【『諏訪 蓮見』】
諏訪さんを追いかける足は、迷うことなく美術準備室を目指す。
そこに絶対にいるとは云えないが、限りなく100%に近い確立でいるであろうと断言出来る。
本当は全力疾走などは骨に響くからしたくはないのだけれど、俺の足が休まることはなかった。
慌ただしく美術室の扉を開け、その奥の準備室の扉も開け放つ。
ほらね、やっぱり……
諏訪さんは部屋の中央でペタンと尻餅をついていた、こちらに背を向け、子猫のように小さくなってしまっていた。
【神谷】
「急に走り出して、どうし……」
声をかけるが、途中で俺の声は止まってしまった。
後ろからでもなんとなくわかる、諏訪さんの小さな肩が小刻みに震えている。
泣いている、直感でそんなことはすぐにわかってしまった。
【蓮見】
「もういや………どうしていつもいつも、私は……」
震える肩と同じように、声も震えていた。
震えるその声の向けられた相手はきっと俺ではない、いや、きっと誰にも向けて云ってはいない。
誰に云うつもりも無いのに、口から声となって漏れてしまっている、そんな風に感じられた。
泣いている諏訪さんなんて今まで一度だって見たことが無い。
諏訪さんでなく、女の子が泣いているのを一度だって見たことの無い俺には、こんな時どう声をかけたら良いのかはわからない。
もしかすると声をかけるのだって相手からしたら迷惑かもしれない、だけど、俺はそんな諏訪さんを放っておくことなんて出来るわけもなく。
【神谷】
「…………諏訪さん」
諏訪さんとなるべく目線が同じになるように、俺も膝を折ってその場にしゃがみこむ、すると……
ガバ!
諏訪さんの小さな身体が、俺の身体へと覆い被さってきた。
いきなりのことと、膝を折ってしまっていたために俺には堪えることも出来ず、そのまま諏訪さんに覆い被さられてしまった。
【神谷】
「おっと」
【蓮見】
「どうして……どうしてなの……」
俺の大して厚くも広くも無い胸の上で、諏訪さんは涙を溢れさせていた。
そんな彼女に、俺がかけられる言葉なんて何も無い。
俺はただ、彼女のすすり泣く声を聞きながら、胸を貸してやることくらいしか出来なかった……
【蓮見】
「私の……私のせいなんだ……」
いつまでも溢れ続ける涙、そして彼女の意思ではないのだろうが、握られたこぶしが俺の胸板へと軽く振り下ろされる。
涙で濡れ始めた俺の制服を通し、やんわりとした痛みだけしか、俺には感じることが出来なかった。
……
いつも断定的な口調で、自信に満ちたキリリとした眼を持った女の子。
しかしそれは俺が見たまま、外見上のことでしかなかった。
本当は何かがあれば泣き、何かがあれば弱みを見せる年頃の女の子と何1つ変わらなかった。
【蓮見】
「すまない……情けないところを見せてしまったな」
ややあってから諏訪さんは泣き止んだのだけど、その後は俺が下にいることや、俺が泣いているのを見ていたことに対して酷く怒られた。
今はいつもの落ち着きを取り戻したようで、準備室の壁に背を預ける感じで腰を下ろしている。
ちょうど俺に異変が現れた時と同じように、今度は立場がちょっと逆になっただけだ。
【蓮見】
「人前で泣くことなど、もう二度と無いと思っていたのだけれど。
しかも、よりによって見られてしまったのが君というのはどうだ、死にたくなるよ」
【神谷】
「そりゃどうも」
【蓮見】
「どうした、聞かないのかい? 私がどうしてあの場から走り去ってこんな所で泣いていたのか?」
【神谷】
「それはお互い様だね、俺の身体に異変があった時遠慮がちに聞いてくれたのに、俺がガッツクのは悪いだろ?」
【蓮見】
「妙な所でフェミニストなんだね、だけど、君らしくない。
君は無神経に聞きたいことを直球で聞いてくれないと、私の寝覚めが悪いじゃないか」
【神谷】
「……じゃあ、聞かせてもらっても良いのかい?」
【蓮見】
「色々とあったにしろ、私を介抱してくれたのは他でもない君だ。
君には聞く権利もある、それに、君になら話しても良いかなって……ほんの気まぐれなんだけどね」
苦笑いを軽く挟み、ふうと息を吐いて呼吸を整える。
これから諏訪さんが喋ろうということは、きっととても大事な、俺の身体の秘密と同じくらい、本当ならば隠したいことなんだろう……
【蓮見】
「私の筆はね、絵を描いているんじゃないようなんだ」
一瞬何を云っているのかと思った、頭の回転が遅い俺だから整理出来ないのだろうかと思い、少し時間をかけて考えてみる。
…………駄目だな、やっぱりどう考えてみても言葉の意味を理解することが出来ない。
【蓮見】
「やっぱり、いきなりそんなこと云われても理解出来る訳無いよね」
【神谷】
「絵を描いてるんじゃないってことは、何を描いてることになってるんだ?」
【蓮見】
「どうやら、その被写体のこれからの時間……そんなところじゃないかな」
被写体の時間? なんだかますます訳がわからなくなってきたな。
【神谷】
「ちょいと理解力が乏しいからわからないんだけど、結局のところそれってどういうことに?」
【蓮見】
「私が描いた被写体は、本来その被写体が過ぎるはずだった時間をその絵の中に全て閉じ込められてしまう。
よく怪談話の中にあるだろう、あるカメラで撮るとその人の全てがカメラに閉じ込められてしまうって話。
私の絵は、それと同じような原理になっているみたいなんだ……」
【神谷】
「……」
【蓮見】
「まったく、君は物事を直球で云わないと上手く伝わらないみたいだね。
端的に云ってしまうと、私が描いてしまった物は、そこで全て終ってしまうっていうことなんだ」
【神谷】
「! そっれて、つまるところ」
【蓮見】
「ああ、君の想像通りだよ……物を描けばその物は壊れ、人を描けばその人は死んでしまうということ」
あそこまで説明してくれればいくら鈍い俺だってわかる、だけどそんなことって。
そんな夢物語や作り話みたいなことが現実として起きているなんてことが……
【蓮見】
「信じられないのかもしれないけど、それが現実なんだ。
私だって認めたくない、認めたくないけど……認めなければいけない現実になってしまっているんだよ」
【神谷】
「だけどそんな、絵に描いただけでそのもののすべてが終わるなんて、そんな突飛な話が」
【蓮見】
「そう、こんな突飛な話は物語の中だけにしてほしいんだけどね。
でもね、私にはそれを物語とは云えなくしている数々の要因が、すでにいくつも出来上がっちゃっているんだ」
【蓮見】
「例えば、1月位前に私が描いた朝顔の絵、あの朝顔だって私が終らせてしまったんだ。
あの朝顔はあの日の午前中に咲いたものなんだ、いくらなんでも1日やそこらで朝顔の花は枯れやしない。
それを、私が描いてしまったから、あの朝顔の花は枯れてしまったの、納得した?」
確かに俺が最初に見たときはあんなに綺麗に咲いていたのに、諏訪さんが絵を描き終えた後は一時の嘘のように枯れてしまっていた。
あれが、諏訪さんの云う死なせてしまう力だって云うのか?
【蓮見】
「私がこの力をいつ持ってしまったのかはわからない、もしかしたら生まれつき持っていたのかもしれないけどね。
昔から私が絵を描いた後は、花瓶の花が枯れてしまっていたりしたこともあったけど、子供の私にはそんな理屈なんて当然わからなかった。
子供の頃の私に、こんな不思議な力を理解して恐れることが出来ていたのなら、きっとあんなことには……」
【神谷】
「あんなこと……?」
聞いてからしまったと息を呑んだ、あんなことと曖昧に話すということは、云いたくないほどのことなんだろう。
それを俺は好奇心からか、諏訪さんの気持ちも考えずに聞いてしまっていた。
【蓮見】
「…………以前少しだけ話したよね、私の親は小さい頃に死別したって」
【神谷】
「! 諏訪さん、そんな話はしなくても……」
【蓮見】
「良いよ、信じ切れていない君を信じさせるにはこれくらいの話の方が良いからね」
いつものようにははっと小さく苦笑い、本来ならばここから先のことは俺が聞いてはいけない類の話。
それだというのに、諏訪さんはそんなことを苦笑いをしながら話そうとしてくれる……
耳を塞いでしまうのはとても簡単だ、だけどそんな行為は諏訪さんの厚意、勇気と云っても良いかもしれないものを踏みにじることになる。
聞く側の俺よりも、話す側の諏訪さんの方が辛いのはわかりきっているのに、それでも諏訪さんは言葉を続けた。
【蓮見】
「昔、とは云っても私が小学校の5年生だったときの話なんだ、絵を描くことが好きだった私は夏休みの宿題の題材に私の両親を選んだ。
自分で云うのもなんなんだけど、その絵はかなりの出来でね、学校でもコンクールへと出されるほどの出来だったんだよ。
そしてそのコンクールで私の絵は最優秀賞を頂いた、真っ先に両親に知らせたかったよ、だけどその同じ日に私の両親は2人とも交通事故で……」
【神谷】
「……」
【蓮見】
「賞を貰ったその日に交通事故なんて、あの時はとても悲しかったけれど、いつまでも悲しむのは両親に悪かったから。
ただの偶然だとしかその時は思っていなかったんだけど、私が自分の持つ妙な力に気が付いたのは中学も中ごろの頃なんだ。
描く物描く物、絵の出来上がりと同時に壊れたり無くなってしまったり、さすがに私でもおかしいと感じ始めた」
【蓮見】
「それから程なくして、私は自分の持つ力を確信した。
それと同時に、自分の両親が死んでしまったことも思い出されてしまったんだ、もう完全に忘れられたと思ったんだけどね……
あの事故は偶然に起きたんじゃない、私が起こさせてしまったものなんだ」
【神谷】
「諏訪さん……」
【蓮見】
「間接的とはいえ、私は私の手で、実の両親を死なせてしまった……」
【神谷】
「もうそれ以上話さなくて良いから!」
淡々と言葉を続ける諏訪さんの両肩を両手で押さえ、お互いの視線を交差させた。
これ以上諏訪さんに自分の辛い話をしてもらいたくは無い、そんなつもりで俺は諏訪さんの肩を取ったのに。
諏訪さんは小さく微笑み、左右に首を振るだけだった。
【蓮見】
「君には、私の秘密を知ってもらいたいんだ。
君が私に君の秘密を教えてくれたように、私も君に秘密を知っていてもらいたい。
わがままだということはわかっているんだけど、お願い」
【神谷】
「……」
そんな顔で云われてしまったら、俺にはもう返す言葉なんか無いじゃないか。
きっと俺が手を上げて無理にでも話すのを止めさせようとしても、諏訪さんは話すことを止めてはくれないのだろう。
俺は諏訪さんの肩を掴んだ手を離し、さっきと同じように壁へと背を預けた。
【蓮見】
「ありがとう……私は自分の秘密を知ってから、描く絵が変わり始めたんだ。
被写体を用いず、頭の中で想像したものだけを描く、そうすれば壊れてしまうことなんてないと思ったからね」
そうだったんだ、諏訪さんがいつもどこかわからない景色を描いていたのはそんな理由があったからなんだ。
【蓮見】
「そういった絵だけを描いていれば良かったんだけど、校長先生にちょっと頼まれちゃったんだ。
『上手い絵ですね、1つ旧校舎の絵を描いてくれませんか?』ってね」
【神谷】
「やっぱりあの絵も諏訪さんが描いた絵だったんだ、前からそうじゃないかとは思ってたんだけど」
【蓮見】
「断れば良かったんだけど、断り切れなくてね。
云われるがままに絵を描いたんだけど、描きあがってしばらくしてからは君も知っている通りなんだ」
あの旧校舎が取り壊されてしまったのも、諏訪さんが描いてしまったからということなんだろう。
【蓮見】
「改めて自分の不思議な力を憎んだよ、私の意志など関係なく、私が描いたものは失われてしまう。
そう思い、また私は想像中の世界だけを描くことにしたんだ……
でもちょっと考えてみたんだ、私が今を描かずに、未来や過去の世界を描けば壊れないんじゃないかってね」
【神谷】
「それって、あの桜の木のこと?」
【蓮見】
「そ、今ある状態ではなく、いつか来る世界・いつかに過ぎ去った世界を描くのであれば問題は無い。
それであの桜の木が満開の世界を描いたんだけど、やっぱり駄目だったみたいだしね」
【蓮見】
「私の浅はかな考えで、また1つ世界の形を壊してしまった。
そう考えるとどうしてもいたたまれなくなってね、あの場から逃げ出して、さっきみたいに泣いてしまったんだ……」
【神谷】
「そう、だったんだ……」
【蓮見】
「私が絵を描けばその世界は壊れてしまう、そんなことが怖くて絵を止めた時期が何度もあった」
【神谷】
「諏訪さんの部屋に、絵の具の匂いがしなかったのはそのため?」
諏訪さんの眼が一瞬だけ大きく見開かれ、驚いた顔で俺の顔を見ていた。
【蓮見】
「………気が付いていたんだ、結構細かいところも見ているんだね。
あの部屋には絵を描く道具は存在しない、道具が無ければ描いてしまうことは無いから」
【蓮見】
「だけど駄目なんだ、いくら部屋の中から絵を描く環境を取り除いたとしても。
私はここに来て絵を描き続けているんだ……止めようと思ってもどうしても止められない、止めようとしても、どうしても…」
顔は確かに笑っていた、だけど、声はそんな風に笑ってはいない。
【蓮見】
「描きたくてしょうがなくなるんだ、私が絵を描くとどうなってしまうのか知り尽くしているはずなのに……
私は……酷い人間だ……」
言葉の最後はもう、涙で上手く言葉に出来てはいなかった。
止まっていた涙が全てを話してしまうことで、再び呼び戻されてしまったのだろう。
やはり諏訪さんだって、普通の女の子。
いくら不思議な力を宿しているからといって、それ以外はやっぱり年頃の女の子なんじゃないか。
【神谷】
「……」
【蓮見】
「ぁ……」
泣いている女の子の扱いなんて俺にはわかるわけも無い。
俺はただただ、泣いている諏訪さんの気持ちを少しでもやわらげるために、こんなことしか出来なかった……
【蓮見】
「ば、莫迦……いきなり抱きしめる奴があるか、私たちはそういう関係では……」
【神谷】
「さっき付き合ってるって云ったろ」
【蓮見】
「あれは咄嗟に話をあわせただけで……ぁ」
諏訪さんの言葉を遮るように、抱きしめた腕に力を込める。
一瞬だけ苦しそうな声を上げるも、それ以上反論するような声は聞こえてこなかった。
【神谷】
「強がってないで、もう1回泣いたらどうだ?」
【蓮見】
「………君という奴は………しかし何故だろうな、君に云われると嫌な気はしないんだ。
……すまない、もう一度だけ、君の胸を…貸してくれ……」
大して広くもない胸へと顔を押し付け、表情は見られないようにして諏訪さんは泣き始めた。
今までこんなことは誰にも云えず、1人きりで悩み続けてきたのだろう。
そんな今までの辛さが少しでも晴れてくれるのなら、そんなことばかりを願っていた……
……
【蓮見】
「今日の君には迷惑をかけてばかりだな」
泣くだけ泣いて満足したのか、諏訪さんの表情は生き生きとしていた。
【蓮見】
「今まで誰にも云えずに悩んでいたのだけれど、君に話してスッキリしたよ、それに決心もついた」
【神谷】
「決心?」
【蓮見】
「あぁ…………今度こそ、私は絵を描くのを止めるよ」
【神谷】
「え……」
【蓮見】
「初めからそうすれば良かったんだよ、だけど私のわがままで今まで描き続けてしまって。
だけど、これでもう終わりにしないと、いつまでも壊し続けるのはもう疲れたよ」
そう云いきった諏訪さんの顔は、一片の迷いも無い、とても凛としたものだった。
諏訪さんが決めたことなのだから俺がとやかく云うことは悪いことなんだろうけど、それでも、云わずにはいられなかった……
【神谷】
「駄目だよ、それじゃあ……」
【蓮見】
「どうしたんだい、急に」
【神谷】
「絵を止めるなんて云っちゃ駄目なんだ、諏訪さんの絵には見た人を惹きつける何かがある。
だからこそコンクールで賞まで貰えたり、校長から直接絵を頼まれたりしたんじゃないか。
それほどの腕がありながら、止めることなんて……俺だって諏訪さんの絵は好きなんだ」
【蓮見】
「君にそう云ってもらえるのは嬉しいのだけど、私の筆には……」
ジッと利き手である右手を見つめる、本当は止めたいはずないんだ。
でも自分に宿る力を考えると、そうせざるをえない、きっと諏訪さんの考えはこうなんだろう。
【神谷】
「それじゃあ、最後にもう1枚だけ描いてくれないか……」
【蓮見】
「………本当はもう描きたくはないんだけど、君の頼みなら1枚くらい……
それで、私は何を描いたら良いの、最後なんだから君のお願いくらいきいてあげるよ」
【神谷】
「………俺を、描いてくれないか」
【蓮見】
「!……」
俺の言葉に、諏訪さんの瞳がすぐに変わる。
それは1番初めのころに俺を見ていた、敵意を剥き出しにした怖い瞳だった。
【蓮見】
「何莫迦なことを云っているんだ、君は自分の云っていることがわかっているのか!」
【神谷】
「勿論」
【蓮見】
「本気で云っているのか、あれだけ私の話を聞いたのならわかるだろ。
私が君を描くということは、君は死んでしまうんだぞ!」
【神谷】
「俺の命はもって後5年無いんだ、いつ死んでしまっても悔いは無いし恐れも無い。
だから、俺の絵を描いてくれないか……」
【蓮見】
「いくら君の頼みとはいえ、そんなことを受け入れるわけにはいかない。
そんな、死なせてくれと云っているようなことを聞いてあげるわけにはいかない!」
莫迦莫迦しいといった感じで、諏訪さんは準備室を出て行こうとする。
そんな諏訪さんの両肩をグッと掴み、逃げられてしまわないように壁へと諏訪さんの身体を押し付けた。
【蓮見】
「!…………案外乱暴なんだな、逃げられないようにして私にキスでもしようというのかい?」
【神谷】
「もう一度だけ頼む、俺の絵を、描いてくれ……」
【蓮見】
「……何度も云うように、私が絵を描き終えてしまえば君は死んでしまうんだ。
そんなお願いは、いくらなんでも私には……」
【神谷】
「眼を逸らすな!」
【蓮見】
「!」
俺の剣幕に諏訪さんの肩がびくりと震える、俺が諏訪さんを押さえているのは逃げられてしまわないようにともう1つ。
2人の視線が外れてしまわないように、お互いが真正面からお互いを見ていられるように……
【蓮見】
「………無茶な注文だというのは、君にだってわかっているはずだろう!
それなのに、どうして、どうしてそんなに死に急ぐんだ!」
俺の剣幕に続いて、今度は諏訪さんも声を荒げ始めた。
【神谷】
「諏訪さんに、絵を止めてほしくないから……諏訪さんの絵が、俺は好きだからだよ」
【蓮見】
「……だからと云って、どうして、君の絵なんだ………」
【神谷】
「俺に出来るのはこれくらいしかないんだよ、残された時間が少ない俺には。
もし諏訪さんが俺の絵を描いた後に悩み続けるようなら、悩むことは忘れて絵を描き続けてほしい。
時々思い出して、君の絵が好きだった人がいたことを思い出してもらえれば、俺はそれで」
【蓮見】
「う……うぅ………」
止んでいたはずの涙が再び溢れてくる、今回は俺が泣かせてしまったも同じことだな。
【蓮見】
「君はずるい男だ……これでは、私が絵を諦めることなんて出来なくなってしまうじゃないか」
【神谷】
「それで良いんだ、絵を描いているときの諏訪さんは、どんな時よりも生き生きとしているんだから……」
【蓮見】
「私なんかを気にするより、自分のことを気にしたら良いじゃないか……」
【神谷】
「今までだったらそうだったんだけど、なんでだろうな。
諏訪さんが相手だと、どうしても気になってしょうがないんだ」
【蓮見】
「…………わかった、君には、負けたよ……絵を、描かせてもらいたい」
【神谷】
「あぁ……ありがとう」
【蓮見】
「どうして君が謝るんだ、謝らなければいけないのはきっと私の方なのに。
……そろそろ肩を放してもらえないか、少し、痛くなってきた」
ギュウッと押さえたままだった腕の力を緩める。
それから先はとても自然な動き、まるで自分で意識などしていないのに。
俺の腕は流れに任せるように諏訪さんの顎を軽く持ち上げ……
【蓮見】
「ん? ……んう!」
自らの唇を重ねていた、本当に自然な動作の中で、何の合図もお互いに出してはいなかったのにだ。
触れた瞬間に諏訪さんの身体全体がビクリと震え、その後も小さな身体の震えが止まることは無かった。
【蓮見】
「んん……むぅ……ぷぁ! はぁ、はぁ……」
【神谷】
「ふぅ……」
顔を放して見る諏訪さんの顔は、頬が赤く紅潮してとてもいつもの口の悪い女の子と同じ顔には見えなかった。
【蓮見】
「い、いきなり君は何をするんだ! 私は許可していないぞ!」
【神谷】
「諏訪さんだってさっき云ってたじゃない、キスでもする気かって。
折角だから、やらせてもらいました」
【蓮見】
「君という奴は………普段の頭は回ってもいないくせに、こういうときだけ恐ろしく早いんだな。
だけどまあ、全ては私の小さな嘘が原因だから、君を強くも責められないのだけどね」
【神谷】
「手向けの花の代わりとして、貰っていくよ」
【蓮見】
「私の許可も無く勝手に持って行くとは、やっぱり君はずるい人間だ……」
……
【蓮見】
「君はそこに座ってくれているだけで良い、後は私の方で好きなようにやらせてもらうから」
指定された構図は俺が椅子に座る姿、初心者に無理なポーズをとり続けるのはきついらしくこの形になった。
【蓮見】
「本を読んでいても、寝ていても良い……君がそこにいてくれていれば、それで大丈夫だ」
あまり時間をかけてはいられないということで、諏訪さんが選択したのは水彩画だった。
水彩画用のパレットと筆、それと棚から様々な色を選択して自分の手元に置いていく。
【蓮見】
「最終確認をさせてもらう……君は、本当に絵の被写体になるんだね?」
【神谷】
「ああ」
【蓮見】
「わかった、私にどれだけのことが出来るかわからないけど、精一杯努めさせてもらうよ」
左にパレットを構え、次々と必要な絵の具を搾り出していく。
筆で絵の具と水を適度な粘度に練り上げ、画用紙へと筆を走らせ始めた。
諏訪さんの絵が終るころ、俺はきっと終りを迎えられることが出来るのだろう……
……
【蓮見】
「……」
いつもと同じあの敵を射るような真剣で、怖ささえも覚えるような視線。
そんな視線がキャンバスと俺を交互に切り替えられていく。
あの視線、全てを教えてくれた今だからわかる。
諏訪さんのあの眼は、壊れてしまう物に対する、敬意の表れなんだと。
【蓮見】
「辛くない?」
【神谷】
「今のところは特に何も」
【蓮見】
「そう……ごめんね、なんだか私の筆もあんまり早く進んでくれないんだ」
【神谷】
「焦ることはないよ、諏訪さんが納得するまで、納得のいくまで描き続けてくれ」
ありがとうと一言、そしてまた諏訪さんは俺とキャンバスに視線を戻した。
何をしてても良いとは云われたけど、被写体となっている俺にはとくにすることもない。
何もすることの無い俺は、視線を窓ガラスの先の空へと移してみた。
もう紅の色が強くなり始めた夕暮れの空、こうやってゆっくりと夕暮れを見るのなんて何年ぶりだろう。
殆ど音の無い、あるのは2人の呼吸音と走る筆の音、そんな閉鎖された空間の中で眺める夕暮れの空。
夜の前に僅かな時間だけ見せるこんな世界、こんなにも美しいものだなんて……
【蓮見】
「どうかしたの?」
【神谷】
「いや、夕暮れが綺麗だなって……夕暮れがこんなに綺麗なものだなんて、知らなかった」
【蓮見】
「!」
諏訪さんの筆が止まってしまった、俺がどうしたと声をかけようとすると。
【神谷】
「…………あう!」
そんな俺の気持ちなど何も考えず、傷みは俺の体を蝕むように自己主張を始めた。
【蓮見】
「大丈夫か!」
絵を描いていた諏訪さんも手を止め、慌てて苦しむ俺のところへと駆け寄った。
俺は出来るだけ大丈夫と顔を作り、胸ポケットにしまってある薬を一錠取り出して口の中へ。
口の中に唾液を溜めてそれを使って一気に咽の奥まで……
【神谷】
「けほ! けほ!」
【蓮見】
「無茶をするな、私のを使え」
前と同じように諏訪さんがキャップの外されたペットボトルを渡してくれる。
諏訪さんが口を付けた物なので申し訳なく思いながらも、俺はその好意に甘えることに。
【神谷】
「んん……うぅ! げほ、げほ!」
水が咽の奥に入っていかない、飲み込もうとする咽に力が入らない。
意識しないで咽の奥へと流れる水は害以外の何物でもなく、俺の咽は拒絶反応を示すように水を吐き出してしまう。
【神谷】
「はぁ……はぁ……」
【蓮見】
「飲めないのか? 飲むんだ!……君はまだ死んではいけないんだ!」
諏訪さんの云うとおり、まだ絵が完成していないのに俺が死ぬわけにはいかない。
だけど、俺の咽には力が入らず、薬を飲みこむことはおろか、水を手にすることすら今は出来そうにない。
【蓮見】
「……少し苦しいかもしれないが、我慢してくれ」
転がっていたペットボトルの水を口に含み、諏訪さんは脱力する俺の頭を持ち上げ……
【神谷】
「うぅ!」
【蓮見】
「ん………」
2度目の口づけ、今度は俺からではなく、諏訪さんから。
柔らかい諏訪さんの唇と結ばれた俺の口の中に、大量の水分が流し込まれてくる。
その水が錠剤をつれて胃の中へと降りていく、拒もうと咽も反発をするが、俺は必死でそれを堪える。
口と口が結ばれたまま、何度か咳き込んだが、諏訪さんが口を離すことはない。
やがて拒み続けた咽を通り過ぎ、なんとか錠剤を飲み込むことが出来た。
【神谷】
「あぁ……はぁ…はぁ…」
【蓮見】
「……どう? 大丈夫?」
【神谷】
「なんとか……飲み込めたかな」
【蓮見】
「そう、良かった……」
諏訪さんはふうっと息を大きく吐き、汚れてしまった俺の口元をハンカチで拭いてくれた。
【蓮見】
「ごめんね、私の筆が遅いばっかりに……だけど、もう迷ったりしないから」
何かを決心したであろうその言葉、俺には何を決心したのかはわからないけど、諏訪さんの中では確かな何かが出来たのだろう。
軽い足取りでイーゼルの前に戻り、まだ描きかけの絵を手に取った諏訪さんは。
ビリリ……
絵を破いてしまった、縦に1回、2枚を1つにしてもう1回。
【蓮見】
「もう少し時間がかかるけど、がんばってね」
イーゼルの上に置かれた画板を退かし、まだ何も描かれていないまっさらなキャンバスを立てかけた。
新しい絵は水彩画ではなく、油絵になるようだ。
【蓮見】
「お待たせ……」
そう云ってニッコリ笑った諏訪さんは、新しいパレットと筆を構えてキャンバスに向き直った。
だけどそのキャンバスに向かう表情、それはいつものような鋭いものではなく、とても柔らかく、優しい眼をしていた……
……
辺りはすっかり暗くなり、時間はもう7時半をまわっている。
この時間まで残っているのはよほど熱心な運動部か、俺たちのような特別な事情の生徒と数人の教師陣くらいだろう。
あの痛みも引き、今も諏訪さんの絵が完成するのをじっと待っている。
【蓮見】
「……」
気にならないと云ったら嘘になってしまうほど、諏訪さんの表情は柔らかかった。
キャンバスを前にしてから、ずっとあの表情が崩れることはない。
今までは殆ど見ることなどなかった、とても歳相応で可愛らしい表情。
これが諏訪さん本来の顔なんだろう、この柔らかい表情で、一体どんな絵を仕上げるんだろうな?
【蓮見】
「……」
少しだけ離れてバランス調整、もう絵が完成に近づいているという知らせのようなもの。
塗っては離れて塗っては離れて、そうやって絵に最期の時間を刻み込んでいく。
俺の時間が終るのも、もうすぐなんだ……
【蓮見】
「ふぅ………」
描き初めと同じように大きく息を吐き、パレットと筆を手から取り除いた。
【蓮見】
「お疲れ様……」
【神谷】
「完成、したんだ」
【蓮見】
「ええ、これで全て終り、これで……ぁ」
ニッコリと微笑んだ諏訪さんの身体がぐらりと揺れ、そのまま膝から崩れ落ちそうになる。
【神谷】
「危ない!」
咄嗟に飛び出した俺がなんとか諏訪さんの身体を受け止めることに成功する。
しかし、俺の腕の中の諏訪さんは額に汗を浮かばせ、とても苦しげに胸を上下させていた。
【神谷】
「諏訪さん、どこか体の具合が……!」
眼を疑うような事実、それを知った時、諏訪さんの苦しむわけがすぐに理解出来た。
キャンバスに描かれている人物、それは俺ではなく……キャンバスへ向かう諏訪さん自身だった。
迂闊だった、立てかけられたキャンバスの先には、腰から上を映し出せるくらいの鏡が置かれていた。
何回か俺も落書きされていないかを確かめるために使った物、これを見ながら諏訪さんは自分の姿を……
【神谷】
「どうして、どうしてこんなことを」
【蓮見】
「いくら…時間が限られているとはいえ……やはり…君を死なせるわけにはいかないよ……
君はこれからの時間を……大切に過ごすんだよ」
【神谷】
「俺の身体の事なんて良いじゃないか! 俺よりも諏訪さんがこれじゃあ」
【蓮見】
「良いんだよ……私の絵は時間を終らせてしまう絵だ……そんな危ない絵描きは、いない方が良い」
はぁはぁと息遣いが荒くなり始め、胸の上下運動も活発になり始めてきた。
諏訪さんの身体が、時間を終えようとしていることを示しているのだろう……
【蓮見】
「5年なんて云うけど、5年は結構長い時間だよ……折角時間があるんだ、君には…最後まで生き続けてもらいたい。
未練なんて無いなんて云うけど、生きていれば、きっと楽しいこともみつかると……思うから…」
【神谷】
「そんな物、みつかるわけ……」
【蓮見】
「夕暮れが……綺麗だって、云ったじゃないか。
君にはまだまだ、知らないことがたくさんある……限られた時間の中でも、きっとすぐにみつかるよ」
【神谷】
「俺のことは良いんだ! どうして諏訪さんが、どうして諏訪さんが死ななくちゃいけないんだ!
俺なんかよりも、ずっとずっと先の可能性があるのに、それをどうして……」
俺がそんな言葉をかけても、諏訪さんの表情は微動だにしない。
苦しいはずなのに、眼は柔らかく笑っていて、それがとても俺の感情を締め付ける。
堪えることが出来ずに眼からあふれ出した涙が、俺の頬をツゥっと伝う。
【蓮見】
「冷たいな……泣かなくても良いじゃないか、最後の別れくらい、笑って……バイバイしようよ」
【神谷】
「そんなこと、今の俺には……」
【蓮見】
「………いつから、だろうな……君が私の横にいても……わずらわしくなくなったのは。
それが気が付けば、ずっと隣にいる存在に……なって、君と…キスするまでになって」
【神谷】
「諏訪さん……」
【蓮見】
「はは………諏訪さん、か……」
一度だけ眼を閉じ、ぼんやりとした視線が俺の顔を捜していた。
【蓮見】
「……結局…一度だって、君は私を……名前で呼んでは、くれなかったな……」
【神谷】
「!」
【蓮見】
「それだけが、凄く……心残り…だよ」
【神谷】
「…………蓮見、さん」
【蓮見】
「さんは余計だよ……だけど、そんなところが君らしい」
口元が少しだけ笑みを作る、そんな姿がとても痛々しく思え、涙の勢いだけが増していく。
【蓮見】
「泣くなと云っているのに……君はしょうがない男だな」
【神谷】
「そういう蓮見さんだって、泣いてるじゃないか……」
【蓮見】
「はは……ばれちゃったか、君に云った手前……泣かないようにしてたんだけど…やっぱり無理か」
同じ笑顔のまま、顔は笑顔のままだけど、その瞳から溢れる涙だけが違っていた。
頬を伝い、制服へと落ちて小さなシミを作り始めていた。
2人ともその涙を拭うこともせず、お互いの顔を見つめ続けている……
【蓮見】
「君の腕は大きくて温かいな……だけど涙が、とても冷たいよ……」
【神谷】
「俺が、俺があんなこと頼まなければ……」
絵を描いてくれ、そんなことを頼まなければ例え絵を描くことはなくなっても、死ぬことは無かったのに。
俺の自分勝手でわがままで、無責任なお願いが諏訪さんをこんなことに。
【蓮見】
「自分を責めたりは、しちゃ駄目だよ……私のことは忘れて…前を向きながら生き続けるんだ。
私の手ではなく、君の本当の終わりが来る時まで……約束、して…くれないかな……」
スッと差し出された手が、あてもなく宙を彷徨った。
何かを求めているのに、もはや諏訪さんには視点さえも定まってはいないのかもしれない。
そんな手をきつく、強く握り締めた。
汗で湿っていた手の温もりが、小さく震えるその感触が、俺にはとても痛い……
【神谷】
「……わかった、わかったから……もう何も…喋らないで…」
【蓮見】
「約束……だよ…はは、私が云ったことをもう忘れたのかい? 笑ってくれ、笑ってくれないと……私も辛くなる」
まったく笑顔など作れない俺とは対照的に、諏訪さんは笑っている。
とても苦しげなその笑顔、そんなものを見てしまっては、器用に笑うことなんて出来る訳無いじゃないか。
【蓮見】
「酷い笑顔だな、涙で……ぐしゃぐしゃだ…………私に、人のことなんて……云えないのかも、しれないけどね……」
出来る限り俺が作り出せた笑顔が、諏訪さんにどう映ったのかはわからないけど、諏訪さんは笑い返してくれた。
少しだけ、ほんの少しだけ笑顔が崩れて困ったような顔を見せるが、それもまたすぐに元通り。
【蓮見】
「長い間じゃ……なかったけど………君と一緒にいた時間はとても……楽しかったよ。
今まで、飽きもせずに私のところを……訪ねてくれて………嬉しかった、私は君に……感謝する…ばかりだ」
息遣いが無規則になり始め、少しずつ、諏訪さんの眼が閉じられていく。
額に浮かんだ汗もじっとりと量を増し、もう残されている時間が少ないことを、俺は知らされてしまう……
【蓮見】
「ありが…とう………私に…を…させてくれて…………」
言葉の最後はもう切れ切れで何を云っているのか聞き取りきれない、だけど諏訪さんの眼が訴えている。
俺は自分の感情の赴くまま、諏訪さんの身体を強く抱きしめた、もう鼓動さえも聞こえないくらい弱ってしまった諏訪さんの身体を、とても強く。
……最後にもう一度だけ、諏訪さんは俺の顔を見て笑ってくれた。
今まで一度だって見せたことが無い、心から可愛いと思える、そんな笑顔で。
一瞬の微笑みの後、まるで糸が切れてしまったかのように、諏訪さんの体から支えが失われてしまった……
【神谷】
「あ……ぁ……うぅ…」
言葉になんてなるはずが無い、言葉に出来ない代わりに、諏訪さんの身体を抱き寄せる。
離れてしまうのがとても怖く、とても愛おしい。
力が入ることの無い体に、俺は精一杯の気持ちを込めて抱きしめた。
とめどなく溢れる涙が諏訪さんの頬に降り注ぎ、笑った顔を濡らしていく。
涙の温もりが伝わるかはわからないけど俺の温もりが伝わるように、俺の想いが伝わるように、とても優しく。
今となってはもう遅いけど、伝われ、この想い………
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