【4月15日(火)】


目覚まし時計が鳴っている、時間は7時半。
昨日はちゃんとタイマーをいつもの時間に戻しておいたので鳴ってくれた。

【一条】
「鳴らない目覚ましはただのガラクタってか」

自分でも何を云っているのかわからない、寝ぼけてるんだな
顔を洗って着替えと朝食を済ませて家を出た。

【一条】
「今日は……ちゃんとあるな」

ポケットを探ってオカリナを確認する、昨日は忘れたせいでちっとも吹くことができなかった。
オカリナを忘れたことと同時に昨日のことも思い出してしまう
手を見てもそこにはいつもと変わらない俺の手がある。
匂いをかいでみても不機嫌な血の臭いはしない。
しかし、昨日俺の手は血に染まり、不機嫌な鉄の臭いをつけていた。

あの時俺が見た自分自身の眼、正気の人間の眼じゃなかった
あれはそう……人を傷つけ、その感触を楽しむ、精神の捻じ曲がった眼だった。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い

俺の中に潜むもう1人の俺の存在、俺に恐怖を植えつける姿無き暗殺者。
暗殺者というのは大げさかもしれないがそれくらいしか表現が思いつかない。

……違うな

姿なき暗殺者なんかじゃない、暗殺者を演じているのは……俺なんだ。
俺のどこかに、人をいたぶりそこに快楽を求めるような考えが存在しているんだろう。
そうでなければ俺がおかしくなった理由が見当たらない。

「貴様ハ……異常者ナンダヨ……」

【一条】
「……っ」

頭の中で不気味な声がこだまする、鈍い痛みがズキンと走りその場にうずくまってしまう。

「全テハ根深ニ潜ム貴様ノ願望……我ハソレヲ実行スルダケ……」

【一条】
「や……めろ……」

「怖ガルナ……貴様ガ望ムヨウニ、貴様ヲ動カシテヤロウ」

【一条】
「やめろ……もう、やめてくれ!」

頭を抱え込んで声から逃げようとするが、声はどんよりとした空気をそのまま残していった。
その空気のせいで、声は止んだはずなのにいつまでも重く、俺を押し潰そうとしている。

【一条】
「はぁ……はぁ……はぁ……」

激しい嘔吐感と身も凍えるほどの寒さ、その2つが体を支配する。
もう1人の俺が目覚めるシグナルなのか、それは俺にはわからない。
嘔吐感と寒さが消えた時、そこに存在するのは俺なのか、もう1つの顔を持った背徳者としての俺なのか。
今はただ、この空気が去ってくれるのを待つことしかできないんだ……

……

【一条】
「……」

嘔吐感や寒さは無い、手を握ったり開いたりしてみると、自分の意思通りちゃんと体は動く。
どうやら普段通りの俺が体を動かしているようだ。

【一条】
「俺は……」

いつまた昨日のように人格変換が行われるかわからない、学校には行かない方が得策な気がする。
今日は家に帰ろうか……

【?】
「お・は・よ」

ポンと背中を叩かれる、声に振り向くと、その人物は美織だった。

【一条】
「……はよぉ」

【美織】
「なーによ、元気無いわね、もしかして昨日のまだ良くなってないの?」

【一条】
「え!……」

美織の言葉に心臓が強く打つ、もしかして美織はあの惨状を見てしまったのだろうか……

【美織】
「え!……じゃないわよ、あんた昨日屋上で倒れたでしょう」

【一条】
「あ……あぁ」

そっちのことか、そういえば倒れた俺を運んでくれたのは美織と音々だったな。

【美織】
「どうやらまだ調子悪いみたいね、昨日は早く寝たの?」

【一条】
「廓に無理矢理酒を飲まされた……」

【美織】
「うわ……倒れた日にお酒なんか普通飲むかな……」

まったくその通りです、だけど、飲まないと俺は自分に負けてしまいそうだったから……

【一条】
「美織……昨日はありがとな」

【美織】
「お礼なんか良いよ、あんな所で倒れたままにしてたらきっと発見されないと思うから」

【一条】
「そこまであこは人が来ないのかよ……」

【美織】
「1日に多くて3人、普段は1人来るか来ないかじゃないかな」

小さく笑いながら美織は答えてくれる。
そんな美織を見て、もう1人の俺はどんな考えをめぐらせているのだろう……?
この笑顔を破壊する衝動、笑顔が絶望へと変わる様を想像して不敵な笑みを浮かべる。
己の欲望を満たすため、俺は相手の全てを奪い取る。
信用も、交流も、人間らしささえも投げ捨てて、俺は自らの渇きを潤す。

これが……人間の考えか……?

【美織】
「マコ、どうかしたの?」

【一条】
「なんでもない……なんでもないんだ……」

云い聞かせるように、何度も何度も反復して呟く、まるで呪文だな……

【美織】
「変なの……」

……

【音々】
「お早うございます、誠人さん、美織ちゃん」

【美織】
「おっはよー」

【一条】
「……おはよ」

【音々】
「なんだか誠人さん、顔色が優れないようですが……」

【美織】
「昨日遅くまでお酒飲んだんだって、倒れたっていうのに莫迦みたいだよね?」

【音々】
「少量でしたら気付けとして役割を果たしますけど、大量の飲酒は害にしかなりませんよ」

【一条】
「だったら害にしかなってないな……」

思い出すのも嫌になるくらいあの2人に飲まされた、しかもあの2人はまったく酔わないんだよな……

【音々】
「それにしても、今日の誠人さんは何か違います……」

【美織】
「それってどういうこと?」

【音々】
「上手くは云えないんですけど、今日の誠人さん、なんだか凄く小さく感じるんです。
まるで何かに脅えているような、何かから逃げ出そうとしているようなそんな感じを受けます」

音々の発言は俺の心理のど真ん中を射ている。
自分に脅え、自分から逃げ出そうとしている、いつも通り振舞っているつもりでも、音々には微妙な変化を読み取られたらしい。

【一条】
「気のせいだよ、俺はいつも通りの俺だ、自分が云うんだから間違いないよ」

突発的に吐いた嘘、今はそのことに触れて欲しくない。
2人を置いて少し足を速める、人が近くにいると安心できないから……

【美織】
「あぁーマコ、ちょと待ってよー」

【音々】
「……」

嘘と行動を織り交ぜることによって話を断ち切った。
美織は何も気にしていないようだが、音々の方はなんとなく腑に落ちないといったそんな感じの表情をしていた。

……

【一条】
「……」

【美織】
「ねえちょっと、待ってってばー」

【音々】
「少し、早いですよ……」

2人の声が聞こえない振りをして足を進める、2人に危害を加えないよう考えての行動。
もし2人が冷たい男ととらえ、俺と距離を置くことになったとしてもかまわない。
2人に危害を加えることになるよりはよっぽどマシだ、それに、元々俺には交わりなんて不必要な物でしかなかったんだから……

無言で進む中、学校の校門が眼に入る。
それと……今最も眼にしたくない者までも、俺の視界はとらえてしまった。

【少女】
「……」

それは一瞬の出来事、少女の姿が網膜に映し出された時、再びあの声が頭の中を駆け回る。

「サア……始メヨウ……渇キヲ潤ソウジャナイカ」

【一条】
「やめろ……もうやめてくれ!」

【美織】
「マコ!」

【音々】
「誠人さん!」

頭を抱え込んで地面に膝をつく、突然の奇声に美織と音々が驚いている。

【一条】
「やめろ……やめろ……俺は……俺は……」

顔を両手で覆ってガタガタと震える、俺は俺に脅えているんだ。
もしかしたら……今の俺の方が裏の俺なのかも……

【音々】
「誠人さん、誠人さん! しっかりしてください」

背中に手の温もりを感じる、音々が俺の背中を支えてくれているんだ。

【一条】
「はぁ……はぁ……はぁ……」

突然の目眩と再び訪れた嘔吐感に、俺の意識はうっすらと光を失っていった……

……

【一条】
「う……うぅん……」

【音々】
「あ、お気付きになられましたか?」

視界一杯に心配そうな音々の表情が映し出されている。

【音々】
「今、美織ちゃんが冷たい物を買いに行ってくれましたのでもうしばらくお待ちください」

【一条】
「また……倒れたんだな……」

少し暗い表情で、ゆっくりと音々は頷いた。

【音々】
「やはり、無理をしていらしたんですね……」

【一条】
「そうだったんだろうな……」

日影を作っている木々の隙間から、時折鋭い日差しが瞳を刺激する。
俺は横になっている、しかし、どうも落ちつかない、それは頭の下の違和感。
もこもことした不思議な感触、一体頭の下には何が……

【一条】
「……」

【音々】
「……?」

おいおい……もしかして頭の下にあるのは。

【一条】
「膝枕……か?」

【音々】
「はい」

ニッコリと柔らかく微笑む、うわぁ……俺今膝枕なんかしてもらってるんだ。

【一条】
「どうしてこんな状況に?」

【音々】
「倒れた時は少しでも頭を高くした方がよろしいですから。
私の足では寝心地も悪いと思ったんですが、手ごろな物もありませんでしたので」

【一条】
「それでこんな状況に……って!」

慌てて上体を起こそうとしたが、音々がそれを静止する。

【音々】
「昨日も云ったとおり、倒れた時はゆっくりと休養をとらなくては駄目ですよ」

【一条】
「だけどさ……音々は俺の頭が乗ってたら重いだろ」

【音々】
「そんなことはありませんよ、むしろ、誠人さんの寝顔がまじかで見れてとても楽しいです」

【一条】
「……起きる」

再び起きようとするが、またしても音々が静止する。

【音々】
「冗談ですよ、ですが、男性の方は膝枕をしてもらうと喜ぶと聞きましたが……?」

【一条】
「どこの情報だよ……」

見当は付いている……美織だよな。

【音々】
「誠人さんは……お嫌いですか、膝枕?」

【一条】
「嫌い……じゃないですよ」

【音々】
「ふふ、でしたらもう少しこのままでいてくださいね」

子供のような笑顔、とても純粋で、とても柔らかな……柔らかいのは音々の太股か。

【一条】
「ところで、今何時?」

【音々】
「今はちょうど1時限目が始まるころですね、心配しなくても私たちはもう皆遅刻ですよ」

【一条】
「そっか……俺なんかのために悪いな……」

【音々】
「いえ……私には、誠人さんの気持ちが少しわかりますから……」

一瞬だけ不意に見せた音々の表情、それは俺に自分を重ねているような感じが見て取れた。

【一条】
「……音々」

【美織】
「おーい、お待たせー、マコ気が付いたー?」

急に聞こえてきた明るい声に音々の表情が元に戻る、俺も軽く手を上げて美織に復活を確認させる。

【美織】
「まったくもう、心配かけないでよね、はいこれ」

清涼飲料の缶を受け取ると、ひんやりとした感触がとても気持ち良い。

【美織】
「それで、どうして今日は倒れたの?」

美織は音々の横に腰を下ろし、缶のプルタブを開けて飲料水を流し込む。

【一条】
「疲れが溜まってた……のかな?」

【美織】
「昨日はそうだったかもしれないけど、今日のは少し違うんじゃないの」

【音々】
「……」

【一条】
「やっぱり……そう思うよな」

昨日とは明らかに違う、何も無く倒れた昨日と違って、今日は倒れる前にワンクッションあった。

【美織】
「なにか……悩み事でもあるんじゃないの?」

悩み事は実際にある、だけど、それを今美織と音々に喋ることはできない。

【音々】
「私たちで良かったら、ご相談に乗りますよ」

【一条】
「おいおい……俺が悩み事をするようには見えないだろ、疲れてるだけだから大丈夫だよ」

眼を刺激する日差しを手で遮ってフゥっと溜め息をつく。
もしもここで俺が2人に真実を話したら、2人はどんな反応を示すだろうか?
俺は脅えている、2人が俺を拒絶することを恐れている、だから俺の口から真実を話すことができない。
話してしまえば楽になるとわかっていても、俺には話すことができないでいた……

……

結局、俺が回復したのは1時限目終了辺りだったので、俺たちは2時限目の授業に間に合うように登校した。

【某】
「なんやおまえら、皆揃って遅刻かいな」

【美織】
「ちょっとマコがまた倒れちゃってね」

【某】
「一条が……か」

チラッと俺に視線を向ける、廓は昨日の惨劇を知っている1人だ。

【某】
「一条もここ最近いろいろあって疲れとるんやろ、学校サボったら良かってんのに」

【一条】
「そうもいかないだろ……」

【美織】
「マコは某と違って真面目なんだよね」

【某】
「うわ、かなわんなぁー」

ケラケラと廓や美織、音々も笑っているが俺には笑う気になんかなれない。
この皆の笑顔を、俺は破壊させようと考えているのか……

【二階堂】
「……」

……

4時限目も終わり、昼休みの時間が訪れる。

【一条】
「……」

見上げる空が藍に澄み切っている、この空とは対照的に俺の中はドス黒い雨雲。
誰もいない屋上の静けさが、今日は一際心に冷たい。

【一条】
「……はぁ」

嘆いた溜め息が空しく静寂に溶け込む、俺自身もこの空と同化することができたらどんなに楽だろうか。
このうちに秘めた獣ごと、俺の存在を消してくれたらどれだけ楽になるだろう……

屋上の扉がギイィと響き、来客者の到来を告げる。
屋上に人が来るなんて珍しいな、一体誰が?

【二階堂】
「……よ」

【一条】
「勇、1人で屋上に来るなんて珍しいな」

【二階堂】
「屋上に来たのは偶然だ、目的はおまえに会うことだったんだから」

【一条】
「俺に?……何か用でも?」

【二階堂】
「これといって用は無い、おまえに会いに来ただけだ」

それは立派に用があるって云うんじゃないのか?

【一条】
「物好きなやつ、俺と一緒にいても良いことなんか1つも無いと思うけど……?」

【二階堂】
「……」

無言でただ空を眺める、もしかするとこの男、待っているのか……?

【一条】
「……」

【二階堂】
「……」

長い沈黙、お互い何をするわけでもなく空を見ている。

【一条】
「……勇、少しだけ聞いてもらいたいことがあるんだ」

【二階堂】
「……ビシ(指二本)」

重い沈黙に耐え切れなくなったのは俺の方だった。
もしかすると、二階堂には最初からこうなることがわかっていたのかもしれない……

【一条】
「自分なりに考えてみたんだ、昨日の俺がなんであったのか……」

美織や音々には云えなかったことを、事実を知っている二階堂だからこそ話すことができる。

【一条】
「もしかしたら……俺は怪物なのかもしれない」

【二階堂】
「……ほぅ」

【一条】
「人を傷付け、そこに喜びを見つけ出し自らの欲求を満足させる。
昨日の俺はまさにそれだった、血に飢えた獣のように、ただ欲望の進むまま俺は血を求めた」

【一条】
「止めようとしても……止まらないんだよ、まるで俺自身が求めるように。
ひたすら血と快楽だけを求めて、俺の体は人を傷つけた」

【二階堂】
「……」

【一条】
「それから、今日の朝も……」

【二階堂】
「朝だと? ……すると今日の遅刻の原因は」

【一条】
「人を傷つけはしなかった、だけど、俺の中では快楽を求めるような感情が沸き起こった」

ゆっくりと立ち上がって空を見る、この空の下に、俺は受け入れられていないんじゃないか……

【一条】
「俺の存在は……害でしかないんだよな」

【二階堂】
「……!」

【一条】
「だから勇も……俺から離れたほうが」

【二階堂】
「……一条」

恐ろしく低い声で二階堂が呼ぶ、振り返ってみると……

ボゴォ!

【一条】
「が!……ぁ……」

握られた拳が頬に突き刺さる、あまりの衝撃に体が宙に浮く。
前に見た力を抜いた二階堂とは違う、圧倒的な力を持った本気の二階堂の拳だ。

【二階堂】
「ふぅー……少しは眼が覚めたか」

見上げる二階堂の姿はまるで鬼のような威圧感を持っている。

【二階堂】
「拳を親友に見舞いたくはないが、今のおまえにはこれくらいがちょうど良いだろう」

【一条】
「縁切りは拳でか……勇らしい選択だ」

【二階堂】
「勘違いするな、俺はおまえとの縁を断ち切るような選択はしない。
今のおまえは自分を見失っている、現実に背中を向けて自分を全否定しようとしている。
一条、おまえが昨日の自分を全てと考えているならそれは間違いだ」

【一条】
「間違いじゃないさ……俺のどこかに欲望が存在していないかぎり。
あんな感情は生まれない、あの時の俺が、害以外のなんであるんだ……」

【二階堂】
「だとしたら……今のおまえはなんなんだ?」

【一条】
「人の世界に馴染むために、人の皮を被った悪魔かもしれないな……」

【二階堂】
「なるほど……もう1つだけ問う。
何故おまえは、ここに、学校に足を運んだんだ?」

【一条】
「それは……」

【二階堂】
「欲望を満たすための品定め、と云ってしまえばそれまでだが……
それだったらこの場所、屋上におまえが来ているのは少々合点がいかなくてな」

確かにそうかもしれない、学校は欲望を満たすための獲物がごろごろいる。
しかし、それだったら何故俺はこんな人気の無い屋上にいるんだろうか……?

【二階堂】
「おまえが云うように、人の皮を被った悪魔だったらこんな所に来るはずがない。
こんな人気の無い所に来るということは、おまえは他人の身を按じているんだ。
現に、さっき俺におまえから離れるように云っただろう」

【一条】
「……」

【二階堂】
「おまえが悩んだ末に出した答えなのだろうが、悪いが俺は認められない、たぶん廓も同じ答えだろう。
一条、全てはおまえ次第だ、このまま己の欲望に負けてしまうのか。
それとも、自分を乗り越えて一回り大きくなるのか……」

地べたに尻餅をついた俺に、無言で二階堂は手を差し伸べてくる。
この手を握り返す権利が、俺にはあるのだろうか……
この手を握り返してしまったら、二階堂には俺の欲望が襲い掛かる可能性が出てきてしまう。

差し伸べられた手を俺は無言で見つめたまま……

【一条】
「……」

グッ

二階堂の手を強く握り返す、いつも無表情な二階堂の表情が、一瞬笑ったように見えた。

【二階堂】
「……」

握られた手をグイと引き上げられる、相変わらず二階堂の力は強い。

【二階堂】
「……信じているぞ」

【一条】
「ああ……」

二階堂の手を握り返す、その行為に込められたのは俺の決意の証。
内に秘めた獣との対峙、俺が俺であり続けるために、もう1人の自分に打ち勝つんだ。

【二階堂】
「顔の方は大丈夫か?」

【一条】
「骨が折れる1歩手前かな……まだ骨がズキズキ痛むぞ」

【二階堂】
「上手く手加減できたようだな、力の加減は中々上手くいかなくてな」

それってあんた……失敗したら確実に折れるってことじゃないですか。

昼休み終わりの予鈴が鳴り響く。

【二階堂】
「行くか……」

無言で頷く、今の俺にもう引くことなどできない、俺のことを信じてくれる人が1人でもいる限り。
俺は俺であり続けることが、俺のこれからの務めなんだ。

……

キーンコーン
1日の日程終了の鐘が鳴る、することもなく屋上を目指す

屋上に出ると空は相変わらず雲1つ無い快晴の空、快晴の藍に太陽の白が見事に映えている。
給水塔に登って街を見渡す、昨日あの少女が見ていたのと同じ風景だ。
……俺の方が若干風景を上から見ているか。
少女はこの街に何を見ていたのだろう、人には他人の心を読む力など備わっていない。
思っていることはその人本人にしかわからない、それが人間界のルール。

【一条】
「こんなことを考えるのは止そう……」

ポケットからオカリナを取り出して口にする。
昨日吹いていないせいかオカリナを吹くのが楽しく感じる、やっぱり毎日吹かないと落ち着かない。
眼を閉じて音に集中する、街の騒音も鳥の鳴き声も、風の音さえ俺の耳にはいってこない。
耳に入るのは唯一、俺が奏でるオカリナの音色だけだった。

演奏を終え、家に帰ることにする。
そう思い俺が振り返った時、俺の眼の前にはいるはずの無い人物が立っていた。
俺を狂わせる、あの少女だった。

【少女】
「……」

いつからいたのいだろうか? オカリナに集中すると相変わらず周りが見えなくなってしまう。
少女は何も語らない、ただジッと俺を見つめていた。
毎度のことながら俺は声を出すことができない。

【少女】
「……」

何かを喋ってくれ、でないと俺の内にいる獣が牙をむいてしまう。
俺がこの場で獣に押しつぶされ、狂気に落ちてしまう前に俺から遠ざかってくれ。

逃げろ!

叫びたい、叫んで俺から離れるように促したい。
それなのに、俺の口からは言葉を発することができなかった。
俺の中に潜むもう1人の俺は今何を考えているのだろう?
少女をいかにしていたぶるか、そんな歪んだことしか考えていないんだろうかな。

【少女】
「……音」

少女が何か言葉を呟いた

【少女】
「綺麗な音」

綺麗な音、確かにそう聞こえた、綺麗な音って云うのは俺のオカリナの音だろうか?

【少女】
「でも……」

少しだけ、ほんの一瞬だけど少女はうつむいた。

【少女】
「……悲しんでる」

それだけ言い残すと少女は振り返り、給水塔を降りようとする

【一条】
「……まっ……」

声が出かかる、あと少し、俺の咽がここで潰れてしまってもかまわない、チャンスは今しかないんだ。

【一条】
「待ってくれ!」

声が出た、俺の声に少女が足を止め、俺の方に向きなおる。

【一条】
「君の……名前は……」

聞きたいことは山ほどあったはずなのに、俺はそんなことしか聞くことができなかった。

【少女】
「……水鏡……」

水鏡、少女はそう名乗ると屋上から立ち去った。
俺の足が震えている、ガクガクとまるで怖い物でも見た子供のように俺の足は震えその場に膝から崩れてしまった。
1人になってしまった屋上で、俺はしばらく動くことができなかった。

……

【音々】
「誠人さん?」

【一条】
「音々? どうかしたか?」

屋上で落ち着きを取り戻すと、音々から声をかけられた。

【音々】
「特に用と云うわけではないんですけど、屋上に来れば誠人さんがいらっしゃるかと思いまして」

【一条】
「で、実際にいたわけだ、俺なんかに会っても何も無いけど?」

【音々】
「今日はもう、オカリナは終わってしまいましたか?」

【一条】
「1回は吹いたけど、別にもう1回吹いてもかまわないよ」

【音々】
「それでは、あの……お願いしてもよろしいですか?」

【一条】
「別にかまわないよ」

オカリナを口にくわえ、ゆっくりと息を吹き込んで音を紡ぐ。
いつもと変わらない、自分ではいつもよりも楽しんで吹けていると思っていたオカリナの音。
この音は悲しんでいる、俺にはわからない……
少女の、水鏡の言葉の意味を俺には理解することができないでいる。

……

【音々】
「いつ聴かせていただいても素晴らしい音ですね、ただ」

【一条】
「ただ……?」

【音々】
「いえ、私の勘違いかもしれないんですけど……誠人さん、何か無理していらしたりしますか?」

【一条】
「無理? 今のところ体は順調だけど、何か変わったことがあったか?」

【音々】
「なんだか……音が泣いているように、私には感じられました。
暗い所に閉じ込められて、存在を認めて欲しくて泣いているような、そんな感じを少しだけ受けました」

【一条】
「……」

泣く

泣くという行為の延長線上には「嬉しい」、又は「悲しい」の2種類の感情が存在する。
水鏡が云っていたのは「悲しい」、たぶん音々と水鏡の2人とも同じような違和感を感じたんだろう。
つまりは、俺の音は悲しんでいるということになる。

【音々】
「誠人さん……もし何かに悩んでいましたら、1人で背負い込むのだけは止めてください。
1人で悩みを背負い込むと、人は悩みの重さに潰されてしまいます。
ですが、相談できる相手がいれば、そんな悩みの重さも少しですが軽くなりますから」

【一条】
「それってさ……甘えてるだけじゃないのか?」

【音々】
「いいえ、人は自分1人だけで生きていくことなんて不可能です。
人は弱い生き物ですから、他人の助けをいつもどこかで求めているんです。
助けてもらうことで人は成長します、それがたとえどんな些細なことだとしても」

【音々】
「私で良かったら、いつでも誠人さんの相談に乗らせていただきますから。
ですから、自分の中に溜め込むことはしないでくださいね」

【一条】
「音々……ありがとう」

【音々】
「お礼なんて云わないでくださいよ、なんだか……照れちゃいますね」

ポッと頬を赤く染めて手をもじもじと動かしている。

【一条】
「だけど……今はまだ云えない、俺の中でもまだあやふやでしかないんだ。
俺1人じゃどうしようもなくなった時、相談に乗ってもらえるか?」

【音々】
「はい、喜んで……あ、誠人さん今の時間教えていただけますか?」

【一条】
「ちょっと待って、えぇと……5時半ってとこだけど」

【音々】
「いけない、もうそんな時間なんですか!」

急におたおたと慌てだす、何か用事でもあったのかな?

【音々】
「すいません、用事がありますのでこれで失礼します」

パタパタとした足取り屋上から音々が姿を消した。

【一条】
「……はぁ」

さっきの音々の言葉、悩みは決して1人では背負い込むな……
普通の人なら話して悩みの重さを和らげることも可能だろう、だけど、俺の場合は違う。
話すことで重さが増す可能性が極めて高いんだ。

【一条】
「こんな悩み、音々に打ち明けられる訳無いよな……」

1人残された屋上の空気が今日はなぜか体に痛い。
俺もそろっと帰るとするか……

……

教室の扉を開ける、もう誰1人として教室には残っていない。
さっさと鞄を持って帰ろうとした時、視線が座席の先頭に向いた。

……誰か倒れている!

服装を見る限りでは女子、横たわるように倒れているので顔までは確認できない。

【一条】
「ちょっと、大丈夫か!」

倒れている女生徒に駆け寄って体を抱き起こすと……

【一条】
「ね……音々……!」

俺より一足先に屋上を後にしたあの時の音々とは違う。
苦しそうに顔を歪め、息遣いも少しだけ荒い、額には薄っすらと汗まで浮いているじゃないか。

【一条】
「音々、しっかりしろ! 大丈夫か!」

【音々】
「はぁ……ま……誠人……さん」

薄く眼を開けるがどうも焦点が上手く定まっていない。
こんな時、素人判断で動くと大きな間違いを必ずと云って良いほど起こしてしまう。
保健の先生を呼びに行くのが1番良いんだろうけど、それには俺がこの場を離れなければならない……

【一条】
「……」

考えるよりも早く、体は本能のまま動く。

【一条】
「少しの辛抱だぞ……」

ぐったりとした音々の体を抱きかかえる、俗に云う「お姫様抱っこ」だ。
音々にとっては恥ずかしいかもしれないが、そこは我慢してもらおう……
できるだけ早足で、かつできるだけ振動を少なく保健室を目指した。

……

両手が塞がっているので足でもって扉を開ける、怒られたとしても緊急事態だから良いよな。

【一条】
「失礼します」

【先生】
「部屋の扉は足で空けない、大人からそう習わなかったかしら?」

開口一番にお説教、まあ当然だけど……

【一条】
「す、すいません……じゃなくて、緊急事態で両手が塞がってるんです!」

【先生】
「緊急事態って、お姫様抱っこのどこが……もしかして姫崎さん!」

返答を待つこともなく先生はベッドの準備をテキパキと行う。

【先生】
「姫崎さんをここへ寝かせてくれる」

音々の体をベッドに横たえ、腰の辺りまで毛布を被せる。
……そうでもしないと見えるかもしれないし。

【先生】
「やっぱり、まだ無理だったのかしらね……」

【一条】
「先生は、音々を知ってるんですか?」

少し気になっていた、俺は誰とも云ってないのに先生には患者が音々だとすぐにわかった。
それに今の科白、まるで以前にもこんなことがあったかのような口ぶりだったな。

【先生】
「知ってるも何も、姫崎さんはここの常連よ。
もっとも、こんな所の常連になったって良いことなんか何も無いけどね」

【一条】
「常連って……どういうことですか?」

【先生】
「彼女ね、他の人よりも体が弱いのよ、心臓が生まれつき弱いらしくて。
様子を見る限りじゃ、今日も発作が起きたんでしょうね」

【一条】
「発作……ですか……」

知らなかった、まさか音々が病気持ちだったなんてな。

【先生】
「薬は飲んだだろうから心配は要らないと思うけど、念のため家の方に電話してくるわね。
悪いんだけど、それまで姫崎さんのそばにいてもらえるかな?」

【一条】
「お安い御用ですよ」

先生が保健室を出て行く、パタパタと廊下を駆ける音が小さく鳴り響く。
ベッドの上では小さく音々の胸が上下している、息遣いも正常に戻って汗も引いている。

【一条】
「生まれつき心臓が弱いか……」

いつもはそんな雰囲気を見せない音々だったのに、胸の内には爆弾を抱えていたんだ。
発作があるってことは下手をしたら命にさえ関わる問題なんだろう。

学校なんか来ないで病院で治療を受けて完璧に直した方が良いんじゃないのか?

【音々】
「う……うん……」

【一条】
「お、気が付いたか……」

【音々】
「誠人さん?……あれ、私どうしてこんな所に?」

【一条】
「教室で倒れてたんだ、勝手だけど保健室まで運ばせてもらった」

【音々】
「倒れてた……あぁ! す、すいません私ご迷惑をかけてしまって!」

慌てて起き上がろうとする音々を静止する、前とは立場が逆転しているな。

【一条】
「倒れた時はすぐに起きるな、体を休めないとまた倒れる、だったっけ?」

【音々】
「……はい」

音々の科白をそのまま返すと大人しくベッドに横になる。

【一条】
「だけど驚いたよ、教室に行ったら音々が倒れてるんだもんな」

【音々】
「すいません、なんだか頭がポーっとしちゃって……」

【一条】
「頭じゃないだろ……ここだろ?」

トントンと自分の胸を叩く、今、音々は俺に嘘をつこうとした。

【音々】
「ご存知なんですか……?」

【一条】
「さっき先生がな、生まれつき心臓が弱いんだって?」

【音々】
「はい……隠すつもりは無かったんですけど、すいません」

【一条】
「謝ることじゃないだろ、だけど、大丈夫なのか?」

【音々】
「それは心配ありません、薬も飲みましたからこれ以上悪くなることは無いですよ」

【一条】
「そうなんだ、それって……いや、やっぱりいいや」

「手術か何かで良くならないのか?」そんな質問をあえて飲み込んだ。
もしかしたら、音々には選択肢なんてなく、定められた1本の道を歩くだけ。
「どうにもならない」そんな1本の道を歩いているような気がして俺には聞くことなんてできなかった。

【先生】
「ただいま、あら、姫崎さん気が付いたのね」

【音々】
「先生、またご迷惑をおかけしてしまって……」

【先生】
「気にしなくて良いのよ、今御家の方に電話してきたから、すぐに来るらしいわ」

【音々】
「何から何までありがとうございます……」

【先生】
「いえいえ、それにしても、今日の姫崎さんまるでお姫様みたいだったわよ」

【音々】
「お姫様……ですか?」

音々は何のことやらと頭の上に疑問符を浮かべている。

【一条】
「先生……そのことはちょっと……」

【先生】
「あたしも驚いたわ、まさか保健室にお姫様抱っこで担ぎ込まれる子がいるなんてね」

クスクスと笑いながら先生が保健室を出て行く、保健の先生が保健室から消えてどこに行くんだ?

【音々】
「お……お姫様抱っこ!」

衝撃の事実を聞いて音々の顔がみるみる赤く紅潮していく。

【一条】
「いや……悪いかと思ったんだけど、急いでたしさ」

【音々】
「はわわわわ……は、恥ずかしいです!」

毛布でがばっと顔の半分以上を覆ってしまう。

【一条】
「誰にも会わなかったから大丈夫だと思うけど……」

【音々】
「ほ……本当ですか……?」

【一条】
「会ってはいない……見られたかもしれないけど」

【音々】
「ふわーん!」

完全に毛布に顔が隠れてしまう、泣くほど恥ずかしかったのか……?

【一条】
「おいおい……何も泣くことないだろ」

【音々】
「だ、だって……私今までお姫様抱っこなんてされたことありませんし。
それに、他の人が見たらなんだか私が甘えているみたいに見えるじゃないですか」

【一条】
「……」

音々が被っている毛布を剥がすと、音々は猫のように小さくなって顔を赤く染めていた。

【音々】
「と、とらないでください……」

【一条】
「音々ってさ、すごい初心だね」

【音々】
「か、からかわないでください、それよりも、毛布返してください!」

【一条】
「嫌だと云ったら、というか返す気は無いよ」

【音々】
「そんなぁ……誠人さん意地悪です」

ぷうと頬を膨らませるが、今の状況でそれは逆効果なんだけどな……

【一条】
「どう、少しは恥ずかしさもとんだ?」

【音々】
「もう……知りません!」

今度はツーンとそっぽを向かれてしまった、今の音々は何をしてもかわいく思えてしまう。

……

【先生】
「姫崎さん、親御さんが到着なされたわよ」

【音々】
「はい、今準備します」

【一条】
「手貸すよ、まだ本調子じゃないだろ」

【音々】
「ありがとうございます」

あの後なんとか音々は機嫌を直してくれた、案外音々って根に持つタイプなんだな。

……

玄関まで音々に付き添う、玄関には黒塗りの車が待機していてその側には若い男が1人たたずんでいた。

【男】
「本日はご迷惑をおかけしました、大丈夫だと思っていたんですが」

先生と男の人がなにやら言葉を交わす、会話からして音々の父親かな……?

【音々】
「誠人さん、今日はありがとうございました」

【一条】
「いやなに、俺の方こそありがとう」

【音々】
「誠人さんがお礼を云うようなことは何もありませんでしたよ?」

【一条】
「お姫様抱っこさせてもらったし……」

【音々】
「誠人さん、そのことは秘密にしてくださいよ、約束したじゃないですか」

お姫様抱っこのことを口外しないという約束で音々は機嫌を直してくれた。
約束を破ったら2度と口を聞いてくれないらしい……

【一条】
「わかってるって、それより自分の体は大事にしろよ」

【音々】
「ふふ、はい……」

小さく微笑む、その笑顔の奥には爆弾があると思うと、なんだか胸を締め付けられるような痛みを感じてしまう。

【男】
「それでは、私たちはこれで」

男と音々が車に乗り込むと、黒塗りの車は煙を吐いて学校を後にした。

……

夕食を済ませ、ベッドに横になると不意に音々の顔が浮かんでくる。
いつもおっとりとして落ち着きを崩さない音々にも弱さが存在した。
俺もあの世に片足を突っ込んだようなものだから死の恐怖はわかる。
だけど、音々にはそんな死の恐怖に対する不安がほとんど感じられない。
あの体じゃいつも死と隣り合わせになっているようなものなのに、どうして?

【一条】
「……考えたって俺にはわからないよな……」

俺もついこの前までは死が隣に待機していたのに、今では俺はまったく逆の立場。
もう1人の俺の存在が隣にいた死を打ち消して、代わりに死の恐怖を与える側に回ってしまった。
死の恐怖を一番身近で感じていたからこそ、もう1人の存在が怖い。
いつか……俺は取り返しのつかない結果を招いてしまうんじゃないか?

【一条】
「……止めよう……もう、考えるな」

頭をブンブンと振って思考を散らす、もう今日は寝てしまおう……
いつもよりもだいぶ早い時間だが、起きていても得をするとは思えないしな……





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