【大きな世界と小さな私と先輩と】



【箱根】
「ん、んうぅ……」

カーテンの隙間から差し込む日差しが閉じていた瞼を刺激し、ゆっくりと開かせていく。
完全に眼が開ききった後も視線は定まらずに、全体的にぼやーっとしたあやふやな形がいっぱいに広がっていた。

【箱根】
「ふぁ、んふあぁぁぁ……」

遅れてやってきた欠伸に触発されて目尻に涙が溢れ、それをクシクシと擦ってから軽く二、三回の瞬き。
あやふやだった視界は次第にはっきりと映り、いつも通りの私の部屋が眼の前にはっきりと広がっていた。

【箱根】
「もう朝なんだ、ふあ、んうぅ……」

もう一度軽く欠伸をした後、ベッドから立ち上がって精一杯伸びをする。
ぐいーっと背筋が伸びる感触があり、限界まで伸ばして一気に力を抜いてベッドに倒れこむ。

派分と体がベッドに埋もれ、このままゆっくり眼を閉じたらもう一回眠りにつけるような心地良さ。
…………だけど、二度寝なんかしちゃったら絶対に学校には遅刻だよぉ。

このまま眠ってしまいたい衝動に駆られるものの、なんとか誘惑と敵対するように体を起き上がらせた。

……

ネクタイを結び、髪をテールに結い、眼鏡をかけて軽く微調整。
ネクタイのタイプが違うとはいえ、昔から鏡の前での動作はほとんど変わっていない。

【箱根】
「ふぅ……よし、がんばろう」

両頬を軽くパンと叩き、鏡の中の私に向かって真剣な視線を交差させる。
それもほんの一瞬だけ、すぐに顔を笑顔に崩して今日も一日楽しく過ごせますようにと祈っていた。

くううぅぅぅ……

【箱根】
「ぁ……」

申し訳なさそうにお腹が鳴った、誰も聞いていないとはわかっていてもなんだか恥ずかしくなってしまう。

【箱根】
「朝ご飯作らなくちゃ」

一応一人暮らしだし、女の子の嗜みとしてそれなりに料理はできるほう、だと思う。
時折大失敗することもあるけど、大体は美味し食べることができる。

凝り性が災いしてか、休日丸一日かけて料理を作ることも珍しくはない。
とはいうもののさすがに朝は手軽にできるものを、ついでにお昼ご飯に繋げられるようなものは……

【箱根】
「簡単にサンドイッチで良いかな」

ちょうどパンもあるし具材にするのに十分な物もある、そうと決まれば行動は早いほうが良い。
上着は邪魔になるから一旦脱いで、腰から下を隠せるエプロンをまきつけて準備完了。

特別変わった手間も無いし、ただ切って塗って重ねてまた切るだけ、お手軽にできて味も美味しいから無駄が無い。
少し多めに作って三分の二がお昼用、残りの三分の一が今日の朝ご飯。

手早くお昼用の箱詰めを終え、先に淹れておいたコーヒーをカップについでお昼と朝ご飯の支度は調った。

【箱根】
「いただきます」

ポンと手を合わせ、まずコーヒーで咽を潤した。
ブラックが飲めないからお砂糖とミルクも入った少し甘めのコーヒーがほっと気持ちを落ち着けてくれる。

口の中の甘味がやんわりと消え始めたところで、サンドイッチをパクリ。
さほど手のかからないツナサンドのマヨネーズの味が舌の上に塩気を与えてくれた。
ただツナとマヨネーズを混ぜるてパンではさむだけのお手軽料理だけど、私の場合はみじん切りしたタマネギと黒胡椒が混ぜ合わせてある。
シャッキリとしたタマネギの歯ざわりと、黒胡椒のピリッとした刺激がとても良いアクセントになっている。

【箱根】
「んくんく……うん、美味しいかな」

自分の味覚だけで美味しいかどうかは決められないけど、食べてくれる人はいないしなぁ……

【箱根】
「はぁ……」

私一人しか居ない部屋の中がどうしてもがらんと広い、そこまで大きい部屋ではないのだけど
私がそう感じてしまうのはきっと、今までこんな世界を見たことがないためであろう。

一人暮らしをして初めて感じる空虚な世界、なるほど、確かにこれはなれないと結構辛い世界かもしれない。
ホームシックには絶対にならないって心に決めて一人暮らしをはじめたはずなのに、負けちゃうかもしれないかな……

【箱根】
「駄目駄目、そんなこと考えちゃ駄目」

ぶんぶんと頭を振って湧き出てきそうな寂しさを掻き消し、それを忘れてしまうように朝ご飯の続きをはじめた。

……

昨日と同じように校舎に入る前にぺこりと一礼。
今はまだ意識してやっているけど、これを意識せずにできるようになれば私もここの生徒になれたってことなんだろうな。

【箱根】
「今日もまた、随分と早く来ちゃったな……」

腕時計が指す時間は昨日よりもさらに早いホームルーム開始40分前。
折角だから今日も学校探検でもして時間を潰そうかな。

【箱根】
「昨日は一階をまわったから、今日は中庭をまわってみようかな」

誰に向けるでもなく、口にした言葉がなんだかとても空しかった……

……

校門から噴水を真正面に見た場合、左に沿っていくと中庭へ、右に行くと部活動で賑わうグラウンドとスポーツ場に出るらしい。
最終的にはその二つの道が合流し、校舎の裏口へと続いている。
ゆったりとした足取りで左に沿って歩いていく、敷地の端に何本も植えられた桜の花が満開で薄桃色の花弁がとても眼に鮮やかだった。
そんな桜の花を抜けた先の中庭、そこにはきれいに手入れされた花壇とその花壇を右へ左へと大忙しの生徒の姿。

あ、あの人ってもしかして……

眼鏡の奥に見える人影に眼を凝らす、確証はないけどあの制服と髪型はきっと。

【音々】
「ふぅ……」

グイっと汗を拭うような仕草で顔が上げられる、あの横顔はやっぱり間違いない。
私が想像するお嬢様にとても近かった、というよりもそのままだった姫崎先輩の清々しい横顔だった。

【音々】
「後は……あ」

くるりと向きを変える際、姫崎先輩と私の視線が交差する。
私に気付いた姫崎先輩はにっこりと微笑み、軽く会釈をしてくれた。

先輩の会釈に私も慌てて会釈をするものの、焦ってしまい会釈どころか深々とお辞儀をしてしまった。
瞬時に私の顔がカァッと熱くなり、こみ上げる恥ずかしさに倒した体を起こすのがとてもギクシャクとしてしまう。

【音々】
「おはようございます、箱根ちゃん」

【箱根】
「ぁ、おはようございますっ!」

まさか名前を呼んでもらえるとは思っていなかったので、返す挨拶の声も自然と大きくなっていた。

【音々】
「早いんですね、まだホームルームまで30分以上ありますよ。
あ、入っても大丈夫ですからどうぞ」

【箱根】
「それじゃあ、失礼します」

中庭には小さな柵、とは云っても私の膝ほどの高さしかないとても低い柵が設けられていた。
その柵を飛び越えるようにぴょんと軽く飛んで柵の向こうへと。

あ、まずい……

ここはお嬢様学校だった、こんな行儀の悪いところを先生に見られたら怒られるに決まってる。
先生でなくても、眼の前に姫崎先輩がいるのに、私ってばもぅ……

【音々】
「あまり柵は飛び越えない方が良いですよ」

【箱根】
「すみません……」

【音々】
「ですが、元気があって新入生らしくて良いですね。
先生方がいる前では控えた方が良いと思いますが、私としては箱根ちゃんらしくて良いと思いますよ」

【箱根】
「ぁ、ありがとうございます」

一応褒めてはもらったけど、これからは注意して行動しよう。
ここはお嬢様学校、普段から清楚を心がけないと、ああやってむやみやたらに大きな動きは控えなくちゃ。

【箱根】
「ところで、姫崎先輩は何をしていらっしゃるんですか?」

【音々】
「時間がありましたから、ちょっと部活動を」

【箱根】
「部活動、ですか?」

【音々】
「はい、これでも園芸部部長ですから。
とはいうものの、部員三名のまだとても小さなサークルなんですけどね」

姫崎先輩はたははっと照れたようにぽりぽりと頬を掻いた。

【音々】
「いつか、できることなら私がここにいられるうちに部へと昇格してくれると嬉しいんですが。
やっぱり土いじりは皆敬遠してしまいますからね」

【箱根】
「後二人の部員さんは来ないんですか?」

【音々】
「二人とも私と違って忙しい方ですから、暇のある私しかこの時間帯は来れないんですよ。
だけど、一人だと出来る作業も限られてしまいますね」

【箱根】
「あの、良かったら私も手伝いますよ。 時間もまだありますし」

【音々】
「ぇ? いや、昨日も手伝ってもらったのに今日もなんて悪いですよ。
それに、土いじりをするわけですから多少なりとも土埃などもつきますよ?」

【箱根】
「大丈夫です、家にいたときはお母さんのガーデニングに付き合わされていましたから。
土いじりはもう慣れていますよ、あ、先輩が迷惑だと云うならば無理にとはいえませんけど」

【音々】
「いえそんなことはないですよ、むしろその申し出は嬉しいんですが……
まだ知り合って間もない新入生の箱根ちゃんに、あれこれとお仕事をさせるのは」

【箱根】
「心配しないでください、新入生とはいえもうここの生徒なんですから。
それに、姫崎先輩の方が先輩なんですから、先輩が後輩に仕事を頼むのは当然のことですよ」

【音々】
「そこまで云っていただけるのなら……よろしくお願いします」

先輩はとてとてと花壇の奥へと走り、新しいシャベルと何かの袋を持って再び戻ってきた。

【音々】
「どうぞ、それからこれも」

【箱根】
「これは種ですね」

【音々】
「はい、3センチほどの穴を掘ったら3、4粒の種をそこへ落としてあげてください。
盛り土は掘った穴の半分が埋まるくらいで大丈夫ですから」

【箱根】
「わかりました、ここから順番にいけば良いんですか?」

【音々】
「お願いします、私は反対からやっていきますので。
あ、時間が近付いてきたら途中で止めてもらっても大丈夫ですからね」

……

穴を掘っては種をパラパラ、少し移動してまた穴を掘っては種をパラパラ。
結構開いていた私と先輩の間の距離は少しずつ縮み始め、やがて2人が横並びになるところまできていた。

【音々】
「種はこれくらいで良さそうですね、箱根ちゃんのおかげで助かりましたよ。
本当は一人でやるには少し量が多くて、どうしようって思っていたところだったんです」

【箱根】
「だとすればなおさら頼ってほしいですよ、遠慮せずになんでも云ってください。
あ、そのさいは私にも出来る範囲だと助かります。 高いところの物とかはさすがに私では……」

この身長、今のところ何一つ便利なことが無い。
前の学校ではなんでも小人料金で良いね、なんて云われたけどさ……云われた方は結構ショックなんだ。

もうそれなりの歳だっていうのに、いつまで小人でいなくちゃいけないの……

【音々】
「なるほど、箱根ちゃんは背が無いのが嫌だ、と?」

【箱根】
「背だけじゃないですけどね……胸とか」

ためしに上から触ってみたけど、大した凹凸も無くストーンと手が落ちてしまう。
いや、わかってはいたけど、改めて自分で試すのはとても寂しい気分になってくる……

そんなペッタンコな私の胸と比べて、姫崎先輩の胸は。

【箱根】
「ジィ………」

【音々】
「ぇ、ええと、胸が大きいというのもあまり良いことではないですよ。
肩もこりますし、下着とかも少し高くなってしまいますし」

【箱根】
「うぅ……一度で良いからそんなこと云ってみたいです」

【音々】
「あうぅ……あ、あんまり胸を見ないでください、私も少し気にしていますので」

恥ずかしそうに両腕で胸を隠そうとするも、腕によって寄せられたせいで余計に胸が強調させられてしまう。
大きな胸は淑女の嗜みってどこかで聞いたけど、私も数日だけで良いから姫崎先輩みたいな胸になってみたい。

【音々】
「ぁ、わ、私お水あげてきますね」

恥ずかしげにパタパタと駆け出してしまった姫崎先輩の背を見ながら、失礼なことをしてしまったかなと少し後悔。
とはいうものの、どうして私の体はこんな女の子らしくないのだろう……

身長があればスレンダーなイメージを、胸があればグラマーなイメージを与えるのに。
私はよりによってどっちもないからいまだに実年齢よりもかなり幼くみられてしまう。

とほほ、どうにかならないかな……

【音々】
「お待たせしました」

如雨露片手に戻ってきた姫崎先輩は、軽く如雨露を傾けて先ほど種を埋めた土肌へと水を降らし始めた。
柔らかく如雨露から出る水が土肌をしっとりと濡らし、乾いた面と濡れた面の色の違いがとても鮮やかだった。

【音々】
「今日はありがとうございました、私一人ではこんな早くは終わりませんでしたから。
あ、今日の放課後は何か予定が入っていますか?」

【箱根】
「いえ、今日は何もないですけど」

【音々】
「それでしたら、少しだけ私に付き合ってもらえませんか?
昨日とそれから今日のことも含めてお礼をさせてください」

【箱根】
「へ、いえ、嬉しいですけどそんなこと」

【音々】
「こういう申し出は素直に受け取っておく、淑女の嗜みですよ」

【箱根】
「そうでしたね、それじゃあその、お付き合いさせてもらっても良いですか」

【音々】
「はい、それじゃあ放課後、噴水の前でお待ちしていますね」

キーンコーン

【箱根】
「ぁ……」

【音々】
「ぁ……」

ホームルーム開始の鐘が鳴り響く中、二人の少女はお互いの顔を見合わせてくすりと微笑んだ。

……

午前中の授業が終り、今はちょうどお昼休み。
購買に向かう生徒、食堂に向かう生徒、教室でお弁当を食べる生徒など実に様々。

私はお弁当を持って屋上へ、誰かいるだろうと思って来たのだけど
私の考えとは裏腹に、誰もいないがらんとした空間が広がっていた。

【箱根】
「はぁ……」

こんなに広い屋上なのにいるのは私一人だけ、広い屋上にベンチにぽつんと一人で座って食べる昼食。
酷く物悲しく、それが影響してかあまり食も進まない。

これなら教室で食べる方がまだ生徒の声がして食べやすかったかなと後悔してしまう。

食事も程々に、ぼんやりと視線を上に向けて空を眺めてみた。
ゆっくりと流れる雲、早く流れる雲、大小さまざまな雲が空の海を渡っていた。
雲には孤独というものが無い、全てが独自のスピードを持ち、全てが他のスピードを気にすることもない。
そんな雲と違って、私たち人には全てに独自の意志が存在する。

初めに飛ばして後はゆっくりといく人、最後まで同じペースを保つ人、後半の巻き返しを狙う人。
皆各個としての考えを持ち、それを実現するためのスピードを選んでいる。

そんな中で、私のスピードって一体どの辺りなんだろう?

【箱根】
「考えてもしょうがないけど、考えずにはいられないのかなぁ……」

まだ四月の暖かく柔らかい陽射しがキッと瞳に眩しく、それを隠すように手をかざす。

【箱根】
「焦るな焦るな、まだ始まったばっかりなんだから」

自分に言い聞かせるようにそう呟き、ゆっくりと二、三回の深呼吸。
すると。

【声】
「ふぁ、ああぁぁ……」

【箱根】
「ぇ?」

私以外誰もいないはずの屋上から私のものとは違う声が聞こえてきた。
慌てて回りにキョロキョロと眼を向けるものの、やっぱり誰も見当たらない。

一体どこから?

【声】
「はぁ、よく寝た……」

【箱根】
「上? ぁ」

屋上からさらに上のスペース、まさかそこに誰かいるなんて考えてなかったけど。
そこから姿を見せたのは昨日の、男の子たちに云い寄られていたところを助けてもらったあの人だった。

【女生徒】
「よっと」

後数段というところで女生徒はタンッと地面に飛び降り、ストレッチでもするかのようにグイーっと体を伸ばしていた。

【女生徒】
「ふぁ、あぁ……こんな天気の日は陽の下で寝るのもまた格別、あ」

私に気付いた先輩はストレッチをしていた腕を組み替え、もう一度々動作をしてから私の側へと歩み寄った。

【女生徒】
「確か、昨日校門前で云い寄られてた子だよね。
どしたのこんな誰もいない寂しい屋上なんかで、もしかしていじめられてるのかな?」

【箱根】
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……まだ知り合いもいなくて」

【女生徒】
「なるほどね、まだ始まって間もないし知り合いがわんさかいるってこともないか。
毎年そういった子っているけど、ここに来るのはちょっと珍しいね」

【箱根】
「え、そうなんですか?」

【女生徒】
「うん、なんでなのかはわからないけど、この屋上ってばあんま人気ないんだ。
まあそのぶん、人知れずゆっくりとお昼寝できるわけだけどね」

お昼寝って、可愛らしく云ってるけどようはサボったってことだよね。

グウウゥゥゥゥゥ……

【女生徒】
「お」

大きくお腹の鳴る音が聞こえ、先輩はさすさすとお腹を擦った。

【女生徒】
「さすがに3時間目からずっと寝てるとお腹空くね」

【箱根】
「あ、私のお昼で良かったら食べませんか?」

【女生徒】
「へ、良いの? だけどそれじゃあ君はどうするの?」

【箱根】
「あまり食欲がなくて、このまま持って帰っても捨てちゃうだけですから」

【女生徒】
「そういうことなら遠慮なく、いただきまーす。 あぐ」

私からお弁当を受け取った先輩はサンドイッチを一口に頬張った。
私の口には少し大きかったのだけど、先輩はさほど気にすることもなくもくもくと口を動かしている。

【女生徒】
「んくんく、ごくん……ぷぁ、あ、美味しい。 これは君が?」

【箱根】
「はい、一応一人暮らしですので料理は、お口に合いしましたか?」

【女生徒】
「上出来上出来、料理上手いんだね。
このツナサンド、タマネギと黒胡椒がよく効いてていくつでも食べられるね」

そう云いながらまた1つを口の中へ、やっぱり美味しいって云ってもらえると嬉しくなってくる。
次々とサンドイッチは消えていき、やがて最後の1つまでも先輩は食べつくしてくれた。

【女生徒】
「ご馳走様でしたっと、ありがとね、美味しかったよ」

【箱根】
「いえ、私の方こそありがとうございます」

【女生徒】
「うぅーん、ふあぁ……お腹いっぱいになったらまた眠くなってきちゃったな。
だけどこれ以上お昼寝してるとまた怒られるだろうし、教室でお昼寝に切り替えかな」

教室でもお昼寝なんですね、なんだかとことんまで自由な先輩だな。

【女生徒】
「ふあ、ぁぁ……誘惑に負けちゃう前にさっさと退散、かな。
今日はお昼ありがとね」

【箱根】
「いえ、どうせ私じゃ食べきれませんでしたから」

【女生徒】
「もしなにか困ったことがあったらいつでも声かけてね、食べ物の恩は一生忘れないよ」

ニコッととても明るい、姫崎先輩の優しいとはまた違う美少年のような笑みを見せてくれた。
もし先輩が男性だったら、もしかしたら落ちていたかもしれないその笑顔。

【女生徒】
「とと、忘れてた。 まだ君の名前聞いてなかったね、教えてくれるかな?」

【箱根】
「夢夜 箱根です」

【女生徒】
「箱根ちゃんね、ボクは八重倉 満月。
また変な男に云い寄られたりしたら遠慮なく声かけてね、またボクが懲らしめてあげるから」

満月先輩は後ろでに手をフリフリしながら下の階へと続く階段へと消えていった。

【箱根】
「やっぱり、カッコイイ先輩だな……」

……

午後の授業も何事もなく終了し、生徒皆が待ちに待った放課後へと時間が移る。
かくいう私もこの放課後が待ち遠しかった、急いで帰り支度を済ませて足早に教室を後にする。

廊下は走れないから走らない程度の早足で廊下を歩き、階段を下り、下駄箱へと急ぐ。
下駄箱で靴を履き替えてそのまま倒れそうになりながら校舎の外へ。

【音々】
「箱根ちゃん」

【箱根】
「はぁ、はぁ、お待たせしました」

できる限り急いだのだけど、私よりも先に姫崎先輩は噴水の前に到着していた。

【音々】
「そんなに急がなくても、ゆっくりで良かったんですよ」

【箱根】
「お待たせしたら失礼ですから、とは云ってもお待たせさせてしまいましたけど」

【音々】
「これくらい待ったに入りませんよ、少し歩きますけど大丈夫ですか?
もう少し落ち着いてからでも私はかまいませんけど」

【箱根】
「大丈夫です、これでも前の学校では陸上部でしたから」

【音々】
「まあ、頼もしいですね。 それじゃあ行きましょうか」

……

姫崎先輩に連れられて、いつもとは全く逆方向へと歩みを進める。
こっち側には用もないから一回も来たことが無い、そんな私を気遣ってか姫崎先輩の歩調はとてもゆっくりとしたものだった。

【音々】
「こちらですよ」

先輩が立ち止まった先、そこには一件の喫茶店。
喫茶店の看板には大きく「EDEN」と独特の書体で書かれていた。
お店の前には本日のお勧めと書かれた小さな黒板、外観はどこか西洋の香りがするところにその黒板のアンバランスが逆に可愛らしい。

【音々】
「こんにちわ」

先輩の後に続いてお店の中へ、外観と同じく内装もどこか日本離れした独特のものだった。

【メイド】
「いらっしゃいませ、ぁ、姫崎様」

【音々】
「おはようございます、一二三さん」

先輩の挨拶が少し気にはなったけど、そんな疑問はあっという間に消え去ってしまった。

【一二三】
「今日はどうされたんですか? 確か今日はお休みのはずですが?」

【音々】
「今日は私用で、お客様として来させてもらいました」

【一二三】
「そうですか、そういうことでしたらごゆっくりしていってください。
お席の方はご案内いたしましょうか?」

【音々】
「私が案内しますから大丈夫ですよ、一番奥の席使わせていただきますね」

【一二三】
「かしこまりました、ご注文はどういたしますか?」

【音々】
「そうですね……箱根ちゃんは紅茶は大丈夫ですか?」

【箱根】
「あ、大丈夫です」

【音々】
「それじゃあ紅茶のストレートと、それから本日のお勧めを2人分お願いします」

一二三さんと呼ばれたメイドさんは軽く会釈を残し、お店の奥へと向かう。
私はというと姫崎先輩の後について一番奥の席へ。

【箱根】
「あの、少し気になったんですけど、先輩とさっきのメイドさんはお知り合いなんですか?」

【音々】
「はい、ですがお知り合いというよりも、同僚という方が正しいですね。
今日は休みなんですが、普段はここでアルバイトをさせてもらっていますので」

【箱根】
「そうだったんですか、ということは、先輩もいつもはメイド服を着ているんですか?」

【音々】
「いえまさか、一二三さんは住み込みのお手伝いさんですので、ああいった服が日常みたいなんです。
私がお仕事をしているときはもっぱらこの制服ですよ」

【箱根】
「そうなんですか、でも姫崎先輩ならきっとああいった服も似合うと思いますよ」

【音々】
「えぇ! ご冗談を。 私はああいう服はちょっと。
人に見られる服装というのはあまり得意ではなくて……」

【一二三】
「私は姫崎様にはお似合いだと思いますけどね、お待たせしました」

私と先輩の話に上手い具合に割り込む形で一二三さんが紅茶とケーキを運んできた。

【音々】
「もう、一二三さんまでそんなこと……」

【一二三】
「男性のお客様はほとんど来ないのに、恥ずかしいということもないと思いますが?」

【音々】
「性別がどうこうではなくて、あまり目立つ恰好は私には」

【一二三】
「確かに、男性でなくても気にはなりますよね、姫崎様の体は」

お盆で口元を隠しつつも、明らかにその奥で口元が笑っているのは明白だった。

【音々】
「もう、一二三さん!」

【一二三】
「くすくす、どうぞごゆっくり」

お盆で口元を隠したまま、はっきりとわかる笑みを残してお店の奥へと戻っていった。

【音々】
「ふぅ、一二三さんのせいで話がずれちゃいましたけど、どうぞ召し上がってみてください」

さあさあ姫崎先輩が勧めるケーキにフォークを伸ばす。
今の季節が時期の苺がふんだんに盛り込まれた苺のタルト、鮮やかな苺の赤と、大人しいタルト生地の対比がとても綺麗だ。

【箱根】
「あむ……んぅ、美味しいです」

【音々】
「ですよね、このお店のお菓子はほとんど一二三さんが作っているんですよ。
私も時間があるときはお菓子作りをしますけど、一二三さんのように美味しく作れたことないんですよね」

【箱根】
「そう云われると、いつか先輩の作ったお菓子も食べてみたいです」

【音々】
「人様にお出しするようなものじゃないですよ。
それに、一二三さんのお菓子を食べてしまった後だとどうしても見劣りしてしまいますから」

敵わないですから、と付け加え、紅茶をカチャカチャとスプーンで回してから口をつけた。

【音々】
「ゆっくり召し上がってくださいね、食べながら出結構ですので、私のお話にも付き合ってくださいね」

【箱根】
「はい、喜んで」

それからは時間も忘れ、姫崎先輩との談笑に花を咲かせた。
学校では一人だった私も、この時間だけは一人ではない、ずっとこの時間が続けば良いのだけどそういうわけにもいかなくて……

【音々】
「ぁ、もうこんな時間なんですね、私が切り上げないばかりにつき合わせてしまって」

【箱根】
「いえいえ、できることならもっと先輩とは話していたいです」

【音々】
「ふふ、そう云ってもらえると誘った私としても一安心です。
一二三さん、お会計をお願いします」

【一二三】
「かしこまりました」

……

先輩とともにお店を出ると、辺りはもう紅く色付き始めた夕暮れ模様が広がっていた。

【音々】
「んんぅ、なんだか話疲れちゃいましたね」

【箱根】
「ですね、姫崎先輩、今日はありがとうございました」

【音々】
「私からもありがとうございます、新入生の方とこんなに話しができてとても楽しかったです。
またいつか、こうやってお茶ができると良いですね」

【箱根】
「私も、そうなってくれると嬉しいです」

【音々】
「お互いがそう思うなら、きっとまた実現できるかもしれませんね。
今日は本当にありがとうございました、また学校で会ったらよろしくお願いします」

【箱根】
「私の方こそ、よろしくお願いします」

【音々】
「はい、それではまた明日」

小さく手を上げ、柔らかい笑みを見せた姫崎先輩は夕日を背に受けながら紅く色付いた世界へと溶け込んでいった。

【箱根】
「さてと、私も帰ろうかな」

先輩とは逆方向、正面から夕日を浴びながら私も紅に染まる世界へとその身を馴染ませていった。
浮ついた気持ちはきっと今日の眠りがとても穏やかで、とても気持ちの良いことを急かすように私の心を揺さぶっていた。






〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜