【4月25日(金)】
【某】
「よっ、なんや朝から元気ないでー」
通学路で廓にでくわす、朝からこの男もテンションが高い。
【一条】
「今日は遅いんだな……」
【某】
「はぁ? 何いっとんねや、わいはいつも通りの登校や、時間もまだ7時になったばっかりやで。
おいおい、寝ぼけてるんとちゃうか?」
【一条】
「まだ7時だって?」
腕時計を確認すると、確かに時間はまだ7時になったばかり、いささか学校に行くには早い時間だ。
朝眼が覚めて時計を確認するでもなく、顔を洗って着替えを済ませ、食事を採って家を出てきた。
その行動全てに覇気がなく、決められた行動を決められた通り機械のように無駄なく動いていた。
【一条】
「……」
【某】
「なんかちょっと変やで、時間の感覚までのうなってもうたんか?」
【一条】
「そういうわけじゃないんだけど……」
【某】
「まぁええか、それよりも、昨日はあれからどないなったんや?」
【一条】
「何もなかったよ、美織を家まで送り届けて少し親御さんと話をして帰ったから」
【某】
「なんや、何もなかったんか、つまらんのう」
つまるつまらないの問題じゃない、こっちは美織のことが気がかりで運ぶのに全神経を使ったっていうのに。
【一条】
「そういえば廓、あの地図なんだけど」
【某】
「完璧やったやろ、自分でもあの地図を完成させられたんは凄いと思っとる、溢れ出る自分の才能が恐ろしいわー」
【一条】
「日本の地図になんでギリシャ文字があるんだ!!!!!」
己の才能に酔っている廓の後頭部に強烈な突込みをお見舞いした。
【某】
「いったーーー! 殴ること無いやろー!!」
【一条】
「訳の解らない記号ばっかりで地図を作るな、それからなんで道が1本線なんだよ」
【某】
「わいの溢れ出る才能がそうさせたんや、道順も記号もあっとるやろが」
あの地図のどこに正解があったんだよ、あれは道順じゃなくて高空写真かなんかじゃないのか?
【一条】
「あの地図のせいで美織の家を見つけるのに一苦労したんだぞ」
【某】
「そうかー? そらすまんかったな、解りやすく書いたんやけど、それで、当の美織の容態はどないやねん?」
【一条】
「お袋さんの話だと朝から調子が悪かったらしいんだ」
【某】
「なるほどな、それやったら今日は美織学校けえへんかもしれんな」
【一条】
「来ない方が良いさ、あんなに無理をしてたんだ、たまには息をつく時間が無いと体ももたないだろう」
体だけじゃない、美織は精神面でもいつも無理をしてきていた。
昨日の病気は美織にとって良い意味での休息の時間を与えてくれた、早く美織にはよくなって欲しいけど。
同時に今はゆっくりと休んでもらいたい、たぶんこれからも美織は明るく振舞うことを止めようとはしない。
たとえそれが美織にとって足枷にしかならないとしても、美織は自分の振舞いを貫くだろう……
【一条】
「今日はつまらない1日になりそうだな……」
【某】
「……一条、もしかして気が付いたか?」
【一条】
「……何にだよ?」
【某】
「せやから、昨日お前にしかできん仕事ってゆうたやろ、あれの意味に気付いたか?」
【一条】
「どうして俺が適任かってことだろ……」
何故廓は俺だけに美織を運ばせたのか、なんとなくだが俺にもその理由がわかり始めている。
【某】
「言葉が出ないっちゅうか、上手く表現でけへんのやろ。
どうやら一条も薄っすらと気付き始めたな、いや良かった良かった」
満面の笑みで肩に腕を回してくる、朝っぱらから男同士で引っ付いてるのは気持ちの良いものじゃない。
【一条】
「朝からくっつくな、気色悪い」
【某】
「はーはっは、すまんすまん、こりゃあわいも気張らんとあかんかなぁー」
すまんと云いながらも廓の腕が退くことは無かった、早朝で誰にも見られていないのが幸いだ。
だけど、今日の学校は俺にとってなんの楽しみも無い、無駄な時間なんだ。
無駄な時間だというのに、空は恐ろしいまでに透き通った藍に染め上げられていた。
【美織】
「おっはよー!!」
聞くはずが無いと思っていた声が後方で爆発する、驚いて振り向くとそこにはいつもと同じ元気に満ち溢れた美織の笑顔がそこにあった。
廓が肩に手を回していたので俺たち2人の顔の間から顔を出す感じで、美織の腕が2人の首に巻きついている。
【美織】
「朝から男が2人で恥ずかしくないのー?」
【一条】
「あ、危ないから2人とも離れろって……それよりも、お前熱あるんじゃないのか?」
【美織】
「そんなの昨日1日で下がっちゃったわよ、今日はいつもと同じ元気な美織だよ」
言葉からは体の不調を隠しているようには聞こえなかった、本当に熱が下がったのか?
【某】
「一条、わいはこれから朝飯のパン買いに行くから先行かせてもらうわ」
するりと自分の腕を抜き、美織の腕を外して廓は走り去ってしまった。
【美織】
「どうしたの、某のやつ?」
【一条】
「どうしたんだろうな……」
廓がいなくなったせいで美織の腕が2本とも俺に巻きつけられる、形としては美織が俺にしがみついているみたいな格好だ。
美織の顔がほとんど真横にある、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
【一条】
「そろそろ降りてくれないか? これじゃ歩けない」
【美織】
「あ、ごめんね……よっと」
後方に軽く降り立った美織に向き直る、見た感じでは特に体調が悪いといった感じはしなかった。
【一条】
「昨日の今日で学校なんか来て良いのか? また熱が出るかもしれないんだし家で休んでいれば良いのに」
【美織】
「だから熱は下がったって云ったでしょ、何なら触ってみる?」
【一条】
「いや、触らなくて良い……だけど」
【美織】
「……え」
美織の体をしっかりと抑えて美織に自分の顔を近づける。
【美織】
「ちょ……マコ!」
【一条】
「動かないで……」
視界の中が美織の顔だけになる、近くで見ても美織はかわいい顔をしていると思う。
不意に美織の眼が閉じられた、やっぱり恥ずかしいんだろな……
恥らっている美織に時間をかけるのはかわいそうだ、ここは男がリードしてやらなくちゃ。
美織の恥らった可愛らしい顔を見ながらさらに顔を近づけた……
コツン
【美織】
「……へ?」
【一条】
「熱は無いみたいだな、これなら学校でも倒れたりしないだろう」
美織の額を通して俺の額に美織の温度が伝わってくる、熱って云うほど高い温度でもなかったので美織は本当に元気のようだ。
【一条】
「熱が下がったってのは本当だったんだ、安心したよ」
額を離すと美織の表情が全て見えた、眼が大きく開かれ、口が半開きになっている、心なしか顔も少し赤いぞ?
【美織】
「な……な……なな……」
抑えていた手に小刻みな震えを感じ取ることができた、もしかして寒気でもするんだろうか?
【一条】
「少し震えてるぞ、やっぱり家で休んでた方が……」
【美織】
「マコの……莫迦ー!!」
【一条】
「うあ!!!」
いきなり強く突き飛ばしてきた、どうしたっていうんだ。
【一条】
「どうしたんだよ、なんか顔赤いぞ、熱がぶり返したんじゃないのか?」
【美織】
「少しは乙女心がわかりなさーい!!」
【一条】
「……」
【美織】
「はぁ、はぁ、はぁ……」
【一条】
「……くくく」
【美織】
「な、何がおかしいのよ」
【一条】
「いやごめん、やっぱり美織は元気な方が似合ってるって思ってさ、昨日は心配したんだぞ」
【美織】
「……昨日はその……ありがとう」
ぷんぷんと怒っていた美織が急にしおらしくなる、てれてれといった表現がぴたりとはまる。
【一条】
「お袋さんに聞いたぞ、なんでも朝から調子悪かったそうじゃないか」
【美織】
「ありゃ、ばれちゃってたんだ」
【一条】
「ばれちゃってとかそんな問題じゃないだろ、お袋さんも心配してたぞ」
【美織】
「うん……だけど……マコも見てわかったと思うけど、お母さん体弱いから。
あたしが家で休んでたらうつっちゃうんじゃないかと思って……」
親御さんの云っていたとおり、美織は自分よりも母親の心配の方を優先していた。
【一条】
「だからってお前が倒れたらそれこそ本末転倒だろ、もっと自分のことも考えろよ」
【美織】
「考えてるよ、考えてるけど……」
【一条】
「美織が倒れて心配なのはお袋さんだけじゃないんだよ……」
美織の顔を正視できなくなる、感情とは不思議な物だ、思ってもいなかったことが自然と出てしまう。
【美織】
「それってば……」
【一条】
「美織が元気じゃないと毎日がつまらないだろ、お前は俺の活力源なんだから」
【美織】
「人を栄養ドリンクみたいに云わない!」
【一条】
「くくく……」
【美織】
「ふふふ……」
【2人】
「あはははははは……」
2人で笑いあう、元気になった美織と元気を分けてもらった俺、今日が退屈な日だって云うのは取り消すことにしよう。
……
昼休みのチャイムが鳴り響き、教室から一斉に生徒が動き出す。
購買に走る者、学食で何にするか悩む者、弁当の包みを広げる者、昼食1つとっても様々な選択肢がある。
【一条】
「さてと、今日はどうしようか……」
【美織】
「マコ」
昼食をどうしようか悩んでいると美織に呼び止められた。
【一条】
「美織は今日も弁当? だったら俺はパンでも買ってきて屋上で食うか」
【美織】
「あの、それなんだけど……」
美織がもじもじと何かを云い淀んでいる、どうかしたのか?
【一条】
「なんだ、弁当忘れたのか? だったら一緒に購買でも」
【美織】
「あ、違うの、その……お弁当、作ってきたんだけど」
【一条】
「……俺に?」
コクンと頷く美織の顔はこれ以上無いと云うほど真っ赤に紅潮していた。
【美織】
「だ、だからさ、一緒にその、屋上で……」
【一条】
「わかったよ、それじゃあ俺は飲み物でも買ってくるから先に屋上に行っててくれるか」
【美織】
「……うん」
真っ赤な顔が瞬時に満面の笑顔に変わり、一足先に屋上へと向かった、変に浮き足立っているのは気のせいだろうか?
……
自動販売機でストレートティーを2つ買って自らも屋上へと向かう。
【一条】
「それにしても、美織が俺に弁当をねぇ……」
俺には今まで弁当という概念が無かった、買ってくればそれでも良いのかもしれないが何かが違う気がする。
弁当は買う物ではなく作る物、昔から弁当とはそういう物だと考えていた。
まさか学校に来て弁当を食べる機会があるとは思わなかった、1人暮らしで料理下手の俺には弁当を作る気すら起きないからな。
……
屋上の重い鉄扉を開け放つ、今日も空は藍みを帯びた綺麗な晴空。
この学校に来てから一度も雨に降られたことが無い、それどころか曇り空さえも1回あったかないかだな。
【美織】
「マコ、こっちこっち」
ベンチに腰を下ろした美織が手招きで呼んでいる、見渡してみたが他の来客はいないようだ。
【一条】
「はいよ、美織の分、紅茶で良かった?」
【美織】
「勿論、それじゃあたしも、はい」
袋に包まれた2つの弁当箱の内、サイズが大きな方を渡された。
【一条】
「なんか悪いな、2人分も弁当作るのって大変だろう?」
【美織】
「そうでもないよ、1人分作るのも2人分作るのも大して違わないよ、ご飯なんかは2人分の方がやりやすいし」
確かに、1人分だけ炊くのはなんだか気が引けるよな。
【一条】
「ありがたく頂かせてもらいます」
箱を開けると中には色とりどりのおかずがバランスよく詰められている、栄養面では何の問題も無い。
さらには彩りが食欲をそそる、食べる前でもこの弁当が旨いことは明白だ。
【一条】
「すご、じゃあいただきます」
【美織】
「召し上がれ」
何に最初に箸を伸ばそうか迷ってしまう、マナーではタブーとされている迷い箸だが弁当だから何も気にしない。
散々迷ったあげく、最初に箸を伸ばしたのは野菜の炒め物だった。
【一条】
「旨い、前にも美織の料理は旨いと思ったけど、やっぱり旨い」
旨いしか云えない、俺は料理評論家には向いていないようだ。
【美織】
「お口にあって良かった」
【一条】
「何も心配することなんて無かっただろ、美織は料理上手いんだし」
【美織】
「そんなことないよ、あたしだって人に食べてもらうのは緊張するんだよ」
【一条】
「緊張する必要なんかないって、お世辞抜きで美織の料理は旨いんだからもっと胸張って」
【美織】
「ふふ、そう云ってもらえると嬉しいよ、あたしも食べようかな」
美織も弁当を開ける、中身は俺のと同じ物だが女の子だけあって若干量は少ない。
【一条】
「にしてもだ、なんで美織は弁当なんか作ってくれたんだ?」
【美織】
「それはほら、昨日のお礼も兼ねてだよ、学校からあたしをおぶって連れて帰ってくれたでしょ」
【一条】
「立てる力が残ってないとなるとそうするしかなくてさ、揺れて気分悪くならなかった?」
【美織】
「意識も朦朧としてたからよく覚えていないんだ、だけどマコがあたしをおぶってくれたのは覚えてるよ」
【一条】
「なんでまたそこだけ」
【美織】
「だって、マコあたしをおんぶする時にお尻触ったでしょ」
【一条】
「あ、あれは不可抗力だろ、というかよりによってそんなとこ覚えて無くても」
【美織】
「ふふ、ごめん……だけど、嬉しかったな、マコがあたしなんかのために必死になってくれて」
【一条】
「女の子のために男が体を張るのは当然のことだ、それに……」
【美織】
「……それに?」
次の言葉が出てこない、何を云いたいのかは決まっているのに言葉は咽から発せられない。
戸惑いと不安が言葉の放出を拒んでいる、言葉を発した時、それは俺にとっての罪であると解っているから。
自分の特異な運命、全てに制約を持ちかける記憶の傷跡。
【一条】
「なんでもないさ、それよりも昼食を済ませよう」
【美織】
「……」
云うべき言葉を飲み込んで、当たり障りの無い言葉に差し替える。
それは自分の意気地の無さを証明する行為、しかし、俺にはどうして良いかわからないんだ。
美織と2人、会話を中断して弁当を食べた。
【一条】
「ごちそうさま」
【美織】
「はい、お粗末さまでした」
全てをたいらげ空になった弁当箱を美織に返す、弁当箱を受け取った美織の表情はとても満足そうなものだった。
……
放課後のチャイムと共に足は屋上へと向いていた。
ここ最近色々なことがあって放課後に屋上でオカリナを吹く機会がなかったからな。
開け放たれた扉の先には昼から変わっていない、藍に色付いた空が広がっていた。
空の色を確認するとわき目も触れずに給水塔のハシゴへと足をかけた。
【一条】
「……ぁ」
誰もいないはずの給水塔の上に、俺よりも先に来客がいた。
街の方を見つめたまま来客は立ち尽くしている、その背中はとても悲しげに見えた。
【一条】
「こんなところで何してるの、水鏡」
【水鏡】
「……」
返事はない、俺に向き直った水鏡にはもう悲しさが存在していなかった。
【一条】
「珍しいね、水鏡がここにいるなんて」
【水鏡】
「誠人先輩……今日もオカリナですか?」
【一条】
「まあね、少しだけど進展があったからね」
給水塔の先に立ってオカリナを口に当てる、紡ぎだされる音はいつもと変わらない。
全休符で一小節休んでから新たな進展のあった箇所の音を紡ぐ。
これでこのパートを吹くのは二度目だな、このパートはまだ美織にしか聞かせていなかったっけ。
僅か五小節の短いパートを吹き終える、やっぱり中途半端に終わってしっくりこない。
【水鏡】
「……」
【一条】
「まだこれしか解ってないんだけどな……」
【水鏡】
「いえ、大丈夫です……もうすぐ先輩は全て思い出せるはずです、あと少し、あと少しで……」
水鏡の声が次第に小さく、悲観的な印象を受ける口調へと変わっていった。
なぜそうなってしまったのか、俺にはわかるはずもない。
【一条】
「水鏡……何か悩んでいないか?」
【水鏡】
「……どうしてですか」
【一条】
「さっきの後姿がさ、なんだか悲しそうに見えたものだから、何か悩んでるのかなって」
【水鏡】
「悲しそうですか……そうかもしれません、でもそれは先輩にも云える事ですよ」
以前水鏡に云われたっけ、俺の背中はどこか寂しげだって……
悲しいと寂しい、ニュアンスは似ていても本質は全く異なる2つの感情。
2人とも何か思うことがあるからそんな風に見えてしまうんだろう。
【一条】
「あんまり1人で悩むのは良くないだろ、俺で良かったら相談に乗るから」
自分の相談もできない人間が他人の相談に乗ってあげることが可能なのか、正直疑問だ。
だけど、俺の中でどこかに水鏡の力になりたい、そんな思いが存在しているのかもしれない。
【水鏡】
「ありがとうございます……」
空を見上げた水鏡へと一筋の風が吹き抜ける、風に流される水鏡の長い髪が幻想的に、そして、神秘的に見えた。
【美織】
「あ、いたいたー」
【一条】
「美織か、お前が放課後ここに来るなんて珍しいな」
【美織】
「だってどこ探してもマコいないんだもん、だったらここしかないかなーって思ってさ」
【水鏡】
「……」
美織の登場に水鏡の動きがピタリと止まる、前にも美織と出会ったときは避けるように水鏡は去っていったっけ。
【美織】
「あれ……その子確か……」
額に指を当ててなにやらうんうんと考えている。
【美織】
「確か……水鏡ちゃん、だったかしら」
【水鏡】
「……コクン」
【美織】
「やっぱりそうだ、前に屋上で遇ったよね、あたしは宮間美織、このロリコンに変な事されなかった?」
【一条】
「誰がロリコンだ、誰が!」
【水鏡】
「いえ、何も……」
なんだか水鏡の応答がたどたどしい、やはり美織とは接し辛いのだろうか?
【水鏡】
「誠人先輩、1つお願いがあるんですけど……」
【一条】
「何? 急にあらたまっちゃって?」
【水鏡】
「先輩のオカリナ、もう一度聞かせてもらえませんか?」
【美織】
「あ、あたしも聞きたいな」
【一条】
「? それくらいお安い御用だけど」
あらたまって頼むような事でもないと思うんだけど、不思議に思いながらオカリナに再度口をつける。
美織には1回目、水鏡には2回目となる旋律が屋上に響き渡る。
前から吹けたところを過ぎ、新たな五小節へと音は進んでいく。
その五小節間の四小節目の音を紡ぎ終えた時、頭の中に衝撃が走りぬけた。
【一条】
「!」
頭の中に広がるのは音符の群れ、止まってしまった五小節目から先へと繋がる音符の流れが唐突に頭に思い浮かんだ。
五小節目を吹き終えてなお、その先の音符へと俺の口と指は音を進ませていた。
【一条】
「……」
突然のでき事だった、ただ何も考えずにオカリナの音を紡いでいただけだったのに。
暗闇の中に確かに音符の姿が見えた、そして、その音を俺は即座に記憶し、実行した。
新たにわかったのは先の四小節、しかしまたしても唐突に音は終わりを向かえていた、まだこの曲には先がある。
そんなことよりも何より嬉しかった、どうして音符が浮かんできたかなんてどうでもいい。
この曲の先がわかったことだけが事実であり現実であるのだから。
【美織】
「ふわー、また曲が新しくなったね、なんだか凄い幻想的だよ、昨日の今日でまた色々とわかったの?」
【一条】
「いや……今ふっとな……」
吹き終えて辺りを見回す、そこにさっきまであった水鏡の姿がなくなっていたことに気が付く。
【一条】
「水鏡は?」
【美織】
「へ? あれ、いつの間に……あたしはマコのオカリナの音に集中しててわからなかったよ」
どうやらオカリナを吹いている最中に水鏡はこの場から去ったようだ、美織を苦手としているので帰ってしまったのだろうか。
……もしかして。
【一条】
「水鏡がもう一度オカリナを吹かせた理由って……」
自分が消えるためのピエロになってもらった、そう考えると怒る人間もいるかもしれないが俺にとっては水鏡に感謝している。
水鏡にもう一度吹いてみてと云われたことで先の楽譜を思い出すことができた、もし云われなかったら思い出すことはなかったかもしれない。
水鏡のおかげでパズルのピースを見つけることができた、たとえそれが偶然だったとしても、水鏡には感謝している。
【美織】
「マコ、水鏡ちゃんも帰ったことだし、あたしたちも帰ろっか」
【一条】
「そうだな、今日はもうオカリナも吹いたことだし、帰るか」
ハシゴは先に美織が降りる、俺が先に下りると美織のスカートの中が見えてしまうから。
美織が下に降り立ったのを見計らってハシゴに手をかける、降りようとしたその時、一段と緩やかで冷たい風が吹き抜けた。
ふっと吹きぬけた風の方に視線を送る、視線の先には水鏡がいつも立っている、あの川原が小さく映った……
……
【美織】
「なんだかマコってよくあの子と一緒にいるよね」
【一条】
「水鏡のことか? 一緒にいるというか屋上に行くとよくいるんだ」
【美織】
「珍しい子だね、ここの屋上って全然人気無いから滅多に人なんていないのに」
【一条】
「人気が無いからこそいるんじゃないかな……」
【美織】
「……それってどういう意味?」
【一条】
「誰だって他人に知られたくないこと、他人には干渉してほしくない時があるだろ。
水鏡自信何か悩んでるんだろうな、それでいつも人がいないところで物思いにふけっているんじゃないかな」
本当に水鏡がそうなのかはわからないがその可能性は高い。
水鏡の行動は俺自身と非常に酷似していたから、何かに悩み、他人の存在を避ける為の逃避行に……
【美織】
「ふーん、だけどそれって自ら道を壊しているのと同じだよね」
不思議なことを云うなあ、逃避行は道を壊すんじゃなくて道を無理矢理作るんじゃないのか?
【一条】
「どうしたの急に? 道を壊す?」
【美織】
「うん、だってあたしたちは人間なんだよ、人はこの世界では1人でなんか生きていけない
他人を避けて自分1人で抱え込んでたらその先にある答えなんてたかが知れてるでしょ。
誰かに相談することで1人では考えられなかった新しい道ができるの、それを避けるのは可能性を消していってるのと同じことだよ」
美織の声は水鏡に対して云っているんじゃない、美織の言葉は俺に対して向けられているんだ。
俺は今まで美織には相談せずに1人で考えてきた、結果的にそれは美織を泣かせることになってしまった。
可能性を自ら打ち砕いていく、それが俺のとっても他人にとっても一番良い選択なんだと思っていた、しかし、最近それは揺らいでいる。
求めてしまうと人間にはその衝動を止めることなどできない、人間は皆小さく、とても弱い物だから……
【一条】
「美織……」
【美織】
「なに?」
【一条】
「……ありがとう」
【美織】
「……うん!」
満面の笑みで頷いてくれる、美織のおかげで少しずつ俺は変わっていけそうだ。
いや、変われるチャンスはいくらでもあった、だけど俺にはそんな勇気が無かった。
それを教えてくれたのが美織の存在、美織にはいつも助けてもらってばかりだな。
……
【美織】
「そうだ、マコ、明日は暇?」
【一条】
「予定は何も無いけど?」
【美織】
「それじゃああたしと隣町にお買い物にでも行かない?」
【一条】
「買い物か、そろそろ食料とかも買わないといけないし、良いよ、明日は隣町だな」
【美織】
「じゃあ明日10時ぐらいに迎えにいくね、それじゃねー」
手を振ったまま美織が十字路を駆けて行く。
【一条】
「……食料なんてまだいっぱいあるんだけどね」
まだ冷蔵庫の中も冷凍庫の中も食材はたくさん入っている、あれは咄嗟に吐いた嘘だ。
戸惑いの中にいる俺には丁度良い機会、明日ではっきりさせようと思う。
俺の中で薄っすらと形作られているこの気持ちに、全ては明日にかかっている……
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜