【壁際族、ムキュゥ……】



【カホル】
「ただいま」

【音々】
「あ、お帰りなさい」

【カホル】
「生クリームとアールグレイ、これで良かったのかしら?」

【音々】
「はい、十分ですよ。 すいません、お使いなんてさせてしまって」

【カホル】
「私が一番暇なんだから別に構いはしないわよ、だけど音々がやるなんて久しぶりね」

【音々】
「今まではあまり手の空く時間もありませんでしたけど、今は箱根ちゃんがいますから。
たまには一二三さんだけじゃなく、私もって思いまして」

【カホル】
「なるほどね、で、当の箱根ちゃんの調子はどうかしら?」

【音々】
「今日で一週間ですけど、飲み込みが早くてとても助かっていますよ。
最初のうちこそちょっとだけ失敗もありましたけど、それもほとんどなくなっていますから」

【カホル】
「へえ、それじゃあ喫茶店のお仕事は概ね任せても大丈夫と。
となると後は画廊のほうか」

……

【女性】
「すいませーん、注文お願いします」

【箱根】
「はい、ただいま」

お客様のもとへすぐに向かい、まず挨拶と笑顔を見せる。
最初の頃は上手く笑うことができなかったのだけど、姫崎先輩が難しく考えることはないって云ってくれたおかげで
なんとか違和感の無い笑顔ができるようになった。

【女性】
「あの、このオペラってどんなお菓子なんですか?」

【箱根】
「ビスキュイ・ジョコンドという生地の上に、ガナッシュやエスプレッソの効いたシロップを何層にも塗り重ねて作るチョコレートケーキのことで
エスプレッソの香りとチョコレートの苦味を楽しめるお菓子なんです」

【女性】
「それじゃあそれを一つお願いします」

【箱根】
「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」

注文を受け取ってほっと一安心、お客様には見えないようにフゥッと小さく息を吐いて厨房の一二三さんへと注文を伝える。

【箱根】
「オペラ一つお願いします」

【一二三】
「わかりました」

【音々】
「的確な説明でしたね、箱根ちゃん」

【箱根】
「いえ、一二三さんに教えてもらっていたから説明できただけですよ」

接客もそうだけど、それ以上にまず私が覚えないといけないのはお店のメニューのこと。
お客様にどんなお菓子ですかと聞かれるのはしょっちゅうのこと、それを説明できないようではウェイトレスとして使えないも同じことだ。

比較的空いている時間に一二三さんや姫崎先輩にお菓子について聞いて勉強してはいるのだけど、まだまだ四分の一程度しか頭には入っていない。
結構本格的なお菓子が多いから、全品を完全に覚えられるようになるまでどれくらいかかるのだろうか……

【一二三】
「お待ちどうさま、お客様へお願いします」

【箱根】
「あ、はい」

エスプレッソの香りが鼻を掠め、頭の奥まで侵食してしまいそうなビターな香りが全体を包んでゆく。
このオペラというお菓子一つとっても、最初は何が何を指しているのかさっぱりわからなかった。

第一印象でかなりインパクトの強いケーキだったから案外簡単に名前と形は覚えられたけど、ビスキュイ・ジョコンドなんて云われても何のことやら。

【箱根】
「お待たせいたしました、ごゆっくりお楽しみください」

【カホル】
「箱根ちゃん、ちょっと良いかしら」

【箱根】
「あ、はい」

お客様に「では」と小さく挨拶を残し、ちょいちょいと手招きするカホルさんのもとへ。

【カホル】
「お仕事の方、だいぶ慣れてきたみたいね。 音々もスゥも大助かりだと喜んでいるわよ」

【箱根】
「いえそんな、まだまだですよ。 やっとケーキの種類も覚えてきましたからこれからです」

【カホル】
「仕事熱心ね、結構結構。 このままお仕事に励んでねっと云いたいところなんだけど
今日はもうエプロン外してもらって結構よ」

【箱根】
「え……?」

まだ私が入ってから一時間くらいしか経っていないのにエプロンを外せだなんて。
それってつまり……私はもう要らないってこと?

【箱根】
「あの、えっと……私なにか取り返しのつかない粗相を?」

【カホル】
「あぁ、違う違うそういう意味じゃなくてね。 今日はウェイトレスじゃない仕事をしてもらおうと思って」

【箱根】
「ぁ、そういうことですか」

【カホル】
「心配しなくてもそう簡単に箱根ちゃんをクビになんてしないわよ。
というよりも、私が手放したくないと云った方が正しいかしらね」

【箱根】
「えぇ、私はあの……その」

【カホル】
「冗談よ、冗談。 手放したくないというのは事実だけど、独り占めすると色々と文句の多そうな子もいるからね。
それじゃあついて来てもらおうかな、こっちよ」

……

【カホル】
「どう、はかどっているかしら?」

【由都美】
「……3分の一くらいは」

カホルさんに連れられてやってきたのは、お店隣のカホルさんの居住スペース内にある資料室。
以前姫崎先輩に連れてきてもらった場所で、ここは久山先輩と八重倉先輩の仕事場だったはずだ。

その証拠に久山先輩は大量の本とクリアファイルを手にせかせかと動き回っている。

【由都美】
「少しは使った資料を元に戻しておこうとか考えないの?」

【カホル】
「一回の作業で20くらい資料を使うこともあるから、いちいち戻してたら時間が勿体ないじゃない。
私はじっくり腰をすえて作業するタイプだしね」

【由都美】
「まあ良いけど……ところで、箱根ちゃんを連れてきて何か用でも? 暇つぶしなんて云うんだったら他所でしてほしいのだけど」

【カホル】
「箱根ちゃんもあらかた喫茶店の仕事もこなせるようになったから、今日からはこっちの仕事も憶えてもらおうと思ってね。
フィアも人手が足りないって前から云っていたでしょ」

【由都美】
「それはありがたいけど……箱根ちゃんにはちょっと危ないと思う」

バサバサバサ!

久山先輩が言い終わるのと同時に、先輩の後ろの本棚からドサドサと本が落ちる。
私はいきなりのことで驚いたのだけど、先輩はこれといって気に止めることでもなかったのか後ろも見ずに小さく息を吐くだけだった。

【由都美】
「ね?」

【カホル】
「落ちるのがわかってたような口ぶりね」

【由都美】
「一日に何度もこんな現場を見れば嫌でも慣れる、資料が多すぎてバランスが悪い上に満月が適当に置いていくから。
こんな資料でも角が当たると結構痛いから箱根ちゃんには少し危険かも」

【カホル】
「なるほど、で、その大雑把で適当な彼女はどこに?」

【由都美】
「あっち」

【カホル】
「そう、悪いんだけど今落ちた資料も整理の方頼むね。 箱根ちゃん、くれぐれも上には注意してね」

【箱根】
「は、はい……」

怖々進む私とは対照的にカホルさんは一歩一歩が大きくなんの恐れも感じていないのが伝わってきた。
久山先輩にしてもそう、上から物が落ちてくるって聞かされたら普通は躊躇すると思うんだけど。

【カホル】
「さて、満月は……やれやれ」

資料室の奥、乱雑に置かれたというよりもまだ整理しきれずに広げてあるファイルと本の山の中で八重倉先輩は横たわっていた。
横たわっているというよりも、眠っているといった方が良いのかな?

【満月】
「くぅ……ぴぃ……」

【カホル】
「はぁ、仕事時間だっていうのにまた堂々とさぼって昼寝とは。 ご丁寧に本で仕切りまで作って、これでよくファンがつくものね」

【箱根】
「起こした方が良い、ですよね?」

【カホル】
「そうね、どんな夢を見て楽しんでいるのかしらないけど、そろそろ戻ってきてもらおうか」

八重倉先輩に歩み寄ったカホルさんがそのまま先輩を起こすのか、と思ったんだけど。
カホルさんは先輩のお腹に一冊ずつファイルを重ねはじめていった。

【満月】
「ぐ、くうぅぅ……」

【カホル】
「一体何冊目で起きるかしらね?」

一冊、また一冊とファイルが重ねられていき、先輩のお腹の上にはしゃがみ込んだカホルさんの膝くらいまでファイルの塔ができていた。

【満月】
「むうぅ、く……す、すぅ……ぅうん……」

【箱根】
「あの、先輩苦しそうな声を出してますから、そろそろ止めてあげた方が……」

【カホル】
「後二冊で二桁だから、とりあえずそこまでは乗せてみましょう、よっと」

【満月】
「んぁ……ぐぐ……んううぅ……」

【カホル】
「往生際が悪いなぁ、いい加減起きなさい!」

【満月】
「みにゃ!」

ファイルよりもあきらかに厚く重そうな辞典が塔に加えられるとさすがの先輩も耐えられなかったようで
いきなり踏んでしまった猫のように声にならない声を上げる。

【満月】
「あた!……」

起き上がる際に眼を隠していた本の遮りに顔をぶつけ、小さく声を漏らす。
まだ起きたてで回路の繋がっていない先輩は後ろ頭を掻きながら、ぼんやりした眼で辺りをキョロキョロ。

【カホル】
「お早う、お寝坊さん」

【満月】
「…………コクン、トス……」

【カホル】
「寝るな」

ガツン

【満月】
「ふぎ!」

二度寝に入ろうと再び本の山に倒れた先輩の頭めがけてカホルさんが辞書の角を落とす。
よほど痛かったのだろう、先輩は何が起きたのかもわからない状態であっちへゴロゴロこっちへゴロゴロと転がっていく。

【箱根】
「痛そう……」

【満月】
「むぅ、何すんだよ!」

【カホル】
「仕事中に居眠りしない、先輩が後輩の前で醜態を晒すのは卒業式だけにしなさい」

【満月】
「だからって角当てることないじゃないか、鼻も痛い……」

【カホル】
「それは自業自得、せめて座って眠ってたら鼻は打たなかったわね」

【満月】
「むうぅ……」

【カホル】
「ほら、いい加減眼覚まして仕事に戻りなさい。 フィアが云ってたけど、貴方が適当に並べるから次々落ちてくるらしいわよ。
もっと分類別大きさ別に分けて入れていきなさいね」

【満月】
「はいはいわかりましたよ、たくもう、自分は細かくないくせに人には細かいんだから。
……あれ、箱根ちゃんもいたの?」

私のいることにようやく気がついたのか、眠い眼をこすりながらも腕が私のほうへと伸びてきて……

ガバ!

【満月】
「あぁー、箱根ちゃんってば温かいんだ。 抱いて寝るのに丁度良い大きさだし、このまま眠ったら夢心地だろうね」

【箱根】
「ぁ、ぇ、あぇええ……」

【由都美】
「とぉ……」

パスン

【満月】
「あた!」

【由都美】
「いつまでも寝惚けてないで仕事する、今日中にこの区画をやり直すから。
箱根ちゃん、申し訳ないのだけど今日はひょっとすると残業になるかもしれない……」

【箱根】
「わかりました、頑張ります」

ムンと腕に軽く力を入れるポーズ、初めての大仕事に気合も少しだけ違う。

【満月】
「ボクは体調が優れないから定時で……」

【由都美】
「貴女のは眠りすぎによる気だるさと一時の喪失感、すぐに治るからこっち来る」

【満月】
「や、もう本に囲まれて仕事するのいやぁ……」

泣き言は久山先輩には届かず、首根っこをまるで猫のようにつかまれてずるずる引き摺られていった。

【カホル】
「やれやれ、苦手分野となると途端に元気とやる気のなくなるあの性分、なんとかならないかねえ?」

【箱根】
「八重倉先輩はそういったところがはっきりとした方ですから、無理なんじゃないでしょうか?」

【カホル】
「だよね、私もそう思うわ。 それじゃあ箱根ちゃんも後はフィアに教わってお仕事の方よろしくね」

【箱根】
「はい!」

……

【由都美】
「ここからがDの1、ここは主に古代文学史と芸術の分野の書籍がまとめられている分野。
書籍は四段、ファイルは全部で二十段分あるから」

【箱根】
「この区画だけでそんなにあるんですか……」

【由都美】
「困ったことにね、さらにはその中でもまた分野分けがあり、五十音順に並べないといけないから仕事量はさらに増える」

【箱根】
「うわぁ……」

【由都美】
「だから飽きっぽい満月には向かない仕事なの」

【満月】
「大体かおるもフィアも細かすぎるんだよ、大方場所があってればそれより先はどうでも良いじゃん。
どうせかおるしか使わないんだし……というかもう止めようよ、疲れた」

【由都美】
「文句ばっかり云わないでちゃんと動く、慣れっこの貴女がどうして箱根ちゃんよりも動けないの」

【満月】
「あのさ、ボクはあっちからいっぱい重い本を持ってこないといけないんだよ。
いくらボクがフィアよりも力があるからって所詮は女、限界っていうのはあるんだよ?」

【由都美】
「そう、じゃあ代わる?」

【満月】
「あ、ボク本とってこないと」

さっきから仕事の役割分担はずっと同じ、八重倉先輩が本を運んできて久山先輩がその本をしまっていく。
新米の私は八重倉先輩と同じく本の運び仕事、だけど背が小さいから八重倉先輩の半分も持っていないのに顔が完全に隠れてしまう。

かといって本の整頓も難しい、脚立が用意されているけどその一番上に上っても一番上の段には背伸びをしてようやく指が届く程度。
本を持っての整頓は危ないから止めたほうが良い、と両先輩揃って口にしたくらいだし。

とりあえずの結論として、背の低い私にはここの仕事は非常に難しいということだ……

【箱根】
「……」

【満月】
「おっと、どしたの箱根ちゃん? 重くて持てない? それじゃあいくつかボクが」

【箱根】
「え、あぁいえ、そんなわけでは」

【満月】
「はは、だけどそのくらいの量じゃないと前が見えないでしょ?
どこかにぶつかって本に埋もれる箱根ちゃんも見てみたいけど、そんなことになったらボクがかおるに怒られるしね。
それに、フィアにはああ云ったけどこれでもまだ余裕あるんだよ」

ニッカリと男性的な笑みを見せ、言葉通り余裕ある足取りで本を持っていってしまった。

【箱根】
「うぅ……このままじゃお払い箱だよぉ……」

几帳面さ丁寧さ、そして仕事の正確さや知識量で久山先輩には敵わない。
だからといって私に八重倉先輩のように大量の本を運ぶ事ができるわけもない。

久山先輩と八重倉先輩の二人がいれば仕事として周っている、となると私がいる必要ってないよね?

【満月】
「? おーい、本に囲まれて気分悪くなっちゃった?」

さっきから動かずに立ち止まってしまったままの私を心配してか、八重倉先輩は私と同じ目線にしゃがんで私の顔を覗き込む。

【箱根】
「いえ、そういうわけでは……あ、いそいでこれもっていきますね」

【満月】
「うん」

【箱根】
「久山先輩、ここでよろしいですか?」

【由都美】
「ええ、さっき満月が云っていたけどもしかして箱根ちゃん頭痛かったりするかしら?」

【箱根】
「いえ、そういうことはないですけど」

【由都美】
「こういった場所はある種の人には威圧感圧迫感があって気分が悪くなることもあったりするから。
もし気分が悪いようだったら休んでてもらっても」

【箱根】
「大丈夫です、変な心配かけちゃって申し訳ないですね」

久山先輩の気遣いから逃げるように次の本をとりに戻る。
八重倉先輩ばかり仕事をさせていては本当に私がいる意味がなくなってしまう、と思って急いで戻ったんだけど。

【満月】
「そろそろ休憩にしない? 仕事始めてから2時間運びっぱなしだと腕も張るでしょ」

【箱根】
「そんな、まだまだ大丈夫ですよ」

【満月】
「箱根ちゃんが大丈夫でもボクはもう疲れたよ、休憩しよ」

【由都美】
「って云うだろうなって思ってきてみたら、案の定ね」

【満月】
「なになにフィアってばえすぱぁ? それともボクの考えてることは何でもわかるってことかな?」

【由都美】
「……貴女の持久力のなさを考えると、もう限界だろうかと」

【満月】
「っな! ボクのどこが持久力無いって! これでも陸上部の長距離助っ人として毎回呼ばれるんだぞ」

【由都美】
「訂正する、忍耐力のなさと単純作業の飽きのきやすさ、だったわね」

【満月】
「ああ、それならまあ良いや」

良いんですか……だけど陸上部でもないのに長距離の助っ人に呼ばれるってことは相当持久力が高いということだ。
つまりはさっき疲れたって云う発言は嘘ということだ……

【由都美】
「だけどDの区画も書籍は案外早く終わりそうだから、休憩入れても問題は無い」

【満月】
「やった、そんじゃあボク休憩してくるから♪」

【由都美】
「休憩時間は20分、時間厳守で」

【満月】
「はいはい、時計を見てたらね」

ヒラヒラと後ろ手に手を振りながら八重倉先輩は資料室を後にした。

【由都美】
「箱根ちゃんもご苦労様、ごめんなさいね。 満月と同じ力仕事をさせちゃって」

【箱根】
「でも私にはあれくらいしかできないですから、背が低いですから高いところの整理はちょっとできませんし」

【由都美】
「だけどカホルの使ってる資料はどれもこれもそれなりに重いよ、私は一度に三冊しか持てないしね。
それを持って何度も往復すると、その負担はかなりのものになると思うけど……」

【箱根】
「ぁ、ぁぅ……」

私の腕を久山先輩はニキニキと触っていく。
服の上からでも私の腕が張っているのは明らかにわかる。

【由都美】
「ね?」

【箱根】
「だ、だけど……この程度で休憩をもらっていてはお仕事に支障が」

【由都美】
「この資料庫の整理に期限は無いの、いや、終るはずがないと云った方が良いかもしれないわね。
限りなく終わりに近づくことはできても絶対に終わりはしない」

【箱根】
「どうしてなんですか?」

【由都美】
「単純に量が多すぎるということ、それからカホルが頻繁に利用するということから。
カホルが絵を描くのはご存知だったよね?」

【箱根】
「はい」

【由都美】
「カホルは毎回絵を描く際にこの中から大量の資料を使って下調べと考査を行なってから作業に移るの。
その時につかった資料が丸投げされるから私たちがそれをまた直す、直し終わる頃にはまた新しい資料が持っていかれると」

両手の人差し指を一本ずつ立て、互い違いに行ったり来たり。

【由都美】
「他にもたまには虫干しをしたり、定期的にファイルの更新をしたり。
到底カホル一人でできる訳もない、だから私や満月がここの仕事を任されているの。
もし完全にこの資料庫の整理ができてしまったら、私たちはお役ごめんだからね」

先輩はテーブルに肘をつき、僅かに口元を上げて告げる。

【由都美】
「ゆっくりゆっくり、自分のペースで進んでいけば良い。
早ければ遅く、遅ければ少しだけ上げて。 終わりはないんだから気長に行こうよ」

綺麗に刈り揃えられた前髪の奥、視線は定かではないけどその奥から感じる先輩の瞳。
全てを見透かされているような感覚に、私の肩が少しだけ強張ってしまった。

【箱根】
「……ありがとうございます、久山先輩」

【由都美】
「どういたしまして……」

……

【カホル】
「なるほどねぇ、で、具体的なところどうなっているの?」

【満月】
「ボクの個人的な意見としては、箱根ちゃんはあそこの作業は合わないと思うけどな。
そもそもかおるが箱根ちゃんをあこにつれてきた意図がよくわかんないし」

【カホル】
「珍しいわね、私も満月と同意見。 箱根ちゃんはあそこにはちょっと向かないだろうね」

【満月】
「じゃあどうしてさ? もしかして早くも新人いびり?
うわぁ、趣味悪」

【カホル】
「人聞きの悪いことを云わない、箱根ちゃんが貴方たち二人と同じように動けないことは百も承知。
満月のようにたくさんの資料を運ぶのは無理だろうし、フィアのような知識と経験もない。
さらに致命的なのはあの身長、あの身長だとたぶん一番上の棚には届かなかったんじゃ?」

【満月】
「実際届かなかったけど、だったらなんで箱根ちゃんをあそこに?
かおるは見てないからわかんないと思うけど、箱根ちゃんけっこうへこんでたよ」

【カホル】
「それで結構なの。 むしろへこんでもらった方が大いに助かるわ」

【満月】
「は?」

満月はどういうこと? っと首をかしげ、人差し指でこめかみを押さえてうんうんと頭を捻る。

【満月】
「なんで?」

【カホル】
「あら、満月は気付かなかった? 箱根ちゃんかなり自分の立場を気にしているわ。
学院の中でも一目おかれる満月とフィアの存在、私とスゥには雇い主、今のところ一番気を許せる音々には一種の憧れじみた感情を。
対等な立場が回りにいないということは常に緊張し続けるということ」

【満月】
「えぇと、だから?」

【カホル】
「箱根ちゃんは気をはりすぎていえるということよ、つまりプレッシャーに当てられ続けているということ。
ことの他ここの子は仕事ができるからなおさら、プレッシャーはその人を悩ませ不安にさせる、知らず知らずのうちにね」

【満月】
「箱根ちゃんがその状態だと?」

【カホル】
「話を聞く限りではね、だからこそ箱根ちゃんには絶対に向かないであろうあそこに行かせた。
『適材適所』、そういったものがあるってことを知ってもらうためにね」

【満月】
「あぁ、なるほど」

大体のことを理解したのか手をポンッと叩く何年も前のリアクションをとった。

【カホル】
「何でもこなせる人なんているわけがない、実際満月やフィアをあそこにしたのもそこが一番向いていたからなのよ」

【満月】
「なんで、ボクだってウェイトレスとかしたい!」

【カホル】
「貴女がもう少しお淑やかでお客様に手を出さなければね。
と、そろそろ私も戻らないと……とりあえず今日は箱根ちゃんのフォローよろしく頼んだわよ」

【満月】
「了解、そのかわり終ったら後でなんかおごってよね、箱根ちゃんいじめた罰として」

【カホル】
「はいはい、さっきから音々が張り切ってお菓子作ってるからそれで良い?」

【満月】
「サンキュ♪ それじゃボクも、あの陰険な魔窟に戻りますか……」

言葉の最後は完全に尻すぼみ、よほどあの場所に入るのが好きではないのだろう。
だけどあそこが満月に一番合った仕事場所、適材適所なんだからまあ我慢してね。

……

【由都美】
「ふぅ……ようやくD区画は終わり、今日はこれでお終いにしましょう」

【満月】
「さんせぇー……ボクもう一冊だって運びたくないよ」

【由都美】
「ご苦労様、案の定残業させちゃったね」

D区画の全ファイルを整理し終えたのは喫茶店がお店を閉める時間から一時間ほど過ぎていた。
整理と運搬に夢中になって時間の経過が凄く早かったな、覚えることも多いけどもっとテキパキ動かなくちゃ。

【箱根】
「私はまだまだ足手まといですから、いっぱい仕事して速く覚えないとダメですね」

【満月】
「テキトーで良いんだよ、どうせかおるがまた滅茶苦茶にするんだから」

【由都美】
「それを放っておくとしわ寄せが来る、去年の年末を忘れたの?」

【満月】
「ぐうぅ、思い出したくもない過去を……」

【由都美】
「箱根ちゃん、カホルに今日の作業は終ったって伝えてきてもらえるかしら?」

【箱根】
「はい、わかりました」

資料室を出ると、暗い空の下にぽつぽつと淡いオレンジ色の光を灯す街灯がはんなりと輝いていた。
街灯はお店の方まで続き、まるで迷子の子を導くかのような不思議な錯覚を受ける。

【箱根】
「失礼します。 カホルさん、作業が終了したので報告に来ました」

【カホル】
「ご苦労様」

【音々】
「お疲れ様です」

【箱根】
「姫崎先輩、まだ残っていらしたんですか?」

【音々】
「はい、箱根ちゃんたちが資料室の整理をしている中、一人だけ帰るわけにはいきませんから」

【カホル】
「私は二人を迎えに行ってくるから、箱根ちゃんは座って休んでいてね。
音々、後は任せたわね」

長い髪を揺らしながらカホルさんは今私が来た道をさかのぼって資料室へと向かう。

【箱根】
「はふぅ……」

【音々】
「ふふ、お疲れのようですね。 いかがでしたか、あそこの感想は?」

【箱根】
「なんというかもう、疲れてしまいました……ちょっと私には難しいことばっかりで」

何がどうというわけではなく、全部をとおしてなんだか疲れてしまった。
喫茶店で仕事をしているときにも疲れはあったけどそれとはまた別物の疲れ、肉体的にも精神的にもなんだか辛かった。

初日だからという理由なら良いのだけど、毎日これが続くとすればちょっと体力つけないとダメかな。

【音々】
「私も何度かあそこでお仕事をしましたけれど、私はちょっとあそこの仕事には慣れませんでしたね」

【箱根】
「姫崎先輩も、なんですか?」

【音々】
「ええ、由都美先輩がお休みのときに何度かやったんですけど、満月先輩の足ばかり引っ張ってしまって。
それに満月先輩とあの空間に二人にされてしまうのも……」

【箱根】
「な、なるほど……」

八重倉先輩と二人きり、それは確かに姫崎先輩にとってはちょっと危険だろう。 色々とその、身体のことで。
毎回毎回決まって満月先輩が手を出すのは姫崎先輩、それも決まって姫崎先輩の胸と決まっている。

確かに姫崎先輩の胸は魅力的、女の子の私から見ても大きくて女性的だと思えるその胸。
そんなことを考える私も自然と視線は先輩の胸に集中して……

【箱根】
「じいぃ……」

【音々】
「あ、あの、あ、あんまり胸ばかり見ないでください」

【箱根】
「ぇ、ぁ、すいません」

慌てて視線を外すのだけど、先輩とはちょっと眼を合わせづらくて視線は落ちつかずに行ったりきたり。

【音々】
「もぅ……こほん、とにかくですね、私が云いたいのは人には向き不向きがある、ということなんです」

【箱根】
「向き不向き……」

【音々】
「人は誰しも完璧ではない、むしろ完璧ではないからこそ人なんです。
いかに優れた人といえどまったく弱点が無い、ということではないんですよ。
実際、完璧に見える満月先輩それから由都美先輩にもちゃんと弱点があるんですから」

【箱根】
「え、あのお二人にもですか?」

【音々】
「勿論です、ここだけの話なんですけどね」

姫崎先輩は辺りをきょろきょろと見回し、そこに誰もいないのを確認してからちょっと声を小さくして教えてくれる。

【音々】
「由都美先輩は給しが苦手、それから満月先輩は蜘蛛が苦手なんです」

どちらもちょっと意外な回答だった。
しっかり者の久山先輩が給しが苦手、怖い物なんてなさそうな八重倉先輩が蜘蛛というのにもちょっと驚き。

【音々】
「由都美先輩はいつもはしっかりしていますけど、ウェイトレスの仕事をすると凄いんですよ。
普段の落ち着きからは考えられないくらいたくさんお皿やカップを割ってしまうんです」

【箱根】
「あの久山先輩が、ですか?」

【音々】
「信じられないですよね、でも本当の話なんですよ。
割っても何事もなかったようにしれっと仕事をするところは凄いんですけど、しれっとしすぎているというかなんと云ったら良いのか」

あの久山先輩がそんなによくお皿を割ってしまう人だとは思わなかった、久山先輩のようなタイプがウェイトレスをすれば人気が出ると思っていたけど
いつも資料室の仕事ばかりで喫茶店に顔を出さないのはそういうことがあるからなのだろうか?

【音々】
「満月先輩の方も普段はちょっと男勝りで怖いもの知らずのようですけど、蜘蛛だけは大の苦手みたいです。
勿論私も苦手ですけど、満月先輩は群を抜いて大嫌いなんですって。
カホルさんの話では、蜘蛛を見るといつもとは違った顔が……」

【満月】
「へぇ、随分と楽しそうな話をしてるね。 音々?」

いきなり参戦してきた八重倉先輩の声に、それまで楽しげに話していた姫崎先輩の方がビクリと震え
表情に少しだけ焦りのようなバツの悪そうな曇りが見え隠れしていた。

【満月】
「ボクたちのいないところでボクたちの弱点暴露大会なんてしてるなんて、ね?」

【由都美】
「あんまり人の弱みを喋っちゃうのは良くない……」

【満月】
「だよね? そりゃ確かにボクは蜘蛛大ッ嫌いだし、フィアはよくお皿割るよ。
でも、それを箱根ちゃんに教えちゃうのはどうなのかなぁ?」

【由都美】
「……有罪」

【満月】
「だそうなので、音々の弱点も暴露しちゃいます♪ 音々の弱点といえばやっぱり……」

ふにぃ

【音々】
「ひぅ!」

【満月】
「この成長著しく魅力的なふくらみだよね♪」

【音々】
「や、止めてください、満月先輩ぃ……」

後ろから羽交い絞めにされたまま抵抗も空しくいつものように満月先輩の餌食に……

【箱根】
「わぁ……」

【由都美】
「箱根ちゃんには眼の毒だから、見ちゃダメ」

【箱根】
「もぁ!」

さっと久山先輩に両目を覆い隠される、普通に手で隠してくれれば良いのによりによって久山先輩の胸に顔を押し付けられて
無理矢理視界を遮られてしまった。

押付けられた先輩の胸元はとても柔らかくて暖かい、それと先輩から立ち上る草花の香りがなんだか私の体を脱力させた。

【音々】
「や、もう、許してください……」

【満月】
「まだまだ、ボクが揉むのに飽きたら解放してあげるよ。 あ、だけどそれだと一生解放できないか」

【由都美】
「相変わらず、過激ね……箱根ちゃんにはちょっと刺激が強そう」

なんて云いながら先輩はもう一回私の後ろ頭を押さえて胸元に押付けた。
一体私の見えていないところでどんな秘め事が行なわれているのか、僅かにもれてくる声を聞きながら不思議な、とても不思議な時間は過ぎていった。

……

【一二三】
「お待たせいたしました」

一二三さんが人数分のケーキを運び、それを待ってからカホルさんが切り出した。

【カホル】
「まったくもう、貴女たちは私のお店の中で何をしているのかしらね?
かたや胸をもてあそび、かたや胸に押付けて……そんなに貴女たちは胸が好きなの?」

【満月】
「ボク好きー♪」

【由都美】
「あれはただの目隠し……」

【カホル】
「触るなとは云わないけど、少しは秩序というものを考えて行動しなさい」

【音々】
「うぅ……できるなら触らないで欲しいです」

【満月】
「触るなと云われても手が出ちゃうから困りものだよね。 ボクの手が出るのか
それとも音々の胸がボクの手を引き寄せるのか、一体どっちだ?」

【音々】
「先輩が触りにきてるんです!」

【カホル】
「まあまああんまり怒るのはそれくらいにして、甘い物でも食べて皆落ち着きましょう?
このケーキは久しぶりに音々が作ったんだから」

【箱根】
「姫崎先輩が、先輩お菓子作りもできるんですか?」

【音々】
「一応少しだけですけど、一二三さんみたいに手の込んだ物は作れませんがこれくらいでしたら。
ごくごく簡単な紅茶のシフォンです、皆さんどうぞ」

先輩の一声で皆無言、カチャカチャとフォークとお皿が交わる音だけが小さく響いている。

【由都美】
「……おいしい」

【満月】
「ぅん、確かに。 アールグレイの香りがわって鼻に抜けて、甘さも押さえてあるからいくらでも食べれるね」

【一二三】
「クリームがやや甘め、生地が甘さを抑えていますからどちら派の人も満足できますね」

【音々】
「箱根ちゃんは、どうですか?」

【箱根】
「勿論美味しいです、とっても」

【音々】
「そうですか、良かったです」

姫崎先輩のニッコリとした笑み、その笑みが今日一日の疲れも一時だけど忘れさせてくれる。

【カホル】
「箱根ちゃん、今日の仕事は貴女にはきつかったんじゃない?」

【箱根】
「……はい、足手まといにしかならなくて」

【カホル】
「それで良いの……あそこの仕事は箱根ちゃんには不利な条件がいくつもある、できなくても仕方がないわ。
だけどね箱根ちゃん、何もかも自分一人でできるのならそれが一番良い、でもそんなことは絶対にありえない。
だったら、自分の向き不向きを考え自分が一番力を発揮できるところで頑張れば良いじゃない」

【満月】
「そうだよ、実際かおるだって何でもできるように……は見えないか」

【カホル】
「何気にけなしてくれてありがとう。 だからね箱根ちゃん、あんまり緊張しなくても良いんじゃないかしら?
緊張すると一番疲れるのは自分だよ、もう皆知らない顔じゃないんだからもっとリラックスして」

【満月】
「もし緊張するようなら音々の胸触れば落ちついてくるよ♪」

ふに

【音々】
「や、もう、満月先輩!」

【由都美】
「色魔……」

【満月】
「ぬぁ! ちょっと訂正しろ、箱根ちゃんが勘違いするだろ!」

【カホル】
「はいはい暴れない暴れない、実際こんな子ばっかりだから箱根ちゃんももっと気楽にね。
心配しなくても仕事の結果は後からちゃんとついてくるよ」

【満月】
「それじゃあまずは音々の胸から触ってみよう!」

【音々】
「だ、ダメですよそんな! は、離してください」

【満月】
「ほらほら箱根ちゃんも今うちに」

羽交い絞めにされてわたわたと暴れる姫崎先輩の胸を触れって云われても、さすがにそれは無理ですよ。

だけど、私ってば気づかれていないと思っていたけど……皆にいらぬ心配をかけちゃってたんだな。
早く先輩たちに追いつかなきゃと焦っていたのも事実、凄い先輩たちに囲まれて緊張していたのもまた事実。

だけど、それも今日で少しだけ軽くなれそうだ。
まだ緊張するなというのは無理だけど、きっと少しずつ無意識のうちに緊張しなくなれる日が来るだろう。

久山先輩に姫崎先輩、さらにはカホルさんの助言。 それは私を大きく変え、自分を見直させるための大切な言葉だった。

……

【箱根】
「あの、今日はありがとうございました……」

【音々】
「ふふ、私はちょっとだけお節介をしただけですよ」

姫崎先輩との帰り道、いつもは何か話をしながら帰るのに今日は珍しくお互いに黙ったまま。
耐え切れなくなった私の方から出てきたお礼の言葉、それに受け応える先輩の顔はとても優しくとても楽しげで……

【音々】
「私も、初めての頃は箱根ちゃんみたいに何にでも頑張ろうって、そう考えていた時期もあったんです。
でも一個人でできることなんて限度がある、それだったら自分が一番向いているところを頑張れば良いじゃないかって……カホルさんの受け売りですけどね」

【箱根】
「自分が一番向いているところ、ですか……」

だとしたら私が一番向いているところってどこなのだろう?
接客は姫崎先輩や一二三さんには敵わない、資料室は一番向かないところだと今日のことではっきりした。

だけど、だとすると私の向いたところは……

【箱根】
「……」

【音々】
「あんまりしょげた顔しちゃ駄目ですよ。 まだ始まったばっかりなんですから、ゆっくりと一つ一つやっていきましょうよ」

【箱根】
「……そうですね、ありがとうございます」

【音々】
「良い顔です、それじゃあ私はこれで。 また明日学院で」

【箱根】
「はい、お休みなさい、先輩」

【音々】
「お休みなさい」

お互いにペコンと頭を下げ、先輩は私とは逆方向へと姿を消していく。
街頭の明かりの中からも先輩の姿が消えると、私は今までで一番大きく息を吐いた。

【箱根】
「はぁ……空回り、だったのかな?」

きっとそうだったのだろう、それを先輩たちは皆見抜いていたみたい。
そう考えると少し恥ずかしいうえに、ちょっとだけ悔しくもある……

【箱根】
「でも、いつまでもこんな考え方じゃいけないよね」

見上げた空は街灯の明かりで不自然に明るく、たいして星も見えなかったけど丸くて綺麗な月ははっきりと見えていた。

【箱根】
「明日からもう一回やり直し……よし、頑張ろう!」

パンっと頬を張って部屋への帰路を急ぐ、いつまでもこだわるのは私らしくない。
熱いお風呂にでも入ってっさっぱりすれば気持ちも切り替えられるから。

私の向き不向き、絶対に見つけてやるんだから!






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