【残された時間と桜の時間】


【受付】
「お気をつけてお帰りください」

受付の女性の声を後ろに聞きながら建物を後にする。
あまりここには来たくないのだけど、行かないとあっちから来い来いと連絡が来るのでしょうがない。

とても憎々しく思うけど、今の俺にはこれしかないという事実があるために、嫌でも足は向いてしまう。
ここに来たらいつも同じ人に会い、いつも同じ質問と応答を繰り返し、いつも同じ物を貰って帰ってくる。
もうこうやっているのも今年で1年目になるだろうか、俺にとっては嫌な意味での常連となってしまった。

【神谷】
「ふぅ……」

溜め息ばかりが出てくる、俺はいつまでこんなことを続けていれば良いのだろうか?
俺が何か悪いことしたか? していないとは云わないが、こんな仕打ちを受けるようなことをした覚えはない。

元々何に対しても無頓着だったけど、あそこに通うようになってからそれはさらに強くなった。
やっても意味は無い、俺がやったところでそれが役に立つことは無い、役に立つだけの間があるとは思えないからだ。

さっきの所で貰ってきた袋、いつもと同じ物が中には入っている。
1つ1つのブロックに分けられた小さな粒、これがラムネ菓子ということだと笑い話で終るのだけど、勿論そうじゃない。

【神谷】
「……」

グッとそれを握り締める、こんな物は必要ない、捨ててしまえ、いつもそんなことを思っている。
しかし、俺の手にはある程度の力以上は込められす、結局こいつを捨てることが出来ずにいる。

【神谷】
「はぁ……」

そしてまたいつもと同じように溜め息、あそこに行ってからはいつもこんな感じに落胆して帰るんだよな。

まったく、人間というモノはどうしてこう……

痛みも何も感じずに、消えてしまうことが出来ないのだろうか……

……

諏訪さんと知り合って友好関係に近いものが出来てから、もう1ヶ月くらいが過ぎようとしていた。
今でも昔と同じように俺の扱いは変わらないものの、最近では少しだけ笑う顔(俺を莫迦にして)を見ることが多くなった。

そして今日もまた、放課後を利用して諏訪さんのところへ来ているわけだ。

【蓮見】
「まったく君という奴は、どうしてあんな解く方法を教えられているものが出来ないんだ?」

【神谷】
「それは勿論俺がそれを聞いていないからだろうね」

【蓮見】
「少しも弁解になっていないな、それ以上にどうして君はそこで威張れるんだ。
あれほど私が午後の出席が拙いから出ろと云ったのに、何をしていたんだ?」

【神谷】
「屋上で寝てたね、最近は暑くもなく寒くもないから寝るのにちょうど良いんだ」

【蓮見】
「出てもいないのか、私の予想をはるかに上まって君は駄目生徒なようだね」

いつもと同じように諏訪さんにグチグチとお説教されている。
理由は俺が数学のテストで、ものの見事に全問不正解してしまったからだ。

6時限目に突発的に行われた数学のテスト、当然何の準備もしていない俺には解けるわけもない。
今日のテストは前日に公式を教えた所で、俺はその前日の授業はほっぽり出して屋上で昼寝を敢行していた。
その確認テストが今日行われ……といったところだ。

【蓮見】
「で、そんな駄目生徒の君が、いきなり勉強とはどういうことだ?」

【神谷】
「明日補習があるらしいんだってさ、俺だけ」

【蓮見】
「なんなんだ君は、クラスにあれだけ居て赤点は君だけなのか?
他の生徒が優秀と見るか、君1人だけが不出来で阿呆なのか……私が云いたいことわかる?」

【神谷】
「俺のクラスって頭いい奴だけ集まってんだな」

【蓮見】
「君のその思考回路の楽観度合いにはもう尊敬するよ」

これ以上何を云っても無駄だと判断したのか、軽く両手を挙げてやれやれとポーズをとった。

【蓮見】
「まあ君のことなどどうでも良いか、私は私で絵の準備でも」

【神谷】
「ちょーっと待った」

パレットを取りに行こうとした諏訪さんの腕をグッと掴む、少しだけ強めに、逃げられてしまわないように。

【蓮見】
「何?」

【神谷】
「諏訪お姉さま、折り入ってお話があるんですけども」

【蓮見】
「何だ急に気持ちの悪い、人に敬称をつけて気安く呼ぶのは失礼だと思うけど?」

【神谷】
「その辺の話はひとまず考えないで、諏訪さんは数学出来ますよね?」

【蓮見】
「少なくとも君よりは出来るだろうな、私が嫌いなのは英語と化学だと云っただろ。
それよりも放してくれないと絵の準備が出来ないのだけど?」

【神谷】
「わからないかねえ、俺はテスト云々の前にその公式すら出ていないからわからないんだ」

【蓮見】
「それは君の自業自得だね」

ぐっ、それを云われてしまうと何もかえす言葉が無いから辛いのだけど。
だけどここまでの流れから考えて、俺が何を云いたいのかわかるんじゃないんだろうか?

【神谷】
「そうなんだけど、出来ることなら明日の補習でまで全問外したくはないわけだ。
そこで、俺よりも数学の出来る諏訪さんにご教授願えないかと」

【蓮見】
「嫌」

って云うと思ったけどさ。

【神谷】
「そこをなんとか、この通り、帰りになんか奢るから」

【蓮見】
「……物で釣るんだ」

【神谷】
「現金が良いですか?」

【蓮見】
「君が欲しい」

【神谷】
「……は?」

【蓮見】
「聞こえなかったのか? 君の身体が欲しいんだ」

……………………………………へ?
…………………………………………………………………………はぁ?!

【神谷】
「うえぇ! 諏訪さん何を云ってるんデスカ!」

思わず語尾がカタコトになってしまったじゃないか。

【蓮見】
「君の身体の権利が私は欲しい、そう云っているのだが?」

いきなり何を云いだすんだこの人は?! 年頃の女の子のくせに随分と直球でモノを云うんだな。
だけど俺の体なんかもらって良いんだろうか? 俺って諏訪さんにとってどんな存在になっているんだ?

【神谷】
「……」

【蓮見】
「おい、何呆けた顔をしている? くれるのか、くれないのか?」

【神谷】
「ええと……だ、駄目ですよ」

【蓮見】
「そうか、残念だよ」

諏訪さんの落とした肩に、落胆の色を見るのはとても容易かった。
そこまでして俺の身体なんて欲しいのだろうか……?

【蓮見】
「せっかく、人体標本が手に入ると思ったのだけれどね」

【神谷】
「は? じんたいひょうほん?」

【蓮見】
「そ、模型と違って人体標本はその人本人だ、模型のような偽りの物ではない本物の人の身体。
人のスケッチをする際に本人以上に適任なのはないだろう、ただし、一般家庭の人が持つのは非常に困難だ。
君の身体が手に入れば、つくれるかもしれないと思ったのだけれど……」

うん、確かに人のスケッチをするのに模型はちと味気ない。
石膏像のデッサンもあるけど、あの石膏像は人物というよりもやっぱり模型に分類される作り物でしかない。
なるほど、だから俺の身体を使って人体標本を……

【神谷】
「莫迦なこと云うな! 俺に死ねってことじゃないか!!」

【蓮見】
「医学のため、さらにはこれからの子供たちのためになるんだ、誇りになるだろ?」

【神谷】
「絶対に嫌だ! 死んでまで人目にさらされ続けるのはごめんだよ」

【蓮見】
「ふむ、それもそうか、君にしては珍しく真面目なことを云ったね」

顎に手を当ててクスクスと笑う、可愛いというよりもなんだかとても小莫迦にされている気分だ。

【神谷】
「もういい、自分で全部やるから」

【蓮見】
「おやおや、では明日も全問赤点確実だな、おめでとう」

【神谷】
「邪魔しないでください!」

【蓮見】
「そう邪険にするな、たまには君の面倒を見るのも面白そうだし、私が教えてあげるよ。
私に任せてもらえれば、明日は満点確実なんだけど?」

【神谷】
「その手にはのらない、どうせ嘘教えるつもりだろ」

【蓮見】
「信用が無いんだね、これでも今まで数学のテストで満点以外をとったことのない私なんだが。
君がそうまでして自分1人でやりたいのなら私に求める権利はないか」

【神谷】
「え……」

今満点以外とったことないって云ったな、それが本当だとしたらこれ以上の助っ人は居ないはずだ。
だけど相手は諏訪さんだ、気を許したらその後何が起こるのかは俺が1番よく知っている。

これはとても危険な橋だ、渡っている途中で落ちないとも限らない老朽化した橋。
しかしそんな橋でも、先に甘い餌を出されたら渡ってしまうのが人間の心理というもので……

【神谷】
「今までの無礼をお詫びします、どうか1から教えてください」

【蓮見】
「中々良い心がけね、それじゃあ恵まれない君への施しをしてあげようじゃないか。
感謝しなさい、私が勉強を教えるのは彼方が始めてよ………スパルタでいくから」

……

【蓮見】
「違う」

ピシィ!

【神谷】
「いつ!」

【蓮見】
「そのままだと永久に除算が続くわよ、もう一度初めに戻ってやり直し」

【神谷】
「あのさ、どこで間違えたのか教えてくれる方がありがたいんだけど……」

ピシィ!

【蓮見】
「口じゃなくて頭と手を動かす、もう一度初めに戻ってやり直し、お返事は?」

【神谷】
「……はい」

【蓮見】
「それじゃあもう一度」

やる前にスパルタと前置きはされたけど、ここまでスパルタだとは思ってもみなかった。
いきなり何も云わずにやってみろ、で、間違えると手に持った大振りの筆で俺の指を叩いてくる。
間違えるとまた最初からやり直しでどこを間違えたのは絶対に教えてくれない、そして口答えするとまた叩かれる。

とても理不尽な仕打ちに、諏訪さんに頼んだのはやっぱり間違いだったと悔やまれてくる。
ここは月花か浩徳にでも聞くのが正解だったのかもしれない。

【蓮見】
「何だかんだでもう最後の問題だ、今までのこと全て理解してれば難なく解ける問題みたいだね。
これを解ければ明日のテストは問題無いだろうね、もっとも、君に出来るかどうか?」

明らかに「君には無理」って顔してる。
ああいった顔されると途端にやる気が出てくるから不思議だ。

【神谷】
「むぅ……」

【蓮見】
「……」

【神谷】
「…………」

【蓮見】
「…………………」

【神谷】
「…………………どうだ?」

【蓮見】
「ふふ、やはりそうなるか……出題者はこの問題にいくつか罠を仕掛けたみたいだけど、正解だ」

諏訪さんから出題された問題全20問、色々と間違えもあったけど何とか全部正解することが出来た。

【蓮見】
「おめでとう、これで明日のテストは全問正解だろうね……まぁ、君が今日寝て明日忘れてなければだけど」

俺の頭はそこまで記憶容量が少なくは無い、なめてもらっては困るな。
だけど諏訪さん、教えてくれると云ったわりには何1つ教えてくれていないような気がするのだけど……

……

そして翌日の放課後の補習。
俺1人だけのクラスでテストを受け、さっき終って今はまた諏訪さんのところ。

【蓮見】
「で? 結果はどうだったのかしら?」

【神谷】
「1問間違いで見事に合格、先生が焦ってたな」

【蓮見】
「そう、これも全て私が見てあげたおかげね、感謝しなさいね」

確かに教えてはくれなかったけど見てくれてはいた、諏訪さんが指摘してくれたから俺は間違いを理解して自分で正解を出すこが出来た。
これが諏訪さん流のやり方なのだろうか? 前例が無いのでどうも云えないけど。

【蓮見】
「さて、昨日は私が君を手伝ったんだ、代わりに君が今日は私を手伝ってもらうよ。
君の仕事は私のイーゼルとキャンバスを屋上へ持っていってもらうこと、壊さないようにくれぐれも気をつけてね」

【神谷】
「屋上? 風景画でも描くの?」

【蓮見】
「まあそんなところ、だけど風景画といっても今日は下書き程度かな。
全体像をつかめればそれで構わないんだ、後は全て私の頭の中だけで形にしていけるから」

……

諏訪さんに指示されるまま、俺は持ってきたイーゼルを立て、キャンバスをそこに立てかける。
手すりにとても近く、ここからだと学校のの入り口から正門までの道が全て見渡せるな。

【蓮見】
「後は私でやるから大丈夫、その辺で昼寝でもしていても構わないけど?」

【神谷】
「落書きしないんならするけど」

【蓮見】
「君は心配性だな、わかった、今日は君の顔に落書きをするようなまねはしないよ、約束する」

【神谷】
「もししたらどうするの?」

【蓮見】
「私の身体でもあげようか? 人体標本にでもしてくれ」

女の子がそうやってすぐ身体身体云うのはどうかと思うんだけど。

【神谷】
「人体標本なんていらないよ」

【蓮見】
「だろうね、ゆっくりとお休み」

云い終わると諏訪さんはキャンバスへと向き直り、白地の肌にスケッチ鉛筆をシャカシャカと走らせた。
ああやって絵に集中してしまうと俺は入り込む隙間も無い、ここは大人しく昼寝でもしているのが良さそうだな。

どれだけの時間そうしていたのかはわからないけど、次に俺が気が付いた時にはもう空は暁に変わり始めていた。
一応準備室に置かれた鏡を見てみたけど、特に落書きをされた形跡は残されていなかった。

【蓮見】
「なんだ君は、私の言葉が信用出来なかったのか?」

【神谷】
「そういうわけじゃ……ない?」

【蓮見】
「私に聞いてどうする、君は肝心なところで人を信用し切れていないな」

大抵の人は信用してるけど、諏訪さんだけはちょっと一筋縄じゃいかないんですよ。
屋上の画材道具を再び俺が準備室へと運んでいく、準備室にイーゼルを立ててそこにまたキャンバスを立てかける。

キャンバスには走り書きはされた大まかな形……を表しているであろう線がたくさん走らされていた。
俺には正直、何を描こうとしているのか検討もつかない。

【蓮見】
「それは学校前の桜道だよ」

【神谷】
「あぁなるほど、ということはこの端の大きく形取られてるのが桜なんだ」

イーゼルを置いた位置からは桜の気もよく見えたことだろうな、だけどこの絵はちょっと変わっていた。
それは絵の視点、上から見て描いていたはずなのに、この絵は正門からの見た構図になっていた。

【神谷】
「上から見てたのに、前からの図が描けるんだ」

【蓮見】
「位置関係さえわかってしまえば後はどの角度からでも描けるものだよ。
絵を描く人間は、空間を想像する力も一流でなければいけないんだ」

空間を想像する、それはとても数学的な面で強くないと上手く形を作ることが出来ない。
諏訪さんが数学を得意なのはこのことも少なからず関係しているのかもしれないな。

【神谷】
「だけど珍しいな、諏訪さんがどこの風景を描いているのか教えてくれるなんて。
いつもはさぁとか云って誤魔化すくせに」

【蓮見】
「あれは別に誤魔化しているわけじゃない、描いている私にもどこを描いているのかはわからない。
今までの私の絵を見ていればわかるだろう? 私はあまり眼に見た世界を描くのが好きじゃないんだ」

【神谷】
「そう云われれば確かに、それじゃあなおさらに、今回は見える世界を描こうと思ったの?」

【蓮見】
「そうね、私の気まぐれ………かしらね」

そういう諏訪さんの顔が僅かに曇っていた、本当に良く見ないとわからない程度の小さな曇り。
しかし俺はそれに気が付いてしまった、今の諏訪さんの言葉、きっと今の言葉は……

【神谷】
「うぐ……!」

何の前触れも無く、突然現れた胸の痛み。
ドクンと心臓が大きく打たれ、堪えられない痛みから苦悶の声を漏らしてしまった。

【蓮見】
「どうしたの今の声? それに、顔色が悪い……」

【神谷】
「大丈夫……ちょっとした胸の……ううぅ…」

誰がどう見ても大丈夫ではないだろうけど、俺はそんな状態を必死で誤魔化そうとした。
勿論諏訪さんにそれが通じるわけも無く、俺も誤魔化し続けることが出来なくなってその場に膝が折れた。

【蓮見】
「ちょ、ちょっと、大丈夫!」

【神谷】
「あ……だ、大丈夫……」

胸ポケットに入っている錠剤を震える手で取り出し、一錠だけアルミを取り払って口へと運ぶ。
口の中の唾液を使って飲み込もうと試みるが、筋肉が張り詰めているせいか咽に力が入らない。

【神谷】
「けほ、けほ……」

【蓮見】
「ちょっと待て」

諏訪さんは鞄の中からペットボトルを取り出し、キャップを外した状態で俺に差し出した。

【蓮見】
「私の飲みかけで悪いけど、これを使って」

【神谷】
「だい…じょうぶ……飲み込める、から」

【蓮見】
「飲み込めるわけがないだろう! 意地張らずに口を開けて!」

無理矢理顔を上げられ、僅かばかり開いた口にペットボトルの飲み口を押し込められた。
口の中に少し苦味のきいた水分が溢れ、それを使って錠剤が胃の中へと落ちていく。

【神谷】
「は……はぁ……」

【蓮見】
「飲み込めたか……待っていろ、すぐ保健の先生を呼んでくるから」

【神谷】
「いや……大丈夫、薬を飲んだからこれ以上酷くなることはないから。
少し休んでいればまた元に戻る」

【蓮見】
「何を云っているんだ、あれだけ苦しんでおきながら放っておけば治るなんて悠長なことを云っているのか」

俺の言葉には聞く耳持たず、俺が何を云っても諏訪さんは先生を呼びに云ってしまうだろう。
言葉で云ってわからないときは、行動で伝えるしか方法はない……

ギュゥ……

【蓮見】
「……」

諏訪さんの腕を強く掴み、俺の気持ちが今どうであるのかを伝える。
もっとも、これだけで納得する諏訪さんでないことは重々承知だ。

【神谷】
「あまり、学校に知られて良いもんじゃないんだ」

【蓮見】
「君は……」

【神谷】
「頼む……」

【蓮見】
「もしこのまま君がどうにかなっても、私に責任は取れないぞ」

最終警告、しかしそんな警告も俺は苦笑いをしながらこっくりと頷いた。

【蓮見】
「わかった……君がそこまで云うのなら、私が無理矢理行くのは好ましくないようだな」

【神谷】
「……ありがとう」

【蓮見】
「礼など云うな……しかし、君の体調が元に戻るまで、私は君を帰らせたりしようという気は無いから、覚えておいて」

壁を背にしてなんと起きている状態を保っている俺の横に、諏訪さんも同じようにして腰を下ろした。

【蓮見】
「1人では心細いだろう、病気というものはな……」

俺に起きた異変について、どうやら隠し続けることは出来そうにないのだろうと。
諏訪さんの言葉で悟らざるをえなかった……

……

【蓮見】
「そろそろ落ち着いたかい?」

呼吸も視線も安定し、額の汗が引いたのを見計らって諏訪さんがたずねてきた。

【神谷】
「あぁ……心配させてしまったかな?」

【蓮見】
「大抵のことでは驚かない私でも、あんなものを間近で見せられてしまってはね。
君が話したくないのなら結構だけど、一応聞かせてもらうよ……君は何の病気を患っているんだい?」

【神谷】
「ただのパニック障害……ってのは通じるわけも無いか」

【蓮見】
「そう云っている時点で隠す気なんて無いんだろう?」

【神谷】
「はは……1ヵ月もつきあってれば嘘もお見通しか……俺の一番の病巣はここなんだ」

俺は自分の胸をトントンと叩く、この話を他人に打ち明けるのは初めてだ。
月花も浩徳も知らない、今まで隠してきた俺の身体の秘密。

【神谷】
「肺にちょっと、問題ありだったんだよ……俺が患っていたのは、肺癌なんだ」

【蓮見】
「!」

いつもは驚きの顔なんてほとんど見せない諏訪さんなのに、今だけは明らかに顔は驚きを表していた。

【蓮見】
「肺癌って……こんな所にいて大丈夫なの?」

【神谷】
「発見が早くてさ、放射線治療でなんとか治すことが出来たんだ。
今でも病院に通わなければならないけどね」

【蓮見】
「なんだ、それなら今のところ心配は無いじゃないか。
でも、だとしたら君のさっきの痛がり方の説明が……」

【神谷】
「肺癌それ自体には大した問題は無かったんだ……ただ、癌には厄介な特徴があるだろ」

【蓮見】
「まさか、転移していたのか?」

【神谷】
「困ったことにね……それも他の臓器だったらまだ良かったんだけど」

ここで俺は一区切りをつけるようにフゥッと息を吐いた、次に告げることは他者にとって決して良いことではないのだから。

【神谷】
「骨転移だったんだ……」

【蓮見】
「っ!」

諏訪さんからの短く驚きの声、きっと誰に話してもこのような反応をするのではないだろうか?
実家の両親も、それを聞いた時には同じような声を出していたっけ。

【蓮見】
「骨転移って、手術のしようが……」

【神谷】
「他の臓器なら手術って手もあったんだろうけど、骨転移となると手術は出来ないからね。
痛み止めで無理矢理痛みを止めることは出来ても、決して癌がなくなることは無い」

【蓮見】
「それじゃあ君の身体の癌はもう……」

【神谷】
「察しの通り、取り除くことは出来ないと云うことだね。
医者からもう警告も受けている、俺の身体はもって後5年だろうということも……」

【蓮見】
「ぇ……!」

俺の言葉に、またも諏訪さんは小さく驚きの声。
しかも今度の驚きの声はただ驚いているだけじゃない、その声の中になんともいえぬ感情が混じっているような気がしてならなかった。

【蓮見】
「5年って、冗談でしょ? 冗談だよね?」

【神谷】
「こんな状態で冗談が云えるほど俺は出来た人間じゃない。
それにこんな真面目な話をしているのに最期に冗談を云うような意地の悪い人間でもないんだ」

もってあと5年、もう1年も前に医者に云われていることだ。
この痛み止めも1年も前から俺は医者に行って貰い続けている物、こんな物があったところで俺の病気が治ることなんて絶対に無い。
それでも、飲み続けなければ俺はあの痛みに耐えることなんて出来やしないんだ……

俺が今までなんに対しても無頓着なのもそのため、人付き合いだってそう。
元々上手い方ではないが、病気を知ってからはほとんど人と話したりすることなんて無くなってしまった。
死んでしまう身体に、何かを色々と植え付けて行くのは無駄なことでしかないんだ。

【神谷】
「このことは学校にもまだ話していない、出来れば卒業するまでは黙っていようと思ったんだけど。
諏訪さんの前であんな姿見せちゃ、云わないわけにはいかなかったしね」

【蓮見】
「……君は、辛くはないのか? 自分の生がもうあまり長くないことを知ってしまっているのに」

【神谷】
「未練があるかと云われると……そんなものは何も無い。
もっとも、未練が何も残らないように、今まで無頓着を貫いてきたわけだけど」

【蓮見】
「……」

質問に対する回答にはなっていない、だけどそれを指摘されることはなかった。

【神谷】
「身体もよくなったことだし、外ももう暗くなっちゃったし、そろそろ帰ろうか」

軽く足と腕に力を入れて床から立ち上がる、足がもつれることは無かったのでとりあえずは安心だ。

【神谷】
「暗いし、アパートまで送っていくよ」

スッと差し出した腕を、オドオドというか、とても申し訳なさそうに諏訪さんは掴んで立ち上がった。
そのまま諏訪さんは無言、まああんな話をされた後に明るい話をしろというのも無理なような気もするけど……

……

暗さを帯び始めた世界の中、並んで歩く俺と諏訪さんの2人。

【神谷】
「……」

【蓮見】
「……」

当然のごとく2人の間には会話が無い、俺から話しかけることは簡単だけど、それに諏訪さんが応えてくれるとは到底思えなかった。
だから俺も何1つ喋らない、喋ることで迷惑するのは諏訪さんの方なのだから。

そんな無言が学校からずっと続き、いつの間にやら諏訪さんのアパートまでついてしまっていた。

【神谷】
「俺はこれで」

送ると云ってしまった以上最後まで送らないのはバツが悪すぎる。
そう云ってしまったことを後悔したのは学校を出た辺りからしていたのだけれど、これでようやく諏訪さんもこの息苦しさから抜け出せるわけだ。

【蓮見】
「……待って」

【神谷】
「何か?」

【蓮見】
「……お茶でも、飲んでいかない?」

【神谷】
「へ?」

【蓮見】
「送ってくれたお礼だ、少し私の部屋上がっていかないか?」

折角の誘いだけれど、これは受けてしまって良いのだろうか?
今までの無言を考えると、こんな台詞がいきなりでてくることは考えられないのだけれど。

【神谷】
「……」

【蓮見】
「じれったいな、女の誘いを無碍に断るのは、紳士の態度とはいえないね」

俺が悩んでいるのが不服なのか、俺の返答も待たずに諏訪さんは俺の腕を引いていってしまう。
こうまでされてしまったら、もう断る理由も何も無いかな……

諏訪さんに手を引かれ、部屋の中へと通されてしまった。
適当な所で座っていろということだったので、云われた通り適当なところへと腰を下ろした。

これが諏訪さんの部屋なんだ、見渡すと、ここが諏訪さんの部屋なんだと一目でわかる。
部屋の隅に立てかけられた色付いたキャンバス、あれがここが諏訪さんの部屋であると強く裏付けている。
女の子の部屋に入ったことが無いからよくはわからないけど、結構変わった部屋なんじゃないかと思う。

【蓮見】
「どうぞ、大したおもてなしは出来ないけど」

【神谷】
「何も気にしないで、あまり長居するわけにもいかないから」

【蓮見】
「ま、ゆっくりお茶を飲んでいく時間くらいあるだろう」

諏訪さんがお茶の入ったコップに口をつける、俺もそれにならうようにして口をつけた。
咽の奥にサッと清涼感を与え、口の中から独特の香りが鼻へと抜けていった、この特徴的な香りは。

【蓮見】
「嫌いな人はとことん嫌いなんだけど、君は大丈夫?」

【神谷】
「特には、確か……ジャスミンの香り、かな?」

【蓮見】
「ええ、他の人がどう思っているのかはわからないけど、私はこの香りが好きなんだ。
変動する感情を酷く落ち着けてくれる……」

そしてまた沈黙が生まれる、お互いお茶を咽の奥に流すだけの時間が続いた。
だけどどうして諏訪さんは俺を自分の部屋になんて入れたのだろう?
送ってもらったお礼とは云っていたけど、やはりどうにも納得できるものではない。

【蓮見】
「気になるか? どうして私が君を部屋になんて誘ったのか?」

俺の心なんてお見通し、と云わんばかりに諏訪さんは小さく口元を上げて見せた。

【蓮見】
「確かに気にもなるか、いきなりあんな話をした後に家に誘われるなんてね。
だけどね、君があんな話をしたからこそ、私は君を家に誘ったんだよ」

【神谷】
「それは、どうしてまた……?」

【蓮見】
「なんだかね、このまま君を帰すのがとてもしのびなくなっちゃったんだ。
これといって君と話したいことなんて無いはずなのにね……はは」

苦笑いを見せた諏訪さんは云っていた通り、特に話したいことなんて無いのだろう。
俺があんな話をしてしまったから、変に気を使わせてしまったのかもしれないな。

こうなってしまうから、俺は出来るだけ黙っていたいんだ。
他人に変な気を使わせるのは、本人にとってはとても苦痛でしかないのだから。

【蓮見】
「以前君が話してくれたな、『空の定義』とはなんなのかって」

【神谷】
「あぁ、そういえばそんな話しをしたこともあったな」

【蓮見】
「君らしくない考えを持ち出すものだとあの頃は思ったけど、今になったらなんとなくわかるよ。
あの時は考えがまとまらなかったんだけど、今は少しだけ何かがわかった気がする、聞いてくれるかい?」

【神谷】
「好きなように自論をどうぞ」

【蓮見】
「空というモノは、常に私たちの上に存在し、それがいつの間にやら世界の定義として根付いている。
そして空というモノがもしも消えてしまう、ないしは上に存在するということが逆転してしまったら。
地上のバランスは全て崩壊するような気がしてならないんだ」

勿論これは私の自論だから、とその後に付け加えた。

【蓮見】
「地上のバランスが崩壊してしまわないように、空はそこに存在し続けなければならない。
そこに空の自由や意思など無く、永続的にその場に存在し続けなければならない。
地上が生き続けるためというとても理不尽な理屈からね」

「蓮見」
「自らの意思で消えることさえも許されない、勿論……死んでしまうことさえもだ」

空は生きていない、などと云って笑い飛ばす人も当然いるだろう。
しかし、俺には笑うことは出来ない、諏訪さんの考え方、それはとても……

【蓮見】
「君は以前『空の定義』はとても悲しいものだと云っていたね、まったくその通りだ。
自由など何も無いことが、悲しくないわけが無い……気を悪くしたのなら怒ってくれて良いんだけど。
この定義、もしかしたら君は、君自身を当てはめて考えているんじゃないのかい?」

だろうな、そこまで諏訪さんがわかってしまっていたのなら、結論で俺に結びつくのだろうかとは思っていたけど。
まさかここまで俺の考えを云い当てられてしまうと、嬉しいというのか悲しいというのか……

【蓮見】
「私が云っていいのはここまでだ、部外者である私が君にとやかく云える権利なんて何も無い。
ただ、君の生が後5年しかないとわかってしまっても、私は私で今までの態度を変える気は毛頭無い。
私は君にそんなことしかしてやれないよ……」

【神谷】
「それで良い、それで良いんだ……ありがとう」

【蓮見】
「礼を云われることは何1つしていないよ、どうだもう1杯?」

諏訪さんが勧めてくれるお茶を、断ることもせずに俺は頂いた。

……

【神谷】
「ふぅ……」

ベッドに寝転がり、諏訪さんの部屋でのことを思い出していた。

たとえ俺の命があと5年だとしても、今までの態度を変えることはない。
その言葉が俺にはとても嬉しかった、死が迫る人間に対し、ああやって態度を一切変える気が無いと云える人間が何人いるだろうか?

きっと月花にしても浩徳にしても、諏訪さんのようにすぐさま返答を返すことなど出来ないのではないだろうか?
そう考えると、諏訪さんという人物はとても強い人なんだと改めて実感できる。

絵を描く際のあの表情、あの怖いくらいに真剣な眼差しこそ、彼女の強さの象徴なのかもしれない。

【神谷】
「そういえば、あの部屋……」

あの部屋に入って1つだけ気になったことがある。
それはあの部屋の匂い、あれだけの絵があったのに対し、絵の具の匂いがまったくしなかった。
油絵の具というのは使ったら使った分だけ匂いが強く染み付いてしまうものだ。
絵が趣味ならあの部屋に絵の具の匂いが染み付いているはずなんだけど、そんな匂いは感じられない、つまりあの部屋では描かないということだ。

学校ではいつも絵を描いている諏訪さんになのに、どうして部屋では描かないのだろう?

ま、そんなもの理由を考えればいくつだって出てくる。
下書きしかしないということもあるし、部屋に匂いをつけないというのが1番なのだろう、ほら、もう解決してしまった。

【神谷】
「変なこと考えてないでもう寝よう、今日はさすがに疲れたよ……」

眼を閉じながら、何気無く胸へと手を置いた。
ここが全ての始まり、俺の終わりはもう見えるところまで来てしまっている。

せめて、最期くらいは痛みなど感じずに終ってほしいものだ……

……

【蓮見】
「ライトマゼンダとルミナスレッドをお願い」

学校の正門前で、諏訪さんから注文の声がする、相手は当然俺だ。
今日は外で描くということで2人して学校の門の前に陣取って作業している。

俺の身体の秘密を知ってからも、諏訪さんは何事も無かったかのように俺と接してくれている。
扱いもまったく変わっておらず、人使いは前と同じく荒いまま、だけどそんなことでも嬉しく思ってしまう自分がいる。

【蓮見】
「後はハイライトにパーマネントホワイトを……おい、何を笑っているんだ、気持ちの悪い」

【神谷】
「別に、楽しいなって思ってさ」

【蓮見】
「意味がわからないな、君は私に使われているだけだ。
こんな状況の一体どこに楽しみを見つけたのか、私にはそれがとても気になるよ」

悪態を吐きながらも受け取った絵の具をパレットに搾り出し、キャンバスへと塗り重ねていく。
最初は無数の線でしか表現されていなかったキャンバスの中に、今では全く違った世界が広がっている。

今はもう桜の季節などとうの前に終っているというのに、キャンバスの中では桜の花が美しく咲いていた。
門から学校に続くまでの道に、1本だけ植えられている大きな桜の木、それを描いたのだろう。

【神谷】
「桜なんて咲いてないのに、よくもまあこんな風に描けるもんだ。
だけどこれだったら外に出てくる必要なんて無かったんじゃないのか?」

【蓮見】
「君は1カ月以上も私にくっついていたのに何もわかっていないんだな、私が見ているのは光と影だ。
光の当たり具合はどうしても想像の中だけじゃ作り出せないんだよ、こうやって実際に見てみないことにはね」

云いながら淡いピンク色の桜の花に白を塗り重ね、桜の幹には濃い目の色を重ねていく。
光と影が立体を表現すると云っていたけど、まったくその通りだとこの絵を見ていると思う。

【蓮見】
「よし、こんなところで満足かな」

少しキャンバスから離れて色のバランスを確認する、満足とは云いつつも気になるところがあったのか少しだけ手直し。
そんなことを2回3回と繰り返し、ようやく満足いくことが出来たのかフゥっと小さく息を吐いた。

これはいつも諏訪さんの作業が終了した際の合図みたいなものだ。

【神谷】
「お疲れ様」

【蓮見】
「あぁ……君の眼から見てどうだろうか、率直な感想を聞かせてくれ。
君には無理だとは思うけど、お世辞やらは結構だよ」

【神谷】
「うぅん……なんと云えば良いのかね、なんかこう、春〜って感じだな」

【蓮見】
「なんだその感想は、ま、君らしいといえば君らしいかな。
お世辞にも聞こえないし、純粋に褒めてくれていると受け取っておくよ」

はははっと笑顔を見せる、普段あまり笑わないせいか、こうしてたまに笑うと酷く可愛らしく見える。

【蓮見】
「どうした? 私の顔に絵の具でもついているか?」

【神谷】
「そ、そんなことはないけど」

【蓮見】
「どもるなどもるな、後で顔を洗った方が良さそうだな、君にまじまじと見られて笑われるのもしゃくだからね。
それから次に君が何を云おうとしているのかもわかる、折角だから私から先に話させてもらうよ。
私はね、この場所が好きなんだよ……」

見事に当てられてしまった、俺の質問は『どうしてこの場所を選んだのか』だったのだから。

【蓮見】
「元々桜が好きなのもあるけど、毎年毎年ここの桜は一際綺麗に咲いているんだ。
もう少しで私も卒業だ、もうこの桜の花を見る機会もほとんど無いだろうから、想い出作りみたいなものだよ」

【神谷】
「へぇ、想い出作りねえ」

【蓮見】
「な、なんだその顔は、莫迦にしているのか?」

【神谷】
「いや、だけどなんか諏訪さんでも女の子らしいことするんだなって」

【蓮見】
「悪かったな、普段が女の子らしくなくて!」

右手に持った筆がスゥッと俺の頬を撫でる、ぬるりとした感触が筆の軌跡に残り……

【神谷】
「なっ! 人の顔に絵の具つけるなってあれほど云ったのに!」

【神谷】
「君が余計なことを云うからだ、ほら、準備室に戻るよ」

画材道具だけを持ってさっさと校舎に向かってしまう。
残されたのは重たいイーゼルと、下手に触れば絵の具がついてしまう塗りたてのキャンバスが残されてしまった。

……

【蓮見】
「乾いていない所はくれぐれも触るなよ、色のバランスが崩れるから」

俺のことを心配する言葉は1つも無いんだ……
まあそれもいつものことだからこれといって気にはしていない、重い物を持っている俺の歩調に合わせてくれているだけありがたいことだしな。

【月花】
「あ、渡ー」

特別棟と一般棟を繋ぐ廊下を渡っている際に、反対側から来た月花と浩徳に遭遇した。
最近生徒会の仕事(無理矢理)をサボってるから小言でも云われるかもしれないな。

【月花】
「ふっふっふ、相変わらずらぶらぶじゃねえ」

【浩徳】
「最近生徒会に顔出さないから、どこまで進んでいるのか心配でしたが。
これは我々の取り越し苦労だったかもしれませんね」

【神谷】
「お前たちはなぁ……」

どうしてもそっち方向へ持って行きたいのか、しかしここで下手に噛み付いたらそれこそ立場が悪くなるだけだ。

【蓮見】
「私たちの付き合いは正常だ、度を越してはいない」

【神谷】
「……はぁ!?」

いきなりの言葉に、月花たちよりも俺の方が声を荒げてしまった。

【蓮見】
「話を合わせろ、余計にこじれないためだ」

と小声で耳打ちされた、だけど付き合っていると云ってしまうとそれだけでだいぶこじれている気がするのだけど。
実際俺たちはそういった関係ではないわけだしさ。

【月花】
「ふふ、てれちゃって……彼方が蓮見さんなんだ、初めまして。
私は生徒会副会長の月花、こっちは会長の浩徳」

2人と諏訪さんは初対面ので、簡単な挨拶を交わした。
もっとも、2人は諏訪さんのことを俺を通じて多少なりとも知っているわけだけど。

【蓮見】
「よろしく……」

【月花】
「で、2人で仲良くどっか行くの?」

【蓮見】
「絵を描いてきた帰り」

【浩徳】
「ほう、絵ですか、なんでも準備室で描いていることが多いと聞きましたけど……少し、拝見させていただいてもよろしいですか?」

【蓮見】
「……どうぞ、まだ所々乾いていないから、肌や服に付かないように気をつけて」

俺にはそんなこと一言も云わなかったくせに、なんか俺だけ扱いが違う気がする。

【浩徳】
「では少し拝見……これはこれは」

【月花】
「私も見るー」

【浩徳】
「校門から校舎までにある桜の木ですね、この桜の花にかかるハイライトなんてもう素晴らしい」

【月花】
「ふえぇー、話には聞いてたけど蓮見さん絵上手いんだね。
なんだか凄い立体的って云うのかな、明暗がくっきりしてて凄いね」

【蓮見】
「ありがとう、どこかのお莫迦さんは春ーとか云っていたのだけど」

スッと視線が俺に向けられる、ああそうですよ、俺には気の利いた感想なんて云えませんよ。

【浩徳】
「はは、まあ神谷にそのあたりのことを話しても無駄でしょうね。
しかし残念ですね、この絵にあるようにこの桜の木に満開の花が咲いたのは、もう見れないのですからね」

【蓮見】
「え……?」

【神谷】
「浩徳、それはまた一体どうして?」

【浩徳】
「学校側の協議の結果決まってしまったことなんですが、あの桜の木は今年いっぱいで切り倒されるらしいんです。
なんでも相当古くからある木らしくて、最近では少しずつ枝が落ちてきて危なくなり始めているらしいんですよ。
ですから学校側としては、生徒に被害が出る前に手を打つということになったみたいですね」

【神谷】
「そう、なんだ……まだ花も咲くのに勿体ないな」

【浩徳】
「学校としても、もし怪我人が出て、生徒の親から文句を云われるのを恐れているんでしょう」

【月花】
「教師ってのは、生徒の親の言葉にはとことん弱く出来てるからね」

そういうことならば仕方が無いのかもしれないな。
折れた枝が頭に当たって意識不明の重態、なんてことになったら学校も責任を取れだの喧しくなってくるのはめに見えているし。

ガシャン!

突然の物音、固い床ともう1つ硬い何かのあたる音が静かな廊下に響いた。
音の発信元は諏訪さんだった、諏訪さんが手にしていた木製のパレットが床に落ちた音だった。

【蓮見】
「……う、そ」

【神谷】
「諏訪さん?」

諏訪さんの眼が少しだけ変化を見せている、それはとても暗く重く。
何かに驚き、その事実に驚愕としているような、とても暗い瞳の変化だった。

【蓮見】
「……いや……いや!」

小さく聞き取れないほどの声で呟くと、諏訪さんは落ちたパレットを拾うこともせずに駆け出してしまった。

【神谷】
「諏訪さん!」

【浩徳】
「……何か、あったのでしょうか?」

【月花】
「渡! こんな時はあんたがすぐに追いかけないと駄目じゃないか!」

俺もすぐにでも駆けて追いかけたかった、だけど俺には諏訪さんの忘れ物を置いて行くわけにはいかない。
あの諏訪さんの瞳、あれはどう見たって平常ではない、何かがあったと考えて間違いは無いだろう。

こんな時にこのイーゼルってやつは重くてかなわないな。

【月花】
「そんなの私と浩徳が後でちゃんと届けてあげるから、渡は早く蓮見さんを追いかけてあげな。
蓮見さんの顔、なんだか凄い泣きそうな顔してた……それが何かは、渡が聞いてあげなきゃ」

月花が小さくウインクをしてみせる、折角月花が作ってくれた厚意だ、俺もこれに応えないといけない。
俺は小さく頷き、荷物を置いて諏訪さんの後を追いかけた。

諏訪さんが行くであろう場所なんて考えなくてもわかる。
それ以上に気掛かりなのはあの瞳、彼女はどうしてあんな瞳をしたのだろうか……






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