【4月24日(木)】


【一条】
「はぁ……」

【某】
「おはようさん、どうしたんや溜め息なんかついて」

【一条】
「……何故家の前にいる?」

【某】
「細かいこと気にすなや、たまには一緒に学校行こうや」

……

【某】
「それで、どうして溜め息ついてたんや?」

【一条】
「いや……昨日のことがな」

【某】
「やろうと思った、また来たみたいやな、もう1人の一条が」

【一条】
「あぁ……」

1日経っても忘れることなどできない。
骨を砕く感触が、鼻をつく異臭が今でも体に染み付いてはなれない。

【某】
「昨日はちぃとばかしタイミングが悪かったな、わいらだけなら良かったんやけど」

【一条】
「あいつにも見られちゃったな……」

あいつとは、当然美織のこと、1度見たことがある2人ならまだ良かった。
しかし、初めてもう1人の俺を、あの惨状を見てしまった美織には耐えられなかったことだろう。
脅えた目で尻餅をついたまま動けなくなった姿がそれを物語っている。

【某】
「それで、美織には全部話す気なんか?」

【一条】
「話すつもりだよ……それでもし美織に嫌われても、それもかまわないさ……」

【某】
「覚悟はできとるんやな……せやけど、その覚悟無駄になるやろうな」

【一条】
「どういうことだよ……?」

【某】
「さあな、後は自分で確かめてみることや」

いつものように裏のある笑みを見せる、今回は一体何をつかんでいるんだよ……

……

時間はあっという間に昼休み、授業中に何度か美織と眼があったけどすぐに逸らしてしまう。

【一条】
「美織ー……」

【某】
「美織なら屋上におるで」

【一条】
「そうなのか? どうして屋上って知ってるんだ?」

【某】
「そんなもんわいが呼び出したからに決まってるやんけ、『屋上で一条が話がある云うてたで』ってな」

【一条】
「……殴って良いですか?」

【某】
「できれば勘弁願いたいもんやな、せやけど結局のところ屋上に呼ぶつもりやったんやろ?」

【一条】
「まぁそうだけど……」

確かにそうだ、授業の合間合間の休み時間では全てを話すには短すぎる、昼休み程度の長さが必要なんだ。
確かにそうなんだけど……なんだか先を見透かされた感じだな。

【某】
「はよ行ったれや、早くせんと美織のやつ怒って帰ってまうで」

帰りはしないだろうけど、怒ることは確実だろうな……

……

ここの屋上も相変わらず人の気配が無い、呼び出された美織の他にいるとすれば水鏡くらい。

一応西側を確かめてみたけど……いないか。

【一条】
「美織がいるのは東側か……いた」

【美織】
「やっほー、呼び出しておいてなんであんたの方が遅いわけ?」

【一条】
「なんと云ったら良いか……原因は廓にあるんだけど」

【美織】
「云い訳はいいわよ、それで、屋上に呼び出してまで話したいことって何?」

【一条】
「云わなくてもわかるんじゃないのか……?」

【美織】
「……」

答えない、どうして美織が答えないのかもおかしいけどそれ以上におかしなことがある。
それは美織の接し方、何故美織は俺と普通に接することができるのだろう?
普通あんな物を見てしまった後は避けるのが普通だろう、廓と二階堂の2人は特殊なのでおいておく。

【美織】
「なんでそんな怖い顔するかな、そんなんじゃ伝えたいことも伝えられないよ、もっとリラックスして」

【一条】
「はは、そうだよな……せっかく覚悟決めてきたのに伝わらないんじゃ意味も無いか」

ふうと一息吐いて気持ちを落ち着ける、何を焦ってたんだろうな……

【美織】
「落ち着いた? それじゃ……どうぞ」

【一条】
「今まで美織に隠していたことを話そうと思ってさ、美織もわかってると思うけど……昨日のことなんだ」

……

【美織】
「……」

【一条】
「信じられないかもしれないけど、これが真実、もっともあんな現場見たら嫌でも信じざるをえないと思うけど……」

美織にも全てを話した、以前も同じことがあった事実、音々に話したように一切の誇張は無い。

【美織】
「そっか……やっぱりそうなんだ」

くるりと背を向けて手擦りに両肘をつく、この後姿が示す物は拒絶かな……

【一条】
「云いたいことは話したよ……美織が俺にどんな態度選んでもかまわない、それじゃ……」

【美織】
「……知ってたよ」

【一条】
「え……?」

【美織】
「もう全部知ってたよ、昨日あいつらに教えてもらったんだ、昨日のマコがなんであったのか……」

再び俺に向き直り、体を手擦りに預けた。

【美織】
「確かにマコがおかしくなった時は驚いたよ。
今まであんな凶暴なマコ見たこと無かったから、驚いて腰が抜けちゃったんだ」

【一条】
「……」

【美織】
「気を失ったマコを病院に運んだ後、全部あいつらが教えてくれたんだ……」

……

【某】
「あれは一条であって一条ではない、体そのものは本人やけど、そこにはあいつの意思が無いんや」

【美織】
「それってどういうことなの……」

【二階堂】
「簡単に云ってしまえばいつもの一条とあの一条は全くの別人格、もう1人の一条と云うのが一番簡単だろう」

【某】
「わいらにもどうしてああなってしまうんかはわからんけど、あの一条がいつもと同じでないことだけは確かや」

【美織】
「あんたたちは怖くないの……突然マコがあんなになっちゃって……」

【某】
「怖いわけあらへんやろ、なんたってあいつはわいらのマブなんやからな」

好青年のような爽やかな笑みを見せる、この笑顔に誰も騙されないんだから世界って良くできてるよね。

【二階堂】
「俺も同意見だ……今まであいつはそのことを1人で悩んでいた。
あいつはとても不安定だ、俺たちが支えてやらないと崩れかねない、それだけ難しい問題だからな」

【某】
「せやで、問題は共に助け合い解決していくのが友達やろ、今わいええことゆうたな」

【二階堂】
「美織にもわかってほしい、あいつが変わってしまうのは何らかの原因があるからだ。
決してあの一条がいつもの一条と同じではないということをな……」

なんかズルイな、男の子って……女のあたしはいっつも仲間はずれだよ。

【美織】
「2人ともマコのこと好きなんだね」

【某】
「云うとくけど、一条に恋愛感情なんかあれへんからな」

【二階堂】
「……そういう意味ではないだろう」

……

【美織】
「最初はあたしも整理がつかなかったの、どうしてマコは一言も相談してくれなかったんだろうって」

【一条】
「それは……」

【美織】
「ううん、いいの……あたしも自分で考えてみたんだ、もしあたしがマコと同じ立場だったらどうするだろうって。
それでわかったの、あたしがマコの立場だったら……たぶんあたしも相談できないだろうなって……」

【美織】
「だけど、きっとマコは話してくれると思った、だって、あなたはあたしじゃなくてマコなんだもん」

【一条】
「なんともわかりにくい云い方をするね……」

【美織】
「そんなのはどうでも良いんだよ、マコがあたしに話してくれた、それであたしは満足だよ。
もし話してくれなかったら一発引っ叩いて絶交になるとこだったんだから」

【一条】
「物騒な話をしな……今なんて云った? 話してくれなかったら絶交?」

ということはだ、美織に全てを話したからには……

【美織】
「そのつもりだったけど、話してくれたからその話はおじゃん、これからもよろしくね」

ニッコリと微笑んでくれた美織の笑顔が眩しい、音々の微笑とはまた違う明るさに満ちた笑顔だ。

【一条】
「なんだか拍子抜けだな、拒絶されるの覚悟で来たのに」

【美織】
「あたしだってそんなに冷たい女じゃないよ、だけどほんっとに某の云った通りになっちゃった」

【一条】
「あいつなんて云ってたんだ?」」

【美織】
「ああそれはね……」

……

【一条】
「というわけなんだよ、あいつはいつもいつも一言多いんだ」

【音々】
「ふふ、それが廓さんらしくて良いじゃないですか」

今日も音々の見舞いに来て、廓の一言多い話を聞かせてみたところだ。

【一条】
「らしいって云えばらしいんだけど、云われた方は少しねぇ……」

【音々】
「あら、誠人さんだって一言多い時がよくありますよ」

【一条】
「俺が? まさか、俺はあいつみたいに茶化すのは好きじゃないよ」

【音々】
「その割には私によく意地悪しますよね、いきなり私に断りもなく抱きついたり」

【一条】
「なっ!」

【音々】
「される方にもそれなりの心の準備がいるんですよ、それなのに誠人さん急にするんですから」

【一条】
「ね、音々さん……あまりその話はしない方が、いつどこで先生が聞いてるともわからないのに」

【音々】
「大丈夫ですよ、まだ検診の時間まではありますし、秋山先生もいきなり現れたりはしませんよ」

だと良いんだけど、あの先生が新藤先生の教え子ってところに一抹の不安がいつもあるんだ……

【音々】
「上手く話を誤魔化せたとか思ってらっしゃいますか? まだまだ私の訴えは続くんですけど」

【一条】
「そんなにたくさん意地悪した記憶も無いんだけど……」

【音々】
「誠人さんが覚えていなくても私にはたくさん覚えがあるんです」

【一条】
「わかったから、俺が悪かったから……何か償いをするよ」

【音々】
「ありがとうございます、それでは……」

【一条】
「お姫様抱っこでもしてあげましょうか?」

【音々】
「まーこーとーさーん」

顔は笑っているのに凄い威圧感、漫画によく書かれる怒った時のマークが浮かんで見える。

【一条】
「すいません……もう云いません……なるべく」

【音々】
「わかれば良いです、償いの件ですけど……クリームパンをまた買ってきて頂けますか」

【一条】
「わかりました、ひとっ走り行って買ってきます」

【音々】
「あ、今じゃなくて結構ですよ、今度誠人さんが寄ってくれた時に持ってきて頂けるのならそれで良いですから」

【一条】
「それで良いのならそうさせてもらうよ」

【音々】
「それじゃ、忘れないように約束をしましょう、ちょっと後ろを向いてもらえますか」

【一条】
「こうか……?」

云われたとおり後ろを向いたけど、これからどうしようっていうんだ?

【音々】
「はい、それではこちらに向き直ってください」

【一条】
「……?」

なんだか訳がわからないまま音々の言葉に従って再び向き直ると……

【音々】
「……」

【一条】
「!」

振り返った先にあったのは、音々の顔、顔という表現は少々違う、正確には唇。
その唇が吸い込まれるように俺の唇と交差を交わす、突然のことに身動きすらとることはできない。

【音々】
「ん……」

【一条】
「ね……音々……?」

【音々】
「ふぅ……先日のお返しです、約束ですよ、これで絶対に忘れませんよね」

頬を紅潮させたままニッコリと笑いかける、なんだかありえないことが起きているんですが……
あれだけ急に事を運ぶなと云っておきながら、今は自わから俺に断りもなくキスをしてきた。

【一条】
「……」

【音々】
「あ、おどろいてらっしゃいますね、やった、誠人さんに仕返しできちゃった」

【一条】
「仕返しをするならもうちょっとマシな仕返しにしてくれないか」

【音々】
「駄目ですよ、こうでもしないと誠人さんはいつまで経ってもわかってくれないと思ったんです」

【一条】
「もう今日のでわかったよ、だけど音々って何気に大胆な子だこと」

【秋山】
「そろそろいいかな、お2人さん」

【2人】
「秋山先生!」

【秋山】
「やあ、検診の時間だから来たんだけど、ちょっとタイミングが悪かったね」

【一条】
「いつからそこに?」

【秋山】
「一条君がぼうっと惚けていた辺りかな」

良かった、そこからだったらキスの場面は見られていないよな……

【音々】
「いえ、特にか、変わったことはありませんでしたよ、そうですよね誠人さん」

【一条】
「ああ……って云った方が良いよな」

【秋山】
「何かあったみたいだね、だけど2人の間に深入りするつもりもないからここで止めておこう。
一応検診のつもりで来たんだけど、もう少し後に回そうか?」

【一条】
「それは悪いですよ、俺はもう帰りますから検診やっちゃってください」

【秋山】
「そうかい? 姫崎君はそれでかまわないかい?」

【音々】
「は……はい、私はどちらでも……」

【一条】
「じゃ、また今度な」

【音々】
「はい、お休みなさいです」

病室を出た後も心臓はドキドキと強く脈打っている、どうしてあの先生は気配を消せるんだろう……?
今日だっていつの間に病室に入っていたのか2人ともわからなかったし。
あなどりがたし秋山、この病院内は案外危険地帯かもしれない……

……

【秋山】
「おや……まだ帰ってなかったんですか?」

【一条】
「あれはただのでまかせです、まだ話したいことがあったもんですから」

【秋山】
「それなら早々に私は立ち去らせてもらうよ、君たちの邪魔はできないからね」

【一条】
「いえ……話したいことがあるのは先生の方ですよ」

【秋山】
「ほぅ……私に話ですか、もしかしてそれは姫崎君と関係がある話ですか?」

【一条】
「……はい」

【秋山】
「そうですか……ここでは立ち入った話もできませんから、私の診察室に行きましょう」

……

【秋山】
「それで……姫崎君に関する何のご用件ですか?」

【一条】
「あいつの体のことなんですけど……あいつはいつごろ退院できるんですか?」

【秋山】
「……」

今まで俺が見てきた秋山先生の顔はいつも笑顔、その顔が初めて眼の前で曇り言葉を失った。

【秋山】
「いつかきっと聞かれると思っていましたよ、彼女の退院日を、だけど、私がそれを伝えることはできません」

【一条】
「どうしてんなんですか、あいつだって退院の日がわかれば嬉しいと思いますけど?」

【秋山】
「退院する日を私が云うことはできない、なぜなら、私が具体的な日を口にすればそれは全て嘘になるからだ」

どういうことだ? 先生の云っていることが全く理解できない、俺の理解力が少ないってのもあるんだろうけど……

【一条】
「それはつまり……どういうことなんですか?」

【秋山】
「まわりくどい云い方は止めよう、姫崎君は……退院できないんだ」

【一条】
「え……? ど、どうしてなんですか!」

【秋山】
「君はいつごろ彼女と知り合ったんですか?」

【一条】
「4月です、こっちに4月に越して学校であったのが初めてです」

【秋山】
「それなら知らなくても当然ですね……今まで彼女がどんな学校生活を送ってきたのか」

【一条】
「何があったのか……教えてもらえますか」

【秋山】
「ちょっと……長くなりますよ」

……

ここに赴任して3年目、新藤先生の教えがあったからこそ私はここまでやってこれた。
最初は1年で移ろうと思ったのに……

【秋山】
「赤宮さんが今日で退院して、私の担当患者もいなくなりましたね」

【看護婦】
「何をしんみりしてるんですか、患者さんは日に日にやってくるんですよ。
これあたらしい担当患者さんのカルテです」

【秋山】
「やれやれ、医者にも休息くらい貰いたいものだね」

【看護婦】
「明日にでもお見えになるらしいですから、ちゃんとカルテの中見ておいてくださいね」

渋々カルテを受け取って中を眺めてみる、この瞬間が一番大変だが、一番楽しみでもあったりする。
今度は一体どんな患者さんにめぐり合えるのか……

【秋山】
「ほう……先天性の虚弱心臓か、私にとって初めての患者さんですね」

【看護婦】
「手術無しの通院患者さんですからね、だからって手を抜かないでくださいよ」

【秋山】
「私はいつだって手は抜きませんよ、患者さんの名前は……」

カルテに書かれていた名前は『姫崎 音々』
これが私が姫崎君を知った最初でした。

……

【秋山】
「初めまして、これから君の担当医になる秋山です、よろしく」

【音々】
「姫崎 音々です、よろしくお願いします」

初対面の印象はお淑やかで、礼儀正しい良いところのお嬢様といった感じだった。
実際良家の少女だったわけだけど。

【秋山】
「早速で悪いんだけど、レントゲンを撮らせてもらってもかまわないかい?」

【音々】
「わかりました」

……

バシャバシャと撮影機がやかましい音をたてながら少女の胸部内部を撮影する。
ここに来る前にもいくつかの病院で診察したことが記述されていたので、基本的にレントゲンは必要無い。
レントゲン撮影は一種の恒例行事だ、カルテには軽度の肺動脈狭窄症と書かれているが軽度なら何もする必要など無い。

【秋山】
「はい、これで終わりです、色々と調べる必要がありますから今日はこれまでですね」

ありがとうございましたと頭を下げて少女は去っていった、最後まで礼儀正しい子だな。

……

夕暮れ時、書類の整理を終えて軽く伸びをしていると看護婦が茶封筒を持って現れる。

【看護婦】
「レントゲン写真が現像終わりましたのでお持ちしました、次の診察日までには見ておいてくださいね」

【秋山】
「まだ時間もありますからすぐに見せてもらいますよ、ありがとうございます」

どういたしましてと残して看護婦は立ち去った。
暗幕を下ろして部屋の電気を切り、でき上がった写真をスクリーンに貼り付ける。

記入してあった軽度の肺動脈狭窄症が見つかるだけだろうと思ってスクリーンに電源を入れると……

【秋山】
「……これは……」

レントゲン写真を見て絶句、確かに先天性の肺動脈狭窄症は存在した。
しかし、それ以上に奇妙なことがこの写真には映し出されている、それは心臓の形にあった。
撮影した写真は全部で6枚、その中の4枚は正常に映し出されて心臓を確認できるのだけど……

【秋山】
「どうしてだ……どうしてこの心臓……ブレが生じているんだ」

周りの骨格は綺麗にくっきりと写っているのに、心臓の部分がまるで揺らしたかのようにぼやけて写っている。
今までこんな写真は見たことがない、発作でも起きているのかとも思ったが彼女にそんな様子はなかったし、発作ではこうはならない。
だとするとこれはなんなのだろうか? 撮影機の故障……

ありえない、撮影番号2、5枚目の写真だけぶれるはずはない

【秋山】
「どうしてこのことがカルテには一切記入されていないんだ?」

今まで見た医学書にこのような写真は載っていなかった、これは真っ先にカルテに書かれる最重要部ではないのだろうか?
考えられるのは今までの医者には発見できなかったか、もしくはわかっていたがあえて記入しないで見過ごしてきたか。

【秋山】
「……」

たぶん前者だろう、後者は情報が漏洩した場合病院内全体の名誉を傷つけかねないので考えづらい。
彼女の心臓にあるのは肺動脈狭窄症などではない、これまで誰も見たことがなかった異常心臓。
突発的に起こる心臓のブレ、たぶん心臓自身が震えている、これは紛れもない未発見の奇病だ……

【秋山】
「なるほど……彼女はたらい回しにされてきたって訳ですか……」

誰にも発見されない奇病だったから医者は匙を投げた、それを偶然にも私が発見してしまった。
映し出されたレントゲン写真を見て、溜め息をつくことしか私にはできなかった。

……

今日は彼女が検診に訪れる日、私は悩んでいた、今まで誰にも知らされなかった事実を話すかどうか。
話されたことで彼女はどう感じるだろう、今まで誰も経験のない奇病と聞いて彼女はどう思うだろう。

悩んでも刻一刻と時計の針は進んでいった……

【音々】
「お久しぶりです」

【秋山】
「久しぶり、体の方は何か問題でもありましたか?」

【音々】
「いえ、特には何も」

【秋山】
「そうですか……前回撮影したレントゲンの結果が出ています……」

云うべきか云わざるべきか、私にとって人生最大の決断でした……

【秋山】
「驚かずに聞いてください、貴女の心臓には少しだけ問題があります。
それも、肺動脈狭窄症などではないもっと別の問題が……」

【音々】
「別の問題……ですか?」

この反応からするとやはり何も知らないようだ、私が初めて伝えるわけか……

【秋山】
「君の心臓はある病気に侵されています、それも、今まで誰も遭遇したことのない奇病にね」

【音々】
「え……」

眼を丸くして驚く彼女に、彼女の心臓に起きている全てを話した。
レントゲン写真が異常なこと、今まで前例の無い稀な症状であること、それから……この病気の具体的治療法がわからないこと。

【音々】
「そ、そんな……」

【秋山】
「私はまだ医者としては半人前だ、患者さんに全てを伝えることが良いことなのかはわからない。
だけど、私には黙っていることなどできなかった……」

苦渋の選択だった、知らせることで彼女が傷つくのはわかりきっていた。
しかし、私は医者として患者に嘘を伝えることはできなかったんだ……

【音々】
「私の体……もう治らないんだ……」

【秋山】
「駄目かどうかはまだわからない、君の奇病を詳しく知るためにも君の力を借りたい。
辛いのは重々承知だが、これから私が出す質問に答えてもらえないか……」

【音々】
「……はい」

彼女の声に力はない、当然といえば当然だろうな……

……

彼女の話でわかったことは、時折心臓が激しく動悸を始めるらしく、そのつど心臓に激しい痛みが走るらしい。
その痛みも、心臓の動悸をしずめる薬を飲むことで治まるらしい。
これは最初の病院で伝えられたらしいのだが、心臓の異変まではわからなかったようだ。

【秋山】
「難しい病気だ……今のところ対処法は薬に頼るしかないのか……」

【音々】
「先生……」

【秋山】
「どうかしたかい?」

【音々】
「私……これからどうなるんですか? もう二度と良くはならないんですか……?」

【秋山】
「まだなんとも云えないよ、不用意な発言は君を傷つけかねないしね」

【音々】
「お願いします……私の体治してください、そうでないと……」

何か秘めている願いがあるのだろう、彼女の眼を見ていればその真剣さは伝わってくる。

【秋山】
「医者としては入院を勧めたい、今までは薬で済まされてきたかもしれないけどいつ何が起こるともわからないね」

【音々】
「それなんですけど……毎週通院するだけじゃ駄目ですか、今までそれでも大丈夫でしたから」

【秋山】
「今までは今までこれからはこれからなんですよ。
前は心臓の異常を発見できなかったから医者にはどうもできなかった。
だけど、心臓の異常が発見された今、入院してもらって詳しく調べた方が良いと思いますが……」

【音々】
「だけど、さっき先生もおっしゃったじゃないですか、治療法がわからないって。
それでしたら、毎日私がいる必要は無いのではないでしょうか?」

話しているうちになんとなくわかってくる、この子は入院を拒絶している……

【秋山】
「確かに毎日毎日君の体や体調を事細かに調べる必要はありませんが、良いんですか、何か起こった後では遅いんですよ?」

【音々】
「覚悟はできています……」

彼女の眼に宿るのは信念、この眼差しは決して私の言葉では揺るがないだろう。

【秋山】
「わかりました、病院側に強制入院させる権利はありませんからね。
その代わり、毎週必ず一度は検診に訪れてください、それから何かあったら必ず私に一報よこすと約束していただけますか」

【音々】
「はい」

何故そこまで入院を拒絶するのか、今の私に知る術はなかった。

……

それから毎週の欠かさず彼女は検診に訪れている。
軽い発作症状が起こることがあるがその程度、薬で治まるから大丈夫だと云う。
私もそれから毎日彼女のレントゲンを細かく調べ、検診日に何度かレントゲンを撮って比べているうちに1つわかったことがある

彼女の心臓は常時、一定の確率で小さな震えを生み出している。
その震えが起こるのは一瞬、それなら何の問題も無いのだがその震えが続いてしまうと発作症状へと変わる。
わかったのはそれだけ、いくら調べても誰に聞いてもこの病気が何であるのかはわからなかった。

解決策が浮かばないまま時間は流れて、あれは12月も下旬に入り始めたころ、姫崎君が倒れたと連絡が入りました。

【秋山】
「恐れていたことが現実になりましたね」

【音々】
「……はい」

【秋山】
「それで、どうして倒れたんです、薬は飲まなかったんですか?」

【音々】
「勿論飲みました……ですが、今回のは中々治まってくれなくて」

【秋山】
「治まってくれなかった、ですか……」

彼女が薬に頼っていると聞いた時から嫌な予感がしていた、いつかこうなるのではないかと。
何故治まってくれなかったのか、考えられるのは病気が進行したか、あるいは薬が効かなくなってきているか……
どちらにせよ、彼女の体に危険が近づいていることは変わらない。

【秋山】
「理由はどうであれ、君の体が危険にさらされているのに違いはありません、今度こそ私は入院を勧めます」

【音々】
「……1つ聞かせてください……入院したら、もう学校へは行けないんですか?」

【秋山】
「これからの詳しい検査と体の養生を考えても、行くのは難しいですね」

【音々】
「そうですか……せっかく、ここまでがんばってきたのにな……」

彼女の声が暗さを帯び、うつむいた頭が彼女の心境を物語っている。
やはり彼女は入院を快く思っていない、誰でも入院は嫌だろうが命に関わる場合でも拒絶をするだろうか?

【秋山】
「よろしかったら話してもらえますか、君がどうしてそこまで入院を毛嫌いするのか……」

【音々】
「……」

言葉は無かった、教える気は無いのだろう。
誰にも知られたくないことの1つや2つあるだろうな。

【音々】
「今まで……一度もなかったんです」

【秋山】
「……え?」

【音々】
「今まで一度も、1年間通して学校に行ったことがなかったんです……」

重い口を開き彼女が語ってくれたこと、それは自分が今までこの体のおかげでできなかった彼女の想い。
学校に行っても発作が起きればすぐに入院させられ、それ以降学校へ行くことは許されなかった。
これまでの学校生活は入院と退院の繰り返し、彼女の中では学校よりも病院生活の方が長い。

【音々】
「初めてなんです、こんなに長い間学校に通えたのは……だけど、また今回も駄目なんですね」

彼女の眼からポロポロと涙がこぼれ始めた、それもそのはず。
今まで決してできなかったことに手が届き、終わりが見えたと思ったらあっけなく手を振り払われて。
きっと彼女にとって、1年間通して学校へ行くことは自分にとっての夢であり目標なんだろう……

【音々】
「今回はできると思ったのに……やっぱり、私には無理なんですね……」

涙を流し続ける少女にかける言葉はみつからない……みつからないんじゃない、初めから無いんだ。
少女に言葉をかければ、それは少女の気持ちへ土足で踏み込むことになってしまうから……
私にできることは、泣き続ける少女の姿をただ見続けるだけだった……

……

彼女は入院生活を始め、1ヶ月が過ぎ去ったころ彼女にこんなことを云われた。

【音々】
「先生……私を、学校へ戻していただけませんか?」

【秋山】
「何を云っているんだい、もしまた体に異変が起きたらどうするんだい」

【音々】
「そう云われましても、この1ヶ月間体に何も異変は起きていません。
これなら学校へ戻っても大丈夫なのではありませんか……」

一刻も早く学校への復帰を望んでいる、彼女にとって入院は意味を成さない。
一向に良くならない心臓を抱えたまま、彼女には病院という物そのものが時間の牢獄となっているんだろう。

【秋山】
「ここで私が退院を了承して、その後、姫崎君がまた倒れたらどうするんですか?」

【音々】
「前にも云いましたとおり、私には覚悟はできていますから……」

彼女の真剣な眼差し、彼女のことを思うなら、答えはもう決まっている……

【秋山】
「それは……できません」

【音々】
「どうしてなんですか……」

【秋山】
「私が医者であるから……医者は命の重さを一番良く知っています。
だからこそ、君の命に危険があるうちは君の意見を尊重することはできません……」

【音々】
「……」

【秋山】
「後2月、後2月体に何の異常も無いようなら……私は退院を認めます」

これが私にできる精一杯のことだった……

……

【秋山】
「その後、姫崎君の体に異変は無く、退院の許可を出したというわけですよ」

まさか音々にそんな事情があったなんて、今まで知ることのなかった音々の過去を知って言葉が出ない。

【秋山】
「それから順調に生活していると思ったんですが……先日また再発してしまいましたね」

【一条】
「……」

【秋山】
「彼女にとっては最後のチャンスだったんですよ、そのチャンスさえも神は認めてくれなかった……」

【一条】
「最後のチャンスってどういうことなんですか?」

【秋山】
「以前発作が治まらなかったことは話しましたね、どうやらその原因は姫崎君自身にあるんです」

【一条】
「音々自身に……ですか?」

【秋山】
「発作が治まらなかったのは病気が進行したからじゃない、彼女の成長のせいなんです。
彼女が成長したから薬は徐々に効力を示さなくなった、今はまだ効き目があるから良いですけど。
そのうち薬は一切効かない状況になってしまうんです……」

【一条】
「ちょ、ちょっと待ってください、それって……」

成長と共に薬は効かなくなる、成長を止めることは不可能、だとしたら音々の未来は……

【秋山】
「薬が効かなくなった時、それは彼女にとって死を意味します」

【一条】
「そんな、そんなのってありますか、あいつはもう死ぬしかないって云うんですか!」

【秋山】
「このままいけば、避けることは不可能でしょうね……ですから彼女にもこれが最後のチャンスと云ったんです。
薬が効いている今が最後のチャンスだと、もしもう一度倒れるようなことがあればすぐに病院に戻ると。
発作の原因がわからない今あらゆる手は尽くすつもりですが、たぶん無意味でしょう……」

【一条】
「医者がそんなに簡単に諦めて良いんですか! あいつが助かる手段は本当にもう無いんですか!」

思わず声を荒げてしまった、先生が悪いんじゃないとわかっているが、先生に気持ちをぶつけないと俺には耐えることができなかった。

【一条】
「すいません……先生は何も悪くないのに、熱くなってしまって」

【秋山】
「気にすることではないですよ、姫崎君の恋人としてその反応は当然のことですから。
確かにこのままでは彼女が生き続けることは不可能です、このままではもって3、4年。
そのうちに必ず彼女の体は薬の効かない体になってしまいます」

【一条】
「後3、4年……」

その数年を音々はどんな思いで過ごすのだろう?
忍び寄る死に怯えながら毎日を過ごすのは耐えがたい苦痛だ。
残された月日を俺はどれだけ音々と共に過ごすことはできるのだろうか、考えるだけで悲しくなってくるよ……

【秋山】
「だけど1つだけ、1つだけ彼女を助けられる手段が残されているんだ」

【一条】
「……心臓移植のことですか?」

【秋山】
「よくご存知ですね、元から治らない心臓を治すことは不可能、だとしたらその物の変換……心臓移植しかありません」

【一条】
「移植すれば音々の発作はなくなるんですか?」

【秋山】
「なくなるよ、それが彼女に残された最後の可能性……しかし、彼女は移植を望んでいないんだ」

そうだった、以前保健室の先生も同じようなことを云っていた。

【一条】
「ど、どうしてなんですか、それしかもう残されていないのにどうして……」

【秋山】
「7パーセント……」

【一条】
「え……?」

【秋山】
「心臓移植はきわめて成功率が難しい手術なんだ、まず彼女にあった心臓をみつけるだけ確立は半分以下になってしまう。
仮に移植する心臓が見つかったとしても、その心臓が姫崎君の中で反発反応を起こす可能性もある。
他にも彼女は極めて心臓が弱い、移植手術に耐えられるかも疑問だ……」

【秋山】
「それら全ての可能性の考えると、手術の成功率は僅か7パーセントしかないんだ。
移植手術は成功率50パーセントを切ったらもうほとんど成功しない、50パーセントでも成功したら奇跡なんだ。
それが7パーセントとあっては……自ら死を選ぶのと同じだ」

【一条】
「でも、何もしなかったら確実にあいつは死んでしまうんでしょう?
だったら少しでも可能性のある方にかけるんじゃないんですか?」

【秋山】
「こればっかりは彼女次第だ、私にはそんな選択肢もあるとしか云えないんだよ。
彼女が残された可能性にかけるのか、決めるのは全て彼女なんだから……」

確実な死か、9割方確定された死か、そのどちらしか音々には残されていないんだ……

……

ベッドの上で寝ていると音々の顔が思い浮かんだ。
あのいつも柔らかく微笑む音々にあんな辛い現実が隠されていたなんて……
微笑む音々の顔にどこか暗さと悲しさを感じたのはそのせいだったんだ……

【一条】
「あいつも……悩んでいたんだ……」

あいつは辛いはずなのに、いつも自分の辛さを押さえ込んで俺の心配をしてくれた。
そんな優しい彼女の命は後数年、後数年で彼女の命はついえてしまう……

俺には何もすることができないのか、音々が苦しむ姿を見ることしかできないのだろうか……?





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