【4月23日(水)】


【一条】
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、……」

足がガクガクになり、動悸も荒くなっている、眼の前の景色はぐらぐらと揺れて。

【一条】
「どうしてこうなったんだろうな……」

事の真相は朝にある、いつものように目覚ましが鳴って目を覚ますのかと思ったら。

……時計の針は5時過ぎで止まっていた、なんてことはない電池切れだったわけだけど。
それが今の状況全てを生み出した元凶。

【一条】
「電池が切れそうなら警告してくれよ……」

所詮300円の安物時計じゃそんな機能は望めない、そもそも高い時計にそんな機能があるとも思えないし……
いくら愚痴を云ったところで足が速くなるわけでもない、無駄な体力は使わずに全て足を動かすことに集中させよう。
腕時計が示す時間はホームルーム7分前、果たして間に合うだろうか……

……

【一条】
「頭痛い……」

頭はフラフラ、鈍い痛みが頭を圧迫して気持ち悪い、額に乗せられた濡れ布巾がせめてもの救いだ……

【先生】
「まったく、寝起きにそんなに走ったら倒れるのも道理よね」

ここは保健室、ベッドに横たわって額には濡れ布巾、濡れ布巾のひんやりした感触がなんとも心地良い。
俺の足はホームルームの時間に間に合った、ギリギリだったけど先生よりも早くに教室にたどりついた。

だけどそこまで、教室に入った途端、激しい目眩と嘔吐感に襲われ、そのまま夢世界へ……
気が付いた時には今の状況だった。

【先生】
「朝一から倒れるなんてついてないわね、今日の運勢は大凶かな」

【一条】
「大凶とかそういうのはないと思いますけど……」

【先生】
「君じゃなくて私がよ、朝一から患者が運ばれてゆっくりできないじゃない」

人のことを心配しているのかと思ったら自分のことですか……

【先生】
「ま、気分が良くなるまでゆっくりしていきなさい、戻ってまた倒れられたら余計な仕事が増えるから」

【一条】
「はい……」

云い残して先生は出て行った、保健室の先生が保健室からはけたら駄目なんじゃないのかな。
誰もいなくなった保健室のベッドの上で宙を見上げる。
広がるのは白一色の天井に蛍光灯の姿、この景色をずっと見ていた少女が1人

【一条】
「これが音々が見ていた景色……」

殺風景な何も感動を覚えないこの景色、だけど、なんだか凄く落ち着く。
音々が見ていた景色を俺も見ている、空間を共有しているような不思議な気持ちになる。
まぶたを閉じると、ありもしない温もりが抱きしめてくれるような、そんな気がした……

……

結局体の調子が戻ったのは4時限眼が終わるのとほぼ同じ時間、午前中は全部保健室で過ごした。
本調子とはいかないが、これくらい回復していればたぶん大丈夫だろう。
軽く伸びをすると……やっぱりまだ少しくらくらするか。

【一条】
「つぅー……まだ無理かもな……だけど、今しかないんだ」

どうしても昼休みにはここを出たかった、行かなければならない所があるから。
この時間、昼休みしか会うことのできないあの人物に会うために、足を進めた。

……

ギイィ……ギイィィィィィ

調子が悪いとこの程度の扉でさえも辛く感じる、決して軽いわけではないがいつもなら簡単に開けられたのに。
一面の蒼に世界が彩られ、ここが屋上であることを物語っている。
相変わらず人の気配は無い、今日もこの空間内に彼女はいるのだろうか?

……いた。

後姿でも一目見ればわかる、地面につくほどに長い髪、あの髪の持ち主は1人しかいない。

【一条】
「み……!」

声をかけようとしたが、その瞬間、俺の眼に異変が起こる。
水鏡の後姿が薄らいで見える、いや、薄らいで見えるといった表現は正しくない。
水鏡の輪郭がぼやけて見えると云った方が適しているだろう、あるようでない、ないようであるそんな状況。

【一条】
「……っ!」

響く痛みに頭を押さえる、まだ疲れが取れていないからだろうか?
気を緩めてしまえば再びここで倒れてもおかしくない、まだ早かったか……

【水鏡】
「誠人先輩」

頭から手をどかして水鏡を再び眼にとらえた時には、もう眼の異変は無くなっていた、錯覚か……?

【一条】
「やぁ……」

【水鏡】
「なんだか顔色が優れないようですけど……?」

【一条】
「はは、やっぱりわかるんだ……ちょっと朝倒れてね」

【水鏡】
「もう動いても大丈夫なんですか?」

【一条】
「なんとかね、正直今でもまだ少しフラフラするけど」

【水鏡】
「……」

あごに手を当ててなにやら思案に耽っている、その後何かを思いついたかのようにポンと手を叩いた。

【水鏡】
「先輩は女の子の足は好きですか?」

【一条】
「と、唐突な質問だな、それにそういうのはあんまり云いたくないんだけど……」

【水鏡】
「嫌いですか?」

どう答えたら良いんだよ……ここで大好きって答えるのもなんか変だよな……

【一条】
「嫌いじゃないけど……」

【水鏡】
「それじゃあ好きですね、ちょっと待ててください」

地べたにペタンと腰を下ろし、スカートの裾を丁寧に整える。

【水鏡】
「準備できました、どうぞ」

【一条】
「どうぞって……何がですか?」

何がですかって云ったけど、この状況を見て何を誘っているのかは火を見るより明らか。

【水鏡】
「膝枕ですよ、フラフラするって云ってましたよねそんな時は横になるのが一番良いです。
それに、先輩は女の子の足がお好きですから、その2つを満たすには膝枕が一番良いと思います」

【一条】
「確かに嫌いじゃないって云ったけど……さすがにまずいんでは……水鏡も本当は迷惑でしょ」

【水鏡】
「そんなことはありませんよ、遠慮なさらずにどうぞ」

クイクイと膝の上に俺を誘っている、水鏡とはまだ日は浅いけどこれが冗談ではないことは薄々感じ取れる。

【一条】
「……」

【水鏡】
「……私の足じゃ役不足ですか?」

【一条】
「……まいりました、だけど人の頭って結構重いんだぞ?」

【水鏡】
「私が支えられないほど重いわけではないですよ」

やれやれ、このままいっても俺の話術じゃ勝てないな、ここは素直に受けた方が良いか……

【一条】
「それじゃあ……失礼」

ゆっくりと水鏡の足の上に頭を下ろす、頭の下にはスカートの布が1枚あるわけだけど、スカートの布地は結構薄い。
薄布1枚下には守る物の無い水鏡の足がある、もこもこした独特の感触がなんだか変な気持ちに変えてしまう。

【水鏡】
「いかがですか、私の足気持ち良いですか?」

覗き込んだ水鏡の顔が視界に広がり、僅かに差し込む陽光が陰陽の対比を作り上げてなんとも美しい。

【一条】
「そういった質問は却下、だけど、さっきより気分は良いかな」

横になったせいか少しだけど頭のフラフラはとれた……気がする。

【水鏡】
「先輩のお役に立てて良かった、私の体も少しは役に立ちましたね」

【一条】
「あんまり年頃の女の子が体とか役に立つとか云わない方が良いと思うんだけど」

【水鏡】
「そうですか? でも、先輩がそういうならそうします」

この子は毎回そうだ、恥じらいが有るのか無いのかどっちかわからなくなる。
いつも俺が指摘することで気が付いたような素振り、全く気付いていなかったか気にしていないかのどちらか。
どっちにせよ良いことではないよな……

【水鏡】
「空が綺麗ですね……」

覗き込んでいた顔が上方を向き、遮りが無くなった陽光の全てが俺の眼を照らす。

【一条】
「眩しい……」

手で遮りを作り、僅かに開けた指の隙間から空を覗く。
主体は透き通るような蒼に、アクセントとして真珠色した綿毛がモワモワと空を彩る。
青でなく蒼、例えるならば青が宝石、蒼は深海が見せる表の色
宝石がいくら美しいといえど、しょせん偽り、作られた美しさ
対して蒼は深海自体が産み出すそれそのもの自体が持つ天然の美しさ、天然と偽り、美しさのレベルが違う。

【水鏡】
「もしこの空の中に世界があるとしたら素敵だと思いませんか、神話に出てくる楽園のような世界」

【一条】
「そんな世界があるとしたら、そこは天国だな」

【水鏡】
「ふふ、先輩は現実主義者ですね、たまには肩の力を抜いて夢を見るのも悪くないですよ」

【一条】
「夢か……」

夢……儚く尊い自分で作り出す幻、大体その幻の因子になるのは今日まで培ってきた記憶。
記憶があるからこそ人は幻を作り出し、その先に夢を見るんだ……

そんな夢さえも俺には見る権利が無い……

【一条】
「夢を見れない人間に、生きてる意味なんてあるのかな」

【水鏡】
「……」

前髪で隠れていて確信は持てないが、俺の言葉に水鏡の表情が変化を見せた。

【水鏡】
「先輩……」

俺の胸元に水鏡の両手が添えられる、見た感じでは後ろから抱きしめられているように見えなくもないかな。

【一条】
「おいおい、誰かに見られたらどうするんだ」

【水鏡】
「膝枕をしている時点で人に見られても良いということではないんですか?」

【一条】
「た、確かに……」

【水鏡】
「膝枕は足を貸している方が主導権を握っているんですよ、先輩には逆らう権利は無いんです」

権利は無いって……まぁ、逆らう必要も無いしな。

【水鏡】
「意味は……あると思いますよ」

【一条】
「……水鏡?」

【水鏡】
「この世界に生きる意味が無い者は存在しません、誰もが知らず知らずのうちに世界に自分の存在を求めるんです。
その場所、その時間に自分の存在を求め、流れる時間の一瞬に自分の記憶を確立するんです」

【一条】
「……」

【水鏡】
「夢を見ることができないのなら、これから見ていけば良いんです。
自分の歩幅は自分で決めれば良い、誰かに追いつこうと考える必要は無いんですから」

【一条】
「水鏡……」

【水鏡】
「だから先輩も、自分に迷わないでください、たとえ自らを否定するような状況におちいっても。
決して自分を否定しないでくださいね……」

胸元に置かれた手がゆっくりと俺のあごと首下に動き、ゆっくりと頭を持ち上げられる。

チュ

【一条】
「な!」

額に柔らかな感触、それは人の肌の中でも一際柔らかい部分、水鏡の唇が俺の額に口づけをした。

【一条】
「な、いきなり何を!」

【水鏡】
「おまじないのような物です、先輩が自分を見失わないように、私からのおまじない」

【一条】
「まじないって云っても他にも方法はあるだろうが」

【水鏡】
「あるにはありますが、先輩が喜んでくれた方が良いと思いまして、迷惑でしたか?」

【一条】
「迷惑じゃないけど、好きでもない男に気軽にキスするのはどうかと」

【水鏡】
「ふふ、もうしませんよ、先輩にはもう彼女さんがいますもんね、今日はちょっとした悪戯です」

【一条】
「あのねぇ……」

突っ込みたいところはたくさんあるんだけど……どれから突っ込んで良いのかもうわからない。

キンコーン

【水鏡】
「予鈴鳴っちゃいましたね、残念です」

急にしょんぼりと肩を落とす、残念って云うのは普通俺が云うんじゃないのか?

【一条】
「結局昼休み中ずっと膝枕してたけど、足とか痺れてない?」

【水鏡】
「勿論平気ですよ、男の方に膝枕するのは初めてでしたけど、結構楽しいです」

膝枕のどこが楽しいのかわからないけど、水鏡がそう云うならそうなんだろう。

【一条】
「さてと、午後の授業くらい真面目に受けるかな」

【水鏡】
「そうですね……そうだ、先輩にこれを」

水鏡に渡されたのは昨日貸した小さな鍵、その鍵を見た瞬間、重要なこと思い出した。

【一条】
「水鏡、昨日その鍵の代わりに俺に渡したあの楽譜、どうしてあの楽譜を水鏡が持っているんだ?」

屋上に来たのはこのことを聞くため、水鏡の膝枕ですっかり忘れてしまっていた。

【水鏡】
「……」

【一条】
「答えては……くれないか……」

【水鏡】
「まだ……思い出せませんか?」

【一条】
「思い出すって……何を……?」

首を横に振りそれ以上のことは答えない、屋上を去る際にこちらを振り返り。

【水鏡】
「先輩が全て思い出した時、それが先輩の始まりです……記憶を、取り戻してください」

【一条】
「!」

告げられた言葉に俺は絶句、水鏡は俺の秘密を知っている……
水鏡の後姿を呼び止めようと咽に力を入れる、しかし、言葉が発せられることはなかった。
俺にはただ、秘密を握っているであろう少女の後姿を眺めていることしかできなかった……

……

【一条】
「……」

午後の授業など頭には入らない、頭の中は水鏡のことでいっぱいだ。
どうしてあいつは俺が記憶を失ってしまったことを知っているんだろう?
俺は今まで病気になったことは喋ったが、記憶を失ったことまでは一切喋っていないのに。
それからあの楽譜、水鏡が云うには俺はあの楽譜を忘れている、失った記憶の中にその楽譜がなんであるかが存在すると……

【一条】
「あいつは何かを知っている、俺にとって重要な何かをあいつは知っているんだ……」

にらみつけていた机への視線を窓の外に向ける、窓の外では真実を覆い隠すように広がる雲が空を占拠していた。

【某】
「一条ー」

【一条】
「廓、どうかしたか?」

【某】
「これから暇やんな、ちょっと付き合ってんか?」

【一条】
「あぁ悪い、ちょっと寄りたい場所があるから今日は……」

【美織】
「寄りたい場所って病院でしょ、あいにくだけどあたしたちの予定もそうなんだ」

廓の後ろから美織がひょっこり顔を出す。

【某】
「音々の見舞いやろ、わいらの目的も同じなんや」

【美織】
「いっつも誠人一人で行っちゃうんだもん、あたしたちにも声かけなさいよね」

【某】
「せやで、わいにはしらせてもくれんかったやろ」

【一条】
「2人に迷惑かけられないだろ」

【某】
「何云っとんねん、友人が倒れたら見舞いに行くのが常やろ、これっぽっちも迷惑なんか思えへんて」

【美織】
「そうだよ、それとも誠人はあたしたちがいたら都合が悪いのかしら?」

悪戯っ子のような不敵な笑みを見せる、ここでもし焦ったら美織の思うつぼだ。

【一条】
「音々も2人が来てくれたら喜ぶんだろうな」

【某】
「2人じゃないんやなこれが、もう1人忘れられへんやつがおるやろ」

窓の外を廓が指差した先には、一目見ただけでわかる長身、二階堂の姿。

【一条】
「皆友達思いだな、黙ってて悪い」

【某】
「気にすんな気にすんな、そうと決まれば膳は急げ、病院行こか」

腕をぐいぐい引っ張りながら廓が急く、そんなに急ぐ必要も無いだろうに……

【美織】
「……」

【一条】
「美織?」

【美織】
「あ、うん何でもない、行きましょう」

なんだろう、今の美織の寂しげな表情がなんだか少し引っかかった。

……

【某】
「へぇー、それで今日の朝死にそうな顔しとったんか、それやったらお前もわいみたいに早くから来ればええのに」

【一条】
「誰が開門と同時に学校なんか来るもんか、そんなに早く来てよく暇じゃないな」

【某】
「わいに暇な時間なんかあらへん、空き時間は全てデータ収集にあたるから朝早くてもええんや、むしろ早くないとあかん」

朝一からこいつは何を調べてるって云うんだろう? 教師の不倫でも調べてるのか?

【某】
「データに勝る物無しや、データさえ手に入れておけば対策を立てるのも簡単やし相手の手の内など丸見えや。
データ戦を制する者が後に天下を取る、皆わいの手のひらの上で踊るんや」

廓、それは悪党の考えじゃないのか?
廓とどこぞのエージェントの姿が被る、違和感が無いな。

【一条】
「だけど、学校のデータってかなりの物があるだろ、それ全部覚えてるのか?」

【某】
「そんなもん覚えれるわけ無いやろ、そのためにわいには小道具があるんやないかい」

制服の内ポケットから手のひら大の手帳を取り出した。

【某】
「これがわいの秘密兵器、この学校の裏の裏の裏の情報まで事細かに記述された門外不出の裏ノート。
別名『鰐皮の手帳』、これ一つで学校での主導権全てを握ることも可能やで」

鰐皮の手帳って、どこかで似たような単語を聞いたことがあったがどこだったかな?
そんなことは置いておいて、さっき気になることを口走らなかったか?

【一条】
「学校の主導権握る情報って……」

【美織】
「某ってどっからそんな情報仕入れてくるのよ?」

【某】
「これも全て学校中に張り巡らせたわいの網の力や、情報戦なら勇もわいの敵ではないで」

【二階堂】
「学校の主導権なんぞ欲しくない」

【某】
「そういうこと云うなや、情報収集はわいの趣味なんやから」

趣味で学校の裏の裏の裏まで調べようとは思わないと思うけど、しかしあの手帳の中にはどんな情報が……

【某】
「なんや一条、この中身が知りたいって顔しとるのう」

【一条】
「気にしないでくれ、ただの野次馬根性だ」

【二階堂】
「あまり見ない方が良い、見たところで俺たちには何かわからんさ」

【美織】
「あたしも結構興味あるな、学校の裏の裏の裏ってどんなのだろう」

確かにそれは気になる見せてもらいたいが……

【某】
「見せたっても良いけど、下手したら夜道で襲われかねへんぞ」

【一条】
「どうしてたかが手帳見ただけで夜道で襲われなくちゃならないんだ?」

【某】
「だからさっき云ったやろ、裏の裏の裏やって、個人的なプライベートのことまでわいの網はわかってしまうんや」

【美織】
「ちょっとそれってストーカー?」

【某】
「違うわい! 捜査一課と云ってくれ」

【二階堂】
「こいつは見境無しに情報を求めるんだ、それこそ骨の髄までな」

【一条】
「廓……」

【某】
「……心配要らんて、美織たちのプライベートなんか知らんし」

【美織】
「……っほ、良かった」

安堵に胸を撫で下ろす、さすがに女の子はプライベートを知られるのは気分悪いよな。

【一条】
「もしかして俺の情報は……」

【某】
「大丈夫や」

【一条】
「良かった……」

【某】
「一条の情報はばれても痛くないから心配すんな」

【一条】
「……」

俺の情報あるんじゃん! だけどばれても大丈夫な情報ってなにかあったっけ?

【一条】
「お前今日の夜道気を付けておけよ……」

【某】
「そんな怖いこと云わんと、一条には特別な情報見せたるさかい」

肩を組まれて美織と二階堂には見えないようにして手帳を開いた、これで俺は常に夜道を警戒しなくちゃならないじゃないか。

……

頭痛がする、頭の中を訳のわからない言葉がぐるぐると走り回っている。

【某】
「どないしたんや、深刻そうな顔して」

全てお前のせいだ、お前がさっき見せた手帳が頭痛の原因なんだぞ。
廓の手帳の中は正直、異世界の古文書の様な奇妙奇天烈な単語やら図表やらが所狭しと並んでいた。

『ヒトゲノム崩壊による人体におけるいじょう』

『π(√235986−86)余り一……第三定理』

『公式Z+ギリシャ文字α……第一定理』

『頭蓋骨剥離による意識障害と末端神経』

『儀式一回モノリス呼んで、モノリス四つで巨像が出たぞ』

などなど俺なんかが見ても何がなんだか訳わからない摩訶不思議な手帳だった、まさに秘密兵器、まさに門外不出。
あんなものが世に出たら人はその言葉の理解に苦しむことだろう。
聞くところによると廓にだけ理解できるように暗号化してあるとか無いとか……
どちらにせよ普通の手帳じゃないことだけは確かだ。

【一条】
「よくあんな手帳作れるな……」

【某】
「地域を手に入れるにはそれ相応の力が必要やねん、これが素人と秀才の違いや」

天才ではなく秀才、人並みはずれた努力をしてあこまでの力を手に入れたんだな。
自分を天才でなく秀才と呼んでいるのが少し廓らしくないぞ……

【一条】
「それ見て夜中に襲われたら割に合わないな……」

【某】
「襲われたらわいにゆえや、すぐ闇討したるさかいな」

だからさ、闇討とか云ったら完全にお前が悪者だろ……

【美織】
「い、一体何が書いてあったのよ……?」

【二階堂】
「気にするな、気にしたら負けだ」

【一条】
「は……ははははは」

【二階堂】
「ああなってしまうぞ……」

空しく笑うことしかできない、見た目からしてまともな男じゃないと思っていたけど、中身はさらにわけがわからない男だな。

【某】
「空しく笑ってへんではよ行こや、日が暮れてまうで」

【?】
「……待て」

図太い男の声に皆が一斉に振り返ると、そこにはいかつい男が六人集まっていた。

【某】
「なんやお前ら? こんなかの誰かの知り合いか?」

【男】
「女や貧相な男に用はない、用があるのは廓、二階堂の2人にだ」

【某】
「あれ? どこかでわいらと遇ったっけか?」

男がビシッと廓を指差した、しかし当の廓は男たちに面識が無いようだ、すると……

【男】
「貴様らの噂はこの街の全域に広がっている、相当の実力者らしいじゃないか」

【某】
「なるほどな、するとお前らはわいらに喧嘩を挑みに来たんやな」

やっぱりそうなるのか、ここ最近こんな場面も無く平和だったせいで薄れてしまっていたが、廓と二階堂は他校から目を付けられた賞金首だったっけ。

【某】
「一応聞いておくわ、お前らどこのもんや?」

【男】
「外鷲野だ、外鷲野の西邑と云えば学校では通じる」

外鷲野……たしか学校から4キロ程の距離にそんな名前の学校があったな。
体育の授業でマラソンした時に見た記憶がある。

【某】
「外鷲野か、前あこの頭とタイマンはったけどちっともおもんなかったで」

【男】
「それはもう過去の話だ、今日は過去の汚点を消させてもらいに来た」

【某】
「そらご苦労なこって、ほんならちゃっちゃと始めようか、今日はわいも暇じゃないねんから」

【二階堂】
「やれやれ、おまえといるといつもこうだ」

ボキボキと指を鳴らして2人は臨戦態勢に入る、ここは俺も出た方が良いだろう。

【一条】
「廓、勇、力になれるかわからないけど、俺も出よう」

上着に手をかけるとその手を廓がすっと静止した。

【某】
「一条は入らんほうがええ、あまり女の前で手荒な格好したく無いやろ、イメージ悪くなるで」

【一条】
「そんなことはどうでも良いだろ、それだったら2人だって同じじゃないか」

【某】
「わいはええねん、それに、もし万が一にもわいらが負けたら誰があいつ守んねん」

【一条】
「え……?」

【某】
「悪役はわいらだけでええ、お前には悪役なんて柄に合わんやろ」

【二階堂】
「まさかの事態も少なからず考えられるからな……」

2人は俺のことを気にしてくれている、俺の手が汚れるのを避けるために自ら悪役をかってでてくれた。
ここで俺が無闇に参加するのは2人の意思を裏切ることになっちゃうな。

【一条】
「わかった、だけど、負けるんじゃないぞ」

【某】
「おう、まかせとけや!」

【二階堂】
「……ビシ」

廓は二カッと笑い、二階堂は二本の指を出す、脱ぎ捨てた上着と鞄を受けとって2人を見送る。

【美織】
「どうしてあいつらは喧嘩が好きなんだろうね」

【一条】
「さぁ……」

2人の光景を見慣れている美織は少しも2人の身を案じていない、もっとも俺もそうだけど。

【某】
「さてと、一体誰から来るんや? 何なら全員いっぺんにでもかまへんで」

【二階堂】
「なるべく早く終わらせたいところだしな……」

【西邑】
「大した自信だな、しかし、その発言は不用意すぎるんじゃないか!」

言葉を全て云い終わる前にリーダー格の男が拳を振り上げ廓を狙った。

【某】
「おおっと、せっかちやな、早いのは女に嫌われるで」

【西邑】
「余裕持っていられるのも今の内だぞ」

振り下ろされた拳を後ろに飛んで避ける、地面に足がつく前にさらに横からも拳が飛んでくる、どうやら2対多の勝負になりそうだ。

【某】
「危ない危ない、さすがに8方向から拳が飛んでくると避けるのも一苦労やな」

【二階堂】
「そうか? この程度で根を上げたら俺には一生勝てんぞ」

【西邑】
「ごちゃごちゃと云ってないで打ってきたらどうだ!」

【某】
「……そうさせてもらうわ!」

前に拳を運ぶように見せて後ろの男に肘鉄を入れる、予測していなかったのかピンポイントで顎にヒットした。

【男】
「ごふ!」

【某】
「拳は前から飛んでくるだけとちゃうで、後ろにも眼もたなあ」

【男】
「でやあ!」

云ってるそばから後ろからの拳が飛んでくる、予測していたであろう廓は首を振ってそれを避ける。

【某】
「有言実行、まさにそれそのものやな」

拳を避け、振り向きざまに男の顔面にストレートが決まる。

【男】
「あがぁ!」

【某】
「どうした、こんなもんか」

【男】
「……ヒュ」

【二階堂】
「……」

後ろに立っていた男が小さな棒のような物で廓の頭を狙うが、一早く感じ取った二階堂の蹴りが男の腕を弾き飛ばす。

【某】
「おっと、危ない、ほらよ!」

【男】
「ぐぅ!」

【某】
「ふぅー、おおきにや」

【二階堂】
「まったく、一時の余裕が命取りになりかねんのだぞ」

【某】
「悪い悪い、今度からはちゃんと気付けるわ」

なんだかんだ云って2人とも互いを理解している、お互いに後ろを任せられる存在とでも云ったところか。

【美織】
「相変わらず2人とも強いこと、誠人は混ざらないの?」

【一条】
「いや、俺はあいつらみたいに強くないし、見た感じ弱いだろ」

【美織】
「あはは、普通自分ではそういうこと云わないよ」

ああ、普通の俺だったらそんなことは云わない、だけど、俺にはそう云うしかない。
もう1人の自分がいる限り、肉体的にも精神的にも、俺は弱い人間だ……

……

【某】
「どうしたどうした、そんなんじゃわいらは倒せんで」

【二階堂】
「無駄な時間だな……」

あれだけいた男ももう数人、廓……二階堂組の勝ちは絶対だった。
しかし、リーダー格の男は不適に笑う。

【西邑】
「ふふ、貴様らも少しばかり用心が足りないんじゃないか?
自分たちの周りにばかり気を取られ、一歩下がったところにはなんの注意もしないとはな」

【某】
「一歩下がったところやと……まさか!」

振り返った廓の視線の先、廓は己の注意力の無さを後悔した……

……

【美織】
「きゃあ!」

【一条】
「美織!」

突然美織が後ろから羽交い絞めにされる、男たちの仲間が後ろに近づいていたことに気づけなかった。

【西邑】
「どうやら形勢逆転だな、貴様ら覚悟はいいな」

男の合図と共に一斉に2人に攻撃が加えられる。
美織を捕まえられているせいか2人とも反撃どころか避けようともしない。

【某】
「がは! 迂闊やったな……」

【二階堂】
「まだまだだな……っく!」

2人の元へ駆け寄ろうとしたが、飛び出した鉄パイプによって進行を妨げられる。

【男】
「兄ちゃん、下手に動かないことだ、動くとこの子が傷つくことになるぜ」

【美織】
「マコー……」

【一条】
「くそ……」

どうすればいい、この状況を納めるためにはどうすれば

……これは?

手に当たった硬い物の感触、それはこの状況を終えるために残された最後の可能性だった。

【男】
「おい、ポケットに手入れて何を出そうってんだ?」

【一条】
「大した物じゃない、知りたいのなら教えてやるよ!」

シュ!

素早くポケットから取り出して男の顔に向かって投げつける。

【男】
「つぁ!」

【一条】
「美織! そいつから離れろ!」

腕の力が緩んだ隙に美織は男から離れる、何とか成功はしたみたいだな。

【男】
「やろう、綺麗な顔で帰るれと思うなよ!」

男は俺の胸ぐらをつかみ、鉄パイプを振り上げた。
可能性は成功なんかしていない、むしろ俺にとって大誤算を生み出してしまった……

ゴギン!

【男】
「ぎやぁぁぁ!」

男の肩が音を立てて拉げた、男の肩はありえない方向への回転で複雑骨折を起こしている。

【美織】
「ま、誠人……?」

【一条】
「……」

俺の意思ではない、それ以前に今動いているのは俺じゃない。
そう、あの日以来影を潜めていたもう1人の俺の存在がここで再び甦った。

【一条】
「……ククク」

薄気味悪い笑い声を俺は上げている、その口元は不気味に吊り上っていた。

【某】
「まずい、よりによってこんな時に!」

【二階堂】
「……」

俺の体が一瞬揺れ、次の瞬間には俺の体は群れる男共に向かって一直線。
そのスピードはもはや人の早さではない、血に飢えた獣、サバンナの猛獣のように、獲物を仕留めるために与えられたスピード。

【一条】
「……」

コンマ数秒で縮めた男との距離、男はとっさのことで判断しきれていない。
男の腕をつかむと、そのまま肘を逆方向へと曲げて骨をへし折る、ベキンと骨が割れる音が感触として伝道する。

【男】
「う、ああ、あ……」

【一条】
「……」

【男】
「ごはあ!」

前と同じように鼻に拳がめり込む、グジュグジュと血と砕けた鼻骨が混じる感触。

血を求めるようにその場にいる男の体を傷付けていく、血を流し、骨が砕け、戦意どころか意識さえも途切れてしまいそうな男を見て今の俺は酷く興奮している。

当然体の制御は俺にはできない、何度も止めようと試みているが一向に体は云うことを聞いてくれない。
前と同じ、腕の先、指一本たりとも今の俺には動かすことができない。

いや、もしかすると、動かしたくないのかもしれない……

【男】
「……」

男の手が肩にかかる、が、その手を取るとまるで合気道のように体を流して相手をねじ伏せる。
そして、同じように男の腕を捻り上げて、折る。

ガキン!

【男】
「ぐあ、あ、あ……」

【某】
「い、一条……」

男が1人、また1人と地面に倒れていく、すでに残っているのはリーダー格の男1人となっていた

【西邑】
「く、くそ……出直しだ!」

背を向けてその場を去ろうとした男の肩をつかんで地面にねじ伏せる。
うつ伏せ状態になった男の顔を小突いて横を向かせた。

頬が天を向いたので俺の体は頬の上に足を乗せた、このまま体重をかければ頬が砕けることは必至だな。

【西邑】
「ま、待ってくれ、わ、悪かった、もうお前たちに手を出したりしないから、ゆ、許してくれ!」

この男も命乞いか、まったく、見苦しい、見苦しいことこの上ない。
自分の力を過信して権力を振りかざしていても、自分より強者が現れたら下手に回る。
誇りやプライドといったものが元々希薄なんだろう、こういった奴は存在そのものに自信が無い。
こいつらは害虫だ、家を食い荒らすシロアリや、勝手に住処を作る蜘蛛と同等のレベルだ。
害虫は駆除されるべき存在、そして、駆除……制裁を加えるのが今の俺だ。

【一条】
「……」

吊上がった口元に、背筋が凍るような恐怖を覚える笑みが見えた。

グググググ

【西邑】
「や、やめてくれ!」

徐々に体重をかけていく、一気に粛清するのは勿体ない、真綿で首を絞めるようにじわじわと恐怖を植えつけなくては。
ゆっくりと、それでいて確実に加わる力は強くなっていく、もう少しだ……

【西邑】
「た、助けて、まじで、潰れる!」

【某】
「一条!」

【二階堂】
「一条!」

耳に聞き覚えのある名前が飛び込んでくるが一体誰の名だったか? 耳障りなノイズだな。

【一条】
「ククククク……」

ミシミシと頬を踏みつける感触とともに下の害虫の振るえが感じ取れる、害虫の分際で良い身分だな。
害虫は大人しく……粛清を受ければ良いんだ!

ふっと男の頬の上にあった足が中に上げられる、男の表情が恐怖で支配されていたものから少しだけ安堵の表情に変わる。
何も知らない者にはそれが放棄に思えたのかもしれない、しかし、現実は違うんだよ……

【某】
「見んなー!!」

男の声が響き渡る、誰に向けられているかなんて俺には関係ない、俺は目の前にある障害をただ破壊するだけだ。

グシャ!! ベキベキベキ!!

【西邑】
「があ……ぁ……ぁ……ぁ」

【美織】
「きゃあ!」

足を上げたのは放棄したからではなく、勢いをつけるためにやったこと。
予想通り、男の頬はぐしゃぐしゃに砕け、惨たらしい呻き声と鼻を刺激する鉄の匂いがその場に広がった。

意識が飛んだ男の頬を何度も何度も踏みつける、二チャッとした不機嫌な感触がするだけだ、もうこいつに用など無い。
顔から足をどけるとその顔はもう最初に比べると見るも無残な歪な形になっていた。

視線が不安定に宙を彷徨った後、立ち尽くす2人の男が目に映るがこいつらには何もしようと思わない。

【一条】
「フフフフ……ハハハハ……アハハハハハハハハ」

【二階堂】
「一条……」

声高らかに笑い声が飛ぶ、素晴らしい気分だ、絶対的な力、その力に劣る愚劣な害虫。
この光景が世界があるべき姿、強者と弱者が古の時代からくりひろげてきた摂理、それがこの惨場であり惨劇。

【美織】
「あ……あぁぁ……」

一条の突然の豹変振りに言葉が出ない、それどころかあの姿に脅えて美織は尻餅をついてしまった。

【一条】
「ククククク……コンナモノデ渇キモ潤セナイ……アハハハハハハハ」

用意された舞台で役者が演じ、演奏者が曲を奏でる、それによって芝居は成り立つ物である。
芝居をまっとうした体が不意に軽くなる、視線の中に白一色の世界が広がるが一瞬のでき事、すぐに視界の中は真っ黒な闇の世界へと変わる。

暗闇の中で最後に感じることができたのは体が崩れる感触と耳障りなノイズだけだった。

……

【新藤】
「おや、ようやくお目覚めかい」

【一条】
「新藤先生……どうして先生が……」

【新藤】
「どうしてって云われてもね、ここは病院だし、君は私の患者なんだから私がいても不思議ではないと思うがね」

【一条】
「病院……」

視線を彷徨わせる必要も無い、微かに香る消毒液の匂いだけでここが病院内だというのは納得できる。

【新藤】
「君の友人という二人が君を連れてきてくれてね、女の子もいたかな……」

先生は俺が連れてこられた時のことを話してくれた。

【新藤】
「確か、前にも同じような話を君から聞かせてもらったが、今回も同じなのかい?」

【一条】
「やっていることは同じです……だけど、俺自身が全く違っていました」

【新藤】
「難しい云い方だね、詳しく聞かせてもらえるかい」

【一条】
「前の俺と今日の俺がやっていたことは結果的には同じです、ですが俺の感じ方が全く違うんです。
前は俺の意思を無視して動き回る体を止めようと意識を持っていったんですが、今回は違いました。
今回は止めようという気にさえならなかった、意識は現実に動く体と同化してあの惨事を楽しんでいたんです」

【新藤】
「すると……今回の騒動は君の意思だと……?」

【一条】
「そう考えるのが一番妥当じゃないでしょうか……」

【新藤】
「……」

腕を組んで深く息を吐き出す、先生が悩んでいる時独特の仕草。

【新藤】
「なるほどな……君の意見も一理ある、しかし、まったく検討外れだと思うね。
もし君が人格障害者だとしたら、その障害が狂気に魅入られて人をいたぶる異常者だとしたら。
君が今ここに、この病室のベッドの上にいることはないだろうね……」

【一条】
「……?」

【新藤】
「少しわかり辛かったかな、簡単に云うと狂気に魅入られた異常者に伸ばされる手は皆無だ。
君が異常者だとしたら、君を心配してここまで運んでくれた2人は君から離れていっているだろうね……」

【一条】
「……あ!」

【新藤】
「気付いたようだね、そう、君の友達だよ……
狂気に魅入られた一条君が本当に自分の意思だとしたら、友達は離れざるをえない。
しかし、彼らは君のことを信じているから離れようとしない、それなのに君が悲観的に考えてどうする」

先生の顔が柔らかい笑みを帯びる、いつもいつも先生は俺の考えを覆し、本当の答えに導いてくれる。
確か水鏡にも同じようなことをを云われたな……

……

【水鏡】
「自分に迷わないでください、たとえ自らを否定するような状況におちいっても。
決して自分を否定しないでくださいね……」

……

まるでこうなることを予期していたかのようだな……

【新藤】
「良い友達を持ったね……」

【一条】
「……はい」

【新藤】
「良い笑顔だ、そんな顔ができるならもう心配はいらないだろう」

ゆっくりと立ち上がって病室を出ようとする先生の背中に問いかける。

【一条】
「先生、あいつらはもう帰ったんですか?」

【新藤】
「秋山君担当の患者の見舞い行くと云っていたから、たぶんまだ病室じゃないかな」

【一条】
「そうですか……」

【新藤】
「あまり動かない方が良いと云いたいが、君のことだから止めても無駄だろうね」

【一条】
「無駄ですよ……」

あいつらに礼を云わなくちゃ、それから、音々の見舞いもしなくちゃな。

コンコン

【新藤】
「おや、来客のようだ、どうぞ」

【音々】
「失礼します、こちらに誠人さ……一条さんはいらっしゃいますでしょうか」

【一条】
「音々!」

【新藤】
「君は秋山君の……一条君、行く手間が省けたね」

【一条】
「そのようですね……」

【新藤】
「それじゃ、私はこれで、邪魔者は消えさせてもらうよ」

最後に小さく笑みを見せ、新藤先生は病室を去った。

……

【新藤】
「おや……」

病室を出ると、そこには男が2人と女の子が1人心配そうにたたずんでいる、それは皆一条君の友達。

【新藤】
「君たちは入らないのかい?」

【某】
「わいらはええんです、一条にとって、わいらは一番じゃないですから」

【美織】
「2人の方が落ち着いて話もできると思いますし、それに、私たちは応援団ですから」

【二階堂】
「一条にとっても……それから、姫崎にとっても」

【新藤】
「ふふ、皆友達思いだな……」

病室の前で、一歩距離を置いて2人を見守っている。
私のような年寄りにこの輪の中に入ることは不可能だろうな……

……

【音々】
「誠人さん、お体の方はもう大丈夫なんですか、美織ちゃんたちに誠人さんが倒れたって聞いて」

【一条】
「見ての通り意識も戻ったし、どこか怪我したわけでもないからね、悪いな心配かけたみたいで」

【音々】
「良かった……でも、どうして急に倒れたんですか?」

【一条】
「それは……」

どうする、今ここで音々に全てを話すか、もう美織にばれてしまったからには隠し通せるとも思えないしな……

【音々】
「じぃー……」

【一条】
「ど、どうした、人の顔じぃーっと見て?」

【音々】
「いえ、なんだか誠人さん辛そうな顔をなさってます、何かお悩みでもあるんですか?」

【一条】
「……」

止めだ、音々の心配そうな顔を見るのは耐えられない、もう隠すのは止そう……

【一条】
「音々、驚かないで聞いて欲しいことがあるんだ……」

【音々】
「……なんでしょう?」

……

今日身に起こった全てを音々に話した、前にも同じようなことがあったことも、何もかも包み隠さず音々に告げた。

【音々】
「……」

【一条】
「これが倒れた原因、嘘のような話に聞こえるかもしれないけど、事実なんだ」

【音々】
「……」

言葉無く椅子から立ち上がり、音々は窓に向かって歩みを進める。
締め切られたカーテンが勢いよく開けられ、赤く燃える夕日の光が病室を染め上げた。

【音々】
「……どうして、それを私に話したんですか?」

【一条】
「もう嘘はつきたくなかったから、たとえ嫌われたとしても、真実は伝えなくちゃいけないから……」

【音々】
「もう1つ、誠人さんはご自分のことを信じてらっしゃいますか?」

【一条】
「……わからないんだ……俺には……俺は本当は何者であって、何を考えているのか。
信じようとしても、自分が何者かわからないから信じて良いのかもわからないんだ……」

先生や水鏡は俺に信じろと云うが、狂気に魅入られる己の正体がわからなくては何を信じれと云うのだろうか?

わからない、信じるものがわからない、今の俺を答えに引っ張ってくれる人は誰もいないんだ……

【音々】
「……」

【一条】
「音々……?」

うなだれていた俺の頭を、音々は優しく抱いた、包み込むように優しく母親を思わせるような暖かな温もりで……

【音々】
「あなたはあなたじゃないですか誠人さん、何も怖がる必要は無いんです。
自分を信じて自分が思うようにすれば良い、それで良いじゃないですか……」

【一条】
「俺には……そんな資格があるのかな……」

【音々】
「勿論です、たとえ他の人が信じなくても、私はいつも誠人さんの味方です。
ですから、誠人さんもご自分を信じてください、そうでないと私まで悲しくなるじゃないですか……」

【一条】
「……あぁ」

柔らかい音々の抱擁が不意に涙を呼び寄せる、俺は何をしていたんだろうな……
信じるもの、それはこんなにも近くにあったじゃないか……

【音々】
「私にとって、誠人さんは憧れの存在なんですから……」

抱きしめる音々の腕にキュッと力が入る。
シャンプーの淡い香りが漂う音々の体、手を伸ばせば俺にも体を抱きしめることはできる。
しかし、俺には伸ばすことはできるはずもなかった……

……

【音々】
「今日はご自宅に帰られるんですか?」

【一条】
「一応そのつもりだよ、音々はまだ退院できないの?」

【音々】
「私はもう少しかかります、だけど、早く学校に戻りたいです。
ここでは誠人さんのオカリナを聞くことができませんからね」

【一条】
「オカリナか、大丈夫だよ……」

ベッドの下に置かれていた鞄の中からオカリナを取り出す。
朝倒れた時、壊したらまずいと思い鞄の中に移し変えておいた、もしポケットに入っていたら確実に壊れていたことだろうな。

【音々】
「もしかして、ここで吹くおつもりですか?」

【一条】
「やっぱりまずいかな?」

【音々】
「あまり良いとは思えませんね……そうだ、屋上に行きませんか?」

……

【一条】
「ここの屋上も人がいないな」

【音々】
「もう結構時間も遅いですから、でもこれなら思い切り吹けますね」

久しぶりにオカリナが聞けるとあってかさきほどから音々は上機嫌だ。
どうしてこうも屋上は人気が無いのだろう、ここにしても、前の病院にしても、学校にしても。

まあ静かな方が吹きやすいけどな……

【一条】
「ふぅ……それじゃいくよ……」

人気の無い屋上にオカリナの音が響く、前の病院や学校で吹くのとはまた少し違った感覚。
夕日に照らされて、長く伸びる影法師の上を音は流れていく。
いつもと変わらない、しいて云えば吹いている場所が違う、だけど……今日は違う。
曲が終盤に近づくにつれ、少しずつ心拍数が上がっていく、これは俺の不安と期待だ。

【一条】
「……」

曲が終わりを向かえる、最後の音にデクレッシェンドをかけてやんわりと曲を終わらせる。
今まではそれで良かった、いや、そこまでしか知らなかったんだ……

【一条】
「……」

全休符による一小節分の空きをとり、そこから再び音を紡ぎ始める。

【音々】
「……これは」

聞いている音々も驚いている、あの曲はあそこで終わりではない、まだ先が残されていた。
終わりだと思っていたのは転換部、曲は終焉部を迎えない限り完結しない、今まで吹いていたのは未完成だったんだ。
俺に全てを教えてくれたのは水鏡、あいつが渡してくれた楽譜に書かれていたのはこの曲の全貌。
その曲も何度も詠み返したのでもう全て頭に入っている、何も迷うことは無い。
終焉部の音を1つ1つ耳に響かせながら、曲は本当の終わりへと向かっていった。

【一条】
「……ふぅー、いかがでしたか、たった一人だけの演奏会は?」

【音々】
「凄い、凄すぎて言葉が出ないです……」

言葉が出ない、芸術品に魅了された人間が何も喋れなくなるのと同じ、言葉が出ないは最高の賛辞なんだ。

【音々】
「あの曲は未完成だったんですね、いつ曲が完成していないことに気付かれたんですか?」

【一条】
「わかったのは昨日、ちょっと学校で色々あってね」

水鏡のことは伏せておく、昼休みのことがあるからあまり話しすぎるとボロが出そうで……

【音々】
「学校でですか……良いなぁ、私も早く学校に戻りたい」

【一条】
「音々が戻ってきてくれないと俺も暇なんだ、早く体調治して学校戻って来いよ」

【音々】
「はい」

音々が見せた笑顔、はたから見たら心からの笑顔ととれるだろうけど、どうしてだろう。
なんだかいまひとつ、音々の笑顔には暖かさが感じられなかった……

……

【新藤】
「それじゃ、行こうか」

【音々】
「お休みなさい、誠人さん」

【一条】
「お休み」

1人で帰ろうと思っていたけど、新藤先生が家まで送ってくれると云うので好意に甘えることにする。

【新藤】
「今日くらい病院で休んでいけば良いのに」

【一条】
「そういうわけにもいきませんよ、俺にもやらなくちゃいけないことがありますから」

【新藤】
「そう云うなら仕方ないか、しかし、一条君は変わったな」

【一条】
「俺がですか? 気のせいじゃないですか?」

【新藤】
「気のせいじゃないさ、3月に君が退院して、退院後始めて訊ねて来た時とは別人のようだ。
現実と向き合って、これからの自分のことを考えて……良い眼になったね」

【一条】
「ありがとうございます、これも先生のおかげです」

【新藤】
「私は関係ないさ、全て君の力だ、私がやったのは君が迷わないようにちょと助言をしただけだよ」

乗り込んだ車のエンジンがいれられ、車はゆっくりと走り出した。

……

【一条】
「ここで大丈夫です、ありがとうございました」

【新藤】
「気にすることは無いさ、君と私の仲じゃないか、困った時はいつでも声をかけてくれたまへ」

【一条】
「はい、帰り道お気を付けて」

【新藤】
「はいよ、それじゃお休み」

【一条】
「お休みなさい」

エンジンが唸りを上げて走り去る、もしかして先生って昔走り屋……なわけないか。
辺りはもう夜、夕日はあんなにも綺麗だったのに月は姿さえ見せていない、それもそのはず今日は新月だ。

月明かりの無い夜はいつもより冷たく感じる、もう1人の俺を例えるなら新月が一番お似合いだろう……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜