【4月13日(日)】
ジリジリと時計がクラクションを鳴らす中眼が覚める。
時計の針は9時を指している、昨日寝る前にタイマーをいじっったからいつもよりも遅い起床だ。
洗面所に行って顔を洗う、冷たい水のおかげで瞬時に眼が覚める。
【一条】
「さてと、朝飯食べて出かけるか」
焼いたパンをかじりつつ着替えを用意する。
今日は日曜日、何も用事がはいってないのであの場所に行こうと思う。
着替えと朝食を済ませて家を出る。
……
電車に揺られて目的の場所を目指す、窓から見える景色が俺の頭を刺激する。
この街に来るときに見た景色と何も変わっていない、しかし目的地に近づくにつれ懐かしさがこみ上げてくる。
あれからまだ1ヶ月、変わったところといえば桜の花が開花したことぐらいしかなかった。
……
電車から降り立つと眼の前に広がる光景はこの場所を出立したその時と同じものだった。
街路樹、建物、街中のオブジェ、全てがそのまま何も変わっていなかった、1ヶ月で変わることはそうあることじゃないか。
目的地まではそう遠くない、バスに乗る手もあるけどそんな気分じゃない。
久しぶりの街なんだから足で歩くほうが良いだろう、自分の足で目的地を目指すことにする。
……
踏みしめる街の感覚、今住んでいる所とは違う慣れ親しんだ感触を感じられる気がする。
この街を昔は住処として子供のころは近所を走り回っていたんだろうな。
今となっては2度と手にはいらない、闇の中に埋没してしまったもう1人の自分。
そんなことに思いをはせながら街路樹の並木道を1人進んだ。
……
並木道を抜け、ちょっとした坂道を登ると目的の場所が見えてくる。
白を基調とした清潔感と虚無感の立体構造物、人の生と死を司る汚れ無き神殿。
門から見える建造物にはこう書かれていた。
『南城ヶ崎総合病院』
【一条】
「久しぶり、それと……ただいま」
俺だけの挨拶を建物に投げかけ病院に入る、内装も変わっていないあの日ここを巣立った時と同じ空間だ。
【一条】
「すいません、先生に面会をお願いしたいんですけど」
【受付】
「かしこまりました、あら?……一条さんじゃないですか、お久しぶり」
受付の人は俺のことを覚えていた、無論俺も受付の女性のことは覚えている。
【受付】
「一条さんってことは、ちょっと待ってね先生に電話いれるから」
受付のお姉さんが内線電話で、どこかに電話をかけている。
【受付】
「受付です、先生にお客様です、はい、はい、かしこまりました失礼します」
俺の名前が一度も出てこなかったがそれで大丈夫なんだろうか?
【受付】
「先生今いらっしゃるから、第二診察室の場所はわかるわよね、先生には誰が来たか内緒にしてあるから」
受付のお姉さんがウィンクをする、なるほどそれで俺の名前出さなかったんだ。
【一条】
「ありがとうございます、それじゃ行ってきますね」
【受付】
「はいはーい、ふふふ、先生驚くわよー」
やけに楽しそうなお姉さんの声を背に第二診察室を目指す。
白に塗られた廊下を診察室を目指して歩く。
第二診察室は3階に設けられている、1ヶ月も生活すればどこになんの部屋があるか大体覚えられる。
俺の足は一度たりとも迷いや戸惑いを持っていない、体がもう部屋までの道を覚えている。
ここは俺のもう1つの家なんだ。
第二診察室の前にたどりつく、この部屋の扉を叩くのももう1ヶ月ぶりなんだな。
コンコン
【新藤】
「はい、開いてますのでどうぞ」
懐かしい声の後、一呼吸置いて部屋に入室する。
【一条】
「失礼します」
【新藤】
「いらっしゃい、今日はなんの……一条君、一条君じゃないか」
部屋の中には俺の担当だった新藤先生の姿がある、俺は今日新藤先生に会いに来た。
【一条】
「お久しぶりです、新藤先生」
【新藤】
「いやいやよく来てくれたね、立ち話もなんだこっちに来て座りたまえ」
椅子に腰掛けると先生はコーヒーをいれてくれた、なぜ診察室にコーヒーがあるかは先生と俺だけの秘密だった。
【新藤】
「一条君は確か砂糖1つにミルク1杯だったね」
【一条】
「そうです、よく覚えてましたね」
【新藤】
「君とはそれなりに長い付き合いだったからね、これくらいのことは覚えているさ、さおあがり」
先生から渡されたカップにはミルクがはいって透明度を失ったコーヒーが注がれていた。
【新藤】
「もう君がここを退院してから1ヶ月か、早いものだね」
先生はカップに口をつけてコーヒーを一口すする、俺もコーヒーに口をつける。
ミルクのおかげで苦味を丸く包み込んだ液体が俺の咽を通り胃に落ちる。
鼻から香ばしい匂いが抜けていく、コーヒーの香りも良いもんだな。
【新藤】
「それで、今日はどうしたのかね、私なんかに会いに来るなんて?」
【一条】
「特に決まった目的は無いですよ、いつでも来て良いって先生云ったじゃないですか」
【新藤】
「ふふふ、まさか本当に来てくれるとはね、受付の声がやけに弾んでいると思ったらそういうことだったのか」
【一条】
「相変わらずいたずら好きのお姉さんですね」
【新藤】
「はははははは、受付はあれくらいの愛嬌があったほうが来た人も楽しいだろ」
辛気臭い受付じゃ患者だけじゃなく来た人まで気持ちが沈んでしまうよな、莫迦みたいに明るいのも良いとは云えないけどな。
【新藤】
「あれから1ヶ月、今の生活にはもう慣れたかい?」
【一条】
「基礎はたってところですか、とりあえず環境の変化には順応ました」
【新藤】
「それは良かった、家が変わるだけで1ヶ月も2ヶ月も満足に眠れない人間もいるからねぇ」
【一条】
「その点に関してはもう病院で散々寝たじゃないですか」
【新藤】
「それもそうだったね、じゃあ学校生活のほうはどうかね?」
【一条】
「……学校生活ですか……」
すぐに答えられない、どう答えて云いかが瞬時に思い浮かばなかった。
コーヒーを一口すすり心を落ち着けてから言葉を選んだ。
【一条】
「悪くはないと思います、でもまだどうして良いのかわからないですね」
コーヒーに視線を落とす、俺の心理状態とは裏腹にコーヒーの表面は波紋もなく綺麗なものだった。
【新藤】
「どうして良いかわからないか……確かにそうかもしれないね。
まだ君が回復してから1ヶ月少々、その中でこれからどうしたら良いかを求めるのは難しいだろうね」
先生もコーヒーをすする、音無が飲むのとは違う渋さが新藤先生にはあった。
【新藤】
「まだまだ君は巣立ったばかりの雛鳥だ、これから時間をかけてまた何をすれば良いか見付けたら良いさ」
病院にしては珍しい柱時計がボーンと鳴って時間を伝える、今ちょうど12時になったところだ。
なんで柱時計かというと、先生が柱時計が好きだって理由だけだ。
【新藤】
「もう昼か、一条君は昼食はどこでとる予定だね?」
【一条】
「まだ決めてませんけど、その辺でラーメンかなにか食べようかと」
【新藤】
「だったら私と一緒に昼食にしないかい? ここの食堂でよかったら私がおごるよ」
【一条】
「わかりました、先生と飯食べるのも久しぶりですからご馳走になります」
先生と一緒に食堂に行く、食堂の人も俺のことを覚えていたらしく飯を大盛りしてくれた。
病院の食事は味が薄いとか云うがそれほど薄くもない、薄いと感じるのはいかに日本人が塩分を取りすぎているかを物語っている。
俺は病院の食事に慣れているので薄いと感じることもなく美味しく頂けた。
……
【新藤】
「どうだい、病院の食事も悪くないだろう、君がいたころより若干塩分が強くなってるんだよ」
【一条】
「普通に美味かったです、1人暮らしいてるとああいったバランスの取れた食事がませんから」
【新藤】
「1人暮らしだとその辺は大変だろうね、でも、若いうちは大丈夫さ。
ある程度歳をとってからでも改善は間に合うから、それまでは好きな物をうんと食べたら良い」
今日は午後からも先生は暇だというのでまた第二診察室に戻ってきて今はお茶を飲んでいる。
【新藤】
「さてと、午前中の話の続きでもしようか、一条君は新しい学校でもう友達はたかね?」
【一条】
「友達って云うほどかはわかりませんけど、知り合いなら何人かました」
【新藤】
「ほう、それならもう大丈夫だよ、知り合いになったら友達に変わるのはすぐだよ。
友達がいるだけで学校生活は180度気分が違うからね」
先生が笑ってくれる、まるで自分の子供のことのように嘘偽りのない笑顔だった。
【新藤】
「学校生活は問題なさそうだね、まだ時間もあることだし徐々に慣れて行くさ。
でも、君にはそれ以上に大切なことがまだ残っているんだからね」
さっきまで笑っていた先生の顔が急に神妙なものに変わる。
【新藤】
「一条君、昔のことは……思い出せたかね?」
やっぱり先生もそのことが気になるよな、失われた記憶がその後どうなってしまったのか。
【一条】
「……残念ですが……まだ」
【新藤】
「そうか……まだ戻ってこないか……」
先生が椅子に深々と座り直し、天井を見上げた。
【新藤】
「突発的なことや環境の変化で記憶が戻るかと思ったが駄目だったか」
【一条】
「……すいません」
【新藤】
「君が謝ることじゃないだろう、君に非はない、私が期待しすぎていただけだ」
そうは云っているが先生の言葉は明らかに力が無くなっていた。
【一条】
「でも……先生、俺さっき記憶は戻って無いって云いましたけど1つだけ。
……ほんの少しですが、思い出したことがあるんです」
俺が学校に行き始めて2日目のこと、あの少女に泣いているところを目撃された夜に俺は1つだけ記憶を取り戻していた。
天井を見上げていた先生の眼が即座に俺の眼球を真正面にとらえた。
【新藤】
「なんと、そ、それは本当かね一条君、それで何を思い出せたんだね?」
【一条】
「それが……お袋のことなんです……」
期待に満ちた先生の表情がしぼんでいくのがわかる。
【新藤】
「……そうか、それでは、私が聞いては失礼だね」
【一条】
「いえ、先生に聞いてもらいたいんです、記憶が戻ったときから先生には聞いてもらおうと思ってましたから。
今日俺がここに来ることにしたのも本当はそれが目的だったんですから」
【新藤】
「一条君……本当に……私はそのことを聞いても良いのかね?」
【一条】
「これから俺がどうすれば良いのか……それがたとえ薄っぺらい物だとしても俺には道が必要なんです」
【新藤】
「わかった、一条君……私に聞く権利があるというのなら……話してくれないか」
1つだけ、はっきりと俺は首を縦に振る
【一条】
「先生は俺の家族構成のことはご存知ですよね?」
【新藤】
「存じているよ、あれは確か君の脳波を調べたときだったね」
……
【新藤】
「一条君、次の質問だ、君の家族構成を教えてくれないか?」
【一条】
「親父と俺の2人暮らしです、お袋はだいぶ前に死にましたから、今でも、お袋が最後に見せた表情だけは鮮明に覚えています……」
【新藤】
「そうだったのか、悪かったね気分を悪くしなかったかい?」
【一条】
「いえ大丈夫です、質問を続けてください」
……
【新藤】
「失われた記憶の中で、君が唯一覚えていたのがそのことだったね」
先生が遠い眼をしている、あの時のことがフラッシュバックでもしているのだろうか。
【一条】
「ほかの記憶は忘れてしまっているのに、そのことだけははっきりと覚えていた。
皮肉なものですよ、よりによって最も忘れたい過去だけを鮮明に覚えているなんて……」
【新藤】
「世の中上手くいかないといっても、あまりにも理不尽な結果だった……」
【一条】
「先生は何で俺のお袋が死んだかはご存知じゃありませんよね?」
【新藤】
「そのことについてはわからないが、まさか一条君……思い出したことっていうのは……」
【一条】
「多分想像と同じだと思います……俺のお袋が死んだ原因とその間の時間ですよ」
【新藤】
「……」
【一条】
「……」
2人の間に無言の空気が流れる、互いに次の言葉を譲り合っているようなそんな感じだった。
【新藤】
「一条君、もう1度聞いておくよ……私がそのことを聞いてもかまわないのかね?」
先に沈黙を破ったのは新藤先生の方だった。
【一条】
「ええ、先生だから聞いてもらいたいんですよ」
【新藤】
「じゃあ君が好きなように話してくれたまえ、全部じゃなくても良い、君が話したいことだけを話したまえ」
【一条】
「はい……俺のお袋は俺がまだ小学校に上がる前に亡くなりました」
……
俺がまだ小学校に上がる前はお袋も元気で、不自由なく暮らしていました。
金があったとかいうのではないですが家族3人、とても楽しい暮らしをしていました。
俺が幼稚園を出るころだったと思います、お袋が俺に云ったんです。
【母親】
「誠人、あなたもうすぐ、お兄ちゃんになれるわよ」
最初は何云ってるのか解りませんでした、でもしばらくしてから言葉の意味に気づきました。
俺に兄弟がるんだって……
病院の検査の結果では生まれてくる子供は女の子だったらしいんです。
お袋と親父が喜ぶ中で俺も喜びました、俺に妹がる、寝ても覚めてもそのことばかり考えていました。
赤ん坊がれば親の関心は俺よりもそっちに集中してしまいます。
子供ながらなぜか俺はそのことが理解ました、お袋たちは俺に関心が無いんじゃない。
今は俺よりも少し妹の方が少し関心が高いんだ、妹が産まれれば次第に2人とも対等に見てくれるさ。
そのころは嫉妬心や独占欲なんてものが不思議と俺にはありませんでした。
別に子供のうちから世間が解っていたこともないんでしょうけど、俺は妹が産まれるまで待ちました。
医者が云うには今2ヶ月目だから俺が小学校にはいってしばらくしたら産まれるという話でした。
でも……現実は違ったんです……
俺が小学校から帰ると、お袋が居間で倒れていました。
子供の俺にはそれが何を意味するのか解らず何もすることがませんでした。
その後親父が帰宅して異変に気づき病院に電話をしました。
お袋は予定よりも2ヵ月も早く病院に担ぎ困れました。
……流産だったんです……
病院に担ぎ込まれたお袋は分娩室ではなく緊急の手術室に運ばれました。
手術室の前で俺と親父はただ待つことしかませんでした、手術室のランプが消えるのを今か今かと俺は眺めてました。
長い時間を経てランプが消えると中から出てきた医者に親父がすがりついて。
【親父】
「先生、妻はどうなりました、子供は、子供は助かったんですか!?」
医者は目を伏せ首を振るだけ、首は縦ではなく横に振られていました。
【医者】
「残念ですが胎児の方は間に合いませんでした、母体の方も今はまだ息がありますがこれからどうなるかはわかりません」
【親父】
「そんな、あんた医者だろ! ただ1人、人の命を助けられるのが医者じゃないのか!」
親父が執刀医につかみかかって怒鳴りつけているのを他の医者が抑えていたのを覚えています。
お袋はそのまま病室に運ばれました、妹を失ったのはとても悲しいことだけどお袋が生きているのは俺には幸いでした。
病室には眠ったままのお袋と俺の2人だけ、親父はどこか、人目につかないところで1人泣いていたんだと思います。
その内時間が親父を癒してくれる、手術翌日にお袋は眼を覚ましました、お袋が回復すれば親父も元気を取り戻すと。
しかし……またしても現実は反転してしまった……
お袋の眼が覚ました次の日、お袋の容態が急変したんです。
おかしな汗をかいて、苦しそうな声を漏らし、とても辛そうな顔をしていました。
医者もその容態の変化に戸惑いを隠せない様子で注射をしたり、心臓を押したりしていました。
でもその後、医者はお袋の元を去っていきました、多分お袋がもう駄目なことを悟ったのでしょう。
親父は医者に連れられて部屋を出て行きました、外ではまた親父の怒鳴り声が聞こえてきました。
【母親】
「はぁ、はぁ、はぁ……ま、誠人」
苦しそうに俺の名前を呼ぶ声、それは紛れも無いお袋のものです。
【一条】
「お母さん、どうしたの、どうして誰もいなくなっちゃったの?」
【母親】
「ふふ、どうしてだろうね、はぁ、はぁ、誠人ごめんね、兄弟なくなっちゃった」
【一条】
「何で謝るの、お母さん妹はどうしちゃったの?」
【母親】
「あなたの妹は、空に行ったのよ、選ばれた人だけが行ける空の国に行ったの」
【一条】
「その国には僕は行けないの?」
【母親】
「誠人はまだ無理よ……はぁ、でもお母さんはもうすぐ……行けると思うわ」
【一条】
「凄い、お母さんは選ばれた人なんだ、じゃあ空の国に行ったら妹に帰ってくるように云ってよ」
【母親】
「ふふ、わかったったわ……はぁ、誠人、はぁ……ごめんね」
お袋の眼から涙が落ちました、小さかった俺は何で泣いているかを知る由もなかった。
【母親】
「はぁ、はぁ……誠人、お母さん少し眠くなっちゃった、悪いけど……寝かせてもらえる……かしら?」
【一条】
「わかった、じゃあ僕はお母さんが起きるまで待っててあげるね」
【母親】
「ありが、とう、はぁ……しょ、はぁ、誠人……」
その時のお袋の顔はとても優しく、とても穏やかな表情で俺に微笑んでくれました。
それからお袋は眠りにつきました、俺は時間が来れば起きるものだと思っていました。
でもそれは2度と覚めることの無い、永久の眠りだったんです……
その事実を聞かされたとき俺は信じることがなかった、皆俺をからかっているだけなんだ。
俺は自宅に帰ってきたお袋の体にすがりつきました。
【一条】
「ねぇ、お母さん眼を覚ましてよ、皆酷いんだよ、僕をからかって遊んでるんだ」
白装束に身を包んだお袋の体は氷のように冷たかった、それでも俺はお袋の肩を揺すりました。
【一条】
「ねぇ、お母さん……どうして目を覚ましてくれないの、僕はお母さんのこと大好きなのに。
お母さんは、もう僕のこと嫌いになっちゃったの?」
揺すり続け白装束がはだけてもお袋の眼は開きません、まるで人形のようでした。
【一条】
「うぅ……お母さん……ひっ……お……母さん……ひっぐ……うっぐ……」
【親父】
「誠人もうよすんだ、そんなことを……しても……お母さんは……帰って……こない」
親父の声も震えていました、必死で涙をこらえているようなそんな感じの声でした。
その後の葬儀の日、俺は葬儀の途中で家を飛び出しました
外はどしゃ降りの雨で視界も良くありませんでしたがそんなことは今の俺には関係ない。
傘も差さないで俺は雨に塗りたくられた灰色の世界をひたすら走り続けました。
どこをどう走ったのかは覚えていませんが俺がたどりついたのは街が見渡せる丘の上だった。
そこで俺は灰色の空に向かって叫びました、そこはこの街で一番空が近い場所だったから。
【一条】
「なんでも独り占めると思うな、お前のことを僕は絶対に許さない……」
顔から雨なのか涙なのかわからない水滴が落ちる中で叫んだ。
俺は妹のことをそのとき初めて憎みました。
お前は俺のお袋を奪い去った、悪魔の使いだと……
……
【一条】
「今の俺にはそこまでしか思い出せません、その後俺がどうなったのかは解りません」
【新藤】
「……」
先生から言葉は無い、当然と云えば当然だろうな。
【一条】
「不思議なものですよね、妹は何も悪くないのにそのころの俺は全てを妹のせいにしている。
今みたいに理解力に乏しい少年時代だったとしても、あまりにも一方的ですよね」
はははと苦笑してみせる、精神的な余裕が無くなってきているんだ。
【新藤】
「一条君、その記憶を取り戻す前に君が覚えていた記憶というのは……」
【一条】
「えぇ、お袋が死ぬ間際に見せたとても優しく、とても穏やかな表情のことですよ……」
【新藤】
「そうだったのか……一条君、何て云ったら良いかわからないが、辛かっただろうね。
せっかく記憶が戻ったというのに、よりによってそんなことを思い出すなんて」
【一条】
「これが俺の運命……なんですよ、運命を批判することなんて誰にもませんから」
2人の間に絶対空間がる、それは全ての音が消える空間
互いに言葉を失い、その空間の中で時の流れを感じている、それはとても長く永遠に続くような気がした。
2人とも視線を漂わせるだけで何も行動を起こさない、これが絶対空間なんだ。
その絶対空間を打ち砕いたのは俺の科白だった。
【一条】
「先生、今の時間屋上は開いていますか?」
【新藤】
「開いているが、急にどうしたんだね?」
【一条】
「ちょっと、これで気分を落ちつけようと思いまして……」
ポケットからいつものオカリナを取り出す、気分が乱れたときはオカリナを吹かないと落ちつかない。
【新藤】
「オカリナか……君はいつもそのオカリナを身につけているね」
【一条】
「はい……これは俺の記憶の欠片なんです……」
【新藤】
「記憶を失っても曲を忘れてはいなかった、確かにそれは君の記憶の断片だな……」
先生は俺がオカリナを吹くことを知っている、意識が戻った後、何度か屋上で吹いていたのを先生に見つかっている。
昔の俺と今を繋ぐチャンネル、記憶を失った俺が唯一覚えていた音楽、名前も何も知らない曲のはずなのに……
【一条】
「ここで吹くと迷惑になりますから、屋上なら少しはましでしょう」
【新藤】
「いや、ここで吹いてくれないか、この階は私以外の医者が来ることは滅多に無い。
それに、久しぶりに私にも聞かせてくれないか、君が奏でる記憶の旋律を……」
【一条】
「良いですよ、ここで吹いてよろしいんなら吹かせてもらいます……」
オカリナに口をつけて息を吹き込む、オカリナから旋律が産み出される。
先生は目を閉じて俺の旋律に耳を傾けてくれる、俺も目を閉じた。
奏でられていく旋律はいつもと変わらない、いつもの曲のはずなのに俺の気分は違う。
少し旋律が悲壮感を帯びている、それは今の俺の心境そのままだった。
音楽は正直だ、奏でる人間の心理状態がそのままの形で旋律として産まれていく。
感情を帯びた旋律を俺は奏でる、先生は記憶の旋律が終わるまでの間、身動きすらとることは無かった。
……
辺りが薄っすらと朱を帯びてくる、気がつけばもう外は夕暮れが迫っていた。
【一条】
「もうこんな時間なんだ、俺そろそろ帰りますね」
【新藤】
「時はもう夕暮れか……早いものだな、正直君とはまだ話したりないよ」
【一条】
「それは俺もですよ、ここまで打ち解けれるのは……先生だけですから……」
【新藤】
「一条君……」
俺はどんな顔をしていたのだろう? きっと酷く悲しい顔をしていたんだろうな
【新藤】
「一条君……人は想い出に縛られて生きていく生き物だ、自分と共に流れてきた時間を人は想い出として懐かしむ。
過去に戻ることのない人間の唯一の行為……でもそれは、足掻きでしかないんだよ」
淡々と先生は喋る、いつもの先生とは違う、真剣みを持った口調だった。
【新藤】
「この世界にもし、タイムマシンなんて物が有ったとしても、人は想い出を捨てることはないだろうね。
それは、人は想い出に縛られた自分を失ってしまうことをとても恐れているからだ」
【一条】
「……」
【新藤】
「想い出にすがって生きるのが悪いと云う訳じゃない、しかし、想い出は全て過去の遺物でしかないんだ。
人が生きていくのは過ぎ去った過去じゃない、一切のあての無いこれから、未来の時間なんだ」
【一条】
「……」
【新藤】
「君が記憶を失って苦しんでいるのはわかる、まっとうな人間がそんな状況に陥ったら誰でも君のように苦しむだろう。
私が君の苦しみを理解するのは不可能だ、でも……一条君、これだけはわかって欲しい」
先生が次の言葉に一呼吸の間を空ける、先生の眼はとても鋭く、偽りの無い眼をしていた。
【新藤】
「決して……死のうなんて思わないことだ」
【一条】
「!!!」
夕暮れに侵食される病院の外を、一羽の鳥が音も無く飛び去った。
同時に先生の言葉に俺は弾かれた様な感覚を味わう。
【一条】
「ど……どうして……」
【新藤】
「……」
先生の眼に圧倒されて言葉を選ぶことがない、それは先生の言葉が全て当たっていたことの証明だった。
俺が考えていたこれからのことを先生には全てよまれていた。
今日先生に会いに来た本当の目的は思い出した過去を教えに来たんじゃない、俺は先生に別れを告げに来たんだ……
近いうちに……俺は……
死ぬつもりでいたんだから……
【一条】
「……」
【新藤】
「……」
【一条】
「やっぱり、先生に隠し事はませんね……」
【新藤】
「当たり前だろ、私は君のもう1人の……父親なんだから……」
もう鋭い眼ではなかった、今は優しい、とても朗らかな眼をしている。
【新藤】
「一条君、今はまだ辛いかもしれない、でも、今死ぬことで解決できる問題は……1つも無いんだよ」
【一条】
「……そうかも……しれませんね……」
夕陽から伸びる光だけが、2人を照らし出していた……
……
【新藤】
「それじゃ、気をつけて帰りたまえ」
【一条】
「はい、先生……今日はありがとうございました」
【新藤】
「いやいや、礼を云うのはこちらの方だ、今日はとても楽しい一日だったよ」
【受付】
「またいつでも来てくださいね、でないと先生元気無くなっちゃいますから」
【新藤】
「何を云ってるんだ、私はいつも変わらず元気だぞ」
【受付】
「今日はいつもよりだいぶ元気だと思いますけど?」
ちゃちゃをいれるが先生は全くこたえていない。
【新藤】
「だけど、もう少ししたら君とはまた毎日のように顔を合わせることになるかもしれないね」
【一条】
「は? それってどういう意味なんですか?」
【新藤】
「私からはまだ詳しいことは云えないが、可能性としてはあるんだよ」
先生が何やら含みを持った笑いをする。
【受付】
「もう、まだわからないんですから、あんまり口外しちゃ駄目じゃないですか」
【新藤】
「ああいかんいかん、まあそんなわけだ一条君」
どんなわけなんだよ……もしかしてだけど……
いや、ありえないな。
【一条】
「それじゃあ、失礼します」
2人に後ろ手に手を振って病院を後にする。
街はもう夕日に侵略されて紅一色の世界になっている、それは俺の心の中と対極の色をなしていた。
俺の心の中は今は藍に染められていた、青は悲しみを表す色だが藍とは違う。
藍は澄み渡った空の色、気分を新たにする色だ。
今の俺の中に診察室での考えは無い、あの後先生と何かを話したわけじゃないが俺の考えは変わった。
俺は逃げているだけだった、逃げるだけで現実と向き合うことを避けていた。
逃げても逃げても追いかけてくる現実、現実から唯一逃げ切る方法……それが死ぬことだった。
死ぬことで全てが無に帰る、俺が記憶を失ったことも、甦ってきた記憶のことも。
でもそれは、俺の自己満足でしかないんだ……
自己満足では何も変わらない、何かを変えるには自分が変わらなくてはならない。
俺は生きようと思う、自分の現実と向き合ってそして、必死に足掻いてみようと思う。
それが意味を持たないことだとしても俺の決心はついていた。
【一条】
「今日は本当の意味での、俺の旅立ちの日なんだな……」
夕陽に染まる大空にただ一言、俺はそう呟いた。
〜 N E X T 〜
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