【悪戯っ子、弄られっ子】
蛇口から派手に水を流し、大量の水で顔を洗っていく。
どの程度付いているのかわからないので、とりあえず顔の全体をくまなく洗ってみた。
【神谷】
「なんかまだぬるぬるする……」
油絵の具は落ちにくい、水彩絵の具のように水に溶けないのでもっともであるか。
2度、3度洗ってみても、なんだか違和感の残る仕上がりになってしまった。
絵の具自体は全部落ちたんだろうけど、なんだか置き土産を置いていかれた感じだよ……
……
【月花】
「お帰り、あはは、まだ全部落ちてないよ」
【神谷】
「は、え、どこが?」
慌てて顔を触ってみるが、どこも指に絵の具が触れる感じはなかった。
【月花】
「う……そ、綺麗さっぱり全部落ちてるよ」
【神谷】
「……はぁ、くだらねえ」
考えてみればわかることだった、月花はいつもこんなくだらないことを云うやつだった。
【神谷】
「あれ、浩徳は?」
【月花】
「担当の先生と年鑑製作の打ち合わせだって、戸締りの事伝えておくようにだって」
【神谷】
「やれやれ、やっぱり俺がやるのか……」
生徒会室には月花と他2名、他2名はまだ中級年だけど、俺がよく来るせいか顔を覚えられた。
【後輩1】
「先輩も大変ですね」
【神谷】
「わかってくれるかい……?」
【後輩2】
「会長は仕事熱心ですから、お茶飲みますか?」
後輩の1人が急須を軽く揺すりながら問いかけてきた。
彼女は確か生徒会書記、名前は……よく覚えてないや。
【神谷】
「もらえるかい」
【後輩2】
「はい、少々お待ちを」
急須をもう一度軽く揺すり、逆さにしてあった湯呑にこぽこぽとお茶をついでいく。
【後輩2】
「どうぞ」
【神谷】
「ありがとう」
湯呑の中には、綺麗な萌葱色をした緑茶が、熱さを示すようにモアモアと湯気を出していた。
軽く息を吹き、冷ましてから一口口に含む。
【神谷】
「はぁ……美味いね」
【後輩2】
「ありがとうございます、お茶汲みはもうなれていますから」
【後輩1】
「あ、会長にはここでお茶していること云っちゃ駄目ですよ」
いや、ポットと急須と茶碗を隠すこともなく晒しているのに云っちゃ駄目も何も……
【月花】
「硬いこと気にしないの、息抜きよ、息抜き、藍ちゃん私にもお茶お願い」
【後輩2】
「はい」
そうだった、書記の女の子の名前は藍だった。
【月花】
「そういえばさ、諏訪さんって云ったっけ、その人ってどんな人なの?」
【神谷】
「どんなって云われても……身長は俺の胸の高さ辺りで……」
【月花】
「アホ、そんなこと聞いてどうするのよ、私が云ってるのはそういうことじゃなくて
どんな感じの人かってこと、雰囲気とかを聞いているのよ」
お茶を一口すすり、何もわかってないんだからと付け加えた。
【神谷】
「……怖い人だよ」
【月花】
「怖いってどんな風に? 筆投げられたのは渡が着替えを覗いたからでしょ?」
【後輩1】
「わぁ、先輩ってエッチですね」
【神谷】
「後輩が誤解するようなことを云うな! 俺は一度も覗いてなんかいねえよ!」
【後輩2】
「お若いですね……」
どうやら後輩2人は月花サイドで話を解釈しているようだ。
俺を信じてくれる人は何処へ……?
【月花】
「だけど本当に怖い人なの? 話したことはないけど、見た感じ怖いって印象の人じゃなかったよ?」
【神谷】
「俺は会うたび会うたび怒られてるんですけど?」
【月花】
「それは毎回毎回渡が……」
【神谷】
「もういい、話が進まない……ごちそうさん」
残りのお茶を一気にあおり、藍という後輩にお茶の礼を云った。
もうさっさと帰って寝てしまおう、今日は重い物を運んだりしてクタクタだよ。
【月花】
「ちゃんと戸締り伝えておくんだぞー」
……
コンコン
ここ数日、ここに来る頻度が異様に高い。
それまでは存在さえも知らなかったこの部屋が、僅か数日でもっとも訪れる部屋になってしまった。
偶然って不思議だよね……
はぁ、と小さく溜め息をつき、返答のないドアノブに手をかけようとした。
しかし、俺が触れる前にドアノブは中へと消えてしまった。
【蓮見】
「……」
隙間から顔だけ覗かせた諏訪さんの眼は、明らかに俺を敵視する視線だった。
【蓮見】
「何? 用事があるなら早く云って」
俺の来訪を快く思っていないのがひしひしと伝わってくる。
【神谷】
「あ、戸締りは忘れないでくれってさ……」
【蓮見】
「私はもう子供じゃないんだ、あまり莫迦にしないでよね」
そう言葉を残して、扉がバタンと閉じられた。
【神谷】
「……」
……嫌われたもんだな。
……
人は何故『存在』するのだろう?
いつものように天井を眺めながらぼんやりと考えていた。
人は何故この世界に『存在』し、世界から『消去』されてしまうのだろう?
人というものは必ず生みの親という物が存在する。
その親にも、生みの親は存在する、そしてその親にもまた……
そうやってたどっていった場合、最終的には何が残るのであろうか?
きっとたどり付く先はたった1つの個体、それが初めに生まれた『人』ということになる。
しかし、この個体を最初の1だとすると、その個体の親はどこに存在するのか?
これは『人』に限らず、ありとあらゆる生物に当てはまる。
例えば鳥、鳥の初めは鳥なのか卵なのかという話がある。
長い研究と話し合いの結果、どうやら卵が最初だという結論に至ったらしい。
では、この卵を生み出したのはいったい誰なのか?
卵が突如として生まれたとは考え辛い、卵を産み落としたモノは確かにいるはずである。
卵を産み落としたモノはどこに『存在』していたのだろうか?
始まりを1とした場合、その前には必ず元になる0が『存在』するはずである。
しかし誰もその0が誰で何であるのかを知る者はいない。
考えてみると、これはとても怖いことではなかろうか?
自分は人間である、それは間違いない、だが、俺の大元はどこから始まったのだろう?
俺は何から始まり、どこで終わりを迎えられるのだろうか?
手に入れてしまったら、必ずいつかは手放さなければならないことになる。
『存在』するものは、必ず『消去』される。
それは当然、己の存在も例外ではない。
『人』という生物はどうして、存在を手に入れてしまったのだろうか……
……
ぼんやりと朝のニュースを眺めていた。
いつものように気が付いたら眠っていた、もうこんな生活ばかりなのでいい加減慣れた。
ニュース記者の当たり障りのない事件の解説を聞きながら、俺はカツカレーにスプーンを伸ばしていた。
朝から食べるにしてはいささか重いのだが、選んでしまったのだからしょうがないよ。
【神谷】
「朝からカレーか……昼はいらないかな」
予想以上にボリュームのあるカツカレーを平らげる頃には、時間はちょうどいい頃合いを指し示していた。
【神谷】
「うぅーん……」
軽く伸びをする、左右に軽く捻りをくわえて腹ごなしをしていると
玄関の呼び鈴がポーンと来客を告げた。
【神谷】
「こんな朝から誰だよ?」
新聞か間違いだろうと思い、扉を開けた先には予想外の人物がたっていた。
……
【月花】
「よっす」
変わった手の形を作り、顔の横でフリフリしている月花の顔が飛び込んできた。
【神谷】
「……どうかしたのか?」
【月花】
「女の子が訊ねてきたのにその対応はないんじゃないの?」
【神谷】
「誰が来ようと興味が無いんだよ、生憎ここは学校じゃないぜ」
【月花】
「わかってるわよ、早く家を出すぎたからたまには渡の家にでも寄っていこうと思ったのよ
女の子と一緒に登校することなんて、渡には経験したことないだろうと思ってね」
クシクシと独特の笑いを見せる、だけど、こいつはどうにも俺をわかっていないらしいな。
【神谷】
「女が横にいてもなにも変わらないさ、どうせ話すこともないんだから」
【月花】
「またそういうこと云う、少しくらい女の子と仲良くなったらどう?」
【神谷】
「興味なし」
残念ながら、俺はあまり異性に興味が無い。
当然同姓にも興味が無い、さらには俺自身にもたいして興味が無かった……
【月花】
「つまんないやつ、青春を棒に振ってるね」
【神谷】
「そりゃどうも」
……
結局、月花と一緒に学校に行くことになったんだけど……
【月花】
「……」
【神谷】
「……」
当然会話なんて生まれない、話しかけるとすれば月花が俺に振るくらいだろう。
俺から月花に話題を振ることはまずない。
【月花】
「……」
【神谷】
「……」
【月花】
「……おい」
【神谷】
「何……?」
【月花】
「なんか喋ったらどう?」
【神谷】
「お好きなようにどうぞ」
話しかけられれば相槌くらいは返す、だけどそれだけ。
話題がそれほど重要でもないのに、無駄な話はしたくなかった。
【月花】
「はぁ……あいも変わらず暗いのね、友達なくすよ?」
【神谷】
「友達なんて最初からいねえよ」
【月花】
「だろうね」
クスクスと笑っているが、何が楽しかったんだろうな?
俺は何1つ楽しくないよ、いや、楽しくない方が良いのかもな……
……
椅子に座って眺める空がとても青い、雲ひとつない空とはまさにこの状態のことだ。
雲ひとつない空には変化というものが無い、流れる雲もなければ、濡らす雨も無い。
あるとすれば、時折横切る鳥の羽ばたきぐらいのものか。
四時限眼の授業は一日の中でも2番目に眠い。
1番眠いのは昼食後最初の五時限目、腹も膨れるせいか眠気は恐ろしい勢いで襲ってくるもんな。
さらには、俺が1番苦手な外国語の授業なのでたちが悪い。
【神谷】
「ふあぁ……」
軽い欠伸を1つ、隣近所の生徒はペンを走らせたり、教科書にマーカーを引いたりしている。
やれやれ、ごくろうなことだね……
テストなんてのは一夜漬けでどうにかなる物だ、今まで真面目に授業を受けたことなんてほとんどない。
浩徳と月花に要点を聞いて、前日に叩き込めばそれで十分。
短期記憶というやつだ、別に長期間残っていて欲しい記憶じゃないしな。
キンコーンと鐘が授業の終わりを告げる、教師陣が立ち去る前にいそいそと教科書をしまうやつもいた。
当然購買目当ての学生は一秒でも早く動きたいに決まっている。
どたどたと騒がしく生徒は駆け出して行く、俺はというと……
【神谷】
「……」
まだまだカレーが残っている、授業中に寝ることができなかったのはそのためだ。
眠ると胃の活動がおろそかになって、戻ってこないとも限らない……
【月花】
「おーい、お昼食べないの?」
【神谷】
「朝飯がまだ残ってるから無理」
【月花】
「何食べたの?」
【神谷】
「カツとカレー」
【月花】
「うわぁ、ヘヴィー……」
想像でもしたのだろうか、月花の顔が僅かに困惑顔になった。
【月花】
「男の子だねぇ……」
【神谷】
「俺だって朝からカレーなんて初めてだよ」
今度からはまずいものは選びなおすことにしよう、そでもしないと胃の調子もおかしくなるよ。
【月花】
「どこ行くの?」
【神谷】
「屋上、昼寝だよ」
【月花】
「学校終わるまでには戻ってこいよー」
後ろ手に手をフリフリ、ちゃんと戻ってくるさ。
終わるまでに眼が覚めればな……
……
視界いっぱいの青空、上を遮る物が何も無い開け放たれた空間がここには存在する。
屋上のど真ん中でゴロンと寝転がり、雲ひとつ無い空を上に眺めていた。
【神谷】
「はぁ……気持ちいいな」
そこまで強くない陽射しがはんなりとアスファルトを暖め、流れる風がとても心地良い。
加えて今は昼時、ベンチ1つ無いここの屋上では食事をしようとする人などいなかった。
1人でここは貸しきり状態、最高の贅沢だよ……
【神谷】
「ふあぁぁ……」
大きな欠伸が漏れ、体は睡眠を訴えていた。
眼を閉じると、そこには何も無くなる、音は何も聞こえてこない。
そのまま俺の意識はまどろみの中へ……
ガシャン
【神谷】
「ん……」
突然の音にまどろみがそそくさと退散し、意識もはっきりとしてしまう。
今の音は屋上の扉が開く音だ、こんな何も無い所に一体誰が?
少し気になったのだが、それはほんの一瞬のこと。
誰が来ようと俺には関係ない、俺は再び目を瞑ってまどろみの中へ……
……
【神谷】
「んが……」
視界いっぱいに青い空が広がる、どうやら眠っていたみたいだけど、今何時なんだ?
ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、六時限目がそろそろ終ろうとしていた。
2日続けて午後の授業フルでサボりか、いい身分になったもんだ。
ぼうっと空を眺めていると、1日の終了を告げる鐘が鳴り響いた。
今すぐに戻ると担任やら担当教師やらにはちあう危険性があるのでしばしの辛抱……
……
【神谷】
「ふあぁ……」
再び大きな欠伸が出る、あのまま横になってたらまだまだ眠れたな。
眠気眼を擦り、頭をポリポリとひと掻き、教室に誰も残ってないと良いんだけど……
【神谷】
「居たよ……」
静かな教室の中、月花が1人ノートにペンを走らせていた。
【月花】
「おかえりー、結局起きな……ふっ、あははは」
視線を俺に向けた月花が一瞬止まり、次の瞬間には破顔して笑い始めた。
どうしたんだいきなり、俺何か面白いこと云ったかな?
【神谷】
「あの……どうしたの急に?」
【月花】
「はははは、それはこっちの台詞だよ、今までどこで遊んできたのよ?」
【神谷】
「ずっと奥上で昼寝してたけど……」
【月花】
「あらそう? それじゃあその右頬についてるのは何かなー?」
右頬だって? 別に何も……うわ!
指が触れた瞬間、乾いている肌のはずなのに、指がぬるりと滑る。
恐る恐る指を見てみると、どろりとした赤黒い物が指に付着していた。
これはまさか……血か?!
【神谷】
「かまいたちか!?」
寝ている隙にかまいたちが俺を切りつけたのか?
なんて場所だよ、これじゃあ人が寄り付かないのも無理ない……は無いよな。
第一、俺の頬に切られたような痛みは無い、痛みも感じずに血が流れることがあるのだろうか?
【月花】
「何考えてるのか知らないけど、きっとろくでもないこと考えてるんだろうね」
やれやれといった感じで月花が立ち上がり、俺の元へ。
そのまま俺の指についた血、のようなものに鼻を近づける。
【月花】
「やっぱりね……」
【神谷】
「何がやっぱりだよ?」
【月花】
「自分で確かめて見なさいね、香りをね」
香りだって? こんな気味の悪い物の匂いなんて……あれ、この匂いは……
【神谷】
「油絵の具か、これ?」
【月花】
「くしし、きっと当たりだと思うよ」
だけどどうして俺の顔に油絵の具なんて?
屋上には人が居なかったし、午後の授業もあるんだからずっと屋上にいた俺に塗るチャンスなんて……
あ、そういえば……俺が寝る前に誰か来たような……
【神谷】
「……あの時か!」
確かにあの時誰かが来た、だけど興味の無い俺はそのまま寝てしまって。
塗られたとしたらきっとあの時だろう。
後は誰がやったのかだけど、最近の出来事のせいで嫌でも1人心当たりがある。
【神谷】
「とことん嫌われたな……」
【月花】
「諏訪さん?」
【神谷】
「だろうな……ちょっと文句云ってくるわ」
さすがにこれはないだろう、寝ている隙を襲われるとは……
【月花】
「ちょっとたんま、行く前に鏡見ていった方が良いよ」
【神谷】
「それもそうだな」
はてさて、一体どんなふうに描かれているのやら。
……
【神谷】
「あいつめぇー!!!」
俺の足は美術準備室に向かって駆けていた。
水場で顔を洗う前に、鏡に映った自分の顔に愕然……
右頬にはあちらの人のような切り傷、これはまだ良いさ、だけど左頬。
よりによって左頬には、『痴漢……覗き魔……幼女趣味』と達筆で書かれていた。
その文字を見た瞬間、真っ白になって時間が一瞬止まってしまったよ。
月花に促されて良かった、あのまま気が付かずに帰ってたら明日から街は歩けない……
俺は痴漢もしてないし覗きもしてないし、ましてや幼女趣味ではない。
何1つとして当てはまらないじゃないか。
怒りのボルテージがわなわなと上がるなか、俺は勢いよく美術準備室の扉を開けた。
【神谷】
「しつれー!!!」
準備室の中には今日もあいつがいた、突然の騒音に驚いたのか眼を丸くしていた。
【蓮見】
「!?」
【神谷】
「おまえよくも……」
【蓮見】
「勝手に入るなー!」
バギィ!!!
【神谷】
「もあ!?」
……
【神谷】
「んあ……」
視界がぼんやりと歪んでいる、天上の微妙な模様が俺の神経を刺激し、少し気持ち悪くなった。
その前にだ、どうして俺の視界はぼやけているんだ?
どうしてこうなったのかを思い出そうとしたが、額の鈍い痛みのせいで思考がはっきりしない。
とりあえず自分が横になっていることだけはわかった、ひとまずその体を起こして……
【神谷】
「いつつ……ここどこ……」
【蓮見】
「ようやくお目覚めか」
【神谷】
「諏訪さん? ここは……準備室か」
俺はどうして準備室になんかいるんだ? 順を追って思い出してみよう。
まずどうしてここにいるのかだけど……どうしているんだ?
【蓮見】
「それで、私に何か用?」
【神谷】
「どうなんだろう、俺はここにいること自体どうしてだかわからないんだけど……」
【蓮見】
「……ちょっと硬すぎたかも」
ぽそりと諏訪さんはそんなことを云った。
【蓮見】
「用が無いのならさっさと戻って、君もう一時間以上も寝ていたから」
【神谷】
「あ……すいません」
軽く頭を垂れ、準備室を後に、また諏訪さんに迷惑かけちゃったのか。
だけど、本当に俺はどうしてあの部屋に?
コツン
部屋を出る前に、足が何かにぶつかった。
なんだろうと思ってみてみると、石粉粘土と書かれた未開封の粘土だった。
何かひっかかる、この粘土は………………待てよ、少し思い出してきたぞ。
確か、一度だけ俺の視界いっぱいにこいつが見えた気がするぞ。
あれは、そうだ、俺の記憶が曖昧になる直前だ。
さらにはこの額の痛み、そこから算出するに……上から落ちてきたか、または前から飛んできたか。
【蓮見】
「考え事なら他所でしてもらえるか」
【神谷】
「もうちょっとだけ、もう少しで全部……」
大本を考えてみよう、どうして俺がここにいる、もしくは来たのかということだ。
年鑑は全部持ち出した、さらには俺は手ぶらだったことから年鑑を返しに来た説は消える。
となると、他に考えられるのは……
【蓮見】
「なんだ、意味も無く見るな」
【神谷】
「俺はひょっとして諏訪さんに……あぁ!」
思い出した、完全に思い出した。
俺は諏訪さんに用があったんだ、顔に絵の具を塗りたくられたことを怒りに来たんだった。
で、準備室に入ったら怒った諏訪さんが石粉粘土を投げつけてきて俺に命中。
そのまま意識はどこかへ遊びに行ってしまいましたとさ……
【蓮見】
「大きな声は出さないで、手元が狂う」
【神谷】
「思い出した、昼休みはよくもやってくれたな」
【蓮見】
「なんのこと、要点をはっきりと述べなさい」
【神谷】
「俺の顔に絵の具塗りたくっただろ、危うくそのまま帰るところだったんだぞ」
【蓮見】
「帰れば良かったのに」
【神谷】
「何を!」
神経を逆撫でされるような台詞運びに思わず声を荒げる。
が、大きな声を出そうとすると頭の後ろの方で鈍い揺れが感じられた。
【神谷】
「おぉぉ……」
【蓮見】
「頭に衝撃を受けた後なのに、急に大声出せばそうもなるわよ」
【神谷】
「ぐうぅぅ……」
【蓮見】
「やれやれ、仕方のない人だな、君は」
足元のおぼつかない俺の腕を自分の肩に回し、俺を長机まで導いてくれた。
【蓮見】
「ほら、完全に治るまでここで寝ていなさい」
【神谷】
「……どうも」
【蓮見】
「謝るくらいなら急に大きな声は出さないこと、今後は気をつけなさい」
諏訪さんは俺に釘を刺し、いつもと同じようにキャンバスへと向き直った。
【神谷】
「……」
後ろから見えるキャンバスには、あの時描きかけだったどこかの風景が映っていた。
あの時よりも緑は濃く、空も層にわかれ、小道も様々な色で影わけがしてあった。
筆はキャンバス上を流れるように動き、迷いなくスッと一筆で塗り上げている。
その上からまた違う色を合わせる用に塗り重ね、時折少し離れて陰影を確認していた。
【蓮見】
「私が絵を描く所なんて見ていても面白くはないわよ」
俺の視線に気が付いていたのか、こちらは見ずに声だけが投げられた。
【神谷】
「……それってどこの絵」
【蓮見】
「さあ?」
【神谷】
「さあってさ、それぐらい教えてよ」
【蓮見】
「私にもわからないわ、こんな場所が本当に存在するのかさえもね」
筆を手にとった諏訪さんは少しずつ手直しを加え、見ては塗って見ては塗ってを繰り返す。
【神谷】
「は? ってことは、それは諏訪さんの?」
【蓮見】
「そう、私の想像の世界」
俺に返しながらも一切こちらは見ない、なんだか、似ている……
……
その後はお互いにぷっつりと言葉が途切れた。
途切れたというよりは、諏訪さんが『話しかけてくるな』というような雰囲気を出したせいだ。
こうなってしまうときっと何を云っても聞いてくれない。
額の痛みも当に引いている、怒りに来たんだけど逆に返り討ちにあって……もう帰ろう。
【神谷】
「俺はこれで」
【蓮見】
「今度から、もし入るときは絶対にノックを忘れないこと、あくまでもしの話だけどね」
遠回しにもう来るな、と云っているよな、これは。
……
【月花】
「失礼しましたー」
帰ろうと階段を下りているとき、階下から月花の声が聞こえた。
この下の階は確か……教務室のあった階だな。
階段を下りきるのとほぼ同時に、月花が廊下の奥から姿を見せた。
【月花】
「あ、まだ残ってたんだ、こんな時間までずっと怒り散らしてたの?」
【神谷】
「いや、行ったんだけど……返り討ちにあった」
何々?、と月花が聞いてきたので俺は美術室であった災難について話した。
【月花】
「あーぁ……」
【神谷】
「まさかいきなり粘土投げられるとは思わなかったよ」
【月花】
「だーかーらー、着替えの最中に入っちゃダメってあれだけ云ったのに」
【神谷】
「しつこいな、俺は1回も着替えの最中に入ったことなんかない」
【月花】
「はいはい、そういうことでね」
全くわかってない、諏訪さんに怒られたら、きっとこいつはまた同じことを云うだろうな。
【月花】
「で、もう怒る気もなくなっちゃったんだ」
【神谷】
「出鼻くじかれたからな」
【月花】
「そんじゃあ帰ろっか」
【神谷】
「1人で良い」
【月花】
「む……」
小さく不満をもらす、こんな場合は大概妙なことが次には起こるんだが……
……
【神谷】
「……おい」
【月花】
「何?」
【神谷】
「いい加減離してくれよ」
あの後、月花は俺の腕にしがみついて離れてくれない。
カップルがよくこんなふうに腕を回しているけど、俺には何が良いのかわからない、暑いだけだ。
【月花】
「離したら逃げちゃうでしょ、捕縛だよ捕縛」
【神谷】
「逃げねえよ」
【月花】
「まあそうだろうね」
あっさりと月花は腕を解く、最初から俺がどう反応するかわかっててやったな。
【月花】
「それよりもさ、渡って最近毎日諏訪さんに会いにいってない?」
【神谷】
「会いたくていってるわけじゃない、何故だかそういう状況になるだけだ」
【月花】
「ふぅーん、諏訪さんって渡好みの人なの?」
【神谷】
「さあ、俺にはあまりそういった印象はない」
容姿云々ではない、俺とは出会いから最悪に近いものだった。
最初が悪かったせいか、後は転がり落ちているだけのような気が……
【月花】
「なるほどね……恋愛に発展する可能性は限りなく低いと?」
【神谷】
「低いどころか、ねえよ」
【月花】
「またそういうこと云うー」
はぁ、どうしてこいつに付き合うとこんなにも疲れるんだろう。
ただでさえ今日も諏訪さんと一波乱あったのに、帰りはこいつでもう一波乱かよ。
【月花】
「あ、いけない」
腕時計に眼を落とした月花が急に焦りだす。
なんだ、彼と約束でもしてたのか?……いや、こいつに限ってそれはないか。
【月花】
「これから人に会わなくちゃいけないから、私急ぐね」
【神谷】
「あんまり彼氏またすなよ」
【月花】
「変な誤解を生むな、私は私で忙しいのよ、それじゃまたね
あ、そうそう、帰ったらすぐに顔洗った方が良いよ」
は? 顔洗えって? どうして……うわ!
【月花】
「学習しなさいよー」
手を大きく後ろに振り、月花は駆け出してしまった。
やられた、まさかまたしてもやられるとは……
……
【神谷】
「本当に、連日来てるな」
数日前、偶然教師に頼まれた地図を片付けた日から、毎日この場所を訪れている。
本当に来たくて来てるわけではなく、どうしても云ってやりたいことがあったり、仕事で来るわけだけど。
コンコン
毎度お馴染みのノック、どうぞと声がかかったのでノブを回した。
【蓮見】
「何?」
【神谷】
「昨日はどうも、迷惑をかけまして……」
【蓮見】
「気にしないで、倒れられて迷惑するのはこっちだから」
俺の方など見もせずに、諏訪さんはキャンバスを見続けている。
【神谷】
「お礼ついでにもう1つ、またやってくれたな?」
【蓮見】
「なんのこと?」
【神谷】
「惚けるな、俺の顔に廃棄物とか書いたくせに」
家で鏡を見てびっくり、両頬に廃棄物、有害物質とか書いてあった。
これがまた達筆で結構上手いんだ……ってそうじゃないか。
【神谷】
「家につくまで気づきもしなかったんだぞ」
【蓮見】
「へえ、誰も教えてくれなかったんだ?」
【神谷】
「生憎ね」
【蓮見】
「今度から帰る前に鏡くらい見た方が良いわよ」
悪びれる様子などこれっぽっちも無かった、逆に莫迦にされているような感じだ。
そろそろ、一回くらい怒っても良い頃合いだよな?
【蓮見】
「用がそれだけならもう話はお終いね、さよなら」
空いているほうの手で、俺にシッシと出て行けポーズを取る。
【神谷】
「おまえなぁ……」
【蓮見】
「あ、そうだ、少し手伝ってほしいことがあるんだけど」
【神谷】
「手伝い?」
膨れ始めた怒りが徐々にしぼんでゆく、良いだろう、話くらい聞いてやろう。
【蓮見】
「あの一番上の石膏像を取ってほしい、ほらあれよ」
諏訪さんが指す所には、少し大きめの石膏像が設置されていた。
【神谷】
「自分で取ればいいだろうが」
【蓮見】
「私では届かない、それくらい私の身長を見ればわかるだろ」
【神谷】
「机の上に椅子でも重ねて上れば届くだろ、自分でやってくれ」
【蓮見】
「む……」
諏訪さんから不満の声、珍しく言葉ではなく唸り声のようだった。
【蓮見】
「君、結構冷たいんだね」
【神谷】
「冷血漢ですから」
【蓮見】
「そう」
食って掛かってくるかと思ったけど、そんなことはない。
諏訪さんはテーブルの上を片付け、隅にあった椅子をいくつかテーブルの上に運ぶ。
【蓮見】
「見ているだけなら出て行って、邪魔よ」
今度はアゴでシッシとされた、なんか最初から俺に頼る気なんか無いって感じだ。
【神谷】
「はいはい、帰りますよ」
これ以上居てもすることも無いんだ、怒る気も当に失せてしまった。
……
【神谷】
「……」
階段を下りている最中、ふと諏訪さんのことが気になった。
あの棚の高さからして、テーブルに椅子を乗せてそこに諏訪さんが乗っても、棚にはやっと手が届く程度だ。
あの石膏像結構重そうだったし、やっと届くくらいの諏訪さんの身長じゃ絶対に降ろせないだろう。
【神谷】
「……ああもう」
気になってしょうがない、あの身長ではどう考えたって降ろせっこ無いんだ。
仕方が無い、少しくらい手伝ってやるか。
それに、ここで少しくらい借りを作っておくのも悪くないだろう。
……
【神谷】
「失礼……あーぁ、やっぱり」
美術準備室に戻ってみると、棚の淵にやっと手が届くくらいの身長しかないのに
諏訪さんは必死で手を伸ばして石膏像を降ろそうとしていた。
【蓮見】
「むうぅ……」
【神谷】
「それにしても、あんたちっさいな」
【蓮見】
「!」
俺の声に一瞬、諏訪さんの肩がびくりと跳ねる、そのまま恐る恐る俺の方を振り返り。
【蓮見】
「君は何度云ったらわかるんだ、入る前にはノックをしろと何度云えば……」
【神谷】
「こんな状態じゃノックしてもどうせ気付かないだろ」
俺に怒りつつも、諏訪さんはずっと棚の上に手を伸ばし続けていた。
【神谷】
「やれやれ、小さいってのは不便だな」
【蓮見】
「莫迦、来るな!」
スカートの中でも覗かれると思ったのだろうか、俺が近づくと片手でスカートの裾をさっと押さえた。
【神谷】
「のぞかねえよ」
【蓮見】
「どうだか……それよりも何しに来たの、見ての通り私は忙しいの」
【神谷】
「それは見てればわかる、だけどこのままじゃ絶対に終らなそうだな」
【蓮見】
「ふん、これくらい私だけでどうにか出来る……」
とは云うものの、いくら手を伸ばしても手は届かない、そりゃあその身長じゃあいくらやってもな……
【神谷】
「俺がやってやろうか?」
【蓮見】
「いい、君に借りは作りたくない」
【神谷】
「ふうん、俺がやれば無駄な時間もかからないと思うけど?」
【蓮見】
「ごちゃごちゃと煩いな、君に頼むことなんてないんだからさっさと……」
怒った顔で俺の方に振り返ろうとした、が、勢いが付きすぎたのか諏訪さんの体が……
【蓮見】
「あ……」
【神谷】
「ちょ、ちょっと!」
慌てて手を広げる、手を広げた中に諏訪さんの体が落ちてきて……
ドサ!
ガン!
【神谷】
「ぬあ!」
後頭部に走る鈍い痛み、俺の意識は再び遠くの世界へと逝ってしまった。
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