【脇役舞台】 奇跡とは、絶対に起きないから奇跡と云う。 しかし、絶対におきないことが起きてしまった時も、同じように奇跡と云う。 かたや起きないかたや起きる、全く正反対の結果でありながら表現する言葉は同じ。 これには矛盾が生じていないだろうか? しかし、人は簡単に『奇跡』と云う一言でまとめてしまう。 浅はかというか、なんと云うか…… そもそも、奇跡と云うものを信じる人がまず少ない。 それは大概前者の考えを皆が持っているからであり、僕もずっとそう思って生きてきた。 だけど、もうそれなりの年数を生きた僕の定義も、あの日の出来事で全て書き換えられてしまった。 奇跡は、存在する…… …… 【明仁】 「……」 【真菜弧】 「それ」 ぺチン さっきからずっと一定の間隔で、僕の頭に丸めたノート用紙が飛んでくる。 ぽすんとぶつかり、一定の間を空けて再び僕の頭めがけて飛んでくる。 【真菜弧】 「よっ」 ぺチン 【真菜弧】 「えい」 ぺチン 当たっても所詮はノート、痛みなんてこれっぽっちもない。 【真菜弧】 「むぅ」 ぺチン 後ろで小さな唸り声、何気無く作業を続けていた少女から抗議の意思が表れた。 【真菜弧】 「ねえ、てんちゃーん」 【明仁】 「何?」 【真菜弧】 「つーまーんーなーいー」 僕のベッドの上で少女は片肘をつき、少しむくれた顔で僕に意見を述べる。 【明仁】 「つまんないって云われてもさ、僕は今勉強中だし」 【真菜弧】 「勉強しながらでも私の話くらい聞けるんじゃないの?」 【明仁】 「聞けるには聞けるけど、受け答えは出来ないよ」 【真菜弧】 「それじゃあ聞いてないのと同じだよぉ」 真菜弧が指をちょいと動かすと、床に落ちていた丸めたノート用紙がふわりと浮かび上がる。 再び指をちょいと動かすと、浮いていたノート用紙は僕の鼻めがけてペシンと当たった。 【明仁】 「いた」 【真菜弧】 「つーまーんーなーいーよー」 ベッドの上をコロコロと転がり、今の自分の近況を視覚で教えてくれた。 つまらないから私の相手をしてくれ、つまりはそういうことだ。 【明仁】 「そう云われてもねえ、僕ももうすぐ卒業試験だよ あんまりうかうかしてると、最後の最後でご破算になっちゃうし」 【真菜弧】 「勉強なんてしなくてもてんちゃん頭良いじゃないか、学校の成績だっていっつも10番以内に入ってるし」 【明仁】 「あのね、僕だって何もしなければ10番以内にはいることなんて出来ないよ なるべく忘れないようにこまめに勉強してるから、それなりの順位を貰ってるんだと思うけど?」 【真菜弧】 「勉強なんて赤点じゃきなゃ良いじゃない、私なんていっつもそうだったよ」 【明仁】 「僕やゆゆちゃんが手伝わなかったら毎回赤点だったよね?」 授業中は基本的に眠っているか上の空だった真菜弧は当然授業が頭に入っていない。 というわけで、いっつもテスト直前になって泣きついてきていた。 【真菜弧】 「いらんこと云うな!」 ベシン! 【明仁】 「いた!」 またノート用紙かと思ったら、よりによって枕だった。 まだおろしたてだから首は痛めなかったけど、鼻の頭が少しだけ痛い。 【真菜弧】 「あんまり過去にこだわるのは良くないよ、いくら考えたり念じたりしたって過去には戻れないんだから」 過去には戻れない、それは誰も口にはしないけど絶対に出来ない暗黙の常識。 だけどもし神様が一度だけ過去に戻してくれるというのなら、僕はいつに戻るのだろうか? 色々な場面が思い出されるけど……やっぱりあの日、真菜弧が亡くなったあの日だろうな。 あの日にもし戻れたなら、僕は真菜弧に外出しないようにと告げることだろう。 歴史を変えてしまったとしても、そのせいで僕自身になにか枷がついてまわったとしてもそんなことは小さなこと。 生きていると死んでいるの違いはあまりにも大きすぎるから…… 【明仁】 「……」 【真菜弧】 「おーい、てんちゃーん、聞いてるー? 聞こえてたらうんって云ってよー」 【明仁】 「……うん」 【真菜弧】 「はい決定、それじゃあ今日はこの辺にして寝よー♪」 【明仁】 「は? なんで、まだ勉強終ってないし」 【真菜弧】 「さっきうんって云ったじゃん、後は明日にしてたまには早く休んだらって」 そんなこと云ってたの、意識が飛んでたせいでまったく聞いてなかった。 【真菜弧】 「まさか嫌とは云わないよね、うんて云ったもんね」 ベッドの上で頬杖をついて飛びっきりの笑顔、この笑顔をされた時は基本的に逆らわない方が良い。 まだ少しやるところは残っていたんだけど、真菜弧にもああ云ってしまたのでページにフセを入れて教科書を閉じた。 【明仁】 「電気消すよ」 【真菜弧】 「良いよー」 僕がスイッチに手をかけると、真菜弧はベッドの上からふよふよと浮上して適当な位置で体を横たえる。 最近はもう驚かないけど、どうしてあんな何もないところに床でもあるみたいに寝転べるんだろうな。 幽霊でもない僕にはいくら考えてもわかるはずない、無理に考えるのも止めて電気のスイッチを切った。 暗くなったことで真菜弧の姿は闇に溶け込んで見えなくなる、布団にもぐりこんで真菜弧のいるあたりに目を凝らしてみたけど、やっぱり見えない。 なんだか酷くもの悲しいこの感じ…… もう一ヶ月も経つというのに、僕はいまだに信じ切れておらず、今でもこの悲しさに怯えているのかもしれない。 …… 【真菜弧】 「ふあぁぁぁ……」 僕の肩に腰を下ろした真菜弧が盛大に欠伸をする、誰にも見えていないと思って口元を手で押さえようともしない。 幽霊でも一応女の子なんだしさ、他には見えてなくても僕には見えてるんだから少しは恥らおうよ。 【明仁】 「幽霊は眠くなることもなければお腹も空かない、最初はそんなこと云ってたけど、嘘なの?」 【真菜弧】 「嘘じゃないよ、起きていようと思えばずーっと起きていられるし、別に何か食べなくても死なないよ」 【明仁】 「それじゃあなんで欠伸なんかしてるのさ?」 【真菜弧】 「それはだねえ、てんちゃんと私にとっての眠るということそのものがまず違うからだよ てんちゃんは生きてる人間だから身体の中でエネルギーが使われて、エネルギーが無くなると補給するために体が休養を求めてくる。 だけど私は死んでる幽霊、体にエネルギーも無ければ補給する必要もない、だから眠る必要は無いわけだよ、というよりは眠れないって云った方が良いかな」 【明仁】 「眠れない? あんなに気持ち良さそうに眠っているのに?」 【真菜弧】 「てんちゃんには眠っているように見えるかもしれないけど、私は眠っているんじゃないんだよ。 あれは活動を停止させている、私がああなっている時は私の全てが止まっているの、時間も、息遣いも、他のも全部ね。 で、停止させているのを覚醒させるとてんちゃんの世界で云う起きるに繋がるわけ、あんだすたん?」 おわかりかな? って感じに指を軽く振る、お得意の完全な日本語発音の英語も加わっている。 【明仁】 「わかったような、わからないような」 【真菜弧】 「だろうね、こればっかりはいくらてんちゃんでもわからないと思うよ、私みたいなこんな状態になってみないとね」 【明仁】 「真菜弧、前から聞きたかったんだけど……」 【真菜弧】 「何? スリーサイズと初体験以外なら何でも答えてあげるよ」 クシクシと楽しげに笑う、僕が絶対にそんなことを聞かないのをわかってそう云ったな。 【明仁】 「真菜弧は……スリーサイズいくつなの?」 【真菜弧】 「えぇ?!」 予想外の答えに素っ頓狂な声を上げ、驚きに眼を丸くしたまましばらく機能が完全に停止して。 僕が絶対に聞かないと思ったら大間違いだよ、いつまでも真菜弧のペースには…… 【真菜弧】 「上から85、56の……」 【明仁】 「わわ! 云わなくて良いから!」 【真菜弧】 「聞かせろって云い出したのはどっちだったかねぇ?」 僕がちょっとでも予想外の行動をしようものなら、真菜弧はそれを先に予測して行動に移している。 今回も完全に僕の負け、僕はいつまで彼女の足元でチョコチョコと足掻かないといけないのだろう。 【真菜弧】 「しかしあれだね、今年はいつもに比べて雪が多いね」 【明仁】 「確かに最近の中では多いほうかもね」 【真菜弧】 「……全部、なくなっていくみたい」 【明仁】 「真菜弧?」 いつもの真菜弧には似つかわしくない、少し暗めのトーンが非常に耳に残る。 視線はどこを捉えているのかはわからないけど、白い雪化粧に彩られたこの世界のどこかを見ているのは確か。 今まで雪は何度も見ているはずなのに、今見ている世界は全く違う世界でも見ているようで…… 【ゆゆ】 「お早うございます、あっくん」 【明仁】 「あ、お早う」 いつもならゆゆちゃんが来るとすぐに僕の肩から降りて僕の横に並んだのに 今日はまだゆゆちゃんにさえ気づいていない素振りでずっと雪景色を眺めていた。 【ゆゆ】 「あと一週間で学年末テストですね、これで最後だと思うとテストも結構名残惜しい気もしますね」 【明仁】 「うぅん、どうだろう? ここでつまづくと全部駄目になるからいつも以上に勉強しないといけないから少し嫌だけどね」 【ゆゆ】 「そんなことを云いますけど、あっくんなら大した問題ではないんじゃないですか? あまり余裕のない私は今日からあっくんの部屋で勉強を教えてもらいたいのですが……」 【明仁】 「勉強会の話ね、良いよ、今日から始めようか」 【ゆゆ】 「はい」 …… 【河相】 「やれやれ、この寒いのに体を動かしたら関節が痛みますね」 【明仁】 「僕たちまだそんなにやわな体にはなっていないと思うんだけど」 【河相】 「身体の衰えなんていつどこでどこまで進んでいるのかなんてわかりませんよ。 もしかしたら、明日になったら私の足が動かないなんてこともありえますからね」 昼休みは珍しく河相君と一緒に学食での食事だった、珍しく弁当を作るのを忘れてしまったから。 【河相】 「そういえば、明仁君先日入試を受けたみたいだけど、結果はもう出たんですか?」 【明仁】 「それがもうちょっと先でさ、たぶん学年末テストが終ってからじゃないかなあって」 【河相】 「随分と遅いね、もしそこを落ちてしまったらもう取り返しがつかないのでは?」 【明仁】 「……ぅ、うん。 浪人、かもね」 かもじゃなくて絶対にだと思う、この時期に入試をやるなんてあそこくらいなもんだよ。 【河相】 「ま、明仁君なら特に問題もないと思いますがね」 【明仁】 「もぅ、どうして皆そうやって僕を過大評価するんだろう? 僕だって何もしないでテストで良い点なんて取れるわけないのに」 【河相】 「ははは、その努力を見せないところが明仁君らしいですよ。 ふぅ、昼ご飯もこの辺にして、私は用事がありますのでこれで」 軽く手を上げて河相君は足早に食堂を後にする。 河相君が戻ったことで僕の周りには誰もいない、と周りには見えているものの。 僕の正面席では両手で頬杖をついた真菜弧がつまらなそうに僕の食事風景を眺めていた。 【真菜弧】 「どうせ浪人なんてしないんだから、もっと自信持ってふんぞり返れば良いのに」 【明仁】 「そうは云うけどさ、この世に絶対なんてないわけであって」 【真菜弧】 「それもそっか、私の存在だって本来なら絶対にありえないことだしね、こりゃ失念」 【明仁】 「僕のことよりもさ、真菜弧のほうはどうなの? 成仏って云って良いのかわからないけど、何か進展ないの?」 【真菜弧】 「なんにも、戻り方以前になんでこうなっているのかさえさっぱりだもの。 こういうことに詳しい知り合いもいないし、一体どうなるのかねぇ」 あきらかに一番大変な状況にいるのは自分だというのに、当の本人は全くの他人事。 最近じゃ戻ることなんてさっぱり考えていないような節まで見えてきているし。 だけど、このまま放っておいて良いものなのだろうか? 【真菜弧】 「お、お昼ご飯終ったね、それじゃ教室に戻ろっか」 ふわりと空中で一回転を加え、いつもの指定席である肩に腰を下ろす。 【真菜弧】 「あたしがてんちゃんに憑いてそろそろ一ヶ月だね、この一ヶ月あっという間だったよ」 【明仁】 「真菜弧って憑いてたんだ……ということはもしかして僕は」 【真菜弧】 「呪われてるね、あたしに」 いや、その………そんなあっけらかんとした笑顔で云われても、さっぱり実感わかないなあ。 【明仁】 「僕死んだりしないよね?」 【真菜弧】 「それは大丈夫、あたしが憑いてるんだから守ってあげるわよ」 呪ってる人にそんなこと云われても、はぁ、なんだかこの先が凄い不安だよ…… 【ゆゆ】 「……わ!」 【明仁】 「うわ!」 【真菜弧】 「ひやぅ!!」 【ゆゆ】 「ふふ、驚きましたか?」 【明仁】 「ゆゆちゃん、もう、驚かさないでよ」 後ろからの急な大声に心臓が停止するところだった、そして僕以上に肩の上の真菜弧ははぁはぁと大きく肩で息をしていた。 死んでいるから息をしてはいないのかもしれないけど、とりあえずそんなふうに見えた。 【真菜弧】 「る、ルナー!!!!!」 【明仁】 「ぅわ!」 【真菜弧】 「あたしがそういうのに弱いことを知っててわざとやったな! チャンスがあったら絶対に呪ってやるんだからー!!!!!」 【明仁】 「ちょ、落ち着いて……」 大きな音にすこぶる弱い真菜弧はギャーギャーと今にも飛び掛りそうな勢いで怒っているのだけど。 それは当然ゆゆちゃんには見えていないわけで…… 【ゆゆ】 「……あっくん、頭とかおかしくなってませんよね?」 【明仁】 「へ、ぁ、うん。 何も気にしないで」 【真菜弧】 「くぅぉらぁあ! あたしの怒りはまだ終ってないんだぞ!」 【ゆゆ】 「今日の勉強会のことなんですけど、学校が終わったらすぐに伺っても良いですか?」 【明仁】 「僕はいつでも、ゆゆちゃんの時間が空いたときに来てもらえれば」 頭の上で怒りの全く沈下しない真菜弧の怒鳴り声に耳を痛くしながらも、ゆゆちゃんもいる手前平常心を保たないといけない。 これが結構神経を使う、なんせ真菜弧も構ってあげないと家に戻ってから拗ねるんだもん…… 【ゆゆ】 「わかりました、それじゃあ今日は一緒に帰りませんか? 最近朝は同じでしたけど、帰りはばらばらになることも多かったですから」 【明仁】 「うん」 【ゆゆ】 「決まりですね、では放課後までの残りの時間頑張りましょうね」 【真菜弧】 「あ、ちょっと待て! まだあたしの怒りは治まってないんだぞ!」 【明仁】 「そんないつまでも怒らないでも」 【真菜弧】 「んだとぅ? てんちゃんはあたしがあのまま成仏しちゃっても良かったって云うのか!」 【明仁】 「成仏できるのならそれにこしたことはないんじゃないの?」 【真菜弧】 「良くない! あたしはまだルナに何の悪戯もしてないのにそう簡単に成仏なんて出来るか!」 【明仁】 「悪戯なんてしないでよ……」 【真菜弧】 「ふっふっふ……今日てんちゃんの部屋に来ることを後悔させて上げるわ!」 あぁもう、こんなになっちゃったらもう何云っても止まらないよ。 ゆゆちゃんに何も起こらなければ良いんだけど、きっと何かしでかすんだろうな…… …… 【明仁】 「良い? くれぐれも怖がらせたり怒って帰ったりさせることはしないこと、わかった?」 【真菜弧】 「あー、うんー」 絶対にわかってない、この顔とこの声の軽さを見ていればわかる。 最低でも二つは悪戯をしないと気の済まなそうな顔をしている、はぁ、僕にフォローできるかな。 【真菜弧】 「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ、あたしの悪戯は軽いから」 確かに軽いことが多いけどさ、それ以上に質が悪いことも多い。 僕の場合はよく背中に雪を入れられる定番を何度も何度もやられたっけ。 ゆゆちゃんの場合は……あぁ、うん、女の子同士だからきっと許されるんだろうけどね。 【ゆゆ】 「こんにちはー」 【真菜弧】 「主役のご登場だよ、ほら、迎えにいってあげなきゃ」 さあさあと僕を送り出そうとする仕草、これがもう悪戯の複線なんだろう。 【明仁】 「寒かったでしょ、上がって」 【ゆゆ】 「はい、お邪魔します」 ゆゆちゃんが先に部屋に入り、続いて僕が入ったんだけど……真菜弧がいない。 さあ一体何をしてくれるのか? と僕が考える暇もなく、真菜弧はいきなり下から現れてそのまま後ろ向きのゆゆちゃんのお尻に手を伸ばした。 【ゆゆ】 「ひゃ!」 突然の感触に慌ててお尻を押さえ、僕のほうを振り返ってむぅっと怒った目を向ける。 真菜弧のやつ、よりによって一番フォローの出来ない悪戯をしてくれたよ…… ゆゆちゃんにはこの部屋にいるのは自分と僕しかいないわけで、必然的に犯人は僕と。 【ゆゆ】 「むぅ、あっくん」 【明仁】 「な、何……?」 【ゆゆ】 「今触りましたね?」 【明仁】 「な、何、を……?」 【ゆゆ】 「惚けたってダメです、私とあっくんしかいないんですから知らないは通らないです」 【明仁】 「ぁ、えぇっと……ご、ごめん」 なんとも理不尽な、これでは僕が謝る以外乗り切る手が無いじゃないか。 ゆゆちゃんには真菜弧が見えない、だけど僕には真菜弧が見える。 だからといって僕がここに真菜弧がいると云っても見えないゆゆちゃんは信用するわけもなく、男らしくないと僕は責められる。 完全な冤罪なのに、ここはやりましたって云わない限り絶対にゆゆちゃんは怒って帰ってしまうだろう ……まあ、触ったって認めても結局は僕が怒られることになるのだろうけど。 【ゆゆ】 「あっくんがこんなことするなんて少し驚きです、ちょっと予想外でした」 【明仁】 「怒ってないの?」 【ゆゆ】 「勿論怒ってますよ、お尻を触られて喜ぶような女じゃないですから」 【明仁】 「だ、だよね……」 【ゆゆ】 「これは訴えたら勝てますよね」 それはもう100%勝つでしょう、いくら僕が真菜弧の存在を主張して……ってえぇ! 裁判なの!? 【明仁】 「ちょ、ちょっと落ち着こうよ。 裁判って凄いお金もかかるし時間もかかるし」 【真菜弧】 「くしくし、てんちゃんってば大焦りだね」 【明仁】 「くうぅぅ……」 現状をあきらかに楽しんでいる真菜弧は口元にニイッと頭にくる笑みを漏らしていた。 元凶は全て真菜弧であって僕は悪くないのに、それで裁判で有罪はさすがに納得できないよ。 【明仁】 「と、とりあえず穏便に話を進めた方が僕は良いと思うんだけど」 【ゆゆ】 「…………くす」 怒り顔だったゆゆちゃんの表情が突然崩れ、楽しげにクスクスと口元に笑みを作っていた。 【ゆゆ】 「あっくんってば、焦りすぎですよ。 確かにお尻を触ったことは怒っていますけど そんな裁判まで行くような話じゃないじゃないですか」 【明仁】 「あ、そ、そう……良かった」 ほっと一安心、真菜弧はつーまーんーなーいーとか云ってるけど、無視無視。 【ゆゆ】 「それに注意を怠った私にも問題ありです。 最近全くそんなことを注意する必要がありませんでしたから……」 【明仁】 「ゆゆちゃん?」 【ゆゆ】 「ぁ、いえ……今回は許してあげますけど、今度やったらもっと怒りますからね」 【明仁】 「もうしないよ、ね?」 【真菜弧】 「てんちゃんが牢獄生活になっても困るから、お触りはこれでお終いだよ」 とても満足げな顔でふわりと宙を舞い、普段の定位置であるベッドの上ではなく、テーブルの脇へとその身を沈めた。 【ゆゆ】 「さ、そろそろ始めましょうか。 私が来たのは勉強をするのが目的なんですから」 …… 【ゆゆ】 「……」 【明仁】 「……」 とても静かな世界、ノートを捲る音とシャープペンシルを走らせる音だけが小さく響いている。 僕もゆゆちゃんも広げた教科書とにらめっこをしながら自分のペースで進んで行く。 今までこんな静かな勉強会なんてあっただろうか? 僕の記憶に間違いがなければこんな静かな勉強会は今日が始めて いつもとは違う空気にゆゆちゃんも少しだけぎこちなさそうにしているのがなんとなくわかる。 【明仁】 「なんだか、静かだね」 【ゆゆ】 「そうですね……」 なんだか久しぶりに聞いたような錯覚を覚える、それくらい長い間、実際には大した時間ではないのだけど 二人の会話が久しぶりなように聞こえてしまった。 【ゆゆ】 「なんだろう……静かな方がはかどるはずなんですけど」 【明仁】 「あんまり進んでないみたいだね」 【ゆゆ】 「はい……」 シャープペンシルを置き、眼を瞑って小さくハァッと息を吐く。 普段のゆゆちゃんなら勉強中に溜め息をつくことなんてなかったのだけど…… 【ゆゆ】 「私たち二人だと、静か過ぎますね……」 【明仁】 「……うん」 本来この勉強会は二人でしていたことじゃない、僕とゆゆちゃんは云ってみればサポート役。 この勉強会の主役は真菜弧だった、その主役がいないだけでこんなにも空気が変わるなんて。 【ゆゆ】 「真菜弧ちゃんがいないだけで、私たちには会話もなくなるんですね……」 真菜弧もいたときはとにかく煩く、騒がしい勉強会だった。 わからないとか疲れたとかグチグチと文句を云う真菜弧に、僕たちは赤点を回避してもらうために必死だったっけ。 騒がしかった、確かに騒がしかったのだけど、それでも僕たちはあの環境を楽しんでいた。 とても勉強をするのに向いた環境とはいえないけど、僕たちにとってはあれ以上やりやすい環境も無かったな。 【真菜弧】 「かぁー……くぅー……」 その騒がしさの元は机に突っ伏し、口元に僅かに涎をたらしながら気持ち良さそうに眠っていた。 幽霊になった今でも昔と前と全く同じ、まさか幽霊になってまで同じ姿を見ることになるなんてね。 この勉強会も、中心にいたのはいつでも真菜弧。 彼女がいたからこそこの勉強会は成り立ち、僕たちも楽しみながらできていたんだと思う。 勉強の途中で耐え切れずに眠ってしまう真菜弧の寝顔を見ながら、二人で笑っていたのも良い想い出の一つ。 それが当たり前だった、幼馴染の僕たち三人にはそんなことが当たり前だったんだ…… 【ゆゆ】 「やっぱりダメですね、私たち二人では目的意識が低くなってしまって……」 【明仁】 「真菜弧が、いないからね……」 実際にはいるのだけど、本人は涎をたらしながらいまだに夢の中。 起きていたら起きていたで煩いのだけど今回はこのまま寝てくれている方が良いかな。 【ゆゆ】 「……ごめんなさい、やっぱり私が少し浅はかでしたね。 こんなことをしてもお互いに辛くなるだけだたのに」 【明仁】 「そんなこと……」 【ゆゆ】 「私、帰りますね……」 【明仁】 「待って、別に帰らなくても。 それに真菜弧のことはもう過ぎたことだよ」 【ゆゆ】 「だったらなおさらですよ、こんな時期だからこそ本当はこんなことをしちゃいけなかったんです。 真菜弧ちゃんがいない、それでは意味がないんですから」 僕の静止など聞かず、いそいそとゆゆちゃんは帰り支度を終えて立ち上がる。 きっとゆゆちゃんは前のように勉強会をやることで、僕が真菜弧のいない辛さを思い出すと思ってしまったのだろう。 真菜弧の喪失、それによって僕が受けた傷はあまりにも深かったから。 自分を見失ってしまうほどに深く、抜けだせない泥沼にはまってしまっていたあの頃の僕。 だけど、そんなことはもう過去のこと、もう終わった話でしかないよ。 【明仁】 「ゆゆちゃん、待って」 【ゆゆ】 「ぁ……」 足早に立ち去ろうとするゆゆちゃんの腕を掴む、もしそんなことでゆゆちゃんが悩むのならそれは間違っている。 そんな悩みを持つ必要はない、それを伝えたかったのだけど。 【明仁】 「へ……?」 【ゆゆ】 「わ、わわ!」 腕を掴んだだけのつもりだったんだけど、思いのほかゆゆちゃんの体が軽くて。 バランスの崩れたゆゆちゃんの体が僕に覆い被さってくる、僕自身も突然のことに体には力が入らず、そのまま後ろのベッドへと…… ボスン 【ゆゆ】 「あっくん、だいじょう……ぶ……」 倒れたのがベッドだったから特別痛くもないし、ゆゆちゃんも軽いから何の問題もないのだけ……ど! 【ゆゆ】 「ぁ……ぅ」 【明仁】 「……」 偶然の事故とはいえ僕はベッドに押し倒され、そんな僕を覗き込むゆゆちゃんが僕の上にいる。 まるで……のようなこの恰好。 もう十何年もの間幼馴染と接してきたけれど、ここまで二人の顔が近付いたことなんてなかった。 昔から大人しい子で、どちらかというと可愛らしい顔をしていた幼馴染のはずだったんだけど 今はもう可愛らしいだけではない、歳相応の魅力的な表情が入り混じったとても不思議なもので…… しばらく僕たちの思考は停止し、ほぼ同時に同じリアクションへと移っていった。 【ゆゆ】 「ひゃ、ひゃぁ!」 【明仁】 「わわ!」 驚いてお互いに距離をとる、今になって心臓が奇妙なノックを奏ではじめてきた。 ゆゆちゃんの顔には恥ずかしさからなのか驚きからなのかはわからないけど、誰が見てもわかるほど紅く紅潮を始めていた。 きっと僕もゆゆちゃんと同じで顔真っ赤になってるんだろうな。 【ゆゆ】 「あ、あの……その」 【明仁】 「ぁ、ご、ごめん!」 【ゆゆ】 「ぁ、いえ、私も謝られても」 お互いに出方を伺う進展の薄いキャッチボール、気まずい雰囲気に入りそうだったのが一気に気恥ずかしいもっと嫌な空気になってしまったよ。 こんなときはなんて云えば良いんだ…… 【真菜弧】 「可愛くなったねって、云ってご覧」 【明仁】 「か、可愛くなったね」 【ゆゆ】 「ぇ、えぇ!」 云ってからしまったと思った、何を云おうか悩んでいるときに急に聞こえてきたからそのまま云っちゃったけど よりによって助言をくれたのが真菜弧じゃないか。 いつの間にか目覚めていた彼女は僕の首に巻きつきながら、クシクシとしてやったりの顔をしていた。 【ゆゆ】 「そ、そんなこと急に云われても……」 【真菜弧】 「ほぉらね、ルナってば赤くなったよ。 初心だねぇ」 【明仁】 「僕だって恥ずかしいよ……」 【真菜弧】 「あらあら、この歳でその反応ってばなんだかなぁ。 いよいよのときにこれじゃあどうなることやら」 やれやれといった感じに僕とゆゆちゃんの反応に呆れ返っている、いよいよってなんなのさ? 【真菜弧】 「ほらぁ、早く声かけてあげなくちゃダメじゃないか。 男の子は常に紳士的に、いつだって女の子をエスコートできるようになっておかないと後で慌てるよ。 さ、ベッドは私の指定席だからどいたどいた」 僕の首を離れてベッドに寝転がり、両手で頬杖をついて早くしろと眼で合図を送る。 【明仁】 「ゆゆちゃん、とりあえず……座ろうか」 【ゆゆ】 「は、はい……」 【真菜弧】 「後はご自由にどうぞ、私がいるとか気にしないで良いからね」 【ゆゆ】 「あ、あの……さっきのことって、本当ですか?」 【明仁】 「さっきっていうと」 【ゆゆ】 「わ、私がその、か、可愛いというのはあの……本心から、なんですか?」 ボン! と音でもしそうなくらい顔を赤く染め、視線を切るように下を向いてピンと肩を強張らせた。 可愛いか、さっきは真菜弧の声につられて云ってしまったけど、実際ゆゆちゃんは可愛らしい子だと思っている。 幼馴染ということもあり、ほぼ毎日のように見ている顔だから顔の変化はあまりよくわからないけど 実際一年前と比べたら顔も大人っぽくなり、幼さよりも凛々しさの方が際立っていることは間違いない。 そんなゆゆちゃんとは対照的に、ベッドの上の同居人は昔からほとんど変化のないまま今に至ってるわけだけど。 【明仁】 「うん、前からそう思ってたよ、口にしたのは今回が初めてかもしれないけど」 【ゆゆ】 「初めてですよ、あんな不意打ちのように云わなくても……」 【明仁】 「じゃあ、面と向かってもう一回云おうか?」 【ゆゆ】 「も、もう十分ですよ……それに、私の方がもたなくなりそうですし」 ボソボソと僕には聞こえないように声のトーンを絞ったのだろう、何を云っているのかはわからなかったけど なんだか少しだけ声が弾んでいるような感じがする。 【明仁】 「まだ時間もあるし、勉強再開しようよ」 【ゆゆ】 「……そうですね、ごめんなさい私のわがままで止めようなんて云ってしまって」 【真菜弧】 「ごゆっくりどうぞー」 …… 【ゆゆ】 「今日は付き合ってもらってありがとうございました」 【明仁】 「どういたしまして」 【ゆゆ】 「あの、こんなこと云って良いのかわからないんですけど……明日もまた、付き合っていただけませんか?」 【明仁】 「ゆゆちゃんの時間があるんだったらどうぞ、どうせ僕は部屋にしかいないだろうしね」 【ゆゆ】 「それじゃあまた明日もお願いします、今日はありがとうございました、お休みなさい」 【明仁】 「うん、お休み」 まだとてもお休みという時間じゃないのだけどね。 【真菜弧】 「ルナも案外やるもんだね、まさかてんちゃんをベッドに押し倒すなんて。 起きていきなり本番中だったらどうしようかと思ったよ、てんちゃんも少しはまずい想像したんじゃないの?」 【明仁】 「うん、ゆゆちゃんが頭打たなくて良かったよ」 【真菜弧】 「……そうじゃないだろ!」 【明仁】 「うわ! 大声出さないでよ」 【真菜弧】 「この鈍感てんちゃんめ、もしこのまま何も変わらなかったら呪い殺すからね!」 【明仁】 「ちょ、ちょっと、何怒ってるの?」 【真菜弧】 「うっさい! 子供はお風呂入ってさっさと寝る、わかった!」 【明仁】 「ぁ、行っちゃった……もう、何怒ってるんだか」 僕の肩から天井を抜けてどこかへ行ってしまう、きっと屋上にでも行ってるのだろうけど。 ……放っておいても風邪引かないから良いか、死人に医者要らずとか云ってたし。 【明仁】 「はぁ……真菜弧がいなくても、勉強会ってできちゃうんだな」 真菜弧が主役の勉強会、本来なら主役がいなければ成り立たないものも時間は成り立ててくれる。 真菜弧を失っても僕たちは勉強を行い、また明日も勉強会が行なわれる。 今までそこにいた人が居なくても物事は進んでしまう。 この勉強会はもう真菜弧を必要としない、そう考えると不意に寂しさが小さく湧き上がってくる。 【明仁】 「あいつ、いつまで僕のところにいてくれるんだろう……?」 最近になってふと思う、何故真菜弧は僕にしか見えないのだろうか? と……