【4月19日(土)】


清々しい朝の日差しが差し込み、俺の眼を開けさせる。
今日は土曜日、学校も休みだからもう1度寝てもかまわないんだ。

【一条】
「寝よう……」

布団の中で寝返りを打って日差しから眼を逸らす、たまには2度寝くらいしても良いよな……

……

【一条】
「ふあ……あぁ……」

わしわしと頭を掻き、寝惚け眼を擦りながら時計に視線を送る。
時間は11時半過ぎ、もう昼ご飯の時間だな。

【一条】
「寝てても腹だけは減るんだな……損した気分だ」

何もしないで燃料を失うのと何かして燃料を失うのだったら、何かした方が良いに決まっている。
わかっているはずなのにやってしまうんだよな……二度寝しなきゃ良かった。

後悔先に立たず、やってしまった後に悔やむから後悔と云う、これが先になることはありえない。

グウウゥゥゥゥ

くだらない持論を展開していると、腹の虫が意義申立を行う。
冷蔵庫の中を漁ってみるもめぼしい物は何もない、今日辺り買い物に行かないと餓死するな……
とりあえず緊急時の食料として確保してある乾パンをぼりぼりとかじって昼食を間に合わせる。

【一条】
「昼食も済んだことだし、何しようかな……」

休日の過ごし方が色々と頭の中をめぐる、買い物をしようか、どこかに遊びにでも行くか……
色々と悩んでいる中で、最初に眼に留まったのは部屋の片隅に立てかけられた掃除機だった。
そういえばここに越して来てから掃除をしていない、そろそろ掃除をする時期かもしれない。

【一条】
「どこか行くにも時間も無いし、買い物は夕方でもできるとなると……
掃除するしか残ってないんだな、よし、部屋の大掃除でもするか」

掃除機のコードをコンセントに差し込み、電源を入れて掃除機を稼動させると。
排気の音と吸引音が交じり合ってなんとも不思議な音が部屋の中に響き渡る。

……

掃除はほとんど時間も取らずに終わってしまった、ゴミを捨てて掃除機をかけて窓を拭いて。
それだけの工程を終えるのに1時間もかからず、暇になってしまったのでぶらぶらと街を散歩している。
なにをするわけでもなくただ街を歩く、それだけのことなのにひどく新鮮に感じる。
片腕には袋を抱え、行き先もなく歩き回るだけ、だけどいい加減飽きてきた。

ポケットから携帯を取り出し、ある人物の番号をコールする。

PrrrrrrrPrrrrrrrr……カチャ

【音々】
「もしもし、姫崎です、何か御用でしょうか?」

【一条】
「突然で悪いんだけど、今時間あるかな?」

【音々】
「今からですか、大丈夫ですけれど……何かなさるおつもりですか?」

【一条】
「つもりです、今どこにいるの?」

【音々】
「自分の部屋にいますけど、誠人さんが来てほしいというのであれば指定場所に向かいます」

【一条】
「ちょうど良かった、それじゃあ玄関まで出てきてくれるかな、電話は切らないでね」

【音々】
「玄関……ですか? ええ、わかりました……」

電話を切っていないため、コツコツと廊下を歩く音が小さく聞こえる。
がちゃりと玄関の扉が開く音、音々が玄関の扉を開けた音。

【音々】
「出ましたけど、一体……あ!」

驚くのも無理はない、玄関の外には今電話をしているその人物本人の姿があるんだから。

【一条】
「こんにちわ、呼び出すのもなんなのでこっちから来てみました」

【音々】
「誠人さん! でもどうして、電話なんかで……?」

【一条】
「ちょっとチャイム鳴らすのが怖くてさ、姑息な手だけど音々に出てきてもらおうと思って」

【音々】
「……ふふ、そんなことは気になさらずチャイムを鳴らしていただければよろしかったのに。
だけど、こちらの方がなんだか誠人さんらしいですね」

【一条】
「ははは……それで、俺たちいつまで電話で話を進めるんだ」

【音々】
「あ……そういえばそうですね」

2人で同時に電話を切り、その後2人の口元には同時に笑みがこぼれた

【音々】
「ここで立ち話もなんですから中に入られませんか?」

【一条】
「俺みたいな庶民が入ってもよろしいんですか?」

【音々】
「私の家には階級で入れない人がいるなんて決まりはありませんよ。
どうぞ遠慮なさらずに入ってください」

音々に後ろにくっついて屋敷の中へお邪魔する、東洋建築の粋を終結させたような屋敷に俺は似合ってないな。

【音々】
「女の子の部屋で退屈かもしれませんが、とりあえず私の部屋に行きましょう」

通された部屋は初めて見る女の子の部屋、その空間はあまりにも俺の部屋との接点が無かった。
ピンク色のシーツがかけられたベッドの上にはいくつものぬいぐるみが所狭しと並べられ。
観葉植物やかわいらしい小物類などが部屋の中に配置されている。
まるで違う世界に来た、それが一番初めに感じた感想だった。

【音々】
「大したおもてなしはできませんが、お茶を淹れてきますね、紅茶でよろしいですか?」

【一条】
「気を使わなくても良いよ、それからこれ珍しい物じゃないけどお土産」

【音々】
「お土産ですか、ありがとうございます、中には何が……まぁ」

袋の中から音々が取り出したものは、真っ赤に熟したりんごだった。

【音々】
「さわやかな良い香り、それに真っ赤に熟してとても綺麗ですね」

【一条】
「料理好きな音々なら知ってると思うけど、このりんごは」

【音々】
「紅玉、ですよね?」

【一条】
「当り、街の果物屋で見つけてさ、手ぶらじゃなんだから買ってきました」

【音々】
「今市場ではあまり紅玉は出回りません、お値段も結構高かったんじゃないですか?」

【一条】
「家計が崩壊するほどじゃないよ、それに紅玉を使えば値段に値する美味い紅茶も飲めるしね」

【音々】
「え? 紅茶ってどこでりんごを使うんですか?」

【一条】
「りんごの紅茶って云ったらアップルティーだろ、音々が知らないわけ無いよね?」

【音々】
「勿論アップルティーは知っています、ですがアップルティーに生のりんごを使うんですか?」

【一条】
「もしかして音々が飲んだことがあるアップルティーって……」

【音々】
「海外で売られているフレーバーティーですけど?」

驚いた、紅玉を知っている音々なら当然紅茶も飲んだことがあると思っていたのに。

【一条】
「ああいった物は着色や不自然に着香してあったりして俺はちょと好きじゃないんだけど。
音々が紅玉を使った紅茶を飲んだことが無いのは以外だったな」

【音々】
「アップルティーは市販された物しか飲んだことが無かったもので、無知ですいません」

少ししょんぼりとする、紅茶くらいでそこまで落ち込まれるとなんだか心が痛む。

【一条】
「だったら今日初体験してみますか、ちょうど紅玉もあることだし」

【音々】
「よろしいんですか? でも、お客様にお茶酌みをさせるわけには……」

【一条】
「俺と音々の仲だろ、そんなの気にしないで、俺も音々に本物のアップルティーの味を知って欲しいんだ」

【音々】
「そう云っていただけるのなら、よろしくお願いします」

……

【音々】
「こちらが台所になっています」

連れてこられたのは想像していたのとは違う、アットホームな感じがする小さめの台所。
お屋敷だからよくテレビで見る、一流ホテルのキッチンのような物を想像していた。

【音々】
「ここは私が料理をする時に使う台所ですので、そんなに広くないんですが」

【一条】
「いや、これくらいの方が良いよ、お茶を淹れるだけなんだし」

木造のテーブルに袋を置いてりんごを取り出す、真っ赤に熟した果実はずっしりと重い。

【音々】
「それで、そのりんごでどうやって紅茶を淹れるんですか?」

【一条】
「何も難しいことは無いよ、紅玉の魅力であるこの真っ赤な皮を使うんだ」

紅玉の魅力はなんと云ってもこの皮の美しさ、色は透き通るような宝石を思わせる真紅。
他のりんごの薄い赤にじんわりと緑の滲んだ中途半端な色とは訳が違う。
つるつるとした表皮が証明に照らされて、真紅にきらきらと光沢を放っている。

【一条】
「この紅玉の皮を剥いて、皮をお湯で煮て、そのお湯で紅茶を淹れるんだ」

【音々】
「皮ですか、果肉の方は使わないんですか?」

【一条】
「果肉よりも皮の方が香り成分が多く含まれているからね、それに果肉は水分が多いから」

【音々】
「それでは果肉が無駄になってしまいますね」

そのまま食べれば良い、と思うかもしれないがこれがちょっと難しい。
紅玉は他のりんごと違って甘みよりも酸味の方が強く、そのまま食べるのはちょっと辛い。
紅玉でお茶を淹れるといつも果肉の処理に困るんだよな……

【音々】
「うーん……そうだ、でしたら果肉の方は私にいただけますか?」

【一条】
「いいけどどうするの? そのまま食べるの?」

【音々】
「誠人さんがお茶を淹れてくださるのでしたら、私はそのりんごでパイを作ります。
とても美味しいんですよ、紅玉で作ったアップルパイ」

【一条】
「それなら皮も中身も無駄にならなくて良いな」

【音々】
「それじゃあ始めましょうか、これから作ればちょうどお茶の時間に間に合いますね、ちょっと待っていてくださいね」

そう云うと奥の部屋へと消えていった、たぶん調理器具でも取りに行ったんだろう。
紅玉を1つ取り、その芳香を胸の奥に吸い込む、清々しい香りが鼻腔を抜けて胸へと下りていく。
最近の品種はこの香りが無い、昔は手にしていた物も時間の流れの中で消えてしまう。
俺の記憶が消えてしまったように、いつかこのりんごも消えてしまうんだろうな……

【音々】
「お待たせしました」

【一条】
「……うわぁ」

部屋の奥からぴょんと出てきた音々はエプロン姿になっていた。
あまりにも似合いすぎているために、思わず声を上げてしまった。

【音々】
「あまり人様に見せる恰好ではないので恥ずかしいんですが、どうですか?」

【一条】
「とても似合ってるよ、それから……かわいいな」

【音々】
「ありがとうございます」

ニッコリと笑った音々の顔を見ていると、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
友人がエプロンをつけているだけなのに、どうして俺の鼓動は早く……?

【音々】
「初めにパイから作っちゃった方が良いですよね、りんごを貸していただけますか」


袋を渡し、りんごを取り出すと慣れた手つきでりんごの皮を剥いていく。
ショリショリと音を響かせながらりんごは真っ赤な皮を失い、クリーム色の果肉をあらわにする。
その柔肌を2つ割、4つ割、8つ割とまたたく間にりんごは食べやすい大きさにカットされる。

【音々】
「次はりんごを煮ていきます、レモン汁や蜂蜜を入れたりもするんですが、今日は紅玉を使いますので砂糖だけで煮上げますね」

【一条】
「水とか入れないで焦げないのか?」

【音々】
「煮詰めていくうちにりんご自身から大量の水分が出てきますから大丈夫です。
今の内にパイ生地の成型を行いますね」

冷蔵庫の中からビニールに包まれた丸い物を取り出した、あれは……?

【一条】
「パイ生地ってそれなの?」

【音々】
「はい、ちょうどお菓子作りに使おうと思って昨日のうちに作っておいたんです」

【一条】
「手作りなんだ、市販されたパイ生地シートじゃ駄目なの?」

【音々】
「駄目というわけではありませんが、やっぱり自分で作った物の方が味も良いですね。
バターの量も加減できますし、誠人さんのアップルティーと同じ話ですよ」

【一条】
「なるほどね、つまりは何でも手作りが一番良いってことだ」

【音々】
「はい、市販された物を使うよりも手作りの物を食べていただいて。
それで美味しいといっていただけると、とても幸せな気持ちになれますから」

料理人が求めているのは代金じゃない、自分が作った料理を美味しいと云ってくれるお客の笑顔だ。
料理人魂とはそんな物だと誰か云っていたが、どうやら音々も考え方は同じ。
音々の中で、料理とは人の笑顔を導く物と考えられているんだろうな。

そんなことを考えているうちに、音々はパイ生地をローラーを使って伸ばし始めていた。

【一条】
「なんかうどんでも作ってるみたいだな」

【音々】
「生地という観点では同じ物ですからね、市販品ではこんなことをする必要は無いんですが、これも美味しさのためですからね」

美味しさのため、その言葉の裏にあるのは食べてくれる人の笑顔。
食べてくれる人の笑顔のためなら苦労はいとわない、音々はそんな女の子だからだ。

コロコロとローラーを転がし、丸かった生地は次第に四角にまとまる。

【一条】
「手際良いな、これって結構難しいんじゃないの?」

【音々】
「初めのころは少し手間取ったりしましたけど、もう慣れましたよ。
パイを作る時に大事なのはスピード、ゆっくりやってたらパイ生地がだれてしまいますから」

まとまった生地をパイ型に詰め、余計な部分をカットするとパイの土台ができ上がった。

【音々】
「後はフォークで無数の穴を開けて、りんごを敷き詰めていきます」

音々は柔らかく笑い、りんごを土台の上に敷き詰めていく。
敷き詰め終わると残しておいたパイ生地を広く伸ばし、りんご全体が隠れるように生地で蓋をして。
その上に手早く卵黄を塗り、暖められていたオーブンの中へとパイを入れた。

【音々】
「ふぅ、これで後は焼き上がりを待つだけです」

薄っすらと額に浮いた汗を拭い、充実した笑顔を見せる。

【一条】
「そんじゃ次は俺の番か、とは云ったもののすることなんかちっとも無いんだけどね」

音々が剥いてくれた皮を鍋に移し、水を張って火にかける。
……これだけ

【一条】
「お湯の中に紅玉の香りが移るまで煮る、ただそれだけ」

【音々】
「皮を煮るだけでよろしいのですか?」

【一条】
「そう、じっくりことこと紅玉の香りが溶け出すのを待つだけ、簡単だろ」

【音々】
「簡単に思える物ほど案外難しかったりするんですよ」

【一条】
「まぁ、香りが飛ばないようにちょうど良い頃合いで火を止めることくらいかな。
それ以外は何も無い、ただ鍋の前で待ってれば良いだけなんだ」

前に1回タイミングを外した時は酷かった、香りよりも皮の渋みが強く残ったお茶ができたっけ。
引き上げのタイミングはほんの僅かな時間、その時間を逃すと後はどんどん香りは抜けていく。
そのタイミングを逃さないように、鍋から香る芳香に神経を集中させる。

……今だ!

さっと火を止めて香りの消失を防ぐ、煮立ったお湯に鼻を近づけると……

紅玉のさわやかで自然な香りが鼻をくすぐる。

【一条】
「どうやら上手くいったみたいだよ、紅玉の香りが上手くお湯に溶けてる。
このお湯で紅茶を入れると本物のアップルティーのでき上がり。
何でも良いんだけど、そんなにクセの強くない茶葉をもらえるかな」

【音々】
「クセの強くない茶葉ですか……あ、少々お待ちください」

そう云い残すとトテトテと台所から出て行ってしまった、一体どこに茶葉を取りに行くんだ?
数分もしないで音々は戻ってきた、その手には金色に光る缶が握られている。

【音々】
「これで作っていただけますか?」

【一条】
「これは……ダージリンか」

渡された缶に書かれていたのはダージリンの文字、その缶はまだ封も切られていない。
それから、この缶には見覚えがあった……

【音々】
「駄目……でしょうか?」

【一条】
「当然駄目じゃないけど、アップルティーにダージリンはちょっと勿体無くない?」

元々香りの強いダージリンは、主にストレートで飲むことが多い。
紅茶は茶葉本来の味と香りを楽しむ飲み物、ミルクやレモンは味付けをしているに過ぎない。
そこにいくとアップルティーは違う、茶葉とりんご、2つの香りの真っ向勝負。
しかも今日のりんごは紅玉、下手をしたら茶葉が持つ香りを殺してしまいかねないからだ。

【一条】
「音々がこれで良いのならかまわないけど?」

【音々】
「お願いします、この茶葉が良いんです……この茶葉が……」

【一条】
「……わかった、それじゃダージリンで淹れようか」

未開封の缶を開け、立ち上る香りを一嗅ぎ、しっかりとした芯の通ったダージリンの良い香りがする。
その茶葉を適量ポットに入れ、その上からさっきの熱したりんご湯を注ぎ込む。

【一条】
「ダージリンの茶葉が開くまでしばしの辛抱」

静かな待ち時間、その中にブーンと低い声が上がる、この音はオーブンか?

【音々】
「パイの方が焼きあがったようですね」

ミトンを手にした音々がオーブンを開け、中から美味しそうに焼きあがったパイを取り出した。

【音々】
「上手く膨らんでくれたようですね、良い色に焼きあがってるし香りも上々です」

【一条】
「こっちも茶葉が開いて良い感じ、グットタイミングってやつだな」

【音々】
「時間もちょうどお茶の時間ですね、まだ熱いですけど焼き立てをいただいちゃいましょうか」

包丁を入れると、サクサクとパイ生地が小気味良い音を立てて切り分けられる。

【音々】
「はい、誠人さん、熱いのでお気を付けて下さいね」

皿を受け取り、今度は俺がポットからお茶を注ぐ。
ポットから注がれた紅茶は、その時を待っていたかのように香りを爆発させた。
部屋中にりんごの香りが広がる、その中に混ざるようにダージリンの香りも感じ取れる、どうやら双方とも活きているようだ。

【音々】
「ふわぁ……凄い良い香り」

【一条】
「ダージリンと紅玉が上手く溶け合ったようだな、それじゃあいただきますか」

時間も頃合いということで、2人でりんご尽くしの紅茶とパイでお茶にする。

【音々】
「本当に良い香り……今までのアップルティーの香りとは比べ物にならないほどに」

香りを十分に楽しみ、一口紅茶に口をつけた

【音々】
「……あぁ」

【一条】
「どうした、何か問題でも?」

【音々】
「いえ……なんて芳醇な味、なんだか言葉にすることをためらってしまうような味がします。
まるでりんごの園で紅茶を飲んでいるような……これが本当のアップルティーなんですね」

【一条】
「気にいっていただけましたか?」

【音々】
「勿論です、これを飲んでしまうと今までのアップルティーがかすんだように感じます」

【一条】
「やっぱり人口着香じゃ本物のりんごの香りには勝てないんだよ。
いくら着香技術が進んでいるとしても、りんご本来の香りに追いつくことさえ不可能だろうね」

俺も音々が作ったアップルパイを食べてみる。
サクサクしたパイ生地の中に、ざっくりとした感触のりんごが顔を覗かせる。
バターの香りとりんごの香りが口の中でアンサンブルを奏で、咽を滑り降りていく。

【一条】
「アップルパイ美味いな、ケーキ屋のアップルパイよりもりんごの味も香りも濃い」

【音々】
「使っているりんごが紅玉だからですよ。
お店で売っている物はりんご本来の味が弱く、パイ皮の味ばかりが前に出てしまう物が多いですから。
香りもりんご自身に力が無いからレモンなどの香り付けをする、するとりんごの香りはさらに弱まってしまいます」

生で食べると酸味の強い紅玉だけど、パイにすると己の存在感を十二分に出すことができる。
適材適所とはまさにこのことを云うんだろうな。

2人とも互いの品を堪能しながらお茶の時間は過ぎていった。

……

「洗い物は私がしますから先に戻っていてください」

と音々に云われたとおり先に部屋に戻ってきたけど……おちつかない。
視線をどこにやって良いのかがわからない、どこに視線を移してもやましいことをしているように感じてしまう。
早く戻ってきてくれ、早くしないと俺が崩壊してしまう……

【一条】
「……」

視線が落ち着いた先は……タンス。
まずい、とてもまずい状況です、これが男の性なのかタンスに視線が釘付けになってしまう。
伸びる手を叩き落して必死で自我を保つ、早く、早くしてくれ!

【音々】
「お待ちどうさまです」

扉が開いて音々が戻ってくる、良かった、なんとか自我を保ちきることができた。

【一条】
「遅いよ……女の子の部屋に男一人にするなんて拷問だよ」

【音々】
「あ、申し訳ありません、そこまで気が回らないで、あ、あの……変なことしてないですよね」

はんなり顔を赤らめて訊ねてくる、そんな顔を見せられと意地悪をしたくなってしまう

【一条】
「タンスの3段目……」

【音々】
「え!」

顔全体が真っ赤になる、ちょっとしたカマ賭けだったんだけど……

【一条】
「まさか音々があんなのはいてるとはね……」

【音々】
「あうぅ……はわわわわわ」

いけない! ちょっとした冗談のつもりだったのにまずいところに触れてしまったようだ。
音々の眼がぐるぐる回ってパニック状態に陥って、手に持っているお盆がカタカタと小刻みな揺れを知らせている。

【一条】
「音々、おちつけ! 今のは冗談だ、何もしてないからおちついてくれ」

【音々】
「冗談……何もしてない……あうあう……」

ゆっくりとポルターガイスト現象が沈静化していく、なんとか最悪の事態は避けれたか?

【一条】
「おちついたか?」

【音々】
「は……はい……なんとか……」

【一条】
「とりあえず手に持ってるお盆を置いてくれ、最悪の事態になりかねないから」

テーブルの上にお盆が置かれる、これで物理的被害は無くなった。

【音々】
「はぁ……むぅー、誠人さん!」

【一条】
「な、なんでしょう……もしかして、怒ってますか?」

【音々】
「当たり前です! 冗談でも女の子のタンスの中を見たようなことを云っては駄目です!」

【一条】
「そんなもんですか……?」

【音々】
「そんなものです!」

【一条】
「悪かったって、だけど……その慌てようからすると地雷だったかな?……」

【音々】
「うぅー……莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦ー!」

パカパカと何度も頭を叩かれたけど、特に痛くもない。

【一条】
「……」

【音々】
「……どうして何も反応がないんですか?」

【一条】
「反応って云われても、べつに痛くないし」

【音々】
「……」

バシィ!!

大きな衝撃音と共に頬に鈍い痛みが走る、平手打ちを見舞われました。

【一条】
「いった! なんでいきなり平手打ち……?」

【音々】
「痛いって云いましたね、これで気分がはれました。
もう1度お茶を淹れてきましたので一緒にいただきましょう」

平手打ち1発で音々の表情が穏やかなものに戻った、俺が痛がったからなのか……?

【音々】
「少し冷めちゃいましたけど、まだまだ香りも鮮烈ですよ、どうぞ」

【一条】
「どうも……この香りは、ダージリンか?」

【音々】
「はい、さっき誠人さんが淹れた紅茶と同じ茶葉ですよ」

口に含むとアップルティーの時とは違い、ダージリンそのものの香りがダイレクトに鼻腔を抜ける。
ダージリンらしい芯のしっかりと際立った力強い香り、セカンドフラッシュなだけあって後口がとても柔らかい。

【一条】
「そのまま飲んでも十分に美味いな、それから、気になっていたんだけど。
あの茶葉って、前に俺が渡したやつじゃ……?」

【音々】
「やっぱり、気付いていましたか」

【一条】
「まだ飲んでなかったんだ、てっきりもう飲み終わったと思ってたのに」

【音々】
「あれは飲まなかったんじゃありません……飲めなかったんです」

カップを置いた音々の表情は、どこか寂しげな眼をしていた

【一条】
「飲めなかった? セカンドフラッシュなら大丈夫だって云ってなかったっけ?」

【音々】
「紅茶そのものは関係ありません、私が飲めなかった理由はそこじゃなく。
これが誠人さんから頂いた物だからなんです」

後ろから紅茶の缶を取り出して見せる、ようは俺が渡したから飲めなかったと……

【一条】
「俺があげたからって別に飲めなくなることもないんじゃ?」

【音々】
「いいえ、誠人さんだからこそ、私には飲むことができなかった。
この紅茶が、私にとって初めて男性から頂いたプレゼントだったから」

【音々】
「嬉しかった……このまま飲まずに、ずっと取って置くつもりだったんです」

【一条】
「だったらどうしてこれ開けちゃったの?」

【音々】
「それもまた同じ、私1人が飲むのではなく、誠人さんがご一緒に飲むからですよ」

なんだか意味がわからない、細かく整理してみると。
音々にとってあの紅茶は初めて男から貰ったプレゼント、それを渡したのは他でもない俺だ。
ずっと飲むつもりじゃなかったのに、今日になって飲む決心がついた。
その決心をつけさせた要因を作り出しているのも又俺のようだ
……一体どういうことなんだ?

【音々】
「私1人で飲むのならば、絶対にこの紅茶を開けようとは思いませんでした。
ですが、もし誠人さんとご一緒に紅茶を飲むことができるとしたら、その時はこの紅茶をって決めてたんです」

【一条】
「どうして……紅茶を飲むことと俺が関係しているんだ?」

【音々】
「それは……」

一瞬の間が置かれ、音々の視線が缶に落ちる、しかしそれは一瞬のでき事。
次の瞬間には再び視線は俺の方を向いていた。

【音々】
「誠人さんは覚えていますか? 私が初めて誠人さんに助けていただいた日のことを」

【一条】
「教室で倒れていたあの日のことか?」

【音々】
「はい、思い返してみると、あの日から私の中で大きく変わってしまったのかもしれませんね……
誠人さんは、『禁断の果実』というのはご存知ですか?」

【一条】
「よくは知らないけど、アダムとイブが食べた果物のことじゃなかったか?」

【音々】
「正解です、アダムとイブが誘惑に負け、定めを破って食べてしまったのが禁断の果実。
その果実を食べてしまった罰として2人は楽園をおわれてしまうんですが。
誠人さんはこの2人がどうして定めを破ってしまったと思いますか?」

【一条】
「どうしてって云われても、神話の話であってもアダムとイブは設定上は人間。
決められた定めを破りたくなってしまうのが人間の心理じゃないのかな……」

【音々】
「そう考えるのが一般的ですよね、だけど、違う見方もできるんです。
2人は悩んだ後に食べてしまったのではなく、最初から望んで食べたのかもしれません」

【音々】
「アダムとイブが住んでいた楽園には2人以外にも様々な動物が暮らしています。
愛し合う2人に必要なのは誰にも干渉されることのない2人だけの世界です。
そんな世界を簡単に手に入れるには、楽園から出て行けば良いだけのことですよね」

【一条】
「つまり、2人はわざと果実を食べたってこと?」

【音々】
「正しい答えが無いのでわかりませんが、そんな考えもできますよね。
物語上で2人が食べた「禁断の果実」、現実ではりんごということになっているんです」

さっきから音々は何を導き出そうとしているんだ?
神話の話を持ち出されても俺には何のことやらさっぱりわからない。

【音々】
「りんごは2人の愛を勝ち取る物として、古くから言い伝えられているんです。
りんごを食べた2人の心が通い合って1つになりますようにと……」

りんごにそんな言い伝えがあったなんて知らなかった、今度からりんごを食べる時は思い出してみるか。
そういえば、俺たちさっきりんご食べたよな……

【音々】
「誠人さんがりんごを持ってきていただいた時、なんだか不思議な感じがしていたんです。
もしかしたら、私たちはアダムとイブを演じているんじゃないかって……」

【一条】
「……」

【音々】
「だから、この紅茶を選んだんです、この紅茶が私の気持ちの始まり。
アダムとイブを夢見た私の願い……」

缶をギュウッと強く抱きしめる、まるでその紅茶が自分の一部でもあるかのように強く。
紅茶の缶が音々にとって気持ちの核、自らの想いの全てが込められた缶を抱きしめながら。
言葉は紡がれた……

【音々】
「どうしても手に入れたいものが1つだけあるんです。
誰にも渡したくない、私1人だけで独占したくなるほどに大切なものが……」

【一条】
「それは……」

【音々】
「心です、私が独占したいのは誠人さん、貴方の全て」

【一条】
「ちょっと待ってくれ……もしかしてそれって……」

【音々】
「貴方のこと……大好きなんですよ」

それは突然に、本当に突然の告白だった……

【一条】
「……」

【音々】
「ご迷惑なのはわかっています、だけど、どうしても伝えておきたかったから。
今日という日に、たぶん今日伝えなかったら一生伝えることができなかったと思うから……」

【一条】
「冗談じゃ……ないんだな……?」

【音々】
「冗談で好きなんてことは云えないですよ、私の気持ちは本気です。
ですから、誠人さんの気持ちを、教えていただけませんか?」

【一条】
「俺の気持ちか……」

【音々】
「誠人さんの本当の気持ちを私は知りたいんです、誠人さんの中に私がいなくても、それでもかまいませんから。
貴方の気持ちを教えてください……」

言葉にするよりも早く、俺は音々の体を後ろから抱きしめた。

【音々】
「……誠人さん」

【一条】
「俺も……おまえのことが好きだ、前から少し気になっていたんだ。
俺はもしかしたら音々を好きなんじゃないかって、だけど今の俺にはそんな資格は無い」

【一条】
「悪いけど、今は音々の気持ちに答えられない、まだ俺は音々に話していないことが多すぎるから。
俺が音々に全てを話して、それでも音々が俺のことを好きでいてくれるのなら。
真正面から、音々のこと、抱きしめさせてもらいたいんだ……」

少しだけ後ろから回す腕に力を込める、その腕を音々が払うことはなかった。

【音々】
「……はい」

そっと音々の暖かい手が俺の腕に添えられる、その腕の中には2つの異なった温度。
人を傷つけて、そこに快楽を求めるようなまっとうな人間とはかけ離れたもう1人の俺が存在する。
そのことを何も話さないで、音々の気持ちに答えてしまうようなことはしたくない。
だから、音々の体を正面から抱きしめることをしなかった。

【一条】
「俺ってずるい人間だな……」

【音々】
「そんなことはありません、誠人さんが私に話していただけるまで、私は待っていますから」

【一条】
「ありがとう……それから、ごめん……」

抱きしめる体の温もりの中に、一筋の冷たさを感じた。
それは俺の手の甲から、手の甲に冷たい何かが落ちる、それは音々の眼から流れる涙の雫だった。

【一条】
「……音々?」

【音々】
「あ、なんでもありません……あれ? 私どうして……?」

あまりに突然だった、突然のでき事に当人である音々も驚きを隠せないでいる。
音々の眼から涙が溢れている、頬には涙が作り出した涙道がキラキラと光を反射していた。

【音々】
「私、泣いている?……悲しいことなんて無かったのに、どうして?」

何故泣いているのか訳がわからないといった感じで音々は流れ落ちる涙を眺めている。
そんな音々に俺がしてやれることは……

【一条】
「……」

【音々】
「誠人……さん……私……」

優しく、腫れ物にでも触るようなやんわりとした動作で音々の頭を撫でた。

【一条】
「何も考えるな、今はただ、涙が収まるまで泣けば良いんだ……」

【音々】
「……」

音々の眼から溢れている涙が嬉し涙なのか、はたまた悔し涙なのか。
当人ではない俺にはわかるはずもなかった……

……

【一条】
「ずいぶん長いことお邪魔しちゃったな」

【音々】
「私の家でよろしければいつでもよってください、誠人さんならいつでも歓迎しますから」

【一条】
「女の子の家に頻繁に男が出入りするのはちょっとまずくない?」

【音々】
「あぁ……そうかもしれませんね、私の親は男関係には特にうるさいですから」

【一条】
「それって俺がいたらまずいんじゃ……」

【音々】
「今日はどちらも出ていますので大丈夫ですよ、でももし見つかったらちょっと面倒になりますね」

こういったお嬢様のところでちょっと面倒ってのは庶民にとってとんでもないことだったりするから怖い。

【音々】
「安心してください、どんなことがあっても明日はちゃんと行きますから」

【一条】
「それを聞いて安心したよ、明日の10時遅刻すんなよぉ」

【音々】
「でしたら、遅れた場合はペナルティーを設けましょうか」

【一条】
「緊張感が増して良いじゃないの、それで、どんな罰を設ける?」

【音々】
「そうですね……遅れてきた方は、待たせた方に1日服従というのはどうでしょう?」

【一条】
「のった、音々を1日お姫様抱っこで過ごすなんてこともできるわけだ」

【音々】
「うぅ……あくまで私が遅れて来たらですよ、まだ決定じゃないですからね」

顔を赤くしながら反論してくる、俺はこんな音々の仕草に惹かれたのかもしれないな……

【一条】
「それじゃ、また明日、遅れて来てもいいからね」

【音々】
「もう! 誠人さん!」

後ろに音々の怒った声を聞きながら、屋敷を後にした。

……

ベッドに横たわると音々の家でのことが思い出される。
音々は俺のことを好きだと云ってくれた、そんな俺も音々を好きでいる。
信じられないな、まさか音々のようなお嬢様が俺のような凡人に興味を持ってくれるなんて。
だけど、今の俺では音々を受け入れることができるわけもないのは事実だ、いつか必ず、音々に全てを打ち明けられるようになる。
明日がそのための1歩になってくれることを、ひっそりとベッドの中で願っていた。





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