【楽園へ行きましょう】



【箱根】
「ん……よしと、これで良いのかな」

昨日貰った部活入部の紙に必要事項を書き、後は自分の署名を入れるだけ。
まあ必要事項といっても、何部に入部するかを書くだけなんだけど。

【箱根】
「『夢夜 箱根』っと、うん、ばっちりかな」

自分の署名も終え、これを後は提出して受理されれば私も部の一員なんだな。
姫崎先輩と同じ部活、なんだかそう考えると恥ずかしいような嬉しいような不思議な感じがする。

まだ僅かに3日しか経っていないのに、まさか部活に入るなんてね。
これも全部初日に姫崎先輩とぶつかったから、あれがなければきっと姫崎先輩とも親しくなるとことなんてなかっただろうな。

くううぅぅ……

【箱根】
「もう、人があの日を思い出しているときになんで鳴るかな」

想い出に浸るよりも体は正直で、早く何か食べさせろとシグナルを送る。

【箱根】
「とはいっても、お買い物は明日の予定だから大した物もないんだよね……」

冷蔵庫を開けてみてもめぼしい物は特にない、だけどあり物で料理を作るのが良いお嫁さんの条件って確かお母さんが云ってた。
とうのお母さんはあり物しかないとよく私に買い物を頼んでいたけど……

【箱根】
「うぅん……卵とご飯…………おじやかな?」

正直朝からおじやを食べるのもどうかとも思う、でも手間も大してなく冷蔵庫の中身でできる朝ご飯となると。
私にはこれが一番良いように思えるんだよね……私しかいないんだからおじやで決まったようなものだけど。

……

【箱根】
「あつ、つつつつ……」

一人用の小さな土鍋の上からふつふつと小さな音が聞こえる。
直接火にかけられて便利だからって専用の鍋掴みと一緒にお母さんが持たせてくれたものなんだけど、今考えるとなんでこんな物もたせたんだろう?

くうぅぅぅ……

【箱根】
「うぅぅ……いただきます」

考えてる暇があったら早く食べさせろって、私のお腹ってそこまで食いしん坊なのかな?

【箱根】
「あつ、ぁ、あく……うん、上出来上出来」

卵とご飯、後は軽い味付けしかしていないあっさりとした味が朝ご飯には軽くて丁度良い。
だけどお昼ご飯どうしよう、お弁当作るにも材料も無いし……購買か学食になるのかな。

さほど量もなく薄味のおじやをお腹に収め、ぽかぽかと暖かくなったお腹をさする。
もっと寒くなってきてから食べるともっと美味しいんだろうけど、お腹も満たされたことだし満足満足。

【箱根】
「ふぅ、よし、今日も一日頑張ります」

鏡を見つめて軽く微笑み、パシンと両頬を軽く叩く。
今日も一日良い日でありますように。

……

昨日は姫崎先輩に会っちゃったからできなかったけど、今日こそ学校周りのチェックを終えなくちゃ。

【箱根】
「えぇと、こっちがいつもの通学路でこっちに行くと姫崎先輩につれていってもらったお店だから。
まだこっちは手付かずなんだ、それじゃあこっちかな」

校門から左右に大きな道が伸び、正面には少しだけ道幅の狭まった道がある。
まだ一度も行ったことが無いから今日はこの道を選んでみよう。

右も左も大きな道であるためにほとんど真っ直ぐな道だけど、この正面の道は結構右へ左へとカーブが多い。
一応常に学校は見えているからさすがに迷子にはならないと思うけど、念のため曲がるたびに学校の位置確認は忘れずに。
何度か道を曲がると、校門前と同じような少し広めの道へと抜けた。

抜けた先の正面にはコンビニが、近いうちに見つけておかなきゃと思ってたからちょうど良いや。

【箱根】
「そろそろ戻った方が良いけど、少しだけ見ておこうかな」

お店の中をくるっと見てまわるくらいの余裕はあるので、折角だから見ていこう。
と思って腕時計の時間を確認しながらお店の扉の前に……少しだけ前が暗くなったかと思うと。

ポフ

【箱根】
「ひゃ!」

【?】
「っと」

頭への軽い衝撃で僅かに上体が後ろへとずれる、慌てて頭を上げると私の前には女性が一人。
考えるまでもない、余所見をしていて私がぶつかってしまったということだろう。

【女性】
「大丈夫?」

【箱根】
「あ、すいません私余所見してて」

黒いワイシャツに深い紺色のジーンズが少し男性的なんだけど、長く伸びた髪と胸のふくらみが明らかに女性であることを示していた。
まばらに刈られた前髪が薄っすらと瞳を隠し、ざっくりと第二ボタンまで開けられたワイシャツからのぞく胸に女の私でも眼のやり場に困ってしまう。

【女性】
「今度からは前にも気を配ってね、それじゃ」

コンビニの袋を提げた女性はコツコツと踵が少し高くなった靴の音を響かせながら去っていく。
後ろ髪も軽く腰を超えるほどの長さ、その髪はどことなく久山先輩に似ているような感じだけど
あの女性の方が先がまとめられていないので大胆な印象を受ける。

だけどあの人もあれだけ長い髪をしていながら、久山先輩と同じように手入れの行き届いたとても綺麗な髪をしていた。
全体的に綺麗というよりも、行動的な大人の女性の凛々しさが見て取れる。

【箱根】
「……」

当初の目的であったコンビニの下見など忘れ、あの女性の後姿になびく綺麗な髪の遊びをポォッと眺めていた。
気付いた時にはもう時間の余裕なんてなく、学校まで走っていく破目に……はぁ、何してるんだか。

……

【教師】
「はい、今日はこの辺にしておきましょうか、委員長号令を」

先生は眼鏡を軽く直し、使った資料をトントンと机に当てて整列させて委員長の号令を待つ。
委員長もそんな先生の仕草が終わるのを見計らってから授業終了の合図をかけた。

さて、午前の授業もこれで終了、これから昼休みに入るわけなんだけど。

【箱根】
「お昼ご飯、どうしようかな」

選択肢としては購買か学食、食べないっていうのもあるけど午後の授業に体育があることを考えると食べておいた方が良い。
購買にするか学食にするか……とりあえず両方見て、空いている方にすれば良いかな。

なんて考えを持ってまず購買に向かったんだけど、よりによって今日の購買はお休みみたい。
ということは自動的に学食になる……なんだか非常に嫌な予感がする。

購買が休みということはそれを期待していた生徒は皆学食に行くわけであって……

【箱根】
「……やっぱり……」

予想通り学食は既に生徒さんでいっぱいだった。
まだ学食には足を踏み入れてないけど、この時点でも大混雑なのは見て取れる。

ここに並んで小さい私がお昼ご飯を食べれるようになるまでどのくらいの時間がかかるのだろう?
昼休みの間に食べ終わるか、それ以前に注文できるのかさえ正直怪しいな。

うぅん……今日はお昼抜きにするしかないかな、マラソンでもない限りお昼食べなくても多分大丈夫だろうし。

【音々】
「あちゃぁ、今日も混んでいますね」

【由都美】
「……」

【箱根】
「ぇ……あ、姫崎先輩」

【音々】
「こんにちは、箱根ちゃん」

【由都美】
「おはよ……」

いつの間にか私の後ろには姫崎先輩と久山先輩が立っていた、全然気がつかなかったよ。

【箱根】
「こんにちはです、先輩たちもお昼まだなんですか?」

【音々】
「はい、生徒会の仕事が入ってしまって。
も、ということは箱根ちゃんもお昼はまだ?」

【箱根】
「まだなんですけど……あれだけ混んでいると、ちょっと。
一日くらい食べなくても良いかなって」

【音々】
「あぁ、確かにあれでは並ぶのも躊躇してしまいますね、ですがお昼ご飯を食べておかないと午後の授業にも支障が出ますよ。
それに、きっとすぐにでも空くと思いますし」

【箱根】
「空くって、これがですか?」

ちょっと俄かには信じがたい、この混雑はそう簡単に途絶えそうには見えないんだけど。

【由都美】
「お腹空いた……先行くよ」

【音々】
「由都美先輩の後についていけばきっと大丈夫ですから。 箱根ちゃんも行きましょう」

【箱根】
「ぁ、はい」

プラスチックのトレーを持って姫崎先輩の後について歩く。
まさかとは思うけど、この混雑を掻き分けて進むなんてことは……

ないよね、姫崎先輩も久山先輩もそういったことをする人には見えないし。

全然空く気配も見せない人の山を前にしても、久山先輩の歩は止まることも緩まることもない。
一直線に学食の受け取り口を目指して進んでいく。

一体この後どうするんだろうと見ていると……

【女子生徒1】
「ぁ、久山会長!」

【女子生徒2】
「ぇ、ぁあ! 生徒会長さん!」

久山先輩に気がついた女子生徒が驚きの声を上げ、その驚きは次々と連鎖を繰り返し、先頭の生徒まであっという間に情報が伝わった。
混雑していた学食は急に一瞬の静けさに包まれ、その後一斉に生徒が動く音へと包み込まれた。

モーセの十戒のように生徒の山が2つ割れ、受け取り口への道が綺麗にでき上がっていた。
まるで魔法でも見ているような不思議な光景に眼を疑い、あまりの驚きに視線が激しく左右を彷徨った。

【由都美】
「カレーライス……辛くないやつで」

【音々】
「では、私はきつねうどんをお願いします、箱根ちゃんはもう決まっていますか?」

【箱根】
「ぁ、ぇ、わ、私もきつねうどんで」

注文する間も両端にずれた生徒からはざわざわとまではいかないまでも、お互いに小さく話し合う声が聞こえくる。
現状をよく理解できていない私にはもう何がなんだか、何を注文するかさえ決めていなかったくらいだからなぁ……

ややあってから私たちが注文した料理が受け取り口から渡される、その間もずっと生徒は左右に分かれたまま。

【由都美】
「ここで良い?」

【音々】
「はい」

私たちが席に着くと、ようやく分かれていた両生徒は一つに戻り、再びさっきまでの雑踏が戻ってきた。
そんな様子をジィッと眺めていた私に姫崎先輩が教えてくれた。

【音々】
「ふふ、驚きましたか? 由都美先輩、ここではとても人気の高い方なんですよ。
今の2、3年生の中には由都美先輩に憧れる人がとても多いんです」

【箱根】
「はぁ、それにしても凄いですね」

【音々】
「ええ、由都美先輩と一緒だと購買も学食も大助かりなんです。
ファンクラブに近いものもあるみたいですよ、勿論非公認みたいですけど」

ファンクラブに近い、云ってみれば親衛隊みたいなものかな。
あの生徒の反応を見れば崇拝に近いような位置まできているのかもしれない。

それなのに、当の由都美先輩はそんなことは気にも留めていないような感じでカレーにスプーンを伸ばしていた。

【由都美】
「……食べないの?」

【箱根】
「あ、いえ」

慌てて割り箸を割り、とりあえずくるくるとうどんをかき混ぜる。

【音々】
「由都美先輩も、たまには在校生の声援に応えてあげたらどうですか?」

【由都美】
「面倒、人気がほしくて会長になったわけじゃないし。
そういったことは私よりももっと相応しい人がいるから」

【音々】
「ふふ、相変わらず照れ屋さんですね」

【由都美】
「む……」

小さく不満を口にするも、さほど気にすることでもなかったのかさっきまでと同じようにカレーにスプーンを伸ばす。

【由都美】
「そういう音々こそ、すでに親衛隊がいるじゃない」

【音々】
「え、私が、ですか? はは、私にそんな人はいませんよ。
第一私は先輩たちみたいに表に立つことも滅多なことではありませんから」

【由都美】
「そう……なんて云ってるよ、箱根ちゃん」

【箱根】
「んふ! えほ、えほ……」

すすっていたうどんが咽の奥で詰まりそうになる、明らかに久山先輩は私を意識して云っていた。
表情は前髪で隠れてよくわからないけど、きっと笑っているのではないだろうか?

【音々】
「だ、大丈夫ですか、ハンカチありますよ」

【箱根】
「い、いえ、自分のがありますから気にしないでください」

汚れてしまった口元をハンカチでサッと拭き、少しだけ、本当に少しだけ怒った眼を由都美先輩へと向ける。
そんな私を気にすることもなく、久山先輩の昼食は続いていた。

【由都美】
「ごちそう様……お先に失礼させてもらう、2人はゆっくりどうぞ」

あ、ずるい、自分で振っておいて振りっぱなしのまま自分だけいなくなるなんて。
今この状態で残されると非常に気まずいっていうのに……

【音々】
「なんだか由都美先輩、楽しそうでしたね」

【箱根】
「楽しんでいるように感じましたけど……」

【音々】
「箱根ちゃんもそう思いましたか? 由都美先輩、後ろ髪がとても楽しげになびいていますからね」

私の眼には綺麗な後ろ髪が揺れているようにしか見えないのだけど、姫崎先輩はそこから久山先輩の変化が読み取れるんだ。

【音々】
「折角席を外してくれたことですから、私たちはゆっくりと食べていきましょうか。
色々とお話でも交えながらね」

【箱根】
「はい」

気まずい雰囲気を掻き消すように特に実りのあるわけでもない雑談を交わす。
実りはないのだけどとても楽しく、とても有意義なお昼ご飯だった。

私がうどんを食べ終わる頃にはもうすっかり冷めてしまっていたことも、この時間がとても楽しかったことを示していた。

……

【箱根】
「ふぅ……これで全部なんですか?」

【担任】
「ええ、ご苦労様でした」

放課後、担任の先生に仕事を頼まれてしまった。
掃除に時間が掛かってしまい、先生が教室に来たときには私しか教室に残ってはいなかった。
そんなわけで私が手伝わされる破目に……

【担任】
「気をつけてお帰りください、今回の件はどこかでプラスにしておきますからね」

【箱根】
「はぁ、ありがとうございます。 あ、先生これお願いします」

【担任】
「部活動の届け……へえ、夢夜さん園芸部に入部希望なんですね。
まだサークルの状態ですが、これで一歩部活へと近付きますね、確かに受け取りましたのであとは受理されるのを待っていてくださいね」

【箱根】
「お願いします、さようならです」

【担任】
「はい、また明日、ごきげんよう」

……

【箱根】
「うぇぇ、ここどこ……」

学校から出た後、朝に引き続き学校周りの探索をしていたのだけど。
見事に迷ってしまった、一体どこをどう来てここに来てしまったのだろう?

色々と曲がったりしたからどっちの方角に学校があるのかもわからない、よりによって周りに人もいないときた。
こういったときは無闇に歩かない方が良いのだけど、歩かないことには現状を打破できないわけで。

【箱根】
「とりあえずあの十字路から周りをちょっと見てみよう」

どこかから学校が見えたらしめたものなんだけど、どうやら私の願いは届かなかった。

【箱根】
「うぅぅ、少し恥ずかしいけどどこかの家の人に聞かないとダメなのかな……?」

【?】
「……どうかなさいましたか? こんなところで?」

【箱根】
「え?」

後ろからの声に振り返ると、そこにいたのはメイド服姿の女性。
このメイド服には見覚えがある、先日姫崎先輩につれていってもらったお店の店員さんだったような。

【一二三】
「先日、姫崎様とご一緒にご来店なされた方ですよね」

【箱根】
「はい、確か……一二三さん、でしたでしょうか?」

【一二三】
「よくご存知ですね。 改めまして、五十八 一二三です」

どこかのお店で買ってきたのであろう紙袋を抱えたまま丁寧にお辞儀をする。
メイド服を着ているということもあいまってか、どこかのお話か映像の中から抜け出てきたような不思議な印象を受けた。

【箱根】
「夢夜 箱根です」

【一二三】
「箱根様、ですね。 それで、こんなところでどうなされたんですか?
後姿を拝見していましたが、妙にそわそわして落ち着きが無いようなご様子でしたが」

【箱根】
「えぇと……恥ずかしいんですけど、ちょっと道に迷ってしまって」

【一二三】
「そうだったんですか、よろしければ私が学院の前までお連れしましょうか?」

【箱根】
「そう云ってもらえるのは嬉しいですが、まだお仕事の途中に余計なことを頼むわけにも行かないですから」

【一二三】
「そうですか……でしたら一度お店に寄っていってはどうですか?
今の時間でしたら姫崎様もいらっしゃいますので、少しの間姫崎様にお店を抜けてもらうこともできますよ」

【箱根】
「姫崎先輩に迷惑をかけるわけにもいかないですよ、ですが折角のお誘いですので。
お客としてうかがわせてもらっても良いですか、お店まで行けば多分学校まで戻れると思いますから」

【一二三】
「では一緒に参りましょう」

……

一二三さんの横について周りの景色を確認しながら足を進めていく。
やがて見覚えのある風景へと変わり、二日前に先輩に連れてきてもらったお店へとたどりついた。

【一二三】
「ただいま戻りました」

【音々】
「お帰りなさい、お疲れ様です」

【一二三】
「お客様をお連れしました、どうぞ」

【音々】
「そうなんですか、いらっしゃいませ……あ、箱根ちゃん」

【箱根】
「ど、どうも……」

出迎えてくれた先輩も、お客が私だということを確認するとお店の顔ではなくいつもの学校と同じ顔へと切り替える。
制服の上からまとった薄い水色エプロンが、いつもの先輩により一層家庭的な可愛らしさが感じ取れた。

【音々】
「一二三さんと一緒なんて、ちょっと予想外でしたね」

【箱根】
「す、少しこの辺りの見取りをしておこうと思ったら……」

【一二三】
「迷子になってしまわれたらしいですよ」

【箱根】
「なっ! 一二三さん、本当のことですけど何も迷子なんて云わなくても……」

迷ってしまったならまだ普通にとれるんだけど、迷子って云われるのはちょっと、もう子供じゃないんですから……見た目は小さいですけど。

【一二三】
「姫崎様、箱根様のご案内をお願いします」

【音々】
「わかりました、こちらへどうぞ、箱根ちゃん。
何かご注文はありますか?」

【箱根】
「えと、それじゃあ先輩のお勧めでお願いします」

【音々】
「私のですか……うぅん、一二三さんお手製のナポレオンパイなんていかがですか?
ちなみに、ナポレオンパイというのは苺とカスタードのミルフィーユのことなんですよ、そちらでよろしいですか?」

【箱根】
「じゃあそれをお願いします」

【音々】
「かしこまりました、少々お待ちください」

【女性】
「すいません、注文よろしいですか」

【音々】
「はい、ただいま」

一人一人に柔らかく微笑み、ぺこりと頭を垂れ、銀の丸型トレーをお腹の下で抱えるようにして厨房の奥へと向かう。
お店側の人として働く姫崎先輩を見るのは初めてだけど、誰にでも愛想良く、とても手際が良い。
慣れからくる余裕と、ここでのお仕事を楽しんでいる様子が私の先輩へのイメージをさらに変えていく。

【音々】
「はい、お待たせしました。 ナポレオンパイと紅茶になります、ごゆっくりどうぞ」

お客様としての対応を終え、今度はお知り合いとしての対応へと切り替わる。

【音々】
「お時間がありましたら私のお仕事が終るまで待っていていただけませんか?
その後、よろしかったら私と一緒に帰りませんか?」

【箱根】
「わかりました、ですが何時間も居座り続けるのは迷惑じゃ」

【音々】
「大丈夫です、一二三さんには私から伝えておきますので。
お茶のお代わりがほしくなったら遠慮なく私を呼んでくださいね、それではお仕事が終ったら一緒に帰りましょうね」

にっこりと先輩は笑みを浮かべ、お店の仕事へと戻っていく。
私は注文したナポレオンパイに舌鼓を打ちながら、ゆったりとした時間の中で働く姫崎先輩をのんびりと眺めて時間を過ごしていた。

……

コーンと低くレトロな感じのする音が店内に響き渡る、時計の針は7時ちょうどを示していた。
既に店内のお客は私しかおらず、CLOSEの札を持った一二三さんがお店の扉へとそれを掲げる。

どうやら閉店時間のようだ、この後は雑務もあるだろうから私は掃除とかの邪魔にならないように外に出ていよう。

【音々】
「あ、中にいてもらって大丈夫ですよ」

【箱根】
「はぁ、だけど掃除の邪魔になるんじゃ……」

【音々】
「また明日開店前にお掃除はしますから、軽くモップがけをしておくだけで大丈夫なんです」

【箱根】
「それじゃああの、私も手伝いますよ」

【音々】
「あぁーダメですよ、お客様としてきていただいているのに手を煩わせるわけにはいきませんから。
なるべく早く済ませますので、もう少しだけお暇していてください」

先輩と一二三さんのテキパキと進む掃除の中、何もできない私が気のせいだろうけど凄く恥ずかしい気がしてきた。
だけど今日の姫崎先輩、学校で見るおしとやかな印象とはまた違う、いきいきとお仕事を楽しんでいるようなそんな雰囲気が後姿から伝わってきた。

先輩、楽しそうだったなぁ……

【音々】
「箱根ちゃん、お待たせしました」

【箱根】
「ぇ、あ、はい」

【音々】
「途中までですが一緒に帰りましょう。 ついでに目印にするとわかりやすい建物なども教えてあげますので」

【箱根】
「ありがとうございます」

【一二三】
「姫崎様、これはこのような感じでよろしいでしょうか?」

【音々】
「これは……あぁ、先日話していた件ですね。 ええ、これで大丈夫だと思いますよ。
表題も見やすいですし、玄関口かお店の中に張っておけば問題ないと思います」

一二三さんが持ってきた紙を主役にして2人は言葉を交わす。
部外者の私には関係ないであろう話なんだけど、ちょっとその紙が気になって……

【音々】
「気になりますか?」

【箱根】
「あ、すいません、部外者が見ちゃダメですよね」

【一二三】
「そんなことはありませんよ、むしろ見てもらうためのものですから。
箱根様はどうでしょう? 見やすくできていると思いますでしょうか?」

一二三さんがわたしてくれた用紙のトップには大きく見やすい書体で『アルバイト募集』と書かれていた。
その文字を見た瞬間、私の中で何かが大きく膨らんで……見事に爆発してしまった。

【箱根】
「あ、あの! このアルバイト、私を使ってもらえないですか!」

自分でも突発的な、とりあえず今云ってしまわないと二度とこんなチャンスはないような気がして。
私のいきなり変わった剣幕に2人は目を丸くして驚いた様子だったけど、すぐにその瞳も元に戻り。

【一二三】
「箱根様を、ですか?」

【音々】
「えぇと、冗談、ではないですよね?」

【箱根】
「ぁ、すいません……いきなりこんなこと云っても無理ですよね。
ですがあの、冗談とかそういうのではないですから」

先輩と一二三さんは私と互いの視線を交互に交差させ、互いに軽くうんと頷き。

【一二三】
「わかりました、今すぐに返事ということはできませんから明日またお越しください。
カホル様には私の方からこの件のことは伝えておきますので」

【箱根】
「本当ですか……でもあの、カホルさんっていうのは?」

【音々】
「このお店の店長さんですよ、今日はお休みですけど明日は土曜日、多分開店時にはいると思います」

【箱根】
「ぁ、ありがとうございます!」

深々と頭を下げ、今になって自分が何を云っていたのか状況が理解でき、心臓がバクバクと鳴っている。

【一二三】
「まだ正式に働けるかはわかりませんので、そこまで頭を下げられると困ってしまいますね」

【音々】
「大丈夫ですよ、箱根ちゃん素直でとても良い子ですから」

【一二三】
「お店は一時から開いていますので、お暇な時間が出来たらご来店ください。
都合が悪いようでしたらまた後日ということで、それまではこの張り紙も不要ですね」

【音々】
「たぶんそのまま使われなさそうですけどね」

……

【箱根】
「はぁ……」

【音々】
「どうしたんですか? 先ほどから溜め息が多いですよ?」

【箱根】
「いえ、私なんかがお店で使ってもらえるのかなって、不安で」

店員さんが先輩と一二三さん、どちらも綺麗な女性らしい人たちなのに
そんな中にこんな小さい私が入ることなんてできるのだろうか?

【音々】
「心配しなくても大丈夫です、箱根ちゃんはお店にはいないタイプの子ですから。
カホルさんの性格上、一ヶ月の練習期間がもらえると思います、その間にアピールできればすぐにでも採用してもらえると思いますよ」 

【箱根】
「やっぱり面接などあるんですか?」

【音々】
「どうでしょう、私の時はそういったものはありませんでしたので」

それはやっぱり姫崎先輩だからかと、私がもし店長さんの立場だったら絶対に即決採用すると思いますし。

【音々】
「あまり気負ってはダメですよ、緊張するとカホルさんは面白がって突いてきますので。
でもそれもある種のアピールになるかもしれませんので、普段通りの箱根ちゃんでいれば問題ないです」

【箱根】
「……そうですね、無駄に着飾ってもそのときだけでは意味が無いですよね。
ふぅ、なんだかちょっとだけ楽に考えられそうです」

【音々】
「ふふ、お役に立てたのでしたら良かったです。
では私はこちらですので、明日のご来店、楽しみにお待ちしていますね」

別れ際にニッコリ微笑み、軽く手を上げて別れの挨拶に私も軽く頭を下げて先輩の挨拶へと応えた。

先輩の後姿が見えなくなるまでジッと見つめ、見えなくなると大きく息を吐く。
もう一度大きく息を吸い、再び全部を出し切ってしまうようにゆっくりと息を出していく。

【箱根】
「明日、がんばりますね、先輩……」

やんわりと辺りが暗さを帯び始める中、決意の言葉を呟きながら明日への期待を高めていった。






〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜