【時間に逆らう朝顔の花】



【蓮見】
「友達、私がなってやろうか?」

帰り際、諏訪さんが投げかけたそんな言葉、頭の中でその言葉がぐるぐると回っている。
友達というものは、ある程度の信頼関係があるという前提で結ばれるものではないのだろうか?

俺と諏訪さんの間に多少なりとも信頼……止めた、考えるのも莫迦らしくなってくる。
2人の間にはまったく無かった、自信を持って断言しても良いだろう。
俺は色々ぶつけられて気絶して、諏訪さんはしょっちゅうわんわん俺に怒りつけて。
信頼関係あるなし以前に、信頼のしの字さえまったく見えてはこない。

それなのに今日の諏訪さんの態度、あれはどう考えてもおかしいと云わざるをえないだろう。
まず俺があんまり叱られなかった、いや、叱られはしたけどいつもとは叱られる内容が異なっていた。
いつもなら俺が勝手に入ったとか、邪魔したからという理由ばっかりだったのに、今日はちょっと違っている。

自分の体をまずは大事にしろ、か……とても俺に色々投げつけてくる人の科白とは思えないな。
それから、今日の諏訪さん、何度か笑ったような顔をしていた。
諏訪さんが本当に笑っている顔を見たことが無いので、あれは笑っていないのかもしれないが、俺には笑っているように見えた。

なんというか、今日の諏訪さんはいつもよりも少し、ほんの少しだけ……優しいような気がした。

【神谷】
「勘違いの可能性高し、かな…」

今まで喧嘩ばっかりしていた人間がいきなり間逆になれるわけが無い、きっと全部俺の勘違いだろう。
そうでも考えて無理矢理答えを当てはめないと、どうしても眠りにつくことができなかった。

友達、今まで俺にはそんなもの1人もいなかったのだから……

……

【神谷】
「ふああぁぁ……」

【月花】
「朝一番から欠伸とは、夜更かしが過ぎるんじゃないの?」

【神谷】
「仕方ないだろ、色々考えてたら眠れなかったんだから」

結局答えを出すものの、すぐにその答えに自信が無くなって別の答えを考え始める。
そんなことを布団に入ってからずっと繰り返し、ようやく思考が睡魔に負けたのはもう空も薄っすらと明るくなりはじめるころだった。

【月花】
「へぇ、渡が考えごとなんて珍しい、家に変な虫でも出たの?」

【神谷】
「なんでそういう思考回路に持っていくかな……」

【月花】
「なんでってそりゃあ、渡だから?」

疑問系で俺に聞くな、聞いているのは俺なんだから。

【月花】
「あ、そういえば昨日はどうしたの、昼休みからいなくなってたけど、また屋上?」

【神谷】
「昼休みは……彼岸花畑で彼岸花と戯れていた」

【月花】
「……頭打ったの?」

【神谷】
「打ったの」

【月花】
「準備室で諏訪さん関係?」

【神谷】
「ええ」

俺が頭を打つ = 諏訪さんが何かしらかんでいる、こんな構図でも出来そうなほど最近はパターンが決まってきている。
まあ昨日のは俺が悪かったみたいだし、諏訪さんはなんら悪くないので珍しく構図から外れているのだけど。

【月花】
「最近ラブラブじゃねえ、何かあれば諏訪さん諏訪さんって」

【神谷】
「ほんとに自分でも驚きだよ、それから別にラブラブとかじゃないから」

【月花】
「なんだ、つまんないの」

さっきまで楽しげだった眼が途端に消沈する、しかし次の瞬間には、いつもの何か楽しみを求める眼へと変わっていた。

【月花】
「だけどさ、今までほっとんど人と話もしなかった渡にしては珍しくよく話す人なんじゃないの?」

【神谷】
「それは……ある、かもしれない」

まあ今まで俺の回りに居たことの無い人ではある、俺は今まであんなによく怒る人に会ったことは無い。
まさかそんな人と友達関係(?)になるとは思っても見なかったしな。

【月花】
「私も今度お邪魔してみようかな、美術準備室」

【神谷】
「止めた方が良いんじゃないか? 石工粘土ぶつけられるぞ」

【月花】
「大丈夫、私は渡みたいに着替えの最中に覗いたりしないも〜ん♪」

手にしていた鞄が大きく振りかぶられ、勢いをつけて俺の背中を殴打する。

ゴキン!

【神谷】
「はぐ!」

【月花】
「覗きは程々にしておくんだよ〜♪」

俺が痛くて動けないのをいいことに、月花はさっさと逃げていってしまった。

【神谷】
「あんのやろう……」

教室で会ったらなんか一発くらい報復でもしてやらないときが済まないぞ、これは。

【蓮見】
「おはよ」

【神谷】
「へ……おぁ!」

突然の声に振り返ると、そこには諏訪さんの姿があった。
人の気配なんてまったく感じなかったのに、いつの間に後ろにいたんだ?

【蓮見】
「変な声出して、どうかした?」

【神谷】
「あ、いや……いきなり声かけられると思わなくて」

【蓮見】
「私が声をかけるのはそんなに変かい? 知り合いに声をかけるのはいたって普通だと思うけど?」

知り合いか、そうだよな、俺たちは昨日友人関係を結んだんだったよな。
今までのことがあるせいで、今でも少しだけ信用できていない。

【蓮見】
「それにしても、君は朝から楽しそうだね」

【神谷】
「何が?」

【蓮見】
「さっき女の子と一緒だっただろう、君の彼女なの?
人の色恋沙汰にあれこれと云う趣味は無いけど、少しは人前であることも考えた方が身のためよ」

云う事を全部終えたのか、諏訪さんは俺の返答など何も待たずにスタスタと歩き出してしまう。

【神谷】
「ちょっと待った、あんまり勘違いをしたままはけないでくれるかな」

まずは諏訪さんの勘違いを解くために、諏訪さんの横に……並ぶのが躊躇われたので、諏訪さんの腕を取った。

【蓮見】
「……何? 話なら歩きながらでも出来るでしょ、止まる必要なんて無い」

【神谷】
「あ、すまない……」

【蓮見】
「あの人は彼女ではない、なんていうくだらない話題を話すんだったら離して。
さっきも云ったとおり、君の色恋沙汰にはまったく興味も無い、誰が彼女であろうが彼女で無かろうがそんなことは私には関係ないんだから」

云おうとしていたことを先行して云われてしまった上に、釘まで刺されてしまった。
でもまあそんなことを云うてことは、あいつが彼女ではないってことはわかっているみたいだ。

離す必要がなくなってしまったので、腕を離すと諏訪さんは1人で歩き出してしまう。
当然のことながら、俺を待つ素振りなどまったく見せはしない。

【神谷】
「友人関係とは云っても、ほとんど無いと考えた方が良さそうだな」

諏訪さんにとって、友人関係というのはどこからどこまでのことを指しているんだろうな?

……

【月花】
「お〜い、お寝坊さ〜ん、お昼だよー」

【神谷】
「んぁ……」

はっきりとは聞こえない声と、体を揺すられる感触でまどろみから解放される。
軽く腕を伸ばして背筋を伸ばし、漏れた欠伸を隠すこともなく視線を漂わせる。

【神谷】
「あぁ……俺いつから寝てたんだ?」

【月花】
「3時限目の途中からだね、4時限目なんて起きもしないんだから、先生呆れてたよ」

【神谷】
「昼飯、何食おうかな……」

【月花】
「うわぁ、人の話まったく聞いてないんだね」

【神谷】
「飯食ってくるわ」

【月花】
「はいはい、あ、先生がたまには午後の授業出ろってさ、このままだと出席日数ギリギリらしいよ」

なんと、それはちとまずいな。
ここ最近色々あって午後の授業まったく出てないもんな、1回や2回ならいざ知らずだけど
先生から直々に脅しが来るとなると、本当に猶予が無いんだろうな。

しかたがない、たまには午後の授業も顔出すか、出すだけ出して後はずっと寝てれば良いんだし。

【月花】
「諏訪さんのとこ行ってもちゃんと帰ってくるんだぞー」

月花にとって、俺の外出はすべて諏訪さんに会いに行くことになっているみたいだ。
だけど会いに行ったら行ったで帰ってこれなくなる可能性が高いんだよな……

……

コンコン

【蓮見】
「どうぞ」

【神谷】
「失礼」

【蓮見】
「なんだ君か、まだ昼休みは始まったばっかりだというのにこんな所でどうした、早弁でもしたの?」

【神谷】
「いや、他に行くとこも無いからブラブラしてたらなんか来てた。
もしかしたら諏訪さん居るかもと思ったら、案の定」

【蓮見】
「そう、前々から云おうと思っていたんだが、君は暇なんだな」

【神谷】
「話す友人も居ないんでね」

【蓮見】
「それで私を話し相手にか、来て早々悪いんだが私はこれから忙しいんだ。
居てもらってもかまわないけど、あんまり話しかけないで」

諏訪さんはテキパキと机の上を片付け、綺麗に片付いた机の上に小さな鉢植えをトンと置いた。
鉢にはプラスチックの細い支柱が2本埋め込まれ、その支柱に絡みつくように蔓が伸び、トランペットのような形状の花を咲かせていた。

【神谷】
「それ、何の花?」

【蓮見】
「朝顔だよ、君はそんなことも知らないのかい? 小学生くらいの時に観察日記つけただろう?」

【神谷】
「朝顔って、今もう昼だし、昼顔じゃないの?」

【蓮見】
「名前に惑わされてはいけないな、朝顔だからって朝だけ咲くわけじゃないんだ。
確かに開花は朝だけど、日陰においておけば夕方ぐらいまで咲いていることも珍しくはないんだよ」

そうなのか、朝顔って名前だから昼前にはもう萎んでいるのかと思ったら、結構いい加減な名前なんだな。
俺が感心していると、諏訪さんはイーゼルに画板を立てかけて画用紙をセットし、いつもとは違う底の深いパレットを用意した。

【神谷】
「油絵じゃないんだ」

【蓮見】
「仕方が無いだろ、朝顔の咲いている時間はあまり長くないんだ、油絵では下塗りを終えて二段階目にはもう枯れてしまっている。
それに花々を描くときは、油絵の具よりも水彩絵の具の方が柔らかい感じが出るんだ」

説明をしつつも空いている手でパレットに絵の具を搾り出し、少し多めの水と少量の絵の具を混ぜ合わせていく。
出来上がったのは水色をもっとずっと薄くした色、筆先を小さく動かして絵の具の粘度を調べ、満足がいく出来だったのか下書きもせずに画用紙へと筆を走らせた。

休み無く一呼吸に1本の薄い線を描き上げる、そしてそれをもう1本、これで朝顔の輪郭が出来上がるわけだ。

【蓮見】
「君、暇だったら少し手伝ってくれ」

【神谷】
「手伝うって、俺は絵なんか描けないぞ」

【蓮見】
「君でも出来る仕事だ、私が云う絵の具を探してほしいんだ」

【神谷】
「なんだ、それくらいなら別に構わないよ、で、何色が欲しいんだ?」

【蓮見】
「今は良い、私が必要になったら声をかける」

指示を送りながらも筆は止まらない、今は輪郭の中を補うように、筆を軽く叩きつけながら色をつけていた。

……

【蓮見】
「サックスと露草、それからスノーグレーをお願い」

【神谷】
「はいはい! スノーグレーがこれで、サックスと露草って何系統なんだ?」

【蓮見】
「どちらも青の棚、後追加で千草と常盤、両方とも緑の棚にあるから」
 
諏訪さんの指示に従って棚を開け、その中から指定された色を取り出していく。
それほど難しい作業ではない、と思っていたら大間違い、こんなきつい仕事だとは思わなかった。

色はまず赤・橙・黄・緑・青・紫・その他に分類され、1つの分類に棚2つ使って賄われている。
1つの分類にあっても4〜6種類だろう、と自分では思っていたんだけど、それが間違いだった。

青の棚を開けてびっくり、ざっと見積もっても30種類近い絵の具が隙間無くつめこまれていた。
冗談だろうと思い、他の棚も開けてみたんだけど、他の棚もほとんど同じ状況……
さらに加えて云うと、諏訪さんが指定してくる色はあまり聞かない物が多い。
例をとってみると『瓶覗(かめのぞき)』という色、こんな物普通の人はどう考えたってわかる訳無いって。

【蓮見】
「常盤まだ?」

なんて考えていたら、諏訪さんがこちらは見ずに手を伸ばし、くれくれと手を動かした。
急いで緑の棚から常盤色を探し、諏訪さんの手へと乗せてやる。

【蓮見】
「色に関する知識が薄いのね、勉強不足だよ?」

【神谷】
「そんなこと云われてもさ、俺は美術部でもなければ趣味で絵を描くこともないんだから。
絵の具なんて、随分昔に授業で使っただけなんだし」

【蓮見】
「だったらこの際に覚える、そういえば君はよく放課後遅くまで残っていることが多いようだが
そんなに毎日学校で何をしているんだい、何か趣味でもあるの?」

【神谷】
「いや、家に戻っても何もすることが無いから学校で寝てるだけ、趣味といえるような趣味もないし」

【蓮見】
「へえ、まったく、何が楽しくて毎日生活をしているのやら」

お互いに視線を交差させない、言葉だけのキャッチボールが繰り返される。
諏訪さんの筆が軽やかに画用紙を行き交い、何も無い殺風景だった画用紙には、蒼い朝顔の花が綺麗に描かれていた。
前に見た油絵とは違い、水彩絵の具の柔らかく淡い感じがとても朝顔には合っていると感じられた。

【蓮見】
「なあ君、1つ聞かせてもらいたいんだけど、私が絵を描く所など見ていて楽しいのかい?」

【神谷】
「楽しいかどうかってのは少し難しいな、他にすることも無いし。
ここにいると他のやつらに変な仕事頼まれなくて済むしね」

【蓮見】
「大の男が呆れたもんだ、折角天気の良い昼休みだというのに、たまには外で体でも動かすのも良いんじゃないの?」

【神谷】
「スポーツの類も駄目、怪我したら痛いし、俺軟弱だし」

【蓮見】
「君は本当に男の子なのか? だらしのない」

はははとなんとも云えない声を漏らす、確かにだらしないといえばだらしないんだけど。
人には向き不向きというものがあるんだ、諏訪さんだってきっと苦手なことの1つや2つあるに決まっているさ。

キンコンカンコーン

昼休みを終える鐘が鳴り響く、いつもならぶらぶらと屋上にでも行くんだけど、今日はそうも云ってられない。

【神谷】
「さてと、それじゃ俺は教室に戻ろうかな」

【蓮見】
「おや、今日は午後の授業に出るつもりなんだ?」

【神谷】
「まあね、たまには顔出せって先生が云うもんだから、諏訪さんは戻らなくて良いのか?」

【蓮見】
「生憎午後は化学と英語の立て続けなんだ、私はあまりあの2つが好きじゃないから」

つまりサボるということか、諏訪さんがどの程度勉強が出来るのかはわからないけど、少なくとも俺よりは上だろうな。
数回なら逃しても問題ない、きっとそういた自信の表れなんだろう。

【神谷】
「それじゃお先、あんまりサボりすぎるなよ」

【蓮見】
「まさかその科白を君に云われるとはね、それじゃあ私からも、ちゃんと卒業できると良いわね」

【神谷】
「っく、このぉ……」

【蓮見】
「急がないと遅刻するわよ、遅刻2回で1欠課、早く行った行った」

空いた手でシッシと出て行けサイン、ここで反論したらまた長引きそうなので、俺は大人しく準備室を後にした。

【神谷】
「やれやれ、友人関係になっても口の悪さはかわらずか」

普通は友人関係が出来ると口が悪くなるものだけど、諏訪さんは最初から口が悪い。
少しぐらい遠慮してくれるかもと思ったけど、なんか余計に酷くなった気がする。
まあ確かに、前に比べると睨まれることはなくなった、罵声は浴びせられているけどだ。
前は俺が視界に入るだけでムスッとした顔してたからな、少しは友人関係というものが出来ているのだろう。

俺を見る目は少し変わったみたいだけど、キャンバスを見る眼は何1つ変わってはいない。
キャンバスを睨みつけ、声をかけるのが戸惑われてしまうようなその眼差し。
だから俺は、絵を描いている時には決してこちらから声はかけなかった……

【神谷】
「一体何が、諏訪さんをあそこまで真剣にさせるんだろうな……」

絵を描かない俺にはわからない、しかしあの眼は、ただ真剣に絵を描いている
といったことだけではないような気がしてならなかった。

【神谷】
「なんにせよ、打ち込めるものがあるってのは良いことだな
それに比べて、俺に……っ!」

足が止まる、胸元を内側からかきむしるような嫌な痛みが突如として湧いてきた。

【神谷】
「が……ぐぅ……」

呼吸は荒くなり、痛みは少しずつ増していく。
やがて俺の足元はよろよろとおぼつかなくなり、階段踊り場の壁に体をぶつけてしまう。

【神谷】
「はぁ……はぁ…」

ずるずると体が崩れ、痛みに抗うことすら俺には叶わないというのに、痛みは少しも和らいではくれない。
そもそも、人が痛みに抗うことなんて出来るわけが無い、それは人が生きているから、痛覚を持つ人間だから。

【神谷】
「ぐぁ……ぐぅ!」

胸元に手を添えるものの、当然事態が好転するはずもない、しかし押さえておかなければ不安に押しつぶされてしまいかねない。
やがて、少しずつではあるが痛みは引き始め、呼吸も徐々に戻り始めた。

【神谷】
「はぁ……はぁ……はぁ……」

荒くなった呼吸を意識的に安定させ、ゆっくりとその場から立ち上がる。
額に浮かび上がった脂汗を拭い去り、手すりに掴まりながら慎重に俺は階段を下りはじめた。

……

なるべく音を立てないように、後ろの扉を使って教室へと入る。
中では、教師が黒板に向かってなにやら計算式を書いているところだった。

【教師】
「……おや、神谷君ですか」

【神谷】
「すいません、遅刻しました」

【教師】
「それはわかっています、君との話で授業を止めるのもなんですから早く席についてください」

相変わらずこの教師は生徒に興味が無い、生徒に興味の無い教師の授業など本当に意味があるのであろうか?
俺としては、今このときをおいてはあの教師で助かったのだけれど。

席に着くと、教室の中ほどの席に座る月花がニカニカと笑みを見せているのが見えた。
今はあんまりあいつと眼を合わせたくない、あいつ結構勘が良いからな。

あいつと交わされた視線をすぐに断ち切り、雲がふよふよと泳ぐ空に視線を移した。

そしてまた俺は、『空の定義』について考え始めた……

……

気が付くともう授業は全て終わり、皆いそいそと帰り支度を始めていた。
この2時間の記憶はとてもあやふや、ずっと空と流れる雲だけを見て過ごしていた。

【月花】
「よす、久々の午後授業だというのに、まーったく聞いてなかったわね?」

【神谷】
「あの授業は面白くないんだよ、眠らなかっただけましだろ」

【月花】
「いくら寝てなくても、何にも聞いてないんじゃいないのとなんら変わんないわね」

【神谷】
「先生がお前経由で俺に伝えたのは授業に顔を出せってことだ。
授業を聞いて理解しろとまで俺は云われていない」

【月花】
「うわ、すっごいヘリクツ、男らしくないの」

【神谷】
「俺はそういう人間なんだ、それじゃまた」

弁当とノートぐらいしか入っていない軽い鞄を担ぎ、さっさと教室を後にした。

……

【蓮見】
「で、また私のところか」

【神谷】
「そういうことだね」

最初は屋上で昼寝でもしようと思ったんだけど、屋上では男子生徒と女子生徒がなんか気まずい雰囲気だったので足早に退散。
行くあてもなくぶらぶらしてたら結局また美術準備室へと……

【神谷】
「昼休みからずっと?」

【蓮見】
「まあね、さっきも云っただろう、私は化学と英語が嫌いなんだ」

【神谷】
「で、さっきの絵はどうなったの? あの朝顔の」

俺がここに入ったとき、諏訪さんは椅子に腰掛けて風景画のたくさん載った雑誌を眺めていた。
昼休みに見たイーゼルも朝顔の鉢もすでにそこにはなく、さっき俺が出した絵の具も1つ残らずそこからなくなっていた。

【蓮見】
「これだけの時間があったんだ完成したよ、まだ乾いてないから完成とは云わないんだけど」

【神谷】
「出来たんだ、見せてくれないの?」

【蓮見】
「君と初対面の時に云わなかったか? 絵は全て完成してようやく人に見せる価値があるのだと。
ふむ……しかし完成していないといっても私がすることはもう何も無いしわけだし、まぁ、良いか。
奥にある向こうを向いたイーゼル、あれにまだ乗せてあるから見たかったらどうぞ」

諏訪さんがスッと指差した先には、まだお披露目を拒むように向こうを向いたイーゼルが1つ。

【神谷】
「……へぇ」

淡い蒼色を主張する朝顔の花が3輪、画用紙の中の世界で健気に咲いていた。
とても繊細で、とても優しい感じ、朝顔の花を守るようにするすると伸びた葉や蔓が、朝顔の淡ゆさをより一層引き立てている。
背景は朝顔の花よりももっと薄い、蒼ではなく、藍、全体のバランスを壊さぬように同色系統の色を選んだのだろう。

細かい技法云々は俺にはわからない、ただ見たまま、素直にこの絵は上手いと思う。

【神谷】
「諏訪さん水彩画も上手いんだな」

【蓮見】
「君と美的感覚を知らないから、それが褒め言葉なのかどうかも私には判断できないけど。
とりあえずありがとう、と云っておこうか」

【神谷】
「そりゃどうも」

元々は何も無い殺風景な世界でしかなかったのに、今ここにはひとつの世界が出来上がっている。
筆を用い、水と絵の具だけで世界は創造され、1枚の画用紙の中に確立される。
現実と幻想の狭間、それが『絵』というモノなのではないだろうか?

画用紙の中に咲きほこる朝顔、これは一種の幻想であり、一種の擬似。
絵の中で咲いている朝顔は間違いなく『嘘』の存在であるはずなのに、どうしてかそのことを疑ってしまう。
俺がそう思ってしまうのは、きっとそれだけ諏訪さんの才能が凄いということなんだろうな。

【神谷】
「本当に、大した腕だこと……ん?」

立ててあったイーゼルの下には、この絵のモデルになったであろう朝顔の鉢が置かれていた。
しかしその朝顔はこの絵のモデルになっていたときとは違う、もう役目を終えて力無く花を下ろした全くの別物へと変わり果てていた。

【神谷】
「枯れちゃったんだ」

【蓮見】
「ええ、その子が輝けたのはほんのひと時だけ、花の命は人の時間に比べるととても短い。
だからこそ、人よりもずっとずっと綺麗に花を開かせるの、そしてもう、その子が輝ける時間は終ってしまった」

まるで詩人のような、声はとても優しいのだけれど、それ以上に悲しみを帯びたその言葉。
『朝顔』という名前が大きな顔をするにはもう場違いな時間、盛りを過ぎた花に待つのは種へと帰すことだけ。

【神谷】
「まあ良かったんじゃないか、この朝顔はもう枯れてしまったけど、こいつは絵の中でずっと咲き続けるんだ。
こんな生き生きした姿でずっと、それもこれも諏訪さんの腕があってこそだな」

【蓮見】
「……」

【神谷】
「…どうかした?」

【蓮見】
「恰好良いこと云ったと思ってるんなら大間違いだよ、それ以前に君にはそんな科白は似合わない。
君は無神経に「来年また咲くんだから別に良いじゃない」ぐらい云わないと調子が狂う」

確かに俺にはちと似合わないな、いつからこんな気障ったらしいことを云うようになったんだ?
でも無神経ってさ、俺今まででにそこまで無神経なこと云ったかな?

【蓮見】
「はぁ、君のように考えられたらどんなに楽なんだろうかね」

【神谷】
「諏訪さん?」

【蓮見】
「私は、その子を絵の中に閉じ込めてしまったんじゃないのかな……」

【神谷】
「?」

【蓮見】
「考えても見たまえ、朝顔なんて花はこの世界に数えればきりが無いくらい咲いているんだ。
だけどその1つ1つは独立し、1つとして同じ物はない、その子も当然この世に唯一の存在だった。
その子は自分の役目である『咲く』ことを全うし、短い間でも自分の役目をしっかりと果たすことが出来た」

腰掛けていた諏訪さんがゆっくりと歩み寄り、優しげな手つきで朝顔の鉢も持ち上げた。
胸元辺りまで上げ、ジィっと枯れてしまった朝顔を眺めている。

【蓮見】
「この子はこれで全て終われるはずだったんだ、それを私はこの子を絵にすることで
半永久的に枯れることの出来ない世界へと、この子を閉じ込めてしまった。
私は、この子の自由をうばってしまったんじゃないのかな……」

朝顔を眺めながら言葉を続ける諏訪さんが、なんだかとても悲しげに見える。
数時間前まで、睨みつけるようにして絵を描いていた人と同一人物だとはとても思えないようなその言葉。

【蓮見】
「時々考えるんだよ、絵を描くということは、そこにそのモノの痕跡を残してしまうということ。
時間の流れに逆らわせるように私が作り上げる、檻に他ならないんじゃないか、ってね」

俺に向けて云っているのか、それとも枯れてしまった朝顔に向けて云っているのか。
もしかすると、そのどちらでもないのかもしれない……

【蓮見】
「……おい、ここで君が無神経なことを云わないと締まらないじゃないか」

【神谷】
「なんだよそれ、何を云えば良いってんだ?」

【蓮見】
「くだらないこと考えるんだな、バーカ、とか」

【神谷】
「そんなこと云わねえよ、だいいち俺はいつからそんな悪者になったんだ」

【蓮見】
「あら、私は最初から君はそういった人だと思ったけれど?
部屋に入る際にノックはしないし、人の下着は覗くし、困っている私を茶化しにくるし」

ぐぅ、それを云われてしまうと何1つ反論出来ないからな……

【蓮見】
「ま、そんな鈍くて粗野な所も、君らしいといえば君らしいのかもしれないね」

ははっと、よく見ないとわからない程度に小さく苦笑いを漏らし、朝顔の鉢を机の上へと置いた。

【蓮見】
「さて、今日はこれでもうすることもなくなってしまったのだけれど、どうする?
君が帰ると云うのなら私も帰るけど、君が何かあるというのなら、別に付き合ってもかまわないが?」

【神谷】
「そうだな、俺も帰っても別にすることないし……ちょっとだけ、話でも付き合ってもらおうかな」

【蓮見】
「くだらない話はしないでよ、2人が話して実りがある話を
……止めた、君にそんなことを云っても無駄だろうし、せめて退屈ではない話をしてくれ」

【神谷】
「中々難しい注文だな…諏訪さんはさ、『空の定義』について考えたことはある?」







〜 N E X T 〜

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