【4月26日(土)】
10時を少しまわったころにチャイムが鳴り響く。
来客は誰だかわかっている、昨日の約束を忘れるほど俺は抜けてはいない。
【美織】
「おはよ、約束どおり迎えに来たよ」
【一条】
「普通は男が迎えに行くと思うんだけど?」
【美織】
「良いじゃない女の子から来たってさ、さてと、それじゃ行こっか」
……
電車で隣町を目指す、今日で隣町に行くのは2回目だ。
病院に行く時にも電車には乗るけど方向は全くの正反対だからな。
比較的空いていた電車のシートに腰を下ろして美織の姿を見ると、美織の着ていた服が少し気になった。
【一条】
「美織、その服ってこの前買ったやつ?」
紫のラメが入ってキラキラと光るその服には見覚えが合った。
【美織】
「覚えててくれたんだ、これはこのまえマコがおごってくれたやつだよ」
【一条】
「おごってよかったよ、それ美織によく似合ってるよ」
【美織】
「ふふ、お世辞だとわかってもなんだか嬉しいな」
少し頬を紅潮させ、窓の外に視線を動かしてしまった。
残念だけど、お世辞じゃないんだ、いつも活発的で元気な美織にラメの入った服はとても大人っぽく見える。
同級だというのに美織の姿がいくつか上のお姉さんの様に見えた。
そんな美織を見ているのが恥ずかしくなって俺も視線を外へと動かした。
……
【美織】
「マコはどこに行きたい?」
【一条】
「美織の行きたいところに行ってくれ、荷物はまた俺が持ってやるから」
【美織】
「うーんと……じゃあ今日は映画でも見ない?」
【一条】
「映画か、最近見てないからな、たまには良いかもな」
【美織】
「映画館はあのバス停から行けるから、今の時間だと丁度バスが来る時間だと思うよ」
バス停を指差すと同時にバスが到着する、タイミングばっちりだな。
……
バスに揺られること数分、映画館前でバスを降りた。
【美織】
「それで、何の映画みよっか」
掲示板に貼られていたポスターは全部で4つ。
『白地のキャンバス』、『誰!』、『学園爆破計画! 起爆装置は僕?』、『終わりの園』
【美織】
「マコはホラーとファンタジーと恋愛ならどれが好き?」
【一条】
「基本的には何でも大丈夫、タイトルとポスターだけ見ても良くわからないな」
【美織】
「大丈夫、あたしは結構映画通なんだよ、『白地のキャンバス』はとある学園の美術部が舞台で
卒業式までに大きな油絵を完成させるって話」
【美織】
「『誰!』ってのは名前で予想がつくと思うけど、十九世紀のパリが舞台になったホラーサスペンス物」
ポスターを見ると女性役者が背を向けて走っている、その上に2つの眼球が大きく描かれたいかにもな物だな。
【美織】
「『学爆』は野望に燃えた数人の生徒がノリで爆弾を作っちゃったてとこかな」
美織の映画通というのはどうやら本当のようだな、なんだか意外だ。
それにしてもノリで爆弾なんか作るなよ……
【一条】
「それじゃあこの『終わりの園』ってのはどんな話?」
【美織】
「それはちょっとわからないな、その映画は公開日が今日からだからなんの情報もないんだ」
ポスターを見る限りではホラーの可能性はない、男性と女性が背中合わせになって2人ともなんだか悲しげにうつむいている
恋愛物にしても純愛ではなさそうだし、ファンタジーや青春物とも少し違う。
宣伝文句には
『このちっぱけな世界で、人間は前に進むことしかできないんだ……』と書かれている。
【一条】
「これにしよう、美織も何の情報もないやつの方が面白いだろ」
【美織】
「マコがそれで良いんなら、あたしはそれで良いよ」
決定だ、券を2枚購入して映画館の中へと足を勧める。
映画館の大きなスクリーンで映画を見るのは今の俺には初めての感覚になる、以前に見たかは定かではない。
舞台がすっと暗くなってスクリーン中央へ光が照射された……
……
「俺にはどうすることもできないんだ、こんな存在価値のない人間は、死んだ方が良い……」
「莫迦、どうしてあなたはいつもそうなの、どうして現実から逃げるのよ!」
「逃げているんじゃない、俺にはこれしか選択肢がないんだ……」
定められた運命の導くままに、世界が自らの存在を認めないというのならば俺はそれを受け入れよう。
だけど、もう少しだけ、もう少しだけで良いんだ、俺に時間を与えてくれ。
この世と別れを告げるのに、何も無いのでは悲しすぎるから……
……
【一条】
「……」
とんでもない映画を引いてしまった、話が面白くないのではない、話の構成が怖かった。
大まかなストーリーは生きる意味を見失った男と、そんな男の力になろうとした女の話。
男は大きな事故にあって自らの名前以外の記憶を全て失ってしまい……
女は小さいころに両親を病気で亡くしてしまっている……
互いに深い悲しみを持っているからこそ互いを干渉しあう、ポスターが示していたのはこのことだったんだな。
【美織】
「……グス」
【一条】
「映画見て泣くなよ」
【美織】
「だって……あの2人、悲しすぎるよ」
クライマックスに差し掛かるにつれて、美織の眼には涙が溢れていた。
隣に座っていた俺の耳には微かであったが、美織の涙に震えた声が聞こえていた。
【美織】
「2人とも愛し合っていたのに、あんな結末じゃ……グス」
映画が終わった後も美織の涙は薄っすらと残っていた、美織の涙が感動の涙なのか、悲しみの涙なのか俺にはわからない。
【一条】
「もう昼だしさ、とりあえず何か食べようか」
【美織】
「どうしてそんな雰囲気をぶち壊すようなこと云うかな」
【一条】
「美織はまだ腹空いてないの?」
【美織】
「空いてません!」
キュルルルルゥゥゥゥゥ
【美織】
「……あ」
【一条】
「……」
泣き顔だった美織の顔が少しずつ赤くなっていく、勿論さっきの音は俺じゃなくて美織からのものだから。
【一条】
「……食事にしようか」
【美織】
「……コクン」
言葉無く頷くだけ、よほど恥ずかしいのか眼も合わせてくれない。
……
その辺の喫茶店に入り、俺はパスタを、美織はサンドイッチを注文する。
【一条】
「美織も映画見て泣くことなんてあるんだ」
【美織】
「わ、悪かったわね……あたしだってこんなことだってあるもん」
ムスッと頬を膨らませて拗ねている、そんな美織が凄い可愛らしく思えた。
【一条】
「拗ねないでくれよ、あの映画は美織にとって当りだった? それともハズレだった?」
【美織】
「どちらかというと……当り、かな
ハッピーエンドだけが終わりじゃないんだって、痛いほど考えさせられたから」
【一条】
「確かにね、お芝居だとはいえ最後の展開はちょっと悲しいものだったな」
【美織】
「だよね、あたしがあんな立場だったらどうするだろうな……」
あんな立場だったら、その言葉が俺の心に突き刺さる。
だってあの2人の境遇は……俺たちにそっくりだったんだから。
記憶を失った男と、親を失った女、俺と美織はそんな2人の設定に限りなく近い物だった。
【美織】
「ねえ、もしマコがあの男役の立場だったらどうする?」
【一条】
「どうするって云われてもなぁ、正直あんな立場にはなりたくないな、美織は?」
【美織】
「あたしもおんなじかな、お話やお芝居なら良いけど自分があんな立場に立ったとしたら。
あたしには耐えられないかな、救いの無いエンディングは見たくないよ」
救いの無いエンディング、あの映画の最終的な結末はまさにそれだった。
世界から存在を否定された男はこの世から消えなければならなかった、それは世界が決めた定めであり決定事項。
男は愛する女性に全てを話し、自分に残された僅かな時間を女性と共に過ごした、思い出を手に入れるために。
女はその男を必死で引き止めるがそんな願いは叶わず、夕日に美しく照らされた展望台で男は満面の笑みで女性に告げる。
「いつまでも愛しています、それと……」
「……さよなら」
男が最後に残したその言葉、『さよなら』 男が全てを込めたその言葉に、女性は笑顔を返すことなどできなかった。
【一条】
「あの映画って、結局のところ何が云いたかったんだろう?」
【美織】
「たぶんだけど、互いを思う気持ちじゃないかな」
【一条】
「互いを思う気持ちって、あんな救いのない終わりかたでか?」
【美織】
「終わりかたは関係ないよ、大切なのは終わりに至るまでの2人が過ごしてきた時間。
最後には別れが待っているとわかっていたのに、2人は互いを求め合ってその場限りの時間を過ごした。
それが後々2人にとって辛いことになったとしても、2人は愛し合うことを止めようとはしなかった、何でだと思う?」
【一条】
「……何でなんだ?」
【美織】
「2人ともお互いを心から愛していたからだよ、愛し合うことに理屈なんて必要ない、必要なのは本当の気持ち。
心から愛していたから2人には止めることができなかった、それが恋愛なんだから」
とても説得力のある言葉、俺は悲しい物語だとしか思えなかったのに、美織にはその物語の奥底にある訴えまで感じ取っていたんだ。
悲恋の先に用意されていた恋愛の難しさと本質、男の俺だけではきっと読み取ることもできなかっただろうな。
【一条】
「美織って恋愛に詳しいね、何度も恋愛経験あるの?」
【美織】
「年頃の女の子になんてこと聞くかなぁ、あたしは今まで一度たりとも恋愛経験なんて無いよ」
【一条】
「それにしてはあの映画にしても2人の心情とかよくわかったね」
【美織】
「だって女の子だもん、大雑把な男なんかよりはずっと心理分析は繊細にできると思うけど?」
【一条】
「そう云われると何も返せないんだが……」
【美織】
「そんなもんよ、昔から男は恋愛とかに鈍いからねー」
サンドイッチをかじって美織が指摘する、男は女に弱いくせにそういったところでは鈍い。
話もころあいなので俺も注文したパスタにフォークを伸ばした。
……
【美織】
「さて、次はどこに行こうか?」
【一条】
「行きたいところへどうぞ」
【美織】
「それじゃあ……お買い物でもしましょうか」
【一条】
「了解、買い物だったら大通りだな、ここをまっすぐ出れば確か大通りに出れたよな」
【美織】
「うん、それじゃ、しゅっぱーつ!」
するりと美織の腕が俺の腕に絡み付いてくる、美織と2人でいるとよくこんな現場ができている。
美織はなんの恥ずかしさも無いみたいなんだけど、俺はまだこの状況に慣れれないんだよな。
【一条】
「またこれですか、よく恥ずかしくないね」
【美織】
「恥ずかしがる理由が見つからないんだもん、それともマコは迷惑?」
【一条】
「迷惑じゃないけど、なんだか周りの視線が……」
【美織】
「気にしない気にしない、これくらいで参ってたら彼女ができた時どうするのよ」
できれば彼女にはこんなことして欲しくないな……
……
大通りではいつもの街とは違う変わった物が多数見つかる。
【美織】
「なんだか普段と違う物ばかりだとわくわくするね」
【一条】
「ああ、結構こんな場所だと掘り出し物が見つかったりするんだよな」
【美織】
「わかるわかる、それで買った後よく考えてみるとなんでこんなの買ったんだろうって思うんだよね」
【一条】
「買う前は凄い興味があったのに買った後だと興味も薄れちゃうんだよな」
家に宙に浮く地球儀があるけどまさにそれだ、最初は欲しかったのにいざ買ってみると家に置いても場所をとるだけだった。
【美織】
「人もそんなものなのかな……」
声のトーンが急に小さくて悲しげなものに変わった。
【美織】
「気が付いてからじゃ、もう遅いのかな……」
絡められた腕にぐっと力が入って俺の腕にしがみつくような感じになる。
何かに脅えているような、そんな印象を受ける行動だった。
【一条】
「美織……」
【美織】
「ごめんね、ちょっと考え事してたから……あ、ねえねえあれあれ!」
絡められた腕に引きずられながらついて行くと、そこには1人の若者が露店をやっていた。
地べたにシートを敷いて、その上でシルバーアクセサリーを売っている。
【美織】
「綺麗、シルバーアクセサリーかー」
【若者】
「いらっしゃい」
【美織】
「こんにちは、このアクセサリー皆綺麗ですね、それに形もなんだか珍しい物ばかり」
【若者】
「そりゃあ全部俺の手作りだからね、どれもこの世に2つとない一点物よ」
【美織】
「え、これ全部手作りなんですか! こんなにたくさん1人で作ってるんですか?」
【若者】
「まぁね、利益を求めるとどうしても個人の方が良いしね、気に入ったのがあったら云ってよ、試着はどれでもタダだからね」
露店のアクセサリーショップ、映画の中でも同じようなことがあった、確か男が女性にブローチを贈ってたな。
しかもブローチを見つけたのはシルバーアクセサリーの露店商。
設定だけじゃなく、行動まで俺たちは映画と同じことをしているな。
【美織】
「この指輪可愛いなあ、こっちのペンダントも綺麗だし」
アクセサリーに夢中になっている、女の子らしい行動だ。
【一条】
「気にいった物は見つかったか?」
【美織】
「それが……良いものがいっぱいあって決まらない」
【一条】
「美織はシルバーアクセサリー好きだったの?」
【美織】
「うん、アクセサリーの中ではシルバーアクセサリーが一番好きかな、落ち着いた中にも輝きを見失わない
そんな感じがしてあたしは好きなんだ」
金の様に自らの存在を全面に押し出した物よりも、控えめでも自らの存在をきっちりと主張する方が美織は好みなんだ。
【一条】
「シルバーアクセサリーって1つ作るのにどれくらいの時間がかかるんですか?」
【若者】
「サイズやデザインにもよるね、1日でできるやつもあればデザインが複雑だと1週間くらいかかることもあるかな」
【美織】
「マコ、お願いがあるんだけど……」
【一条】
「気にいったのが決まったか、値段次第では俺が買ってやるけど?」
【美織】
「違うの……いつか、あたしにもしも決心がついたら、正面から全て受け止める勇気がついたら
もう一度マコとここに来たいの……駄目かな?」
【一条】
「正面で受け止める勇気がついたらか……良いよ、美織が全てに納得した時、俺を誘ってくれ」
【美織】
「……ありがとう!」
再び腕を絡めてくる、今度はすがりつくような感じではなく、大切な物を抱きしめるようなそんな感じがした。
【若者】
「その時の来店をお持ちしております、彼氏もその時は何か買ってよ」
【一条】
「彼氏なんてそんな……」
彼氏という単語に照れてしまう、腕をこんなにも絡められていては彼氏と見られてしまうのも当然かもな。
【美織】
「見るだけですいません、またきっと来ますから」
【若者】
「いつでもどうぞ」
露店に別れを告げて買い物を再開する。
……
【一条】
「……」
【美織】
「どうしちゃったのマコ、ちっとも喋らなくなちゃって?」
【一条】
「いやなに……ちょっと考え事をな」
【美織】
「考え事って何かエッチなこととか考えてないでしょうね?」
【一条】
「なんでそう云うんだよ、エッチな事とは無縁なことだよ」
さっきから色々と考えをめぐらせている、もちろんエッチなことではない、断じて違うぞ。
【一条】
「美織……ちょっとだけ外させてくれるか?」
【美織】
「なーにお腹でも痛いの? ここで待ってるから早く行ってきなよ」
【一条】
「悪いな、なるべく早く戻ってくるから!」
美織を残して目的の場所へ向かう、待つのはもう止めだ。
……
【一条】
「すいませーん」
【若者】
「ん? さっきの彼氏じゃないの、どうしたの?」
露店商の所まで戻ってくる、美織がいては少しバツが悪いからな。
【一条】
「シルバーアクセサリーってデザインはオーダーできるんですか?」
【若者】
「もちろん、もしかして俺に何かオーダーかい?」
【一条】
「お願いできますか?」
【若者】
「OK、事情は聞かなくてもわかってるからね、それでどんなデザインにする?」
【一条】
「それが……」
……
【若者】
「なるほど、中々凝ったデザインじゃないの」
【一条】
「作ってもらえますか?」
【若者】
「大丈夫よ、ただこういったデザインはやったことがないから少しばかり時間がかかるね」
【一条】
「どれくらいになりそうですか?」
【若者】
「1週間は超えると思ってもらいたい、だけど必ず完成はさせるから」
【一条】
「1週間以上か、わかりましたお願いします」
【若者】
「はいよ、土日は基本的にいつもここにいるからいつでも寄ってよ」
【一条】
「ありがとうございました、失礼します」
【若者】
「がんばってねー」
何をがんばれって云われたんだろうな、たぶん俺とあの人が考えていたのは同じことだと思うけど……
……
【美織】
「おーい、目的は果たせたの?」
【一条】
「待たせちゃったな、ちょっと手間取っちゃって」
【美織】
「何をしていたんだか、それより次はマコの買い物の番だよ」
【一条】
「俺何か欲しい物云ったっけ?」
【美織】
「昨日云ってたじゃない、食料が少なくなってきたって」
そんなことを云った気がするがあれは嘘なんだよな……
【一条】
「それはいつもの街に帰ってからでも良いから、今日はとことん美織に付き合うよ」
【美織】
「そんなこと云っちゃって良いのかなー? あたしは結構ハードだよ?」
【一条】
「それも美織らしくて良いじゃないか、美織と一緒ならどこでも楽しめそうだから」
【美織】
「その科白忘れないでよ、今日は店中まわるわよー!」
おいおい、店中ってそれはちょっと無茶なんじゃ……
……
【一条】
「ゼェ、ゼェ、ゼェ……」
本気で全部の店をまわる気でいる、美織はまだまだ元気なのに俺はもうヘトヘトだ。
【美織】
「こんなことでバテてどうするのよ、まだまだまわれるお店は山ほどあるんだよ」
【一条】
「少し減らしてくれないか……?」
【美織】
「ダーメ、男に二言は無いの、あたしらしくて良いって云ったでしょ」
【一条】
「せめて休憩を少し……」
【美織】
「休んでたら全部なんかまわれないよ、ほらほら立って立って」
足がおぼつかないのに腕を絡められたせいで倒れることもできない、こいつの元気はどこから来てるんだよ?
……
【美織】
「お疲れ様」
本気でこの方は全ての店をまわりました、途中までは数えていたが莫迦らしくなってきて途中から数えるのを止めた。
後半はほとんど何を見たのか覚えていない、さらっと流すだけの店も結構あったしな。
【一条】
「今日は……もう……止めて……」
【美織】
「止めるもなにももう見るお店もないんだから、よくついてこれたね」
【一条】
「これ以上は……もう……無理……」
【美織】
「それじゃ、今日は帰りましょうか、駅まで少し歩くよ」
【一条】
「……」
最後の力を振り絞って駅まで向かった、もう動きたくない……
……
【一条】
「うあーぁぁぁ疲れたー」
盛大に伸びをして体をほぐす、ここまで体を動かしたのは久しぶりだ。
【美織】
「マコ、少し川原に行かない?」
【一条】
「電車の中で休んだから大丈夫だ、川原行こうか」
……
夕日に染め上げられた水の流れや土手の緑が全て紅色に見える。
これも今日見た映画にそっくりだ、展望台ではなく川原の土手というだけでロケーションはぴたりとはまっている。
男はここで女性に別れを告げる、永久の別れ、エンディングを迎えるための見せ場。
【美織】
「相変わらず人気ないね」
人の存在がない、この川原はまるでそれそのものの存在すら人には知られていないような雰囲気すらある。
【一条】
「それで、どうして川原なんか来たくなったの?」
【美織】
「……人がいないから、かな……」
【一条】
「……」
【美織】
「……」
2人とも何の言葉も無く川原を見つめ、流れる時間に身を預けるととても気持ちの良い風を感じることができる。
【美織】
「今日は……ありがとね」
【一条】
「こちらこそ、退屈な休日も美織のおかげで有意義に過ごせたから」
【美織】
「ふふ、あたしもこんなに楽しかったのは初めてかな、マコのおかげだね」
【一条】
「俺は何もしてないだろ」
【美織】
「何もしてなくても良いんだよ、マコがいてくれるだけで、とっても楽しかったから」
【一条】
「美織……」
【美織】
「マコ、少し眼を瞑っていてくれるかな?」
【一条】
「? かまわないけど?」
云われたとおりに瞳を閉じる、暗さよりも夕日の明るさの方が強いため視界はぼやけた白に見える。
【美織】
「眼、開けちゃ駄目だからね」
一体何をしよいうっていうんだろうか、あれこれと考えていると急に視界に暗さが増した。
それと同時に唇に何かの当たる感触、とても柔らかく暖かさを持った感触が唇をとおして伝わってくる。
こんな状況で考えられることなんて1つしかない、とっさに眼を開けた。
【美織】
「ん……ちゅ……」
視界に広がるのは美織の顔、眼を瞑って唇を重ね合わせている美織の表情だけが視界に存在する。
【美織】
「む……はぁ、もう開けちゃ駄目だって云ったのに」
【一条】
「美織、何を……」
【美織】
「今日1日付き合ってくれたお礼だよ、今日はありがとう、本当に楽しかったよ」
唇を離した美織の顔はほんのりと頬が紅潮して、恥ずかしさを必死に隠しているようなそんな印象を受ける表情だった。
【美織】
「また来週学校でね、ばいばーい」
ブンブンと腕を振る美織の後姿が最後に見た姿だった。
……
【一条】
「……」
あのまましばらくの間思考が停止してしまった、美織がした行為、それが思考の全てを奪ってしまったから。
キスというにはあまりにも単純で児戯たる行為、唇と唇が触れ合うだけのそれはキスではなく口づけ。
しかし、俺にとってそんな児戯たる行為でも思考を全停止させるには十分だった。
【一条】
「どうして……」
どうして美織は俺に口づけをしたのだろうか、『お礼』その言葉で全てを確立させることなんて不可能だ。
美織の表情、あの表情を見てしまった俺にはお礼なんてものではないことなど百も承知。
あれは美織の一種の決意、自分の中で何かを決心したそんな表情だった。
【一条】
「そうか……俺はやっぱり……」
今までもやもやとしていた形が今はっきりと俺の中で姿を形成できた。
今日1日美織と映画を見て、美織と一緒に買い物をして、その全てを楽しんでいる自分がいた。
そして、最後に美織がした口づけ、それら全てが俺にとっては望んでいることなんだと。
俺は自分が何を望んでいたのか、美織のおかげで全てが1つになった。
……
川原から少し奥にはいった公園、そこで全てを見つめていた少女が1人。
【水鏡】
「……」
一条と美織がここに来て、2人が姿を消すまで、少女はその姿をずっと見つめていた
【水鏡】
「……」
【萬屋】
「やはりここにいたか……」
【水鏡】
「……」
【萬屋】
「どうやら帰るための巣が産まれたようだが……」
男は懐から懐中時計を取り出して時間を確認した。
【萬屋】
「六時二十五分……もうこんな時間か、あんまり悠長にしている暇も無さそうだな」
時間を告げて男は去っていく、残された少女はその場を動くことも無く、公園から僅かに見える川原の流れだけを見つめていた。
【水鏡】
「……」
眼を閉じてみても光景が眼に焼きついてしまったのか同じ映像ばかりが眼の前には広がる。
一条と美織の口づけ、そんな映像をこの眼は記憶してしまったのか?
【水鏡】
「……誠人……先輩」
痛みを感じるほど強く自らの体を抱きしめる、それほどまでに自分の思いは強くなっていた。
【水鏡】
「どうして、こんなにも……」
胸の奥で何かが焼けるように熱く痛い、体を抱きしめたような肉体的な痛みではない。
もっとずっと奥底の感情から来る痛み、少女の体を駆け巡るのはそんなどうしようもない痛みだった。
【水鏡】
「そろそろ、終わりにしますから……」
痛みが治まるのを待って、少女は1つの決意を下した。
【水鏡】
「……先輩」
無表情なその顔の奥で、少女の心は1つの答えを導き出した。
ここにもう1人、自らの心に決心のついた少女が夕暮れの世界に存在した……
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜