【5月10日(土)】


今日は目覚ましが鳴り響くよりも先に起きた。
早起きをしようと思ってしたんじゃない、体に走る痛みで強制的に眼を覚まされた。

【一条】
「日に日に痛みが増してる気がする……いたた」

昨日は筋肉痛程度の痛みだと思っていたが、今日の痛みは確実にどこかに異状がある痛みだ。
しかも始めは腰だけだったのに、今日は体の節々まで痛んできている。

【一条】
「これ以上酷くなるようなら病院だな……」

体を駆ける鈍い痛みを堪えながら身支度を始めた。

……

【羽子】
「お早うございます、一条さん」

【一条】
「羽子さんか……」

【羽子】
「なんだか元気がありませんね、やっぱり姫崎さんのことですか?」

【一条】
「それもあるんだけど……それ以上に俺の体がちょっとね」

【羽子】
「まあ……姫崎さんのことも大事ですけど、ご自分の体も大事にしてくださいね。
これでもし一条さんまで倒れてしまってはそれこそ本末転倒です」

【一条】
「確かに……」

自分よりも他人のことばかり気にかけているあいつのことだ、俺が倒れたら自分のせいだと責めてしまうことだろう。

【羽子】
「ですが姫崎さんのことは心配ですね、お元気になってくれていると良いんですけど」

【一条】
「俺たちにはただ願うことだけしかできない、か……」

【羽子】
「こんな時、私たちは無力ですよね……」

羽子さんの言葉が身に沁みる、この地球上の中で人間という生き物の大きさなんて本当に小さいものでしかないんだから……

……

【一条】
「……」

【羽子】
「……」

病室の前まで来て2人の間に流れる沈黙、2人とも戸惑いを持っているからこそ次の一手が出ない。

【一条】
「それじゃ、良いね……」

【羽子】
「はい……」

コンコン

戸惑いを拭い捨て、病室の扉をノックした。

【音々】
「どうぞ」

聞こえてきた声に2人とも揃って安堵の表情を浮かべる。

【一条】
「こんちはー」

【羽子】
「失礼します」

【音々】
「まあ、お2人ともいらっしゃいませ。
昨日は申し訳ありませんでした、また私の体がご迷惑をかけてしまって……」

【一条】
「気にしなくても良いさ、誰かの受け売りだけど何も云わずに助け合うのが親友の証って云ってたし」

【羽子】
「そうですよ、だけど一条さんは親友という表現だと少し違ってしまいますね」

口元に手を当てて小さくふふふと笑う、羽子さんがこの笑みを見せる時は少しからかいが入っている時。

【一条】
「確かに俺は親友じゃなかったな、俺にとって音々は親友じゃなく、たった一人の彼女なんだよな」

【音々】
「誠人さん……」

【羽子】
「あらあら、お2人だけラブラブになってしまって、妬けてしまいますね」

【一条】
「羽子さんだって綺麗なんだから彼氏の一人ぐらいすぐにできるだろ?」

【羽子】
「おあいにくさま、私に殿方の人気はほとんど無いんですよ
男の方で私と親しくしていただいているのは一条さんだけ、一日だけ私にも一条さん貸していただけませんか?」

【一条】
「一日と云わずその先もずっと……」

【羽子】
「そうですか? でしたら私と一緒にどこか遠くにでも」

【音々】
「だ、駄目ですよ、誠人さんは私とお付き合いしてるんですから。
いくら羽子さんのお願いでも絶対にきいてあげませんから!」

【羽子】
「ふふ、冗談ですよ、お2人の仲を裂かなければならないほど男性に飢えているわけではありませんから。
ただ妬けてしまうというのは本当ですけどね」

【音々】
「羽子さん……」

【羽子】
「一条さんも軽々しく私なんかの誘惑に乗らないこと、浮気なんかしたら許しませんよ」

【一条】
「ちぇ……」

【音々】
「うぅ、なんでそんな残念そうな顔するんですか!」

【羽子】
「ふふふ……」

俺と羽子さんの心配はどこかへ消えてしまうほどに、音々の体調は戻っていた。
音々が見せる笑顔、やっぱり音々は笑っている方がずっとかわいらしい。
しかし、この笑顔の裏に隠れている音々の本当の顔を、俺はまだ気付けなかった……

……

音々が着替えたいというので俺は病室を退室した。
待ってる間の時間潰しに俺の足は自然と屋上へと向いていた。

【一条】
「……先客ありか」

学校と同じようにほとんど人気の無いここに珍しく人がいる。
白衣を着ているから医者であることは間違いないだろう。
屋上に現れた俺に気付いたのか、白衣の人物がこちらに振り返った。

【秋山】
「やあ、君ですか……」

【一条】
「秋山先生」

【秋山】
「ここは滅多なことでもないと人が訪れないんですが、珍しいですね」

【一条】
「先生の方こそ……」

【秋山】
「はは、それはいえてますね」

小さな苦笑いを浮かべて先生はベンチに腰を下ろした。

【秋山】
「どうですか、君もこちらに来て座りませんか?」

【一条】
「ご一緒してよろしければ」

【秋山】
「勿論かまいませんよ」

【一条】
「そういうことなら失礼して……」

秋山先生の隣に腰を下ろす、別にどちらも話がしたいわけではなかった。
ただベンチに腰を下ろし、流れる時間の中でまったりと時を過ごしていた。

【秋山】
「一条君、君は時として人の運命を変えてしまうほどの小説があるのを知っているかな?」

唐突に秋山先生は話を振ってきた。

【一条】
「猟奇的な小説を読んで殺人犯になったりとかですか?」

【秋山】
「できることならそれは勘弁願いたいですが、そんなところですね。
不思議だと思わないかい、現実なのか非現実なのかもわからないあやふやな世界の中だというのに、人はそこに感動を覚えたりスリルを覚えたりする。
小説なんて元をただせば字の集合体、そこに形はなく、用意周到に並べられた字の羅列が並ぶだけ」

一体先生は何を云いたいのか、俺はまだ理解できていない。

【秋山】
「薄い紙一枚の上に並べられた文字はそれだけではただの文章でしかない。
しかしそこに人が読むことによって頭の中で文章の意味を考えた時、そこに世界が想像される。
文字は文章から世界描写へと姿を変えていきます」

【秋山】
「頭の中で想像された世界の中に自分の存在を確立する、自分を小説世界の傍観者にするわけです。
傍観者となって小説の中を体感する、そうすることによって文字の中から感動やスリルを感じ取ることができる。
実に良くできた人間の脳のメカニズムですよね」

【一条】
「すいません、俺にはよくわからないんですけど……」

【秋山】
「つまりです、ただ読むだけではそこに生まれてくる世界は骨組みだけの殺風景な世界。
骨組みに肉付けをして世界を完成させるには、己の頭脳で考え創りあげることが必用。
それは文章だけでなく、言葉でもね……」

【一条】
「……え?」

【秋山】
「文章と同じように言葉もそれだけでは形を持たない、いわば可能性の世界です。
一つ例をお見せしましょう、少しの間眼を閉じていてください」

【一条】
「はい……」

先生に云われるがまま俺は眼を閉じた。

【秋山】
「舞い散る花びらが眼の前をよぎる、僅かな時間を全うした花弁は最後の力で風に舞う。
移り変わる季節の中で、眼の前を何度も何度も花弁は舞う。
……よろしいですよ」

【秋山】
「さて、私の言葉の中に君はどんな世界を見ましたか?」

【一条】
「季節が変わるころに眼の前で散り始めた桜……ですか?」

【秋山】
「当たりです、ですが少し不思議だとは思いませんか?」

【一条】
「何が……ですか?」

【秋山】
「だって私は今の文章の中で一言も桜とは云ってないんですよ」

【一条】
「あ……」

【秋山】
「私が云っていたのは確かに桜のことです、しかし私はそれが何であるかは一言も云っていません。
その中でも君は言葉が桜を指していることを察した、それはどうしてか?
答えは簡単、君が頭の中で私の言葉を想像して脳内で世界を具現化したからですよ」

【一条】
「……」

【秋山】
「まあ今回はなるべくわかりやすい例をとって話しましたから言葉を具現化するのもそんなに難しくはなかったでしょう。
誰でも一度くらいは眼の前を桜がよぎる景色を見たことがあるでしょうからね」

ここで先生が一息、まるで次につなげる言葉をとても重要視しているようなそんな感じ……

【秋山】
「しかし、これが全く体験したことの無いようなことだとこう上手くいかないんですよ」

【一条】
「それは……!」

驚いた、先生の言葉ではなく先生の眼に、その眼がまるで新藤先生を見ているようなそんなふうに見えたから。

【秋山】
「実体験に無いことをいくら言葉で云われたとしても、そこに世界を具現化することは叶わない。
例えば……今の姫崎君がそれに当たりますね」

【一条】
「!」

【秋山】
「手術なんて一生にそう何度もあることではありません、ましてや心臓の手術なんかはね。
彼女が海外手術に踏み込めない理由、それはきっと頭の中に世界を具現化できていないんでしょう。
頭にイメージすることができないから、自分に決断することができずいつまでも悩み続けてしまう」

再び先生はゆっくりと息を吐いた。

【秋山】
「ここから先は私の独り言だと思って聞いてください……
姫崎君は今暗闇の中で一人きり、手探りの状態で時間を過ごしています、そんな彼女を救うにはどうしたら良いのか?
誰かが灯りになり、彼女を導いてあげれば良いだけです」

【一条】
「……」

【秋山】
「もっとも、彼女の灯りになれる人物を私は一人しか知りませんけどね……」

【一条】
「先生、俺これで失礼します!」

立ち上がって屋上を後にする、そうか、そういうことだったのか……
最後の一言で、先生が俺に何を伝えようとしていたのか全て理解できた。

……

【秋山】
「ふぅ……新藤先生、ありがとうございました」

秋山が語った想像のメカニズム、それは全て恩師である新藤の教えであった。

【秋山】
「また助けられてしまいましたね……」

陽光に照らされる屋上で、秋山は再び恩師に向かって礼を呟いた……

……

【羽子】
「遅かったですね、もうとっくに着替えは終わってしまいましたよ?」

【一条】
「着替えにこれだけ時間がかかることも無いと思うけど、それより羽子さん、ちょっと良いかな?」

【羽子】
「あら、私ですか? 私は構いませんけど姫崎さんがそれを許してくれるかどうか」

【音々】
「うぅ……」

【一条】
「別に浮気したり誘惑してるわけでもないんだから心配するな」

【音々】
「わ、わかりました……なるべく早く済ませてくださいね」

【一条】
「というわけです、少しだけ付き合ってもらいますよ」

【音々】
「本当に変なことしちゃ駄目ですからねー!」

……

【一条】
「ったく、あいつは心配性だな」

【羽子】
「ふふ、女の子は好きな男性ができると周りは皆敵ですから、姫崎さんが念を押すのも無理はないと思いますよ」

【一条】
「そんなものなのかな?」

【羽子】
「そんなものですよ、それで私に何か?」

【一条】
「突然で悪いんだけどさ……あいつと、2人にしてもらえないかな」

【羽子】
「……それはつまり私がいてはお邪魔と、そういうわけですか?」

【一条】
「単刀直入に云うとそういうことになります、羽子さんには申し訳ないと思ってる。
だけど、それ以上に、俺はあいつの力になってやりたいと思ってるんだ」

【羽子】
「……」

少々思案するように口元に手を当てたあと、俺の眼を真正面にとらえた。

【羽子】
「ここで私が消えれば、姫崎さんの気持ちを打ち砕くことが可能ですか?」

羽子さんの言葉の意味、もしかしたら羽子さんは俺よりもずっと前に気付いていたのかもしれないな……

【一条】
「……約束する」

【羽子】
「……わかりました、姫崎さんが必要としているのは私たちの言葉ではなく、自分が想いを寄せる貴方の言葉ですもんね」

真剣な表情を崩し、キリっとした笑顔を向ける。

【羽子】
「姫崎さんの気持ち、きっと変えてくださいね」

【一条】
「羽子さん……ありがとう」

【羽子】
「お礼を云われるようなことではありませんよ、さあ、早く行ってあげてください。
帰りが遅いと私まで姫崎さんに怒られちゃいますから」

【一条】
「……ああ」

……

【音々】
「お帰りなさい、あれ? 羽子さんはどうしたんですか?」

【一条】
「急な用事を思い出したとかでさっき帰ったよ、音々によろしくってさ」

【音々】
「そうなんですか……本当に?」

【一条】
「なんだよその疑いの眼差しは?」

【音々】
「誠人さんが何か変なことをして怒って帰ってしまったのではないんですか?」

【一条】
「あ、あのなぁ……」

完全に被害妄想です、その前に俺は音々の中でどんな人物として確立しているんだろうか?

【一条】
「俺は何もしてないし羽子さんも怒って帰ったんじゃないから安心しろ」

【音々】
「本当にそうでしょうか……」

本当は違う、俺が帰ってくれるように頼んだんだから。

【一条】
「どう思ってるかわからんが俺は潔白だからな」

【音々】
「誠人さんがそうおっしゃるのなら、そういうことにしましょうか」

【一条】
「絶対に信用してないな……まあ良いか」

これからが大一番、俺はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

【一条】
「体の方辛かったりしない?」

【音々】
「今は特に、昨日は少し辛かったですが……」

【一条】
「それで、海外手術の話、決心は?……」

【音々】
「……まだ、迷っているんです」

わかっていた、わかっていたけどあえて確認を入れておきたかった……

【一条】
「どうして迷うんだ、海外で手術してそれで体が良くなるんだったらそれで良いじゃないか」

【音々】
「確かにそうなんですけど……見えないんです」

【一条】
「見えない……」

【音々】
「私が海外に行って、そこで手術を受けて、再び誠人さんの元に戻ってくることが、私には見えてこないんです……」

【一条】
「そうか……」

秋山先生の云っていたとおり、音々は自分を具現化できていないんだ。

【音々】
「誠人さんにしてみたら何を莫迦なことをって思われるかもしれませんけど。
どうしても、そのことが邪魔をして自分の気持ちを決めることができないんです……」

スッと音々の手が心臓に当てられる、もう何度も見ているそんな仕草なのにそれがなんだか凄く痛々しく思えてくる。

【音々】
「こんな気持ちのままじゃ、向こうに行っても絶対に手術は成功なんてしませんよね。
この心臓と、さよならしようって……そう決めたはずだったのにな」

【一条】
「音々……」

【音々】
「駄目ですね私……いつまで経っても誠人さんにご迷惑ばかりかけてしまって」

ゆっくりと、音々の瞳から涙の雫が零れ落ちる。

【音々】
「あれ……おかしいですね……泣いたところで何も解決なんてしないのに、どうして泣いてるんだろう?」

【一条】
「……」

【音々】
「本当に私ってば……莫迦ですね」

泣いていることに、それからいつまでも決断できずにいる自分に対して音々は自虐的になっている。
そんな音々に対して、俺ができる行動は……

【音々】
「あ……」

音々の瞳から頬を伝ってできた涙道を指で拭ってやる。

【一条】
「莫迦じゃないさ……莫迦だったのは俺の方だ」

【音々】
「……」

拭ったそばから再び涙道に水が流れていく、もう一度涙道を拭おうとした俺の指に音々の手が添えられた。

【音々】
「あったかい……誠人さんの手、とても暖かいです」

【音々】
「この温もり……きっと私が決断できないのはそれだけじゃない」

【一条】
「……音々?」

【音々】
「……怖いんです、とても」

【一条】
「怖い?……」

【音々】
「海外に行って手術をするとなるとそれなりの期間はあちらに行っていなければなりません。
その間、ずっと誠人さんに会うことができないのが……とても怖いんです」

添えられていた音々の手がギュッと強く握られる。

【音々】
「待っても待っても会うことができない、そんな中で私一人だけでもがんばることができるのか。
私にはそんな自信が無いんです……」

【一条】
「……」

そうだったのか、きっと音々が海外手術を決心できなかった本当の理由はそっちなんだろう。

【音々】
「私にもう少し勇気があれば、私にもう少し誠人さんに会いたい気持ちを我慢する余裕があれば。
またもう一度、笑って誠人さんのところへ戻ってこれるかもしれないのにな……」

自傷するかのように苦く小さな笑みを漏らす。
やはり彼女が決断できない理由は俺にあったみたいだ……
だったら……俺が悩みを断ち切ってやるしかない。

【一条】
「……音々」

【音々】
「誠人さん?……んん!」

音々の唇を塞ぐ、頬に添えていた手を頭の後ろに回し2人の唇が離れないように力を込める。

【一条】
「勇気が足りないのであれば、増やせば良いじゃないか。
足りない物はいくらだって増やせるんだ、以前空っぽだった俺の中に、音々がたくさんの想い出をつめてくれたようにね……」

【音々】
「誠人……さん……」

今までは雫が流れる程度だった音々の瞳から、ボロボロと涙が溢れ始めた。

【一条】
「誰だって一人だと怖いものさ、だけどその怖さも2人なら半分にできる。
辛さを共有できるのが、本当の恋人ってもんじゃないのかな」

【音々】
「う……うぅ……」

【一条】
「泣くなって……」

【音々】
「はい……」

頷いたものの、俺の胸に頭を預けたまま音々の涙が止まることはない。

【音々】
「誠人さん、私に、私に勇気を……私に勇気を分けてください……」

【一条】
「……ああ」

……

【秋山】
「ふぅ……」

すっとベンチから立ち上がり病室のノブに『面会謝絶』の札を下げる。

【秋山】
「やれやれ……」

これからどうなるか彼には大方の予想がついていた、だから初めから札を用意していたんだ。
最後に病室を振り返り再び小さな溜め息を吐いた、その顔が僅かに笑っていたことを、彼以外知る物はいない。

……

【音々】
「はぁ……もうクタクタです」

【一条】
「そりゃああれだけ激しかったからな、それにしても初体験とは思えない乱れっぷりだったな」

【音々】
「そ、それは云わないでください……私だってまさかあんなになるなんて」

【一条】
「はは、やっぱり音々って案外エッチなのかもな」

【音々】
「ち、違います! あれはただ、その……」

【一条】
「その?」

【音々】
「だから、その……うぅー、全部誠人さんのせいなんですから!」

旗色が悪いと悟ったのか頭から毛布を被って隠れてしまう。

【一条】
「おーい、隠れてないで出てこいって」

【音々】
「私は……エッチなんかじゃないですから」

【一条】
「それはもうわかったって、それよりさ……勇気、分けられたかな?」

【音々】
「……」

音々はベットから立ち上がって窓際へと足を進めた。

【音々】
「見てください、あの木を……」

【一条】
「あれは……桜?」

【音々】
「はい、この病院に植えてあるたった一本の桜の木です。
桜の季節はあれが満開になって、この病室からもよく見えるんですよ」

【一条】
「へえ……それで、桜がどうか?」

【音々】
「今はもう葉桜になってしまいましたけど、また来年あの桜は満開に花を咲かせます。
今年はずっとあの桜を一人で見てきましたけど、来年は……来年こそは二人で桜を見たいです。
桜だけじゃなく他の物も、私の知らないものをたくさん見て行きたいです」

【一条】
「それは……つまり……」

【音々】
「はい、手術受けてきます、そしてきっと元気になって戻ってきますから。
戻ってきたら、私を色々な所へ連れて行ってくれませんか?」

【一条】
「音々!」

【音々】
「きゃ……誠人さん、少し痛いです、だけど……とっても嬉しいです」

【一条】
「絶対に……絶対に元気になって戻ってくるんだぞ」

【音々】
「……はい、ん」

再び俺は唇を交わした、それはお遊びや愛し合うためのキスではなく。
二人が約束を交わすためのキスだった……

……

【一条】
「それじゃまた」

【音々】
「はい、お気をつけて」

音々に見送られて俺は病院を後にした。
病室を出て『面会謝絶』の札が下がっているのを見て、二人して慌てたのは云うまでもない。

【一条】
「ふぅ……やっと音々の役に立てたんだな」

今まで迷惑をかけっぱなしだった音々に、少しだけでも手伝いができたことが嬉しかった。
後は音々の手術が上手くいくことを願うだけ、それも新藤先生に任せれば大丈夫だろう。

【一条】
「うぅーん……あつつ」

軽く伸びをすると腰に鋭い痛み。

【一条】
「やっぱ無茶しちゃいけないよな……たたた」

軽く体を捻ると節々が痛い、夕暮れ空の下で、俺はほんの少しだけ自分の行動を悔やんでいた……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜