【5月01日(木)】
屋上を緩やかな風が通り抜ける。
今日から5月、風も少し温かみを帯びてきた。
【一条】
「暑すぎず、また寒くもない、年中こんな感じなら良いのにな」
夏は暑く冬は寒い、四季を持ち合わせた日本だから感じられることだけど、体は暑さと寒さを嫌う。
屋上のベンチに寝転がって気長に空を見ていられるのも今と秋の間だけ。
真夏にこんなことしてたら熱中症に、真冬にしてたら凍死するもんな。
【一条】
「後5分か……どうやら今日も来そうにないな」
諦めてベンチを立ち上がり、そのまま給水塔の上に上る。
久しぶりに給水塔から景色を眺め、ポケットの仲からオカリナを取り出す。
そっとオカリナを口に当てて息を吹き込み、オカリナに音を紡がせる。
勿論奏でる曲はあの曲、というか俺はこの曲しか吹けない。
いや、吹けないんじゃなくて吹きたくないんだ、吹こうと思えば少しくらいなら吹ける、曲だっていくつか覚えたんだ。
だけど、どうしてもこの曲以外は吹けない、何がどうなってそうさせるのかわからないけど……
じきに曲も終曲を向かえ、音がゆっくりとテンポを落とし、ボリュームも薄っすらと消えていく。
【一条】
「この曲が全部わかったのも、あいつのおかげなんだよな……」
……
【水鏡】
「……」
オカリナの音が消えた、もう昼休みも終わりだから上から降りてくるころだろう。
見つかってしまう前に去らなくちゃ、そう思って逃げるようにその場を立ち去った。
【水鏡】
「誠人……先輩……」
いそいそと階段を駆け下りる、その時、不意に顔に感じる冷たさ。
それが自分の瞳から流れる涙であることを、彼女は認めたくなかった……
……
【一条】
「さてと……」
【羽子】
「一条さん、今日もこれから姫崎さんのところですか?」
【一条】
「ああ」
【羽子】
「聞きましたよ、なんでもやっと姫崎さんに告白したそうじゃないですか。
私はてっきりもう2人は付き合ってらっしゃるのかと思ってましたから、びっくりです」
【一条】
「どうしてそのこと……美織しかいないよな」
【羽子】
「今日の朝私に出会って開口一番におっしゃっいました」
やっぱりあいつだよ、といっても俺が云ってないんだから美織しか考えられない。
【羽子】
「……」
【一条】
「……どうかした?」
急に顔を赤らめて手をもじもじと落ち着かないように動かす
【羽子】
「一条さん……姫崎さんとお付き合いしている中悪いんですけど、その……」
【一条】
「羽子さんにしては歯切れが悪いな、はっきり云ってくれてかまわないぞ」
【羽子】
「は、はい……あの……その……私も、ずっと前から好きでした!」
【一条】
「……は?」
突然の告白、ポカンと口を開けたまま状況がつかめていない俺と、顔を真っ赤に紅潮させた羽子さん。
2人の間に僅かな沈黙、少しずつ状況の整理がついてくる。
【一条】
「えっと……それはつまり……どういうこと?」
【羽子】
「で……ですから……私も一条さんのことが……す……すすす……」
【一条】
「好きだったと?」
【羽子】
「は……はい」
【一条】
「……」
【羽子】
「……」
羽子さんは顔を真っ赤にしながらちらちらと後ろに視線を向ける、人がいないかを心配して……
【一条】
「……美織!」
【美織】
「!」
俺の声でサッと身を隠すももう遅い。
【一条】
「おーい……」
【美織】
「にゃ、にゃ〜……」
今時猫の真似って……そんなの小学生でも騙されんって。
【一条】
「もうばれてるから、今出てこないと……男を怒らせると怖いぞ」
【美織】
「わかったわよ、降参」
手をひらひらと上げて俺に降参の意思表示、どうやら俺は罠にかけられたみたいだな。
【美織】
「まったくもう、羽子が演技下手だから誠人ひっかからないじゃない」
【羽子】
「む、無茶云わないでください、たとえ演技だとしても男の方に告白するのなんて生まれて初めて……」
【美織】
「なーに照れちゃってんの、非純情乙女のくせにそんなところで純出してどうするのよ」
【羽子】
「だ、誰が非純情乙女ですか!」
【美織】
「おお怖い、大体なんの前振りもなく告白するなんておかしくない? これだから非純情乙女は……」
【羽子】
「だったら貴方がやれば良いじゃないですか、はぁ、ここまで恥ずかしかったの初めてです」
恥ずかしさが抜けて力まで一緒に抜けたのか、羽子さんはそのままぺたんと床に座り込んだ。
【美織】
「いつもは床になんか絶対に座らない羽子が珍しい、マコに告白の演技するだけでそこまで緊張するかな?」
【羽子】
「私にとってはするんです!」
【一条】
「盛り上がってるところ悪いんだけど……」
【美織】
「何よ?」
【羽子】
「なんですか……?」
【一条】
「なんでまたこんな手の込んだ芝居を?」
【美織】
「そんなの決まってるでしょ、誠人が他の女の子に告白されたら浮気しないか確かめたの。
あたしが告白してもすぐにばれると思ったから羽子に頼んだんだけど……人選ミスだったわ。
たかが演技でまさかあんなこちこちに緊張するなんてね」
【羽子】
「だから私は最初から嫌だって云ったんです。
それなのに貴方が姫崎さんのためだって無理矢理やらせたんじゃないですか」
【一条】
「なるほど、全部美織の仕業だったわけだ」
【美織】
「人聞きの悪いこと云わないで、あんたが浮気性だったら姫が可哀想だと思ったからよ。
姫のためだから羽子だって提案に乗ったんでしょ?」
【羽子】
「まあ……貴方のためだったら当然お断りしますけど、姫崎さんのためですから……」
【一条】
「理屈はわかった……美織ちょっとしゃがんで」
【美織】
「? 別に良いけど……これで良いの?」
しゃがむことで羽子さんと頭の高さが同じくらいになる、その2つの頭に向かって俺は……
パシン!ペシン!
【美織】
「いたーいー」
【羽子】
「なんでまた私まで……」
【一条】
「あんまり人で遊ばないこと、今度やったら1週間食事をおごってもらうからな」
【美織】
「1週間は長いんじゃないかな……」
【一条】
「だったらもうするな、云っておくけど俺は本気だぞ」
……
【羽子】
「怒らせちゃいましたね……」
【美織】
「うん……だけどこれで良かったのかもしれないよ」
【羽子】
「良かった……ですか?」
【美織】
「考えようによってはね、ほら、いつまで床に座ってんの」
【羽子】
「あ、すいません……それで、どういう意味なんですか?」
【美織】
「怒れるってことはさそれだけ本気なんだよ、姫を思う気持ちがね。
羽子だって顔は悪くないんだから告白されたら付き合っても不思議じゃなかったのに」
【羽子】
「その説明だと私は顔以外悪いところだらけみたいな云い方ですね」
【美織】
「今はそんなところに食いつかないでよ、つまりさ、外見だけとかじゃなくて本当に心から姫が好きなんだよ。
そうじゃなかったらあのマコが絶対女の子に手なんか出すはずないもん」
【羽子】
「そうですね……」
2人とも窓に寄りかかって当人の消えた扉を眺める
【美織】
「ごめんね……急に変なことやらせちゃって」
【羽子】
「いえ……かまいませんよ、私も内心では初めての経験ができて嬉しく思っていますから」
【美織】
「絶対に……大丈夫だよね、あの2人なら絶対に大丈夫だよね」
【羽子】
「勿論、私たちが好きな姫崎さんと、その姫崎さんが選んだ方、上手くいかないわけないじゃないですか」
【美織】
「うん、そうだよね……マコ、姫……がんばってね」
【羽子】
「お2人とも、お幸せに……」
……
【一条】
「こんちわ」
【音々】
「いらっしゃいませ、お待ちしていましたよ」
【一条】
「えーと……あの、その……なんだ……」
【音々】
「どうかしましたか?」
【一条】
「いや、俺たち付き合うことになったわけだろ、なんかどう接したら良いのかわからなくて」
【音々】
「ふふ……付き合う前はあんなに積極的だったのに、付き合いだしたら急にシャイになりましたね。
特に何も変えなくて良いと思います、変に色々と変えていたら疲れてしまいますよ」
【一条】
「さいですか……」
学校にいる時は気にもしていなかったのに、いざ音々の顔を見ると途端に恥ずかしくなってどうしたら良いのかわからなくなる。
そんな俺に比べて、意外と音々の方が冷静だった。
【音々】
「折角付き合うことができたのに、私のせいで病院でしか会えなくて申し訳ありません……」
【一条】
「そんなこと気にするなって、病院で会えるだけでも良いじゃないか」
【音々】
「良くないですよ、恋人同士になったのに外に出れないんじゃデートもできないじゃないですか」
【一条】
「まあそれはそうだけど……」
【音々】
「それとも、誠人さんは私とデートするのは嫌ですか?」
【一条】
「嫌なわけないだろ、やっと音々と恋人同士になれたんだから俺だって2人でどこか行きたいと思うさ」
【音々】
「そうですよね、私もそう思います……だけど、今のままじゃ絶対に2人でどこかには行けない」
そっと音々は自分の胸に手を当てた。
【音々】
「この心臓がある限り……私たちは先へは進めないのかもしれませんね」
【一条】
「……」
【音々】
「誠人さんを縛り付けていた物が記憶だとしたら、私を縛り付ける物はこの心臓。
この心臓も、もう私には必要ないみたいですね……」
【一条】
「!」
この心臓は必要ない、頭の中にぱっと2通りの解釈が浮かんだ。
1つはこの心臓を捨てて楽になりたい、つまるところ死を望んでいる、そしてもう1つは……
【音々】
「どうなってしまうかわかりませんが、私はこれからも誠人さんと生きたい。
誠人さんと同じ時間を少しでも長く過ごしていたい、今まで出せなかった答えを私も出そうと思います」
【一条】
「それってもしかして……」
【音々】
「はい……手術、受けてみようと思います。
たとえ可能性が低くても、たとえ上手くいかなかったとしても、後で後悔はしたくありませんから」
今まで手術の話になると暗い顔をしていた音々が、今は笑っている。
この笑顔、もう音々に迷いは無さそうだ……
【一条】
「……」
そっと抱きしめた音々の体は僅かに震えていた
【音々】
「……誠人さん」
【一条】
「上手くいくに決まってるだろ、絶対に……」
【音々】
「……はい」
背中に音々の腕が回り、互いを抱きしめる恰好になる。
細い音々の体、力を込めればこのまま折れてしまいそうなきゃしゃな体だった。
……
【音々】
「そういえば、先日水鏡さんがいらしてくれたんですよ」
【一条】
「水鏡が?」
【音々】
「はい、水鏡さんも体を崩されたそうで」
【一条】
「そっか、だから最近待ってても屋上に来なかったんだ」
【音々】
「……もしかして浮気ですか?」
【一条】
「あのねぇ……どうして女の子は皆浮気浮気って」
【音々】
「冗談です、それに水鏡さんにならすぐに会えますよ」
【一条】
「え?」
【音々】
「いらしてくれた時に伝言を頼まれたんです」
……
【水鏡】
「誠人先輩に伝えてほしいことがあるんです」
【音々】
「なんでしょう?」
【水鏡】
「5月1日、その日もし誠人先輩が先輩の病室にいらしたら、屋上で待っていると伝えてもらえますか?」
【音々】
「かまいませんけど、それは明日でなければいけないんですか?」
【水鏡】
「はい、もし先輩が今日いらしても話さないでください」
水鏡の帰り際、私はそんなお願いをされた。
……
【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」
音々に教えてもらった後、俺は屋上目指して駆け出した。
屋上の扉を開け放つ、そこには屋上の手すりに肘を置いて風景を眺める少女が1人。
【一条】
「水鏡!」
呼びかけに少女は振り返る、彼女自慢の長い髪が風に遊ばれてしなやかに揺れる。
【水鏡】
「お待ちしていました先輩……」
【一条】
「探してたよ……水鏡に、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
【水鏡】
「あの写真がなんであるのか……ですか?」
【一条】
「!」
【水鏡】
「そんなに驚かないでください、あの写真に書かれていたことは全て真実なんですから」
「どうして!」そう声を発しようとしたが、声は出ない。
パチン
俺の後ろで指を鳴らす音が聞こえた、その音を聞いた途端体が重くなり意識も朦朧としてくる。
【水鏡】
「あの場所で待っています……きっといらしてくれると信じていますから」
消えてゆく意識の中で、最後に聞き取れたのはそんな言葉だった……
……
【一条】
「く……ぅ……」
気が付くと俺は屋上で倒れていた、そこにもう水鏡の姿はない。
【一条】
「水鏡のやつ……」
次の瞬間にはもう駆け出していた、水鏡から正確な場所は特定されていない。
しかし、俺の足は迷うことなくある場所を目指していた。
絶対の確信があったわけではない、だけど、あの場所以外俺には考えられなかった。
……
1階から4階までの階段を駆け上がり、息も切れ切れになりながら最後の扉を押し開けた。
眼に飛び込んできたのは赤く染まり始めた夕暮れの空とみなれた鉄柵。
ここは学校の屋上だ……
【一条】
「……上か」
ハシゴをつたって給水塔の上へと上る……いた。
【水鏡】
「……先輩」
【一条】
「もう鬼ごっこはお終いかい?」
【水鏡】
「はい……」
【一条】
「そうか、だけどどうしてここに?」
【水鏡】
「ここが先輩にとって大切な場所だから、それにここなら誰も来ませんから」
【一条】
「なるほどね……それで、そろそろ教えてもらえるかい?」
ポケットから写真を取り出す、お袋の日記の間に挟まっていたあの写真だ。
【一条】
「この写真の裏に書いてある言葉……『家族4人で 私とあなたと誠人、それから……』」
【一条】
「それから……水鏡」
【水鏡】
「……」
【一条】
「ここに書かれていることは全て真実って云ってたけど」
【水鏡】
「紛れも無い事実……その写真に書かれていることが全て真実なんですよ……」
【一条】
「そんな莫迦な! そんなことありえるわけない、だってそうだとしたら君は……」
【水鏡】
「私は私です、私以外の何者でもない。
ただ普通の人とは存在するべき世界が違うだけ……」
【一条】
「……」
なんて言葉をかけて良いのかわからない、眼の前にある事実を認めることができないでいる。
【水鏡】
「先輩……オカリナは持っていますか?」
【一条】
「あ……あぁ……」
【水鏡】
「吹いていただけませんか……あの曲を、記憶を失くした先輩に唯一残っていたあの曲を……」
無言で1つ頷き、オカリナに口をつけて息を吹き込む。
産声を上げるオカリナの音とともに、優しげな声色の歌声が響く。
【水鏡】
「いざや……いざや……」
曲に合わせて水鏡が歌をつづる、曲と詩に不協和音は存在しない。
それはこの曲と詩が同じ物から生まれているから、水鏡が奏でる詩はこの曲が持ち合わせていた歌詞なんだ。
この詩どこかで聞いたことがある、1度や2度ではない、もう何度となく聞いていた気がする。
俺が奏でる曲、水鏡が奏でる詩は途切れることなく終焉に向かう……
【水鏡】
「散行くままに……」
水鏡の歌声が消え、次第にオカリナの音も小さくなり、曲は終わりを迎えた。
曲が終わりをむかえるとともに、頭の中にはっきりとした1つの記憶が確立されていた。
そうか……やっと思い出した、失われた記憶の果てに置いてきてしまった忘れ物を。
【水鏡】
「やっと……完成しましたね……」
【一条】
「全部君のおかげだよ」
【水鏡】
「私だけではどうにもなりませんでした、先輩がこの曲を忘れないでいたからこそ、曲は1つになったんです。
もうこの曲がなんであるのか、先輩は思い出していますよね?」
【一条】
「ああ……」
【水鏡】
「良かった……これでもう私がいる意味は無くなりましたね」
【一条】
「?……何を云っているんだ?」
【水鏡】
「先輩はもうわかっているはずです、私はこの時間の中に存在してはいけない者。
時間軸の秩序を乱す存在、『嘘』であることを……」
云い終わると突然水鏡の体が眩しく輝き始める。
あまりの眩しさに眼を覆ってしまう、次に眼を開けた瞬間、水鏡の体は薄っすらと透けていた。
【一条】
「おまえ……その体……」
【水鏡】
「嘘は必ず正される時が来ます、それが今、先輩に意思を取り戻させることが私の役目だから……」
【一条】
「意思だって?……」
【水鏡】
「今の先輩は意思を失っていたあのころの先輩じゃない、今の先輩には姫崎先輩がいますから。
姫崎先輩が先輩にとっての意思を繋いでくれた、私はそのお手伝いができただけで満足です」
【一条】
「もしかして……このままだとおまえの体……」
【水鏡】
「……」
何も答えない、それは俺の問いに対する無言の肯定だった。
【一条】
「どうして……」
【水鏡】
「これが現実なんです、だから何も悲しまないでください。
私は先輩の前にいて良い者ではありませんから」
【一条】
「おまえは悲しくはないのか……?」
【水鏡】
「……悲しくはないですよ、先輩と姫崎先輩が結ばれて。
先輩は自らの意思を取り戻して、これで大団円じゃないですか」
【一条】
「それも……嘘なのか……?」
【水鏡】
「……」
言葉を発する代わりに、水鏡は柔らかく微笑んだ。
【水鏡】
「私のことは忘れてください、先輩が生きていくのはこれからの未来なんですから。
姫崎先輩となら、きっとお2人とも幸せになれると思いますよ」
【一条】
「おまえはこれで良いのか……おまえはこれで幸せなのか?」
【水鏡】
「私の幸せは先輩が私のことを忘れてくれることです。
私のことなんか忘れて、姫崎先輩だけを見てください、それが私が願う幸せです……」
【一条】
「そんなこと……できる訳無いだろ……
1度失った者を、もう1度失うなんてことを俺が耐えられるわけ……」
【水鏡】
「先輩ならきっとできますから、ご自分に自信を持ってください……」
水鏡の体は徐々に色を失い、もう輪郭ははっきりしてしない。
【水鏡】
「もう、お別れですね……僅かな間でしたけど、先輩に出会えて良かったです」
風が2人の間を撫で、その際に隠れていた水鏡の前髪がふわりと流された。
水鏡のその瞳、その瞳は涙に濡れていた、しかし、そんな中でも水鏡は笑顔を崩してはいなかった。
【一条】
「どうして、どうしてそんな顔ができるんだよ、お前はもう……」
【水鏡】
「私は目的を達成できましたから、先輩が幸せになれたのなら私はそれだけで満足なんです。
それに、私にはずっと前からわかっていましたから、先輩とは、別れの時が必ず来ることを……」
【一条】
「俺が幸せになれたらだって、だったら水鏡、お前がいなくなったら俺は幸せの1つを失うことになる。
そんなの、俺は嫌だよ……」
【水鏡】
「私を忘れてしまうほど、姫崎先輩が先輩のことを支えてくれます、自分を心から愛してくれている人に。
先輩は向き続けてください、これは私の最後のわがままです……」
【一条】
「水鏡……」
止めることなどできない、徐々に薄れていく水鏡の体が心に突き刺さる。
俺の瞳からは、堪えきれなくなった涙流によって太い川を作っていた。
【水鏡】
「私はとても幸せでした、少しの間だったけど、先輩と同じ時間の中を過ごすことができて。
先輩と姫崎先輩に、たくさんいただきましたから、もう十分すぎるくらい私は幸せです」
【一条】
「十分なんて、そんな悲しいこと云うなよ……」
【水鏡】
「さようなら……先輩」
【一条】
「水鏡!」
思わず手を伸ばしたが、もうそこに触れるものは何も無い。
空気が手で掴めぬように、水鏡の体を掴むことは叶わなかった……
眼に涙を溜めたままの笑顔、水鏡が最後に見せたのはそんな表情だった。
【一条】
「水……鏡……」
地面に膝を付き、握った拳の上には大粒の涙が零れ落ちる。
夕日に照らされた涙はまるで血を流しているような、そんな風に見えるほど世界は真っ赤に染められていた。
【一条】
「こんな……こんな別れがあって良いのか……?」
……
カチカチと小気味良い音で懐中時計は時を示す。
【萬屋】
「やれやれ……手間をかけさせる」
校門の前にたたずみ、ぼやけ眼で屋上に視線を向けた。
【萬屋】
「定刻六時、送還完了……」
さきほどまで小気味良く動いていた懐中時計の針が6時でぴったりと止まってしまった。
この時計の役目はもう終わり、まるでそう告げているかのように時計の針が再び動くことはなかった。
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜