【ドタバタは雪幻と共におりゆ】



ケキャキャキャキャキャ

気持ちの悪い電子音が僕の耳を刺激する。
まだ覚醒しきっていない体に指示を送り、手を伸ばして電子音を遮断する。

キャ、ピ!

てっぺんのボタンを押すと電子音はピタリと止んだ。

【明仁】
「んあぁあぁぁ……」

ベッドから半身を起こし、軽く伸びをする。
さっきの気持ち悪い電子音は目覚まし時計の音。
あの音が鳴ると嫌でも眼が覚める……

ぼぅっと焦点の定まらないまま部屋の中を見渡すと……

【明仁】
「うわぁ……」

部屋のやや奥で女の子が宙に浮いたまま横たわっている。
そこに床は無いはずなのに、まるで床があるかのように女の子は横たわっていた。

【明仁】
「夢じゃなかったんだ……」

ベッドから立ち上がり、恐る恐る眠っている真菜弧に近づいてみる。

【真菜弧】
「すぅ……」

眠る必用は無いって云ってたくせに、気持ち良さそうな顔をして眠っていた。

【明仁】
「おーい、朝だよー」

【真菜弧】
「ふみぃ……」

僕の呼びかけに軽く体を起こし、眠気眼をくしくしと擦る。

【明仁】
「おはよう」

【真菜弧】
「ふみ……はよぉ」

僕と同じようにゆっくりと起き上がり、みゅーっと体を伸ばした。

【明仁】
「幽霊のくせに寝起き悪いんだ」

【真菜弧】
「それは人間の時からそうだったよぉ……朝嫌い」

何とか起き上がるものの、焦点が定まっていない……というかもう眼が閉じられている。
このまま放って置けば確実に二度寝するだろうけど、幽霊だからまあ良いか。

もうほとんど夢の中の真菜弧を残し、僕は朝食の準備へと取り掛かる。

……

【真菜弧】
「おひゃよぅ……」

【明仁】
「お早う、って云っても二回目だね」

二度寝から目覚めた真菜弧はふらふらとおぼつかない飛行で僕の元へと近づいてくる。

【真菜弧】
「くあぁぁ……よく眠った、てんちゃん珈琲ちょうだい」

【明仁】
「はいぃ? コーヒーって真菜弧幽霊なのに飲めるの?」

【真菜弧】
「飲めないのに頼まないよ……」

本当かどうなのかいまいちわからないけど、とりあえずまだ口をつけてない僕のコーヒーカップを渡してみた。
すると、コーヒーカップが受け取られ、真菜弧はするするとコーヒーを啜っていた。

【真菜弧】
「苦……てんちゃんお砂糖入れないのぉ……」

【明仁】
「本当に飲んでる……どういうこと?」

幽霊がコーヒーを飲んでるのも不思議だが、なんで実体の無い真菜弧がコーヒーカップを持てるのだろう?

【真菜弧】
「人間からは触れなくてもね、幽霊から物に触ることは出来るんだよ
ポルターガイスト現象って云えばわかりやすいかなぁ……」

眠気の抜け切らないままそんなことを教えてくれた。

【明仁】
「コーヒーはなんで飲めるの?」

【真菜弧】
「それは私にもわからない……」

チビチビとコーヒーを啜り、コーヒーカップの中は空になっていた。

【真菜弧】
「うぅぅぅーん、あぁ……よし、眼が覚めたよ、そんじゃあてんちゃん、学校いこっか」

【明仁】
「学校ね……なにを? もしかして真菜弧も行く気なの?!」

【真菜弧】
「なんか問題ある?」

【明仁】
「だって死んだ人間が平然と学校にいたら皆パニックに」

【真菜弧】
「もう忘れちゃったの? 私の姿はてんちゃんにしか見えてないんだよ
すなわち私が学校に行っても誰も気付くことが無い、ようは問題無いってことよ」

【明仁】
「……」

【真菜弧】
「何よその眼は、疑ってるのか?」

【明仁】
「ほんっとうに僕にしか見えてないんだろうねえ?」

【真菜弧】
「大丈夫だって、もし嘘だったら私の命あげるよ」

満面の笑みでそんなことを云ってくれるけど、別に人の命なんか欲しくない。
それ以前に真菜弧はもう命無いじゃないか……

【真菜弧】
「ほらほら、早く行かないと遅刻しちゃうよ」

半ば強引に、真菜弧は僕と一緒に学校に行くことになった。
もっとも、幽霊の真菜弧を僕が止める術は1つも無いんだけど……

……

【明仁】
「……」

【真菜弧】
「ん? どした?」

僕の肩にちょんと乗っている真菜弧が僕の視線に気付いた。
人が肩に乗っているというのに、そこに重みを感じることは無い。
いや、感覚すら伝わってはこない。

僕の眼には確かに少女の姿が見えている、しかし、そこに彼女が存在している感覚は微塵も無い。
なんとも不思議な感覚だよ。

【明仁】
「飛べるんだから僕の肩に乗らなくても……」

【真菜弧】
「良いじゃん、重みを感じるわけでもないんだから
それに、幽霊にでもならないとこんなこと絶対に体験出来ないからね」

【明仁】
「確かに、生身の真菜弧は僕の肩じゃ支えられないかな……」

【真菜弧】
「私が重いって云うのか!」

【明仁】
「あのね、真菜弧だろうとゆゆちゃんだろうと僕の体じゃ無理だって……」

女の子とはいえもう、体は十分に出来上がっっている。
筋肉質でもない僕に女の子を肩で支えろなんて無理難題ですって。

【女生徒】
「天皇寺君お早う」

【明仁】
「うぁ!……お、お早う」

【女生徒】
「?」

クラスメイトの女の子に声をかけられ、思わず抜けた声を上げてしまった。
女の子は少しだけ首を傾げたが、特に気にすることも無く通り過ぎていった。

【真菜弧】
「変な声出たよ」

【明仁】
「ちょっとびっくりして……だけど、見えてないみたいだね」

【真菜弧】
「何? まだ疑ってたの?」

【明仁】
「さっきまではね、だけど今ので確信したよ」

僕の眼にははっきりと少女の姿が僕の肩の上に見えている。
結構身長も大きな少女だけに、見えないはずは無いのだけど、女の子は素通りしてしまった。

つまりは、本当に真菜弧の姿は見えていないということだ。

【真菜弧】
「てんちゃんは疑り深いなあ、しつこい男は嫌われるよ」

【明仁】
「はは、善処します……」

【真菜弧】
「うん、よろしい」

その後も生徒や一般人とすれ違ったけど、誰も真菜弧の存在に気が付くことは無かった。
人とすれ違うたびにすれ違った人を振り返るんだけど、誰も僕に振り返る人はいなかった。

【ゆゆ】
「あっくーん」

後ろからかかる声、昨日と全く同じ状況だ。

【ゆゆ】
「お早うございます、あっくん」

【明仁】
「お早う……えっと……」

【ゆゆ】
「……どうかしましたか?」

口ごもる僕に、ゆゆちゃんは疑問符を浮かべた。

【明仁】
「いや、なんでもないよ」

【ゆゆ】
「変なの」

疑問符を消化したゆゆちゃんは僕の横に並び、僕と同じスピードで歩を進めた。
どうやらゆゆちゃんにも真菜弧の姿は見えていないようだ。

【真菜弧】
「……ね」

【明仁】
「みたいだね……」

【ゆゆ】
「何がみたいなんですか?」

【明仁】
「あぁ、い、いや……特には」

誰もいないところに向かって僕が一人で話しかけているように他人には見えるわけだよね。
危ない危ない、うっかり人前で真菜弧と言葉を交わそうものなら僕は痛い人扱いだ。

【真菜弧】
「莫迦」

【明仁】
「はは……」

【ゆゆ】
「?……」

再びゆゆちゃんは疑問符を浮かべる。
このぶんだとこの生活、かなり辛いものになるかもしれないな……

……

【ゆゆ】
「……くしゅん」

寒空の下、ゆゆちゃんのくしゃみ声が小さく聞こえた。

【ゆゆ】
「あぅ……ごめんなさい」

【明仁】
「風邪引いたの?」

【ゆゆ】
「そうではないと思いますけど、ちょっと寒くて……」

【明仁】
「僕が昨日マフラー借りちゃたからかな……」

【ゆゆ】
「ううん、そうじゃないよ……くしゅん!」

やっぱり風邪っぽいのかもしれない、原因として考えられるので一番大きいのはやっぱり昨日のあれかな。

【真菜弧】
「てんちゃん、暖かくしてあげたら?」

真菜弧の声に、僕は出来るだけ小さい声で「どうやって?」と聞いてみた。

【真菜弧】
「決まってるじゃん、ぎゅーって抱きしめてあげなよ」

【明仁】
「なっ!」

何を云い出すんだこいつは、思わず大きな声が出ちゃったじゃないか。

【ゆゆ】
「?????」

突然の僕の声に、ゆゆちゃんは大量の疑問符を浮かべていた。

【真菜弧】
「無闇に大きな声出さないの」

【明仁】
「だって、いきなり何云うんだよ……」

【真菜弧】
「手っ取り早く暖かくしようとしたら一番簡単じゃない?
ルナのことだからきっと真っ赤になってすぐに暖かくなるよ」

くししと独特の笑みを浮かべている。
この笑顔の時は大概面白がっている時だ。

【ゆゆ】
「あっくん」

【明仁】
「うぇ……な、何?」

【ゆゆ】
「なんだか今日のあっくん変ですよ」

【明仁】
「そ、そうかな、別にいつもと同じだと思うけど……」

【真菜弧】
「顔に嘘って出てるよ」

横槍を入れた真菜弧に反論しようとしたが、ここで反論したらまた誤解を生みかねない。
とりあえず真菜弧の存在を頭の中から消しておいた。

【ゆゆ】
「うぅん……なんだか納得出来ません」

【明仁】
「なんでもないって、ゆゆちゃんの勘違いだよ」

【ゆゆ】
「うーん……」

顎に指を当てたまま、右に左に軽く頭をかしげる。
何度かそんな動作をした後、唐突にその動作が止まる、理由は……

【ゆゆ】
「くしゅん!」

【明仁】
「僕よりもゆゆちゃんの方が心配だよ、学校休んだ方が良いんじゃない?」

【ゆゆ】
「いえ、そこまで酷いものではないですから……」

【明仁】
「そう?……それじゃあ少し急ごうか」

【ゆゆ】
「はい」

……

教室の扉を開けると、いつもと同じような肌寒さが体に染み渡る。
本当に暖房がついているのか疑いたくなるような寒さだ。

【明仁】
「最後列は毎日地獄だよ……」

【ゆゆ】
「前は前で結構暑いですよ」

【明仁】
「寒いよりは暑い方が良いよ」

【ゆゆ】
「それもそうですね、ではまた……」

別れ際、もう一度ゆゆちゃんのくしゃみ声が聞こえた。

【真菜弧】
「本当に大丈夫なのかな?」

【明仁】
「ゆゆちゃんが大丈夫って云ってるから大丈夫じゃないかな」

真菜弧を肩に乗せたまま教室の中を歩く。
教室にはすでに何人もの生徒がいるが、誰も僕の肩に異変を感じるものはいなかった。

【真菜弧】
「この教室も久しぶりだな」

【明仁】
「久しぶりって二週間ほど前のことでしょ」

【真菜弧】
「たかだか二週間でも、懐かしいものは懐かしく感じるものだよ」

僕が席についても、真菜弧はまだ僕の肩を下りようとはしなかった。
真菜をに視線を送ると、真菜弧の瞳はぽっかりと空いてしまった一角を見つめていた。

【真菜弧】
「……片付けられちゃったんだね」

【明仁】
「ああ……」

ぽっかりと空いてしまった以前の自分の居場所に、真菜弧は何を見ているのだろうか?

【真菜弧】
「仕方ないよね、実際、私はもういないんだから……」

誰の眼が見ても、とはいっても僕にしか見えていないわけだが
僕の眼にははっきりと真菜弧が落胆しているのが見てわかった。

【明仁】
「……真菜弧」

【真菜弧】
「何?」

僕に視線を落とした真菜弧の眼に、もう落胆の色は消えていた。

【明仁】
「いや……なんでもない」

【真菜弧】
「変なの」

視線を再び空白に移した真菜弧の横顔は、どこか寂しげな感じがした……

……

【教師】
「とまあこんな形になるわけですね……」

まだ若い教師が黒板にすらすらと幾何学模様を描いていく。
二本の捻れた直線の間を、何本ものカラフルなラインが繋いでいる。

あれは遺伝子構造の図かな。

【明仁】
「……」

僕はその図をノートにとることもなく、指の間でくるくるとシャープペンシルを回していた。
どうしても勉強に身が入らない、原因は勿論……

【真菜弧】
「……」

彼女の存在である。
授業が始まると僕の肩を下り、窓に寄り添ったままずっと外を眺めていた。

そこに本来いるはずの無い失われたクラスメイト。
しかし、彼女は僕の視線の先に存在し、僕と言葉を交わすことも出来る。
そこにはちゃんと存在があるとしか思えない、しかし、そこに彼女の姿は実在しない。

時折こんなことを考える。
今僕が見ている彼女は僕の脳細胞が作り出した幻、幻想の少女。
僕は幻想を見て、幻聴を聞き、幻影に語りかけているのではないだろうか……?

【教師】
「天皇寺君?」

【明仁】
「え……はい?」

【教師】
「どうかしましたか? 先ほどからずっと外を眺めて」

【明仁】
「あ、いえ、すいません……」

教師は僕が外を見ていると思っているが、僕は見ているのは真菜弧なのだ。
そんな真菜弧も、我かんせずといった感じでずっと外を眺めていた。

【教師】
「ここは必ずテストに出しますからメモしておいた方が良いですよ
それに、君はもうすぐ大事な受験を控えている身、ここが瀬戸際ですよ」

若い教師はビシッと指を1本立てて強調する。

【教師】
「天皇寺君だけではありませんよ、来月頭に控えた学年末テスト
最後ということもあって、教師陣皆意気込んでいますから、覚悟しておいてください」

何人もの生徒から「えー」とか「酷いー」とか云う声が聞こえる。
いくら進学校とはいえ、最後なんだから少しくらい甘いテストにしてくれれば良いのに……

【教師】
「さ、ぐずぐずしている暇はありませんよ、この遺伝子構造をですね……」

解説を始めると、生徒の声はぴたりと止んだ、さすが進学校。

【明仁】
「はぁ……」

そんな中でも、僕には先生の解説なんか全く届いてこなかった。

やがて授業終了のチャイムが鳴り、教師が教室を出て行った。

【真菜弧】
「真面目に授業聞かなきゃいけないんだぞお」

ふよふよと遊泳しながら真菜弧は僕の肩に再び腰を下ろす。

【明仁】
「ねえ、1つ聞いても良い?」

なるべく他の人に聞かれないように、出来る限り声を落として真菜弧に訊ねた。

【真菜弧】
「何?」

【明仁】
「どうして学校に来たの?」

【真菜弧】
「どうしてって云われてもねえ、もう死んじゃってるけど私はここの生徒だよ
生徒が学校に来ちゃおかしい?」

【明仁】
「学校に来てもすること無いよね、云いかえれば来ること事態に意味が無い」

【真菜弧】
「するとなに、てんちゃんは私に大人しく家で待ってろって云いたいのか?」

【明仁】
「そうじゃないけどさあ……」

どうして彼女はここに来たのだろう?
云ってみればここは生前の彼女の記憶があった場所だ、生きている時はそこに彼女の存在が確立されていた。
しかし、死んでしまった今、彼女の存在は消失した、片付けられた机は彼女の存在否定に直結する。

この光景を見てしまったら、真菜弧は悲しいだけじゃないんだろうか……?

【真菜弧】
「なんか難しいこと考えてる顔してるよ」

【明仁】
「ちょっと考えごとをね……」

【真菜弧】
「ふーん、それよりさ、ご飯食べないの?」

今は午前の授業も一通り終った昼休み。
周りでは友達同士席をくっつけてお弁当を食べる人や、購買で何かを買ってきた人の姿が見受けられる。

いつもならすぐにゆゆちゃんがこっちに来るはずなんだけど……

【ゆゆ】
「あっくん……」

【明仁】
「お昼、食べようか」

【ゆゆ】
「はい……」

いつもよりワンテンポ遅れてゆゆちゃんが僕のところに来る。
お弁当をぶら下げたゆゆちゃんの足取りは、どこか安定しない感じだった。

【ゆゆ】
「……」

昼食を2人で始めたものの、ゆゆちゃんの箸はほとんど進んでいなかった。

【真菜弧】
「てんちゃん……気付いてる?」

【明仁】
「うん……」

僕の首に両腕をまわし、体半分浮かしたまま抱きつくような恰好になっている真菜弧も気付いているようだ。

【真菜弧】
「朝からくしゃみもしてたし、顔もいつもより赤いと思わない?」

真菜弧の云うとおり、朝に比べると幾分顔が赤らんでいた。
これはやっぱり風邪でもひいてる説が濃厚かな……

【明仁】
「ねえ、ゆゆちゃん」

【ゆゆ】
「え……は、はい、なんでしょう?」

風邪っぽいせいか、反応も僅かに鈍っていた。

【明仁】
「保健室、行こうか」

【ゆゆ】
「だ、大丈夫ですよ……そんな病人みたいなこと……」

【明仁】
「ご飯も進んでないし、なんだかぼんやりしてる
それに朝からのくしゃみ、病人である裏付けには十分だと思うけど?」

【ゆゆ】
「あぅ……」

ゆゆちゃんはいたいところをつかれたといった感じで押し黙ってしまった。

【明仁】
「ちょっと失礼」

【ゆゆ】
「あ……」

ゆゆちゃんの額に僕の手を触れさせてみる。
はんなりとした暖かさは一瞬だけ、すぐに通常よりも熱めの体温が手のひらを通して伝わってきた。

【明仁】
「熱っぽいね」

【ゆゆ】
「そう……でしょうか……」

【明仁】
「否定しちゃダメだよ、とりあえず保健室行こうよ」

【ゆゆ】
「……はい」

ぐずっていたゆゆちゃんも、観念したのかおずおずと保健室行きを了承してくれた。

……

【明仁】
「失礼します」

数回のノックの後、保健室のドアを開ける。
しかし、期待していた人物はそこにはいなかった。

【明仁】
「保健の先生どこ行っちゃったんだろう?」

【真菜弧】
「てんちゃんチャンスだよ、押し倒しちゃえ!」

【明仁】
「ばっ!」

莫迦なこと云うなと怒鳴ってやろうと思ったけど、ゆゆちゃんに変な目で見られるだけなので止めておこう。

【明仁】
「確かこの辺に体温計が……あった、はい」

【ゆゆ】
「ありがとうございます……」

体温計を受け取ったゆゆちゃんは上着を脱ぎ、ワイシャツのボタンをいくつか外して……
ここで思わず僕は目線を逸らしてしまった、ゆゆちゃんだって見られてあまり良い気分しないよね。

【真菜弧】
「もっと見てれば良かったのに」

【明仁】
「だってさあ……」

【真菜弧】
「別に裸になるわけじゃないんだし、ルナだってこれくらいで恥ずかしいなんて思わないと思うよ」

【明仁】
「僕が恥ずかしいんだよ……」

【真菜弧】
「変なの、男の子って普通女の子の着替えとか見たいんじゃないの?」

他の男の子がどう思ってるかわからないけど、僕はあまり他人の着替えを見たいとは思わない。
勿論男の子の着替えも見たくない……

体温計がピピピっと電子音を小さく響かせ、計測の終了を促した。

【明仁】
「何度だった?」

【ゆゆ】
「7度5分です……」

【明仁】
「十分に熱の範囲だね、やっぱり朝から辛かったんだね」

言葉を続けながらベッドの確認をする、生憎誰も使っていないようだった。

【明仁】
「ベッド空いてるから少し横になったほうが良いよ」

【ゆゆ】
「大丈夫ですよ、このくらいの熱なら横にならなくても……」

【明仁】
「この時期の風邪を甘く見ると大変なことになるよ、僕は肺炎にまでなったしね」

【ゆゆ】
「あれはあっくんがずっと雨に打たれていたから……わわ!」

どうしてもゆゆちゃんが了承してくれないのでちょっと強引に。
足と背中に手を回し、抱っこをする形で無理矢理ゆゆちゃんの体を持ち上げた。

【ゆゆ】
「あ、あっくん……下ろしてくださいよ……」

【明仁】
「ゆゆちゃんが了承してくれないから、ベッドまで運ばせてもらうよ」

【ゆゆ】
「じ、自分で歩きますから、は、恥ずかしいですよ……」

弱々しく抵抗を見せるが、風邪っぽいせいで少しも抵抗出来ていなかった。

【明仁】
「はい、到着」

【ゆゆ】
「うぅ……あっくんの意地悪」

ベッドに寝かされたゆゆちゃんは頬を膨らませ、小さく怒りを表現してみせる。

【明仁】
「……ごめんね」

【ゆゆ】
「え……」

【明仁】
「朝からなんだかおかしいとは思ってたんだけど、気付いてあげられなくて」

【ゆゆ】
「……いえ、私が意地っ張りだっただけですよ」

横になったゆゆちゃんに毛布をかけ、カーテンを閉める。

【明仁】
「じゃあね、調子が悪いようだったら無理に戻ってきたりしないでね」

【ゆゆ】
「はい……あの、あっくん……」

【明仁】
「ん?」

【ゆゆ】
「……ありがとう」

【明仁】
「うん」

カーテン越し、姿は見えないけど、ゆゆちゃんが笑っているような気がした……

……

【真菜弧】
「てんちゃん、やっるーぅ」

【明仁】
「何が?」

【真菜弧】
「しらばっくれちゃって、わざわざルナをお姫様抱っこしてベッドまで運んであげるとはね」

【明仁】
「ああでもしないとゆゆちゃんのことだから絶対に寝てくれないと思って……」

【真菜弧】
「まあそうだろうね、だけどまさかてんちゃんがお姫様抱っことはねぇ」

真菜弧は腕を組んでうんうんとなにやら頷いている。

【明仁】
「何一人で頷いてるの?」

【真菜弧】
「いや、なんでも」

今嘘ついた、絶対なんでもないわけが無い。
だって、口元がいつものくしし笑いの形になっているもの。

……

【明仁】
「失礼します」

なるべく音を立てないように開けたつもりだったんだけど、カラカラと音が鳴ってしまった。
またしても先生の姿は無い、本当に保健の先生はいるのだろうか?

カーテンはいまだ閉じられたまま、教室に戻ってこなかったのできっと眠っているのだろう。

【真菜弧】
「ストップ!」

【明仁】
「大きな声出さないでよ」

【真菜弧】
「いきなりカーテン開けちゃダメ! まず確認を取ってからじゃないとダメなんだから」

【明仁】
「開けてないじゃん……」

【真菜弧】
「てんちゃんのことだから私が云わなかったら開けちゃったでしょ
開けてもしルナが鶴になってたらどうするつもりだったの」

【明仁】
「そんな、昔話じゃないんだから……」

【真菜弧】
「ルナが鶴じゃないって確証あるの?」

【明仁】
「無いけど、そんな非現実的なことが……」

あるじゃないか、今まさに僕の首に抱きつく真菜弧の姿。
これを非現実と云わずしてなんと云うか?

そう考えるとゆゆちゃんが鶴の可能性も……無いな、120%無いな。

【明仁】
「ゆゆちゃん、起きてる?」

返事は返ってこない、つまりは眠っているということかな?

【明仁】
「真菜弧、先に入って見てくれる」

【真菜弧】
「お、意外〜、てんちゃんにもようやく女心がわかったのかな?」

小さく含み笑いを見せ、僕の首をするりと抜け出してカーテンの向こうに消える。

【明仁】
「どう?」

【真菜弧】
「まだ眠ってるよ、ぐっすりと可愛い寝顔でね」

カーテンからにゅうっと首だけ覗かせて報告をしてくる。

【明仁】
「真菜弧に起こせる?」

【真菜弧】
「ポルターガイスト現象を使えば起こせるけど、確かルナは幽霊の類嫌いだったよね」

【明仁】
「お化け屋敷でずっと真菜弧にくっついてたような気が」

【真菜弧】
「ということはだよ、てんちゃんが優しく起こしてあげるのが一番良いんじゃない?」

【明仁】
「僕が……入って良いのかな?」

【真菜弧】
「それはてんちゃん次第だよ、このまま起こさないで帰るか、入って起こすか
まあ前者はひょっとすると夜までこのままかもしれないけどね」

この女は、無理矢理前者の選択肢を消してくれた。
こうなったらもう入るしかないじゃないか……

【明仁】
「ごめん、入るよ」

カーテンを開けると、毛布をかけて眠っているゆゆちゃんの姿が見て取れた。

【真菜弧】
「いや〜ん、てんちゃんのケダモノー♪」

【明仁】
「起こしちゃっても良いかな?」

【真菜弧】
「うわ、ノリわるぅ」

期待していた反応がこなかったのか、真菜弧の肩ががっくりと落ちた。

【ゆゆ】
「すぅ……すぅ……」

【明仁】
「……どうしよう?」

【真菜弧】
「どうしようって起こせば良いじゃん、このまま何もしないで出て行ったらただ寝顔盗み見しただけだよ」

【明仁】
「だけど……随分気持ち良さそうに寝てるけど」

【ゆゆ】
「くぅ……すぅすぅ……」

【真菜弧】
「じゃあこのまま帰る?」

【明仁】
「それもなんかなあ……」

【真菜弧】
「ああもうじれったいな! てんちゃんが起こさないんだったら私が起こしちゃうわよ
とっておきのポルターガイスト現象でね、うふふふふ」

真菜弧の眼が悪戯っ子のように奇妙につりあがる。
まずい! こいつの場合悪戯っ子どころの騒ぎじゃなくなる!

【真菜弧】
「さーて、引ん剥いちゃうぞ〜♪」

【明仁】
「ゆゆちゃん、ゆゆちゃん」

【真菜弧】
「ちょっとてんちゃん! 邪魔しないでよ!」

【ゆゆ】
「んぅ……あっくん……?」

深い眠りから覚めたゆゆちゃんの眼はいまだ焦点が定まらず、半分閉じ気味の瞳で僕の顔を認識しようとしていた。

【ゆゆ】
「んあぁ……今何時ですかぁ……」

【明仁】
「もう3時半、もう放課後だよ」

【ゆゆ】
「ふぇ? 放課後? ……え、えぇ!」

放課後と聞いて、眠っていたゆゆちゃんの体が一気に覚醒する。

【ゆゆ】
「わ、私そんなに長い間眠っていたんですか……」

【明仁】
「そのリアクションからすると、一度も起きなかったんだ」

【ゆゆ】
「どうしよう……午後の授業のノート……」

自分の体調よりも、午後の授業を気にするとは……
なんというか、ゆゆちゃんらしい。

【明仁】
「ノートだったら僕がとってあるから後で写したら?」

【ゆゆ】
「……お願いできますか?」

【明仁】
「勿論」

【ゆゆ】
「ありがとうございます」

【明仁】
「それで、体の方はどう? ダルさとかある?」

【ゆゆ】
「だいぶ楽になりました、これもあっくんのおかげですね」

顎に手を当て、軽くクスクスと笑みを漏らした。

【明仁】
「それじゃ、ひとまず教室行く?」

【ゆゆ】
「はい」

……

その後、ゆゆちゃんの午後の授業である英語と古文のノートを渡し、僕たちは学校を後にした。

【ゆゆ】
「あぅ……寒いです」

【明仁】
「雪が降ってもおかしくない温度だね、雨が降ってないのが救いかな」

【ゆゆ】
「雨なんて降られたら困ります、傘持ってないのに……」

【明仁】
「大丈夫、折りたたみぐらいなら僕持ってるから」

【ゆゆ】
「え?!」

突然ゆゆちゃんが驚きの声を上げた。
僕の首に巻きついている真菜弧にいたっては、にやにやと何か裏のある笑みを浮かべていた。

【明仁】
「どしたの?」

【ゆゆ】
「え、だって折りたたみって……1本しかないですよね?」

【明仁】
「傘屋じゃないんだから3本も4本も持ってないよ、1本だけだけど?」

【ゆゆ】
「あぅ……」

急にゆゆちゃんはうつむいてしまった、一体どうしたのだろう?

【真菜弧】
「くしし、てんちゃんやるぅ」

【明仁】
「は?」

【真菜弧】
「惚けないの、願ってるんでしょ? 早く雨降れって」

【明仁】
「なんでまた?」

【真菜弧】
「決まってるじゃないの、雨が降ったら傘は1本、人間は2人、展開は決まりだね」

【明仁】
「出来れば降らないでほしいよ、降ったら走らないといけないから」

【真菜弧】
「……はい?」

首に巻きついた真菜弧が僕の真横に移動する。
ゆゆちゃんとは反対側に浮き、僕の顔をまじまじと見つめていた。

【真菜弧】
「走って帰る? ルナがいるのに雨の中走るの?」

【明仁】
「ゆゆちゃんに傘を貸すから僕は走らないと」

【真菜弧】
「んな!」

真菜弧の眼が一瞬にして変わる、なんだか怒っているような感じだ。

【真菜弧】
「あんた何考えてんだー!!!」

【明仁】
「!」

耳元で思いっきり大声で怒鳴られた、思考さえも停止してしまうくらい大きな声だった。
そんな大声も、僕以外聞こえる者はいない。

【明仁】
「大きな声出さないでよ」

【真菜弧】
「怒鳴りたくもなるわよ、てんちゃんは今王道を踏み外そうとしたんだぞ!」

【明仁】
「王道って何のこと?」

【真菜弧】
「1本の傘で男と女がいたら王道以外ありえないの!」

だから王道って何のことですか。

【明仁】
「?」

【真菜弧】
「……はぁ、相変わらずてんちゃんって疎い子」

どうやっても理解しない僕に呆れてしまった真菜弧はふよふよと力無く
僕の肩に腰を下ろした。

【明仁】
「僕何か間違ったことしたかな……?」

【ゆゆ】
「あ、あっくん……」

さっきまで俯いていたゆゆちゃんが……今も俯いたままだった。

【ゆゆ】
「あっくんが良ければ、私はそれでも……」

俯いたまま言葉を捜しているような、なんともはっきりとしない言葉だった。

【明仁】
「ゆゆちゃん?」

【ゆゆ】
「……」

それっきりゆゆちゃんは答えてくれなかった。

【真菜弧】
「やだやだ、鈍さもこうなると呆れるだけね」

真菜弧の方は肩の上で、もう呆れたといった感じで髪を掻いていた。

この状況、悪者はやっぱり僕でしょうか?

……

結局雨が降ることは無く、曇り空のまま帰ってくることが出来た。

【明仁】
「それじゃ、また明日ね」

【ゆゆ】
「は、はい……」

ゆゆちゃんはずっと顔を伏せたまま、僕が話しかけてもどこか上の空のような感じだった。

【明仁】
「体、やっぱりまだ辛いのかな?」

【真菜弧】
「さあね?」

【明仁】
「そんなつっぱねないでよ」

【真菜弧】
「はいはい、だけど私がどういってもてんちゃんは納得しないからいい」

【明仁】
「……僕ってそこまで頭悪いかな?」

【真菜弧】
「頭の出来云々の話じゃなくて、もっと深い深ーいところの話だよ」

ますます訳がわからなくなってしまった。
……やっぱり僕頭悪いのかな?

真菜弧の言葉は、僕には理解できなかった。

……

【明仁】
「……」

【真菜弧】
「……」

カリカリとシャープペンシルの走る音が聞こえ、ぱらぱらと参考書を捲る音が聞こえる。
いつもと同じように、僕は日課の勉強をしているんだけど……

【真菜弧】
「……」

【明仁】
「……何かな?」

【真菜弧】
「別に」

素っ気無い返事の後、再び真菜弧がふよふよと遊泳を開始する。
さっきからずっとこの繰り返し。

机に向かってい集中している僕とは対照的に、真菜弧は空中遊泳をしていた。
数分に1回のペースで真菜弧は僕の前を遊泳する、眼が合うたびに僕は同じ問いをかけ、真菜弧は同じ返答を返す。

「何かな?」

「別に」

そこに意味は勿論無く、眼が合った際の形式的な挨拶とかしていた。

【真菜弧】
「ねえ、てんちゃん」

18回目の横切りの際、真菜弧はその場に留まって僕の眼を正面に捉えた。

【明仁】
「どうしたの?」

【真菜弧】
「学校で勉強、家で予習復習、さらには受験対策……休む暇あるの?」

【明仁】
「……どうなんだろ?」

【真菜弧】
「どうなんだろって私に聞かないでよ、土日は何してるの?」

【明仁】
「本屋に行ったり家にいたりするけど」

【真菜弧】
「念のため聞いておくけど……本屋って参考書の類じゃないよね?」

【明仁】
「……」

僕の無言の返答に、あちゃーといった感じで頭を押さえていた。

【真菜弧】
「そんな生活続けてると精神崩壊するよ」

【明仁】
「今までだって大丈夫だったんだからそう簡単に壊れないと思うけど……」

【真菜弧】
「てんちゃんってブラッドはBだっけ?」

【明仁】
「ブラッドって血液型のこと? だったらABだけど?」

【真菜弧】
「陰? 陽?」

【明仁】
「マイナスだけど……」

【真菜弧】
「うわぁ……」

うわぁって何さ? 僕の血液型にそこまで驚くところがあるのだろうか?

【真菜弧】
「日本人血液の中でももっとも希少なAB型、しかもさらに希少なマイナス型とはね
てんちゃん大型手術したら間違いなく死んじゃうね」

【明仁】
「サラッと物騒なこと云わないでよ、それよりもさっきから何の話をしてるのさ?」

【真菜弧】
「あんまり自分を追い詰めるとそのうち爆発してとんでもないことしちゃうよ
例えば……切腹とか」

【明仁】
「お腹に刃物を刺すなんて頼まれてもしないよ」

【真菜弧】
「そう思うでしょ、だけど鬱憤が爆発しちゃうとやるはずのないことまでやっちゃうもんなのよ
てんちゃんみたいにずっと勉強詰めで休むことも忘れてるような人はね」

ビシッと指を指された、真菜弧の眼は冗談の無い真っ直ぐな瞳をしていた。

【明仁】
「……僕ってそんな無理してるように見えるの?」

【真菜弧】
「さあね、少なくとも私には無理してるようにしか見えないんだよね」

【明仁】
「無理してる……かな?」

【真菜弧】
「自分でそれすらもわからないようなら完全な中毒状態だよ。
『デスクワーク……シンドローム』、うん、我ながら良い名前じゃ」

机作業症候群、和名にするとなんとも暗めの病気に聞こえるな……

【真菜弧】
「そんなわけでだよ、明日はちょうどお休みだし、街にでも行こう」

【明仁】
「明日は英語リスニングの……」

【真菜弧】
「キャンセルしなさい!」

噛み付きかねない顔で真菜弧は僕にキャンセルを要求した。

【明仁】
「わ、わかったよ、それじゃあ古文の問題集を……」

【真菜弧】
「てーんーちゃ−んー」

ぴくぴくと目尻が震えている、不味いよ、この状態は真菜弧が一番怒っている状態だよ……

【真菜弧】
「明日は勉強するな! もししたら呪い殺すよ!!!」

【明仁】
「わかったってば……もう、可愛い顔して怖いこと平気で云うんだから」

勉強のしすぎで壊れてしまったならまだしも、勉強のしすぎで呪い殺されてはたまったもんじゃない。
その前に、今の真菜弧にはそんな力があるんだ……怖

【真菜弧】
「わかればよろしい、そんじゃ明日は街で息抜きをしよー」

机の上に膝立ちになり、おーっと気合を入れている。

【明仁】
「真菜弧がそこまで気張らなくても……」

【真菜弧】
「いいのいいの、ほら、そしたらもう寝るよ」

【明仁】
「まだ復習の残りが……」

【真菜弧】
「呪呪呪呪呪呪呪……」

【明仁】
「寝るよ、寝れば良いんでしょ」

【真菜弧】
「添い寝は?」

【明仁】
「いらない!」







〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜