝箱だな。
しかし、一条がジュエルケースとはな、人は見かけによらんということか」

はははと、今度は誰の眼に見てもわかるように笑みをもらす。
つられて俺の顔にも笑みが、だって二階堂の口からジュエルケースなんて言葉が出てくるなんて思わないもんな。

……

昼休み、購買で買ったパンを持って給水塔の上へ、そこにはすでに水鏡の姿があった。

【一条】
「ありゃりゃ、今日は先客がいたか」

【水鏡】
「誠人先輩……」

【一条】
「よ、久しぶ……うわ!」

うっかりハシゴにかけた手を離してしまいそうになる、ここから落ちたら洒落にならんぞ……

【水鏡】
「だ、大丈夫ですか!」

とてとてと心配そうにこっちに近づいてくるんだけど、俺はまだ上りきっていない、ということはどうなるかというと……

まずい!……寄って来た水鏡のスカートの中から水色の下着がよく見えた。

【一条】
「ちょ、下がって! 下がるかスカート押さえるかどっちかして!」

【水鏡】
「あ……」

云われて気付いたのか、スカートの縁を押さえると下着が見える可能性は無くなった。
その隙にハシゴを上りきる、下着に眼が眩んで落ちて大怪我なんて末代までの大恥だよ……

【一条】
「危なかった……あのねぇ、女の子なんだから下着が見えなくても良いように配慮しようよ」

【水鏡】
「先輩は、女の子の下着とかはお嫌いなんですか?」

【一条】
「嫌いじゃないけど……そうじゃなくて、女の子は下着が見えたら恥ずかしいだろ」

【水鏡】
「……」

言葉は無い、もしかして見えても恥ずかしくないとか云い出すんじゃないだろうな?

【水鏡】
「恥ずかしいです」

見ても分らないくらいにほほを染めて呟く、良かった、女の子には恥じらいの精神があった方が良い。
その方がこっちも楽だ、むやみやたらに下着を見せる子がいるけど、あれはこっちの身が持たない。

【一条】
「だったら今度からは気をつけて、誰の前でもだけど特に俺の前ではね」

【水鏡】
「はい」

【一条】
「良い返事だ、食事中だったんだろ、俺も合席しても良いかな?」

【水鏡】
「かまいませんよ、私と一緒で良いならですけど」

【一条】
「それじゃあお言葉に甘えて」

水鏡と一緒に給水塔の縁に腰を下ろし、買ってきたパンの袋をやかましく開ける。

【水鏡】
「先輩は、いつもパンなんですか?」

【一条】
「いつもってわけじゃないけど、パンの方が多いかな、安いだろ」

【水鏡】
「安いですけど、飽きたりしませんか?」

【一条】
「飽きが来ないようにパンのサイクルを考えてあるから大丈夫、そういう水鏡はどうなのさ?」

【水鏡】
「私はパンばかりです、お昼にあまり重いものを食べるのは好きじゃないので」

見た感じ水鏡は小柄だ、小柄ではあるけどさすがにコッペパン1個でもつのだろうか?

【一条】
「……」

【水鏡】
「……どうかしましたか?」

コッペパンを咥えたまま不思議そうに訊ねてくる、どうしても気になるんだよな。

【一条】
「……ちょっと失礼」

【水鏡】
「え……?」

水鏡の瞳を覆い隠すように下ろされていた前髪を左右に分ける、突然のことに水鏡はなすがまま。

【一条】
「やっぱりな……」

両脇に髪が分けられたことで水鏡の瞳があらわになる、宝玉のように透き通る綺麗な瞳。
思ったとおり、水鏡の素顔はとてもかわいらしいものだった。

【水鏡】
「や、止めてくださいよ」

【一条】
「かわいい顔してるのに、どうして髪で隠しちゃうの?」

【水鏡】
「あ、あんまり好きじゃないんです、自分の顔は」

素早く分けられた髪の毛を元に戻し、いつもの水鏡に戻ってしまう。

【一条】
「もう止めちゃうの、もう少し水鏡の顔見てたかったんだけど」

【水鏡】
「私の顔なんか見ていても面白くないですよ、そういうのは好きな女性に云ってください」

【一条】
「好きな女性か、水鏡だって云ったらどうする?」

【水鏡】
「嘘はいけませんよ、もう先輩には好きな女性がいるじゃないですか」

【一条】
「……どうして知ってるの?」

【水鏡】
「夕暮れ時に川原でキスまでしておいて、好きではないと云うのは無理がありますよ」

【一条】
「!」

見れらている、そういえばあの時は周りを確かめていなかったな、まさか水鏡に見られているなんて……

【水鏡】
「覗き見するつもりは無かったんですが、公園から出たところにちょうど……」

【一条】
「み、水鏡さん!」

深々と頭を下げ、地面に額をつける、手段を選んでなどいられない。

【一条】
「このことはどうか内密に、特にピンク色の髪のやつだけには云わないで……」

【水鏡】
「心配しなくても大丈夫です、他人の知られたくないとことを口外する趣味はありませんから、頭を上げてください」

【一条】
「恩にきます……」

最大の危機は免れた、見られたのが水鏡でまだ良かった。
これが美織や廓だったら……考えるのも恐ろしい。

【水鏡】
「先輩って初心なんですね」

【一条】
「そうなんでしょうか……」

主導権は水鏡にある、今は何を云われても返すことができないな……

……

昼食が終わり、まだ時間も十分にあったのでオカリナをポケットをから出そうとすると。

カラン

オカリナの変わりに、萬屋さんから受けとったあの鍵が落ちる。

【水鏡】
「何か落としましたよ」

拾い上げ、鍵を一目見た水鏡がそのまま動かなくなってしまう。

【一条】
「水鏡? どうかした?」

【水鏡】
「この鍵……先輩、この鍵をどこで?」

【一条】
「それは……」

正直に云って良いものか悩む、黒に身を固めた怪しげな男から受け取ったと云った方が……

【一条】
「……以前この場所で、人も滅多に来ないこんなところに落ちているのはおかしいと思って」

とっさについた嘘、萬屋さんの存在を明かすことはなんだかまずい気がしたから……

【水鏡】
「……」

ジィーっと鍵を見つめる水鏡、何かおかしなところでもあったのだろうか?

【水鏡】
「もしかしたら……先輩、この鍵一日だけ貸していただけませんか?」

【一条】
「別に良いけど、鍵だけ持ってても何の役にも立たないだろ」

【水鏡】
「それでもかまいません、どうしても確かめたいことがあるんです」

【一条】
「そこまで云うのなら良いよ、好きなだけ確かめていらなくなったら返してくれれば良いから」

【水鏡】
「ありがとうございます、代わりと云ってはなんですがこれを」

差し出されたのは小さく折りたたまれた紙、手紙か何かだろうか?

キーンコーン

【水鏡】
「午後の授業も始まりますね、私はこれで失礼します」

紙を手渡して行ってしまった、この紙には何が、もしかしてラブレターとか云わないだろうな?
期待と不安の両方に胸躍らせながら開いてみると、そこに書かれていたのは予想外の物。

【一条】
「これは……音符?」

正確には音符ではなく、楽譜と云った方が良い。
規則正しく並んだ連符や、所々に散りばめられた音楽記号がそれを物語っている。

【一条】
「どうして楽譜なんか、それにこの楽譜なんの曲なんだ?」

楽譜には題名が書かれていない、元々原譜ではなく市販された譜面用紙に事細かに音符と記号を書き記した物のようだし。

【一条】
「よくできた楽譜だな……おい、これってまさか」

途中まで楽譜を読んでみて気が付いた、この楽譜が何の曲であるのか。
次の瞬間にはオカリナを取り出して、夢中で音を紡いでいた、この楽譜が示す物それは……

……

【志蔵】
「ほらほら、そこまだ掃き終わってないわよ」

【一条】
「まだそこまで行ってないんですから終わってないのは当然でしょ!」

【志蔵】
「無駄口叩いてる暇があったらさっさと掃く、いつまで経っても終わらないわよ」

【一条】
「ぐぅ……」

何をしてるかというと、ペナルティーの教室掃除、しかも1人で(監督つき)。
5時限目を屋上でサボった罰、まさか5時限目が志蔵先生の授業だったとは。

【志蔵】
「最近学校にも来ないで私の授業サボってたんだから、少しくらい無償で働いてくれても罰は当たらないわよね」

【一条】
「先生って悪党ですね……」

【志蔵】
「あらそうかしら? 窓拭きも追加でお願いね〜♪」

魅力的な笑顔して云ってることはサディスティックなんだから……語尾に音符までついてるし。

【一条】
「窓拭きって乾拭きで良いんですか?」

【志蔵】
「乾拭きでも良いんだけど、それじゃあつまらないじゃない、保健室に行って窓用の洗剤貰ってきてやってね」

あの笑顔に何人もの男が騙されているんだ、廓辺りは代表的被害者だろうな……

……

【一条】
「失礼します、窓用の洗剤頂きに参りました」

【先生】
「洗剤ならそっちの棚に……あら、貴方は前に姫崎さんと一緒に来た」

【一条】
「そうですけど、よく覚えていますね」

【先生】
「当然覚えているわよ、保健室にお姫様抱っこで入ってきたのは君くらいだもん」

【一条】
「は、ははは……」

これ以上何か云われても困るので早く洗剤だけ貰って帰ろう。

【一条】
「それじゃ頂いていきますね、失礼しまし……」

【先生】
「ちょっと待った、君には少し話があったんだ、少しだけ付き合いなさい」

【一条】
「はあ……」

促されるまま椅子に腰を下ろす、俺に話って一体何を?

【先生】
「さてと、話って云うのは他でもない姫崎さんのことなんだ」

【一条】
「音々が何か?」

【先生】
「何ってほどのことじゃないんだけど、姫崎さんなんだか前に比べて随分明るくなったと思ってね。
今まで保健室に来てもほとんど笑顔なんて見せなかったのに、前に来た時姫崎さん凄く良い顔で笑ってた」

【一条】
「そんなことを俺に云ってもしょうがないと思いますけど」

【先生】
「そうかもしれないわね、だけど、そうじゃないかもしれないのよ」

ふふっと小さく微笑んで見せる、よく志蔵先生が見せる小悪魔的な笑みになんだか似ている。

【一条】
「なんだか含みのある云い方ですね」

【先生】
「ふふ、私の考えなんだけど、姫崎さんが明るくなったのには君が関係してるんじゃないかと思ったのよね」

【一条】
「俺がですか?……冗談を」

【先生】
「ずばり聞かせてもらうけど、姫崎さんと君って付き合ってたりする?」

【一条】
「なっ!」

「何を云うんですか、そんなことありませんよ」そう否定しようとしたが、言葉が続かない。

【先生】
「あら、当たっちゃったみたいね」

【一条】
「まだ正式にじゃないんですけどね……」

もはや否定することはできない、素直に負けを認めよう。

【先生】
「そっか、姫崎さんかわいいもんね」

なんて云ったら良いんだよ、素直にかわいいって云った方が良いのか?

【一条】
「はは……」

【先生】
「照れちゃって、素直にかわいいって云っちゃえば良いのに」

もうこの先生のペースに引き込まれるのは御免だ、教室に戻ろう。
保健室の扉に手をかけた時、前から感じていた疑問が頭によぎった。

【一条】
「先生、俺からも1つ聞いても良いですか?」

【先生】
「何かな?」

【一条】
「音々の体……あの体は、もう治ることは無いんですか?」

【先生】
「あぁ……治らないことも無いわ、彼女の体が弱いのは先天的な病弱な心臓のせい。
先天的なものを治すことは限りなく不可能に近い、ただし、元が変わってしまえば話は別だけどね」

【一条】
「元が変わってしまえば?」

【先生】
「心臓が弱いなら強い心臓に変えれば良い、姫崎さんの体が強くなる方法は1つだけ。
心臓そのものの転換、いわゆる心臓移植ね」

【一条】
「心臓移植をすれば、音々の発作は消えるんですか?」

【先生】
「そういうこと、だけど、彼女にはその意思が無いみたいなのよ」

【一条】
「どうしてなんですか、手術をすれば発作も無くなるのに、その意思が無いなんて……」

【先生】
「私からはそれ以上のことは云えないわ、私にも理由を話してくれたことはないんだもの」

席を立ち上がって、先生は窓の外に視線を向ける。
これは先生からの合図、これ以上話すことは無い、出て行ってくれと……

……

コンコン

【音々】
「はい、どうぞ」

【一条】
「よ、1日ぶり」

【音々】
「誠人さん、今日も来ていただけたんですか」

【一条】
「1日1回は音々の顔を見ないとなんだかしっくりこなくてね、だけど毎日来たら迷惑か」

【音々】
「そんなことはありませんよ、こうしてお知り合いの方が訪ねて来てくれると私も嬉しいですから」

ニッコリと微笑む音々、今まではこの表情を見せる音々が無かったなんて信じられないな。

【一条】
「はい、これ土産」

ポフンと音々の膝の上、正確には膝にかかった毛布の上に袋を置いた。

【音々】
「お土産ですか……一体何を、まぁ」

【一条】
「前に好きだって云ってたからさ、その辺の安物で悪いけど」

音々が好きだって云った物を俺は1つしか知らない。

【音々】
「クリームパンですね、ありがとうございます、私なんかのために金銭を使わせてしまって」

【一条】
「喜んでくれれば俺は満足だ、よくカゴに果物が山盛りにされたあれを買うよりはずっと安いから」

最初はあれにしようと思ったんだけど、なにぶん金額的に問題があって……

【音々】
「せっかくですから、今いただかせてもらってもよろしいですか?」

【一条】
「もうそれは音々の物だ、いつどこで食べようが音々の勝手だよ」

【音々】
「そう云っていただけるのなら……ちょっと失礼して」

クリームパンを1つ取り出し、カサカサと慣れない手つきで袋を開ける。

【音々】
「いただきます……あく」

小さい口でパンにかじりつく、音々に限らず、女の子がパンにかじりつく姿はかわいいと思う。
ただ一人の例外を除いては……誰かというのは伏せておこう、まあ無駄だけど。

【音々】
「はく……んく、んく、んく……」

【一条】
「……」

【音々】
「こくん……はむ……あむ、あむ、あむ」

【一条】
「……」

【音々】
「んく……んん……はぁ……どうかしましたか?」

【一条】
「どうもしないさ、ただかわいらしい食べ方をするなと思ってさ」

【音々】
「あ、あんまり見ないでください……その、恥ずかしいですから」

【一条】
「気にしない気にしない、こっちは見てるだけでも楽しいんだから」

【音々】
「うぅ……意地悪云わないでください」

顔を赤らめながらクリームパンをかじる、元々少しずつだったのがさらに少なくなっているな。

……

クリームパン1個を平らげるのにかかったのは15分、俺が見ていたというのもあっただろうがかなりのスローペースだ。

【音々】
「ふぅ……ごちそうさまでした」

【一条】
「やけに時間かかったな、腹の具合でも悪かったのか?」

【音々】
「いえ、そうではなくて……食べているところをずっと見られているという経験が無かったものですから」

もじもじと手をすり合わせ、恥じらいの仕草を見せる。

【一条】
「ははは、俺も逆の立場だったらそうなるのかもしれないな」

【音々】
「かもしれないではなくて、きっとなると思いますよ」

【一条】
「どうだろうね、そういえば音々、気付いてるかわからないんだけど」

【音々】
「?」

【一条】
「クリームが口についてるよ」

【音々】
「!」

真っ赤に顔を紅潮させ、両手で口元を隠す。
云おうかどうか迷ったけど、結局云ってしまった、女の子だから知らないでいるのは嫌かと思ったんだけど。

【音々】
「そ、そういうのはもっと早く云ってください」

口元を押さえたままおたおたと辺りを見回して何かを探している。

【一条】
「何か探し物?」

【音々】
「口元を拭く物です、察してくださいよー」

瞳をウルウルさせて助けを求めてくる、こんな状況下では意地悪したくなるのが人情……

【一条】
「はいよ、拭いてやるから手どけて」

【音々】
「子供じゃないんですから自分でできますよ」

【一条】
「そんなに俺が触れるのが嫌ですか……」

ショック、ドヨーンと俺の頭の上に雨雲発生、見えない雨が降り、聞こえない雷が鳴り響く。

【音々】
「うぅー……わかりましたよ、わかりましたからそんなに落ち込まないでくださいよー」

【一条】
「それじゃあその手どけて」

【音々】
「立ち直り早すぎですよ、だけどもう了承しちゃいましたから……」

手をどかすのがよっぽど恥ずかしいのか、どかす動作でさえぎこちない、顔は未だに赤く染まっているし。

【一条】
「すぐに終わるからじっとしてて、それから眼も閉じておいて」

【音々】
「?……はい」

口元を拭くだけで眼を閉じる必要は無い、音々も不思議に思っているようだけど大人しく眼を閉じた。
閉じる必要も無い眼を閉じさせた理由は……

【一条】
「……ペロ」

【音々】
「ひぁ!」

驚きに見開かれた音々の表情は半分が呆然、半分が脅えの色を見せていた。
何をしたかというと、音々の口についていたクリームを舐めてみた。

【一条】
「クリームだけあって甘いな」

【音々】
「ま、ままま誠人さん! 何するんですか!」

【一条】
「でき損ないのキス、キスもどきとでも云おうか」

【音々】
「名前を聞いてるんじゃありません! どうして急にそういうことをするんですか!」

【一条】
「口元の汚れを気にしてたじゃない、だから綺麗にしたんだけど、あ、もう汚れとれてるよ」

【音々】
「汚れをとるだけだったら拭けば良いじゃないですか、それをよりによって舐めるなんて」

【一条】
「あぁ……ごめん」

【音々】
「……あ、謝っていただかなくても良いですけど……」

【一条】
「やっぱり普通のキスの方が良いよな、それならそうと云ってくれれば良いのに」

【音々】
「え?……えぇー!」

顔を正面にとらえ、音々と視線を交差させる。
大きく見開かれた瞳、不安そうに開く口、熱を感じるほどに赤くなった頬。
それら全てが音々の心理状態を表している。

【音々】
「ちょ、誠人さん、ここは病院ですよ、誰か来たらどうするんですか」

両手をパタパタさせて抵抗を見せる、嫌がっている、はたから見ればそう思うかもしれない。
しかし、本気で嫌がってはいない、本気で嫌なら俺の体を突き飛ばすことも可能なのだから。

【一条】
「ここで拒絶するか否か、決めるのは音々自身だ」

【音々】
「そ、そんなぁ……」

本当に困った表情を見せる、表情を見せるだけで行動が無い、これは了承ととらえて良いだろう。

【一条】
「もう一度、眼を閉じて……」

【音々】
「……」

無言で閉じられる瞳、かすかに感じる震えが音々の不安を表している。
その不安の取り除くように、音々の唇に顔を近づけ……

【秋山】
「病院内だというのに、お暑いことだね」

【二人】
「!」

突然の声に慌てて体を離す。

【音々】
「あ、秋山先生! いつからそこに!?」

【秋山】
「ついさっきだよ、確かキスもどきだっけ?」

【二人】
「!」

漫画等で恥ずかしさのあまり顔が爆発したかのような表現があるけど、まさにあれの状況だ。

【秋山】
「2人の時間を邪魔をする気はないんだけど、残念ながら検診の時間でね」

【音々】
「ま、誠人さん、す、少し、席をは、外していただけますか」

言葉がカタコト、顔はパニック状態、特に眼なんかは渦巻き模様に見える(眼の錯覚だと信じたい)。

【秋山】
「大丈夫、すぐに終わるから続きはその後でたっぷりとね」

【一条】
「は、ははははは、な、何を云ってるんですか、俺たちはべつにそんなんじゃ」

俺もカタコトだ、これ以上の発言は自殺行為だな。
ボロが出ないうちに早くこの部屋から逃げよう、踏み出した右足と同時に右手が出る。
完全に焦っている証拠、もう嫌……
秋山先生の勘違いだと云えば収まったんだろうけど、そんな余裕は2人とも持っていなかった。

……

腰掛けたベンチの周りには主を持たない空のベンチが4つ、この空間内に自分以外の存在は無い。
人の存在だけでなく、世界の音さえもこの空間内には存在しない。
あるのは人の耳には聞こえない呼吸音、心拍音、吐息音、生物が作り出す生を示す音だけ。

時折それらに混じって水をすする音が聞こえる、手にしているコーヒーをすする音だ。

元々静かな病院で人の存在が消えるだけでここまで音がなくなってしまうものか。
無音空間の中の支配者というのも案外悪くはないな……

コツ、コツ

支配者を締め出すかのように、無音空間に音が割り込んでくる

音は徐々に大きさを増し、音の起点も少しずつ近づいてくる、この音は誰かの足音か。

コツ……

音がピタリと止まる、音の主は後ろ、自分から僅か数メートルの距離で音を止めた。

【水鏡】
「……」

【萬屋】
「来ると、思っていた……」

空間の支配者は萬屋、音の主は水鏡、支配者はまだ主の姿を見てはいないが誰かはわかっている。
何故なら、水鏡がここに来たのは偶然ではなく、あらかじめ支配者によって仕組まれたものだったからだ。

【萬屋】
「聞く必要も無いが一応聞いておこう、私に何か用か?」

【水鏡】
「どうしてこれを、先輩に渡したんですか……」

ポケットから取り出したのは今日、水鏡が一条から貸してもらったあの鍵だった。

【萬屋】
「やはり彼は渡してしまったか」

【水鏡】
「……」

【萬屋】
「あまりにも針の進みが遅かったものでね、あのままあっけなく終わってしまうのもつまらないだろう。
それに、私はもとより勝負の見えたゲームが嫌いでね、ゲームは先が見えないからおもしろいのだよ」

【水鏡】
「本当にそれで良いんですか?」

【萬屋】
「私はかまわんよ、私なりに警告もしておいた、後は彼次第だ
しかし、君も悪い女だ、ヒントはもう少し早く渡さねば役に立たんのだぞ」

【水鏡】
「大丈夫です、先輩ならきっと解いてくれると思ってますから
それに、たぶん先輩にはあんな物に頼らなくても自分で答えを見つけたと思います」

【萬屋】
「ふふ、2人ともいらぬお節介だったのかもしれないな。
時間は6時40分、どんなに足掻こうと答えが出るのももうすぐだ……」

懐中時計をしまい、残ったコーヒーを一気に飲み干す。
熱を失ったコーヒーは苦味が増し、これからの時間の行方が決して楽ではないことを物語っているようだった。

……

【秋山】
「お待ちどう、検診も終わったから私はこれで」

秋山先生が部屋から出てきて俺に眼で合図を送る、合図を送られてもな……

【一条】
「何もないですから期待しないでください」

釘を刺してから部屋に入ると、音々の顔はさっきとほとんど変化がなかった。
眼が落ち着いているのがせめてもの救いかな……

【音々】
「うぅ……誠人さんのせいであらぬ疑いがかかっちゃったじゃないですか」

【一条】
「悪かったって、俺だってまさか先生が部屋にいると思わなくて」

【音々】
「ここはどちらかの家じゃないんですから、万が一ってこともあるんですよ」

【一条】
「今度から気をつけます……それでさ、実際にやってみる? 接吻行為」

【音々】
「話を聞いてたんですかー!」

音々にしては珍しくプンスカ怒っている、やっぱり今の発言はまずかったな。

【秋山】
「喧嘩するほど仲が云いと云いますが、少しは人目も気にしてくださいね」

【二人】
「だからどうしているんですか!」

【秋山】
「もう帰りますよ、続きはお2人だけで楽しんでください」

秋山という人物、油断ならない存在だな。

【音々】
「早速万が一がありましたね……」

【一条】
「そうですね……」

【音々】
「誠人さんの……」

【一条】
「俺の……?」

【音々】
「莫迦ー!!!!!」

おもいっきり怒鳴られました、そりゃそうだよな……

……

【一条】
「そろっと機嫌直してくれないかな?」

【音々】
「……」

駄目だ、話さえも聞いてくれない、これは相当怒っているな。

【一条】
「今日は駄目っぽいな、諦めるよ、音々の機嫌が直ったらまた来るよ」

【音々】
「……いですよ」

【一条】
「何か云ったか?」

【音々】
「な、なんでもありません」

またそっぽを向いて怒っている意思表示をする、それがどういう訳か俺には音々の強がりのように見えた。
音々は本当に怒っているのだろうか? それを確かめる手段が無いわけじゃないけど、もし失敗したら俺はお終いだ。
確かめるべきか、危険な橋は渡らない方が良いのか……

【一条】
「……」

一瞬だけ外を見た、外の光景は一羽の鳥が飛び立つ瞬間だった

【一条】
「……またな」

【音々】
「ん!」

唇同士が触れたか触れないかの曖昧な口づけ、そんな一瞬の行為を残し俺は部屋を出た。
今度音々に出会った時、音々が拒絶すれば俺の負けだ、結果はどうであれ俺に悔いは無い。

……

頭の中が真っ白になって何も考えれない、驚きのあまり口も半開きのまま閉じていない。
一瞬だけの接触が感じられた唇をゆっくりと撫でる、微かに湿り気を帯びてしっとりとした感触。

【音々】
「……」

胸の奥がポォっとなる感覚、今日は絶対に無いと思っていたことだけに余計に胸の奥が熱い。

【音々】
「ふふ……誠人さん……ありがとう」

トクントクンと小さく鼓動する心臓に手を当てて、今はもういないあの人に向かってお礼を云う。
ありがとう、そこに込めたのは私の変な強がりを打ち消してくれたことへの感謝の気持ち。

外で一羽の鳥がキィキィと鳴いている、誰かを求めるような、孤独に心を痛めているように私には聞こえる。
それは私と同じ、そう、私と同じ声なんだ……

……

ベッドの上でさっきからずっと悩んでいる、悩みの種は昼に水鏡から貰った楽譜。
この楽譜に書かれている曲はなんだかわかっている、それが余計に謎を増やしているんだ。

【一条】
「どうして水鏡がこの楽譜を?」

水鏡が持っていた以前に、この楽譜が存在していること自体考えてみるとおかしい。

【一条】
「……あいつは何か知っている?」

この楽譜を持っていたということは確実に何かを知っている、明日にでも聞いてみよう。
この楽譜の謎が解ければ、少しでも俺は自分を取り戻せるような、そんな気がしたから……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜