【さよならの前日は】
サアアァァ……
いつもより少し熱め、とはいってもさほど変わらないのだけど、いつもよりは気持ち熱めのお湯が髪にまとわりついた泡を洗い落としていく。
髪から居所を失った泡は私の体へとゆっくりと伝わり、少しくすぐったさを覚えるがそれもすぐにお湯が洗い落としてしまう。
【箱根】
「ひゃぅ! 冷た……」
熱めのお湯から温めのお湯へと調節しようとしたのだけど、ほんの少しだけ加減を誤ったみたい。
だけど驚くくらい冷たい方が頭のもやもやも消えて気が引き締まるのだけど、やっぱり冷たいのは好きじゃない。
上手く調節して丁度良いくらいのお湯がシャワーから溢れ、降り注ぐ水が私の体を清めるようなそんな小さな錯覚。
【箱根】
「ふぅ……」
ゆっくりシャワーへと顔を上げ、清めの水を体全体で感じていく。
普段はそんなことちっとも考えないくせに、こんなときだけはそんなおまじないみたいなことを考えてしまう。
……
濡れていた髪もすっかり乾き、指を通してみるとさらさらと流れるような柔らかい曲線を描きながら指の間を抜けていく。
【箱根】
「よし、これでまず髪のお手入れは終了かな」
これでようやく第一段階が終わり、まだまだ色々と準備しないこともたくさんあるんだから。
部屋に戻り、クローゼットを開けて適当な服を一着ずつ取り出してみる。
こうして改めて見てみると、私の普段着って地味なものばっかりなんだな。
黒や紺色、灰色系統で統一されたセーターとサマーセーターがそのほとんど。
肌を露出させるのがあまり好きじゃないからよほどのことがないかぎり普段着はセーターと決まっている。
何か飾りでも施してあるとまだ可愛らしくも見えるのだけど、生憎一着もそんなものはない。
【箱根】
「やっぱり少しくらい人目を気にした服も買えば良かったかな……」
以前はそんなこと全く気にしなかったのだけど、やっぱり今日みたいな日にこの服では少し違うんじゃないのだろうか?
とは云うものの、これから買いに行く時間も無いからこの中から選ぶしかないのだけど、どれも同じようなものか……
あまり変化のない中から出来るだけ明るめの灰色セーターを選び、それに合わせるスカートとソックスも一緒に選ぶ。
セーターが灰色だからスカートは紺のミニで、ソックスは白のニーソックス。
【箱根】
「やっぱり、少しくらいオシャレとか気にした方が良いのかな……」
実家ならこれで特に気にすることなんてなかったけど、こっちに出てきてからはこの恰好は地味すぎるような気もする。
前は友達に地味だよって云われてもよくわからなかったけど、今でははっきりと地味だって理解できるよ。
鏡の前でとりあえず軽くターンを決めてみるものの、なんというかこう……地味の一言で全部片付けられそうだよ。
【箱根】
「うぅ、こんなので今日大丈夫かな……」
今日は大事な日だっていうのに、こんな恰好で行って本当に大丈夫なんだろうか?
【箱根】
「仕方がないよね、ダメだったらきっぱりと諦める。 よし、笑っていけ私」
パシンと両頬を軽く叩き、後ろに長く伸びる髪を上で束ねて全ての準備が完了。
後は向こうで大きなヘマをしないことだけを考えて、鏡に小さく笑いかける。
鏡の中で少女の笑顔は少しだけ引きつりつつも、穏やかさの見え隠れする顔をしていた。
……
腕時計を確認すると、時間は1時半をまわった辺り。
お店の前にはお勧めメニューの書き込まれた黒板が立てかけられていて、昨日一二三さんが云っていたとおりもうお店は開いているみたい。
【箱根】
「あうぅ、き、緊張してきたかも……」
お店が視界に入ってから心臓の鼓動が早くなっている気がする
結構楽観的な性格だから覚悟を決めればこれといって緊張することなんてなかったのにな。
【箱根】
「落ち着け、落ち着いて落ち着いて……ふぅ、はぁ……」
何度も云い聞かせて何度も深呼吸、そんなことで本当に落ち着けるのなら何の苦労もしないよね。
いつまでもこんなことをしていても仕方が無い、私は意を決してお店のドアに手をかけ……
【箱根】
「こんにちは」
【音々】
「いらっしゃいませ……あ、箱根ちゃん」
【一二三】
「箱根様、お待ちしておりました」
お店の中にはまだお客さんの姿は無く、エプロン姿の姫崎先輩と一二三さんが出迎えてくれた。
【音々】
「普段着を見るのは初めてですけど、とても可愛らしいですね」
【箱根】
「ぇ、ぁ、ありがとうございます」
自分では凄い地味だって思ってたから、まさかそんなことを云われるなんて思ってもみなかった。
【一二三】
「とりあえずカホル様に話は通してありますので、私はお店がありますから後は姫崎様お願いします」
【音々】
「はい、箱根ちゃんこちらですよ」
【一二三】
「良い結果になりますことを」
姫崎先輩の後について通されたのはお店の裏側、そこは小さなテラスになっていた。
一台だけのテーブルと、僅か三脚だけの椅子がなんだか秘密の園のような雰囲気を滲ませている。
そんな聖域のような世界の中、椅子のひとつにまるでその聖域の守護者のように長い髪の女性が一人。
【音々】
「あちらがカホルさんですよ、カホルさん」
【カホル】
「音々?」
姫崎先輩の声に女性の髪が揺れ、大人びた声がすうっと私の耳を抜けて頭の中へと伝わっていく。
とても不思議な声なんだけど、どこかで一度聞いたことがあるような奇妙な錯覚の正体は……?
【音々】
「お客様をお連れしましたよ」
【カホル】
「あぁ、スゥが云っていたバイトの子ね」
ゆっくりと女性が立ち上がり、その身長の高さに着飾るような長い黒髪がとても綺麗で。
振り返る動作に合わせるように流れるその黒髪の美しさに見とれていると……
【箱根】
「ぁ……」
【カホル】
「あら」
さっきの奇妙な錯覚の正体はひどく単純で、聞いたことがあるのももっとも、実際に聞いていたんだから。
しかもごくごく最近、時間を限定すれば昨日の朝、私が昨日コンビニの前でぶつかってしまった女性の声と全く同じだった。
【カホル】
「あなたは確か、昨日コンビニの前で会った子で良いのかしら?」
【箱根】
「ぁ、はい! 昨日は失礼しました」
【音々】
「お2人はお知り合いだったんですか?」
【カホル】
「知り合いというほどではないのだけど、全く知らない顔でもないというところかしらね。
昨日私の不注意でこの子とぶつかっちゃってね」
【箱根】
「いえ、余所見をしていたのは私の方で」
【カホル】
「まあどっちがどうとかはどうでも良いんだけど、とりあえず自己紹介を済ませてしまいましょうか」
私の焦りを察してくれたのか、カホルさんは口元にニッと笑みを浮かべて一時の間を与えてくれた。
【箱根】
「あ、夢夜 箱根です」
【カホル】
「私は凶院 カホル、よろしくね」
【箱根】
「まがついん……珍しい名前ですね」
【カホル】
「それは勿論、本名ってわけじゃないからね。
芸名って云うとわかりやすいかしら、本名はとりあえず非公開ってことでよろしく、秘密主義でごめんね」
【箱根】
「いえ、気にしないですから大丈夫ですよ、えと……凶院さんで良いですか?」
【カホル】
「カホルで良いよ、それほど歳もはなれていないしここの子は皆下の名前で呼んでるから。
立ち話もなんだからどうぞ、音々、悪いんだけど箱根ちゃんに紅茶をお願い」
【音々】
「はい、わかりました。 箱根ちゃん、少し待っていてくださいね」
にっこりと微笑んだ姫崎先輩がお店に戻り、この聖域には私とカホルさんの2人だけ。
うわぁ、どうしよう……気まずいというわけではないけど、なんだかまた緊張が戻ってきたみたいな……
【カホル】
「あら、もしかして緊張しているのかしら?」
【箱根】
「ぁ、えぇと……」
【カホル】
「ふふ、私相手に緊張するなんて音々が云うとおり可愛らしいわね。
だけどそういった反応も新鮮、他の子は誰一人緊張なんてしてもくれないから」
私の反応を楽しむように再び口元に笑みが浮かぶ。
促されるまま椅子に腰かけ、それを確認してからカホルさんも腰を下ろす。
【カホル】
「さてと、箱根ちゃんは月代の生徒らしいね、なんでも昨日この辺りで迷子になっていたとか?」
【箱根】
「うぅ……まだこの街の地理に慣れてなくて」
【カホル】
「ということは外部からの受験なわけだ、外部受験となると知っている友人なんかは一人も?」
【箱根】
「はい、一緒に受けた子もいるんですけど残念ながら」
【カホル】
「そっか、だとするとちょっと箱根ちゃんみたいな子にはあそこはちょっと息苦しいかもしれないわね。
月代の生徒って結構お嬢様が多いでしょう、お嬢様育ちは大概他者との意思の疎通が下手なもの。
一年次には案外終盤まで孤高でいる子が多いんだけど箱根ちゃんはどう、まだ日も浅いけど話せる相手はできた?」
【箱根】
「同年代ではまだちょっと、他の子の個性もまだよくわからないのでもう少し時間が掛かると思いますね」
【カホル】
「同年代では、ね。 ということは先輩の中にはもう親しい人が?」
【音々】
「お待たせしました」
姫崎先輩の声にピクンと肩が震える、ほんの一瞬の動作でしかなかったのだけど、カホルさんにはそれで全てを見通してしまったようで。
【音々】
「箱根ちゃん、どうぞ」
【箱根】
「ぁ、ありがとうございます」
眼の前に置かれたティーカップの中からはミルクの香りと、ふんわりとだけど何かのお酒の香りが漂っていた。
【カホル】
「なるほどね、音々か。 確かにこの子ならあの個性の強い月代の中でも話しやすいタイプね」
【音々】
「私が、どうかなされましたか?」
【カホル】
「音々は箱根ちゃんとはいつごろ知り合いに?」
【音々】
「一年生の登校初日の朝に、ちょっと箱根ちゃんにご迷惑をかけてしまって」
【カホル】
「多分きっかけは音々のトラブルだろうとは思ったけど、まさか初日から迷惑かけるなんてね。
ま、時折見せるそういったドジなところが音々の魅力であったりするんだけど」
【音々】
「も、もぉ、カホルさんってばそんなことは云わなくても良いですから」
恥ずかしげに眼を伏せる姫崎先輩と、楽しげに口元をにんまりと形作るカホルさん。
そんな二人を見ながら少しだけ心も落ち着き始め、先輩が持ってきてくれた紅茶に口をつける。
舌にじんわりと甘味が広がり、ミルクとかすかなお酒の香りが口から鼻へと抜けていった。
【カホル】
「それであんなに熱心に私に箱根ちゃんを勧めたわけだ」
【箱根】
「へ……? それって」
【音々】
「か、カホルさん! あんまりそういうことを本人の前では……」
【カホル】
「ふふ、音々が嫌がるからこれ以上は秘密、ね」
唇に指を当て、おまじないでもかけるように投げキッスのような形でスッと指を離す。
だけど今の二人の会話からすると、姫崎先輩が私を勧めてくれたってことだよね。
【カホル】
「だけど、音々の云うとおり素直でとても可愛らしい、今までの子たちにはいないタイプ」
【音々】
「それにとても優しいんですよ、私も初対面のときやクラブ活動のことで随分お世話になっていますから」
【箱根】
「そんな、買被りすぎだと思いますよ」
今度は私の方がテレてしまって視線を落とす、今日は普段云われないことばっかり云われているからすぐに動揺してしまう。
素直とか、優しいとか可愛いとか、そう云ってもらえるのは嬉しいのだけどそれ以上に恥ずかしいよ……
【カホル】
「テレないテレない、だけどそういったなにげない仕草も箱根ちゃんにはぴったりね。
音々、お店の方はどうなっているの? お客さんは何人くらい?」
【音々】
「私がさっき戻ったときには3人ほどでした、忙しくなったら一二三さんには呼んでくださいと云ってありますので
まだそこまで混雑はしていないと思います」
【カホル】
「そう、それじゃあお店の方には私が出ているから。
音々は箱根ちゃんに隣を案内してあげて、それから彼女たちにも紹介をね」
【箱根】
「え、あの……面接みたいなものは?」
【カホル】
「もとから面接をするつもりなんてないよ、このお店に必要だって思ったら即採用。
それが私のやり方だから、これからよろしくね。 後は頼んだわよ」
ポカンと取り残されてしまった私をよそに、コツコツと靴音を小さく響かせながらカホルさんはお店の中へと戻っていってしまった。
【箱根】
「あ、え……」
【音々】
「良かったですね箱根ちゃん、合格みたいですよ」
先輩の微笑みにようやく思考が追いついてきて……え、えぇえ!
【箱根】
「へ、私合格だったんですか?!」
【音々】
「はい、おめでとうございます。 練習期間無しの正式採用ですからもう何も気負う必要ないですね」
【箱根】
「はぁ」
なんだか途端に肩の力が抜けてしまった、自分では強張らせているつもりなんてなかったんだけど
いきなりの脱力で肩に力が入っていたんだと知らされた。
【箱根】
「なんだか信じられないような、安心したような不思議な気分ですよ」
【音々】
「ふふ、カホルさんには不思議な威圧感がありますからね。
ですがああ見えて、と云うとちょっと語弊があるかもしれないですが、カホルさんは私たちのことをよく気にかけてくれるんですよ」
【箱根】
「私もそう扱ってもらえると嬉しいんですけど、そういえばさっき隣がどうとか」
【音々】
「ああ、あちらの建物のことですよ」
【箱根】
「え、あちらって、あの大きな建物ですか?」
姫崎先輩が指差す先にはちょっと古風な西洋造りの大きな建物、もしかするとあれも。
【音々】
「あそこもカホルさんが管理しているんですよ、表向きは美術館ということになっていますけど
半分はカホルさんと一二三さんの居住スペース、それとカホルさんが私用で使う資料室になっているんです」
【箱根】
「美術館って、カホルさんはそんなことまで」
【音々】
「美術館と云うのは少し大袈裟かもしれないですね、美術館というよりも画廊。
カホルさんが趣味で描いた絵を展示してある個展と云った方が相応しいかもしれませんね」
【箱根】
「喫茶店の経営をしながら美術館まで、凄い人なんですね」
【音々】
「案内を頼まれましたから行ってみますか? ですがきっと驚かれてしまうでしょうね」
……
【箱根】
「うわぁ」
画廊というものがどういったものなのかあまり良くわからないけど、多分こんな画廊は他を探しても二つと無いのではないだろうか?
一定間隔に大小様々な絵が所狭しと並べられ、その一つ一つがまるで生命を宿しているかのように私の視覚に訴えている。
絵の中では太い角を携え、ライオンのようなたてがみと鋭い牙を持った獣が獲物を狩るような瞳で私を睨みつけていた。
【音々】
「驚かれましたか?」
【箱根】
「はい、予想していたのとはかなり違っていましたから」
獣の絵はそれ一つではない、周りの絵もみな現実世界にはいないであろう獣や怪物が描かれていた。
てっきり風景画や人物画がメインだと思っていたんだけど、予想はものの見事に外れていた。
【箱根】
「これ全部カホルさんが?」
【音々】
「ええ、全部カホルさんの趣味、昔からファンタジーが好きだったらしいですよ。
女の子の箱根ちゃんはあまりこういったものは好きではないかもしれませんが」
【箱根】
「あまりこんな絵は見ることが無いですから、結構不思議な気持ちになってきますよ」
【音々】
「そうですよね、どうこがどうとは云えないんですが見る人に不思議な感覚を与えてくれる。
私にはカホルさんがどんな気持ちでこういった絵を描いているのかはわかりませんが
こういった絵を描けるのもカホルさんならではなんだって、技術云々ではなくカホルさんの想いが込められているから」
描かれた獣はみな美しく、水彩に油絵、パステルカラーで彩られた独特な彩色が見る者を捉えて離さない。
この画廊には一つの世界がある、カホルさんが創造し、カホルさんが一人だけに確立された絶対域。
ここにある絵は生き続けている、創造主であるカホルさんに生み出され、この世界の中でずっと生き続けているんだ。
【音々】
「カホルさんの趣味も理解していただけたことですからそろそろ本題を済ませましょうか、こちらですよ」
美術館を出て一度喫茶店まで戻り、敷地の脇を抜けて喫茶店の裏側、さっきのテラスまで戻ってくる。
【音々】
「このテラスからの道は美術館の裏へと繋がっているんです、カホルさんと一二三さんのお住まいですね」
【箱根】
「え、私をそんなところに連れて行って良いんですか?」
【音々】
「勿論ですよ、箱根ちゃんをお二人にも紹介しないといけませんから」
クスリと小さく笑みを漏らした姫崎先輩にちょっとだけ首を傾げるものの
今の私にはそれが何を意味するのか当然わかるはずもなかった。
……
コンコン
【音々】
「失礼します、どうぞ」
【箱根】
「うわ、凄い……」
見渡す限り本とファイルがぎっしりと詰められた棚が無数に並んでいる。
学校の図書館とは比べ物にならないほど大量の本に、思わず息を呑んでしまった。
【箱根】
「こんなにたくさんの本見たことないですよ」
【音々】
「あれ、おかしいですね、いつもならすぐにお二人を見つけられるんですけど」
想定外の出来事だったのか辺りをキョロキョロと見渡しながら一歩、また一歩とゆっくりと奥へと進む。
何歩か進んだそのとき、いきなり姫崎先輩の足が止まる。
止まったというよりも……止められたといった方が良いのかな?
ふにゅうぅ……
【音々】
「あ、え?」
【満月】
「くしし、相変わらず発育の良い胸だこと」
【音々】
「へ、あ、ひゃう! み、満月先輩!」
後ろから急に現れた満月先輩は姫崎先輩を羽交い絞めにし、わきわきとちょっとエッチな指使いで姫崎先輩の胸を触っていた。
【満月】
「ダメじゃないか、まだボクたちが返答もしてないのに入ってきたら。
ボクだから良かったものの、暴漢に襲われてたらもう逃げ場無しだね」
確かに暴漢ではないけど、満月先輩のしていることは暴漢のそれと変わらないかそれ以上だと思うんだけど……
【音々】
「や、止めて下さいよ。 人前でそういったことをするのは……ぁぅ」
【満月】
「しっかし女のボクでもうっとりするこの柔らかさ、これって犯罪じゃないのかな?」
【由都美】
「はぁ……犯罪者は貴女の方でしょ」
本棚の間から呆れ顔で久山先輩が姿を見せる、表情は前髪で見えないのだけど呆れ顔をしているのは誰にだって想像がつく。
だけどどうして満月先輩と久山先輩がここに?
【音々】
「もぅ、いい加減放してください!」
【満月】
「はいはい、今日も至福の時間をありがとう。 これで今日も夜はぐっすりだよ」
【由都美】
「色魔……」
【満月】
「なっ! ボクは変態なんかじゃないぞ!」
表情一つ変えずにさらりと的を射抜く久山先輩と、久山先輩の言葉に即座に表情を変える満月先輩の対比が見ていてとても新鮮なんだけど。
【箱根】
「あ、あの……」
【由都美】
「あら……」
【満月】
「箱根ちゃんじゃない、どしたのこんなところで?」
【音々】
「え、満月先輩は箱根ちゃんをご存知なんですか?」
【満月】
「まぁね、空腹で野垂れ死にしそうだったボクを救ってくれた救世主ってところかな。
おかげで午後の授業もぐっすりと寝て過ごせたし」
【由都美】
「満月は上級生としての威厳ゼロね……箱根ちゃん、満月みたいにだけはなっちゃ駄目だから」
【満月】
「またボクを馬鹿にするのか! って、結局のところどうしてまた箱根ちゃんがこんなところに?」
【音々】
「先日のアルバイトの話ですよ、今日から箱根ちゃんも働くことになったんです。
満月先輩が箱根ちゃんとお知り合いということは自己紹介などはしなくても大丈夫そうですね」
【満月】
「へぇー、箱根ちゃんってばボクを助けに来てくれたんだ。 あぁもぅ可愛いなぁ」
【箱根】
「ぇ、うわ、あ、あの……は、恥ずかしいですよ」
先輩が私の体をギューッと抱きしめる、女性にしては身長の高い満月先輩のハグは私をすっぽりと包み込み全く身動きが取れない状況に。
満月先輩から香る女性的な柔らかい香りが無かったら落ちていたかもしれないよ。
【由都美】
「こら、すぐに手を出さない、躾のできてない犬と一緒……」
【満月】
「誰が犬だ!?」
ギャーッと頭の上に太字でも出そうな表情で久山先輩の言葉に反応する。
解放された私は僅かに残る満月先輩の残り香にぼんやりと思考が飛んでしまって……ダメだ、戻ってこい私!
だけど満月先輩に久山先輩もここで働いていたなんて、偶然に偶然が重なったまさに奇跡みたいな状況だよ。
【箱根】
「でも、お二人は喫茶店の方でお仕事をしているのではないんですか?」
【満月】
「人には適材適所ってものがあるからね、ボクと由都美が主に仕事をしているのはここだよ。
かおるが趣味で使う資料の整理と美術館の雑務がほとんどかな」
【由都美】
「私はこういった作業好きだけど、満月はいつも文句ばっかり」
【満月】
「だってさぁ、云ってみればここ窓際部署だよ。 暗いし本に囲まれて頭痛くなるよ」
【由都美】
「根性なし……」
【満月】
「んだとぅ!」
【音々】
「まあまあお2人とも、箱根ちゃんもいるんですから」
しれっと表情も変えない久山先輩、表情変化も豊かでちょっと変わった満月先輩にそんな2人をなだめる姫崎先輩。
みな個性豊かで憧れる先輩像の一人、そんな中で私がやっていけるかちょっと不安なんだけど
こんな中で一緒にアルバイトできるっていうのは私にとってこの上なく嬉しく楽しみなことだった。
……
【カホル】
「まさか私をはじめ全員が顔見知りだったとは、偶然っていうのはいつ起こるかわからないものね」
【箱根】
「本当に私も驚いています、あ、それで私はどこの仕事をすれば?」
【カホル】
「へぇ、随分と仕事熱心ね、満月に悪戯されて早くも嫌になっちゃうかと思ったんだけど」
【音々】
「満月先輩は私にしか意地悪しないですから……」
サッと淡く頬を染めて先輩は視線を落とす、意地悪っていうのはさっきのあれだよね。
【カホル】
「ま、箱根ちゃんにまでむやみやたら手を出すようなら即刻解雇だから。 箱根ちゃん、意地悪されたらすぐ私に云ってね」
【音々】
「なっ、それじゃあ私なら意地悪されても良いって云うんですか」
【カホル】
「音々のウリはそこじゃない、あえて武器を隠す必要なんてないのよ。
ここでの音々の立ち位置はいじられ役なんだから我慢してね」
【音々】
「納得出来ないですよぉ、あんまりじゃないですか」
普段の学校とは全く逆の先輩の立ち位置に、申し訳ないとは思いながらも笑みが漏れてしまう。
【音々】
「あぅ、箱根ちゃんまで笑わなくても……皆酷いですよ」
【箱根】
「あ、すいません、だけどいつもの先輩とは全然違うなって」
【音々】
「私ってそんなにいじりやすいタイプなんでしょうか……」
【カホル】
「少なくとも他の子よりは遥かにね、でもイヤイヤとは云ってもここの仕事を止めないということは。
実際のところはどうなのかしらね?」
【音々】
「もぅ……カホルさんも意地悪です」
【カホル】
「それはどうも、さてと、あの2人にも顔見せが終ったことだし箱根ちゃんは今日もはもうあがっていただいて結構よ。
本格的なお仕事はまた明日からということで大丈夫?」
【箱根】
「はい、大丈夫です」
【カホル】
「良いお返事ね、それではまた明日からよろしく」
【音々】
「頑張りましょうね」
【箱根】
「はい!」
いつもより若干強めの返事が私の心境の全てを表していた。
カホルさんたちに別れの挨拶を交わし、お店を出て一度お店へと振り返る。
【箱根】
「明日から、よろしくお願いします」
これからお世話になるカホルさんのお店『EDEN』へと深々と頭を下げる。
姫崎先輩に満月先輩、久山先輩、カホルさんに一二三さん、皆私よりも一枚も二枚も上手の女性陣の中で
私なんて本当に取るに足らない存在でしかないだろうけれど、私も明日からはここの一員なんだ。
きっとこれからの生活が非常に楽しくなるであろう改変の前日は
今までに無い緊張と今までに無い驚きの連続で過ぎ去っていきました。
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜