【エピローグ】


病院の廊下を二人の医者が並んで歩く。
1人は初老の男性、もう1人はまだ20代も半ばの若い医者……

【秋山】
「あれからもう1年ですね……」

【新藤】
「早いものだよ……」

【秋山】
「長かったはずなのに、あっという間に過ぎ去ってしまったような、そんな感じですね」

【新藤】
「そんな感じだな……」

この2人の会話はいつもこんな感じ、秋山の言葉に新藤はいつも素っ気無い返事を返す。
これでもちゃんと会話として成り立っている、片方が演説台で、もう片方が演説を聞いている側だった時から。
2人はいつもいつもこんな感じだった……

【秋山】
「彼女が海外に渡って、手術を受けて再びここに戻ってきて……
本当に早かったですね」

秋山の云う彼女とは自分が受け持っていた患者である『姫崎 音々』のこと。
1年前、奇病を持ち合わせていた心臓の移植手術を受けるために海外へと飛んだ。
海外で彼女の執刀を行ったのは他でもない隣にいる新藤だった……

【新藤】
「あの日のことは今でも鮮明に覚えているよ、あの手術は私の一世一代最後の心臓手術になるだろうね」

【秋山】
「先生はもう1度心臓外科として歩む気持ちは無いんですか?」

【新藤】
「今の私は心臓外科ではなく脳外科の医者だ、今更古巣に戻ろうとは思わんよ」

【秋山】
「相変わらず頑固ですね」

【新藤】
「頑固じゃないさ、もう1度同じことをしても人生面白くないだろ?」

【秋山】
「なるほど、先生らしい考えですね」

2人の間に声無き笑みが交わされる、2人ともお互いを知り尽くしているからこそ、そこに声はいらないんだ。
新藤から次の言葉があると思い、秋山は黙って足を進めていた
しかし、新藤から次の言葉は聞かれなかった……

【秋山】
「先生?」

【新藤】
「どこまで行くのかね? 目的地はもう過ぎてしまっているぞ」

秋山の数メートル後ろで新藤は立ち止まっていた。

【秋山】
「あ、すいません」

慌てて進んだ道を戻る、新藤が立っていたのはある病室の前、2人の目的地はここだ。
入院している患者を示す病室のプレートにはまだ名札が入れられている。
『姫崎 音々』、プレートに書き込まれていた名前はある少女の名前だった……

秋山が病室の扉を開ける。

広がるのは白いベットと白いシーツ、それから白に塗り固められた病室の壁だった。
そこに少女の姿は無い、それどころかこの病室には人がいた形跡すら無くなっていた。
きちんと布団とシーツがたたまれて、新しい患者を迎え入れる準備が整った始まりの姿をしていた。

【秋山】
「……」

病室に入ってぐるりと部屋を見回す、それから小さな溜め息をひとつだけ吐いた。

【新藤】
「……もう十分かな?」

【秋山】
「……はい」

病室を出る前にもう1度、中をゆっくりと見渡した。
男はそこに何を見ていたのだろうか……?

【新藤】
「さあ、君の最後の仕事だ」

秋山に残された最後の仕事、それは……

【秋山】
「……」

すっと名前が書かれたプレートを抜き取った。

【新藤】
「行こうか……」

【秋山】
「はい……」

このプレートはもはや意味を成さない、プレートが意味を成すのは患者が病室に入っている間だけ。
ここはすでに主を失った病室、もうこの病室に、彼女が存在することは無いのだから……

……

【新藤】
「コーヒーで良いかな?」

【秋山】
「何でもかまいませんよ」

最後の仕事を終え、秋山は新藤にお茶を誘われた。
この後特に用事の無かった秋山はごちそうになることにした。

【新藤】
「秋山君は角砂糖1つにミルク1杯だったね?」

【秋山】
「良く覚えていますね、先生とコーヒーを飲んだのなんて随分と前の話なのに」

【新藤】
「割かし記憶力はいい方でね……さあ、どうぞ」

新藤から渡されたカップの中にはミルクで透明感を失ったコーヒーがゆらゆらと揺れていた。

【新藤】
「それにしても……彼女は良くがんばったよ」

【秋山】
「ええ、そうですね……」

彼女、『姫崎 音々』は手術を終えた後、再びこの病院へと戻ってきた。
移植した心臓の反発も見られなかったため、手術後1ヶ月で彼女は戻ってきた。
しかし、戻ってきても彼女が自由になることは無かった、いつ反発が起こるか分からないので病院での様子見とリハビリが続いた……

【新藤】
「こっちに戻ってきて、彼女は前にも増して病院の中に縛り付けられてリハビリを行っていた。
だけど、彼女は文句の1つも云わなかったね……」

【秋山】
「本当に、強い女の子でしたね……」

【新藤】
「彼女自身が強いのもあったろうが、その他にも彼女を支える何かがあったんだよ。
それがあったからこそ、あれから彼女は1年近くもの間がんばることができたんだ……」

【秋山】
「その他の何か……ですか?」

【新藤】
「ああ、きっとある1人の青年のこと、あの青年の力があったから、彼女は最後までがんばれたんだろうな」

【秋山】
「最後に見せてくれた彼女の顔、最高の笑顔でしたね……」

2人に向けて彼女が最後に見せた顔、それは彼女ができる心からの笑顔だった。

しばしの間2人の間に言葉が無くなる、2人ともその時のことを思い出しているのだろうか?
言葉を無くし、代わりにコーヒーをすする音だけが病室の中で響いていた。
やがて再び病室に声が戻ってくる、先に口を開いたのは秋山の方……

【秋山】
「だけど、いつも先生が云っているある青年って誰のことなんですか?」

【新藤】
「君も会ったことのある人物だよ、そのうちわかる日が来るさ」

あの日から、秋山の中からある青年の記憶は消えていた。
秋山だけじゃない、看護婦や他の医者の中からも青年の記憶は消えていた。
そんな中、新藤の頭にはしっかりと青年の記憶が残っていた、いつも彼女の助けになっていたある青年のことが……

【秋山】
「先生からそれが誰なのか教えてはくれないんですか?」

【新藤】
「答えは自分でみつけてくれたまえ、その方が脳も刺激されてボケ防止になる」

【秋山】
「私はまだボケが始まるような歳じゃないですよ」

【新藤】
「それもそうか」

再び声無き笑いが2人の間で交わされる、ゆったりとした時間の中、カップの中でコーヒーが揺れる。

【看護婦】
「新藤先生、いらっしゃいますか?」

ノックの音ともに看護婦の声が聞こえる。

【新藤】
「開いてますよ、どうぞ」

【看護婦】
「失礼します……先生、また診察室でお茶しましたね」

【新藤】
「ばれたか、全く君には敵わんな」

ばれる以前にこんなにコーヒーの匂いが漂っていれば誰だって気付くことだろう。
花束を抱きかかえた看護婦はやれやれといった感じに小さく溜め息を吐いた。

【看護婦】
「頼まれた物、買ってきましたよ」

はい、と看護婦の手から新藤に花束を渡す。

【看護婦】
「本当にこんなので良かったんですか?」

【新藤】
「ああ、これじゃないと駄目なんだよ」

【看護婦】
「そうなんですか、それでは私はこれで、秋山先生も新藤先生みたいになっては駄目ですよ」

【秋山】
「はは……善処します」

看護婦に杭を刺されてしまった、今度からは控えた方が良いかもな……

【秋山】
「花束……ですか」

【新藤】
「ああ、看護婦に頼んで買いに行ってもらってたんだよ」

【秋山】
「だけどその花束、ちょっと大人しすぎませんか?」

【新藤】
「大人しい方が良いんだよ、賑やかすぎては失礼だからね……」

【新藤】
「手向けの花は、これくらいの方が良いんだよ……」

……

桜の木、この病院に1本だけ植えられている大きな桜。
その木の根本に、そっと花束が添えられる。
極力明るい色を押さえ、赤や橙よりも白がメインとなった花束……

花束を添え、ゆっくりと桜の木を見上げた……

【音々】
「……」

桜の木を見上げ、少女は1人でたたずんでいた。

【音々】
「あれからもう1年……もう1年も経ってしまったんですね」

1年前の今日、彼女は今と同じように桜の木の前にいた。

【音々】
「私、治ったんですよ……完全にではないですけど、私生活は何の支障も無く送れるくらいに回復したんですよ。
手術をしてここに戻ってきてリハビリを受けて……辛かったですけどがんばりました」

【音々】
「今日、私の退院日なんです……不思議ですよね、まさか同じ日になるなんて」

彼女の言葉は人に向けて喋っているのではない、彼女は空に向かって語りかけているんだ。

【音々】
「折角体が治って、これでやっと約束が果たせると思ったのに……」

1年前少女が交わした約束、それはこの桜の木の下である人と再会し、その人に強く抱きしめてもらうこと……
しかし、桜の木の下には少女の姿しかない。

【音々】
「今年の桜は遅咲きなんですよ、今がちょうど見ごろ、満開とまではいきませんが十分に綺麗ですよ……」

少女は桜の木に歩み寄り、優しい手つきで木の肌を撫でた。

【音々】
「本当なら、一緒に見ることができたはずなのに……私が治ればそれで大団円だったはずなのに」

【音々】
「……誠人さん」

誠人、本当ならここで少女が再会するはずだった青年の名前。
その名前を口にするだけで、胸の奥が寂しい気持ちになる……

【音々】
「恋はいつも突然やって来て、突然に全てを終えてしまう……
私たちの恋も、そんな世界が見せた一事の幻だったんでしょうか……」

すっと桜の幹に頬を寄せる、夏の顔を見せ始めた太陽から遮られていたせいか幹はひんやりと冷たかった。

【音々】
「冷たい……まるで私の心の中みたい……」

少女の心の中にはいつも青年への思いがあった、しかし、それも今となっては悲しいだけ。
叶わぬ夢を見続けているみたいに、心の中は冷め切っていた……

【音々】
「誠人さん……今まで我慢してきましたけど、今日だけ泣いちゃ駄目ですか?……」

1年前、少女は一生分に相当するほどの涙を流した。
それからというもの、少女は1度たりとも泣くことは無かった、勿論涙が枯れてしまったのではない。
いや、泣くことが無かったのではない……泣くことができなかったんだ。

【音々】
「私はまだまだ、強い女の子にはなれませんね……」

少女の瞳に涙が溢れ、その涙が堪えきれなくなり瞳からこぼれようとした瞬間。
少し強めの風が少女に向かって吹き荒れた……

【音々】
「きゃ!」

スカートが風でなびいてしまうのを防ぐために両手でスカートを押さえつける。
押さえられているためスカートが風に舞うことはなかった。
しかし、押さえの何も無い頭上、少女が身につけていた鍔広の帽子がふわりと風にさらわれた。

【音々】
「あ!……」

気付いた時にはもう遅い、帽子は風に吹き上げられ天高く舞い上がっていた。
吹き続ける風の中、手をどかすこともできず、少女は風に舞う帽子を見つめていた。
後で地に戻ってきた帽子を探しに行かなくちゃいけないと少女が思った、その時……

桜の木から1羽の白い鳩が飛び立ち、風に遊ばれる帽子をくちばしに咥えた。
帽子を確保した白い鳩はそのまま再び桜の木へと戻ってくる。
その際、少女の上を小さく旋回し、パッと咥えていた帽子を放した……

【音々】
「わわ、とと……」

ふわふわと風になびきながら帽子が少女の手の中へと戻ってくる。
少女が帽子を手にしたのを確認してから、白い鳩は大空へと飛び去っていった……

これは偶然なのだろうか?

おそらく偶然だろう、しかし彼女の中では違う考えがめぐらされていた……

【音々】
「ありえないことが現実として起きる、それが奇跡……」

起きないからこそそれは奇跡という、しかし、起きないはずの奇跡が今眼の前で形となって現れていた……
飛び去った鳩の姿、その姿に一瞬だけ、少女は青年の面影を感じたような気がした……

【音々】
「誠人さん……」

ギュッと帽子を抱きしめ、桜の木を見上げた。

【音々】
「そうですよね……私が泣いてしまったら、誠人さんは喜んでなんかくれませんよね」

帽子を被り直し、もう1度桜の幹に触れた。

【音々】
「信じていればきっといつかは報われる、信じていなければそこで終わり、決して報われることなんかありませんよね」

奇跡が決して起きないということはない、何故なら少女の体が治ったのもまた奇跡なのだから……

【音々】
「信じていますから……いつまでもいつまでも、他の皆が忘れてしまっても。
私はずっと想い続けていますから……」

【音々】
「奇跡が起きるその日が来るまで、涙はお預けですね……」

少女の声はさっきまでの寂しさに満ちた冷め切った声ではない。
期待に満ち溢れ、今日からその先に向かって生きる希望を繋ぐ声だった。

【音々】
「2人が再会できたら、その時はうんと強く抱きしめてくださいね、誠人さん」

再び見上げた桜に柔らかい風が吹き付け、さわさわと柔らかい音をたてた。
まるで少女の呼びかけに応えているかのように、桜は優しく音を紡ぎ続けた……

もう1度2人が再開する日が来るまで、それまで涙はお預け。
それは、少女が自分自身と結んだ小さな約束だった……



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