【4月18日(金)】


目覚まし時計のやかましい音に眼を覚ます。
あまり余裕を持って行動できる時間ではないのだが、今日は急ぐ気にならない。
水を入れたポットを火にかけて、お湯が沸くまでの間洗面所で手入れをする。

歯をみがいて顔を洗い、戻ってきたころには水もお湯へと変わっていた。
ティーポットに茶葉をいれ、そこに沸騰したお湯を注ぐ。
茶葉が開くまでの時間に着替えも済ませておく。

着替えを済ませ、十分に茶葉が開いたところでカップに注ぐ。
白い湯気と共にアッサムのクセのない芳香が部屋の中に充満する。

【一条】
「たまにはミルクティーにでもするか」

とはいっても最初からそのつもりでお湯はかなり熱めにしておいた。
熱々のアッサムに牛乳を適量加える、薄い茶色から琥珀色へと紅茶が色を変えた。

【一条】
「ミルクティーは滅多に飲まないけど、さてさてお味の方は?」

紅茶を口に含む、クセのないアッサムの味と香り、悪く言えば特徴が無い紅茶。
そこに牛乳が入ることによってアッサムは力を発揮する。
ダージリンやディンブラだと紅茶と牛乳が反発することも少なくない。
ミルクティーはアールグレイと思っていたが、アッサムも悪くないな。
結論としては、十分に美味い。

【一条】
「ふぅ……こんなにゆっくりと紅茶を飲むのも久しぶりだな……」

本当に、最近はゆっくりと時間を過ごす暇も無かった。
水鏡のこと、あの男のこと、それから、もう1人の俺のこと……
中でも一番大きいのはもう1人の俺のこと、あいつの存在が俺を不安に駆り立てる。
昨日だって、あいつは目を覚まそうとした、しかも、よりによって音々の眼の前で。
あの時あの場所には俺と音々の2人しかいなかった、あそこで俺が変わってしまったら。
考えるだけでも……止めよう、今は俺なんだ、今の俺にそんなことを考える必要性は無い。

【一条】
「そろそろホームルームも始まる時間だな……」

ぼんやりと眺めた時計の針は8時20分、これから出ても当然遅刻扱いされるだろう。
だけどこの家にいても何も始まらない、俺は紅茶を飲み干して家を出た。

……

ガタガタと揺れる電車の中、そこから見える景色は先週の日曜と同じもの。
学校に行く気は元々無かった、そうでなかったら普段着になんか着替えない。

【一条】
「はぁ……」

溜め息ばかり出てしまう、俺に残された道ってなんなのだろう?
自分ではわからないから助言を求めるために電車に乗った、当然あの人に会うために。

……

降り立った駅から真っ直ぐに目的地を目指す、もう俺に頼ることができるのはあの人しかいない。
歩き続け、目的の建物が見えてきた、白く塗り固められた「南城ヶ崎総合病院」の建物が。

【受付】
「こんにちは……あら? 一条さん?」

【一条】
「どうも、新藤先生はいらっしゃいますか?」

【受付】
「ええ、たぶんいつもの所にいると思うけど、今日学校は?」

【一条】
「ありがとうございました」

先生があそこにいるという証言だけでよかった、質問にも答えずに先生の部屋を目指す。

……

【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

病院内を普通に走った、幸い看護婦さんに見つからなかったからお咎め無しだ。
先生の根城である第二診察室の扉をコンコンとノックする。

【新藤】
「開いてますよ、どうぞ」

【一条】
「失礼します」

【新藤】
「どうやら、受付が云っていたことは本当だったようだね、一条君」

俺の姿を確認する前に先生は来客の正体を当てた、先生は椅子に座って机の方を向いている。
診察室の雰囲気がいつもと違う、いつもはどっちかというと新藤先生の部屋って感じがしたんだけど……

【新藤】
「今日は平日、普通なら学校がある日じゃないのかね?」

【一条】
「学校に行くのは……もう、駄目かもしれません」

【新藤】
「何を云っているんだ? まぁ、とりあえずそこらに腰をかけていてくれたまえ」

そういうと先生はいつものようにお茶を淹れに席を外した。
部屋を見渡すと、いつもは存在感の大きかったあの置時計が無くなっていることに気が付いた、一体どこに?

【新藤】
「お待たせ、あいにく今日はミルクを切らしていてね、ブラックで我慢してくれるかい?」

【一条】
「あ、すいません、何もお構いなく」

【新藤】
「それで、学校をサボってまで私のところに来るなんて、何があったんだね?」

【一条】
「……もし、先生の知り合いが先生に危害を加えたら、先生はどうしますか?」

【新藤】
「また急だね……そうだな、私だったら……どうするだろうね?」

軽く流されてしまう、先生に質問をするといつもこんなだな。

【新藤】
「一条君、話の先が見えてこないんだが……一体そこから何を得ようというんだい?」

【一条】
「……」

黙ってコーヒーに視線を落とす、このコーヒーのように一寸先はまったくの暗闇だ。

【一条】
「先生は……人の骨を折ったことはありますか?」

【新藤】
「ほぅ……そんな質問をするということは、君は折ったことがあるんだね?」

【一条】
「……はい」

【新藤】
「そうか……しかし、信じられないな、君が他人の骨を折るなんて」

【一条】
「自分でも信じたくないですよ……だけど、俺はこの手で、人の骨を折ったんです、この手で……」

じっと眺めた手はいつもと変わらない手、しかし、一皮剥けばこの手は血に染まったあの時の手に。
今はもう血の匂いなんかしないはずなのに、俺の鼻には鉄臭いあの匂いが染み付いて離れない。

【新藤】
「君が云うんだから真実なんだろうな、だけど私にはどうしても君と行為が結びつかないんだ。
もし君が良かったら、何があったのか話してもらえないか?」

【一条】
「わかりました……その前に1つ教えてもらいたいんです。
その……人は突如として凶暴な性格になったりするんですか?」

【新藤】
「多重性格者だとしたら考えられなくも無い話だね、しかしなんで君がそんなことを?」

【一条】
「……」

【新藤】
「もしかして、君は自分を多重人格者だとでも思っているのかい?」

【一条】
「可能性は限りなく高いと思いますよ……」

【新藤】
「これはちょっといただけない話だな、詳しく話してもらえるか?」

……

【新藤】
「……」

【一条】
「これが、俺の身に起きた異変です……」

【新藤】
「なるほど……それでさっき君は危害を加えたらとか多重人格だとかを聞いてきたわけだ」

先生は一旦言葉を切るとコーヒーに口をつけた。

【一条】
「疑う余地も無いでしょう……俺は最低な人間なんですよ」

【新藤】
「私に云わせてもらえれば、君が多重人格者である可能性は極めて低いと思えるがね」

【一条】
「ど……どうしてですか、現に俺は人を傷つけているんですよ!」

【新藤】
「まあまあ落ちつきたまえ、確かに君の云うような症状が人格障害の中に無いわけじゃない。
数分前まで普通だったのに急に感情が豹変する、親しい人物でさえ忘れてしまうような障害がね」

【一条】
「だったら……俺はそれと同じなんじゃ」

【新藤】
「同じじゃないんだよ、君は1つ大きな見落としをしている。
もしくは、人格障害に対する知識を持っていなかったかのどちらかだね」

【一条】
「見落とし? 知識が無い?」

【新藤】
「人格変動のサイクルは思っているよりずっと早いんだよ。
短くて2、3日のうちに、長くても4、5日中に人格は変動するものなんだ。
そこに君自身を当てはめてみると、ありえない矛盾点が生まれていることに気付いているかな?」

【一条】
「長くても4、5日って……あ!」

【新藤】
「気が付いたようだね、そう、君がここに入院していた間の時間、3ヶ月弱。
その期間の中で、1度でも君の人格が変わったことはあったかな?」

思い起こしてみても入院中にもう1人の俺が現れた記憶はない
ということは、俺は多重人格者ではないということなのか?

【新藤】
「そこまで長い期間の中で人格が1度も変わらないわけが無い
そうでなければ、その人は多重人格者ではないということになるね」

【一条】
「ですが……だったらなぜ、俺は……」

【新藤】
「そこが難しいところだね……」

ずずっと残りのコーヒーを飲み干した、俺のカップにはまだ口をつけていない冷え切ったコーヒーが並々と残っている。

【新藤】
「原因や病名は分からないが、1つだけ確かなことがある。
今私と話している君と、人を傷つけて快楽を求めるもう1人の君がイコールでは結びつかないということだけだね」

【一条】
「新藤……先生……」

【新藤】
「しかし、なんで今まで黙っていたんだい? 私でよければいつでも話を聞かせてもらったのに」

【一条】
「いや……いつでもって云われても毎日学校ありますし」

【新藤】
「今ここで学校をサボっている君の科白とは思えないね」

【一条】
「あ、あはは……」

痛いところをつくなぁ、だけど、今日新藤先生に会いに来たのは間違いじゃなかった。

【新藤】
「さてと、ひとまず君の疑問も解決したことだし、少し私の方を手伝ってもらおうかな」

【一条】
「手伝うって、何をするんですか?」

【新藤】
「この時期にすることなんて決まってるじゃないか、あっちの病院に移る前の大掃除だよ」

ああそうか、それであの置時計が無くなってたんだ。

【一条】
「俺は何を手伝えば良いんですか?」

【新藤】
「とりあえず医学書のまとめは私がやるから、君はそこの物をダンボールに詰めてもらえるかな」

【一条】
「了解です」

……

【一条】
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

なんなんだこの荷物の量は、すでにダンボールは4箱を越えているのに、まだ荷物は半分以上残っている。

【新藤】
「いやぁ助かるよ、私1人じゃ終わる兆しも無かったからね」

疲れている俺とは対照的に、新藤先生は疲れなどどこ吹く風と云わん笑顔で医学書を束ねている。
その医学書も半端じゃない量、下手したら古本屋でも開けるような量があるんですけど……

【一条】
「これ、全部持っていくつもりですか……?」

【新藤】
「当然、機材も医学書も全て私の分身だからね。
ここで捨ててしまったら私を捨てることと同じことになるじゃないか」

【一条】
「その気持ちはわかりますけど、いくらなんでも多すぎじゃ……」

次の病院の診察室の大きさは知らないが、もしこれが全部入ったとしたらそこはもう先生の部屋と変わらなくなるな。

【新藤】
「はは、今度の診察室もここと同じくらいの大きさだからね、寸法も測ってあるから大丈夫なんだよ」

【一条】
「よ、用意が良いですね……」

決定、新しい診察室は以前と変わらない先生の城になることは確定だ。

……

【一条】
「お……終わりました……」

【新藤】
「私の方もこれで全部だよ、いやあ見る影も無いくらい普通の部屋になってしまったね」

そこには本来あるべき診察室の光景が広がっている。
新藤先生の荷物はダンボールにして10箱(医学書の数は入れず)
医学書をダンボールに入れたら……考えるだけでも嫌になる。

【新藤】
「時間はもうすぐ昼時か、一条君も食堂に行かないかい?」

【一条】
「当然先生のおごりですよね?」

【新藤】
「そうくると思ったよ、手伝ってもらったお礼に、今日は私持ちでかまわんよ」

【一条】
「さすが先生、話がわかりますね、そうと決まれば飯行きますか」

わーい、ただ飯、ただ飯ー。

……

屋上の澄み渡る空の下、奏でられるのはオカリナの音色。
食後に先生がオカリナを聞きたいと云うので屋上に来て吹いている。
もうこの屋上でオカリナを吹くことも無いんだろうな……

オカリナの音が止むと、後方から小さくパチパチと拍手の音が聞こえる。

【新藤】
「無理を云ってすまなかったね、もうここで君のオカリナを聞けないと思ったら最後に聞いておきたくてね」

【一条】
「オカリナくらい今度の病院でも聞けると思いますよ」

【新藤】
「あことここじゃ君との時間がまったく違うだろ、あそこで聞くのとここで聞くのでは思い入れが全然違うんだよ」

【一条】
「それも、そうですね……そうだ、先生は俺のオカリナ、どんな風に感じましたか?」

【新藤】
「どんな風にと云われてもね、私にはすでに君の先入観があるから明確に答えるのは不可能だよ。
君のオカリナを聞いたことが無い人の前で聞かせて、回答を得るほうが確実だと思うがね」

【一条】
「それじゃあ先入観がある状態の先生には、どんな風に聞こえますか?」

【新藤】
「そうだねぇ……私の君に対する先入観は「不安」なんだ。
ここで意識を取り戻した君に待っていたのは記憶喪失の現実、記憶を取り戻そうと君は出口の無い迷路を彷徨っている、不安に脅えながらね。
その不安を和らげているのが君のオカリナ、云ってみれば洞窟を照らし出す松明かな」

【一条】
「……」

【新藤】
「オカリナは君と記憶を繋げるための、いわば鍵の役割だね。
その鍵も鍵穴を求めて迷路を彷徨っている、君のオカリナの音は、私には出口を求めて彷徨っているように聞こえるね」

【一条】
「また難しい表現をしましたね」

【新藤】
「私もそう思うよ、一体どう解釈すれば良いんだろうね?」

2人の笑い声がこだまする、新藤先生らしい応え方だな。

……

【一条】
「今日は色々とありがとうございました」

玄関まで先生が見送りに来てくれた、その横にはいつもの受付のお姉さんも一緒だ。

【受付】
「これからお2人とは会えないんですね、なんだか寂しいです」

【一条】
「そんなのお姉さんらしくないですよ、俺はお姉さんがしょげてる顔は見たくありませんから。
いつもみたいに笑顔でいてくださいよ」

【受付】
「あら、それってもしかしてあたしが気に入っちゃったってこと?」

【一条】
「そういうわけじゃ……いや、そういうわけですね」

【受付】
「嬉しーぃー!」

ギュムゥー

いきなり抱きつかれた、この人ってこんなに大胆だっけ?

【一条】
「ちょ、ちょっと、人が見てるじゃないですか」

【受付】
「新藤先生だけね、だけど最後なんだもん、抱擁ぐらいしても良いじゃない」

うわぁ……お姉さんって胸大きかったんだ。

【新藤】
「こらこら、君も少しは周囲の眼を気にしないか」

【受付】
「ちぇー、せっかくボーイフレンドができると思ったのに」

【新藤】
「残念ながら、一条君にはもうそういった人がいるんだよ、諦めなさい」

【一条】
「……は?!」

【受付】
「えぇー! 一条さんそうなの?」

【一条】
「ちょっと何を云ってるんですか、俺には彼女なんていませんよ」

【新藤】
「おや、以前あちらの病院で見た女の子は一条君の彼女じゃないのかい?」

【一条】
「ち……違いますよ、あいつとは親しい友人なだけです」

【受付】
「うふふ、友人から発展する恋が一番多いのよ」

【新藤】
「ふふふ……まぁ、そういうことにしておこうか」

そういうことにしないでください! 俺と音々じゃつり合うわけないんだから。

【一条】
「まったく……それじゃ、そろそろ失礼しますね」

【新藤】
「また次の病院で、気を付けて帰るんですよ」

【受付】
「彼女によろしくねー」

【一条】
「だから違いますって!!!」

……

再び電車に揺られて桃瀬の街へと帰ってきた。
腕時計に視線を落とすと、時間はまだ1時半をまわった辺り。
先生の助言のおかげで俺は俺自身に潰されずに済んだ、決してイコールで結べない2人の俺。
まだ謎は解けていないが、俺は自分と正面から向き合う覚悟ができた。

【一条】
「ありがとうございます、新藤先生……」

だけど、今日はこれからどうしよう。
学校に行っても意味はないし、街をぶらぶらする気分でもない。
こんな時はやっぱり……あそこしかないか。

……

足が向いた先は川原、何もすることがない時はここに来るのが一番の暇つぶしになる。
視界が開けると広がる川の音と流れる風の音だけが耳へと入ってくる、この静けさが心を落ち着けるんだ。

【一条】
「せっかくだから今日も寝ていくか」

寝るのにちょうど良い斜面を探していると、ある一角に眼が止まった。

【一条】
「あれは……今日は先客ありか……」

いつもは誰もいないはずの川原に今日は先客がいた、斜面にくったりと寝そべって気持ち良さそうに寝ている。

【一条】
「無防備だねぇ……」

一体どんなやつが寝ているんだろう? ちょっとした好奇心で寝ている人物を確認してみた。

……
……は?

【一条】
「おいおい……まじかよ……」

寝ている人物の顔を確認すると、それは俺が良く知った人物の顔。
以前、俺と一緒に川原で眠りこけてしまった音々の姿があった。

【音々】
「すぅ……すぅ……」

陽光に照らされて気持ち良さそうに眠っている、しかしなんでこんなところに音々が?
今日は平日、学校は普通にあったはずなのに……

【一条】
「起こした方が良いのか……?」

女の子なんだし、こんなところで寝ているのを見られたら恥ずかしいよな。
それに音々はお嬢様なんだから、地べたにごろ寝なんてしちゃ駄目だろ。

だけど……どうやって起こしたら良いんだよ?
水をかけるとか肩を揺するとか、耳元でヒステリックに叫ぶとか方法は色々あるけど。

【音々】
「すぅ……すぅ……」

駄目だ、どの方法も音々が起きた時に不快感を与えるものばっかりだ。
このお姫様のような寝顔を崩さないように起こす手はないのかよ……

【一条】
「……止めよう」

俺が側についていれば特に問題無いよな、下手に起こさないで起きるのを待とう。
猫のようにくぅくぅと寝ている音々の横に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。

……

【音々】
「ぅ……ん、うんん……」

薄っすらと音々の眼が開いた、どうやら眼が覚めるみたいだ。

【一条】
「おはよう、といってももうそんな時間じゃないか」

【音々】
「あれ……誠人さん……?……」

寝惚け眼をこしこし擦りながらぼんやりと起き上がる、これがまたかわいらしい。

【音々】
「おひゃようございます……どうしたんですかこんなところで?」

【一条】
「それはこっちの科白だよ、どうして川原で寝てたんだよ?」

【音々】
「川原でぇ?……ふなぁ!」

いきなり眼の色が変わる、まるで悪いことをしていたのを見つかった子供のような眼だ。

【音々】
「はわわわわわ! どうしましょう、私眠っちゃいました!」

【一条】
「それは知ってるよ、俺が知りたいのはどうしてここで寝てたかってことなんだけど」

【音々】
「それは……その……」

もじもじしながらなんだか云いづらそうにしている、もしかしてサボってきたのか?
先日音々をサボらせたのがまずかったか、となると全責任は俺にあるわけで……美織に殴られる……

【音々】
「学校に行ったら誠人さん来てなかったんで、怒ってるかと思って」

【一条】
「怒るって何がさ? 俺何かされたっけ?」

【音々】
「昨日私が余計なことを云い過ぎたせいで、怒ってしまわれたんではないのですか?」

そういえば、昨日音々と小さな喧嘩みたいなことをやったな、ころっと忘れてた。

【音々】
「それで学校には来ないと思って、ここで待っていれば誠人さんが来るんじゃないかと。
朝から待ってたんですけど、ついうとうとしてしまって」

【一条】
「朝からって、朝から今までずっと!」

今まで気にしなかったが、音々は制服を着ている。
一度学校に行ってから川原に来て、それからずっとここにいたんだろう。

【一条】
「呆れた……」

【音々】
「どう思われても結構です、私は誠人さんを傷付けてしまったんですから。
誠人さんが来ていただけるまで、ずっと待っているつもりでした」

こんなどうしようもない男を、この少女は朝からずっと待っていたというのか、一体何故?

【音々】
「どうしても伝えたかったことがあるんです……」

【一条】
「どうしても……伝えたかったこと?」

一瞬にして、音々の眼が真剣な眼差しに変わる、よほど重大な話なのか?

【音々】
「先日は……ごめんなさい」

【一条】
「……は?」

【音々】
「どうしても私の口から謝っておきたかったんです、誠人さんが許していただけるかどうかは分かりませんが。
こうでもしないと私の気持ちが治まらなかったので……」

凄い拍子抜け、あの眼差しからどんな重大なことを云われるのかと思ったら、謝罪の言葉ですか。

【一条】
「ぷ……くくく……ははははは」

張り詰めた緊張の糸がぷっつりと切れ、次第に笑みがこぼれてくる。

【音々】
「それは……どう受け取れば良いんですか?」

【一条】
「ごめんごめん、まさかあんだけ真剣な顔して謝られるなんて思ってなかったから」

【音々】
「謝罪の言葉は真剣に云わないと駄目ですよ、悪いのは私なんですから」

【一条】
「あのね、云っておくけど俺には謝られるような覚えは一切無いんだけどな」

【音々】
「それじゃあ……昨日のことは……」

【一条】
「全く気にしてないし」

【音々】
「……良かった」

真剣だった音々の表情が安堵のものに変わり、ホッと胸を撫で下ろした。

【一条】
「だけど、今日も音々がこんなところで寝てるなんてね」

【音々】
「そ、それは云わないでくださいよ……春眠暁を覚えずとも云いますし」

【一条】
「ということは、音々は夜更かししてるの?」

【音々】
「してないですけど……あんまり寝た気がしないんです」

【一条】
「やっぱり春だからかねえ?」

【音々】
「そうかもしれませんね」

【一条】
「だけど、1週間で2回もサボっちゃって良いのか?」

【音々】
「学校での評価は悪くなるでしょうけど、そんなものよりも対人関係の方が大切ですから。
私にとって、誠人さんはかけがえの無い大切な人なんですから」

【一条】
「それってどういう……」

【音々】
「さてと、誠人さんも来たことだしこんなところにいつまでもいないでどこかに行きましょうか」

突然話を切るように音々が立ち上がる、音々の顔が少し赤くなっているのは気のせいだろうか?

【一条】
「行くって云ってもな……どこか行きたいところでもあるの?」

【音々】
「そうですね……あ、誠人さんのお部屋に行きたいです。
美織ちゃんに聞いたんですが、なんでも一人暮らしをなさってるらしいですね」

【一条】
「寂しい一人暮らしだよ……男の部屋なんか来ても面白くないと思うぞ、あまり綺麗とは云えないし」

【音々】
「かまいませんよ、誠人さんの部屋というのに意味があるんですから」

【一条】
「そこまで云うんだったら良いけど、何も期待しないでくれよ」

【音々】
「ふふ、はい」

重い腰を上げて軽く伸びをする、そのまま2人で部屋へ向かおうとした。
が、俺の視線はある人物をとらえてしまった、焦げ茶色のロングコートに帽子を目深に被ったあの謎の男の姿を……

【一条】
「音々、ちょっと待っててくれ」

【音々】
「それはかまいませんけど、どうかなさったんですか?」

【一条】
「ちょっとした私用がね、すぐ戻ってくるから」

……

男は1人、流れる川を見ていた、いや、川というよりはこの空間全てに眼を光らせていた

【一条】
「すいません……」

【?】
「君か、こんなところで奇遇だね」

【一条】
「貴方の方も、川原で会うのはこれで2回目ですね」

【?】
「顔を合わせるのは2回目と云った方が良いだろう、しかし今日は平日、君は学校があるんじゃないのかね?」

【一条】
「そんなことはどうでも良いじゃないですか、それよりも、教えてもらいたいことがあるんです」

【?】
「私が答えられることであれば答えようじゃないか、あらかた質問の内容は予想できるがね」

ふふっと不気味に男の口が笑う、なんだか全てを見透かしているようなそんな笑いだ。

【一条】
「どうして、俺がオカリナを吹くことを知っていたんですか?」

【?】
「簡単なことだ、云っただろ、顔を合わせるのは2回目だって……」
    
そうか、ここでは何度かオカリナを吹いたことがある。
その時に俺が気付かない中で、この男は俺がオカリナを吹くことを確認できていたんだ。

【?】
「私はそんなことより水鏡のことを聞いてくるかと思ったがね」

【一条】
「それも聞こうと思ってましたよ、貴方は水鏡とどんな関係があるんですか?」

【?】
「君に教える義務は無い、ただ1つだけ教えるとしたら、彼女と私の間には取引があるとだけ云っておこうか」

【一条】
「取引……ですか……?」

たぶんこれ以上聞いたところで教えてはくれないだろう、男の口調を聞いてれば分かる。
男の手のひらの上で俺は踊らされている、どんな質問をぶつけても男の思い通りに俺は踊らされるだろう。

【?】
「もう質問は終わりかね? それなら、私も退散させてもらうよ」

【一条】
「待ってください! 最後に、最後に1つだけ教えてもらえますか?」

【?】
「質問は締め切ったと云いたいところだが、特別サービスだ、云ってみたまえ」

【一条】
「貴方の……名前を教えてください」

【?】
「ほぅ……他にも知りたいことがあるだろう中でも私の名前を、か……
萬屋、萬屋 恨だ、気が向いたら覚えておきたまえ、一条 誠人君」

【一条】
「!」

男の眼はまるで呪術師のように、俺という個体の全てを見通しているような感じがした。
この男、どうして俺の名前を?

問いたくても問うことができない、男の靴がこつこつと地面を踏みしめる音が少しずつ遠くなる。
呼び止めることができない、あの眼に見据えられた瞬間、俺の体は金縛りにあってしまったように動かなくなってしまっていた。

……

【一条】
「お待たせ、ちょっと時間かかっちゃったな」

【音々】
「もうよろしいのですか、まだ時間はたっぷりありますからゆっくりでよろしかったのに」

【一条】
「いや、もう大丈夫、俺の部屋行こうか」

【音々】
「はい」

……

【音々】
「そういえば、誠人さんは今日はどこかに行かれたんですか?」

【一条】
「あぁ、ちょっと病院にね、新藤先生に会いに行ってたんだ」

【音々】
「それで今日は普段着なんですね、新藤先生というと前に病院でお会いした先生ですよね」

【一条】
「会いに行ったら引越し前の大掃除を手伝わされてね、散々だったよ」

【音々】
「その割には楽しそうに喋ってますね、本当は嫌じゃなかったんじゃないんですか?」

【一条】
「当り、新藤先生は俺にとって命の恩人だからね、新藤先生がいなかったら俺はここにいないだろうな」

病院に運ばれた俺を見捨てなかったのは新藤先生だけだ、新藤先生あって俺が存在する。
命の恩人の引越しを手伝うくらい嫌じゃない、むしろ音々が云うとおり楽しかった。

【音々】
「前から気になっていたんですけど……誠人さんはどこが悪かったんですか?」

【一条】
「そういえばまだ云ってなかったね、いや、云いたくなかっただけかな」

【音々】
「あ、ごめんなさい……誠人さんが嫌なら云わなくて結構ですから」

【一条】
「もういいよ、隠すようなことじゃないしもう終わったことだから。
異常が発見されたのはのは脳だよ」

【音々】
「脳……ですか……」

【一条】
「ちょっと病気がきつかったみたいでさ、医者が匙を投げる中、引き受けた先生が新藤先生だったんだ」

【音々】
「……」

【一条】
「音々の方は、大丈夫なの?」

【音々】
「私は心臓ですから、心臓の場合は薬で発作を抑えることもできます、ですが脳となると……」

【一条】
「心配しなくても俺には発作は無いよ、その分まだ安心できるかな」

【音々】
「……」

音々の表情にさっと暗さが満ちる、云ってから自分の発言の愚かさに気付いた。
俺には発作は無い、だけど音々はそうじゃない、常に発作の恐怖を抱えながら生きているんだ。

【一条】
「ごめん、無神経なこと云っちゃって……」

【音々】
「いえ、本当のことですから気になさらないでください」

そのまま家につくまでの間、2人の間には重苦しい空気が流れていた。

……

【一条】
「綺麗な部屋じゃないけど、どうぞ」

【音々】
「おじゃまします……これが一人暮らしの男性の部屋なんですね」

【一条】
「今お茶淹れるから、その辺に適当に座っててくれ」

台所には朝紅茶を淹れたポットがそのままになっている、自分が飲むならこれで良いがお客様にこれは飲ませられない。
中身を捨ててもう1度お湯を沸かす、茶葉はなんにしようか……?

【一条】
「音々はミルクティーとストレートどっちが好み?」

【音々】
「どちらでもかまいませんよ、誠人さんがお好きな方でお願いします」

となると、朝はミルクティーだったからストレートにするとして。
ストレートで飲むなら俺が好きなキャンディで決まりだ。
そうこうしている間にお湯も沸き上がった、ティーポットに茶葉を淹れて熱々のお湯を注ぎいれる。

【一条】
「お待ちどう、俺の好みで悪いけどキャンディのストレートにさせてもらったよ」

【音々】
「キャンディは飲んだことが無いんですけど……」

【一条】
「そんなにクセも強くないから音々も大丈夫だと思うよ、そろそろ飲み頃かな」

こぽこぽとカップに注ぐとミディアムグロウンの芳香が部屋に広がる。

【音々】
「良い香り、これが誠人さんの好きな紅茶なんですね、いただきます」

【一条】
「だいぶ熱くなってると思うから気を付けて」

【音々】
「ふぅふぅ……美味しい、クセも強くないから私にも飲みやすいです」

【一条】
「気に入ってもらえて良かった、この茶葉けっこう良い味が出るんだ」

【音々】
「この紅茶が美味しいのは茶葉のおかげだけじゃないです、誠人さんの淹れ方が良いんだと思いますよ」

【一条】
「嬉しいこと云ってくれるね、今まで紅茶の話しで盛り上がれる人がいなかったからなおさら嬉しいよ。
抱いて良いですか?」

【音々】
「くふ! けほけほ……」

いきなりの申し出に咽てしまった、今のはちょっとまずかったか……

【一条】
「大丈夫か? はい、タオル」

【音々】
「あ、ありがとうございます……いきなり変なこと云わないでくださいよ」

【一条】
「抱く前に一言断れって云われたから断ったんだけど……駄目?」

【音々】
「駄目です、そんなことしてたら美味しくお茶を飲めないじゃないですか」

【一条】
「それは云えてる」

【音々】
「ふふふ……」

【一条】
「はははは……」

【二人】
「あはははははははは……」

2人で笑いあい、ゆったりとお茶を飲みながら午後の時間を過ごした。
音々と一緒にいるとなんだか凄く気分が落ち着く、こんな日が毎日でも続けば良いのに……

……

【音々】
「何か嫌いな物とか、リクエストはおありですか?」

【一条】
「音々の料理なら何でも大丈夫、リクエストは音々が作る料理で」

お茶のお礼にと音々が夕飯を作ってくれることになった、願ったり叶ったりの状況だ。

【一条】
「だけど大丈夫? 冷蔵庫の中にはたいした物入ってないと思ったけど」

【音々】
「お料理は材料よりも手間隙です、あり合せの材料で美味しい料理を作るのが良い料理人の証ですよ」

【一条】
「あり合せの材料さえあるかわからないんだけどな……」

覚えている限りでも野菜と卵だけ、後は何があったかなんて覚えてもいない。
いくら音々が料理上手だからって材料が無いところから料理を作ることはできないと思うけど……

……

【音々】
「お待たせしました、慣れない台所だったもので手間取ってしまって」

運ばれてきた料理からはなんとも良い匂いがする。

【音々】
「栄養面を考えて野菜を軽く煮て、卵で閉じてみました。
誠人さんのお口に合うかわかりませんが、試してみてください」

【一条】
「遠慮なくいただきます」

見るからに美味いとわかる音々の料理を一口食べてみる。
野菜は煮込まれているが、しゃっきりとした歯ざわりが残っており、しゃきしゃきした野菜に卵が程好く絡んで、これは……
……

【音々】
「……どうですか?」

【一条】
「……」

ギュウ

【音々】
「ひゃ!……」

【一条】
「感想はこれで良いかな?」

言葉で表現するのが元々苦手というのもあるが、この料理は言葉にすることをためらうような味がする。
美味い不味いで云ったら当然美味い、だけど、俺にはそんな言葉で表すことをしたくなかった。
何故なら、この料理には味以上に俺を揺り動かす物がある。
それは、音々がここで作ってくれたという事実、この部屋で、音々は俺のためだけに料理を作ってくれた。
俺にはそれが嬉しかった、この気持ちを伝えるには音々を抱きしめることしかできなかった。

【音々】
「お料理の方は……美味しかったと捉えてよろしいんですか?」

【一条】
「当然、でなかったらいきなり抱きついたりしないよ」

温もりを惜しむように、ゆっくりと音々の体を開放する。

【音々】
「もぅ……抱きしめる前には一言云ってくださいって云ったじゃないですか」

【一条】
「音々のことだから断ったら抱かせてくれないんじゃないの?」

【音々】
「それは……どうでしょうね?」

クスクスと微笑む、音々の笑顔を見ることが俺は楽しみになってきている。
俺の気付かない俺の中で、小さな歯車がカタカタと音を立てて周り始めていた。

【一条】
「よくあれだけの材料でここまで美味い料理が作れるな」

【音々】
「云ったじゃないですか、料理は得意だって、私が他の方に自慢できる唯一の取得なんですから」

【一条】
「音々だったら料理意外にも色々と自慢できると思うけどな」

【音々】
「私には料理しかありませんよ、やれることが料理しかないんですから……」

一瞬だけ、本人だけにしかわからないような本当に小さな一瞬だけ。
音々の表情は暗さに満ちた、しかし、俺にはそんな音々の表情の変化に気付くことができなかった……

……

【一条】
「後片付けは俺がやるから良いのに」

夕食が終わり、音々は食器を洗ってくれている、何度も俺がやるといっても台所に立ち入らせてくれなかった。

【音々】
「いえ、1度始めたことは終わるまで責任を持ってやらないと。
料理は作ってから後片付けが終わるまでは気を抜いちゃいけないんです」

【一条】
「本当にまめだね、音々みたいな子を嫁に貰う男は幸せ者だな」

【音々】
「もう、からかわないでください、私にはそんな良い人がいませんから……あっ!」

音々の手の中から皿が転げ落ち、ガチャンと音を立てて複数の個体に割れる。
それと同時に音々がその場にしゃがみこんでしまう、それはとても不自然な倒れ方だった。

【一条】
「音々! 大丈夫か!」

【音々】
「はぁ……はぁ……だ、大丈夫……で……す」

額に薄っすらと汗を滲ませ、フルフルと小刻みに体が震え始める。
苦しそうに胸を押さえる姿を見て、音々の体に何が起こっているのかを悟った。

【一条】
「発作だな、薬はどこにあるんだ!」

【音々】
「はぁ……はぁ……薬なら、ここにあります……お水を1杯いただけますか……」

急いでコップに水を汲んで差し出す、すでに音々の手には錠剤が握られていた。

【音々】
「こく……こく……んん……ぷぁ……はぁ……はぁ……」

薬を飲んだことで少しだけ音々の吐息が落ち着きを取り戻した、だけど油断は禁物だ。

【一条】
「とりあえず横になるんだ、俺のベットで悪いけど床に寝るよりはマシだと思うから」

躊躇することなく音々の体を抱き上げた、今回もまたお姫様抱っこ。

【音々】
「はぁ、はぁ……誠人さん……自分で歩けますから……恥ずかしいです……」

【一条】
「ほんの少しの我慢だ、倒れたんだから無理するな」

音々をベットに寝かせて毛布をかけてやる、これで少しはマシになったと思うんだけど。

【音々】
「すいません……ご迷惑をかけてしまって……」

【一条】
「困った時はお互い様、薬を飲んだってことは眠くなるだろ。
少しここで眠るんだ、嫌って云っても無理矢理寝かせるからな」

【音々】
「そんなわがままは云いませんよ……だけど……1つだけお願いして良いですか?」

【一条】
「素直に寝てくれるんならどんなお願いでも聞くよ」

【音々】
「それじゃあ……その……手を握っていてくれますか?
私が眠るまでで良いですから、1人では少し心細くて……」

【一条】
「なんだそんなことか、音々がおちついて寝れるんだったら好きなだけ握ってくれ」

【音々】
「ありがとうございます……あ……誠人さんの手、暖かいです」

俺の手を握ったことでおちついたのか、音々の表情に小さな微笑を感じることができた。

発作が起きると少し人恋しくなってしまうのかもしれないな。

そのまま音々が眠りにつくまで、俺は手を握り締めていた、音々が消えてしまわないようにしっかりと……

……

音々が眼を覚ましたのは時計の針が9時をまわったころのことだった。
発作はおちつき、自分の足で歩けるようになっていたが、心配なので家まで送ることにした。

【音々】
「今日はご迷惑をおかけしてばかりで、誠人さんにはなんとお詫びをしたら良いのか……」

【一条】
「お詫びなんてする必要ないだろ、誰にだって弱みはあるんだから」

【音々】
「私は弱すぎるんです……薬に頼らなければ生きていけない、そんな自分が時折嫌になります……」

音々の気持ちは痛いほどわかる、俺にも自分自身が嫌になる時が存在するから……

【一条】
「嫌でも、自分とは向き合っていかなくちゃならない、それが人に科せられた使命なんだから」

【音々】
「……まるで詩人のようですね」

笑顔の無かった音々に小さくではあったが笑みが戻った。

【一条】
「ちょっとキザだったかな、1度は云って見たいと思ってさ」

【音々】
「誠人さんは……きゃ!」

何かを云おうとしたが、音々の足がもつれてバランスを崩し、俺に寄りかかるような体勢になる。

【音々】
「ご、ごめんなさい……」

【一条】
「まだ体が本調子に戻ってないんだ、今までも少しきつかったんじゃない?」

【音々】
「……」

無言が真実を物語っている、どうして気付いてやれなかったのかね……

【一条】
「ほら……」

【音々】
「ほらって……もしかして?」

【一条】
「そのもしかして、おんぶして行くから乗って」

【音々】
「そんな子供みたいなことできませんよ……それに、それでは誠人さんが辛くなるじゃないですか」

【一条】
「俺は良いの、早く乗ってくれないと強制的にお姫様抱っこになるけど、どっちが良い?」

【音々】
「どっちも嫌ですよ……でも、選ばないと駄目なんですよね」

うーんと小さく悩み声を上げ、2つの選択肢を吟味する
答えはすぐに出たようで、俺の背中にゆっくりと音々の体重がかかった。

【一条】
「それじゃおんぶということで、っよ」

音々のお尻の下に腕を回し、バランスを崩さないようにゆっくりと立ち上がる。

【一条】
「急にバランスが崩れる可能性もあるからしっかりとつかまっててくれな」

【音々】
「は、はい……」

音々を後ろに背負い、バランスをとりながら歩き出した。

……

【一条】
「おんぶされた感想はどう?」

【音々】
「うぅ、恥ずかしいですよ……人に見られたら恥ずかしくて死んじゃいます」

【一条】
「あいにくこの暗さなら誰にもわからないよ、やっぱりお姫様抱っこの方が良かった?」

【音々】
「それはもっと嫌です! 私の気持ちも考えてくださいよ!」

少しだけムスッと怒っている、だけど、言葉ほど嫌ってことはなさそうだ。

【一条】
「ごめんな、音々が辛いのは知っているはずだったのに気付いてやれなくて」

【音々】
「いえ……それよりも誠人さんは辛くないですか?
私も女の子ですからあまり云いたくないんですけど……重くありませんか?」

【一条】
「重いって体重のこと?」

【音々】
「そこまで云わせないでください……私だって気にしてるんですから」

【一条】
「はは、大丈夫だよ、重くもなければ軽すぎもしない、標準的な女の子よりもちょっと軽いかな」

【音々】
「良かった……」

【一条】
「そんなに気にしすぎない方が良いと思うよ、気にしすぎるとストレスが溜まって病気になるかもしれないんだから」

【音々】
「女の子に体重を考えるなというのは無理な話だと思いますよ」

【一条】
「ははは、確かにいえてるかもな……おっと」

【音々】
「きゃ!」

話に夢中になりすぎて少しつまずいてしまう。
倒れるほどではないが少しバランスを崩し、それに反応した音々の腕がギュッと強くしがみつく。

【音々】
「すいません、少し驚いてしまって」

【一条】
「いやいや……俺はいっこうに構わないんだけど」

【音々】
「? それはどういう意味ですか?」

【一条】
「気にしないで流してくれ、男でないとわからないこともあるんだよ」

胸が密着して気持ちが良いとはさすがに云えないよ……

【音々】
「そうなんですか、それじゃあ女の子にも逆のことが云えますね?」

【一条】
「逆って……何のこと?」

【音々】
「ふふ、秘密です、生まれ変わって女の子になっていたらその時わかるかもしれませんよ」

悪戯っ子のようにクスッと笑う、おんぶされてる女の子のメリットって一体……?

……

【音々】
「もうここで大丈夫です、さすがに家族に見られたくないですから」

体を屈めると、するりと音々の温もりが背中から離れた。

【音々】
「恥ずかしかった、だけど、誠人さんの背中とても大きかった、それからとても暖かかったです」

【一条】
「こちらこそ、俺も暖かかったですから」

音々が背中に抱きついているから……確かにそうなのだが……
まぁ、色々とあった訳だ……

【音々】
「今日はご迷惑ばかりかけてしまって、今度この埋め合わせはさせていただきますね」

【一条】
「そんなことしてくれなくても良いよ、俺と音々の仲じゃない」

【音々】
「謙虚ですね、だけどそんな誠人さん私は好きですよ」

好きという言葉に心臓が鼓動を早める、恋愛感情の話をしているわけじゃないのにどうして……?

【音々】
「それでは私はこれで、お休みなさい」

【一条】
「お休み」

屋敷に向かってパタパタと小走りに駆けて行く音々の後姿を見つめている。
音々の姿が屋敷に消えた後も、俺の心臓の鼓動はいつもより早い動きを続けていた。
俺の中で、確実に何かが変わり始めている、しかし、俺にはそれがなんであるのかわからなかった……





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