【5月12日(月)〜エンディング】


【一条】
「う……うぅん」

眼を刺激する陽光で眼が覚める。

【一条】
「あれ……俺どうしてベッドなんかに」

俺は確か掃除をしていたはず、それで掃除の途中で萬屋さんが来て……

【一条】
「萬屋さんが来てどうなったんだっけな?」

萬屋さんが訪ねてきたことまでは覚えている、しかしその後何があったのかは全く覚えていない。
掃除をしたような記憶もあれば萬屋さんと雑談をして1日過ごしたような記憶もある。
どこか曖昧だけど薄っすらとそんな覚えがあるのだからきっとそうだったのだろう。

【一条】
「まぁ良いか……さっさと起きて学校に行く準備」

いつまでも寝ているわけにもいかないのでとりあえず起きようと体に力を込める。

【一条】
「あぐ!」

少し体に力を込めるだけで今まで感じたことの無い痛みが体を駆ける。
これでは学校に行くどころか体を起こすだけでも一苦労しそうな感じだ。

【一条】
「なんなんだよこの痛みは……つああ!」

なんとか上体を起こすことはできた、しかしただ起こすだけでもこの痛み。
まるで骨がギシギシと軋んでそこから痛みが来ているような感じがする。

【一条】
「……こんなんじゃ学校なんか無理かな」

学校に行くまでの距離を考えたら正直無理だと思う。
一歩踏み出すだけでも相当の痛みが走るのだから学校につくころには死にそうになっているかもしれない。

【一条】
「1日くらい良いよな、どうせこんなんじゃ授業にならないだろうし」

大人しく家で休んでよう、そう決めて学校に休みの報告を入れた。

……

学校に休みの連絡を入れて今日はゆっくりと休むことにした。
一応風邪をひいたことにしたけど、確実にこの症状は風邪じゃないよな。

【一条】
「はぁ……これじゃ音々に会いに行くことも無理かな」

病院は学校よりもさらに遠い、学校にも行けそうも無い俺には確実に無理な距離だ。
俺は1日、このつまらない白い天井を見て過ごすだけだった。

……

【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

咽が渇いたので水を飲もうと台所に向かう、このわずか数歩の距離が俺にははるかに遠い。
鉛でもつけているかのように足が重い、足だけではない体全体に圧力がかかってりるみたいだ。
圧力と痛み、異なる2つの力が同時に体を刺激する。

【一条】
「ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はぁ……」

やっとのことで水道にたどりつき、コップに水を注ぐ。

【一条】
「んぐ、んぐ……はぁ」

一杯の水を飲むことがこれほどまでに辛いと感じたのは初めてだ。
水を飲んだおかげで咽の渇きはとれた、しかしまだもう一つ関門が残っている。

【一条】
「もう一度ベッドまで戻らないと……」

来たら必ず戻らねばならない、このままここで倒れて寝るのは避けたいところだ。
再び痛みに耐えながらゆっくりと足を進めた……

……

夜明けとともにやってきたのは鳥の鳴き声と体を駆ける痛み
痛みと重圧は昨日にも増して強くなっていた。

【一条】
「これじゃ今日も無理かな……」

また電話をかけようとベッドから立ち上がる……

【一条】
「っが、あうぅ……」

上体を起こそうとしても全く力が入らない。
まるで体全体を押さえつけられているみたいだ。

【一条】
「くそ……一体なんだっていうんだ……」

力がはいらない体を引きずって受話器を取る、他人から見たら俺はまるでゾンビそのものだ。

PrrrrrrrPrrrrrrr……

【志蔵】
「はい、小峰第三学園事務室です」

【一条】
「一条です、その声は志蔵先生ですね……」

【志蔵】
「当然私よ、一条君は昨日お休みだったけど、もしかして今日もそれ関係?」

【一条】
「はい……ちょっと質の悪い風邪をこじらせまして……」

……

受話器を置いて再びゾンビのごとく床を這って進む。
当然腕を前に出すたびに、足を前に動かすたびに体に痛みは走る。
しかしこれくらいしか俺には動く手段が無い。

【一条】
「俺の体、どうなっちまったんだよ……」

……

TrrrrrrTrrrrrrrr……

【一条】
「う……んぅ」

頭の上で音が鳴り響き、俺をまどろみの中から呼び戻す。
寝惚け眼のまま視線を泳がせると、辺りはもうすっかり暗くなって今が夜だと告げている。

【一条】
「この音……携帯か」

音を頼りに手を伸ばす、これがまた痛い……
痛みを必死にこらえて何とか携帯を見つけ、着信画面を確認する。
そこには見たことの無い番号、最初の桁からしてこれは公衆電話かな……?

【一条】
「はい……一条です」

【音々】
「あ、誠人さん……私です」

【一条】
「その声……音々?」

【音々】
「はい、夜分にすみません」

3日ぶりに聞いた音々の声が酷く新鮮に感じる、しかしどうしてこの時間帯に電話なんかしてきたのだろう?

【音々】
「お体の具合は大丈夫ですか?」

【一条】
「は? どうして音々がそのことを……?」

【音々】
「美織ちゃんが教えてくれたんです、誠人さんが体を壊して学校をお休みしているって」

【一条】
「あいつが……」

【音々】
「本当はもっと早くにお電話するつもりだったんですけど、色々と打ち合わせをしていたらこんな時間になってしまって……」

【一条】
「打ち合わせ?」

【音々】
「はい、海外手術のお話です」

【一条】
「ああ、そのことか……」

俺と音々が初めて体を交えたあの日、音々は海外手術の決心を固めたんだっけ。

【音々】
「本当は時間外の電話は厳禁なんですけど、秋山先生に無理を云ってお電話させていただいたんです」

【一条】
「そうまでして俺に電話しなくても」

【音々】
「そうはいきませんよ。
誠人さんが私の体を心配してくれたように、私だって誠人さんのお体を心配ているんですから」

【一条】
「音々……」

【音々】
「それで、具合の方はどうなんですか? ちゃんとご飯とか食べてますか?」

【一条】
「大丈夫だよ、そんな大事な病気じゃないから」

【音々】
「そうですか良かった……」

受話器の奥でホッと安堵の息が聞こえる。
そんな音々を想像すると嘘を吐いたことに胸が痛む……

【一条】
「音々、ありがとう……」

【音々】
「え、どうしたんですか急に?」

【一条】
「いや、なんでもないよ……ただお礼を云いたくてさ」

【音々】
「……?」

受話器の向こうで疑問符を浮かべた音々の顔が思い浮かぶ。

誰かが心配してくれる、心配してくれる人に今すぐにでも会いたい。
この時、俺はどうして音々がそれほどまでに悩んでいたのかに気付かされた……
結局は、俺も音々と同じだったんだな……

【一条】
「音々、今まで色々とごめんな……」

【音々】
「どうしちゃったんですか? 今日の誠人さん何か変です。
急にお礼を云ったり、急に謝ったり」

【一条】
「自分でも良く分からないよ、だけど、なんだか云わずにはいられなかったんだ」

【音々】
「誠人さん……」

【一条】
「なんか湿っぽくなちゃったな、こんなんじゃ治る風邪も治らないよな」

【音々】
「……そうですよ、病は気からって云いますから。
ネガティブな思考では良くなるものも良くなりませんよ」

【一条】
「そうだな、だけどそれって俺だけじゃなくて音々にも云えるんじゃないか?」

【音々】
「そうかもしれませんね、ふふ」

【一条】
「ははは……」

【2人】
「あはははは……」

……

【音々】
「あ、そろそろ消灯時間が来ちゃいますね」

【一条】
「そっか、それじゃ今日はこの辺でお開きだな」

【音々】
「そうですね、夜分に電話をしてしまって云うのもなんですが、今日はゆっくり休んでお体の方治してくださいね」

【一条】
「ああ、ありがとう、久しぶりに音々の声聞けたから良く眠れるかもな」

【音々】
「まあ、誠人さんったら……」

【一条】
「ちょっと気障っぽかったな、そんじゃ、お休み」

【音々】
「お休みなさい」

ガチャンと受話器が置かれる音が小さく鳴り、ツーツーとお決まりの音が鳴り響く。

【一条】
「あぁ……」

3日ぶりに聞いた音々の声が少しだけ体の痛みを忘れさせてくれた。
しかし、電話が切れ、再び辺りに静寂が訪れると痛みは待っていたかのように戻ってくる。

【一条】
「ぐ……うぁ……」

痛みから逃れるように眼を閉じて眠りを待った。
明日になれば痛みもひいている、俺にはそう信じて眠りにつくしか選択肢は無かった……

……

明るい日差しが朝の到来を告げる。
寝惚け眼のまま、軽く上体を……

【一条】
「ぐ、あ!……」

体を引き裂くような、骨を叩き割るような、中の内臓器官を押しつぶすような。
意識さえも飛びそうになるくらい強烈な痛みが走る。
いや、これはもう痛みなんて部類の話じゃない……
これはもはや、命を奪おうと考えているとしか思えないような激しい痛みだった。

【一条】
「が……あぐ……」

小指の先を僅かに動かすだけでも痛みは駆け抜ける。
数日前までは何事も無く生活していたのに、ここ数日俺の体は異変だらけだ。
初めは忘れたころに少し痛みが走るだけだったのに、昨日は這ってしか動けなくなり。
今日に至っては動くことさえ封じられてしまった……
痛みは徐々に俺を蝕んでいる、このままいくと明日には生きることさえ封じられてしまうのかもしれないな……

……

朝から寝ては起き、寝ては起きの繰り返し。
もう何回繰り返したことだろう、少なくとも20回はゆうに超えている。

【一条】
「く……そ……いっそのこと殺してくれ……」

本当に、ここで殺してくれたらどれほど楽なのだろうか?

………………………………………………………

【一条】
「駄目か、いくら死んで楽になったからって死んでしまったらそこでお終いじゃないか」

挫けてしまいそうな痛みに否定的になってしまう。
この痛みがひくのは一体いつになることやら……

……

もう辺りはすっかり明るみを失い、濃い紺色と月明かりの白が窓から差し込んでいた。

【一条】
「……」

起きていても意味が無い、だったら眠るしかないんだけどどうしても眠れない。

……怖いんだ。
明日の朝、俺の体がちゃんと温かみを持っているのか。
もしかすると熱を失い、まるで蝋人形のように硬く、金属のように冷えきった体に変わり果てているかもしれない。
徐々に増している痛みから考えて、全くゼロの可能性じゃない……

【一条】
「くそ……眼が霞んできた……」

意思は起きていたくても、体は睡眠を望んでいる。
まるでもう休ませてくれと云わんばかりに、俺の体をまどろみが支配していく。
眠りたくない、しかし、体はそれを許してくれない。
やがて意識を繋ぐことも辛くなり、深い闇の中へと、俺の意識は埋没した。
明日の朝、俺の体がどうなっているのか、それは誰にも分かるはずがない。

……ただ1人を除いては。

……

【萬屋】
「……」

そう、ただ1人を除いては……

……

【一条】
「……う……ん」

鳥のさえずりと眩しい朝日で眼が覚める。
視線を動かしてみて、なんとか体が無事であることは確認できた。

【一条】
「良かった……まだ生きてるんだ」

自分がまだ生きていることにと安堵し、毛布を剥ぎ取った。

【一条】
「……あれ?……」

俺は今何をしたんだ?
体に被っていた毛布を剥ぎ取った、ただそれだけのことなのに酷く不思議に感じてしまう。

【一条】
「動く……俺の体動いてる!」

恐る恐る立ち上がろうと足に力を入れる。

【一条】
「どういうことだよこれ、立てるじゃんか」

ちゃんと自分の足で地面を踏みしめ、俺は立っている。
ただそれだけのことなのに俺は心の底から喜んだ。

【一条】
「良かった……まだ少し痛むけど」

確かにまだ少し痛みは残る、だけど歩けないほどじゃない、走るのはちょっと無理かもしれないけど……
2日ぶりに窓を開け放ち、煌く朝日を半身に浴びる。

【一条】
「はぁ……気持ち良い、しばらく太陽とご無沙汰だったからな」

少し強めの朝日が逆に心地良い、死んだように過ごしていた数日間では感じることのなかった感覚だ。

【一条】
「さてと……これだったら久しぶりに学校にも行けそうだな」

PrrrrrrrrrrPrrrrrrrrrr……

学校に行く準備にとりかかろうとすると携帯が俺を呼んだ。
着信画面に表示されたのは番号、無登録の番号だけど俺はその番号に覚えがあった。

【一条】
「はい、一条です」

【音々】
「あ、起きてらっしゃったんですね、良かった」

予想通り相手は音々、先日かかってきたのと同じ番号だったので音々だとすぐ分かった。

【一条】
「そりゃ起きてるさ、学校行かないといけないからな」

【音々】
「やっぱりまだご存知じゃなかったんですね」

【一条】
「ご存知じゃない? 何が?」

【音々】
「今日学校は創立記念日でお休みなんですよ、美織ちゃんがもう伝えていると思ったんですが。
万が一ということもあるかもしれませんのでお電話させていただきました」

【一条】
「休み? そんなこと一言も聞いていないぞ」

【音々】
「私も先日お電話した時にもしやと思ったんですけど、気が利かなくて申し訳ありません」

【一条】
「いやいや、今日こうやって教えてくれたんだから音々は気が利くよ、ありがとな」

音々が教えてくれなかったら俺は確実に学校に行ってた。
折角早起きして行ったのに門が開いてない学校ほど悲しいものはない……

【音々】
「間に合ってよかったです、行って門が開いてなかったらガックリしちゃいますもんね」

【一条】
「云えてるな、はは」

【音々】
「ふふふ……」

受話器越しに音々の柔らかい笑い声が聞こえる。

【音々】
「それであの、誠人さんは今日のご予定何かありますか?」

【一条】
「学校が無いって云われたから何も無くなった、完全にオフだよ」

【音々】
「でしたらその……病院に来ていただけませんか?
最近誠人さんに会っていないので色々とお話したいことがあるんです」

【一条】
「そうだな、俺も久しぶりに音々の顔見たいし……お邪魔させてもらってもかまわないかい?」

【音々】
「勿論です、誠人さんならいつでも大歓迎ですよ」

【一条】
「はは、それで何時ごろ行けば良いかな?」

……

久しぶりに見る真っ白いドアを軽くノックする。

コンコン

【音々】
「開いてらっしゃいますのでどうぞ」

【一条】
「失礼」

【音々】
「いらっしゃいませ、誠人さん」

【一条】
「久しぶり、しばらく見ないうちにまた一段と綺麗になったな」

【音々】
「ふふ、お世辞でも嬉しいです、ですが誠人さんにはちょっと不釣合いな科白ですね」

【一条】
「だろ? 俺もそう思ったんだ」

【音々】
「まあ……」

クスクスと笑う音々の笑顔、久しぶりに見たその笑顔が凄く尊い物に感じた。

【音々】
「誠人さん、来ていただいて早々申し訳ないんですが、少しだけ席を外していただけますか?」

【一条】
「着替えか?」

【音々】
「はい、このままの恰好では少し恥ずかしいので……」

【一条】
「俺はそれでもかまわないのにな」

俺は寝巻き姿の音々も嫌いじゃない、いや、むしろ好きだと云っても良いか。

【音々】
「私だって女の子ですよ、女の子が服装に気を使うのは当然です」

そう云ってかけられていたハンガーを1つ下ろす。

【一条】
「ちょっと待った、その服って……」

【音々】
「学校の制服です、今日はこれを着ようって決めてたんです」

【一条】
「どうしてまた制服を?」

【音々】
「それはですね……ふふ、ひ……み……つ、です」

ひ……み……つのタイミングに合わせて指を振り、悪戯っ子のように小さく笑う。
しかしなんで制服なんだろう、普段着は他にもいくつかかかっているのに?

【音々】
「では、着替えますから少しの間だけ外にいていただけますか?」

【一条】
「あいよ」

……

【音々】
「もう大丈夫ですよ」

病室に入ると学校の制服に身を包んだ音々の姿。

【音々】
「どうですか? 似合ってますか?」

モデルのようにターンを決めて俺に感想を求めてくる。

【一条】
「似合ってるよ、制服だけじゃなくて寝巻き姿も、私服姿もね」

【音々】
「ありがとうございます、誠人さんにそう云ってもらえるのが一番嬉しいです」

【一条】
「それで、どうして制服を選んだんだ?」

【音々】
「それはまだ秘密です、もうちょっとしたら教えてあげますから。
それじゃあ行きましょうか?」

【一条】
「行くってどこに?」

【音々】
「決まってるじゃないですか、外はこんなに良いお天気なんですよ。
こんなに眩しく太陽が出てるのに、部屋の中になんていたら勿体ないですよ」

【一条】
「確かに良い天気だけど、おまえ外出は……」

【音々】
「大丈夫ですよ、今日1日だけ外出の許可をいただきましたから。
誠人さんをお呼びしたのもその為です」

【一条】
「は? え? どうしてまた?」

【音々】
「細かいことは抜きにしまして、今日一日だけ私のわがままに付き合っていただけませんか?」

【一条】
「それはかまわないけど……」

【音々】
「決まりですね、そうと決まれば早く行きましょう、お休みは今日しかないんですよ?」

【一条】
「ちょっと待った! 行くのはかまわないけど薬は持ったのか?」

以前俺の眼の前で音々は倒れた、あれは俺たちの初デートの日だったな。
あの日、音々は薬を持っていなかった、薬の有無を確認しなかった俺のミスだ。
もう二度とそんなミスは侵したくはなかった、眼の前で苦しむ音々を見たくなかったから……

【音々】
「大丈夫ですよ、ちゃんと持ってますから」

制服の内ポケットから薬の入った小瓶を見せた。

【一条】
「今回は持ってるみたいだな」

【音々】
「私だって誠人さんがなんて云うかくらいお見通しです」

【一条】
「さいですか、それではお嬢様、お好きなところへどうぞ」

……

外出許可は出ているものの遠出は許されていないらしく、病院の周りを2人でゆったりと散歩した。
特別どこかに行くわけでもない、ただ散歩をしているだけだけど俺はそれでも十分だった。

【一条】
「しかし五月も半ばになると熱いな、音々は大丈夫?」

【音々】
「私はこのくらいならまだ大丈夫ですよ、誠人さんは辛いですか?」

【一条】
「辛いって云うほどじゃ……」

本当は今も体調は思わしくない、昨日一昨日に比べたらはるかにマシだけど万全には程遠い。
朝日はそれほどでもなかったけど昼をまわっての太陽は少しばかり辛いものがある。
気力は大丈夫なつもりでも、体は正直に不調を訴えた。

【一条】
「っあ……」

【音々】
「誠人さん危ない!」

フラリと足がよろけ、倒れそうになったところを音々に支えられた。

【一条】
「悪い、ありがとな……ちょっとね、数日前まで体調悪かったから」

【音々】
「あ、すみません、私ったらそんなことも考えずに……
そうだ、それでしたら陽が低くなるまで少し休みませんか?」

【一条】
「音々がそれで良いんなら俺もそれで良いよ」

……

【音々】
「こっちですよー」

音々の案内に従って後をついて行く、一体音々は俺をどこに連れて行こうっていうんだ?

【音々】
「はい、到着です」

【一条】
「ここは……?」

そこは病院の裏手、患者の散歩道やゆったりと腰掛けられるベンチ。
青々と茂った緑の木々が辺りを彩っている。
そして音々が連れてきたのは1本の大きな木の下……

音々はそっと木の肌を撫で、俺に向き直る

【音々】
「ここなら日陰になって暑さも和らいでいますよ、少しお待ちくださいね」

そう云うと音々は芝の上ににぺたんと座り込み、膝にかかるスカートをちょいちょいと調えた。

【音々】
「お待たせしました、どうぞ」

【一条】
「どうぞって云われても……これってやっぱり……」

【音々】
「膝枕ですよ、地べたに直接頭を置くよりは幾分かましかと思いますので」

【一条】
「俺は別に座ってるだけでも……」

【音々】
「駄目ですよ、体調が優れない時は横になるのが一番です。
それとも、やっぱり私の足じゃ満足していただけませんか?」

【一条】
「ぐぅ……」

そう云われてしまうと俺にはもうどうすることもできないんだよな……

【一条】
「それじゃあの……お言葉に甘えて」

【音々】
「はい」

芝の上に腰を下ろし、ゆっくりと音々の太股に頭を預けた。
薄いスカート地の下から太股の柔らかさとはんなりした温かさが伝わってくる。

【音々】
「どうですか、気持ち良いですか?」

それは一体どっちの意味で取れば良いんだ?
日陰の涼しさが気持ち良いのか? それとも音々の太股の感触が気持ち良いのか?

【一条】
「ああ、気持ち良いよ……」

【音々】
「良かった、芝生の方が良いって云われたらショックを受けるところでした」

さっきの問いかけの意味は後者だったんだ……

【音々】
「陽が低くなるまでずっとしていてあげますから、ゆっくり休んでくださいね」

背中に感じる芝生の冷たさと、音々の太股の温かさの対比がなんだか心地良い。

【一条】
「なあ……まだ教えてくれないのか?」

【音々】
「制服のことですか?」

【一条】
「ああ、他にも普段着はいくつかかかってたのに、どうして制服を選んだんだ?」

【音々】
「気になりますか?」

【一条】
「そりゃなあ……あえて制服を着るってことは何か意味があってのことだろ?」

【音々】
「誠人さんは制服お好きじゃありませんでしたっけ?」

【一条】
「……俺そんなこと云ったっけ?」

【音々】
「云ってないと思いますよ」

【一条】
「あのなぁ……」

どうやらまだ話す気は無いみたいだな。
こんな時だけ俺は音々の話術に勝てない……

【音々】
「もう少ししたら、全部お話しますよ」

くすりと含みのある笑みを楽しそうにもらした。

【音々】
「あの……1つ聞いてもよろしいですか?」

【一条】
「なんでもどうぞ」

【音々】
「誠人さんは、私と出会って良かったと思いますか?」

【一条】
「唐突だな、どうしてまた急に?」

【音々】
「私は誠人さんに出会って色々なところを変えていくことができました。
臆病な自分の気持ち、明日を信じる気持ち、それから人を好きになる気持ち……」

【音々】
「誠人さんを初めてお会いした時感じたんです、なんだかこの人私と似てるなって……
感じただけで、実際には私なんか及びもしないほどに凄い人でしたけど……」

【一条】
「……音々?」

【音々】
「もし誠人さんと出会うことが無かったら、私は一生手術を受けようなんて思わなかったでしょうね」

ゆっくりと音々の手が俺の胸に添えられ、その手が俺を包み込むように交差される。

【音々】
「私がここまで変わることができたのも全部誠人さんのおかげです。
誠人さんに出会うことができて、本当に良かった……」

【音々】
「この桜、いつか2人で見れる日が来ますように……」

【一条】
「見れるさ、絶対にね……」

【音々】
「……はい」

【一条】
「音々が帰ってくるまで待ってるから、戻ってくる時は一言連絡を入れてくれないか?
俺はこの桜の木の下で待ってるから、2人の再会の場所はここだ……」

【音々】
「……はい!」

今まで見た中でももっともかわいらしく、もっとも明るい音々の笑顔が俺の視界の中ではじけていた……

……

【音々】
「日もだいぶ傾いてきましたね、お体の具合はどうですか?」

【一条】
「もう大丈夫だよ、っと」

立ち上がって軽く伸びをする、体は痛むがさっきのような気だるさはもう無かった。

【音々】
「もしお体の具合がよろしいのであれば、もう少しだけ私に付き合っていただけませんか?」

【一条】
「OK、膝枕のサービスもしてもらったし、なんでもしてやるよ」

……

【音々】
「このまま真っ直ぐ、もう少ししたらつきますから」

【一条】
「何でもしてやるとは云ったけどさ……」

【音々】
「男に二言は無しですよ、それに私たち付き合ってるんですから」

俺の横にぴったりくっついた音々が腕を絡めている。
よくカップルがやっているのを見たことがあるけど、自分でやるとこうも恥ずかしいものだとは……

【音々】
「どうしたんですか? なんだか難しい顔してますよ?」

【一条】
「いや、ちょっと自分と戦いをね……?」

【音々】
「?」

言葉の意味がわからずに頭の上に疑問符が浮かんでいる。
さすがになんだとは云えないよ……

【一条】
「だけどちょっと意外だったな、恥ずかしがり屋の音々がまさか腕を組んでくれなんて云うなんてな」

【音々】
「意外ですか? これも全部誠人さんのおかげなんですよ、内気だった私がちょっぴり大胆になれたのも」

【一条】
「確かに、先日は音々とは思えない大胆さだったな」

【音々】
「そ、それとこれとは違います、誠人さんやらしいですよ」

【一条】
「男の子ですから」

【音々】
「答えになってませんよ……」

【一条】
「冗談だよ、それでその目的地ってのはまだ先か?」

【音々】
「もうすぐですよ……あ、見えてきました」

【一条】
「あれって……」

音々が指す指の先に見えるのは小さな広場、公園と云った方が良いかな。

【音々】
「到着です、結構距離があったんですけど辛くないですか?」

【一条】
「そこまで柔じゃないさ、それよりもどうしてここに?」

【音々】
「一度乗ってみたかったんです、あれに」

音々が見つめる先にあるのは小さなブランコだった。

【一条】
「ブランコ?」

【音々】
「はい、私の幼少時代は常に病室の中でしたから、他の子が楽しそうに遊ぶ姿をただ見ているだけしかできなかった。
いつか私もあちらの世界に行けると思いながらも、気が付いてみればもうこんなに大きくなってしまって」

音々にとって、他の子と外で遊ぶことは一種の憧れだったのかもしれないな。

【音々】
「さすがにこの歳になってしまうとブランコに乗るのも恥ずかしくて……」

【一条】
「良いじゃないか、いつまでも子供心を忘れないことは大切なことだぞ。
ほら、乗ってこいよ」

【音々】
「はい」

二本の鎖を掴み、ゆっくりと板の上に腰を下ろす。

【音々】
「あ、あの、これからどうしたら良いんですか?」

【一条】
「軽く助走をつけて後は反動に合わせて足を出したり引いたりするんだけど……
折角俺がいるんだからこっちの方が楽だろ」

板の上にチョンと腰を下ろした音々の背中を軽く押してやる。

【音々】
「わわ、ま、誠人さん」

【一条】
「音々は乗ってるだけで良いから、しっかり鎖を掴んでるんだ」

振り子運動の法則によって戻ってきた音々の背中を再び押してやる、今度はちょと強めに……

【音々】
「はわわ、早いですよ」

【一条】
「強く押したんだから勢いがつくのも当然さ、で、初めてのブランコはどんな感じ?」

【音々】
「ちょっと怖いです……けど、とても気持ち良いです、なんだか風と一体になってる感じがします」

【一条】
「お気に召したようで」

その後も俺は戻ってくる音々の背中を押し続けた。
こんなことで幼少時代の願いを清算できるかは分からないけど、俺は大きくなってしまた女の子の背中を押し続けた。

【音々】
「ありがとうございます誠人さん……これでもう思い残すことは無いです」

【一条】
「何か云ったか?」

【音々】
「いえ、風が気持ち良いなって、そう思っただけですよ」

背を向けているから彼には分からないだろう。
ブランコに揺られながら、少女の瞳から一筋の涙が流れていた……

……

【音々】
「ねえ誠人さん、どうして私が今日この制服を着たのかおわかりですか?」

ブランコに腰掛けたままポツリとそんなことを呟く。

【一条】
「……俺なりに色々と考えてはみたけど、残念ながらお手上げだよ」

いくら考えてみても音々が制服を着る意図は分からなかった。
何故今日に限って進んで制服を選んだのか、俺の思考回路ではわからなかった。

【音々】
「そろそろ教えてあげますね、私がどうして今日制服を選んだのか……」

【一条】
「……」

【音々】
「もう今日しかなかったから、この制服を着て誠人さんと過ごすことができるのは今日だけだったから。
最後に一度だけ、この姿のまま、この制服に身を包んだまま、誠人さんとデートしたかったから……」

【一条】
「最後? それってどういうことだよ」

【音々】
「今まで黙っていてごめんなさい、もっと早く云えたら良かったんですけど。
やっぱりまだ私は臆病ですね……」

【一条】
「さっきから何を云ってるんだ? 俺にはまだ何のことだか……」

すくっと音々は立ち上がり公園の中央までゆっくりと歩を進めた。

【音々】
「不思議だと思いませんか? どうして私に今日外出許可が下りたのか?」

【一条】
「それは確かに不思議だけど……」

【音々】
「私のような体にはもう外出許可なんて下りるはず無いのに、今日だけ特別に下ろしていただいた……
今日が私にとって最後だから、私が自由に動ける最後の日だから……」

【一条】
「音々……」

次に振り返った時、音々はいつもどおりの柔らかい笑顔で俺に告げた。

【音々】
「明日向こうへ旅立ちます、だから、今日が一緒に過ごせる最後の日なんです……」

【一条】
「……え」

一瞬言葉を失ってしまった、その時俺は一体どんな顔をしていたのだろう。

【音々】
「ふふ、おかしな誠人さん……泣いてらっしゃいますよ」

【一条】
「え?……」

目じりを擦ると確かに濡れていた、指を濡らした物の正体は紛れも無い俺の涙。

【一条】
「はは、俺どうして泣いてるんだろうな、喜ばなきゃいけないところなのに……」

【音々】
「その涙は悲しみから来る涙ですか?それとも……」

【一条】
「嬉し泣きに、決まってるじゃないか」

再びにっこりと音々は微笑んだ、もし音々が笑ってくれなかったら、俺は大泣きしていたかもしれない。

【音々】
「必ず、必ずまた帰ってきますから、この体を治して帰ってきますから。
そうしたらあの桜の木の下で、私を抱きしめてくれませんか?」

【一条】
「ああ、きつく抱きしめてやるさ」

【音々】
「ギューって、もう2度と離れてしまうことが無いように、私を誠人さんの物にしてください」

【一条】
「約束するよ、だから、絶対に元気になって帰って来いよ」

【音々】
「はい……だけどその前に、私に最後の勇気を下さい。
少しの間だけ、私が誠人さんの元を離れていてもがんばっていけるように」

【音々】
「……キス、していただけませんか?」

【一条】
「……あぁ」

はんなりと顔を赤らめた音々の肩を抱き、ゆっくりと唇を近づける。
2人の唇が触れようとした瞬間……手の中から音々の感触が消えた。

【音々】
「あ……ぐ……くぁ……うぅ……」

【一条】
「音々!」

地面に膝をつき、苦しそうな声とともに胸元の衣服を強く握り締める。
もう何度か見たこの光景、音々の命を蝕む病魔の暴走……発作だ。

【一条】
「早く薬を、確か内ポケットに……これか!」

幸いにもここにくる途中、自販機でお茶を買っていたので水の心配は無かった。

【一条】
「ほら、早く飲むんだ」

【音々】
「だ……駄目です……その薬は……効きません……から」

【一条】
「効かないわけじゃないだろ、効き目が薄くても飲まないよりはずっとマシ……」

【音々】
「その薬……中身はただの栄養剤ですから……飲んでも……発作は治まりません」

【一条】
「なんだって! おまえなんてことしてるんだよ、どうして本当の薬を持ってこなかったんだ!?」

【音々】
「今日だけは……普通の女の子で……いたかったから……病気のことは考えないで……
大好きな人と……最後くらい……普通の女の子として過ごしたかったから……あうぅ!」

【一条】
「!」

莫迦だ、大莫迦者だ、本当の薬を持ってこなかった音々も……その薬を確認しなかった俺も。
大莫迦者だ……

【音々】
「あ……くぅ……かは……ぁぐ……うぅん」

胸を押さえたまま小刻みに震えだす、薬を飲まないと音々に残された時間はほとんど無いも同じ。
こんな時俺はどうすれば良いんだ、俺はまた辛そうにしている音々を見ているだけしかできないのか……!

【一条】
「……!」

震える音々の体を抱き上げ、俺は決心を決めた。

【一条】
「少しだけ辛抱してくれ……俺が、絶対に助けてやるから!」

音々を抱き上げたまま、俺は駆け出した。
人を呼びに云っていてはもう間に合わない、そう考えた俺の行動はこうするしかなかった。
足が地面を離れ、再び地面につくと体に痛みが駆け抜ける。
歩いている分には痛みもあまり感じなかったけど、走ると一昨日のような痛みが体を駆け抜けた。

【一条】
「ぐ……ぁ……」

体を引き裂くような嫌な痛み、しかし、そんな痛みを受けながらも俺の足は止まることを知らなかった。
俺の体以上に音々の体は悲鳴を上げているんだ、音々の痛みに比べたら俺の痛みなんて小さなものだ!

【一条】
「っく……!」

意識さえも吹き飛びそうな痛みを必死で堪え、俺は病院へと足を進めた。
頼む……間に合ってくれ!

……

集中治療室の赤いランプが爛々と灯っている。
もうどのくらいの時間が流れたのだろう、俺が何とか音々を病院まで連れてきて。
看護婦さんが秋山先生に連絡を入れて、音々がベッドに寝かされて連れて行かれて。

【一条】
「音々……」

灯るランプを睨みつける、このランプが消えた時、迎える結果は2つに1つ。
音々は助かるのか、それとも……止めよう、そんなこと考えるもんじゃない。

ポーンという軽い音と共に、灯っていたランプは消沈する。
治療室の扉が開いて秋山先生が現れる……

【一条】
「先生、音々は……音々はどうなりました!」

【秋山】
「……」

【一条】
「……まさか」

最悪の展開が頭を過ぎる、もしそうだとしたら俺は……

【秋山】
「ご安心ください、何とか最悪の展開は回避できましたよ」

【一条】
「そ、そうですか……良かった」

ホッと胸を撫で下ろす俺に、秋山先生は深々と頭を下げる。

【秋山】
「申し訳ない、不用意に私が外出の許可を出したばかりに……」

【一条】
「頭を上げてくださいよ、秋山先生は悪くないです、誰も悪くなかった。
ただ、皆少しだけ展開を読むことができなかっただけですから……」

俺も、音々も、秋山先生も、こんなケースを予測できなかったからこそ今回のことは起きてしまったんだ。
誰も悪くない、あえて云うとすれば、運が悪かった……俺にはそうとしか云えなかった。

【一条】
「先生、あいつ今意識の方は……?」

【秋山】
「意識ははっきりとしています、今日一日ゆっくりと休めば明日は大丈夫だと思います」

【一条】
「明日、あいつは旅立つんですよね……?」

【秋山】
「はい、彼女から聞かされましたか?」

【一条】
「はい……突然で驚きましたけど」

【秋山】
「本当ならば月の最後に渡ろうと思ったんですが……
こちらの事情で君には迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ない」

【一条】
「謝らないでくださいよ、それがあいつのためなら、それが一番良いんですから」

もはや音々には1分1秒の余裕も無いのかもしれない、だから出立も早められたのかもしれないな。

【一条】
「先生……あいつに会うこと、できませんか?」

【秋山】
「本来ならばご遠慮願いたいところなんですが……
彼女はいつもと同じ病室にいますから、思う存分話してきてください、お互いに悔いが残らないように……」

それだけ云い残して、先生は背を向けて去っていった。

……

コンコン

ノックをしても返事は無い、それでも俺は病室の扉を開けた。

【一条】
「……」

【音々】
「うぅん……誠人さん?」

【一条】
「ああ……気分はどうだ?」

【音々】
「少しだけまだ痛いです……」

【一条】
「そうか……」

【音々】
「申し訳ありませんでした、私のわがままで誠人さんに迷惑をかけて。
私ってばいつも誠人さんに迷惑かけてますね……」

【一条】
「気にすることはないさ……男は惚れた女のためならなんだってできちゃうもんだからな」

【音々】
「……怒ってないんですか?」

【一条】
「俺が怒ったところでもう意味なんて無いさ、過ぎてしまったらもう遅いんだから」

【音々】
「うぅ……ごめんなさい……私……私……」

ベッドの中で音々は泣き出してしまう、自分のせいで事が大きくなったことを悔やんでいるんだろう。
俺はそっと溢れる涙を拭ってやった。

【一条】
「気付いてやれなかった俺が悪いんだ、こんなんじゃ彼氏失格だな」

【音々】
「そんなことはありません……私の方こそ、誠人さんの彼女失格です……」

【一条】
「失格か……このままだと俺たちはいつまでたっても失格なのかもしれないな」

【音々】
「……誠人さん」

少しの間2人が離れ離れになるのはもしかしたら良い機会なのかもしれない。

【一条】
「今が失格なら、合格に向かって努力すれば良い。
俺たちにはまだ舞台が残ってるんだから……」

2人の再会の日、それが俺たちが本当に、心から恋人同士になる日なのかもしれない……

【一条】
「2人がまた今度会う日まで、お互いにがんばろうな」

【音々】
「……はい」

【一条】
「それじゃ今日はゆっくり休んでくれ……俺はこれで」

【音々】
「あ、待ってください……!」

【一条】
「……どうかしたのか?」

立ち去ろうとした俺の手を音々が握り締めて静止する。

【音々】
「あの……少しだけ、手を握っていていただけませんか?
私が眠るまで、それまでで結構ですから……」

確か前にもこんなことがあった、その時も音々が発作で元気が無い時だったな。

【音々】
「やっぱり、怖いんです……明日から誠人さんに会えないのが、だから最後の日はなるべく長い間2人でいたいんです」

【一条】
「音々……」

【音々】
「駄目……でしょうか?」

【一条】
「駄目……なわけないだろ、音々が怖さを忘れて眠りにつけるまで、この手は離さないよ」

ギュッと音々の手を握ると音々も俺の手に力を込めた。

【音々】
「嬉しいです、私は幸せ者ですね……お休みなさい」

【一条】
「お休み……」

2人の手がつながれたまま、少女は眼を閉じた。
お互いの手を伝う温もりは冷めることもなく、少女を暖かく包み込んでいた……

……

【音々】
「すぅ……すぅ……」

やがて小さな寝息を立てて、音々は眠りについていた。

【一条】
「眠ったか……」

眠ったのを確認してからゆっくりと握っていた手を離す。
意識が途絶えて力を無くした手は簡単に手放された……

【一条】
「手術、がんばってこいよ……」

……チュ

さっきできなかった最後のキス、俺はできるだけの優しさを込めて、音々の頬にキスをした……

【音々】
「う……んぅ……」

こそばゆそうに小さな声を上げるが、再び小さな寝息を立てて眠ってしまう。

【一条】
「ごめんな……最後のキスがこんな形で……」

俺は薄っすらと何かを感じていた、それは俺の身体のこと……
もうかなり時間が経ったというのに、俺の心臓を一向に治まる気配を見せない。
治まるどころか、徐々に脈は早く打ち始めていた……

【一条】
「っぐ……!」

突然やってくる心臓を握りつぶすような痛みに思わず膝をついてしまう。

【一条】
「っが……あ……」

しかし痛みは一瞬で引く、代わりに体を内側から焼き尽くすような熱さが襲う。

【一条】
「あ……あぁ……う」

何とか立ち上がって病室を出ようとするが、俺にはもうそんな体力は残されていなかった。
立ち上がった足はフラフラと音々が背を向ける病室の窓際にぶつかり、そのまま腰が砕けた。

【一条】
「はぁ……はぁ……どうやら、俺もここまでかな」

こんな状況の中でも、俺は驚くほどに落ち着いていた。
この先どうなってしまうのか、俺にはなんとなく展開が読めていたから……

【一条】
「ごめん……約束、果たせないかもしれないよ……」

眠っている彼女の背に向けて、俺はただ謝ることしかできなかった……
徐々に体を焼き尽くす熱さも無くなり、不思議な暖かさが俺を包み始めていた……

【一条】
「俺がいなくても、ちゃんと体治して帰って来るんだぞ……」

少女の背に向かって、俺は自分ができる精一杯の笑顔で。
最後の言葉を告げた……

【一条】
「今までありがとう……もし再び出会うことができたら、その時は……」

【一条】
「……さよなら」

夕日が差し込む病室の中、その部屋の中にはベッドで眠る少女が1人。
男の姿はもう無い、そこにいた形跡さえも残ってはいなかった……

【音々】
「うぅ……ひっく……」

眠っていたのと同じ体勢のまま、ベッドの中で少女はすすり泣いていた。

【音々】
「ひっく……誠人さん……」

少女の眼はとっくに覚めていた、しかし、彼を気遣って寝た振りを演じていたんだ……
声を上げて泣くことはできない、もし大声で泣いてしまえば少女は強くなれないと知っていたから。

流れる涙は止まることを知らない、シーツに染みができてしまうほど彼女の涙は流れていた。

【音々】
「こんなお別れなんて……無いですよ……」

夕日で橙に染められた病室の中、声にならない声で少女は泣き続けた。
窓の外では一羽の真っ白な鳩が、翼を広げ、果てない空に向かって大きく羽ばたいていた……





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