【5月08日(木)】


【羽子】
「そうですか、やっぱりあの汗は体が悲鳴を上げていたんですね」

【一条】
「ああ……」

【美織】
「もうそんなところまで来てたんだ、姫の心臓、しかも手術が海外だなんてね」

【羽子】
「日本では適応する心臓がみつかる可能性が少ないですから。
それ以前に年間の手術回数もほとんど無いですしね」

【美織】
「海外での手術って姫はもう了承してるの?」

【一条】
「どうだろう、まだ聞いてないけどきっと了承すると思う」

【美織】
「……ねえ、羽子はどう思う、姫が海外手術に同意するかどうか?」

【羽子】
「そうですね……少々難しい話になると思いますけど、私はあまり良く思ってくれないと思います」

【美織】
「やっぱりそうだよね……」

2人はハァと溜め息を吐き肩を落とす、その仕草が俺には理解できなかった。

【一条】
「どうして2人ともそんな否定的な考えなんだよ」

【美織】
「考えてもみなよ、海外ってことはそれなりの期間行ってなきゃ駄目でしょ。
その間、姫とマコは離れて過ごさなきゃならないんだよ」

【一条】
「……あ」

【羽子】
「今まで毎日のように顔を合わせていた人と突然長期間の別れは心身ともに相当こたえます。
姫崎さんにとって、一条さんが最も頼れる存在だとしたらなおさらに……」

【美織】
「姫もそうだけど、あんたはどうなのよ?」

【一条】
「俺は……」

【美織】
「あんたがはっきりしないと姫も了承なんてしてくれないよ」

【羽子】
「そうですね、もし姫崎さんが返答に悩むようなら、一条さんが導いてあげるしかないでしょうね」

……

【一条】
「こんちは」

【音々】
「こんにちは、誠人さん」

【一条】
「今日は起きてたな、また汗まみれになって俺の助けが必要とかない?」

【音々】
「うぅ……誠人さんのエッチ」

【一条】
「冗談だよ、はいこれ差し入れ」

【音々】
「ありがとうございます」

袋から取り出されたものは毎度お馴染みのクリームパン。
包みをもそもそと開けてパンに噛り付く。

【音々】
「あく……はもはも……こくん」

【一条】
「食べながらで良いから聞いてくれるか?」

【音々】
「んく……はい」

【一条】
「おまえの手術のことなんだけど……」

【音々】
「……」

パンを口にする手が止まる、顔もなんだか寂しげな暗さを帯び始めた。

【音々】
「海外手術のことですか……?」

【一条】
「ああ……もう先生から聞かされてたんだ」

【音々】
「今朝、秋山先生から教えていただきました、日本でドナーを待つよりは海外に行った方が良いと……」

【一条】
「そうか……それで、音々は海外手術の件は了承したの……」

答えのわかりきっている質問が、これほど辛いとは思わなかった。
返事の見当はもうついていた……

【音々】
「少し考えさせてくださいと……」

【一条】
「なるほどな……」

【音々】
「あの……誠人さんは私が海外で手術することを望んでいますか?」

【一条】
「音々の体が良くなるんだったら、俺は海外で手術をしてもらいたい……けど」

【音々】
「けど……?」

【一条】
「……いや、なんでもない、俺はただ音々に元気になってもらいたいそれだけだ」

【音々】
「……そうですか」

はっきりしない、裏を含んだ俺の言葉に音々は寂しげな顔を見せた。

【一条】
「音々……」

【音々】
「はい……?」

音々の背後に回りそっと音々の体を抱きしめた。

【音々】
「誠人さん……」

【一条】
「もしかしたら、俺はいつまでも音々の重荷なのかもしれない……ごめんな」

【音々】
「……そんなこと、おっしゃらないでください。
誠人さんはいつだって私の支えなんですから」

しばらくの間抱き合ったまま、正確には俺が抱きしめたままの状態で時間は流れていった……

……

コンコン

【新藤】
「どうぞ」

【一条】
「失礼します」

【新藤】
「一条君か、近いうちに訪問があると思ったが予想通りだな」

ははっと新藤先生はいつもと同じように笑う。

【一条】
「先生、少しだけ時間をいただけますか?」

【新藤】
「昔話をするのに少しの時間では済まないと思うがね」

再び先生が小さく笑う、俺がここに来た目的をすでに勘付いている。

【新藤】
「秋山君からかね……?」

【一条】
「はい……」

【新藤】
「他人に情報を漏洩するとは医者として失格だな、まあそれだったら私の方が失格の烙印は大きいか……」

【一条】
「それで、秋山先生の云っていたことは本当なんですか?」

【新藤】
「どこまで聞いたのかは知らないが、最終的にたどりついてしまった結果は真実だよ」

【一条】
「それじゃあやっぱり……」

【新藤】
「あぁ……以前私が患者を死なせてしまったのは紛れも無い事実だ」

先生の眼にもう最初の笑みなど無く、獲物を狩る獣のような鋭く真剣な眼差しに変わっていた。

【一条】
「その話、聞かせてもらえませんか? 先生が話せるところまでで良いんで」

【新藤】
「だったら何も語らないのも選択肢としてあるわけだね……」

【一条】
「先生が話したくないのなら結構です、だけど、先生がそんな選択肢を選ぶとも思えませんけど……」

【新藤】
「ふふ、中々君も云うようになったじゃないか」

【一条】
「もう先生との付き合いも長いですから」

【新藤】
「はは確かに、それじゃ少し長くなるからコーヒーでも淹れようか」

……

先生の話には俺の知らなかった新藤先生の過去の片鱗が次々と露になっていった。
昔、先生は海外の病院で心臓外科を専門に働いていて、日本に帰国してからは教授として心臓外科の道を切り開いていった。
当時、日本で新藤先生の腕に勝る人間は一人もおらず、自他共に認める名医にまでなっていた。
しかし、そんな名医である新藤先生の受け持った患者が手術後の感染症によって命を失ったことで。
新藤先生は自分の腕を疑い、心臓外科の世界から身を引いた。
その後医学を学び直し、脳外科の免許を取得して再び医学の世界へと身を戻したと……
そんな話が先生の口から聞けた。

【新藤】
「細かなところは省略させてもらったけど、要点だけをまとめたらこんなところか」

【一条】
「……」

【新藤】
「あの時は私も自分の腕を過信していた、心臓手術の危険性は重々承知していたはずなのに。
患者を感染症で死なせてしまうとは」

【一条】
「感染症が起こってしまった原因はわかっているんですか?」

【新藤】
「手術後のナースの不手際が指摘されていたが、今となってはもはや原因を究明することはできんよ」

【一条】
「ナースの不手際だったら先生が心臓外科を辞める必要なんか無いじゃないですか」

【新藤】
「仮に手術に不手際が無かったとしても、その後の処理に付き合わなかった私の落ち度だ。
その結果、私は患者を1人死なせてしまったんだから……」

【一条】
「でも先生は……」

【新藤】
「一条君、どれだけ言葉を並べても私が患者を死なせてしまったことは決して覆らない事実なんだ。
本来なら、私はもう医療の世界にいて良い人間ではないのだから……」

先生は冷め切ったコーヒーを一気にあおり、飲み干したカップの底をジッと眺めた。

【新藤】
「とりあえず昔話はこれくらいにして、ここからは今現在進行形の話しをしよう」

【一条】
「今現在進行形って?」

【新藤】
「勿論君の彼女、姫崎さんのことだよ」

【新藤】
「昨日も話したとおり、姫崎さんの手術を受け持つことになったのはこの私だ。
そのことについて君の意見を聞かせてもらえないか?」

【一条】
「俺の意見、ですか?」

【新藤】
「私の過去を知らなかった君は私が彼女の手術を受け持つことに了承してくれていた。
しかし、私の過去を知った今、君の中で私の腕を信用できるのかどうか」

【一条】
「!……」

先生の眼が今まで見ていた物よりもさらに鋭く、寒気さえも覚える怖い眼差しに変わっていた。

【新藤】
「私が差し出したこの手を、君が握れないのであればこの手術私は降ろさせてもらう。
もし君が私の腕を信用してくれるのなら、私は全力で彼女の手術に望ませてもらおう」

スッと差し出された手に決断を迫られる。
しかし、俺の返答はあっけないほどすぐに返された。

【一条】
「……」

昨日と同じように、差し出された手を握り返した。

【新藤】
「本当に、私に手術を任せてしまって良いのかね?」

【一条】
「先生の腕を一番身をもって知っているのは俺ですよ、断言しても良いです。
助かる見込みが一切無い俺を救ってくれた先生だからこそ、俺は先生の腕を信じていますよ」

【新藤】
「一条君……わかった、私の持てる力全てを出し尽くして彼女の手術、担当させていただきますよ」

【一条】
「はい、お願いします」

握られたままの手のひらが再び強く握られる、俺も同じように先生の手のひらを強く握り返した。

……

【一条】
「ふぅ……」

ベッドに寝転がってゆっくりと息を吐く。

【一条】
「後は音々が海外手術を了承してくれれば万事上手くいくかな」

新藤先生の腕ならミスなどありえない、俺の体でそれはもう立証済みだ。
残されたのは音々の説得、これはまあ上手くいくだろうな。

【一条】
「寝よう……痛!」

軽く体を捻ると鋭い痛みが体を刺した、この痛みは筋肉痛に似ていた。

【一条】
「大したこともしてないのに、歳かな?」

軽い運動で筋肉痛になるほど俺の体って弱ってたんだ、なんだか気が重い。
そう思ったけど明日も早いのでとりあえず寝よう、起きれば筋肉痛も治ってるだろう。





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜