【会うたび会うたび怒られて】
手ぶらのまま、逃げるように教室に戻ってきた。
【浩徳】
「おお、早かったではないか、ルーク神谷……おや?」
俺の帰りを待っていたというような表情から、どうなってるんだというような疑問の表情に変わる。
【浩徳】
「手ぶら、かね?」
【神谷】
「ああ」
【浩徳】
「鍵でも掛かっていたかい?」
【神谷】
「開いてる……と思う」
浩徳は首をかしげた、『開いてる→手ぶら=?』のような公式でもたっているのかもしれない。
【浩徳】
「話が見えてこないなあ、何故開いているのに年鑑を手に出来なかったのか?」
【神谷】
「美術準備室に人がいて追い返されたんだよ」
【浩徳】
「人? 教師陣かい?」
【神谷】
「いや、女の子」
再び首を横にカクン、今度はさっきとは逆サイドだった。
【浩徳】
「わからんなぁ、女の子がいたとしても、一言話せば通してくれるものではないのかね?」
【月花】
「女の子の着替えでも覗いたんじゃないの?」
俺の後ろから、月花がひょっこり顔を出した。
いつの間に後ろにいたんだ?
【神谷】
「人聞きの悪いこと云うな、着替えなんかしてなかったよ」
【月花】
「そう? じゃあどうして額に何かぶつけられたみたいな痕があるのかな?」
【神谷】
「許可をとらずに入ったって怒られて筆が飛んできたんだ」
【月花】
「はあ、苦しい言い訳だね」
【浩徳】
「まったく」
おいおい、俺は嘘吐き呼ばわりかよ。
しかも、覗きの容疑までかけられているのか……
【浩徳】
「まあ真相がどうであれ、年鑑が無いのでは今日の年鑑作成は無理そうだね」
【月花】
「別に良いじゃない、急ぐ物でもないし、のんびりいこう」
【浩徳】
「そうですね、それじゃあ今日は解散ということで
ルーク神谷、成功報酬とはいきませんが、珈琲ぐらいなら奢りますよ」
【神谷】
「付き合おうじゃないか」
【月花】
「あ、それ私も行って良いかな?」
【浩徳】
「構いませんよ、珈琲2人分くらいで破綻する経済状況ではないですから」
……
【浩徳】
「そういえば、さっきから気になっていたんですが……」
口をつけていたアイスコーヒーのグラスを放し、浩徳が話を切り出した。
置かれたグラスの中で、クラッシュされた氷がカランと音を立てる。
【浩徳】
「美術準備室で女の子に筆を投げつけられたと云いましたね?」
【神谷】
「嘘は云ってないよ」
浩徳のやつ、まだ俺を疑っているのか? らしくもない。
大量のミルクを入れた珈琲を満足げに飲んでいる横の女ならいざ知らずだけど……
【浩徳】
「そうではないですよ、その女の子、何をしていたんでしょう?」
【月花】
「は? 美術準備室にいたんだから絵を描いていたんじゃないの?」
どうなの?っと云った感じで月花が視線を投げかけてくる。
【神谷】
「描いてたよ、絵」
あの状況、あの状況から考えて絵を描いていたといって間違いないだろう。
口に筆までくわえてたんだ、あれで歌の練習してますはないだろう……
【浩徳】
「そこなんですよ、この学校に美術部が無いのは2人ともご存知でしょう?」
【月花】
「あ……」
【神谷】
「あ……」
浩徳の指摘に、俺と月花はほぼ同時に声を上げた。
【月花】
「確かに云われてみれば変だよね、うちには美術部はないのにどうして準備室に女の子がいるんだろう」
【浩徳】
「勿論、絵を描いているのが悪いというわけではありません
個人的に描きたいというのであれば、好きなように描いてもらって結構なんですが」
【神谷】
「生徒会の認証か何かいるのか?」
【浩徳】
「いりませんよ、ただ、いつどの教室が作業に使われているかをこちらとしては知っておきたい
今日みたいなトラブルが起きないとも限りませんのでね」
【月花】
「君のことだよー」
スプーンで俺を指し、くるくると催眠術のようにスプーンを回した。
【浩徳】
「その女生徒の顔、心当たりありますか?」
【神谷】
「いや、俺にはどうも」
【月花】
「無理無理、渡がそんなことわかるわけないじゃない
下位学年なら勿論のこと、同学年でさえほとんど知らないんだから」
う、そう云われると何も反論できない。
俺ももう最高学年だ、俺と同学年のやつとはもう3年も一緒にいる、いるけど……
俺が思い出せるのなんてほんの数人だ、他人には興味が無いからな。
【浩徳】
「該当者無し、ですか、ではこうしましょう。
新谷君、明日もう一度美術準備室にお邪魔してきてください、そこでその女生徒の名前と学年クラスを聞いてください」
【神谷】
「ちょっと待った、どうしてその役を俺が?」
【浩徳】
「第一発見者は君です、第一発見者には知る権利と教える義務というものがあります、頼みましたよ」
反論も出来なそうなもっともらしい事を云い、氷が溶けかけたアイスコーヒーに手を伸ばした。
どうやら俺に断る権利という物は存在しないらしい。
やれやれ、またあの子に怒られるかもしれないのか……
……
【浩徳】
「ではまた」
【月花】
「またねー」
俺と月花とは帰宅路の違う浩徳はここでお別れ、月花が大きく手を振っていた。
【月花】
「さて、私たちも帰ろうか」
【神谷】
「何故俺を誘う?」
【月花】
「どうせ帰り道一緒でしょ、それとも1人で寂しく帰る?」
【神谷】
「俺は別にそれで良い」
【月花】
「うわ、暗ぁー」
【神谷】
「暗くて結構、俺はそういう人間だ」
月花の誘いを断り、1人で帰ろうとしたら思いっきり肩を掴まれた。
しかもその後、俺を後ろに引っ張った、それも思いっきり。
急な力の移動で少々バランスを崩してしまった。
【月花】
「まあまあ待ちなさいな、なんか嫌な事でもあったの?」
【神谷】
「はぃ? なんでまた?」
【月花】
「お姉さんに話してみ」
【神谷】
「だから、何もないというに」
【月花】
「それにしては暗すぎる、よし、それじゃあお姉さんの明るいお話でも聞いてもらいながら帰ろうか」
さらに肩を引っ張られ、俺は月花の横に並ばせられる。
だからさ、どうして俺には選択権という物が無いの……
……
【月花】
「というわけで、浩徳は私には勝てないわけよ」
【神谷】
「へぇ……」
さっきから楽しげに月花は話しをしてくる、だけど俺の受け答えは一言。
「へぇ」、「あぁ」、「それで」、それらのループ。
月花が何を話してくれようと、俺には別段興味は無い。
人の体験を聞いたところで、俺にはそれがどういうことなのかよくわからない。
俺は俺で、月花は月花。
俺たちが全く同じことをしたとしても、2人の意見が完全一致することなどありえない。
それが人間というモノが一意であるということの証明。
この世に、全ての要素において同じというモノなど存在しない。
【月花】
「……聞いてるの?」
【神谷】
「あぁ」
【月花】
「さっきから同じ返答ばっかり、やっぱり何か悩み事?」
【神谷】
「だから、なんでもないって」
【月花】
「ふうん、渡がそう云うなら深く詮索はしないけど、なんかあったらお姉さんに云ってよね」
お姉さんにお任せ、といった感じで自信満々に笑みを見せた。
【神谷】
「はいはい、それじゃ俺はこれで」
【月花】
「女の子の調査よろしくねー」
浩徳の時と同じように、月花は大きく手を振ってきた。
しかし、俺が月花に手を振り返すことは無かった……
……
ベッドに大の字になりながら、ぼんやりと天井を眺めてみた。
時折こんなことを思う、物には思考というモノはないのだろうか?
人は勿論のこと、動物や昆虫、果てにはバクテリアにも思考がある。
とはいっても、バクテリアには『食べる』というような単純なものしかないが
食べること自体も、思考があるからこそ出来るのことのひとつだろう。
だとすると、物には思考は存在しないことになる。
物は何も食べない、物は何も見えない、物は眠ることもない、物は何も考えない
そしてなにより……
物には生命が無い……
生命が無いということは、何を感じることもできないということ。
痛み、辛さ、楽しさ、悲しさ、それらは生命が無い限り感じることはない。
自由もなければ意見もない、物は物としてそこに存在し、使われて壊れるだけ。
『死ぬ』のではなく、『壊れる』、ここが思考を持つ物と持たない物の大きな違い。
これを人はどう考えるのだろうか?
思考がなく、使われて壊れるだけの物は、酷く寂しくもの悲しいと考える人もいる。
しかしそのま逆、何も考えず、何もせず、ただ壊れる時を待つだけの物の方が良いと考える人もいる。
後者は全体から考えたらほんの一握りかもしれない、しかし、そんな人も確かに存在する。
現に…………俺もそんな後者の考えを持つ1人だ。
考えるとか、食べるとか、悩むとか、どうして人間というモノはこうも色々とあるのだろう?
比べて、物はただ時間が過ぎるのを待つだけで良い。
考えなくて良い、食べなくて良い、悩まなくて良い、俺もそんな無の生活を送ってみたい。
しかし、もしも物にも考える力があったとしたら……
人によって様々な意見が出るだろうが、俺はこう考える。
『消えてしまいたい……』と……
……
ぴいぴいと何かの泣き声が聞こえる、おそらく鳥の鳴き声だろう。
鳥は主に夜行性、梟などの夜行性もいるがこの近辺で見かけることはまずない。
ということは、もう夜は明けてしまっているということだ。
【神谷】
「もう朝か……」
眼を開けると、今日もまた煌々と部屋が明るい。
昨日と同じく電気を消し忘れて眠ってしまったらしいな……
電気を消し、カーテンを開け放つとやや強めの陽射しが目を刺激した。
……変だな、朝日にしては強すぎるような気が。
【神谷】
「11時……?」
ええっと……とりあえずゆっくり考えてみようか、お茶でも飲みながら。
学校が始まる時間は確か8時半だ、いつも行っている学校だから間違いない。
で、今の時間は11時、2時間半の差があるということは……
お茶を一口……
【神谷】
「遅刻か……」
それ以外、この時間では考えられないだろう。
こう見えても皆勤賞狙ってたのに、惜しいことしたな。
【神谷】
「ま、たまにはこんな日も良いかな」
びっくりするほど冷静だな、俺。
……
学校に到着したのは12時過ぎ、購買がてんやわんやしているのを尻目に俺は教室へ。
【月花】
「お、お寝坊さんのご到着みたいだね」
教室に入るやいなや、月花が小ばかにしたような言葉を投げかける。
【神谷】
「勝手に寝坊って決めないでくれ」
【月花】
「じゃあどうして遅れたの?」
【神谷】
「11時に起きたから」
【月花】
「ほぉーらね」
確かに寝坊したけどさ、はなから寝坊と決め付けられるのは嫌だな。
【月花】
「そういえば浩徳から伝言預かってるよ、『調査よろしく』だってさ」
【神谷】
「浮気調査?」
【月花】
「校長の」
【神谷】
「無理」
さすがに校長の浮気を調査するのはちょっと……
その前に俺は探偵じゃない、浮気調査なんて出来るか。
【月花】
「くだらないやりとりはお終い、昨日のこと覚えてるよね?」
【神谷】
「美術準備室の話だろ?」
【月花】
「そう、なるべく早く頼むってさ」
【神谷】
「はいはい、それじゃあこれから行ってくるよ」
【月花】
「あ、ついでに年鑑も持って来てってさ」
注文の多い生徒会だな……
……
美術室の中はしんと静まり返り、とても奥に人がいるようには感じられない。
今は昼時、当然昼食中でいないことも考えられる。
だけど、昨日の放課後もこんな感じだったけど、中には女生徒がいた。
【神谷】
「調べるだけ調べてみるか」
いなかったらいないで年鑑を取ってくれば良いんだしな。
そう思い、いつもと同じように二回のノック。
コンコン
……返答はない。
前回もこうだった、しかし彼女はいた。
念のためにもう二回ノック。
コンコン
……やはり返答はない。
【神谷】
「失礼」
空けた扉の先には誰もいなかった。
昨日の女生徒の姿もない、ましてや他の生徒、教師陣の姿もなかった。
目的は1つ達成できなかったが、もう1つの年鑑を持ってくる目的は達成できるだろう。
準備室を通り抜けて資料室へ、資料室の中にも誰もいなかった。
【神谷】
「年鑑、年鑑……あ、これか」
やけにぶ厚い年鑑が全部で18冊、ここで一つミスをしていた。
【神谷】
「どれを持って行けば良いんだ?」
どれを持ってくるのか聞いていなかった、全部持っていくにも一回で運べる量ではない。
【神谷】
「悩んでもしょうがない、一番新しいやつにするか」
中でも最新の年鑑を手に取り、資料室を後にする。
そのまま準備室も後にしようとしたが、再びイーゼルの前で止まってしまった。
もう一度見てみたいという欲求はあったが、どうしてもシーツを外せなかった。
彼女いわく、シーツがしてあるということは、まだ見られたくないということらしいから。
欲求を必死で押さえ、準備室を後に……
【?】
「うわ!」
【神谷】
「おっと」
準備室を出たところで、ちょうど準備室に入ろうとしていた女生徒にぶつかってしまった。
ぶつかった女生徒は俺よりも小柄で、ぶつかった衝撃で尻餅をついてしまっていた。
その上スカートがはだけ、僅かに下着が見えている……白だ。
【女生徒】
「いたたたた」
【神谷】
「あ、すいません、大丈夫ですか?」
【女生徒】
「まったく、前方には常に気を配っていてもらいものだな」
この声、聞き覚えが……
【神谷】
「……」
【少女】
「おい、聞いているの……」
女生徒と眼が合った、昨日筆をぶつけてきたあの少女だった。
【女生徒】
「き、君はまた勝手に入って盗み見をしていたな!」
いきなり怒られた、下着が見えていることなど全くわかっていない感じだ。
下着よりも俺を怒るのが先ですか……
【神谷】
「いや、俺は年鑑を取りに来ただけで、絵は見ていない」
【女生徒】
「嘘を云うな、覗きとは常習性の高いもの、一種の薬と同じだ」
尻餅をついたまま、下から目線で怒られる。
それよりも、早く下着を隠して欲しい……
【女生徒】
「大体君は……ちょっと、どこを見て……なっ!」
俺の視線に気付き、自分の視線もスカートに落とすことでようやく女生徒は下着が見えていることに気が付いた。
慌ててスカートの裾を直し、キッと怒った視線を俺に投げかける。
【女生徒】
「き、君は絵だけにおさまらず、私の下着まで見ていたな!」
【神谷】
「それは……悪かった」
絵は見ていないが、下着は見たので素直に謝っておこう。
【女生徒】
「覗きの上に痴漢行為とは、弁解のしようもないな、君は」
【神谷】
「だから、絵は見てないって何度も云ってるだろ」
【女生徒】
「今、悪かったって謝罪したでしょ?」
【神谷】
「それは下着を見たことに対して謝罪したのであって、絵は無実だ」
【女生徒】
「まだ云い逃れようとするの、男らしく見たって認めて謝れば良いのに」
そう云われてもさ、見てもいないのに見たって嘘は云えない。
というか、このままではらちが明かない。
【神谷】
「悪い、急いでるからこれで」
【女生徒】
「あ、待ちたまえ」
制服の裾をつかまれ、動きを静止させられてしまう。
【神谷】
「まだ何か?」
【女生徒】
「絵を見た見ていないはこの際おいておいて、君は私の下着を見た、これは紛れも無い事実
非は君にあるんだ、手を貸してくれる位してくれとも良いんじゃないかしら?」
女生徒は未だに尻餅をついたまま、下から俺に反論をぶつけてくる。
空いている方の手がスッと伸ばされ、手伝えと云っているような感じが見て取れる。
【神谷】
「気が付きませんで、失礼しました」
まったく、子供かこの人は?
伸ばされた腕に力を込め、女生徒が立ち上がるのをアシストしてやった。
【女生徒】
「よっと、今後、前方には注意を配るように、わかった?」
【神谷】
「ああ」
【女生徒】
「返事は『はい』だ、返事は?」
【神谷】
「はい」
返事を確認し、軽く1つ頷くと女生徒は美術準備室へと入っていった。
【神谷】
「おい、ありがとうはどうした?」
俺はまだ彼女から手を貸したお礼の言葉を貰っていない。
人には返事を求めるくせに、自分では無しかよ。
そもそも、一言手伝って欲しいって云えば良いのに、なんかツンケンした生徒だな。
……
【神谷】
「ただいま」
【月花】
「おかえりー、ってなんか怒った顔してるよ、なんかあった?」
【神谷】
「あった」
さすがに下着見てお説教されてたとは云えないがな。
【浩徳】
「何があったのか興味はありますけど、とりあえず戦利品を頂きましょうか」
持っていたぶ厚い年鑑を浩徳に渡す、またしても浩徳は首をかしげた。
【浩徳】
「おや? これだけですか?」
【神谷】
「これだけだ、第一どれを持ってくるか聞いていないし」
【浩徳】
「どれか云わなかったということは、全部持って来いってことですよ」
知性的な笑みをもらし、随分と大変のことをサラッと云われてしまった。
【神谷】
「ちょっと待て、あれ全部か?」
【浩徳】
「勿論」
【神谷】
「俺1人でか?」
【浩徳】
「勿論、しかし他のの仕事を押し付けようとは思っていませんよ
移動を終えたらそれで無罪放免、君ははれて平生徒に戻れますから」
要略すると、運び終わるまでは逃がさないってことか。
しかしあの数、一度に持てるのはせいぜい4冊として……後4、5回往復しなきゃ駄目か。
【浩徳】
「で、もう1つの女生徒が誰であるかの調査は出来ましたか?」
【神谷】
「…………あ」
そういえばそうだった、俺が準備室に行った一番の目的は女生徒の調査だったじゃないか。
いつの間にか優先順位は年鑑が競りあがり、女生徒のことなどころっと忘れていた。
下着見て怒られに行ったじゃないんだぞ、俺は……
【月花】
「何しに行ったんだか」
【浩徳】
「まったくですね、もう一度、お願いしますよ」
肩をポンポンと叩き、浩徳は教室を出て行った。
【月花】
「女の子いなかったの?」
【神谷】
「いたよ」
【月花】
「じゃあどうして聞いてこなかったのさ?」
【神谷】
「まあなんだ、色々怒られたんだよ……」
どうして怒られたかは、お茶を濁すことにしておこう。
【月花】
「また着替え中に入ったんだ、それじゃあ怒られて聞きそびれるのも無理ないわね」
【神谷】
「またってなんだよ、またって」
【月花】
「聞いたままの意味だよ、やーい覗き魔ー」
……
屋上で寝転がって見えるのは一面の空。
昼休みもまだ余裕があったので、今日はこのまま午後も出ないでゆっくりしようかと思案中だ。
【神谷】
「手痛いな……」
月花の頭を軽く小突いたら、逆に噛み付かれてしまった。
あいつ本当に女の子か? と疑いたくなる瞬間だったよ……
【神谷】
「はぁ……なんで痛いんだろう?」
人間には痛みを感じる神経というモノが存在する。
これがあるせいで、人は怪我をしたときや、突発的な病気で痛みを感じてしまう。
はたして、これは必要な機能といえるのだろうか?
痛みを感じたところで、実際己に帰って来るモノなんて不安と痛みそのモノだけだ。
マイナス要素は数あれど、プラス要素なんてこれっぽっちも思いついてこない。
俺にとって、痛みというのは全く意味を成さないものでしかない。
では何故、人には痛みなんていうモノが存在するのだろう?
……いつもここで答えが出なくなってしまう。
痛みは必要か? → 必要じゃない → では何故あるのか? → さあ?
いつもいつもこんな感じで式は解かれ、凍結される。
絶対に解くことの出来ない式の一つがこれだ。
壁を殴れば痛い、椅子を蹴り上げれば痛い、床に叩きつけられれば痛い。
人は死ぬまで痛みから解放されることなく、死ぬことさえも痛みに支配されてしまう。
【神谷】
「いっそのこと……」
痛みも感じない物になってしまえば良い、と思うこともある。
だがたとえ物になったとしても、いつかは壊れてしまう日が来るわけだ。
物が壊れる時、それは本当に何も感じずに壊れるだけなのだろうか……
【神谷】
「……」
俺は物じゃない、本当はどうかなんて知らないし、答えがどうであろうとどうでも良い。
それよりなにより……
【神谷】
「疲れるよ、人って……」
痛みを感じたり、それを考えたり、答えが出ずに悩んだり。
人には面倒なことが多すぎる、この面倒なことを一切合切取り除く方法が無いわけじゃないが……
それも痛みが自己主張するわけで、俺1人で何も感じずに行かせてはくれない。
【神谷】
「はぁ……」
溜め息1つを空に投げかけた。
痛みも、何も感じることなく…………消えてしまうことは出来ないだろうか?
……
【神谷】
「ふあぁ〜……」
【月花】
「渡ってさ、何しに学校来たの?」
結局午後の授業は全部すっぽかし、ずっと屋上で昼寝をしていた。
真夏の陽の下なら絶対にやらなかったが、まだ陽もきつくないので眠るのに支障は出なかった。
【神谷】
「何しに来たんだろうな」
【浩徳】
「女生徒の調査でしょう? それと年鑑」
【神谷】
「それかもな」
まだ冴え渡らない頭を軽く掻き、美術準備室へと赴いた。
……
すでに3回ここを訪れたわけだけど、過去3回全てあの女生徒に怒られている。
人には時として、目を合わせるだけで口げんかになる人もいると云うが、俺が体験することになるとはな……
扉の前で軽く深呼吸、怒られるほうを想定しておいた方が無難だろうな。
コンコン
いつものように軽いノック、今まで1回たりとも応えてくれたことなどないが。
【?】
「どうぞ」
あ、今日は応えてくれた。
【神谷】
「失礼」
【女生徒】
「……」
女生徒は俺の顔を見るやいなや、明らかな敵意の視線を投げかけた。
【女生徒】
「やれやれ、また君か……何度覗けば気が済むんだ?」
絵の具がついた筆先を俺に向け、敵意むき出しの姿勢を見せた。
【神谷】
「俺は年鑑を取りに来ただけだ、資料室にはここを通らないと行けないから」
【女生徒】
「年鑑ならさっき持っていたじゃないか、となると、やっぱりさっきのは嘘ね?」
【神谷】
「1冊しか持って行かなかったら全部持って来いって云われたんだよ
あと10数冊中に残ってるんだ」
【女生徒】
「なるほど、一応筋は通っているようね、だったら早く終わらせて
近くに人がいられると気が散るの、彼方のような礼儀を知らない人は特にね」
話はもうないといった感じで、女生徒はキャンバスへと視線を向けた。
昨日のように筆をくわえることもなく、黙々とキャンバスに筆を走らせていた。
そんな女生徒の邪魔をしないように、彼女の後ろを通って資料室へ。
……
【神谷】
「よっと」
1冊ずつ上に重ね、計4冊がずっしりと腕に負担をかける。
こんなことをあと何回もやらないといけないと思うと挫けそうになるな……
手が塞がっているので足で軽く扉を蹴り開け、隙間に急いで足を滑り込ませる。
何とか扉を抜けた準備室では、今も女生徒がキャンバスを前に筆を当てている。
そんな女生徒の横顔が、俺を見ていた時以上に敵意を帯びて見えるのは気のせいだろうか?
【女生徒】
「何を見ているの」
筆を動かしながら、ちらりと視線だけ俺の方に投げかける。
【女生徒】
「用が済んだのならさっさと出て行って、気が散るわ」
【神谷】
「はいはい……」
【女生徒】
「ちょっと待って、何故4冊しか持って行かないの、まだあるんでしょう?」
【神谷】
「これ以上持てないんだ」
【女生徒】
「軟弱ね」
さらさらと筆を動かしながらも、俺への口撃は治まらない。
というよりも、俺を気にしながらよく休みなく絵をかけるもんだな。
【女生徒】
「また来るんでしょう? もうノックはいらないから、私の邪魔はしないでね」
【神谷】
「はぁ、はいはい……」
……
美術室から生徒会室への1回目の往復が終わり、次が2回目の往復になる。
【神谷】
「1回運ぶだけで結構腕に負担がかかるな」
まだ1回しか運んでないのに、腕は軽く痙攣を覚え始めていた。
この分だと、最終回にはもう腕が取れるかもしれないな……
準備室の扉を開けると、さっきと同じように女生徒が絵を描いていた。
もう俺が来たことにさえ興味が無いのか、一切俺の方に視線が向くことはなかった。
ただ筆とキャンバスが擦れるシュっという音が聞こえるだけだ。
邪魔をして文句を云われたくもないので、彼女を気にしないように資料室の中へ。
……
2回目、3回目の往復が終わり、残る年鑑はあと2冊となっていた。
【神谷】
「ふう、これでやっと終わりか……」
腕がもう痛みさえも感じない状況になっている、ここまで鞭打ったのは久しぶりだな。
最後の2冊を脇に抱え、もう来ないであろう資料室を出る。
【女生徒】
「……」
まただ、女生徒はまたさっきと同じようにキャンバスを睨みつけていた。
俺に向ける視線以上の敵意の視線、何故そんな視線をキャンバスに……
【女生徒】
「ジロジロ見ないで」
鋭い視線が俺にも向けられる、しかし、キャンバスを見ているときほど鋭くはなかった。
【神谷】
「あの、怒ってる?」
【女生徒】
「君が私の邪魔をするようならね」
とは云うものの、俺の存在自体がもうあまり良い気分ではないようだな。
これ以上怒らせるのもお互いに良いこと無いし、退散するか。
【神谷】
「あ、そうだった」
俺がここに来る目的は年鑑もそうだけど、もう1つあったんだっけ。
【神谷】
「ねえ君さ、名前は?」
【女生徒】
「は?」
女生徒の表情がにわかに曇る、何を云っているんだというよ云うな感じだ。
【女生徒】
「急に何を云いだすんだ?」
【神谷】
「変な意味で捉えないでくれ、生徒会に頼まれた仕事なんだよ
放課後にどの教室が使われているのか、生徒会として知っておきたいんだと」
女生徒は口元に指を当て、しばし思案のポーズ。
【女生徒】
「君は生徒会の人物ではないだろう?」
【神谷】
「よく知ってるね、確かに生徒会ではないけど、生徒会には人使いの荒いやつがいてさ」
【女生徒】
「君の云っていること、本当だろうな……?」
【神谷】
「俺がここで嘘をついてどうなる? 俺に何の得がある?」
【女生徒】
「ふむ、それもそうか……では君からだ」
【神谷】
「は? 俺?」
【女生徒】
「当然だろう、聞きたいことがあるのなら先にそちらが名乗るのが礼儀だ
前にも云ったと思うが、礼儀知らずな人ね」
表情も変えず、溜め息かもわからないように小さく息を吐いた。
まあ、彼女の云うことにも一理あるかな。
【神谷】
「俺は神谷 渡」
【女生徒】
「蓮見だ、『諏訪 蓮見』、これで良いのだろう?」
名前を名乗り、用件を終えた諏訪さんは再び筆を滑らせる。
【神谷】
「……」
【蓮見】
「おい、まだ何かあるのか?」
【神谷】
「いや、今日はやらないのかと思って」
【蓮見】
「やらない? 何をだ?」
【神谷】
「昨日は筆をくわえたまま絵を描いてたでしょ」
【蓮見】
「なっ!」
蓮見さんが小さく声をあげ、わなわなと小さく肩を震わせた。
【蓮見】
「で、出て行けー!!」
【神谷】
「うあ!」
昨日と同じように筆を投げつけられた、しかも絵の具がついたままのやつを……
【神谷】
「し、失礼しました」
【蓮見】
「もう二度と来るなー!」
……
【浩徳】
「お疲れ様、これで全部ですね」
重ねられた年鑑全部で18冊、良くこれを1人で運んだものだな……
【浩徳】
「で、女生徒が誰であるのか調査はつきましたか?」
【神谷】
「ああ、確か『諏訪 蓮見』さんとか云ってたな」
【月花】
「確か3組に諏訪って苗字の人いたよね、その人かな?」
【浩徳】
「ええと諏訪、諏訪と……あ、ありました、3組に同じ名前の人がいますね」
学年名簿を取り出し、ペンでトントンとある場所を指した。
そこには確かに『諏訪 蓮見』という名前が書かれていた。
【浩徳】
「名前さえわかっていれば特に何も云うことはないでしょう
あとは神谷君が、戸締りは忘れぬようにと云ってもらえれば十分ですね」
【神谷】
「それくらい云わなくてもわかってるだろ」
【浩徳】
「念のためですよ、念のため、女性調査の仕事はそれで全て終了ですから
早いうちに終えてしまってくださいね」
クスリと小さく笑いをもらし、浩徳は分厚い年鑑をパラパラとめくり始めた。
【月花】
「それよりも渡さ」
【神谷】
「何?」
【月花】
「いつまで鼻の頭に絵の具つけたままでいるの?」
何、鼻の頭に絵の具?
まさかと思って触ってみると、ぬるりとした妙な感触。
見てみると指にはべったりと深い緑色の絵の具が付着していた、筆を投げられたあの時か!
【月花】
「早く洗ってきたら? 幹部の皆笑わないように我慢してるんだから」
【神谷】
「早く云ってくれ!」
恥ずかしいやら悲しいやら、俺は鼻を押さえてトイレへと駆け込んだ。
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜