【予想外のテストと壁と謎】



【箱根】
「あうぅぅ……」

頭の中で色んな数式がゴチャゴチャになって理解不能な怪式に変わってくる。
これじゃあ何一つ意味を持たないし、何一つ問題が解けないよ……

【音々】
「どうぞ、はかどってますか?」

【箱根】
「はかどってる、とはとてもじゃないけど云えないですね……」

参考書と教科書を広げて見比べてはいるものの、いまいち理解できずにいる。
昔から調べ物の類は得意ではなかったけど、得意ではない以上に頭がついていけないみたい。

【音々】
「あまり文章ばかり見続けていても疲れてしまいますよ。
紅茶でも飲んで気分を変えてみてはどうですか?」

【箱根】
「そうですね、いただきます……」

シャープペンを置き、姫崎先輩が淹れてくれた紅茶に口を付けた。
カモミールの紅茶に僅かだけどお酒の香りがする。

【音々】
「カモミールティーですから、多少なりともリラックスできると思うんですが、いかがですか?」

【箱根】
「飲んでいる間は勉強のことなんて忘れてしまいそうです。
逆に眠くなってしまうかも……」

【音々】
「本来就寝前に飲むのが良いお茶ですからね。
でも、驚かれたんじゃないですか? 入学していきなり試験があるなんて」

【箱根】
「中間試験の前に大きな試験があるのはちょっと予想外でした……」

月代に入学してもうすぐ3週間といったところ、少しずつ学園付近のこともわかり始め
ようやく一人暮らしにも抵抗が弱まってきたところなのに……

慌しく試験があるなんて本当に予想外だった。

【音々】
「月代に通っている私が云うのもなんなのですが、月代の勉強は少しレベルが高いですから。
まだ入学したばかりの箱根ちゃんには追い付けないことも多々あると思うのですが、どうですか?」

【箱根】
「見事に置いて行かれてます……」

【音々】
「ほとんどの学生さんが初年次の最初のテストでは躓いてしまうんですよ、私もその一人でしたから」

【箱根】
「え、姫崎先輩でも躓くことあったんですか?」

【音々】
「勿論です、これでも多少は勉強が出来る方だとは思っていましたけど学園はそれ以上を望んでいましたから。
ですから改めて勉強のやり方を見直して、月代のレベルの高さを実感するというわけなんですよ」

そんなカラクリがあったんだ、ようは生徒に勉強せよという起爆剤みたいなもんだね。

だけど、だけどさ。

それは勉強がある程度出来る人だから出来ることであって、私みたいなレベルが一段も二段も低い人には出来ないよ。

月代は私が全力で勉強しても合格ギリギリに入れば良しクラスの学園。
それを運よく入っちゃったもんだから、早くも難題が突きつけられてしまっている……

【音々】
「でも一番最初のテストですから、余程のことがない限り成績には反映されませんよ。
あれは現状のレベルを見ることが主だったりしますので、悪かったから即落第の危機ということにはなりませんよ」

【箱根】
「とは云われても、やっぱり少しでも良い方が良いじゃないですか。
私としても、先生方にしても」

【音々】
「それは勿論そうですね」

【箱根】
「そうですよね、やっぱりそれはそうですよね……」

先生たちだってそれほど高水準の平均点が出るとは思っていないとしても
やはりどこかではそうであって欲しいと願っているわけで。

やっぱり、出来る限りのことはしなくちゃ!

【カホル】
「ふぅー……」

【音々】
「お疲れ様です、絵画制作の方ははかどってますか?」

【カホル】
「第一工程終了ってとこね、お茶貰えるかしら」

【音々】
「はい」

【カホル】
「どう、月代のお勉強は。 レベル高いでしょ?」

カホルさんは紅茶をくいっと飲み、指を意味もなく遊ばせながらたずねてきた。

【カホル】
「私の時も難しかったけど、今はさらに難しくなったんじゃないかしら?」

【箱根】
「へ、カホルさんも月代の出身なんですか?」

【カホル】
「まあね。 おっと、これは音々にも話していないことだったわね」

【音々】
「初耳ですよ、どうして黙ってたんですか?」

【カホル】
「黙ってたつもりはないわよ、これといって云わなくても良いことでしょ。
あまり過去を明かすのは好きじゃないからね。
それよりも、音々は勉強しなくて良いのかしら? 二年次もテストあったわよね?」

【音々】
「一応対策はとれてますから、今日は初めての箱根ちゃんのお手伝いをしようと思いまして」

【カホル】
「音々は頭良いからお手伝いにはちょうど良いかもね。
箱根ちゃん、音々に教わって成績悪かったら教えてね。 その際はちょっと怒ってあげるから」

【音々】
「うぅ、そういうのはズルいと思います」

【カホル】
「冗談よ、箱根ちゃん、たぶん音々も云ったと思うけどあんまり気にするようなテストじゃないからね。
重要なのはその結果からどう動き出すか、それを決めさせるテストなんだからね」

【箱根】
「が、頑張ります……」

逆にそう云われると力を抜こうにもどうやっても抜けないような気がするんですけど……
やっぱり私は小心者なんだな。

【音々】
「ちなみにですけど、カホルさんは最初のテスト結果はどうだったんですか?」

【カホル】
「私? 私は中の上だったかな。 まだ上に何百人といるから良い方ではないわね。
それに一番最初のテストにはいくつかトラップが用意してあるんだけど、ご存知?」

【箱根】
「そんなのあるんですか?」

【音々】
「それはちょっと私にも、なんなんですかそのトラップって?」

【カホル】
「本来なら絶対に習っていないであろう先の単元から問題が出てくることは優しい方。
酷い時は解答群に答えが無いってこともあるからね」

な、なんですかそれ……

【音々】
「だけどそれって、どう答えれば良いんですか?」

【カホル】
「解答群に無いんだから答えは何も書かない空白が正解なのよ。
だけど答えそのものを答えるのなら分らずに空白もありえるけど、解答群があればもしかしたらってこともあるから
何かしら書くでしょ? それがトラップになるわけよ」

【箱根】
「意地悪なテストなんですね」

【カホル】
「まあね、だから満点を取るなんてことは可能性から考えてもほぼゼロに近い。
とはいうもののそんなテストで満点を取った生徒も過去に一人だけいるのだけどね」

【箱根】
「……なんだか意味深な発言ですね」

【カホル】
「あら、わかっちゃった?」

【音々】
「誰なんですか、って聞いてもらいたそうですね」

【カホル】
「聞いてもらいたいほどじゃないけど、隠す必要もないことだから教えてあげるわ。
満点を取ったのはフィアよ」

【音々】
「由都美先輩なら、ない話ではないですね」

【カホル】
「でしょ。 蛇足情報になるけど、そのテストでは過去最低点を取った生徒もいるのよ」

【音々】
「話の流れから推測すると……満月先輩ですね?」

【カホル】
「ビンゴ。 満月の性格を知ってれば簡単な問題だったわね。
知りたくも無いかもしれないけど、過去最低点って何点なのか教えてあげようか?」

【箱根】
「遠慮しておきます……」

【音々】
「私もですね」

さすがに私も姫崎先輩も拒否反応を示す。
だって、なんだか聞くのが怖いんだもの……

【カホル】
「そう、残念ね。 んぅー、そろそろ作業に戻ろうかな。
二人とも、帰りたくなったらいつでも私に声かけてね」

【箱根】
「あ、でも良いんですか? 本当にお店お休みにしちゃっても」

【カホル】
「一日くらい問題ないわよ、スゥの看病もしてあげないといけないから
どっちみちお店は開けられないだろうしね、二人ともごゆっくり」

昨日、お仕事が終わってから体調が悪いと云っていた一二三さんだったけど
やっぱり風邪を引いてしまったらしい。
なので今日はお店お休み、そんなわけでこんな朝早くからカホルさんのお店で勉強をさせてもらっているわけだ。

だけど本当に良いのかなぁ、私一人が勉強するだけなのにお店丸ごと借りてしまって?

【音々】
「ちょっと意外でしたね」

【箱根】
「ぁ、ぇえと、何がですか?」

【音々】
「カホルさんが月代の生徒だということですよ。
当時のカホルさんを知りませんからなんとも云えないですけど、カホルさんにはちょっと硬すぎる
学園のように思ったんですけどね」

【箱根】
「硬すぎる、ですか?」

【音々】
「ええ、ああ見えてカホルさんはある意味満月先輩よりも自由な方ですから。
月代は校則も厳しいところが多いですから、カホルさんにはちょっと堅苦しいと思うのですが……」

【由都美】
「案外、そうでもない……」

【箱根】
「!」

【音々】
「ひゃ! ゆ、由都美先輩……脅かさないでくださいよ」

さっきまではいなかったはずの久山先輩が厨房の奥からスッと現れた。
一体いつの間に厨房に来ていたのだろう?

【音々】
「い、いつからいらしていたんですか?」

【由都美】
「カホルと入れ替わる感じで、気付かなかったの?」

【箱根】
「物音一つありませんでしたよ」

【由都美】
「煩いのは好きじゃない」

いや久山先輩、足音は煩いに分類しちゃダメですよ。

【由都美】
「驚かせたのならごめんなさい、だけどそれって私の影が薄いってことか?」

【音々】
「あぁいえ、そういうことではなくて。
そもそも意識的に物音を立てなかったのなら影が薄いということにはなりませんよ」

【由都美】
「そう……」

カチャカチャとカップの中でスプーンをまわし、紅茶に注いだミルクと紅茶を混ぜ合わせた。
その中に、テーブルに置かれたメープルシロップを入れて再びスプーンでカチャカチャ。

【由都美】
「美味しい……」

【音々】
「甘すぎないんですか?」

【由都美】
「これくらいがちょうど良い」

一度由都美先輩に作ってもらったお茶をご馳走になったけど、私にはちょっと甘かったかな。

【由都美】
「二人ともお勉強中?」

【箱根】
「ともではなく、私だけですね。
姫崎先輩と違って私には何をどう対策すれば良いかもわかりませんから」

【由都美】
「あのくだらないテストのこと? あれは成績にならないから気に病む必要ないのだけど。
満月みたいに適当にしろとは云えないけど、対策なんて不必要だよ」

【音々】
「由都美先輩がそれを云ってはいけないと思うのですが……」

【由都美】
「本当のことだから良いじゃない」

【箱根】
「でも、久山先輩は満点を取られたって聞きましたけど」

【由都美】
「何で知ってるの?」

【音々】
「先ほどカホルさんが教えてくれましたよ。
満月先輩が過去最低点を取ったっていうこともおまけで」

【由都美】
「おしゃべり……取るには取ったけど、何の意味もない数字をとっても嬉しくない」

例え成績にならなくても、満点を取ったってことは内心点は確実にもらえると思うんですけど。

【音々】
「ところで由都美先輩、さっきのはどういうことなんですか?」

【由都美】
「さっきの……?」

甘いミルクティーを飲みながら、久山先輩が首をかしげた。

【音々】
「私たちに声をかけたときのことですよ、案外そうでもないって云ったじゃないですか」

【由都美】
「あぁ、カホルのことね……さっきカホルには堅過ぎるって云ってたけど、それはちょっと間違い。
むしろその逆、堅いからこそカホルは楽しんでたみたい」

【音々】
「そうだったんですか?」

【由都美】
「カホルは満月みたいに堂々と校則を破って好き勝手やったことなかったみたい。
校則全てを守りながら、その上で自分のよりたいようにしてたらしい」

【音々】
「そうなんですか、ちょっと驚きですね。
ですが、校則さえ守っていれば好き放題やって良いというのも……」

【由都美】
「ええ、だから校則を守っている以上満月以上に性質が悪い。
当時のことなんて知らないけど、たぶんカホルは優等生でいて結構な問題児」

【箱根】
「あの、少し良いですか?」

【由都美】
「どうぞ……」

【箱根】
「久山先輩は、カホルさんとは長いお付き合いなんですか?
カホルさんが在学中のことまでご存知だなんて」

【由都美】
「長いといえば長い、もう指で数えられないくらいにはなるかも……」

【箱根】
「というと、10年以上のお付き合いということなんですか?」

【音々】
「もう、その云い方少し意地悪ですよ。 そんなこと当たり前なんですから。
箱根ちゃん、由都美先輩がカホルさんのことに詳しくてもなんら不思議ではないんですよ」

【箱根】
「どういうことですか?」

【音々】
「由都美先輩とカホルさんは従姉妹同士なんですよ。
ですから由都美先輩がカホルさんのことに詳しくても特に不思議はありません」

あ、そういうことなんだ。
ということはだ、久山先輩はカホルさんが隠している本名を知っているってことになるよね?

【箱根】
「……」

【由都美】
「カホルのこと、何か知りたい?」

【箱根】
「……教えてもらってもカホルさんが困らないことであれば、多少は」

本当は凄く興味があるけど、どうしても知らなければいけないことじゃないし。
第一カホルさんが隠した以上、他の人から聞くことは失礼千万だ。

【音々】
「私や満月先輩はもとより、たぶんそれに一二三さんよりも由都美先輩が
一番カホルさんのことを良く理解していると思いますよ」

【由都美】
「実のところ、そうでもなかっったりする。
一時期カホルと一切会えないことがあったの。 連絡も何一つ付かず、実家に連絡しても不在としか教えてもらえなかった」

【箱根】
「原因はなんだったんですか?」

【由都美】
「知らない……聞いてないし、特別知りたくも無い」

興味が無いと云わんばかりに残りの紅茶をあおり、すくっと音もなく立ち上がって厨房へと消えていった。

【由都美】
「お茶菓子、何か食べる?」

厨房から顔を覗かせ、両手に二種類の焼き菓子を見せてくれた。

【音々】
「それは?」

【由都美】
「さっきカホルがくれたの。
こっちがマカロンで、こっちがフィナンシェ」

【箱根】
「どちらも美味しそうですね、だけど勉強が一区切り付くまでは止めておきます」

【由都美】
「あんなの勉強しなくても良いのに……」

サクッと軽い音が小さく響き、マカロンを咥えて二杯目の紅茶を手に久山先輩が戻ってきた。

【由都美】
「スゥさんがお休みで仕事もないし、今日は私も箱根ちゃん専属の家庭教師になっちゃおうかな……」

【音々】
「由都美先輩が入られてしまうと、私がお役ごめんになってしまうのですが……」

【由都美】
「じゃあ音々の面倒も見てあげる。
ついでに部活動の方もちょっとやっておきたいし……」

うわぁ、先輩方二人に教えてもらえるなんて。
なんだか非常に贅沢をしている気分ですよ。

……

【カホル】
「やっぱり、三人ともまだいたのね」

腕を頭の後ろで組み、左右にぐいぐいと引っ張りながらカホルさんが現れた。

【カホル】
「フィアがいるからてっきりもう帰ったのかと思ってたけど」

【由都美】
「昔話に花を咲かせてた」

【カホル】
「昔話って、まだそんな昔話を語れるような歳じゃないでしょうに」

【由都美】
「私じゃなくて、カホルの……」

【カホル】
「あらあら、私のことをあれこれ云うと呪われるわよ?」

【由都美】
「私のことも少し喋ってたから、おあいこ」

うぅん、おあいこにしてはちょっとカホルさんの情報の方が多い気が……

【カホル】
「まぁ、あまり知られたくないことはフィアにも教えてないから
余程のことでもない限り何を教えても構いはしないのだけどね」

今度は手をプラプラと振り、肩をぐりぐりと右に回して左に回してストレッチ。
絵画制作というものを本気で取り組んだことの無い私にはどれほど神経を使うことかはわからないけど
きっとカホルさんのことだから張り詰めた糸の中で作業をしているのかな?

ぐうぅぅぅぅ……

【カホル】
「失礼、とはいってももうお昼の時間だからお腹が鳴っても問題ないか」

【箱根】
「ぇ、あ……」

カホルさんにそう云われてようやく気がついた、最後に時計を眺めたのが10時くらいだったのだが
今はもう12時を回っていた。

【カホル】
「三人とも、お昼の予定は何か決まってる?」

【由都美】
「何も……」

【音々】
「私も特に決めてはいませんね」

【箱根】
「あ、私もです」

【カホル】
「全員予定無しと、それじゃあ皆の分私が作ろうか。
スウが寝込んじゃってるからお昼は頼めないし、外に出かけて何食べるか考えるのも億劫でしょう?」

【音々】
「ありがたいお誘いではありますけど、急に三人分も増えたら負担がかかると思いますよ?
一二三さんのお食事も作る手間も考えると……」

【由都美】
「私は面倒だから食べてく……」

【音々】
「ぇ、そ、そんなぁ……それじゃあ私の発言に立場がなくなっちゃうじゃないですか……」

気遣いを見せた姫崎先輩だったけど、あっさり久山先輩が折れてしまったので
引っ込めるに引っ込め辛くなってしまったようだ。

【カホル】
「箱根ちゃんはどうする? 私のお昼、食べていく?」

【箱根】
「ぇ、えぇと……良いんですか?」

【カホル】
「じゃあ箱根ちゃんも決まりね、ということだから音々も意地張ってないで食べていきなさいな」

【音々】
「べ、別に意地を張っていたわけでは……」

【カホル】
「良し、申し訳ないけど好き嫌いを云われても面倒だから勝手に作るわよ。
もし嫌いな物にあたっても今日は我慢してね」

カホルさんは厨房の奥から腰から下を隠せるエプロンを持って来てまとい
腰の横で紐をぎゅっと縛りつけた。

まるでどこかの料亭の板前さんみたいなその佇まい、男性的な魅力が強いカホルさんには良く似合っている。

【カホル】
「さてと、ここだとお菓子作るくらいしか本格的な器具も無いし、私の家の方でくつろいでてもらえるかしら。
フィアが間取りは全部分ってるでしょうから、客間に二人を案内しておいてもらえるかしら?」

【由都美】
「了解…………何か手伝う?」

【カホル】
「結構よ。 お皿はただじゃないからね」

【由都美】
「むぅ、決め付けるの良くない……」

【箱根】
「ぁ、あの、私に手伝わせてもらえないですか?
カホルさん一人で四人分というのは、それにあの……」

言葉の最後を濁した私に何を感じたのか、カホルさんは考える素振りを一応見せ
にっと口元へ小さな笑みを浮かべていた。

【カホル】
「じゃあ、お願いしようかしら」

【箱根】
「はい!」

【由都美】
「理不尽…………」

【音々】
「まあまあ、私たちは大人しくお昼が出来るのを待ちましょうよ。
箱根ちゃん、もしお二人で手が足らなかったらすぐに呼んで下さいね」

【由都美】
「むぅ……」

まだ文句の云いたらなそうな久山先輩の背を押して、姫崎先輩はお店を出て行った。

【カホル】
「さて、邪魔者たちもいなくなったことだし、私たちも家に行きましょうか」

【箱根】
「あの、あ、ありがとうございます」

【カホル】
「ふふ、作ってあげたかったんでしょう? 二人に」

【箱根】
「……はい」

先輩たちにはお世話になったのに、私だけ何もしないのでは都合が良すぎる。
だからと行って私が出来ることなんてたかが知れてるし……

そんな中でのカホルさんの発言、もうここしかないと思ったのが本音。

【カホル】
「満月が洩らしていたけど、箱根ちゃんは料理が上手だって聞いてるから。
よし、料理は全部で二品、私が一品箱根ちゃんが一品で良いかしら?」

【箱根】
「はい、お邪魔にならないように頑張ります」

……

【カホル】
「こうやって誰かと一緒にお昼を作るのは久しぶりね」

【箱根】
「普段の食事は一二三さんが?」

【カホル】
「ええ、彼女との付き合いも長いけど食事はほとんどスゥがやってくれるかな。
さすがにいないときは自分で作るけど、そういう時は決まって一人だしね」

【箱根】
「あの、前から少し気になっていたんですけど、一二三さんのことをスゥさんって」

【カホル】
「あぁそれね、簡単なことよ。 『五十八 一二三』数字しか名前に入ってないからスゥ。
初めて会った時に短絡的に私が呼んだのが今まで続いてるだけだよ」

なるほど、確かに一二三さんの名前は全部数字だ。
数字からスゥってことか。

【カホル】
「そうそう、満月いるでしょ、あの子にみっきーって呼ぶと怒るから、気をつけてね」

【箱根】
「八重蔵先輩は年上の方なんですから、そんな呼び方はしないですよ。
でも、どうして怒るんですか?」

【カホル】
「色黒の俳優さんがそう呼ばれてるから、同じように呼ばれるとイメージ下がるからやなんだってさ」

頭をフル回転させてそんな俳優さんがいたかどうかを思い起こしてみる。
うぅん、確かにそんな風に呼ばれてる人がいたような……

【カホル】
「フィアはたまにみっきーって呼んでは怒らせてるけどね。
あ、フィアって云うのは由都美のこと、気になるかもしれないけどこればかりは教えられないよ」

【箱根】
「わ、わかりました……」

【カホル】
「さーてと、お昼なんにしようかしらね。
箱根ちゃんは何を作るつもりかしら?」

【箱根】
「カホルさんが何を作るか聞いてから合わせようと思っていたんですけど……」

【カホル】
「となると私が決めないと動けないか、そうね……お昼だし、今簡単に出来るといったらミートパイかな。
パイ生地はあるし、ソースも作ってあるから後は具材をいためて混ぜ合わせるだけだし」

【箱根】
「出来上がりまで何分くらいかかりますか?」

【カホル】
「焼き上がりまで全部合わせても30分ってところかな」

30分か、それだけの時間があれば色々と作れるけれど
カホルさんがパイを焼く以上あまり味が濃い物を出すわけにはいかないかな。

【箱根】
「冷蔵庫の中確認させてもらいますね」

【カホル】
「どうぞ、何使って何作ってもらっても構わないからね」

冷蔵庫の中には様々な食材が入っていた、これなら本当に何でも作れそうではあるけど
逆に選択肢が多すぎて決められないということにも繋がっている。

カホルさんがいわゆるメインを作るのだから、私は何か副菜でも作るのが良いだろう。
ミートパイで補えないものとなると……お野菜の類になるのかな。

冷蔵庫の中で一番最初に眼が行ったのはレタス、このどことなく白菜に似た見た目からするとロメインレタスかな。
ロメインレタスを使ったサラダというと、ぱっと思いつくのはやはり……

【カホル】
「はい、パルミジャーノ・レッジャーノ」

【箱根】
「え、何作るかバレちゃってますか?」

【カホル】
「ロメインレタスで真っ先に思いつくのはシーザーサラダだよ。
元々私が作ろうと思って買っておいた物なんだけど、箱根ちゃんが作ってくれるのならお任せしちゃおうかな」

【箱根】
「そうだったんですか、カホルさんの中ではドレッシングはどんな物のつもりだったんですか?」

【カホル】
「ドレッシングと云うほどの物はないわ、オイルと塩コショウにレモン汁。
後はウスターソースを少しだけね。 それにそもそもシーザーサラダには」

【箱根】
「ドレッシングと云われる物は必要としない、ですよね」

【カホル】
「お見事。 ガーリックオイルはそこの小瓶の中、クルトン用にパンも固くしてあるから使ってね」

近日中に作るつもりだったのか、シーザーサラダに必要な材料は全てが揃っていた。
私がやることといえばレタスを一口大にして、チーズを削って、クルトンを作って、後は混ぜ合わせるだけ。

【カホル】
「私もパイ作りに取りかかろうかな、味見役よろしくね」

……

【カホル】
「お待ちどう様」

出来上がったパイとサラダをカホルさんは片手に四皿ずつ軽々と持っていた。
どこかのレストランでああやって何枚も持っているのをテレビで見たけど、素人がやったら絶対に落とすと思う。

実際私には二皿持つことさえも疑問符が浮かぶ。
改めてカホルさんって色々となんだか凄い……

【由都美】
「クン……ミートパイ、どうしてこれを?」

【カホル】
「あらあら、フィアは気付いちゃったか。 まあ気にせず頂きなさいな」

【音々】
「これは、シーザーサラダですね。
カホルさんがパイを作ったとすると、こちらは箱根ちゃんが?」

【箱根】
「は、はい」

【音々】
「レタスだけの本格的なものですね。 お酢の香りもしませんし、チーズもさっき削った物ですね」

【カホル】
「箱根ちゃん手際良くてね、こんなことならパイも箱根ちゃんに任せて良かったかな。
今度からは箱根ちゃんもたまにはお店の厨房、入ってみる?」

【箱根】
「いえ、そんな、私の料理はほとんど趣味でやってるようなものですから。
お金を貰うお店で出すお菓子を作るのは……」

【カホル】
「音々もそういうけど、二人とも素人レベル以上だとは思うけどね。
ま、パイが冷めないうちにどうぞ」

カホルさんが促すと、カホルさん以外の三人が揃ってパイにフォークを伸ばす。
サクッとパイ皮の弾ける音が響き、中からトマトソースで炊かれた挽肉などの具材がこぼれ出した。
ふうわりとソースの甘味と酸味の混じった香りが漂い、食べなくても味が良いことを察知できた。

だからといって食べないわけではないのだけどね。

【箱根】
「あく……ぁっ」

焼きたてのパイ皮も勿論熱いのだが、中に入った具材はそれ以上に熱い。
何度も舌の上と頬の内側を行き来させ、少しでも熱さを留めないようにしてから飲み込んだ。

【由都美】
「…………」

【カホル】
「どうかしらフィア?」

【由都美】
「お父さんが作るのと同じ味………チーズが入ってる」

【カホル】
「近いのならばそれで結構よ、チーズ入りトマトソースのミートパイ、叔父さん得意だったものね」

へぇ、このパイって久山先輩のお父さん、カホルさんにとっては叔父様の得意料理だったんだ。

ミートパイって云ったら色んな種類がある。
ソースを閉じ込めずに後からかけるタイプ、ソースを用いず中の具材に濃いめの味付けをするタイプ。
ビーフシチューをソースとして中に閉じ込めるタイプなど実に様々。

滅多にミートパイは食べないけど、たまに食べるのはソースを用いないタイプばかり。
こういったタイプは初めて食べるけど、やっぱり美味しいな。

【音々】
「このサラダ、ドレッシングの類は用いていないんですね」

【箱根】
「一応本格的に作ってみましたから」

【カホル】
「一応ではなく、忠実にでしょ? 軽く火を通した卵を混ぜるなんて
一般的なレストランではまずやってはいないと思うわよ」

【箱根】
「でも、忠実に作ったとは云っても味付けは全部目分量でいい加減なものですし。
それにカホルさんが全部材料を揃えておいてくれたからそれが出来たわけですから」

【音々】
「材料が揃っていれば美味しく出来る、とはいきません。
このサラダにしても、チーズの量を誤ればチーズの味ばかりが前に出てサラダと云うには出来ない物にもなりかねませんよ」

【カホル】
「そういうことね、材料は最低限の仕事であり、それを料理にしたのは箱根ちゃんなの。
これは全部箱根ちゃんのお手柄なのよ」

【箱根】
「そう云われると、照れますね」

気恥ずかしくなって視線を外してしまった、それが可笑しかったのかカホルさんと姫崎先輩はクスリと笑みを漏らしていた。
久山先輩はもくもくとカホルさんのパイに舌鼓、お父さんと同じ味というのはやはり嬉しいのだろう。

【カホル】
「後はスゥのご飯か、何食べさせたものかしら? ま、ご飯が終わってからゆっくりと考えましょうか。
皆は午後もお店に残るのかしら?」

【箱根】
「出来ればそうさせて頂きたいのですが……」

午前はそこまで進んではいないので、出来ることならもう少しだけお二人に勉強を教えてもらいたいというのが本音。
だけどそれは私の我侭であり、お二人の予定があれば私も退散しなければならないだろう。

【音々】
「箱根ちゃんが残るというのであれば、お付き合いしますよ」

【由都美】
「私も残る、カホル、何か要らない布持ってない? 部活のパッチワークしたい」

【カホル】
「パッチワークに使えるのあったかしらね? とりあえず皆残るということになるのね。
だけど折角の休日なんだから、年頃の女の子らしく街に遊びにでも出たら良いのに」

【由都美】
「疲れる……」

【音々】
「私も、人ごみはあまり」

【カホル】
「私も学生時代は遊びになんて出なかったから大きいことは云えないけどね。
……あ、そうだったフィア、ちょっと買出しに行きたいから少し付き合ってもらえるかしら?」

【由都美】
「うん……」

【カホル】
「それじゃ、食事も終わったし皆の昼の予定も決まったし、解散といきますか」

楽しい食事も終わり、暖かい陽射しを覗かせた柔らかい午後の時間が静かに始まろうとしていた。






〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜