【4月27日(日)】
揺れる電車の中から見える景色は2週間ぶりの新鮮味を与えてくれる。
今日は朝早くから起きて行かなければならない所があった、そのために電車に乗っている。
電車の外ではもう桜の花も時期が終わりに近づいて哀愁を漂わせ、物悲しい雰囲気を与えていた。
……
電車から降り立って、足は目的の場所へと向かう。
見慣れた風景なのに何故か懐かしいと感じる、たかが2週間席を外していただけなのにどうしてそう感じるんだろう。
2週間、ちょうど2週間前にも同じ場所へと足を運んだな。
あの時は別れを告げるために、だけど今日は違う、あの日よりもずっと重く、重要な話があったんだ。
……
並木道の上に目的地が見えてくる、白を基調とした立体構造物。
南城ヶ崎総合病院、門を抜けて病院内へと足を進めた。
【一条】
「すいません」
【受付】
「こんにちは、あら? 一条さん、今日も先生はいつもの場所にいらっしゃいますよ」
【一条】
「ありがとうございます」
ここに来る理由は大方1つしかない、俺にとっての恩人に出会うため、頼れる人間に出会うため。
……
我が家のように内部の構造が頭の中に入っている、何の躊躇も無く第二診察室にたどりついた。
コンコン
【声】
「はいどうぞ」
扉の奥から懐かしい声が聞こえる、扉を開けるといつもと変わらぬ新藤先生の姿がそこにあった。
【一条】
「失礼します」
【新藤】
「今日の患者は特にいないはずだが……ってなんだ、一条君だったのか」
【一条】
「2週間ぶりにお邪魔しました、突然で申し訳ありません」
【新藤】
「そんなことはかまうもんか、君だったらいつ来てもらってもかまわないよ。
こっちに来て座りたまえ、私はお茶を淹れてこよう」
この部屋に場違いなコーヒーを先生は淹れる、まだ看護婦さんにはバレてないんだ。
【新藤】
「はいお待ちどう、熱いから気をつけて」
淹れたて熱々のコーヒーを先生から受け取る、コーヒーにはミルクが入っているために透明度は失われていた。
【新藤】
「2週間ぶりか、大して時間も経っていないのにえらく懐かしく感じるね」
【一条】
「俺もそう思いますよ、たかが2週間、されど2週間ってことですかね」
【新藤】
「ふはははは、そうかもしれないね」
先生がズズっとコーヒーを1口すする、それにならって俺も1口コーヒーに口をつけた。
【新藤】
「それで、今日は何の相談で来たんだね?」
【一条】
「やっぱり、わかっちゃいましたか……」
【新藤】
「あたりまえだよ、これでも君との付き合いは長いんだよ」
今日先生に会いに来たのはある相談があったから、それを先生には見破られてしまったな。
【一条】
「先生……人は突発的に性格が変わったりするんでしょうか?」
【新藤】
「……中々不思議なことを聞くね、多重人格者ならありえなくは無い話だが」
【一条】
「それじゃあ、至って普通の人間が急に好戦的で狂気に支配されたりすることはあるんですか?」
【新藤】
「……」
【一条】
「先生……」
【新藤】
「一条君、それはもしかして君自身のことなのかな?」
【一条】
「……はい」
【新藤】
「詳しく話を聞かせてもらえるかな……」
……
コーヒーカップを置いて先生はしばし考えに耽っているようだ。
【新藤】
「結論から云わせてもらうと、そういった症状が決して存在しないわけじゃない。
多重人格者の中にも時たま変わっている時の記憶が残っている人物もいるからね」
【一条】
「それじゃあやっぱり……」
【新藤】
「まあまあ話は最後まで聞くもんだよ、確かに一条君の身に起きていることは人格の変動だろう。
しかしね、それを直接多重人格と結びつけるのは強引だと思うんだよ」
【一条】
「どうして……ですか?」
【新藤】
「私は精神科の人間じゃないから詳しくはわからないけど、多重人格者の人格変動はわりかし頻繁に起こるんだよ。
期間としては3日から4日、遅くても6日か7日のうちに人格の変動は起こるんだ。
君のように1週間以上期間が空くのは少し不思議だね、それに……」
【一条】
「それに……?」
【新藤】
「もし君が多重人格者だとしたら、ここに入院していた約4ヶ月間、正確には3ヵ月と僅かな期間
その間に1回も人格変動が無いというのは少し考えられないね」
【一条】
「あ……」
そうだ、ここに入院していた時のことを考えてみても狂気に魅入られたことは1回も無かった。
先生の話に則って考えるとそこに矛盾点が発生してくる。
【新藤】
「君が多重人格者だという可能性はゼロじゃない、だけどそれは限りなくゼロに近い可能性だろうね」
【一条】
「先生……」
【新藤】
「心配することは無いよ、私には君が多重人格者だなんて思えない、何が原因かはわからないが君なら大丈夫だ」
新藤先生はコーヒーカップを手に取って冷たくなったコーヒーを胃に注ぐ、俺も同じようにコーヒーを飲み干した。
冷めたことによって苦味の増したコーヒーの味がひどく心を落ち着けてくれた。
【新藤】
「さて、そろそろ昼飯の時間だね今日も食堂で一緒に食べないかい?」
【一条】
「おともさせていただきます」
先生と一緒に食堂へ向かう、ここはバランスのとれた食事のできる良いところなんだよな。
……
【新藤】
「今日の食事はどうだったかな?」
【一条】
「美味かったです、いつも食べている物よりもここで食べる方が美味いです」
【新藤】
「そう云ってもらえると食堂の連中も喜ぶだろうね、飯も食べたことだし屋上でも行かないかい?」
【一条】
「わかりました、オカリナ吹いても良いですか?」
【新藤】
「勿論」
……
屋上の扉を開けると眼に入るのは小さな花壇と大きな空、いつもは結構人がいるのに今日は誰1人屋上にいなかった。
【新藤】
「珍しいなぁ、普段は看護婦が弁当でも食べているのに、今日は貸切だね」
【一条】
「誰かいてうるさいとか云われたらかないませんよ」
【新藤】
「ここの看護婦は皆君がオカリナを吹くことは知っているよ、それに君のオカリナは評判が良いんだから」
それは初耳だ、今まで聞かれていたのは新藤先生だけだと思っていたのに、皆にばれてたんだ。
【一条】
「それじゃあ、吹かせてもらいます」
屋上の中央に立ってオカリナに口をつける、息を吹き込むと屋上に旋律が産み出された。
流れるような指の運び、もう何十回と繰り返してきたことで指が全てを記憶している。
転換部が終わりを向かえ、終焉部へと音は移り変わっていく、病院ではこれより先は吹いたことがない。
新たにわかった終焉部全部合わせて九小節、それを病院の屋上で奏で終えた。
【一条】
「……」
パチ、パチ、パチ
拍手の音、ここには先生と俺しかいないんだからこの拍手は先生がしたものになる。
【新藤】
「相変わらず上手いね、それにしても以前よりも曲が伸びた気がするが?」
【一条】
「色々とありまして、少しですが曲の後半を思い出したんです」
【新藤】
「あの曲はあれで終わりではなかったのかい?」
【一条】
「ええそうみたいなんです、俺にとって数少ない残された過去ですから、できることならこの曲を完成させたいです」
【新藤】
「完成させたいか、確かにさっきの終わり方は少々唐突過ぎるからね、それよりも少しずつだけど戻ってきたんだね」
【一条】
「はい、本当に少しずつですけどね……」
最近少しずつだけど過去の記憶が甦る、甦った記憶はいつも映像として頭の中に映し出されている。
頭の中に映し出されるのは真っ暗な映像、その中でいつもこの曲が聞こえてくる。
その映像を感じるたびにどこかもやもやした引っ掛かりを覚えてしまう、それがなんなのかはわからない。
わかっているのはそれが何なのかがわからない限り、曲の全てを思い出すことは不可能だということ……
【新藤】
「一条君……焦る必要はない、ゆっくりと君の歩幅で歩いていけば良いんだ」
先生の言葉にはいつも小さな謎掛けが混じっている、先生が云いたいのは歩みを止めるな、それだけだ。
……
第二診察室に戻った後も先生とは色々なことを話した。
学校のことや体調のこと、そんな世間話をしていると空は少しずつ赤みを獲得していっていた。
【新藤】
「もうすぐ夕暮れか、君と一緒にいると時間の流れが速く感じよ」
【一条】
「1日が24時間では少なすぎますね」
【新藤】
「いやいや、平日に24時間は少し多すぎるね、平日を20時間にして浮いた時間を休日に当てられれば良いのにね」
【一条】
「20時間じゃ患者さんは先生に見てもらえないじゃないですか」
【新藤】
「なにも私が見なくても良いだろう、私なんかよりも優れた医者はたくさんいるんだから」
時折先生は仕事に対して投げやりになるんだよな、患者がいるときは凄い真面目な先生なんだけど……
【新藤】
「私には君の相手をする時間の方が大切だよ」
【一条】
「新藤先生……1つ聞かせてもらえますか?」
【新藤】
「何でも聞いてくれたまえ、できる限りの助力はするつもりだよ」
【一条】
「俺は……人と交わってしまって良いんでしょうか……」
俺の根底に眠る最大の汚点、それが今の言葉を産み出した元凶だ。
【新藤】
「交わってしまって良いのかとは?」
【一条】
「俺は時たま、自分でも恐ろしいほどの狂気に魅入られてしまいます、それで今までにも何人かの人を傷つけてきました」
【新藤】
「……」
【一条】
「自分の中に眠っている狂気がいつ襲ってくるのかも俺にはわかりません、それが親しい友人と一緒にいる時だったら
俺は間違いなくその場にいる人を傷つけてしまうでしょう」
【新藤】
「一条君……」
【一条】
「……怖いんです……友人を傷つけてしまうのが、友人が自分から離れていってしまうのが。
それだったら、俺は誰とも交わらず、1人で狂気を押さえつけてしまった方が良いと思うんです。
初めから何も無ければ、失うこともありませんから……」
【新藤】
「一条君……莫迦を云っちゃいけないよ」
【一条】
「え……」
先生の言葉に驚きを隠せなかった。
【新藤】
「人はね、誰しも自分1人だけじゃ生きていけないんだよ、多くの人がいてその中に自分も存在する。
人間はとても小さく弱い生物だから、他人の存在を求める、自らの生きる糧を他人に求めるんだ」
【一条】
「……」
【新藤】
「人は孤独を恐れているんだよ、足元の見えない暗闇を1人で進むことを恐れるように。
それが人間なんだ、弱い人間が1人になってしまったら、それは滅亡と同じことだよ」
【一条】
「滅亡と……同じ……」
【新藤】
「そうだ、そしてその滅亡を防ぐ方法は1つだけ、他人とリンクしたチャンネルを決して閉じないことだ」
【一条】
「……」
【新藤】
「一条君、もう君自身も気付いているはずだよ、これから自分がしていかなければならないことを。
私が云ってやれることはここまでだ、運命は君の手で手に入れるしか手段は無いんだよ」
【一条】
「新藤……先生……」
頬を涙が伝う、本当にいつもいつも新藤先生には敵わないな……
泣いている俺に新藤先生は理由を聞こうとはしない、ただ朗らかに微笑むだけだった。
……
【新藤】
「今日は楽しかったよ、またいつでも来てくれたまへ」
【一条】
「ありがとうございます、それじゃ失礼します」
先生に頭を下げて病院を後にする、受付のお姉さんも見送りに来てくれた。
最後に振り返って見えた病院は夕日の赤に照らされた美しい色合いを帯びていた。
……
今日、先生に会いに来たことは間違いじゃなかった、先生の言葉、それが俺の止まってしまった足を動かしてくれた。
記憶を失ったこと、狂気に魅入られてしまうこと、それが俺の進むべき道を遮断していたんだ。
だけど、先生の言葉で俺は決心がついた、俺は止まってしまってはいけないんだ。
【一条】
「新藤先生、ありがとうございました」
誰も聞いていない帰り道、そんなことを呟いた、面と向かって先生に云うのは少し気恥ずかしいから。
俺は気付いてしまったんだ、俺の本当の気持ちに、全ては昨日のでき事。
美織と過ごした時間、俺にとっての一番楽しいと感じる時間。
……やっぱりそうか。
俺は美織のことを……好きでいるんだ。
美織のことを好きでいる、だけど俺にはそれを認める勇気が無かった。
俺は自分自信に脅えていた、過去を失い自らを失い、1歩を踏み出すことができないでいた。
そんな俺に勇気を与えてくれたのは、他でもない新藤先生の言葉。
【一条】
「もう自分の気持ちに……迷いはしない」
新藤先生に背中を押されて最後の決心がついた、自分の気持ちに迷って歩みを止めるのはもう止めだ。
自分の気持ちの全てを美織に打ち明ける、それがどんな結果を生み出すのか俺にはわからない。
結果的に2人の関係を打ち壊す物だったとしても、俺は止まるわけにはいかない。
自わから逃げるのではなく立ち向かっていくこと、過去に脅えるのは今日で終わりなのだから……
……
電車から降り立っていつもの街に帰ってくる、駅の外に出ると予想もしていなかった人物に出くわした。
【萬屋】
「お久しぶり」
【一条】
「萬屋さん、今日はどうしたんですか?」
【萬屋】
「君に用事があってね、歩きながら話そうか」
【一条】
「良いですけど、もしかして待ってたんですか?」
【萬屋】
「そんなことはどうでも良い、それより行こうか」
萬屋さんの横に並んで夕暮れの街を歩く、萬屋さんはいつ遇っても同じ恰好をしているな。
【一条】
「それで、用事ってなんですか?」
【萬屋】
「ちょっとした世間話でもしようと思ってね、最近水鏡と一緒になることはあるかい?」
【一条】
「屋上や川原でちょくちょく遇ってますけど……それが何か?」
【萬屋】
「大した意味は無いよ……もう四月も暮れか、桜もそろそろ終わるころだ」
坂道の上から見える街並みには、もう時期をまっとうして花弁を少なくした桜の木が所々に点在していた。
【萬屋】
「一条君、以前私が渡した紙のことだが、少しは役に立ってもらえたかな?」
【一条】
「ええ、あの紙のおかげで色々と思い出だすこともできましたから、でもどうして萬屋さんがあの紙を?」
【萬屋】
「ちょっとした私のちょっかいだよ、もっともそんな物は要らなかっただろうけどね」
萬屋さんの言葉にもいつも謎めいた表現が使われる、ちょっかいって誰に対して使っているんだろう?
【萬屋】
「それにしても、今日の君はいつもと違うね」
【一条】
「どうしてそう思うんですか?」
【萬屋】
「君の顔、というよりは瞳と云った方が良いかな、今日の君の眼は真っ直ぐな眼をしている。
迷いを全て捨て去った決意に満ちた眼をしているよ」
【一条】
「迷ってばかりいて歩みを止めるわけにはいきませんから、時間が掛かりましたけどようやくわかったんです」
【萬屋】
「ふふそうか、確かに歩みを止めることは停滞を意味する、停滞は万物の成長過程をその場で止めてしまうも同然だ。
生者に停滞は不必要、時折死んだような眼をしていた君の科白とは思えないな」
【一条】
「それは少し酷いですね、死んだような眼をしていた時もありましたけど、俺なりに色々と悩んでたんですよ」
【萬屋】
「そんな時の君と今の君では大違いだよ、どうやら今の君ならもう大丈夫そうだ」
並行して歩いていた萬屋さんの足がピタリと止まった。
【一条】
「……萬屋さん?」
【萬屋】
「このままなら私が君の敵になることは無さそうだ、一条君、現実を見つめれる眼を持った君なら心配することはない。
そろそろ時間も余裕が無くなってきたことだし、もう私が動く必要も無さそうだ」
【一条】
「どうしたんですか急に?」
すると萬屋さんの体がふわりと宙に浮いた、浮いた様に見えるだけで本当は跳んだだけ……なんだけど。
萬屋さんの姿は俺と並行する視線上には存在しない、萬屋さんの姿は横に建った高い塀の上にあった。
この塀がくせ者、塀の高さは萬屋さんの1……5倍相当の高さがある。
それを萬屋さんは一跳びで、しかも塀に手を付くことも無く塀の上に立っていた。
【一条】
「よ、萬屋さん!」
【萬屋】
「健闘を祈るよ、後は全て針の導くまま」
ふわりと萬屋さんの体が塀の上から反対側へと消える、俺にはこの塀を越えることはできない。
反対側にまわるしかないんだけど、そんなことしているうちに萬屋さんはいなくなっちゃうよな。
【一条】
「萬屋さん……あなたは一体……」
よくよく考えてみれば今までで萬屋さんについて知っていることなんて何1つ無いんだよな。
俺が知っているのは萬屋さんの名前だけ、職業だって俺が勝手に探偵なんて思っているだけで本当は何をしているか知らない。
【一条】
「どうして萬屋さんは俺に色々と手助けを……」
萬屋さんにとって俺はなんなんだ? 手助けをする必要がなぜあったんだ?
『萬屋 恨』全てが謎で構成された俺の協力者、そんな考えしか浮かんでこなかった。
【一条】
「だけど萬屋さん、俺が変わったって云ってくれたな」
他人の眼から見ても俺は変わったようだ、決意を持った人間の眼は違うと誰か云っていたけれど案外そうなのかもしれない。
俺が考えなくてはいけないのは萬屋さんの秘密じゃない、美織のことだ。
【一条】
「……美織」
自分の気持ちに決着をつける、決着ではなく1歩を踏み出すといった方が良いか。
長い道には同行者を失った俺の影法師が長く伸びていた。
〜 N E X T 〜
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