【4月14日(月)】


【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

いつもの通学路を走っている、他の生徒の姿が眼にはいらない
それもそのはず、今の時間はもう8時20分……遅刻になるかギリギリの時間だ。
普段鳴るはずの目覚ましが鳴らなかった、昨日九時に設定したまま寝てしまったので鳴るはずもない。
そのせいで学校まで走って登校することになった、走っても間に合うかはわからない。

【一条】
「あの目覚ましのやろう、タイマーが違うんなら違うって云えよ……」

電化製品が喋れるわけもないのに目覚ましに当り散らす、自業自得だよな……
慌てて家を飛び出したせいで寝癖も直してない、学校でからかわれるのは確定だな。

……

校門に入ったところで学校の時計は28分を指していた。

【一条】
「ここからが勝負なんだよな」

急いで靴を履き替えて教室までの階段を駆け上がる、鐘はまだ鳴っていない。
教室の入り口が見えたところで同時に人影も眼に入った……あれは志蔵先生だ。
鐘が鳴らなくても先生に先に教室に入られたらアウトだ、先生と俺の教室までの距離は倍以上違う。
幸いにも先生は歩いているから走ればギリギリ同時くらいに教室に入ることができそうだ。

【一条】
「なんとか、遅刻は免れそうだな……」

ほっと一安心するとその時点で俺の気が抜けてしまった、これは戦場では死を意味している。
カクンと俺のバランスが前に崩れる、足が急に冷たさを帯びた
俺の足は直に廊下を踏みしめていた、俺のほんの僅か後方に俺の靴が片方転がっていた。
急いでいたためちゃんと靴を履いていなかったせいだ。
普段なら大したでき事でなくても今の状況下では俺に致命傷を与えるほどの大惨事だ。
靴を履き直す時間が俺と先生の時間を大きく引き離す、靴を履き直している間に先生は扉に手をかけていた。

【一条】
「終わった……もう遅刻だ……」

先生が消えた廊下で1人意気消沈する、今日の俺は遅刻一のペナルティーだ。
肩を落として教室の後ろ口に手をかける、その時、俺の頭がある1つのことに気がついた。

【一条】
「確か先生は出欠席は最後に採ったよな……」

そうだ、志蔵先生はいつもホームルームの最後に出欠席を採っていた。
ということは、ホームルームが終わるまでの間は出欠席の判定は決まっていないことになる。
俺の席は窓際の一番後ろだ、先生にばれないようになんとか席にたどりつければセーフなんじゃないか?
考えている間にも刻々と終わりの時間が近づく、考えるよりも行動するしかないんだ。

後ろの扉をほんの少し、音を立てないよう細心の注意を払って俺の体が通れるくらいの隙間を空ける。
狭い隙間に体を滑り込ませて教室内に進入する。

【生徒】
「あれ、一条じゃんどうしたの?」

後ろの扉側の生徒が1人気づいてしまう、当たり前といえば当たり前だ。
口に指を当てて話しかけないように促す、生徒は指でOKサインを作って了承する。
俺は先生に見つからないように歩腹前進で教室の奥を目指す、まるでゲリラの気分だ。

【某】
「うん? 一条どないしたんや、自衛隊の真似か?」

椅子にもたれかかってぽけーっと退屈そうに上を見ていた廓が俺に気づいた。
まぁ廓は最後列だから気づくのは決まっていた、廓の後ろを通らないと俺の席にはたどりつけないんだから。

【一条】
「しーっ、しーっ」

指で先生の方を指して音を立てないようにわからせる。

【某】
「なるほど、寝坊でもして遅刻しそうなんやな、よっしゃわいに任せとけ」

俺だけに聞こえる声で廓が話しかける、任せとけって何するつもりなんだ?
すると廓は机から紙を一枚取り出して何かを作り始めた。

【某】
「ここをこうして、ここはこうで、よっしゃできたで」

廓の手には即席で作られた紙飛行機が持たれていた。

【一条】
「それでどうするんだよ」

【某】
「まあ見ててんか、この紙飛行機を……ふわーっと」

廓は黒板のやや右端に向かって紙飛行機を飛ばした。
ぶれも無く紙飛行機は綺麗な経路をたどって黒板右端に落下する。

【志蔵】
「な、何……紙飛行機?……どうして紙飛行機が?」

【某】
「あー、わいですわいです」

頭を掻きながら悪びれる様子も無く廓が立ち上がって黒板まで向かう。
席を立つ前に俺に眼で合図を送り俺だけにわかるようにニカっと笑った。
廓が黒板まで向かうとクラス中の視線が廓に集中する。

【志蔵】
「廓君ー、一体どんな理由があってホームルーム中に紙飛行機を飛ばしたのかしら」

【某】
「いやーえろうすんませんねー、これにはちょっとした理由がありますねん」

紙飛行機をひょいっと拾い上げ、目線の高さに持ってきて理由を語る、まさか俺のためって云わないだろうな?。

【某】
「今度大阪で紙飛行機の博覧会がありますねん、そこで海外の著名なペーパークラフト製作者が来るんですけど。
そん人が作る紙飛行機がなんと最長飛距離七十五メートルも飛ばすんですよ。
わいそん人にごっつ憧れまして、そん人に少しでも追いつきたくて日夜研究中ですねん」

紙飛行機を掲げて子供のような無邪気な眼で理由を語った、勿論無邪気な眼かなんて俺の勘だ。
先生もクラスの生徒も皆廓に視線が釘づけになっている、これは廓の作ってくれたチャンスなんだ。

【一条】
「廓、感謝するぞ」

小さく呟いて当初の目的である席への到着を再開に移す

【志蔵】
「凄い理由なのね、この歳になっても紙飛行機に魅了されてるなんて……」

【某】
「飛行機は男の夢ですやんけー、男はどんなに歳いっても空に夢を持っとるんでっせ」

うわ、何云ってるんだ廓のやつ、恥ずかしくないのか?
まぁ俺にはそんなことより席に到着する方が先決だ、廓が先生と話し込んでる隙に過去最高記録のスピードで席にたどりついた。
過去最高記録って云っても俺以外こんな莫迦なことしないんだろうな、しかし今は恥じてなんかいられない。
俺は何事も無く最初から席についていたような素振りで肘をついて外を眺める。
廓の方に視線を向けると、廓の口が微かに笑ったように見えた気がする。

【志蔵】
「夢を見るのも程々にして、今度からは休み時間に研究するのよ」

【某】
「りょうかいですわ、今度からは気をつけまっさ」

廓が席に戻るまでの間クラス中から拍手を受けていた、まるでヒーローみたいだな。

【志蔵】
「まったくもうー、それじゃ出席を採りますからね」

なるべく先生と眼が合わないように外を見ていた、急に教室に1人増えていることを勘付かれないだろうな?

【美織】
「おはよ、某のあれってあんたの為でしょ?」

美織はなぜ廓が紙飛行機を飛ばしたかに勘付いているようだ。隣の席だから当然俺が最初からはいなかったことも当然知っている。

【美織】
「どうしたの、寝坊でもしたの?」

【一条】
「ちょっと目覚まし時計が……」

時計が悪いなんて云えない、俺がタイマーセットを忘れただけなんだから。

【志蔵】
「……今日も全員いるみたいね、それじゃ今日も一日がんばってね」

先生が出て行くと廓がやけに良い笑顔で俺の元に来る。

【某】
「どうやら上手くいったみたいやな」

【一条】
「なんとかな、恩にきるぞ廓」

【某】
「わいの迫真の演技にかかれば廃車だって1つや2つ買わせられるで」

大意張りで胸を張る、確かに上手い演技だったが廃車の1つや2つって……完璧詐欺じゃないですか。

【某】
「それよりも一条、服の汚れ落とした方がええで、そのままやとどえらい格好やで」

服を見ると体の前面が灰色になっている、歩腹前進なんてしたから床の汚れが直についたんだろうな。

【一条】
「うわ本当だ、ここちゃんと掃除してるのかよ」

前面を叩いて埃を落とす、ある程度埃は落ちたが内部にはいった汚れは洗わないと取れないだろうな。

【一条】
「ところで廓、七十五メートル飛ぶ紙飛行機ってどんなやつなんだ?」

【某】
「そんなもん嘘に決まってるやろ、どうやったら紙でできた物が七十五メートルも飛ぶねん
それはもう紙飛行機や無くてラジコンっちゅーねん」

【一条】
「そりゃそうか、もしかすると大阪で開かれる博覧会ってやつも?」

【某】
「当然、さっきわいが話したことに本当のことなんてひとっつもあらへん。
最初から最後まで嘘のベタ塗りや、飛行機が男の夢なんて何時代のことやねん」

【一条】
「よくあの短時間でそこまで嘘を考えたな、お前の前世詐欺師だろ」

【某】
「恩人に向かってそれは無いやろ、自分で云っとくがわいは学校一の策士なんやで」

【美織】
「某に策略で勝とうと思ったら本物の詐欺師でも呼んでこないと無理だろうね」

詐欺師と対等にやり合える学生ってのももう未来が決まってるんじゃないか?

【一条】
「とりあえず、今日は助かったよ」

【某】
「礼には及ばんて、困ったときはお互い様やん、ところで一条ちょっと相談なんやけど。
わい今日財布家に忘れてしもて銭無いねん、昼飯のパン買う銭をちょっと色つけてもらえればありがたいんやけどなー」

【一条】
「ようは昼飯をおごってくれってことだろ、おごってやるどころかおごらせてもらうさ」

【某】
「おおきにやー、ほんなら昼飯の時間忘れんといてやー」

廓の口が不思議に吊上がった、まるで詐欺師が獲物を追い込むような鋭い上がり方だった……

……

【一条】
「廓のやろうー!」

昼食の時間になって廓にパンをおごってやった、それだけのことだが無性に腹が立つ。
普通パンって百円かいくら高くても二百円位じゃないのだろうか?
購買にはいつもそれ位の値段の物しか置いてないから安心していたが、廓にはめられた。
廓が買ったパンは月曜日限定のスペシャルらしくハンバーガー、ツナサンド、ピザトーストの三つが1つになったもので
お値段なんと八百円。
学生用に安くはなっている、普通の店で買ったら千円は軽く超えるだろうが八百円は購買の中では異例だ。

ここに火曜から来た俺には月曜に限定品があるなんて知る由も無かった、廓のさっきの不思議な口はこのことだったんだな。

【一条】
「やっぱりあいつは詐欺師だ……」

廓に当たってもしょうがない、元はと云えば俺が遅刻したのが悪いんだから。
煮えくり返る腹をなだめて俺もパンを買う、贅沢できないので百円のクリームパンを買うことにした。

……屋上に出るとそこには美織と音々の姿があった

【美織】
「マコ、こっちこっち」

俺を発見した美織がブンブンと大きく手を振っている

【音々】
「なんだか……元気がありませんが、どうかなさったんですか?」

【一条】
「廓のやつにはめられた、人が知らない所でとんでもない罠を張ってやがった」

【美織】
「どうせスペシャルをおごらされたとか、そんなところでしょ?」

【一条】
「な、どうして知ってるんだよ?」

【美織】
「今日は月曜だからね、パンをおごるなら別の日にしたら良かったのに」

【一条】
「知ってたんなら教えろよ……」

先日来たばかりの俺なんかが知るわけも無いこの学校の罠、これがアウェーの怖さか……

【音々】
「まあまあ、そんなにしょげないでくださいよ、誠人さんもご一緒にお昼どうですか?」

【一条】
「昼って云ってもねぇ……」

金に余裕が無いから買えたのはクリームパン1つ
これじゃどう考えても満足のいく食事なんてできないよ……

【美織】
「男の子がクリームパン一個なんて辛いんじゃないの?」

【一条】
「辛いで済めば良いけど……」

空腹で幻覚を見たりしなければ良いけど……漫画じゃあるまいしそこまではいかないか。

【音々】
「よろしければ私のお昼、召し上がりますか?」

【一条】
「は? それじゃ音々は何食べるんだよ?」

【音々】
「私は少食ですから、昼食くらい抜いても問題ありませんから」

笑顔で弁当を差し出してくる、ありがたい申し出だが、本当にいただいてしまって良いんだろうか?

【一条】
「本当に……もらっても大丈夫?」

【音々】
「はい」

【一条】
「それじゃ……ありがたく頂きます」

音々から弁当を受け取る、女の子用なので俺には少しばかり足りないかもしれないがパン1個よりもよっぽどマシだ

【美織】
「あぁー良いなー、あたしも姫のお弁当食べたいなー」

【一条】
「今の俺が危機的状況だってわかってそんなこと云ってるのか?」

【美織】
「冗談よ、冗談 てゆうかあんたそこまでまずい状況なの?」

そこまでまずくはない、しかし美織に食わせたら多少なりとも摂取量が減ってしまうじゃないか。
弁当箱のふたを開けると、前に見た時と同じように、色合いのバランスの取れた綺麗な盛り付けがなされている。

【美織】
「いつみても姫のお弁当って美味しそうよね、マコに食べさせるなんて勿体なくない?」

【一条】
「おまえはちょっと黙ってろ」

どこまで難癖付ける気だよ、美織のことは放っておいて、彩り豊かな弁当に箸を伸ばす。
青菜の卵とじを一口かじる、青々とした野菜の僅かな苦味を卵が丸く全体をまとめている。

【一条】
「うま……」

前にも一度味見をさせてもらったけど、相変わらず大した腕だ
言葉も少なく弁当を平らげることに集中する。

【美織】
「そんなに急いで食べると咽詰めるよ、それにもっと味わって食べなさいよ」

【一条】
「ふぐふぐ……」

うんうんと云いたかったのだが、口の中一杯で上手く言葉にならなかった。

【美織】
「食べながら喋るんじゃないの、汚いなぁ」

【音々】
「ふふ、誠人さんは美味しそうに食べますね」

口の中に物が無いのを確認してから言葉を繋ぐ。

【一条】
「美味しそうじゃないんだ、本当に美味しいんだよ」

【音々】
「そう云ってもらえると私も作った甲斐があります、やはり他の人に食べてもらうというのは気持ちの良い物ですね」

ニッコリと音々が微笑みかける、料理好きの人間にとって美味しいと云ってもらえるのは至上の喜びだろう。
だけど、俺が弁当をもらったことにより、音々は食事抜きになってしまう。
問題無いとは云っていたけど、やっぱり心配になる。
この分だと俺はパンを食べなくても良さそうだし……

【一条】
「何も食べないのはやっぱり良くないぞ、購買のパンで悪いけど、これ食べてくれないか」

クリームパンを眼の前に差し出す、が、音々は受け取ろうとしない。

【一条】
「もしかしてクリームパンは嫌いだったか?」

【音々】
「い、いえ……嫌いじゃ、ないと……思いますけど」

なんだか曖昧な表現、嫌いじゃないと思うって、自分の好みがわからなくなったのか?

【一条】
「だったら受け取ってくれ、案外購買のパンも不味くないんだぞ」

ぎこちない手つきで音々はパンを受け取る、受け取ったはいいが、そこから先に進まない。

【音々】
「あ、あの……」

【一条】
「ん、どうかしたのか?」

【音々】
「これは……その……どのようにして食べたらよろしいんですか?」

【2人】
「はい?」

俺と美織が2人で顔を見合わせる、もしかして2人とも聞き間違えたのか?
どのようにして食べたら良いって、普通に食べたら良いんじゃないのか?

【一条】
「どのようにって云われてもな……」

【音々】
「申し訳ありません、私、今までクリームパンを食べたことが無いんです」

【美織】
「あぁーそっか、姫の家じゃ菓子パンなんか出ないか」

申し訳無さそうにコクンと頷く、そういえば音々の家は立派なお屋敷だっけ。
あの家じゃあ菓子パンなんか食べる機会も無いだろうな。

【一条】
「袋を破ってそのままかじりつけば良いと思うけど」

良いも何もそれくらいしか食べ方なんて思いつかない。

【音々】
「わかりました、そのままかじってしまって良いんですね」

わたわたとした慣れない手つきで袋を破る、もしかしたら袋入りの菓子パンなんか触ったことも無いのかもしれないな。

【音々】
「それじゃあ……いただきます」

袋の先から少しだけパンの頭を出し、小さくパンに口をつけた。

【音々】
「はむ……んく、んく、んく……」

【一条】
「……」

【美織】
「……」

【音々】
「んん……こくん……あ」

パンを飲み込むと、口を小さく開けたまま音々が動かなくなってしまった。

【一条】
「やっぱり、口に合わなかったか?」

【音々】
「いえ、とんでもありません、凄く、凄く美味しいです」

子供のような満面の笑顔を覗かせ、再びパンに口をつける。
初体験のクリームパンはどうやら気に入ったみたいだ。

【音々】
「ほむ……んく、んく……こくん」

【美織】
「姫、もしかして、気に入っちゃった?」

【音々】
「んく……はい!」

良い所のお嬢様がクリームパンに感激している、なんだか不思議な光景だ。

【一条】
「美味そうに食べるんだな」

【美織】
「本当だよね、姫がクリームパン食べたことが無いって云うのは驚いたけど。
クリームパンに感激するのはもっと驚いたよ」

【音々】
「どうしていままでこんなに美味しい物を食べなかったんでしょう、人生を無駄にした気分ですね」

うわぁ……クリームパンとの出会いって音々の中ではそこまで大きな物なんですか……
両手で袋を押さえながら少しずつパンを減らしていく音々は子供のようなあどけないかわいらしさに満ちていた。

……

音々は終始笑顔のままクリームパンを完食した。

【音々】
「誠人さん、ごちそうさまでした」

【一条】
「こちらこそ、でも、礼を云わなくちゃいけないのは本当は俺の方なんだよな。
俺からも改めて、ごちそうさま」

【音々】
「はい、おそまつさまでした」

【美織】
「うぅーん……お腹一杯になるとなんだかうとうとしてくるよね」

【一条】
「食ってすぐ寝たら牛になるぞ、もっとも本当に牛になるわけじゃないから心配しなくても大丈夫だからな」

【美織】
「そんなのあたしだって知ってるわよ、莫迦にすんなよ!」

ぷんぷんといった感じでそっぽを向いてしまう、美織とは対照的に音々はクスクスと笑っている。

【一条】
「さてと……」

食事が終わった後もまだ時間がある、こんな時はオカリナでも吹くとするか。
ポケットを探ってオカリナを見つけようとする。

……あれ?

おかしいぞ、ポケットにオカリナが入っていない、今日は一回も出した覚えが無い。
ということは……家か!

【一条】
「朝のあれか!」

【美織】
「うわ! どうしたのよ急に大きな声出して?」

【一条】
「オカリナを家に忘れてきた」

【音々】
「オカリナって、前に誠人さんが屋上で吹いていらした物ですか?」

【一条】
「ああ……朝急いでたから持ってくるの忘れたんだな」

ガックリと肩を落とす、そんな俺を見て美織は……

【美織】
「オカリナくらいでそんなにしょげるんじゃないの、今日吹かなかったからって死ぬわけじゃないんだから」

【一条】
「そりゃそうだけどさ……なんか吹かないと落ちつかないんだよな」

【音々】
「オカリナを吹くことがもう誠人さんの生活の一部になってしまっているんですね
ですけど残念ですね、今日は誠人さんのオカリナを聴けないんですから」

【美織】
「確かにマコってオカリナだけは上手だもんね、っていうかオカリナとったら何も残らないか」

グサ!

言葉のナイフが冷たく背中に刺さる。
美織さん、あなたはそこまではっきりと云いますか……

【一条】
「だったら今日の俺は何の価値も無しか……」

【音々】
「そんな落ち込まないでくださいよ、誰でも取得の1つや2つありますから」

グサ!グサ!

負のオーラをまとった俺に音々が慰めてくれているはずなんだけど。
音々の言葉は美織以上に強く俺の背中に突き刺さった、音々に悪気は一切無いのだろうが……

【一条】
「俺の取得って……何だろうね……」

ハハハと乾いた笑い、美織の悪態と違って音々には悪気が無いから余計こたえる。

……

【美織】
「予鈴鳴っちゃったね、そろそろ戻ろうか」

【音々】
「はい、誠人さんもいつまでも落ち込んでないでまいりましょう」

音々に促されて皆で屋上を後にする。
その時、頭のどこかで俺を呼びかけるような感じを覚えた。

【一条】
「……?」

不思議な呼びかけに応えるように、俺の視線は屋上の西側へと向いた。
屋上の西側はベンチも無いので数少ない屋上利用者の俺たちでも西側には集まらない。
俺も給水塔に上る時くらいしか用の無いそんな場所に、今日は先客がいた。

【一条】
「……あ」

それは地面につくほどの長い紺色の髪をした少女。
俺が言葉を発することを否定されてしまう少女が屋上にたたずんでいる。

【一条】
「……」

見えているのは少女の後姿、手すりによりかかって街の方に視線を向けている。
声をかけることは容易いはずなのに、いつもと同じように俺の口から言葉が発せられることは無かった。
体の自由を支配され、頭の中にはふつふつと奇妙な衝動が起こる。

【美織】
「あれ? どうしちゃったの、そんな所に突っ立って?」

【音々】
「……誠人さん?」

細い体、細い首、小さな頭……
両腕に力を込めれば、あんな首、一瞬にして崩壊させることができる。
眼の前で声も無く崩れ落ち、それを眺めあざ笑う俺がいる。
両腕をじっと見る、そのまま口元が不気味に吊りがり……

【一条】
「……っ!」

ドサ

【美織】
「ちょ、ちょっと! 大丈夫!」

【音々】
「誠人さん、しっかりしてください! 誠人さん!」

どこか遠くで声が聞こえる、それが誰に向けられているのか俺にはわからない。
今、俺が感じることができるのは陽光に暖められたアスファルトの熱と、不気味に揺らめく大空の陽炎だけだった。

……

【一条】
「……ん」

眼に飛び込んでくるのは一面の白、まるで病院の病室のような清潔感に満ちた一色の白。

【音々】
「あ、気が付かれましたか?」

寝ている俺の顔を音々が心配そうに覗き込んでくる。

【一条】
「ここは……?」

【音々】
「保健室のベッドの上です、誠人さんは御自分がどうなったのか覚えていらっしゃいますか?」

【一条】
「覚えて……ない」

【音々】
「突然屋上で倒れたんです、そのままにしておくわけにはいかないんで。
私と美織ちゃんで保健室まで運ばせていただきました」

確かに、倒れるような感覚があったような気がするな……

【一条】
「倒れた俺を2人が運んでくれたのか、迷惑かけたな」

【音々】
「あ! まだ起き上がっては駄目ですよ」

起きかかった体を音々に静止され、再び横に戻される。

【音々】
「倒れた時はゆっくりと回復を待たないとまたすぐに倒れてしまいますよ」

額にひんやりとした感覚、音々が額の上に濡れタオルを置いてくれた。

【一条】
「ありがとう……それで、美織は?」

【音々】
「美織ちゃんは教室に戻りました、今は5時限目の真っ最中ですから」

時計に眼を向けると、確かに今の時間は5時限目の授業中にあたるけど……

【一条】
「どうして音々はここにいるんだ、授業中なら音々だって戻らないと」

【音々】
「私は誠人さんの看病のために残りました、美織ちゃんにはそのことを伝えてもらうように云ってありますから」

【一条】
「そうなんだ……何から何まですまないな」

【音々】
「いえ……それより、誠人さんは何か持病を持ってるんですか?」

【一条】
「特にこれといって何も無いはずだけど」

【音々】
「それでは、以前にも急に倒れたこととかはありますか?」

【一条】
「それも無いかな……」

【音々】
「となると、今回は突発的な何かが原因になってるわけですね」

突発的な原因か……冷たいタオルでスッキリしはじめた思考回路で考えてみる。
倒れる直前まで俺の体には異変など何も無かった、そう、倒れる直前までは……
倒れる直前に俺の体に起きた異変、あの少女を視界にとらえた時にそれは突然襲ってきた。

あれは……人を崩壊させる欲望。
弱肉強食の世界で、己の快楽のみを追求した非人道的な衝動。
そして、欲望を満たし、脳内をエンドルフィンに制圧された異常者としての俺がそこにいた。

【一条】
「……」

なぜだ、何故俺の頭の中にあんな考えが浮かんだんだ?
己の快楽のために他人を傷つけることをいとわない、捻じ曲がった感情。
俺の中にはそんな感情が存在しているとでも云うんだろうか……?

【音々】
「……さん? ……誠人さん?」

【一条】
「え……?」

【音々】
「難しい顔をなされています、今はまだあまり深く考えない方が良いですよ。
体が回復してからゆっくりと考えれば良いんですから」

ニッコリと柔らかく音々は微笑む、音々の笑顔が俺の思考を遮断する。
そうだよな……俺にあんな感情がある訳無いよな……

【一条】
「……ありがとう、俺はもう大丈夫だから、音々は6時限目の授業に……」

【音々】
「誠人さんはまだ保健室にいらっしゃいますか?」

【一条】
「一応ね……戻ってまた倒れたなんてことになったら迷惑だから」

【音々】
「それでは私も次の時間はここに残りますね」

【一条】
「ど、どうして?」

【音々】
「誠人さんを1人残して倒れてしまったら誰が介抱するんですか?
それに、体験してみるのも悪くないと思いまして……」

【一条】
「体験ってなんの?」

【音々】
「授業の無断欠席、ボイコットですよ」

悪戯っ子のように、小さく舌を出して笑う。
まさか音々の口から授業をボイコットするなんて聞けると思わなかった。

【一条】
「音々って……案外悪だね」

【音々】
「何事も経験です、時間は無限にあるわけではないのですから
できることはできるうちにやっておかないと、後で後悔はしたくありませんから」

なんだろう、音々の言葉には不思議な重みが感じられた。
それは自分の決意のような、何か信念じみたものが言葉の奥に感じられた。

……

6時限目終了の鐘が鳴るまで、音々と世間話をしながら過ごした。

【音々】
「もうこんな時間なんですね、なんだか時間が過ぎるのって早いですよね」

【一条】
「ああ、それが楽しいことだとなおさら早く感じるんだよな」

【音々】
「同感です、ですが、授業をお休みするのも悪くないですね」

今日は音々の意外な面ばかり見ている気がする。
クリームパンに感動したり、授業をサボったり、これでもお嬢様なんだよな……

【音々】
「誠人さんの鞄は教室ですよね、私とって来ますね」

【一条】
「そこまでしてくれなくて良いって、それくらい自分でやるから」

【音々】
「遠慮なさらないでください、私の鞄もとりに行かなければなりませんから」

だからといってそれはまずい、それじゃ俺は音々を足にしてるの一緒じゃないですか。
お嬢様がそんなことをしてはいけませんって……

【音々】
「少しお待ちくださいね、すぐに戻ってきますから」

音々が部屋を出て行こうとすると、入り口の扉が派手に開く。

【某】
「こんちゃー、一条おるかー?」

【一条】
「廓? 俺に何か用か?」

【某】
「戻ってけえへんから、こっちから来たったで。
一緒に帰ろう思うてな、ほれ、おまえの鞄もここに持ってきてあるで」

鞄を持ち上げてバシバシと叩く、大した物は入ってないけど叩くのは止めてくれ。

【音々】
「どうやら私はお役御免ですね、誠人さん、お体には気を付けてくださいね」

最後に優しく微笑んで音々は保健室から出て行った。

【某】
「聞いたで、なんでも屋上で倒れたそうやないか、しかも音々に看病してもらえるなんて役得やな」

【一条】
「ほっとけ……」

茶化す廓から鞄を受け取って俺たちも保健室を後にした。

……

校門を出るところで二階堂と合流して3人で帰路につく。

【某】
「しかしなんでまた屋上なんかで倒れたんや?」

【一条】
「なんでだろうな、体調が悪かったわけでもないんだけど」

【某】
「案外自分の知らん所で無理しとったのかもしれんな。
せやけど、5時限目から6時限目まで密室に音々と2人っきりとはな」

ムフフと怪しい笑いを浮かべる、こんな笑いをする時の廓は大概しょうもないことを考えている。

【某】
「誠人……やったんか?」

【一条】
「やったって……何を?」

【某】
「しらばっくれんなや、やったゆうたらあれやんけ、男と女の情事やがな。
現場良し、シチュエーション良し、相手良し、こらもう疑う余地無くクロやな」

【一条】
「!!!」

考えるよりも早く、俺の拳が廓の後頭部へと伸びていた。

……

【某】
「痛たたたたたたた、なにも本気で殴ること無いやろー」

廓が頭を擦っている、俺が頭を本気で殴ったからだ。

【一条】
「もう少しましな悪ふざけにしろよ」

【某】
「悪い悪い、閉鎖空間に2人って云われるとどうしてもそっちの方に考えが流れてまうねん」

閉鎖空間って云っても教室の一室だ、いつ誰が入ってくるかわからない所でそんな危ないことできるはずがないだろう。

【二階堂】
「……具合はどうなんだ?」

【一条】
「5時限目の間中寝てたからもう調子は回復してるさ」

【二階堂】
「……よかったな」

控えめだが二階堂は俺を心配してくれているようだ、どっかのアホ関西弁とは大違いだ。

【某】
「誰がアホ関西弁じゃー!」

【一条】
「うわ、俺声に出してたのか?」

【某】
「どうしたんや? 狐に化かされたみたいな声出して?」

【一条】
「廓、お前今俺に突っ込まなかったか?」

【某】
「はあー? 何もボケてへんのに何で突っ込む必要があんねん?」

廓は首をかしげている、っということはさっきの廓の声は……
あいつは俺の頭の中にまで突っ込みをいれたのか。

【一条】
「このやろう、人の頭の中にまで出てきやがって!」

【某】
「痛い痛い、やめー! わいなんもしてへんやん暴力はんたーい」

頭に拳を擦り付けてやる、これが案外痛いんだ。

【某】
「痛い痛い痛い、わいが悪かったかんにんやさいもう許したってー」

……

【某】
「今日は一条にメッタメタにされとる気がするわ」

【一条】
「おまえの常人より先行した発想のせいだろうが……」

皮肉たっぷりに云ってやったんだけど、廓は笑うだけで少しも懲りていない。
近いうちに全くおなじ事でこいつともめるかもしれないな……

【某】
「何か咽渇いてもうたなー、一条、勇、自販機で飲み物でも買ってこうや」

【二階堂】
「……ビシ(指二本)」

【一条】
「俺は遠慮しておくよ、ここで待ってるから2人で買ってこいよ」

【某】
「さよか、ほんじゃ勇わいらでこうてこよか、一条ちょっとまっとってくれやすぐ戻ってくるさかい」

2人で自動販売機まで飲み物を買いに向かう、1人残った俺は空を見上げた。

【?】
「見つけたぞ」

男の声、廓や二階堂とは違う俺の聞きなれない声だった。
視線を落とすといかつい男が全部で7人そろっていた。

【一条】
「なんです、俺に何か用ですか?」

【?】
「先日はよくも逃げてくれたな、爆竹なんか使いやがって姑息な真似を」

【一条】
「爆竹? お前はあのときの……」

【三上】
「三上だ、本当は廓と二階堂に用があったんだがお前もやつらの仲間だそうだな。
やつらの仲間であったらお前も標的だ、この場にやつらがいないのを恨むんだな」

【一条】
「弱ったな、俺はあいつらみたいに強くないんだよ、俺を殴っても何も変わらないと思うが?」

【三上】
「それが変わるんだよ、お前がやられたとあっちゃあいつらも黙ってないだろ、お前はあいつらを誘き出すパンダなんだよ」

俺の周りを7人の男が囲む、逃げ道は断たれているようだ。

……

【某】
「熱! このコーヒちょお熱すぎるんとちゃうか?」

【二階堂】
「……猫舌」

【某】
「お前が鈍感なだけちゃうん、うん?……おいあれ!」

【二階堂】
「……!!」

廓が気が付いたときには一条の周りに他校の生徒が集まっているところだった。

【某】
「あかん、こんなときに、勇なんとしても一条を救出するで!」

【二階堂】
「……一条!」

2人が駆け出すが2人の元から一条まではそれなりの距離があった、これは吉なのか凶なのか2人にはわかるはずも無かった……

……

【一条】
「どうしても、逃がしてくれないんだな」

【三上】
「やつらの仲間はやつらと同罪、やつらと交友ができたことがお前にとっての災難なんだよ」

男が俺の胸ぐらをつかむ、以前はここで俺の拳が飛んだんだが……
今回は違った。

胸ぐらをつかまれた瞬間俺の体が急に軽くなる、それと同時に俺は自分の体を見下ろしていた。
俺の目線の下に俺の体があった、自分の体を上から見下ろすなんてことは本来不可能だ。
胸ぐらをつかまれると同時に俺の肩を何者かが引っ張ったような感覚を覚えた、まさか俺は幽体離脱でもしたのだろうか。

【一条】
「クククククク……ハハハハハハ……貴様ラ……染マルヨ?……」

違う! 俺の体が、俺の口が言葉を喋っている、幽体離脱などではない俺がそこに存在していた。
俺の口から出た間違いなく俺の言葉だ、しかし俺にはそんな言葉を云う気なんて無い。
自分の口で言葉を紡いでいる感覚はある、しかしそれは俺ではない誰か別の人物が俺の体で喋っているようなそんな感じだった。

【三上】
「何を笑っているのか知らんが、気がふれるのは後でしてもらおうか」

胸ぐらをつかんだまま男の逆腕が俺の頬に伸びる。
次の瞬間俺の体が普通ではない動きをした。

ゴキン!

【三上】
「ぐうあぁぁぁぁ!」

鈍い音と共に男が苦悶の表情と声を上げその場に倒れた。
拳が届く前に俺の体はつかんでいた男の腕を関節とは逆の方向に捻り上げ、そして……骨をへし折った。
俺がやったんじゃない、俺にはあんな芸当をすることはできない。
それ以前に体の自由が利かない、体が自然に動き俺の意志とは無関係に相手の腕をへし折った。

【一条】
「ククククククク……」

不気味な笑い声をだして俺の眼が他の男に向いた、その時俺は自分の眼を見てしまった。
その眼は全ての感情が崩壊した眼、ただ何かを求めるような恐怖を覚える眼をしていた。

【男】
「ごふぅ!」

拳が相手の鼻にめり込む、ごきごきと鼻骨を砕く感触が体を通して伝わってくる。
体の自由は利かないくせに自分の体がやったことは全て俺に伝わってくる。

【男】
「やろう、やっちまえ!」

男が殴りかかってくるが俺には命中しない、代わりに俺の拳がまた相手の鼻を砕いた。

【男】
「ぐはうぅ!」

他の男は次々とやられていく仲間を見てすくみ上ったのかその場を動こうとしなかった。
4人目、5人目、6人目、俺の拳はことごとく男どもの鼻を打ち砕いた。
俺の拳はもう砕かれた男たちの鼻血で真っ赤になっていた。

【男】
「ば、化け物だ、こんなやつ俺じゃ手に負えねえ!」

残った1人の男がその場を逃げ出そうと踵を返す、が、俺の体は男が逃げるのを許さなかった。
男の肩に手をかけて男を振り返らせる。

【男】
「や、やめてくれ、俺は三上とは無関係で、今日は無理やり連れてこられただけなんだ」

男は命乞いをしている、地べたに転がった鼻を砕かれて血を噴出した男を見て恐怖したのだろうか?
それとも、自分とは桁外れの力を持った今の俺に恐怖したのだろうか?
前者にしても後者にしても恐怖に変わりは無いよな。

【一条】
「……」

俺の口がニィっと吊り上る感触が伝わる。

駄目だ、止めろ!

【男】
「がっはぁ!」

拳が鼻をとらえる、6人目の鼻をも俺の拳は砕いた。
男がその場に崩れると辺りは腕を折られた男と鼻を砕かれた血塗れの男たちの残骸が転がっていた。

【一条】
「ククク……ハハハハハ……アハハハハハハハハ」

笑っている、俺の体は喜んでいた、俺の心は酷く沈んでしまっているというのに。
俺の体はこの状況を喜び、楽しんでいた。
自分に劣る人間を潰し、自分の能力を確認する、体はその行為に酔っていた。
体は云うことを聞かない、本人の意思を無視して俺が望まない行動をとる。

【某】
「一条……お前……」

【二階堂】
「……」

駆けつけた2人は一条の周りに転がる男どもの残骸を見て言葉を失う。
信じられないといった雰囲気で俺のことを見ていた。

【一条】
「美シイ……綺麗ダ……ナンテゾクゾクスルンダ……ククククク……ハハハハハハハ」

口が言葉を紡ぐ、俺の意思ではない、しかし俺の口は確実に今の言葉を紡いでいた。
今の科白にどんな意味があったのか、俺には理解することができない。
しかし、俺の口が紡いだということは完全な事実だった。

俺はどうなってしまったんだろう?
体の自由を失い、俺の体が意思とは無関係に動き出し、意味のわからない言葉を紡ぐ。
ありえないことが実際に起きる、そんな時人間は何もすることができない、身をもって体験した。

突然体が重くなる、体が俺の実体に戻った。
体の自由が戻るとそれと同時に頭の中が真っ白になる、意識が遠くなる前兆だ。
俺の体はそのまま力なくその場に倒れこんだ、そこに意識などもう存在していなかった。

……

眼の前に人影が見える、それは女性の姿だった。
その女性は俺の視線の上にいる、しかも水着を着て手にビールを持っている。
これはどういった状況なんだ? 眼の上で女性が水着姿でビールを持っている……

眼の上にいるのは俺が寝ているからだろう……なんだ、そういうことか。

謎が全て解ける、何故俺の上に女性がいるのか、それはその女性が平面上の二次元の存在だからだ。
つまり、彼女は天井に張られたポスターなんだ。

【一条】
「う、うーん……」

上体を起こす、ここはどこなんだ?

【某】
「おっ気が付いたようやな」

【二階堂】
「……」

横で廓が線香をくわえ、二階堂が缶コーヒーを飲んでいた
俺はベッドの上に寝ていた、なんでベッドの上に?

【一条】
「廓、ここはどこなんだ?」

【某】
「ここはわいの部屋や、お前気失っとったからわいの家まで勇と一緒に運んできたんや」

【一条】
「……気を……失っていた……か」

【某】
「なんやお前覚えてへんのかい、急に倒れるからめっちゃ驚いてんで」

【一条】
「そうだったのか、2人ともすまなかったな」

【某】
「礼なんて云うなや、わいらは友達やろ」

【二階堂】
「……遠慮するな」

【某】
「そんなことよりも……」

廓はくわえていた線香を灰皿に押し付けて灰になった部分を取り除いた。

【某】
「一条……さっきのあれは……いったいどういうことなんや?」

廓が云っているのは街でのことだ。
それ以外には考えられない……

【一条】
「それが……俺にもからないんだ……」

【某】
「自分にも……わからない?」

小さく1つ頷く、俺にもあれがなんだったのか説明できる自信など無い。

【一条】
「あれは間違いなく俺自身だ、でも……そこに俺の意思は無かった」

【某】
「意思が無かった? 勝手に体が動いたっちゅーことかい?」

【一条】
「簡単に云うとそんなところだ」

【某】
「そんなことってあるんかいな?」

【一条】
「それは……」

【二階堂】
「ありえない、と云うことはできないだろうな」

普段無口な二階堂が珍しく喋る

【二階堂】
「俺は今まであんな一条は見たことが無い、あれは普段の一条の姿じゃなかった。
あんな攻撃的な眼をした一条は初めてだった」

【某】
「あんときの一条の眼ほんまに怖かったわ、まるで夜叉みたいな眼しとったで」

【二階堂】
「だろ、それから一条の行動だ、今までの一条にはあこまで人をいたぶるような素振りは見せなかった。
念のため聞いておくが、お前は武術の心得とかは持ってるのか?」

【一条】
「俺はそういったものには興味が無かったはずだが……」

【二階堂】
「だとしたら一条には相手の腕を折ったりすることなんてできなそうだ、見様見真似で腕なんて折れるもんじゃない。
となるとあれは一条ではない一条の行動だと云った方が良い」

【某】
「一条ではない一条ってどういうことなん?」

【二階堂】
「それは一条がもう解ってると思うが?」

【一条】
「……」

二階堂の云っていることは筋が通っている、『俺でない俺』その表現はぴったりだと思った。

【某】
「するとなんや、一条は二重人格かなんかなんか?」

【二階堂】
「二重人格の可能性は無いな、もし二重人格だとしたら一条があのことを覚えているのは不自然だ」

【某】
「せやったら何で一条はあんな変わってもうたんや?」

【二階堂】
「俺にわかるわけ無いだろう、一条がなんで変わってしまったのかそれは誰にもわからんさ」

缶コーヒーに口をつけるとそれっきりいつもの無口な二階堂の戻ってしまった。

【一条】
「俺の体は……どうなっているんだ……」

視線を落とし自分の手をジッと見る、何も変わってないいつもの俺の手だ。
数時間前はこの手が人の鼻を砕き、この手を赤い鮮血が染めていた……
むしょうに怖くなる、自分の中に自分の知らない自分がいる、それは決して良いことではない。
消えてしまいたい……俺は自分の体を抱き誰にも聞こえないように小さく呟いた。

【某】
「一条、そんなくよくよすんなや、こんなときはやっぱりあれせんといかんよな」

廓が部屋を出て行く、残された二階堂と俺は何を喋るでもなく廓が戻ってくるのを待った。

【某】
「おまっとさーん」

戻ってきた廓の手には一升瓶とグラスが3つ持たれていた。

【某】
「こういった気分が滅入っているときは酒飲んで忘れるに限るやろ、今日は奮発して『名酒枯れ芒』にしたんやで」

【一条】
「俺、酒はちょっと、それに俺たち未成年だろ」

【某】
「何いっとんねん、酒は飲めるうちに飲んどかんと飲めるころには生きとらんかもしれんやろ。
よく云うやろ、『アルコール 飲めるころには 体無し』ってな」

【一条】
「それは『親孝行 したい時には 親は無し』のことだろ」

【某】
「似たようなもんや、語呂もあっとるんやさかい細かいこと気にせんと1杯飲んでみって」

……

【一条】
「気持ち悪ー……」

【某】
「なんやーあれぐらいでダウンかいなー、一条結構酒弱いんやなー」

お前が強すぎるんだ、自分の物差しは人に当てないでくれ。
一杯とか云っておきながら、あの後一升瓶が2本出てきた、大嘘つきめ……

【一条】
「もうこんな時間、気持ち悪いから俺帰るわ……」

時計はもう9時、そろそろ帰らないと廓の家の人にも迷惑になる。
それにもうこの酒の匂いに満ち溢れた部屋にいると……云わないでおこう。

【某】
「せやな、明日も学校やしこの辺でお開きにしましょか」

【二階堂】
「……ごっつぁん」

立ち上がるがよろよろと俺の足取りはおぼつかなかった。

【某】
「おっと、危ないなー、1人じゃ何かと危なっかしいのう、勇一条を家まで送ってくれへんか?」

【二階堂】
「……ビシ(指2本)」

【一条】
「勇、恩にきる、1人じゃ家に帰りつく自信が無い……」

1人で帰って朝道端で寝てたなんていったらシャレにならない。

【一条】
「じゃあまた明日、今日は色々ありがとな」

【某】
「ほいよ、また明日学校でな」

二階堂と一緒に廓の家を出る。
外に出ると涼しい空気と夜の匂いがする、夜風に当たるだけでだいぶ楽になる。

【一条】
「……涼しいな……」

【二階堂】
「……」

2人そろって夜の街を歩く、2人の間に会話は無い、しかしそれが妙に心地よかった。

……

俺と別れる十字路に近づくと不意に二階堂の口が開く。

【二階堂】
「一条、今日のことをどう思っている?」

【一条】
「どうって云われてもな、まだ俺には整理がつかないよ」

【二階堂】
「俺は今のお前がお前だと思っている、あれが仮にお前だとしても俺は認めない」

【一条】
「勇……」

二階堂が空を見上げている、俺もならって一緒に空を見上げた。

【二階堂】
「答えが出る問題だとは思っていないがお前にはお前でいてほしい、勿論廓もそう思っている」

【一条】
「……」

【二階堂】
「一条、好きなように悩むのはお前の自由だ、しかし、全てを1人で抱え込もうとは思うな。
お前は1人じゃない、俺や廓もいる1人で答えが出ないようなら他人に意見を聞くのも悪いことだとは思わない」

【一条】
「勇……ありがとう……」

【二階堂】
「今日のお前は変わっているな、礼を云ってばかりだ」

【一条】
「礼を云うだけのことをしてくれたから礼を云ってるだけだが……」

【二階堂】
「友達ってのはもっとフレンドリーなものだ、なんでもかんでも礼を云う必要なんて友達同士には不必要だ」

【一条】
「……ありがとう……」

今云われたばかりなのに礼を云ってしまう、二階堂は微かに笑っているだけでそれに突っ込むことはなかった。


【一条】
「じゃあな、また明日学校で」

【二階堂】
「……じゃな」

二階堂と別れて1人家に帰る、今日のでき事は当分俺の中に残ってしまうだろう。
鼻を砕く感触、手につく血の粘度、恍惚の表情をする顔。
これはもう1人の俺が行った俺の行為、消すことのできない俺が犯した事実であった。

【一条】
「……俺は……本当に……」

月と星だけの夜空を見上げながら、ただ、自らを恐れるだけだった……





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