【二次元ビスク・ドール】



【箱根】
「わわ……!」

無造作に置かれたファイルがドサドサと私の上に落ちてきた。
幸い軽いものだから怪我まではいかないけど、それなりに痛い……

【満月】
「今凄い音したけど、大丈夫……じゃないね」

【箱根】
「あうぅ……」

そんなに重くもないファイルに押しつぶされて尻餅をつき、その後立て続けに落ちてきたファイルは
私の腰ぐらいまでを埋めてしまっていた。

【満月】
「すぐ救助してあげるから、動いちゃダメだよ」

【箱根】
「お手数かけます……」

むやみに動くと余計に散らかってしまうので、私はそのままの格好で大人しく待機。
満月先輩は手早く私を埋めるファイルの山を取り除いてくれた。

【満月】
「はいオッケ、救助完了だよ」

【箱根】
「すいません、ご迷惑をおかけしてしまって」

【満月】
「良いって良いって、だけど危ないなぁ。 まったく、フィアがちゃんとファイル並べないから」

コツン!

【満月】
「イタっ!」

【由都美】
「私のせいにしない、悪いのは全部貴女のせい」

【満月】
「なんだ、いたの」

【由都美】
「箱根ちゃんの慌てる声がしたから来て見たら、案の定」

【箱根】
「お仕事増やしちゃって、すいません……」

【由都美】
「悪いのは全部満月だから」

【満月】
「なんだよ、全部ボクのせいなのかよ」

【由都美】
「当たり前……」

【満月】
「そこまではっきり云われると、反論する気もなくなるよ」

【由都美】
「時間の無駄、ここの掃除は満月がすること。
箱根ちゃん、ちょっと私のお手伝いよろしく」

【箱根】
「ぁ、は、はい」

【満月】
「独り占めって良くないと思うんだ」

満月先輩のちょっとした文句は全く聞こえていないフリ。
久山先輩はさっさとたくさんある本棚の一つへと消えてしまう。

【箱根】
「あの、満月先輩……すいません……」

【満月】
「はぁ、一人は寂しいなぁ……」

……

【由都美】
「満月の側にいると怪我するよ」

【箱根】
「いや、そこまでは無いと思いますけど……」

【由都美】
「いろんな意味で」

【箱根】
「え……?」

【由都美】
「なんでもない、こっちのことだから気にしないで」

とは云われても、思わせぶりな云い方をされて全く気にしない人はいないと思うんですけど……

【由都美】
「さて、箱根ちゃんにはファイルの仕分けを手伝ってもらいたいの」

そう云うと久山先輩は右手と左手に一つずつファイルを持ち、私に差し出した。

【由都美】
「この二つのファイル、同じように見えると思うけど……」

【箱根】
「違うんですか」

【由都美】
「えぇ、ほら、フセに施してある色が違うの。 こっちは黒で、こっちは赤」

【箱根】
「あ、本当ですね」

【由都美】
「赤は50音順、黒はアルファベット順に並べ替えて欲しいの。
いつもなら私一人でやるんだけど、今日はちょっと量が多くて」

【箱根】
「この区画全部なんですか……」

【由都美】
「残念ながら」

確かに、これを一人でやるとなると陽が暮れても終わらないよね。

【由都美】
「一応横一列で一区切りになるから、私が上をやるから箱根ちゃんには下をやってもらいたいのだけど」

【箱根】
「わかりました、下から順にやっていけば良いんですね」

【由都美】
「そうなる、だけどここも満月が弄ったところがいくつかあるから。
もしかすると全く関係ないファイルが混ざってるかもしれないから、そういうのは弾いていって」

【箱根】
「はい」

良し、頑張ろう!
だけど、終わるのかな……?

……

【由都美】
「ふぅ……箱根ちゃんの方は終わった?」

【箱根】
「な、なんとか……終わりました」

もう外は陽も暮れて、夕暮れの赤みが窓から資料室へと差し込んでいる。
何とか終わるには終わったけど、予想通り私よりも久山先輩の方が仕事の達成量は多かった。

【由都美】
「お疲れ様、後の細かいのは私がやっておくから。
お店の方に行ってカホルに報告してきてもらえるかな?」

【箱根】
「はい、わかりました」

資料室を抜け、夕暮れに染められたお店までの道を進む。
とても幻想的なんだけど、仕事疲れがあるのかそんなものを味わっている余裕はちょっとなかった……

【箱根】
「カホルさん、資料室の方今日の分の整理終わりました」

【カホル】
「ご苦労様、それじゃあ今日はもう上がってもらっても結構よ」

【音々】
「あ、箱根ちゃんもお仕事終わりですか?
私も今日は終わりましたから、帰りは一緒にどうですか?」

【箱根】
「はい、喜んでお付き合いします……お先失礼します」

【カホル】
「また明日、よろしくね」

……

【音々】
「お仕事の方、慣れましたか?」

【箱根】
「初めての時に比べれば少しだけですけど。 だけどまだ資料室の方はちょっと……」

【音々】
「あそこは最もきつい場所ですからね、一週間やそこらではまず無理ですよ」

【箱根】
「毎日やればそのうち慣れると思うんですけど、一体いつになることやら……」

姫崎先輩との帰り道、最近シフトが重なったときは必ず一緒に帰っている。
まだまだ仕事に慣れていない疲れた私とは違い、姫崎先輩は疲れなど微塵も感じさせていなかった。

【音々】
「だけど、資料室のお仕事って今日で四日目ですよね?」

【箱根】
「えぇと……そうですね、今日終わって四日目終了ですね」

【音々】
「でしたら、たぶん明日からは違う仕事を任されると思いますよ」

【箱根】
「え、そうなんですか?」

【音々】
「断言は出来ないですけど、たぶん。 私も資料室は四日間だけでしたから。
それに、たぶんカホルさんの中で箱根ちゃんの持ち場は決まってるんじゃないかと思うんですけどね」

姫崎先輩は指を軽くあごに当て、なにやら思案にふける表情を見せた。

【音々】
「今まで決まった担当者がいませんでしたから、箱根ちゃんが担当者になるのが
もっとも自然だと思うんですけど……」

【箱根】
「それってどこの担当なんですか?」

【音々】
「たぶんですけど、画廊の方じゃないかと。
今のところ人員が欠如しているのはあそこ以外にありませんからね」

【箱根】
「そこってどんな仕事になるんですか?」

【音々】
「詳しくは私にも……カホルさんが仰るには、私たちの中には誰一人適任がいなかったらしいですので。
ですがそこを箱根ちゃんが担当することになれば、カホルさんにとって最も理想的であることは間違いないと思いますよ」

今まで適任がいなかったってことは、姫崎先輩や満月先輩には任せられなかったということになる。
そんなところに私なんかが配属されるわけないと思うんだけど……

もし配属されたとしたら、今以上に自信がなくなっちゃうよ……

【箱根】
「聞くだけで自信なくなりそうです……」

【音々】
「きっと箱根ちゃんなら大丈夫ですよ……根拠はないですけど」

励ましてくれた姫崎先輩は申し訳なさそうな苦笑いを見せ、頬をポリポリとかいた。
先輩の励ましは素直に嬉しいけど、明日から私はやっていけるのかなぁ……?

……

【カホル】
「はい、今日もご苦労様」

喫茶店の裏を出てすぐのところにあるテラス、普段はカホル以外使うことのない席に今は二人のお客様が座っている。
カホルは三人分の紅茶を手に、二人のお客様へとそれを差し出した。

【満月】
「んぅうー……今日も疲れたな、っと」

【由都美】
「さほど仕事してないくせに」

【満月】
「重い物を運んでないフィアにはこの疲れはわからないもんだよ」

【由都美】
「……代わる?」

【満月】
「ぅ……謹んで遠慮」

【カホル】
「お互い今の仕事を代えたら、その日一日大変なことになるからくれぐれも止めてね」

無茶な小競り合いが起きないように釘を刺し、カホルは紅茶に口をつけた。

【カホル】
「それで、今日はどうだった?」

【満月】
「どうだったって云われてもねぇ、やっぱり無茶なんじゃないの。
そりゃ初日に比べればおたおたもなかったけど、長期間あそこは辛いと思うよ」

【由都美】
「本に押しつぶされてた、満月のせいで」

【カホル】
「ちょっと、勘弁してよ……もし怪我でもさせたら、私の責任問題にまでなるじゃないの。
大体満月には前から資料はちゃんと整理するように云ってあるのに」

【満月】
「面倒なんだもん」

【由都美】
「それをするのが仕事」

【カホル】
「いいこと、今度もし箱根ちゃんが資料に押しつぶされるようなことがあったら
満月には手痛い罰を受けてもらうから、そのつもりでね」

【満月】
「善処するよー」

少しもそんなこと思っていないのが言葉にも表れている。
満月もまだ湯気がもうもうと立つ紅茶にたっぷりとクリームを入れて口にした。

【由都美】
「で、箱根ちゃんはやっぱり?」

【カホル】
「まあね、今の箱根ちゃんにはあそこが一番良いんじゃないかしらね」

【満月】
「なんで?」

【カホル】
「お菓子を口に入れたまま喋らない、満月も一応はお嬢様学校の生徒なんだから」

お茶請けに添えられたクッキーを頬張りながら、満月はとても上品とは云えない仕草を見せる。
しかし、それもここにいるからこそ、あまり気を使わない彼女がいつも以上に気をつかわなくて良い場所がここだからだ。

【カホル】
「前にもちょっと云ったと思うけど、箱根ちゃんはまだ今の環境に緊張しているわ。
勿論、その原因は私を含めた貴方たち全員だってことも覚えてるわよね?」

【由都美】
「それは仕方がないこと、まだ一週間弱と一年以上の経験を比べるのは可哀想」

【カホル】
「まだまだ経験の浅い箱根ちゃんには出来ないことだらけだと思っているけど
箱根ちゃんはまだまだちょっと焦ってるみたいなのよね」

【満月】
「箱根ちゃんって凄いピュアだもね」

【カホル】
「ピュアとは程遠いところにいる満月からそんな言葉が飛び出すとは驚きね。
だけどピュアっていうのは良く云えば純粋、悪く云えば思いつめやすいということになるわ」

【由都美】
「全部が全部そうじゃないと思う」

【カホル】
「勿論、でも箱根ちゃんはそういったタイプの女の子なのよ」

【満月】
「うわぁ、まだ知り合って時間も経ってないのによくそんな自信満々に云えるね」

【カホル】
「これでも人に対する観察眼は人一倍あるつもりよ。
まあ私のことなんてどうでも良いの、つまりは箱根ちゃんにとって貴方たちは自身を失わせる壁になっているの」

【由都美】
「そんなつもりは別にない」

【カホル】
「フィアになかろうと箱根ちゃんがそう感じてるんだからしょうがないでしょ。
フィアに限らず、満月やスゥ、音々にもね」

【満月】
「ふぅーん、別にそんなこと気にしなくて良いことだと思うけどね」

【カホル】
「誰も彼も満月のように短絡的で楽天的じゃないのが普通なのよ」

【満月】
「それは褒めてるのか? それとも貶してるの?」

【カホル】
「褒めてる、とでも受け取っておきなさいな」

一旦会話を切り、カホルと満月はお互い咽を潤すために再び紅茶へと手を伸ばす。

【由都美】
「で、結局のところ、結論はどうなの?」

【カホル】
「箱根ちゃんの持ち場は画廊の担当にする。
今まで誰も担当させなかった場所だからこそ、ね」

【満月】
「ねって云われてもさ、第一なんで今までボクたちにはそこの仕事させなかったの?」

【カホル】
「向き不向きの話になるから省くけど、あそこを任せられるような子がいなかったからかな。
満月にしてもフィアにしてもあそこの仕事はこなせない、唯一こなせそうなのは音々だけど、持ち場が被ると重荷になるしね」

【由都美】
「私たちじゃ無理?」

【カホル】
「無理というほどではないけど、なるべく持ち場の重複をさせたくはないから。
それに今の箱根ちゃんにあそこほど相応しい持ち場もないし」

【満月】
「だからさ、何でそこが箱根ちゃんに良いのかが知りたいんだけど」

【カホル】
「箱根ちゃんにとって壁となる人物がいないこと、一人だけなら緊張も最小限度で済むからね。
後は箱根ちゃんのあの性格、ピュアな子は総じて頑張り屋で勉強熱心な子が多いの。
細かいことに色々と気付けて、根気があって、他とのコミュニケーションが上手く取れる、箱根ちゃんはそれが申し分ないのよ」

【満月】
「なるほどねぇ、それじゃあボクは無理かな」

【由都美】
「私は無理じゃない……」

【カホル】
「ウェイトレスの時ニコリともしないくせに、もっと笑顔が上手ければフィアもやれないことないんだけどね」

【由都美】
「むぅ……」

カホルの言葉に表情は変えずに小さく文句を込めて唸った。

しかしそれが事実だとわかっているからこそそれ以上言葉は続けず
湯気が納まった紅茶を飲んで雰囲気を濁していた。

【カホル】
「何はともあれ、箱根ちゃんのプラスになってくれれば良いんだけど」

【満月】
「でも画廊担当ってことは、かおる直下の監視下になるんだよ。
それってボクたち以上に箱根ちゃんにとって重荷になるんじゃないのかなぁ?」

【由都美】
「云えてる……」

【カホル】
「あらあら、二人とも私に対しての信用がないのね」

【満月】
「そりゃ、ねぇ?」

【由都美】
「ねぇ?」

【カホル】
「ふふ、正直でよろしいことね」

二人の返答など意に介さず、余裕を持った表情と態度のまま紅茶をぐいと飲み干した。

【カホル】
「さて、今日もお開きにしましょうか。
二人とも寄り道せずにまっすぐ帰るのよ」

【満月】
「うゎぁ、なにそのすっごい子ども扱いは。 ボクたちもう十分な大人なんだけど」

【由都美】
「ただの決まり文句、気にすることじゃない」

【カホル】
「あらら、お姉さんの助言は役立たずか、ま、私の言葉を気にするような貴方たちじゃないか」

仕事が終わった後、よく行われる三人のお茶会はいつもこんな感じ。
大概は至極どうでもいい話をして、いつもどうでもいいところでお茶会は終わる。

それがこの三人の付き合い方、それほど長い付き合いでもないものの
お互いに確かな信頼関係があるからこそ、お茶会を開くことが出来る。

だって三人とも、嫌いな人はとことんまで嫌いになる質の人たちなんだから。

……

空には雲がほんの少ししかない快晴と云って良いくらいの良い天気。
そんな空の下で姫崎先輩と一緒にお昼、なのは嬉しいのだけど……

【箱根】
「ふあぁ、ああぁぁ……んぅ……」

【音々】
「随分大きな欠伸ですね、寝不足ですか?」

【箱根】
「ぁ、いや、その……ちょっとだけ……」

午前の授業中から度々小さなものが出ていたが、今回はちょっと大きかったようだ。

【音々】
「あんまり夜更かしすると体に悪いですよ?」

【箱根】
「夜更かしというか、一応十一時にはお布団に入ったんですけど。
その後なかなか眠れなくて……気がついたら二時近くでした」

【音々】
「三時間も寝付けずに、ですか。 何か悩み事でも?」

【箱根】
「えぇ、まぁ……云い辛いんですけど、今日のお仕事のことがちょっと気がかりで」

【音々】
「あぁ……ということは、原因を作ってしまった私に非がありますね。
すいません、昨日余計なことを云ったせいでいらぬ心配をかけてしまったみたいで……」

【箱根】
「いえ、姫崎先輩に謝られても困っちゃうんですが……
ようは私が気にしすぎなだけですから、ご心配なく」

【満月】
「いや、全面的に音々が悪い」

【箱根】
「ふえ?」

【音々】
「満月先輩……?」

私と姫崎先輩は辺りをきょろきょろ見回すものの、満月先輩の姿を確認することが出来ずにいる。
さっきの声は満月先輩の声なんだけど一体どこに?

確か前にもこんなことがあったような……えっと、あの時は。

【満月】
「ここここ、上だよ上」

やっぱりそうか、前に一回ここで満月先輩に出くわしたことがある。
その時も先輩は屋上の上にいたんだっけ。

満月先輩は片手にお弁当をぶら下げ、軽やかな足取りで梯子を降りた。

【満月】
「っと、や、二人ともおはよ」

【音々】
「もうお昼ですよ? もしかして先輩、また授業サボりましたね」

【満月】
「まぁね、ボクは自由で開放的なのが好きだから。
教室に押し込められてつまんない話聞くのは嫌」

【音々】
「それを我慢して行うのが学業なんですけど……」

【満月】
「嫌なものは嫌なの、それにどうせ出ても殆ど寝ちゃうから結局は同じことだし」

【音々】
「例えそうだとしても、出ていれば出席は付きますから。
単位足りなくて留年なんてことになっても知りませんよ」

【満月】
「さすがにそこまで拙くなれば教師陣も何かしら云ってくるでしょ。
それまではマイペースに、ボクが好きなようにやらせてもらうのもありかなって」

少しもありじゃないと思うんですけど、勿論満月先輩にそんなこと面と向かっては云えないけど。

【満月】
「んうぅぅうー! はぁ、よく寝たせいかお腹空いたよ……
こんなことならお昼寝する前にご飯食べておけば良かったかな」

【音々】
「とことん校則に従わないんですね」

【満月】
「従うところは従ってるよ。
だけど毎回毎回従ってたら窮屈だから、頃合を見て破ってるだけ」

【音々】
「あまり褒められたものではないですね……由都美先輩ならきっと白い目で見ますよ」

【満月】
「フィアはボクに冷たいからね、だけどもし音々にそんなことされたら……」

【音々】
「ぅ……な、何するつもりですか……」

満月先輩は空いた手をワキワキといやらしく動かした。
やっぱり姫崎先輩相手だとそうなんだ……

【満月】
「ま、放送コードぎりぎりのところで止めてあげるからご心配なく。
それよりお腹空いちゃったからお昼呼ばれて良い?」

【箱根】
「あ、どうぞ。 ちょっと席詰めますね」

【満月】
「あぁ良いよ別に、ボクはここで大丈夫だから」

そう云うと満月先輩は地べたに直接腰を下ろした。

【箱根】
「あぁ、制服が汚れちゃいますよ」

【満月】
「汚れたら洗えば良いんだよ、それにお昼寝の時も気にせず横になってるしね」

【音々】
「こう云っては何ですけど、後輩さんが失望してしまいますよ?」

【満月】
「無理に偽って着飾るよりも、ボクは自然体でいる方が好きだから。
それにそういったきっちりしたのが好きな子はフィアに全部流れるだろうしね」

何一つ気にすることなく、満月先輩はいそいそとお弁当を開けた。

【満月】
「そういえばさっき何の話してたの?」

【音々】
「何の話と云いますと?」

【満月】
「さっき音々が箱根ちゃんに謝ってたからさ。
もしかして、箱根ちゃん苛められた?」

【箱根】
「ぇ!」

【音々】
「もう満月先輩、私を先輩と同じにしないでください! ……ぁ」

云い終わってから姫崎先輩はしまったという顔をしてしまった。

【満月】
「へぇ、音々はボクをそんな風に見てたんだ、ふぅーん」

【音々】
「あ、いや、その……今のはちょっとした間違いで……」

【満月】
「後できつーいお仕置きしてあげるから、忘れんなよ。
それで、実際のところはどういった話だったの?」

【箱根】
「お仕事の話です、私の担当が今日から変わるんじゃないかって話を昨日聞いたんで」

【満月】
「なんだ、そんなこと。 実際変わるんだけどね」

【箱根】
「へ……?」

【満月】
「あれ、かおるから聞いてなかった?
今日から箱根ちゃんの担当は画廊でのお仕事になるんだよ……って、聞いてるわけないか」

【箱根】
「は、初耳です……」

まだ可能性の話でしかなかったのに、満月先輩の言葉で現実に変わってしまった。

【音々】
「やっぱり、あそこの担当なんですね」

【満月】
「うん、かおるが云うにはあそこが一番箱根ちゃんには向いてるんだってさ。
ボクにはよくわかんないけど、かおるにはかおるの考えがあるみたいだしね」

どうやら満月先輩の言葉を聞く限り、異動はほぼ間違いないみたい。

【箱根】
「……」

【満月】
「どしたの? なんか暗い顔してるけど」

【音々】
「箱根ちゃんは担当が変わることが色々と不安だったみたいなんですよ」

【満月】
「あ、そうなんだ。 余計なこと教えちゃったかな?」

【箱根】
「いえ、逆に覚悟が出来たというか……」

【満月】
「覚悟なんてそんな大げさなものいらないって。
気楽にやってればそれで大丈夫、箱根ちゃん以外に担当者いないんだから」

それは逆に云うと、私しかいないからなおのこと頑張らないといけないのでは……?

そんなこんなで不安は余計に高まり、午後の授業は眠気なんて微塵も感じない
ちょっとだけ重い時間になりました……

……

午後の授業もいつの間にか全部終わってしまい、後はカホルさんのお店での仕事だけになてしまった。

途中からなんでこんなに時間が過ぎるのが早いのだろうと考えたんだけど、そんなことを考えていると余計に
時間が早く流れているように感じてしまってマイナスにしかならなかった。

覚悟が出来たなんて云ってたけど、本当は何一つ出来てないんだよね……

【音々】
「おはようございます」

【箱根】
「おはようございます……」

【一二三】
「お早うございます、姫崎様、箱根様。 カホル様、お二人がお見えになられました」

【カホル】
「今日もご苦労様、早速お仕事をっと云いたいところなんだけど。
ちょっと箱根ちゃんにはいつもとは違うお仕事を頼みたいんだけど、良いかしら?」

うぅ……ついにきたよ、だけど逃げるわけにもいかないし。
いい加減覚悟を決めろ私!

【音々】
「あの、カホルさん、お手柔らかにお願いしますね。
箱根ちゃん繊細な子ですから、あまり無茶なことをさせるのは可哀想だと……」

【カホル】
「……それだと何だか随分と私が悪者みたいね。 満月に何か吹き込まれた?」

【箱根】
「今日から画廊の担当になるって聞かされたんですけど……」

【カホル】
「まったくお喋りなんだから。 まあ、もう聞いてるなら話も早いか。
箱根ちゃんには今日から私と一緒に画廊の担当になってもらいます、これで良い?」

【箱根】
「……はい。 あの、それで具体的にはどんなお仕事を?」

【カホル】
「それはこれから私と一緒に画廊に行ってからね。
心配しなくても面倒なことはほとんどないから、初心者でも大丈夫よ」

【音々】
「頑張ってくださいね」

【箱根】
「が、頑張ります……」

……

カホルさんの後について画廊へと足を踏み入れる。

ここに来るのはこれで二回目、どんな絵が飾ってあるかわかってはいるものの
やっぱり私は一瞬だけどきんと驚いてしまった。

【カホル】
「そうそう、ここは箱根ちゃんが初めて担当するってことはもう聞いているかしら?」

【箱根】
「満月先輩から……」

【カホル】
「心配?」

【箱根】
「それは、まぁ……なんで私が最初なのかなって」

本当に、何で私が最初なんだろう……?

【カホル】
「確かに自分が初めてって云われると変に緊張するかもしれないけど
逆に云えば自分が最初なんだから、後のルールは全部自分で決めれるってことになるのよ」

【箱根】
「ルール、ですか……?」

【カホル】
「そう、誰にも踏み荒らされていないのなら、自分が踏み荒らしてルールを決めれば良い。
折角誰も経験者がいないんだから壁もなければ上も下もない、のびのびと仕事をすれば良いんだよ」

【箱根】
「……」

【カホル】
「とは云っても、しばらくは私と一緒の作業になっちゃうけど。 よろしくね」

【箱根】
「ぁ、よろしくお願いします」

【カホル】
「じゃあ早速なんだけど、今日は私のお手伝いをしてもらおうかな」

……

【カホル】
「どうぞ、散らかっててちょっと絵の具の匂いがきついかもしれないけど」

カホルさんに案内されたのは建物の一室、もう少し先に進むと満月先輩たちの仕事場に出るらしい。
案内された部屋には中央にキャンバスとイーゼルが置かれ、周りのテーブルには様々な小道具が置かれていた。

世間一般で云う、アトリエというものだろうか?

部屋に一歩踏み込んだ瞬間に、鼻を掠めた油絵の具の匂いにちょっとだけくらくらしてしまった。

【カホル】
「一応私のもう一つの仕事場、というよりは趣味の部屋って云った方が良いか」

【箱根】
「こういった部屋って初めて入りました」

【カホル】
「想像していたところよりも綺麗じゃなくてごめんね、片付けると絵の具一つ出すのも大変になるから。
だけど折角初めてのお客様を迎えるんだったら少しくらい片付けて置けば良かったかな?」

【箱根】
「初めての、お客様?」

【カホル】
「えぇ、ここは満月や音々、スゥでさえ入れたことないの。 完全な私のプライベートルーム。
だから箱根ちゃんがこの部屋の初めてのお客様なんだよ」

【箱根】
「あの、私入って良かったんでしょうか……?」

【カホル】
「私が招いたんだから気にしなくて大丈夫よ。
で、この部屋でのお仕事なんだけどね、出来上がった絵の処理を手伝ってもらいたいんだ」

【箱根】
「わ、私が絵を触るんですか? それはちょっと、迷惑になりますよ?」

【カホル】
「私は著名な画家じゃないよ、絵に傷が付こうが絵の具が剥がれようが気にしないよ。
所詮全部が趣味のレベル、だから箱根ちゃんも堅くならず肩の力抜いてリラックスリラックス」

ポンポンとカホルさんが私の肩を叩く。
だけど、それしきのことでリラックスできるほど私は出来た子じゃないんですけど……

……

【箱根】
「こんな感じで良いですか?」

【カホル】
「うぅん、もう少しだけ上に出来るかな?」

カホルさんの指示に従って絵を飾る位置を決めていく。
場所が決まったらカホルさんが四隅に軽くマーキングをつけて一つの絵が終わる。

【カホル】
「ここの間接照明は赤だから……なるべく赤に関係のある絵が良いかな。
っと、もうこんな時間なんだ、そろそろ位置決めは終わりにしようか、さっきの部屋に先に戻っててもらえるかな?」

【箱根】
「はい、わかりました」

ジットリと嫌な汗が滲んでいる緊張しっぱなしだった手を軽く握って開いて。
外気にさらされてひんやりとした感触がとても気持ち良い。

【箱根】
「ふぅ……何とか落としたりはしなかったけど、緊張したなぁ……」

傷が付いても良いとは云っていたものの、やっぱり人様の物を傷物にするわけにはいかないし。
ほっと安堵しながらカホルさんのアトリエへ、わかっていたはずなのにやっぱり絵の具の匂いに一瞬戸惑ってしまった。

【箱根】
「……」

今までカホルさんしか入ることを許されていなかったカホルさんの聖域。
そこに今、全くの部外者である私が足を踏み入れている。

とても不思議な感覚で、ちょっとだけ得をしたような変な気分。
ぐるっとアトリエを見回してみる、何もかもが新鮮で、何もかもが私の知らない世界。

そして眼に留まったのは部屋の中央にそれ自体がまるでオブジェのように置かれたイーゼルだった。

【箱根】
「やっぱり、見ちゃマズいよね……」

なんて頭で考えてはいるものの、好奇心は頭の考えを打ち崩すほどに強力で……
後ろを向いていたイーゼルをちょっとだけ覗いてみた。

【箱根】
「わぁ……凄い……」

キャンバスに描かれていたのは、画廊に飾られているカホルさんの絵とは正反対の
白いドレスを身にまとったフランス人形のような絵が描かれていた。

白い肌とそれ以上に白いドレス、それを一際強調させるアクアマリンのような瞳の色が
なんだか魂をフッと吸い込んでいくような脱力感にも似た印象を与えている……

【箱根】
「……」

【カホル】
「気になる?」

【箱根】
「ぅぁ! か、カホルさん……」

いきなり耳元に聞こえてきたカホルさんの声に、心臓が飛び跳ねそうな錯覚を味わった。
その証拠に情けない声は出るわ、言葉は続かないわ……

【カホル】
「もしかして、私なんかの絵に見惚れてくれたりしたのかな?」

【箱根】
「……はい。 すいません、許可もなく盗み見するようなことして……」

【カホル】
「絵は見てもらうためにあるような物よ、それに見られたくないのならシーツぐらい被せておくしね。
だけどまさか見惚れたなんて云われるのは予想外だったかな」

【箱根】
「そう、だったんですか……?」

【カホル】
「ええ勿論、私の絵は基本的に一般向けするような物とは云えないから。
私のいつもの絵を見たことがあるのなら、逆にこういった絵は異質に映るんじゃない?」

カホルさんはイーゼルに向かい合うように立ち、細めの筆を手にとってパレットに絵の具をあけた。

【カホル】
「この絵、勝手で申し訳ないけど箱根ちゃんをモチーフにさせてもらってるんだ」

【箱根】
「私をですか、私なんかモチーフにしても……」

【カホル】
「箱根ちゃん、自分のことをなんかなんて云っちゃダメよ。
私にしてみれば箱根ちゃんなんか、じゃなく、箱根ちゃんだからこそこの絵になっているのだからね」

黒い絵の具を筆に取り、宝石のような瞳の周りを丸く縁取るように絵の具を重ねていく。
左の眼が終わったら今度は右の眼も同じように、その二つを繋げると……

……これは眼鏡、かな?

【カホル】
「これでこの絵のモチーフは箱根ちゃん以外には考えられなくなったわね。
私なりのやり方で、私なりの想いのままに描き上げるたった一つの箱根ちゃんになるわ」

【箱根】
「私にはこんな魅力はありませんよ。
カホルさんが私をどう見ていただいているかはわからないですけど、私はこんなに……」

【カホル】
「……箱根ちゃん、あまり人の意見や考え方を気にしてると疲れないかしら?」

【箱根】
「え……?」

【カホル】
「人の考えと自分の考えがぴったりと狂いなく一致するわけがない、それは相手と自分が同じでないのだから当たり前。
だけどそんな一致しない考えを自分が悩む必要はない、人の考えはどんなに考えたって
他人である自分にはふに落ちない点が出てくるもの、それを一つ一つ気にしてたら参っちゃうよ?」

【箱根】
「……」

【カホル】
「自分は自分らしく、他人の評価なんて気にしないでもっと自信を持って。
それに私のとって箱根ちゃんは彼女たちとは違った意味で特別な存在、だからこの部屋にも招きいれてるんだよ」

【箱根】
「ぁ……」

カホルさんは長い腕で私の体をすっぽりと包み込み、僅かに力を込めて私の体を抱き寄せた。

【カホル】
「あまり自分を過小評価しちゃダメだよ。
箱根ちゃんは箱根ちゃんらしく、自信を持たないとメンタル面はいつまでも上がってこないから……」

【箱根】
「……」

【カホル】
「お返事は?」

【箱根】
「…………はい」

【カホル】
「うん」

ぎゅっと優しく抱き締められたカホルさんの体から伝わる温もりと、ちょっとだけ鼻を掠める絵の具の匂い。
だけどそんな匂いなんて少しも気にさせないくらいにカホルさんの体は穏やかで柔らかくて……

わかったようなつもりでいて、結局私はまだわかっていなかったみたい。
それを教えるためにカホルさんはわざわざ私をここに招き入れ、私に教えてくれた。

密室、というにはあまりにもろくて、あまりに幻想的過ぎる部屋の中。
私はキャンバスに描かれた人形のようにカホルさんに身を預け、抱きしめられる温もりの中に意識を埋没させる……

弱すぎる私には、もう少しこのままの方が良い。
知らされてしまった以上、明日からはこんな私でいることなんて出来ないのだから。

だからせめて、今日はもうしばらくこのままで……






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