【4月28日(月)】


【一条】
「はい、はい、そういうことでよろしくお願いします」

公衆電話の受話器を置いて出てきたカードを抜き取る。
病院での携帯はご法度、医者が皆携帯を持たずにポケベルを持っているのはもはや常識か?

そんなことはどうでも良いよな、そろそろあいつも着替え終わっただろうし……

……

【一条】
「入るぞー」

【音々】
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

言葉よりも先に俺の手は扉を開けていた、できることならまだ途中であってほしいな……

【音々】
「もぅ、待ってくださいって云ったじゃないですか」

【一条】
「そんなこと云っても、もう着替え終わってるじゃないか」

病室にいるのはいつもの寝巻き姿の音々ではない、学校の制服に身を包んだ学生服姿の音々だった。

【音々】
「まだですよ、まだネクタイが上手く結び終わってないんですから」

【一条】
「スカートはいてないとか上着着てないとかじゃないんだから良いだろ」

【音々】
「それはそうですけど、やっぱりリボンも付け終わってから見てほしかったです」

ぶつぶつと小さな文句をたれながらも手が休まることはなく、手早くネクタイが結ばれた。

【音々】
「どうですか、似合ってますでしょうか?」

【一条】
「似合ってるかと云われても、この前まで普通に着てたからどうってことないだろう」

【音々】
「そんなことありませんよ、久しぶりに袖を通すとなんだか恥ずかしくなります。
本当に大丈夫ですか、どこか変なところはありませんか?」

よほど心配なのか自分で腰周りや肩口などを注意深く観察していく。

【一条】
「どこもおかしなところは無いよ、前と変わらない学生服姿だよ」

【音々】
「だと良いんですけど……なんだか照れくさいですね」

久しぶりの学生服に懐かしみを覚えたのか声が少しだけ上ずっている。

【音々】
「ですけど本当に良いのでしょうか……」

【一条】
「良いに決まってるだろ、医者の出した判断なんだから誰にも文句は云えないよ」

何故音々が学生服を着ているのか、久しぶりに着たくなったとか俺が着てくれと頼んだわけではない。
音々に1日外出の許可が下りた、朝一で秋山先生が病室に来て音々に知らせた朗報。
もっとも音々が外出できるように頼んだ張本人が俺なんだけどね……

……

【一条】
「先生、1日だけ、1日だけで良いですからあいつに外出許可を与えてください」

【秋山】
「ううん……難しいですね、今は薬も効かなくなってきていますからもし再び発作が起こった時を考えると外出は……」

【一条】
「そのことは重々承知しています、でも、あいつが学生でいられる時間は今しかないんです」

【秋山】
「退院するころに学生でいられる確率は低いでしょうね、リハビリにどの程度時間がかかってしまうのか……」

【一条】
「あいつにとって学校生活は一種の憧れなんです、お願いします……」

【秋山】
「……」

難しい顔のまま2人の間に時間が流れる。
どれほどの時間が流れたかは覚えていない。

【秋山】
「……わかりました、許可します」

【一条】
「本当ですか、ありがとうございます!」

【秋山】
「姫崎君の気持ちが変わり始めたのは君のおかげですからね、その代わり1つだけ条件があります」

【一条】
「なんですか?」

【秋山】
「姫崎君には常に付き添っていてください、もし彼女に異変が起きたらすぐに連絡すること、これが条件です」

指を1本立ててこれだけは絶対に守れと強調する

【一条】
「お言葉ですが、云われなくても音々には付き添うつもりでしたよ、ずっと……」

【秋山】
「ははは、一本取られたね」

……

そんなやりとりがあったわけだ、外出許可を貰った音々が真っ先に口にした言葉は。

【音々】
「学校に行っても……良いんですか?」

頷く先生の顔を見て音々の表情は一瞬にして変わり、子供のように喜んでいた。
その後、家に電話して親父さんが制服を届けに来て、入学式のような浮かれ気分で制服を自分に当てていたっけ。

【音々】
「スカートなんて久しぶり、なんだかスースーします」

【一条】
「そんなこと俺に云われても……」

【音々】
「誠人さんも一度はいてみますか?」

【一条】
「絶対にお断りします、金を詰まれても嫌だからな」

【音々】
「ふふ、冗談ですよ……それより誠人さんはどうなさるんですか?」

【一条】
「俺も学校行くよ、制服と鞄が家だから1度戻るけどね」

【音々】
「そうなんですか……それじゃあ一緒には行けませんね……」

しょんぼりとした声で呟く、その点についてもちゃんと手は打ってある。

【一条】
「学校にちょっと遅れるって連絡入れたから大丈夫だよ、1度戻って着替えたら迎えに来るから一緒に行こう」

【音々】
「はい」

【一条】
「それじゃ俺は1度帰るよ、ちゃんと戻ってくるから2度寝なんかするなよ」

【音々】
「そんなことしませんよ、制服のまま寝たら皺になってしまうじゃないですか」

そりゃごもっとも、だけど音々って何回か制服のまま寝てなかったか? しかも外で……

……

【音々】
「ふふふ……」

【一条】
「どうかした?」

【音々】
「いえ、また誠人さんと一緒に学校に行けるのがなんだか不思議な感じがして」

俺の横に並んで歩く音々の姿は誰の眼にも浮かれているように見えることだろう。

【一条】
「俺と一緒に学校に行けるのがそんなに嬉しいことかねえ?」

【音々】
「それは勿論、もう絶対にできないと思っていましたから」

【一条】
「そう思ってたことが今現実になってるんだから、未来ってわからないもんだね」

【音々】
「本当にそうですよね……」

何かに思いをはせるように音々はかるく空を見上げた。
俺も同じように見上げると空は気持ち良いまでに蒼く澄み渡っていた。

【音々】
「そういえば誠人さん、朝の約束ちゃんと覚えてらっしゃいますか?」

【一条】
「当然覚えてますよ、昼にクリームパンおごれってやつだろ」

朝の約束とは何かというと……

……

朝俺が目覚めるとすでに音々は起床していて、挨拶をしたら。

【音々】
「もう誠人さんとは口利いてあげません!」

【一条】
「何怒ってるの? 今俺何か機嫌を損ねるようなこと云ったか?」

【音々】
「今じゃありません、昨日の夜のことです!」

【一条】
「ああ……耳噛んだら音々が甘い声上げてたあれか」

【音々】
「それもありますけどそこじゃなくて、先生が見てる前で離してくれなかったことです!」

【一条】
「そんなこともあったね、だけど秋山先生にはもう何回も見られてるだろ」

【音々】
「それは、そうですけど……ってそうじゃありません!
誠人さんが離してくれないから先生も誤解するじゃないですか」

【一条】
「誤解って何をどう誤解するのさ?」

【音々】
「だからそれは……ううぅーもう知らない!」

それから本当に口を利いてくれなくなった。
あれこれ試行錯誤してようやくクリームパンをおごるって云ったら口を利いてくれた。

……

【音々】
「まったく、誠人さんはいつもいつも私に意地悪するんだから」

【一条】
「音々も満更じゃないんじゃない?」

【音々】
「そんなことはありません、私は恥ずかしいのに誠人さんが無理矢理……」

【一条】
「ストップ! それ以上云うと俺がなんか危ない人になるから止めて」

【音々】 
「私には十分危ない人ですけどね」

【一条】
「ははははは、これじゃあ昨日の夜の再現に入っちゃうけど良いかな?」

【音々】
「冗談です、誠人さんは私の憧れの人なんですから私が幻滅するようなことはしないでくださいね」

くすくすと笑う音々の横顔を見ているとこの笑顔がずっと続いてほしいと思う。
こんな日常がいつまでも続けば良いと願うのは贅沢なのだろうか……

……

【音々】
「なんだかドキドキします」

【一条】
「そう硬くならずに落ち着いて、いつも通りにしてれば良いんだから」

【音々】
「そう云われましても……緊張する物は緊張するんです」

【一条】
「教室に入るだけで緊張も無いと思うけど……」

扉の前で深呼吸する音々がじれったくなったので俺が扉を開けて、音々の背中をポンと押した。

【音々】
「わわ! ちょっと誠人さん、まだ準備が……」

【美織】
「ああー! 姫ー!」

【羽子】
「姫崎さん!」

音々に気付いた美織が小走りで近づき、そのまま音々に抱きついた。

【音々】
「きゃ、み、美織ちゃん」

【美織】
「むぎゅー、本物の姫だー、制服着てる姫なんて久しぶりー」

そのまま音々の体を強く抱きしめる、胸元に顔を擦り付ける、女の子同士だからぎりぎり大丈夫か……?

【音々】
「くすぐったいです、皆が見てますから離れてくださいよ」

【美織】
「えぇー残念」

【羽子】
「宮間さん、少しは常識を考えたらどうですか」

音々を解放した美織は心底残念そうな顔をする。
しかし再開の挨拶が抱擁ってのはどうなんだ?

【美織】
「学校では久しぶり、だけど急に学校に来るなんてどうして?」

【音々】
「お医者様から外出許可を頂きましたので、1日だけ学校に来させてもらったんです」

【羽子】
「1日だけ……なんですか……」

【音々】
「……はい、明日からはまた病院生活です、なので今のうちにやれることを済ませておこうと思って」

【美織】
「そっか……でも1日だけでもまた学校で音々に会えると嬉しいな、ね、羽子」

【羽子】
「はい……とっても……」

【音々】
「美織ちゃん、羽子さん……」

1日だけでも学校に復帰した音々に2人が笑みを向ける、それに対する音々の表情は……

【音々】
「う……っく……うぅ……」

【美織】
「どどどどうして泣いてるの、羽子になにかセクハラでもされたの?」

【羽子】
「どうして私がそんなことをするんですか、猥褻行為をしたのは宮間さんの方じゃないですか」

音々の眼には薄っすらと涙が浮かんでいた。
その涙を2人は悲しみからきてると判断したけど……
あの涙は悲しくて泣いているんじゃない、それが俺にはわかる……

【音々】
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」

【美織】
「うえ? あたしたち何かお礼を云われるようなことした?」

【羽子】
「少なくとも貴方は怒られるようなことしかしていませんけど?」

【美織】
「なんだとぉ?」

【羽子】
「なんですか」

仲良くいがみ合っている2人の後頭部に美しい曲線を描いて俺の平手が入る。

バシ!パン!

【美織】
「いったーい! なにすんのよ」

【羽子】
「どうして私まで……」

【一条】
「男の俺がわかって何故女友達のおまえ等がわからんのだ」

【美織】
「あ、それって心外、云っておくけどマコよりあたしたちのほうが付き合い長いんだよ」

【羽子】
「そうですよ、気持ちは口に出さずとも伝わる物ですよ」

そうだよな、2人とも俺よりも長い間音々と付き合っていたんだ、その2人がわからないわけなんかないよな……

【美織】
「さてと、それじゃああたしの頭を軽々しく叩いた子におしおきでもしましょうか」

【一条】
「いや、あれはちょっとした手違いでそのなんだ……」

【美織】
「云い訳は男らしくないぞ、大人しくお縄につきなさい」

指関節がバキバキと鳴る、完璧に殺る気モードに変化してるじゃないですか!

【一条】
「俺ちょっとトイレ……」

【羽子】
「はい、残念」

【一条】
「羽子さん離して、逃げないと俺の身に危険が……」

【羽子】
「それはできない相談ですね、私も少し痛かったんですよ」

ニッコリと笑っているがその笑みが余計に怖い、羽子さんって案外根に持つタイプ……そんなこと云ってる場合じゃない!

羽交い絞めにされたまま視線で音々に助けを求めるが……

【音々】
「誠人さんモテモテですね」

そうじゃないだろ……

【美織】
「さあーて、覚悟はできたかしら? もし逝っちゃったらお線香ぐらいあげてあげるわよ」

【羽子】
「宮間さん、私の分も残しておいて下さいね」

ひいぃ! 2人とも可愛い顔して何を怖いこと云ってるんですか!

【美織】
「いくわよー、せーの!」

【羽子】
「せーの!」

……

青空の下、背中の固いベンチとは対照的に柔らかい太股が頭の下にある。
俺の顔を心配そうに覗き込む音々と羽子さんの顔が見え隠れする、美織は心配さえしていない。

【一条】
「ぐおぉぉぉ……」

【美織】
「なによあのくらいで、だらしないわねー」

【一条】
「あのくらいだと! だったらいっぺんやられてみれば、いたたたた……」

【音々】
「あんまり無茶しては駄目ですよ、この時間は大人しくしていてください」

【羽子】
「少しやりすぎてしまいましたかね……」

【美織】
「良いの良いの、過ぎた事は気にしないの、生きてるんだから良いじゃない」

もし死んでたら絶対に呪ってやったな……

【羽子】
「でも姫崎さんが介抱してくれて良かったですね、膝枕してもらえるなんて怪我の功名ですよ」

【美織】
「だけどちょっと大袈裟じゃない? もしかして音々に膝枕してもらうための芝居なんじゃないの?」

【一条】
「あれだけやられて芝居できるような大物役者じゃない」

【美織】
「ふーんそうなの?……よっと」

ベギ!

【一条】
「!!!!!」

痛めている首をおもいっきりひねあげられた、その痛みはもう……口から霊的物質が出るほどに。

【羽子】
「ちょっと宮間さん、一条さんの眼……なんだか遠くを見ていますけど……」

【美織】
「ありゃりゃ、本当に痛めてたんだ……」

【一条】
「おまえ近いうちに絶対襲う……暗い夜道には注意しろよ」

【美織】
「物騒なこと口にしないの、羽子、あたしたちがいるとマコが傷付くだけだから戻ろっか?」

【羽子】
「たちでまとめないでくださいたちで、悪いのは貴方だけです」

【美織】
「はいはい悪かったわね、文句は後で聞いてあげるからあたしたちは行きましょ。
それじゃあたしたちはこれで、学校なんだからくれぐれもオオカミにはならないでね」

【羽子】
「ちょっとどこ触ってるんですか! 自分で歩きますからその手を離しなさい!」

【美織】
「お、なーんだ、羽子って着やせするタイプだったんだ」

【羽子】
「なっ!」

ギャーギャーと美織に文句を云いながら羽子さんは連れられていく。
後ろ向きだからわからないけどたぶん今羽子さんの顔は真っ赤になってるだろう……
そっか、羽子さんって大きいんだ……

【音々】
「誠人さん、もしかして想像とかしてませんよね?」

【一条】
「え、はは、嫌だなそんなことするわけない……」

【音々】
「嘘つき」

【一条】
「ばれてたか、男の子ですから……それよりも、あれ見てみろよ」

ゆっくりと頭上にある空を指差した。
透き通るほどに蒼ざめた空が2人を見下ろしていた。

【音々】
「綺麗ですね……この空ももう見納めなんですね」

【一条】
「どうしてさ、空なら病院でも見れるだろ?」

【音々】
「空自身は見れますけど、ここで見る空はもう2度と見れませんから。
この屋上で、この制服を着てそれから……誠人さんと一緒にこの空を見ることはもうできないんですね」

【一条】
「……」

【音々】
「ごめんなさい……折角学校に来ることができたんですからそんなことを考えちゃいけませんよね」

僅かに溢れていた涙を指で拭う。
音々にはこの屋上も大切な思い出の1つなんだ、その屋上に俺といることも……
屋上の扉がギイと音をたてて来客を告げる、美織と羽子さんが戻ってきたのかな?
しかし、予想していた人物とは全く違う人物が2人の前に姿を見せた。

【水鏡】
「……」

【一条】
「水鏡……」

【水鏡】
「……誠人先輩」

美織や羽子さんだったらこのままでも良いんだけど、さすがに水鏡はまずい。
音々は初対面なわけだしこの体勢は都合が悪いよな。

【一条】
「悪い、すぐにどくから」

【音々】
「いえ、私はこのままでもかまいませんよ」

知ってる人の前でもこういった行為を恥ずかしがる音々にしては、珍しく恥ずかしがっていない。

【水鏡】
「お久しぶりです、それからそちらの方は初めまして」

【音々】
「こちらこそ初めまして、姫崎 音々です」

【水鏡】
「水鏡です」

【一条】
「こんな恰好で悪いけど、水鏡と屋上で会うのも久しぶりだな」

【水鏡】
「忘れてしまいましたか? 今の先輩と同じ恰好を一番近くで見ていたのに」

【一条】
「同じ恰好を一番近くで……!」

思い出した! 数日前に水鏡にも膝枕してもらったんだ。
そのことは一切音々に喋ってない。

【水鏡】
「やっぱり私なんかの足では記憶にも残らないんですね……」

【一条】
「水鏡さん! その話はまた今度にしてくれないかな……」

【音々】
「お2人とも何かあったのですか?」

【一条】
「なんでもない、なくはないけど大したことはなかった、そうだよね?」

【水鏡】
「先輩がそう云うならそういうことにしましょうか……」

【音々】
「?」

幸いにも音々は気づいてないみたいだ、水鏡ってこんな子悪魔のような性格だっけ?。

【水鏡】
「それよりも先輩、思い出していただけましたか……あの楽譜の意味を」

その言葉に上体を起こす、いつか水鏡には聞こうと思っていたんだ。

【一条】
「音々、悪いんだけどちょっと席を外してもらえるか……」

【音々】
「……何か訳ありのようですね、わかりました私は教室で待っていますね」

立ち上がり乱れたスカートを軽く直して屋上を後にする。

【音々】
「ごゆっくりどうぞ」

【水鏡】
「よろしかったんですか? 彼女さんを追い出してしまって?」

【一条】
「あいつにはまだ話してないからね……教えてくれないか。
どうして水鏡は俺が記憶を失くしたことを知ってるんだ?」

【水鏡】
「……まだ、思い出せていないんですね……」

【一条】
「それはどういう意味なんだ、俺と水鏡の間に何かあったのか?」

【水鏡】
「私から全てを話すのは簡単です、でも、それでは意味が無いんです……」

【一条】
「意味が無い?……」

もはや俺と水鏡の間に何かがあったのは確実だ。
そのことを水鏡は知っている。

【水鏡】
「先輩はまだあの鍵を持っていますか?」

【一条】
「ああ、一応持ってるけど……」

いつもオカリナを入れるのとは逆のポケットに入れてある鍵を取り出す。

【水鏡】
「その鍵が全てを教えてくれるはずです、忘れてしまったあのことを、それから……しのことを」

最後の方はなんて云ったのか聞き取れなかった。

【水鏡】
「私にできるのはここまでです、後は先輩がご自分の力で真実を見つけ出してください」

【一条】
「そんなこと云われても、俺にはまったく手がかりが無いのに……」

【水鏡】
「簡単ですよ、手がかりが無いのであれば一度初めに戻れば良いんですから。
真相が眠っているのは、先輩にとっての始まりの場所ですから」

【一条】
「まるで謎掛けだね……俺にとっての始まりの場所って」

キンコーン

響く予鈴が2人の会話を妨げる。
まだ色々と水鏡には聞きたいことがあるんだけどもう時間切れのようだ。

【水鏡】
「信じていますから、きっと先輩が全てを思い出してくれることを、私は信じていますから……」

そう云い残し、水鏡は屋上を後にした。

【一条】
「この鍵が俺のなんだってんだろうな……」

手にした鍵を眺めて見ても、鍵が答えを返してくれることは無かった。

……

6時限目も終了、後は音々と一緒に病院まで戻るだけか。

【一条】
「……あれ、音々がいない?」

教室を見渡しても音々の姿は無い、トイレにでも行ったのかな?

……

少し重い屋上の扉を開け放つと、夕暮れに向かって少しずつ眩しさを増した光が瞳を刺激する。
眩しさを手で遮って予定の場所へと顔を見せると……

【水鏡】
「お待ちしていました、姫崎先輩」

【音々】
「お待たせしてしまいましたか?」

【水鏡】
「いえ、私のわがままで呼び出してしまって申し訳ありません」

昼休みの終わりに彼女に呼び止められ、放課後に屋上に1人で来てほしいと頼まれた。

【音々】
「それで、私に何か?」

【水鏡】
「姫崎先輩は誠人先輩のことはどう思ってますか?」

【音々】
「え……それはどういう……?」

【水鏡】
「先輩の正直な気持ちですよ、先輩にとって誠人先輩がどういった存在であるのか、教えていただけますか?」

【音々】
「……」

一瞬のだんまりの後、音々は屋上の手すりに背を預けた。

【音々】
「私にとってあの人は目標であり、憧れなんです……」

もう何回この言葉を口にしたことだろう?
「憧れ」初対面のころからそうだった。

【音々】
「だけど、その憧れはどこまでも遠く、私ではとても追いつくことなどできない高い目標……」

【水鏡】
「目標は高ければ高いほど己を強くします、それと同時に現実の怖さを知ることも……」

【音々】
「……鋭いですね、水鏡さんの云うとおりです」

気付いてしまったから、私が彼と同じように強くなることが不可能だと私は気付いてしまっていた。

【音々】
「あの方は強い人です、自分が抱えた悩みはそう易々と他人に話せるはずがないのに。
その悩みが大きければ大きいほどなおさら、でも、誠人さんは私に悩みを話してくれた。
私なんて誠人さんに何も悩みを話すことができなかったのに……」

【水鏡】
「……はたしてそうでしょうか?」

【音々】
「……え?」

【水鏡】
「もし誠人先輩が元から強いのであれば、いつまでも過去にとらわれるようなことはないと思いますよ」

【音々】
「誠人さんの過去……ですか?」

【水鏡】
「私からお話しすることはできませんが、もうすぐ先輩自身の口から教えてもらえると思います。
誠人先輩のオカリナは勿論聴いたことありますよね?」

【音々】
「ええ、何回も聴かせていただきましたけど……?」

【水鏡】
「先輩にはあの誠人先輩のオカリナの音、どんな風に聞こえていますか?」

【音々】
「どんな風にですか……私にはとても綺麗な音に聞こえます、だだ時折なんだか泣いているような……あ」

自分の言葉でハッと思い出す。
誠人さんがオカリナを吹く姿、その後姿がなんだか泣いているように感じたのを思い出した。

【水鏡】
「どうして泣いているように感じるのか、それは誠人先輩が必死に自分の弱さを隠しているからですよ。
だけど、弱さなんてそう簡単に隠せるものじゃない、自分は気付いていなくても他人には案外容易く感じられてしまうんです」

【音々】
「そうなんだ……誠人さんも悩んでいたんだ……」

【水鏡】
「悩みを持たない人間はいません、悩みの大きさに大小あれど、生きている以上必ず悩みは自分に付き添ってきます。
その悩みを越えるのか、潰されてしまうのかそこで人間は成長することができる。
誠人先輩にとっては過去を振り払うことが、先輩ににとっては……」

【音々】
「私の場合は……」

私が成長するために必要なこと、それはこの体を治すこと。

【音々】
「もしかして誠人さんが私に悩みを打ち明けてくれたのは……」

【水鏡】
「たぶん、先輩のご想像の通りだと思いますよ」

……そっか、そうだったんだ……

【音々】
「ありがとうございます……誠人さん……」

ポッと呟いた名前、その名前を呟くだけで胸の奥が少し熱くなる。
それもそのはず、その名前はただの名前ではなく、私が大好きな人の名前だから……

【水鏡】
「私の話はこれでお終いです、そろそろ先輩が探しに来るかもしれませんので早く戻ってあげてください」

【音々】
「はい……水鏡さん、今日はありがとうございました」

にっこりと柔らかく微笑み、屋上を後にする。
黙って出てきてしまったからひょっとしたら心配してるかも、なんて考えるのは少しわがままかな……

……

【一条】
「遅い!」

【音々】
「ひゃ、す、すいません……」

【一条】
「あんまり遅いからトイレで倒れてるのかと思って心配しただろ。
トイレで倒れられたら俺にはどうすることもできないんだぞ」

開口一番に怒られた、私の体のことを知っているからこそ誠人さんは私を怒ったんだ。
だけどトイレは無いと思う、倒れるにしてもトイレの外で倒れた方が良いことぐらいわかる。
ここは少しいつもの仕返しにちょっと意地悪してみよう。

【音々】
「もし私がトイレで倒れたら助けてくれないんですか?」

【一条】
「助けるよ、だけど助けた後、音々が立ち直れないくらい意地悪するかもしれないな」

【音々】
「た、立ち直れない意地悪ってなんですか……?」

【一条】
「やっぱり音々が一番こたえるのは……お姫様抱っこだろ。
病院内の移動は常にお姫様抱っこで俺が連れてってやるよ」

【音々】
「絶対に嫌です!」

トイレで倒れるのだけは絶対に避けよう。
そうしないと恥ずかしくてもう病院内を歩けなくなっちゃう……

【一条】
「まあ冗談はさておき、病院に戻ろっか、早くしないとクリームパン買えないぞ」

【音々】
「ああ、待ってくださいよー」

……

【一条】
「それで、今日の学校はどうだった?」

【音々】
「とても楽しかったですよ、制服姿の美織ちゃんと羽子さんにも会えましたし。
誠人さんと一緒に屋上で空も見ましたから」

【一条】
「……辛くはなかったか?」

【音々】
「辛くなかったと云えば嘘になります、もう学校の制服を着ることも無いと思うと。
これでもう2度と学校で美織ちゃんたちに会えないのかと思うとなんだか寂しいです……」

音々の表情が微妙に曇る、しかし、その曇りはほんの一瞬でしかない。

【音々】
「ですがそれ以上に私にとって大きな進展がありましたからへっちゃらです」

【一条】
「大きな進展って何さ?」

【音々】
「ふふ、秘密です、私と彼女だけの秘密です」

何があったのかはわからないけど、音々の表情は明るくなってきている。
これなら決心してくれるのももう時間の問題かもしれないな。

【一条】
「気になるけど女の子同士の秘密を無理に教えてもらうわけにもいかないか。
それじゃ俺はこれで、クリームパン寝る前に食べるなよ、太るから」

【音々】
「誠人さん! 女の子に体重の話は駄目ですよ!」

【一条】
「はいはい、そんじゃお休み」

【音々】
「お休みなさい」

……

テーブルに置いた鍵が電灯の反射で鈍く光る、この小さな鍵が俺の全てを知っているらしいけど。
こんな小さな鍵のどこに俺の秘密が隠れているっていうんだろうな?
少なくともこの鍵単体では意味が無い、この鍵で何かを開けた先に秘密があるんだろうけど……

【一条】
「この部屋に鍵をかけるような物は無いしな……」

水鏡の云っていた俺の始まりの場所、やはりそこに行って探すしか手は無いんだろうな。
俺にとって始まりの場所、それは……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜