【4月17日(木)】
久しぶりにぐっすりと眠ることができた、寝覚めも最近の中では一番良い。
昨日、音々と学校サボったのが良い気分転換にでもなったのかな。
【一条】
「今日もサボっちゃおうかな……」
いかんいかん、まだ転入して間もない人間がいきなりサボり魔になってどうする。
気分転換もできたんだから今日は大人しく学校で授業でも受けよう。
4月も中旬、遅咲きの桜がちらほらと花を開花させ始める。
そんな春の一場面の中、俺という存在も確かに存在していた。
……
大体この辺りでよく出会うんだけど、今日はいないのかな。
毎日同じ時間に家を出るわけじゃないだろうし、会わない日があるのも当然だろう。
1つ息を吐いて1人で通学を歩く
【美織】
「とーりゃーーーー!!!」
【一条】
「ふがぐ!!!」
突然後頭部に鈍痛が走る、痛みが走る前に聞こえたあの声は……
【一条】
「つあぁー……とんだご挨拶だな……美織」
ジンジンと痛む後頭部をさすりながら顔を上げると、予想通り美織と音々の姿があった。
【音々】
「だ、大丈夫ですか?」
【美織】
「こんな悪人の心配する必要無いわよ、ほっといて行こ」
【一条】
「ちょっと待たんか!」
【美織】
「ふあぅ!」
後ろ髪を掴んで引っ張ると重心がずれて美織の体がバランスを崩す。
【美織】
「いったいわね、首痛めたらどうするのよ」
【一条】
「それはこっちの科白だ、何の前触れも無く人の後頭部どつきやがって」
【美織】
「悪人にはそれ位の制裁が必要なのよ」
【一条】
「悪人って誰がだよ?……もしかして俺のことか?」
【美織】
「それ以外に誰がいるのよ、音々まで巻き込んで丸1日学校サボったのはどこの誰かしら?」
くそ……図星だから何も云い返せないじゃないか。
【音々】
「私は巻き込まれたんじゃなくて、自分の意思で誠人さんとご一緒したんですが……」
【美織】
「だったら余計に悪人よ、どうしてあたしを誘ってくれなかったのさ」
【一条】
「はい……?」
【美織】
「2人で抜け出すなんてズルイ、1人残されたあたしはすっごい暇だったんだぞ」
【一条】
「ようするに……美織もサボりたかったの?」
【美織】
「当然、あたしだって2人と一緒にどっか行きたかったな」
美織がしゅんと小さく肩を落とす、結果的に仲間外れみたいになっちゃったもんな……
【一条】
「なるほどな……だったらこれから3人でどこか行くか?」
【美織】
「さんせーい、そうこなくっちゃ!」
【音々】
「だ、駄目ですよ、2日続けて学校をズル休みしたら勉強に支障が出ちゃいますよ」
【2人】
「……どうせもう気にしてませんから」
【音々】
「2人ともそんなこと云わずに、サボるのはまた今度にして今日は学校に行きましょうよ」
この分だとサボったとしても音々はパスするだろう、美織と2人で出るのも悪くないけど……
【一条】
「美織、2人でサボるか?」
【美織】
「はぁ? マコと2人でデートまがいのことなんてしたくないわよ」
うわぁ……俺と2人になるのは拒否ですか、結構こたえるな。
【美織】
「はぁ、しょうがないか……今日は大人しく学校行きましょう」
【音々】
「誠人さんも、毎日毎日じゃサボり癖が付いちゃいますよ」
美織の言葉にうなだれていた俺の腕を音々が引いてくれる。
【美織】
「……?」
【音々】
「どうかしましたか?」
【美織】
「ううん……なんでもない、ほらマコ、しゃきっとする!」
ビッシャーン!
【一条】
「いったー! 女の子なんだからもう少し力抜けよ……」
背中に思いっきり平手打ち、女の子の力といってもそれなりに痛い。
【音々】
「うわ……痛そう……ですね」
【一条】
「とっても痛いです……」
朝の一場面、日常の朝の一場面が俺には宝物のようにも思えてくる。
それと同時にこの宝物が壊れる瞬間もあることを、俺は一番よく理解しているんだ……
……
4時限眼を終える鐘が鳴り、生徒が待ちわびた昼休みの訪れを告げる。
今日は久しぶりに学食にでも行って何か食べるか。
【音々】
「あ、誠人さんもこれからお昼ですか?」
【一条】
「そうだよ、今日は食堂で飯にしようと思って」
【音々】
「それだったらお食事はまだですね、ちょうど良かった、これから屋上に行きませんか?」
【一条】
「別に良いけど、それだったら購買でパンに変えるか」
【音々】
「何も持ってこなくて大丈夫ですよ、今日はこれがありますから」
見ると音々の手には大きな袋が持たれている、たぶん弁当だろうけど……
【一条】
「1人で食べるには多くない?」
【音々】
「勿論多いですよ、ですから誠人さんは何も買わなくて良いんじゃないですか」
【一条】
「すると、俺もお相伴にあずかれるわけですか?」
【音々】
「はい、勿論ですよ」
やったー! 食費が浮いた、それ以上に久しく家庭の味というものにありつける。
俺が作るものなんてせいぜいレトルトか冷凍食品、野菜を洗ってかじるくらいしかしないもんな。
いい加減今の食生活を直さないと下手したら……直そうにも手段が無いんじゃないか……
……
相変わらず人気の無い屋上のベンチで2人で腰を下ろし、食事にする。
【音々】
「今日は久しぶりに腕を振るっちゃいましたよ」
自信満々に袋から出された物は……はぁ!?
【一条】
「じゅ……重箱!」
驚いた、普通学校の弁当に重箱なんて持ってくるか?
【音々】
「本当はお弁当箱を2つに分けて作ろうと思ったんですけど
少し作りすぎちゃいまして……」
【一条】
「それで重箱ねぇ……もしかして中身もぎっちり?」
【音々】
「それは見てのお楽しみです」
重箱は全部で3段、1つで弁当箱1つ半ぐらいの大きさがあるので単純計算で4つ半。
音々と俺の2人だけじゃ完食は難しいかもしれない。
【音々】
「開けちゃってよろしいですよ」
【一条】
「それじゃあ……」
重箱の蓋を開けると、色とりどりの美味しそうなおかずが所狭しと詰め込まれている。
そのまま2段目、3段目と順々に開けていく。
【一条】
「これまた凄い……これ全部音々が作ったの?」
【音々】
「お弁当は自分で作ると決めていますから、はい、割り箸です
どれでもお好きな物を食べてください、たぶん美味しくできてると思うんですが」
【一条】
「遠慮なく、いただきます」
こうもおかずが多いとどれから手をつけて良いのかわからなくなる。
これを世間では「迷い箸」、作法の世界では当然無作法の部類に入るけど今は気にしなくて良いか。
色々と目移りしながら最初に箸を伸ばしたのは卵焼きだった。
【一条】
「んぐ……もくもく」
【音々】
「お味の方はいかがですか?」
【一条】
「聞かなくてもわかるだろ、予想通り美味いよ」
【音々】
「良かった、今日は特別でしたから緊張したんですよ」
【一条】
「んぐんぐ……特別って何が?」
【音々】
「お弁当です、これは元々私が食べるために作ったんじゃないんですよ」
おかしくないかい?
普通弁当は自分で食べるために作るものじゃないんですか?
【一条】
「すると……誰のために?」
【音々】
「このお弁当は私からのお礼です、昨日私に付き合っていただいた私の感謝の気持ちです」
【一条】
「……俺のためってこと?」
【音々】
「ええ」
ニッコリと微笑む音々の笑顔、柔らかい微笑に俺は我を忘れてしまい……
【一条】
「音々!」
【音々】
「え、ひやぁ!」
思わず音々を抱きしめてしまう、俺のために料理を作ってくれる人なんていなかった。
ここが学校であることも忘れ、音々を抱きしめる手にも力が入る。
【音々】
「ま、誠人さん……誰かに見られたらまずいですよ」
【一条】
「ん?……あ、ごめん」
我に戻って音々を開放すると、2人の間になんだか気まずい空気が流れる。
当然といえば当然だよな、いきなり抱きつかれたら誰だって気まずくなるか。
【音々】
「もう……抱きつく場合は時と場所を考えてください
幸いにも誰もいなかったからいいですけど……」
ほんのりと頬を染めて恥らいながら喋る、どうやら嫌ではなかったらしい。
【一条】
「じゃあ……抱いて良いですか?」
【音々】
「えぇ!……ま、またですかぁ?」
さっきよりも頬が赤く染まる、音々の反応って初心でかわいらしい。
【一条】
「なんてね、冗談だよ、音々だって好きでもない男に抱きつかれたって良い気持ちにはならないだろ?」
【音々】
「じょ、冗談は止めてください……私は冗談でも良いですけど……」
【一条】
「何か云ったかい?」
【音々】
「い、いえ、なんでもありませんよ……それよりももっとお弁当食べてくださいよ。
誠人さんのためのお弁当なんですから、誠人さんが食べなくちゃ意味無いんですよ」
【一条】
「あぁ、だけど俺だけじゃ食べきれないんだから、音々も手伝ってくれよ」
【音々】
「わかりました、いただきます」
……
音々と一緒に弁当を食べるが、予想通り食べきることは不可能だった。
【音々】
「結構残っちゃいましたね、やっぱり少し多すぎましたね」
残った物の量を見積もっても重箱1個ぐらいは残っている。
【一条】
「物は相談なんだけどさ、その残った弁当俺が貰っちゃ駄目かな?」
【音々】
「構いませんけど、いつ食べるつもりですか?」
【一条】
「夕飯にでも食べようかと思ってるんだけど」
【音々】
「勿論晩ご飯に食べても大丈夫ですけど、朝作った物ですから味も落ちると思いますよ」
【一条】
「大丈夫、そういうの俺は気にしないから」
【音々】
「そうですか、それじゃあこの重箱お渡ししておきますね」
夕飯ゲット! これで今日の夕飯は豪勢な食事になりそうだ。
【音々】
「確か誠人さんって1人暮らしでしたよね、御自分でお料理をしたりしないんですか?」
【一条】
「からっきし駄目……大体レトルトか冷凍食品だから」
【音々】
「それでは栄養が偏りがちになっちゃいますよ。
でも男の方の1人暮らしではバランス良く食事を用意するのは難しいですからね」
【一条】
「そうなんだ……料理の上手い彼女でもいればそんな心配もないんだろけどさ」
確立にするとほぼゼロに近い、俺に彼女ができるのは宝くじが当たるよりも可能性が無いだろうな。
【音々】
「彼女……ですか……」
【一条】
「音々はいないの?」
【音々】
「いないって……何がですか?」
【一条】
「何って、彼氏に決まってるじゃないの」
【音々】
「い、いるわけ無いじゃないですか、急に変なこと聞かないでくださいよ」
【一条】
「そんなに変なことかな? 音々って美人だからよくもてるでしょう?」
【音々】
「もてないですよ、私は美織ちゃんみたいにかわいくないですから」
【一条】
「美織みたいだからかわいいってわけじゃないだろ、あいつはあいつ、音々は音々だろ」
それにあいつをかわいいと云って良いのだろうか……
【音々】
「……」
なんだか音々が不思議な表情をしている、言葉で表すとしたら……ポケェーとでも云っておこうか。
【一条】
「音々? おーい、聞こえてるかー……抱きつくぞ」
【音々】
「……ポォー」
【一条】
「音々!」
【音々】
「ひゃ! な、なんでしょうか?」
耳元で少し大きな声を出すと驚いて体が跳ねる、どうやら意識が体に戻ってきたようだ。
【一条】
「なんか意識が飛んでたぞ、何かあったのか?」
【音々】
「い、いえ、な、なんでもない、ですよ」
動揺しているのか妙にカタコト、俺何もしてないよな?
【音々】
「あ、も、もう昼休みもお終いですね、早く教室に戻りましょ」
【一条】
「あ、あぁ……」
おいおい……手と足が同時に出ているぞ、本当にどうしちゃったんだろうな。
……
屋上の扉を開けて庭に出る。
人の気配を削除した無音の空間にいつもと同じようにやってくる。
今日は西側に水鏡の姿は無かった、俺はそれだけを確認するとさっさとハシゴを上った。
空を抱けそうな気分に学校で唯一なれる場所、それが給水塔の上。
そのまま景色を見つめながらオカリナを取り出す。
街を見渡せるこの給水塔のてっぺんでオカリナの音を紡ぐ。
こうしてるとどこかの国の童話を思い出してしまう。
確か男が街で笛を吹き、ネズミを呼び集めてそのネズミたちを川に落としていく話……?
ネズミじゃなくて子供だったかな? 子供を集めて誘拐する話だったかな?
どちらにせよ笛吹き男はこれといって良い役だとも思わない。
そんな考えをしているうちに俺のオカリナは終わりを迎えていた。
オカリナを吹き終えると後ろに人の気配を感じた。
考えられるのは美織か音々のどちらか、どちらかわからないが聞きに来てくれるのは俺としてはありがたい。
振り返ってお客様を歓迎する。
そこにいたのは美織でも音々でもない、俺を狂わせる謎の少女、水鏡の姿があった。
【水鏡】
「……」
【一条】
「なんだ、水鏡だったのか、いるならいるって云ってくれよ」
おかしい、どうしたというんだ?
今日の俺はおかしい、口が普通に動く、いつものような金縛りにあったように口が堅くならない。
【水鏡】
「……」
【一条】
「今日はどうしたの、まさかオカリナ聞きに来たの?」
普通に動くなんてものじゃない、まるで前からの友達か知り合いのように簡単に話しかけることができる。
この状況が俺に突きつける意味は1つ。
もう1人の俺が、目を覚ましている……
【水鏡】
「……」
だとしたらまずい、今はまっとうな振りをしているがどちらかが近づきでもすれば俺は水鏡に飛びかかりかねない。
その後を想像することはできない、考えられるのはそうなってしまっては俺にはどうすることもできないということだけ。
【一条】
「……」
【水鏡】
「……」
どちらもアクションを起こさない、警戒をしている水鏡と、近づくのを待ちかまえている俺。
罠を仕掛けた者と罠に誘き寄せられた獲物、そんな表現がぴったりの状況だった。
【一条】
「あの……」
先にアクションを起こしたのは俺の方だった、この時点で罠の存在は消え去った。
待ちかまえる者が先に動いては罠はただのガラクタにしかならない、今の俺はいつもの俺なんだ。
【一条】
「俺のオカリナ聞いてた?」
【水鏡】
「……コクン」
【一条】
「そっか、それで……どうだった?」
【水鏡】
「綺麗な音だと思う」
綺麗な音、前も水鏡はそんなことを云っていた、そして……
【水鏡】
「だけど……悲しんでる……」
以前と同じだ、音は綺麗、だけどそれは悲しんでいる。
俺の頭を苦しめた科白がここに再び甦った。
【水鏡】
「……」
くるりと向きを変え給水塔を後にしようとする、ここまでは前と同じだった。
【一条】
「……待って!」
ここが以前とは違う、以前のような息の詰まるような息苦しさが存在せず言葉が自然に出てきた。
「待って」
こんな僅かな言葉すらも以前の俺は出すことができなかった、今日の俺はどうしたというのだろう?
去ろうと背を向けていた水鏡がこちらに向き直る。
【一条】
「それは……どういう意味……?」
【水鏡】
「……聞いたまま、言葉そのままの意味」
音は綺麗だが悲しんでいる、言葉そのままの意味と云われても俺には理解できない。
【水鏡】
「オカリナから産み出される音は綺麗、とても澄んでいる。
だけど、それを産み出す人間は澄んでいない、澄んでいないと云うよりは澄むことができない。
心の底に隠した物は決して消えることがない、どんなに上手く隠しても水面の上に浮き上がってしまうものも、今のあなたはそんな状態じゃないんですか?」
驚いた、まるで俺の中まで見透かされたような感じだった。
心の底に隠した物それは記憶を失ってしまったという事実、そのことを知っている人はこの学校にはいない。
隠し通せるものなら隠し通したい、他人に変な気を使われるのは自分でも居心地が悪い。
でも、それが俺の奥底で悲しみを与えている元凶であることは間違いない。
自分は明るく振舞っているつもりでも、水鏡は俺の奥底のことを感じ取った。
【水鏡】
「……失礼します」
もう1度くるりと向きを変えて、今度こそ給水塔から姿を消した。
人の小さな感情を読み取ることができる人間、水鏡。
……不思議な少女だ。
……
【音々】
「誠人さん」
【一条】
「よ、音々もこれから帰りか?」
【音々】
「はい、それで、あの、良かったらご一緒に帰りませんか?」
【一条】
「勿論かまわないよ、すぐに支度するからちょっと待ってな」
さっさと鞄に教科書を詰めて支度を終わらせる、俺は真面目だから置き勉はしないのです。
【一条】
「お待たせ、それじゃ行こっか」
……
【音々】
「考えてみたら、誠人さんと2人で帰るのは初めてですね」
【一条】
「そういえばそうだな、いつもは廓か二階堂が1緒にいるから」
【音々】
「あのお2人とお知り合いになれたということは、誠人さんも有名人ですね」
【一条】
「それが良いことなのか悪いことなのか……」
現にあいつらと知り合って数日で俺は喧嘩に巻き込まれた。
知略を駆使する廓、純粋な強さを追求した二階堂。
確かに、あの2人といれば嫌でも有名になっちゃうよな……
【音々】
「もうこの街には慣れましたか?」
【一条】
「大体はね、まだわからない所も色々あるんだ、コンビニとか……」
【音々】
「コンビニでしたら商店街の方面ですね、よろしければこれから教えますが?」
【一条】
「本当、ありがたい……だけど家と逆方向になっちゃうぞ」
【音々】
「それくらい良いじゃありませんか、たまには寄り道するのも悪くないですよ」
【一条】
「そう云ってくれるなら……お願いします」
……
【音々】
「この路地を真っ直ぐ行った突き当たり、あこがコンビニになりますよ」
【一条】
「こんな所にあったんだ、1人だったら確実に迷子になってたよ」
【音々】
「ふふ、迷子なんて、もう迷子になるような年齢じゃないではないですか」
そう思うだろ、だけど俺はすでに1度経験してるんだよ
……迷子
【一条】
「は、はは……」
乾いた苦笑い、この歳で迷子なんて恥ずかしくて云えない。
コンビニを確認して元来た道を引き返す時、不意に小さな小道が眼に留まった。
【一条】
「この道ってどこに続いてるの?」
【音々】
「この先にあるのは公園です、とはいってもほとんど人も来ない公園ですけどね。
それから、公園の先には昨日誠人さんが休んでいらした川原に繋がってますよ」
【一条】
「あそこってここから行けるんだ、悪いんだけどちょっと行ってみても良いかな?」
【音々】
「はい、良いですよ、今ちょうど夕暮れ時ですから川原も赤く染まって綺麗だと思いますよ」
俺の足は小さな小道へと向いていた。
赤く染まった川原が見たいわけでもほとんど人のいない公園が見たいわけでもない。
今川原に行ったら何かが起こると、俺の中で直感がそう呼びかけている。
何があるかはわからない、しかし、俺の足は確実に速度を上げて川原を目指していた。
【一条】
「ここが公園……誰もいないんだな」
【音々】
「この辺りは住宅地じゃありませんから、子供もこんな所まで来ないんですよ」
誰もいない公園でブランコがギィギィと風に揺られている。
俺が見たいのは揺れるブランコじゃない、その先にある川原を見たいんだ。
公園を抜けるとパッと視界が開く、そこに広がるのは夕日に赤々と染め上げられた川原。
それと、川岸に悲しげにたたずむ後姿が1つ。
地面につくほどの長さを持ったあの髪の持ち主。
……あれは水鏡だ。
【一条】
「……」
直感が呼びかけていたのはこれだったのだろうか?
ここに来れば水鏡に出会うことができる、ただそれだけなのだろうか?
【音々】
「あら? ここに人がいるなんて、珍しいですね、それにあの子……」
さっき残していった謎の答えを教えてもらおう、そう思っているのに一歩が踏み出せない。
ここに来たのは水鏡にあって謎の答えを教えてもらうことじゃないのか?
だけど、どうしても動くことができない、あんな悲しそうな背中にどんな言葉をかければ良いって云うんだ……
【一条】
「……水鏡」
【音々】
「水鏡? それが彼女の名前なんですか?」
【一条】
「あぁ……あいつは不思議な少女なんだ」
オカリナの音の違和感に気付き、俺を2度に渡って倒れさせた不思議な少女。
【音々】
「なんだか……彼女、誠人さんに似ていますね」
【一条】
「俺に? どこが?」
【音々】
「彼女の後姿、とても無理をしているように感じます。
誠人さんと同じように、何かを悩んで、自分の中に溜め込んでいるようなそんな感じです」
【一条】
「確かにあの背中、俺には悲しんでいるように見えるかな……」
【音々】
「それは同じ立場に立っている人間にしか思えないことです。
ようするに、誠人さんの背中も彼女から見れば同じように見えているんです」
【一条】
「……」
俺の背中はあんな風に見えているのか……あれじゃあオカリナの音だって変わってしまうよな。
俺がここに来た意味は、俺が他人からはどう見えているかをわからせるためだたんだ……
【?】
「やれやれ……またここにいたのか」
不意に後ろから低音のしがれた声が聞こえて振り返る。
そこには焦げ茶色のロングコートに黒いフリースを着込み、帽子を目深に被った男の姿が合った。
この男、以前にも俺は目撃している……
昨日、音々を待っていた時に偶然廊下を通り過ぎた男の姿と同じだ。
【?】
「針が1人歩きした所で意味は無いというのに……」
【一条】
「あ、あの……」
【?】
「なんだ……」
どうしてこの男に声をかけてしまったんだろう、俺はこの男と面識なんて無いはずなのに。
しかし、一つの小さな疑問が俺に言葉を紡がせた。
【一条】
「あいつを、水鏡のことを知ってるんですか?」
【?】
「ほぅ……私が君にそのことを教える義務があるというのかね?」
【一条】
「それは……」
男の言葉はもっともだ、男にしたって俺とは面識なんて無い。
見ず知らずの人間に他人との関係を喋る義務なんてどこにも無いよな。
【音々】
「誠人さん……この方と何か……?」
小声で音々が訊ねてくる、当然のことながら音々もこの男とは面識が無いようだ。
【?】
「君は少しばかり先を急ぎ過ぎている、君の気持ちもわからないでもないが。
もう少し落ちついて行動してみるのも良いと思うがね……」
【一条】
「落ちついて……行動する……?」
【?】
「まだまだ十分な時間がある、その中で自分なりの回答を見つければ良いさ」
男がくるりと向きを変えて川原から去っていく。
【?】
「そうだ……最後にもう1つだけ伝えておこう」
【一条】
「……何ですか?」
【?】
「君が持っているオカリナ……決して手放さないことだ」
【一条】
「……え?」
おかしい、ありえない現実を突きつけられた。
何故この男は俺がオカリナを吹くことを知っているんだ?
【一条】
「ど、どうしてそれを……」
【?】
「全ては追々わかることさ、今はただ眼の前の現実を解き明かすことだ……」
すうっと男の指が一点を指す、その方向には水鏡がたたずむ川岸が……いない。
男が指した先には水鏡の姿が無かった、一体いつの間に?
再び男の方に視線を戻すと、そこにはすでに男の姿は消えてなくなっていた。
【一条】
「そんな……莫迦な……」
眼を逸らしたのはほんの一瞬のでき事だったはずなのに、その一瞬で男は消えてしまった。
ここは見晴らしの良い川原の上、ここで人を見失うことは考えられない。
しかし、現に男の姿は煙のように消えてしまっていた……
【音々】
「あの方は、誠人さんのお知り合いの方なんですか?」
【一条】
「いや、どちらにも面識は無いはずだけど……」
【音々】
「妙ですね、あの方はどうして誠人さんがオカリナを吹くことを知っているんでしょう?」
【一条】
「わからない……あの人は一体……」
知りもしない人間の特徴を述べたり、突然眼の前から姿をくらましたり。
まるで奇術師のような人だな……
【一条】
「それよりも、音々はあの人がどこに行ったか見てない?」
【音々】
「もうしわけありません、私も川岸の方に眼がいってしまいましたので。
もう一度向き直った時にはもう……」
【一条】
「そっか……」
謎多き人物が1人増えてしまった。
しかもあの男、水鏡のことを何かを知っている、まるで親しい間柄のような口ぶりだった。
それに……どうして俺のことまで?
【一条】
「考えたって……無駄だよな……」
ポケットからオカリナを出し、そのまま口にくわえる。
静寂に満ちた川原ではオカリナの音も良く響く。
この音は俺の全てを現している、平静を装って、根底には暗さを秘めた偽りの音。
水鏡と音々が指摘したのはそんな事実、もしかしたら2人とも俺の異変に気が付いているのかもしれない。
あの男も云っていたっけ、決してオカリナを手放すなと……
オカリナを終えると辺りは再び静寂に包まれた。
【音々】
「……なんだか、悲しい感じがしますね……」
音々が云っているのはオカリナの音のことだろうか、それともオカリナの音が消えた静寂の世界だろうか。
どっちでも良いか、どっちにしろ悲しいことに変わりは無いんだから……
【一条】
「そろそろ……帰ろうか……」
【音々】
「……はい」
……
【一条】
「……」
【音々】
「……」
2人で歩く帰り道には交わされる言葉が存在しない。
俺の頭の中には場を繋ぐ会話よりも、あの男のことで一杯だった。
何故あの男は水鏡のことを知っているのか、何故あの男がオカリナのことを知っていたのか、何故あの男は姿をくらましたのか。
考え始めたらきりがない、男の存在を柱にして、疑問が堂々巡りを始める。
【一条】
「……」
【音々】
「……あの」
【一条】
「どうした?」
【音々】
「いえ……その……なんでも、ないです」
【一条】
「なんでもなくないだろ、俺に何か云いたいことがあるんじゃないのか?」
【音々】
「……コクン」
【一条】
「だったらはっきりと云ってくれ、中途半端なのは嫌いなんだよ」
【音々】
「……また、お1人で悩むおつもりですか?」
【一条】
「……」
【音々】
「またいつものように、御自分で全てを抱え込んで1人だけで悩むおつもりなんですか?」
音々の言葉1つ1つが鋭く突き刺さる、正直なところ、1人で抱え込むことなんてもう限界に近い。
だけど、俺には悩みを打ち明ける覚悟なんてもっていないんだ
【音々】
「誠人さんの周りにはたくさんの支えがあるはずです、それなのに、どうして1人で悩もうとするんですか」
【一条】
「じゃあ逆に聞くけど、1人で悩むのがそんなに悪いのか?」
【音々】
「そうは云ってないじゃないですか!」
【一条】
「それだったら放っておいてくれ、俺には俺なりの考えがあるんだ。
余計なお節介なら、止めてくれ……」
思わず走り出してしまった、この場の空気が辛い。
【音々】
「誠人さん! 待って!」
聞こえない振りをして走り去る、一刻も早くこの場から消えてしまわないと。
後ろを振り返ることも無く、俺の足はただ前に進むことだけを遂行していった。
……
【音々】
「待って!」
呼びかけても止まる気配も無い、言葉は確実に聞こえているはずなのに……
【音々】
「……」
誠人さんが走り去った先を見つめることしかできない。
【音々】
「誠人さん……理解してください、1人で悩むことにはまったく利益が無いことを」
1人で大きな悩みを抱え込むことは不可能なんだ、人が1人で生きるのが無理なように。
悩みも他の人と一緒だから乗り切ることができる、それを誠人さんにも気付いて欲しい。
だけど……
【音々】
「私って……嫌味な女だな……」
ポツリと呟いた言葉が夕暮れの空に小さく音も無く響く。
……
【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ここまで来ればもう音々とはすれ違うことも無いだろう。
早くなった動悸を治めるために、壁にもたれかかって息を整える。
【一条】
「くそ……俺は音々にまで……」
音々の前から逃げ出したのは2人の間に気まずい空気が流れたからではない。
一瞬だけ……俺の頭に浮かんでしまった光景、それは音々に対する背徳的シナリオ。
音々の言葉に触発されて、俺の中で獣は眼を覚まそうとした。
もう1人の俺が姿を現す前兆……それを避けるためにその場から逃げ出した。
【一条】
「俺はもう駄目なのかもしれないな……」
知り合い相手にまでもう1人の俺は手を出そうとしている。
このまま俺が人との交流を続けていれば、いつかかならず、犠牲者が出てしまうだろう。
もう引き時なのかもしれない、元々俺には人との交流なんて許される行為じゃなかったんだ。
【一条】
「はは……気付くのが少し遅かったな……」
わかっていたはずなのに、記憶を失った時点で俺には交流が無意味であるとわかっていたはずなのに。
それなのに、俺は現実を認めようとはしなかった……どこかで記憶を失ったことを認めていなかった。
夕暮れ空に広がるのはドス黒い闇、俺は全てにリセットをかけるんだ……
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜