【4月27日(日)】


【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

乱れた息を整える暇もなく眼の前にある扉を叩いた。

【秋山】
「はい?……君は」

【一条】
「秋山先生……あいつは、音々はどうなりました……か」

視界がグニャリと歪み、白一色へと色を失っていく。
体の感覚ももう感じられない、意思を失った体は支柱を失った建造物と同じ、後はただ倒れるだけ……

……

【秋山】
「一睡もしないでここまでの距離を走ってくれば倒れるのも道理ですね」

【一条】
「はい、ご迷惑をおかけしまして……」

【秋山】
「いやかまいませんよ、たぶん私が君の立場だったら同じことをしていたでしょうからね」

はははと笑って先生は水を差し出してくれる、倒れた後に冷たい水分、まあ王道だよな。

【一条】
「ありがとうございます」

【秋山】
「それで、どうして私のところへ訪ねてきたんですか?
私のところではなく、真っ先に彼女の病室に向かえば良いのに」

【一条】
「……怖かったんですよ、病室に行ってそこがものけのからだったら。
教えてください、あいつは今どうなっているんですか?」

【秋山】
「……」

黙り込んでしまった先生の姿を見て嫌な答えが頭の中に浮かんでしまう。
その答えを振り払って先生の回答を待つ、俺の頭に浮かんだのは1つの確立でしかないんだから。

【秋山】
「あまりよろしい状況ではないんですが……それでもお聞きになりますか?」

【一条】
「……お願いします」

【秋山】
「今は意識も回復して病室で休んでいますよ、出血も止まり命に別状はありません」

【一条】
「良かった……」

【秋山】
「そこで話が終われば良いんですけど、残念ながらもう少し話は続きますよ」

先生の顔が一際険しいものへと変わる、きっとこの先は口外したくはないのだろう……

【秋山】
「何故昨日の姫崎君は吐血をしてしまったのか、間違っていたら申し訳ありませんが……
姫崎君が吐血する前に発作症状が起きませんでしたか?」

【一条】
「確かに発作は起きましたけど、それが何か?」

【秋山】
「やっぱり……」

【一条】
「何が……やっぱりなんですか……?」

【秋山】
「吐血の前、彼女は発作症状が起き薬を飲んだが発作は治まらなかった……違いますか?」

【一条】
「その通りです……だけどそれがなんだって云うんですか、俺には意味がわからないんですけど」

【秋山】
「どうして彼女の発作が治まらなかったのか、前にも話した通りそれは彼女の成長にある。
彼女の成長に反比例して薬の効力は薄れていく、その反比例が今回の吐血の原因なんだ……」

発作が治まらない原因は前に聞いた、そして今回の吐血はその延長線上の話と先生は云う。

……おい、それってまさか!

【秋山】
「察しましたか……そう、薬の効果がまた薄れています。
このままでは薬が完全に効かなくなるのはもう時間の問題です……」

【一条】
「薬の効き目が無くなるまで後どのくらい残されているんですか……」

【秋山】
「……私の推測では、もって後一年ではないかと」

【一条】
「!」

心臓を何かで弾かれたような衝撃が突き抜ける、先生の一言で俺の頭の中は真っ白になった。

【一条】
「そんな……あと一年って……」

【秋山】
「想像以上に事態は深刻な方へと傾いていたようです、彼女を救う手は後1つ。
心臓移植の可能性にかけるしかありません……」

俺の両肩にポンと手を置き、先生の視線が俺の顔を真正面に見据える。

【秋山】
「一条君……お願いします、彼女を救ってあげてください。
今の姫崎君には君の力が必要なんです、君の力で、彼女を……牢獄から連れ出してください。
もう……時間が無いんです……」

【一条】
「秋山……先生……」

置かれた手から僅かな震えを感じ取れる、自分の無力を嘆いているようなそんな感じを受けるほど先生の声は弱く聞こえた。

【一条】
「あいつは今、病室ですか……?」

【秋山】
「えぇ……行ってくれますか?」

【一条】
「ここで止められたとしても、俺はあいつのところへ行きますよ」

先生に小さく笑いかけ、俺は診察室を飛び出した
もう何も迷う必要は無い、誰もがあいつの死など望んではいないのだから……

……

青年が飛び出した先の扉が反動でばたりと閉まる。

【秋山】
「姫崎さん……君は幸せな方だ、あんなにも思ってくれる人がいるなんて」

コンコン

ノックの音に振り返り、来客者に主の有無を告げる。

【秋山】
「開いてますよ、どうぞ」

【新藤】
「失礼するよ」

来客者は医大時代の恩師、新藤先生だった。

【新藤】
「先日の返答をさせてもらいに来たよ……」

【秋山】
「新藤先生、お引き受けしてくださいますか……?」

【新藤】
「その前に1つ聞かせてくれ……何故私を選んだのだね?」

【秋山】
「先生の力を知っているから、それに、もとより私はここにいて良い人間ではありませんから」

【新藤】
「ここにいてはいけないのは私の方だ……私は医者失格なのだから」

【秋山】
「失格ではありませよ、もし本当に先生がご自分を医者失格だと思っているのなら。
今この場にいることはありえませんよ、違いますか?」

【新藤】
「秋山君……云うようになったな」

【秋山】
「新藤先生の下で教えられていれば次第と口も上手くなりますよ」

診察室に2人の笑い声、先に表情を崩したのは新藤の方だった……

【新藤】
「わかったよ……どれだけできるかわからないがやらせてもらおう、後は全て彼次第だな」

【秋山】
「心配はいりませんよ、彼ならきっとやってくれますよ……」

……

僅かに乱れた息を整え、息が元に戻ってから病室の扉を叩いた。

【音々】
「どうぞ」

【一条】
「こんちわ、毎日毎日失礼するよ」

【音々】
「誠人さん……」

俺の姿を確認した音々の表情が僅かに曇った、いつものような微笑ではなく悲しみに染められた顔で迎えられたのは初めてだ。

【一条】
「なんだ元気無いな、折角大事にならずに済んだんだからもっといい顔したら良いのに」

【音々】
「……そうですよね、すみません」

云われて見せる微笑ほど悲しくなるものは無い、この表情は自分を偽る時の顔だ。

【音々】
「昨日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした、最近少し調子が悪くて……」

【一条】
「最近じゃないんじゃないのか……?」

もう待つのは止めだ、来てくれないのなら行くまでだ……

【一条】
「もう全部聞かせてもらっているんだ……音々の心臓にある奇病のことも、薬の効きが弱まっていることも」

【音々】
「……そうだったんですか」

【一条】
「それから……おまえの命が後僅かだってこともな、音々……どうして手術を受けないんだ」

【音々】
「可能性がほとんどゼロの手術を受けるなんて無鉄砲なことはできません。
それだったら、残された時間を感じながら死んでいきたいんです……」

【一条】
「それで本当に良いのか……このまま何もせずにただ死ぬのを待つだけで本当に良いのか?」

【音々】
「それが私に架せられた奇病の重さなんです、それとも、誠人さんは私が手術を受けて死んでしまう方がよろしいですか?」

【一条】
「っな! 莫迦なことを云うな!」

【音々】
「そう思ってくださっているのなら、少しでも誠人さんと同じ時間の中にいさせてください。
私が果ててしまうまで、私が一番愛した人と同じ時間の中に共存していたいから……」

一度言葉を切り、引き出しの中から何かを取り出した、それは昨日音々が縫っていたウサギのぬいぐるみだった。

【一条】
「もうでき上がったのか……」

【音々】
「朝早く眼が覚めたので急いで作りました、これを受け取ってください……」

【一条】
「それはかまわないけど……どうしてこれを俺に?」

【音々】
「……記憶としてだけではなく、私を残しておきたかったから。
私が消えてしまう前に、誠人さんに私自身を残しておきたかったから……」

【一条】
「!」

音々が完成させたこのぬいぐるみ、これはただ自分が作りたかったから作ったわけじゃない。
自分に残された命が後僅かだと知り、この世に自分の形跡を残すために作った物。
これはいわば、音々の形見のような物だ……

【音々】
「誠人さんがそれを受け取っていただけて、たまにで結構ですから私のことを思い出していただけたら。
私はそれだけで十分に幸せです……」

【一条】
「……嘘をつくな……」

【音々】
「嘘ではありません……私の心臓はもう長くはありませんから。
ただ1つだけ心残りなのは、誠人さんと心から結ばれなかったことだけですから……」

【一条】
「どうしてそれで終わりなんだ、心臓が治ればその心残りだって実現可能じゃないか」

【音々】
「もう良いんです……秋山先生に病気のことを伺った時からもう覚悟はできていましたから。
こんな心臓を持って生まれてきたばっかりに……だけど私はこれでも幸せなんですよ。
美織ちゃんや羽子さん、それに誠人さんたちと同じ時間の中を過ごすことができて。
私の中はもう空っぽではなく、想い出としていっぱいに詰まっていますから……」

【一条】
「いっぱいじゃないさ……おまえの中はまだ空っぽのままだ」

【音々】
「そんなことはありません、私には十分すぎるくらいに……」

音々の決意は固い、俺が何を云ってももう決めたことだから曲げることが無い。
しかし、それは上辺だけにすぎない、音々の本心はまったく別な所にあるんだ……
それに気づくことができた俺に、もう音々の偽りは通用しない……

【一条】
「中は空っぽのままだよ、何故なら人間の想いでの中に十分なんて存在しないからだ。
これで自分が十分だと思った時点で、そいつの想い出など全て消えてしまう……
十分だと思ったその時が、そいつの終着点なんだから……」

【音々】
「ですから、もう十分だと思ったから、私の終着点はもうすぐ……」

【一条】
「じゃあ聞くが、美織のことをどう思っている?」

【音々】
「美織ちゃんですか……それはもちろん良いお友達の1人ですけど」

【一条】
「お友達、その一言で片付けられるくらいおまえの中で美織の想い出なんて物はあやふやなんだよ。
おまえにとって、美織は今までに出会った大勢の中の1人でしかないんだ、羽子さんも、当然俺もな……」

【音々】
「そ、そんなことはありません! 美織ちゃんだって羽子さんだって、私の中にちゃんと想い出があります!」

【一条】
「だったら、おまえは美織や羽子さんとの出会いを覚えているか?」

【音々】
「そ、それは……」

即座に答えが返ってこない、出会いは想い出の始まりそれが出てこないということは……

【一条】
「答えられないのか? 答えられるはずがないさ、音々の想い出はもう十分だと思った時に消えてしまったんだから。
出会いは想い出が一番強く残る所だ、それが出ないということは、その先の想い出なんて幻と同じさ」

砂上の楼閣という言葉がある、今の音々の心の中がまさにそれだ。
土台がしっかりしていなければちょっとしたことで楼閣は脆くも崩れてしまう。
音々がもう十分だと思ったその時に、もはや土台は役目をはたさなくなっていたんだから。

【一条】
「おまえが云う想い出はごくごく最近のこと、出会いを想い出にできていないようじゃ……心の中は空っぽのままだ」

【音々】
「……そうかもしれません、だけど、誠人さんとの出会いはしっかりと覚えています。
誠人さんとの想い出があるだけで、私には十分なんです……」

【一条】
「俺との想い出があるだけで良いって云うのか、もういつ死んでもかまわないと云うのか……?」

【音々】
「死ぬ覚悟はできています、もういつ死んでも私は後悔しません……」

決定的な音々の嘘、この言葉を待っていたんだ、もう音々に勝ち目は無い……

【一条】
「それも嘘だ、死ぬ覚悟なんてできていないな……」

【音々】
「どうしてそんなことが誠人さんにわかるんですか!」

【一条】
「わかるさ、音々が本当は死ぬ覚悟なんてできていない、まだまだ美織たちと一緒に生きていたいっていうのがな……」

【音々】
「黙ってください! 私はもう死ぬことしか残されていないんですから!」

【一条】
「だったらどうして手術を受けない!」

俺の剣幕に音々は次の言葉を失ってしまう、剣幕だけじゃない、一番つかれたくないところをつかれたために音々には反論ができないんだ。

【一条】
「いつ死んでも良いような覚悟ができているなら、何故手術を受けない!
確率が低いからとでも云いたいのか? そうだとしたらおまえの覚悟なんてなんの意味も持たない。
もし覚悟ができているのなら、僅かばかりの可能性に立ち向かことも可能なんだから」

【音々】
「……」

【一条】
「おまえは怯えているんだ、手術が失敗して自分の命がなくなってしまうことを。
まだまだ生きたいと考えるからおまえは手術を拒んでいる。
そんなおまえのどこに死ぬ覚悟ができていると云えるんだ!」

握り締めた音々の拳が少しずつ震え始めた、揺らいでいる、俺の言葉に音々の嘘が揺らいでいる。

【一条】
「死に対する怖さからおまえは逃げているだけだ、僅かな可能性さえ捨ててゼロを求めている。
そうすれば自分が苦しむ必要がないから、だけど、ゼロを選ぶことでおまえが得る物は何も無い。
確実な死を待つか、可能性にかけてみるか、どちらを選ぼうが音々の勝手だ」

【一条】
「だけど……俺が好きだった音々は障害を恐れてその場で立ち止まるようなやつじゃなかったよ」

渡されたぬいぐるみを音々の胸につき返す、俺には受け取ることなんてできないから……

【一条】
「じゃあな……」

【音々】
「ま、誠人さん、待って、待ってください!」

背中にかけられる声に立ち止まるでもなく、振り返るでもなく、俺は病室を後にした。

……

【音々】
「はぁ、はぁ……」

一歩一歩がまるで足枷でもつけているかのように重い、最近階段を何段も何段も上ることが無かったから。

【音々】
「折角……折角初めて人を好きになれたのに、それがこんな終わり方なんて絶対に嫌」

この先にあの人がいる保証は無い、もしここにいなかったら私の想いはここで完全に終わる。
彼の想いを全て無駄にしたまま終わってしまう、それだけは絶対に認めたくない。
私はいつでもあの人に本気だったから、私が答えを出すチャンスは後1回しか残されていない。
それは全てこの先、この先にあの人がいれば、今の私なら自分に正直になれるから……

【音々】
「お願いします……いてください、誠人さん……」

……

腰掛けたベンチと俺の影が長く延び、辺りを一面の夕光の世界が包み込んでいる。
案の定誰もいない、予想はしていたけど毎回いないとここが使用禁止なんじゃないかと思ってしまう。

【一条】
「……ふぅ」

気持ちの全てをぶつけ終え、俺にはもう覇気が無い。

【一条】
「やれるだけのことはやったんだ……もう俺が云うことなんか何も無いよな」

俺の気持ちが伝わったか伝わってないかはわからないけど、俺ができることは全部やった。
音々がどんな答えを出すのか、そこはもう俺が首を突っ込めるところではないからな。
ポケットからオカリナを取り出して音を奏でる。
水鏡が教えてくれたこの曲、水鏡はこの曲を俺が忘れていると云っていた、俺はどこかでこの曲に出会っているのだろうか……?
悩んでも悩んでも解けない謎を考えているうちに曲は終わりを向かえる。
オカリナを口から放すと突然目の前が真っ暗になる、失明したのかと思ったが伝わる温もりで眼を塞がれたのだと解る。

【音々】
「だーれだ?」

【一条】
「随分と音々も子供っぽいことをするんだな……」

【音々】
「はい、正解です」

ぱっと視界が開け、後ろを振り返ると答え通り音々の姿があった……

【音々】
「あの……ちょっとだけ、ご一緒してもよろしいですか?」

【一条】
「良いよ、ちょうど隣も空いてることだしね」

【音々】
「それでは、失礼します」

俺の横にちょこんと腰を下ろす、なんだか緊張しているようなぎこちない動きだ。

【音々】
「綺麗な夕日ですね……」

【一条】
「ああ……音々と一緒に夕日を見るのもなんだか久しぶりだな」

【音々】
「そうですね……誠人さん、1つだけ聞かせてもらってもよろしいですか?」

【一条】
「何でもどうぞ、俺に答えられることだったらね」

【音々】
「誠人さんは……もう私のことは嫌いですか?」

【一条】
「……」

【音々】
「はは、やっぱり、そうですよね……私のような意気地の無い女は嫌ですよね……」

俺の沈黙を肯定ととらえたのだろう、音々は笑いながらも寂しさを帯びた声で語る。

【音々】
「わかってはいるんです……自分には死ぬ覚悟なんてできていないって。
自分で逃げる道を作ってそこに自分が向かってしまえば何も悩むことは無い。
たとえそれが間違っていても、そうすれば……」

【一条】
「苦しむことも無い……そう思ってるかもしれないけど、それは云い訳でしかないんだよ」

【音々】
「……はい」

【一条】
「人は自分に都合が悪くなると自己防衛に入る、自分の弱さを話術で誤魔化そうとする。
自分は悪くない、もうしょうがない、打つ手が無いとかね」

【音々】
「……私そのものですね……」

【一条】
「自己防衛は云ってみればただの自分否定、自分を否定した人が何を云っても云い訳にしかならないんだ」

言葉無くうつむいた音々の表情をうかがうことはできないが、笑っていないことは確かだろう。

【一条】
「俺がこんなこと偉そうに云える立場じゃないか、散々自分を否定してきた人間が云っても説得力無いよな」

握っていた拳を開く、そこには何もないただの手のひら。
しかし、この下には何人もの鼻を砕いて浴びた血の赤に染まった生々しい手のひらが存在する。
さすがに自分を否定せずにはいれなかった、そうやって自分の逃げ場を作っていたんだ……

【一条】
「音々はさ……自分のことは好きかい?」

【音々】
「どうなんでしょう……特に体に魅力はありませんし、人付き合いも得意な方ではないですから……」

【一条】
「そうじゃなくてさ、なんて云うかな……自らを否定的に考える自分は好きかい?」

【音々】
「それは……」

【一条】
「……」

【音々】
「……嫌いです、とっても……」

その言葉を聞いて安心した、音々の気持ちは完全に偽りの自分と別離状態にある。

【一条】
「だったらさ、自分を好きになってみない? 自分を好きになれば、自分が本当は何をしたいのかも気が付けるからさ……」

【音々】
「自分を好きに、ですか……私にできるんでしょうか……」

【一条】
「勿論できるさ、その先に目標さえ持てればね」

目標があると人はそれに向かって突き進む、どんなちんけな目標でも有ると無いでは気持ちに雲泥の差ができる。
音々が自分を好きになって、自分の気持ちに正直になって、その先に目標を持てれば絶対に……

【音々】
「目標……私の目標は……」

そっと胸元に手を添えて、何かに想いをはせている、もう音々は大丈夫だ……
死ぬことしか考えていなかった音々に、生きる目標を考える余裕ができたんだから……

【一条】
「考えるだけ考えて、それでも答えが出なかったら……1人で悩む必要は無いから」

【音々】
「……え」

音々の頬に一瞬だけの口づけ、突然のでき事に戸惑いを隠せないでおろおろとしている。

【一条】
「いつでも声をかけてくれ、俺で力になれるかはわからないけどね」

【音々】
「ですが……もう誠人さんは私のことなんか……」

【一条】
「云っておくけど、俺は一言も嫌いになったなんて云ってないけど?」

【音々】
「ま、誠人さん……」

両手で口元を隠し瞳からはポロポロ涙を流す、当然悲しくて泣いているんじゃない、それは眼を見ればわかること。

【一条】
「何も泣かなくても良いじゃない、俺が1回でも音々を嫌いって云ったことは無いだろ」

【音々】
「はい……」

泣きながらの笑顔が夕日の逆行に照らされてキラキラ輝いている、頬を伝う涙を指で拭いてそっと頭だけを抱きしめる。

【一条】
「今はこれくらいしかできない、俺たちはまだそういった関係じゃないからね」

【音々】
「このままでも……十分ですよ……」

【一条】
「十分は無いって云ったろ、まだまだ俺たちには足りない物がたくさんあるんだから」

【音々】
「そうですね」

そう……俺たちはまだ始まってもいないんだから。

……

壁にもたれかかってジッと2人の姿を眺める男が1人。
青年はベンチに腰掛け、少女はその青年の姿を探してこの屋上にたどり着き。
青年は少女のために見えないナイフを渡し、少女は青年の気持ちに偽りの自分を捨てた。
全てが予定通り、舞台用に書かれた台本のように2人はシナリオを演じてくれた。

【萬屋】
「ここまで思い通りに動いてくれるとこちらとしても楽しめる」

怪しげな笑みを口元に浮かべたまま男はその場を立ち去った。
男には全てが見えていた、青年と少女がこうなることを初めからわかっていたんだ。
なぜなら、少女を救えるのが青年だけなら、青年を救えるのもまた少女だけだと男は知っていたから。

【萬屋】
「二十七日か……そろそろ決定打を放っても良いかもしれないな……」

男の中ではもうシナリオはでき上がっている、後はその筋書きに沿って役者が演じるだけ。
シナリオは完成され、役者は揃い、舞台設定も終わりに近づいている、もはや手を加えるところは無い。
男は確信している、役者が演技をしくじることは無いと、心配事があるとすれば1つだけ。
それは、裏方がしっかりと役者にきっかけを与えられるかどうかだけだった……

……

【音々】
「あ、あの……本当にここで眠るんですか?」

【一条】
「そうみたいです……」

音々の病室に即席で作られた寝床、ここが今日の俺のねぐらになる。
どうしてこうなったかというと、音々の考えが変わり始めたことを秋山先生に伝えたらここに泊まることになった。
なんとも理解に苦しむ説明だな……

【一条】
「どこか部屋でもくれるのかと思ったらまさか音々の病室とはね……」

【音々】
「私だって驚きましたよ、急に誠人さんがここに泊まるなんて聞かされたら」

【一条】
「俺は嬉しさ半面喜び半面ってところかな」

【音々】
「どちらも意味が同じじゃないですか、私は男の方と同じ部屋で一夜を過ごしたことなんてありませんのに……」

【一条】
「それは俺が一緒じゃ嫌ってこと?」

【音々】
「男の方と一緒なんて怖いですよ、それも誠人さんならなおさら……」

【一条】
「うわぁ……俺ってそんな眼で見られてたんだ……ははは」

落ち込んでいます、よりによって音々にそんなふうに見られていたなんて、もう立ち直れないかも……

【音々】
「う……そ……ですよ、ふふふ」

【一条】
「あははははは……くあー!」

【音々】
「きゃ! 誠人さん、落ち着いてください!」

【一条】
「誰のせいでこんなになったと思ってるんだ! もう許さねえ!」

【音々】
「そんなー、いつも誠人さんは私にするくせに」

【一条】
「それとこれとは話が違う、覚悟!」

後ろからガバッと抱きついて動きを封じる、こうなってしまえばもう音々に逃げ場は無い。

【音々】
「いやー! 離してくださいよー」

【一条】
「離すよ、俺が仕返ししたらね」

【音々】
「それって凄いずるいですよ、いつも私には仕返しさせてくれないくせに」

【一条】
「そうだっけ?」

聞くまでもなく今まで音々に仕返しをさせたことはない、仕返しをされたとしても俺はさらに仕返すからなぁ。
まあそんなことはどうでもいい、今は腕の中でもそもそ動くこの悪戯っ子をどういじめてみるかだ。
ここは単純に耳に息でも吹きかけてみるか……

【一条】
「フゥ……」

【音々】
「ひゃ!……耳に息吹きかけないでください、くすぐったいですから」

【一条】
「止めろといわれると止めたくないのが人情だよね……あぐ」

【音々】
「んはああぁ! ま、誠人さ、ん 噛んじゃ駄目ぇ」

耳を甘噛みすると音々の体がビクンと跳ね、色っぽい声を上げる。

【一条】
「今かわいい声出たよ、もしかして……」

【音々】
「か……感じてなんていません!」

【一条】
「俺そんなこと一言も云ってないけど?」

【音々】
「あっ……」

効果音をつけるとしたらボン!っと鳴らすのが相応しいほどに顔を真っ赤に紅潮させた

【音々】
「もぉ! 誠人さんの莫迦ー!」

【一条】
「俺は何も云ってないだろ、音々がやらしいこと考えてただけだ」

【音々】
「何も云ってなくてもそれとなく連想させることするのがいけないんです!」

【一条】
「連想って何連想したの?」

【音々】
「そんなこと女の子に云わせないでください! それからそろそろ離してくださいよ!」

【一条】
「イ……ヤ」

涙目で怒っている音々に神経を逆撫でするほどに気持ちの良い笑顔をしてみせる。

【音々】
「私が怒っているのに頭にくるほど良い笑顔しないでください!」

予想通り怒りが増した、いつもの朗らかな音々も良いけどこんなふうに怒っているのも悪くないな。

【一条】
「音々って怒ってもかわいいな」

【音々】
「誤魔化さないでください、うぅ、どうして外れないの」

音々の力じゃ外れないって、もっとも2人しかいないんだから外す気も無いけど。

【秋山】
「お楽しみのところ悪いんだけど、そろそろ就寝時間だよ」

【二人】
「!」

【秋山】
「若いうちは無茶もしたくなるけど、それ以上に人の眼にも気をつけてくださいよ、お休み」

【二人】
「お休みなさい……」

神出鬼没な秋山先生は今回も現れた、あの人にはいつもいつも都合の悪い現場を見られている気がする。

【一条】
「……」

【音々】
「……」

あ……今になって気が付いたけど、俺たち離れるの忘れてる……

【音々】
「はうぅぅ……」

腕の中でぐったりと力を無くし、ベッドの上に力なく崩れ落ちる。

【一条】
「ちょっとやりすぎちゃったかな……」

崩れ落ちた音々の体に毛布を被せ、俺も簡易ベッドに横たわる。

【一条】
「お休み……また明日」

ちょっと意地悪がすぎたことを反省しながら眠りに落ちていった……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜