【4月24日(木)】


目覚めは最悪、昨日の覚醒が響いているのは明らかだった。

【一条】
「……」

手のひらをじっと見る、鮮血に染められ、不愉快な匂いが染み付いた俺の手も、今は何も無かったかのような普通の手に見える。
しかし、それは全て偽りであり、一皮剥けばそこは真っ赤に色付いた悪魔のような手が存在する。

【一条】
「……うぅ」

思わず自分の体を抱きしめる、強く、痛みを感じるほど力強く抱きしめる。
逃げられない現実に必死で抵抗する、俺はもう、望むことを知ってしまったから……

……

【某】
「よっおはようさん」

【一条】
「廓……どうして家の前に?」

【某】
「わいだけやあれへんで」

【二階堂】
「……よ」

玄関を出るとそこには廓と二階堂の姿があった。

【一条】
「2人ともどうしたんだよ? 廓はもっと早く学校に行ってるだろ」

【某】
「普通やったらそうや、せやけど昨日の今日でお前のことが気にならん訳無いやろ」

【二階堂】
「廓から事情は聞かせてもらった、昨日は大変だったようだな」

【一条】
「……あぁ……また体が暴走したよ」

暴走と俺の口が云ったのは自らの現実から逃げるため、あれは暴走なんかではない。
あれは……俺の根深にある理想、背徳者である俺の実態。

【二階堂】
「なんでも、前より酷かったらしいが……」

【一条】
「酷いなんてもんじゃなかったよ……あれは……」

異常快楽を求める眼、惨状を楽しんでいる口、優越感に浸る精神。
全てがまともではなかった、人の皮を被った悪魔という言葉があるが、あれがまさにそれだった。

【一条】
「2人とも……あまり俺に関わらない方が……」

【某】
「まーーーーたそれかいな、なんべんゆうたらわかんねん、わいらは一条がどうであれ関係ないんや。
今の一条がほんまの一条、そう思っとるからわいらは関わりを切ったりせんからな」

【二階堂】
「廓の云う通りだな、お前は俺たちにとって、もうただの知り合いじゃないんだ」

【一条】
「廓……勇……」

【某】
「せやから変に気使うのは止そうや、もう暴走せんように皆で解決策でも考えよう」

【二階堂】
「そうだな……」

……

【某】
「一体何が原因で一条は変わってまうんやろな?」

【一条】
「前から考えてたんだけど、原因らしいものが見つからないんだよ」

【某】
「うーん、勇は何が原因かわかるか?」

【二階堂】
「本人が知らないことを俺が知ってるわけないだろ」

【某】
「そりゃそうやわな、あかんで、はじめっから行き詰ってもうたわ」

登校中にあれこれと原因になりそうなことを考えてみたが納得のいく答えは出てこなかった。

【某】
「ひょっとしてなんやけど……ええかな?」

廓が何かに気が付いたようだが、なにやら云い淀んでいるぞ。

【一条】
「気が付いたことは何でも云ってくれ、少しでも情報が欲しい」

【某】
「わかったわ……もしかしてなんやけどな……」

【一条】
「もしかして……?」

【某】
「……今の時間ってかなりまずいんとちゃうか?」

いきなり何を云い出すんだ? 今の時間ってそんなもの別に俺の変化とは何の関わりも……うわ!
腕時計に眼を落とすと時間はもう20分、話に集中していたせいで時間を忘れていたようだ

【一条】
「まずいって、このままだと全員遅刻!!……あれ?」

時計から視線を戻すと、そこにはすでに2人の姿は無かった。
2人の姿はもう遥か前方、いち早くスタートを切っていた。

【某】
「急がんと遅刻するでー、一条も走らんと間に合わんぞー」

【一条】
「あいつらー!!」

2人とも俺を置いて先に走り出していた、俺も後を追うように走る。
廓のおかげで遅刻は免れそうだ、しかし、おかしくなる原因については何もわからずじまいだった。

……

【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

【某】
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

【二階堂】
「……ふぅー」

3人揃ってホームルームギリギリで間に合った、奇跡的にも俺は2人に追いつくことができた。
これが追う者と追われる者の執念の違いなのかな?

【美織】
「皆どしたの? 死ぬ間際の狸みたいな顔しちゃって?」

【一条】
「はぁ、はぁ……もう駄目かも……」

【某】
「ぜぇ、ぜぇ……よう間に合ったな……」

【二階堂】
「……興味深い結果だな」

息も絶え絶えになって皆机に突っ伏してしまう、俺と廓はもう動くこともままならないのに、二階堂は1人だけ清々しい顔をしている。

【一条】
「勇……疲れてないのか……?」

【二階堂】
「……軽いもんさ……」

【某】
「ま、まったく……どんな体しとんねん……」

二階堂からしてみれば俺たちなんてモヤシ小僧の様だな……

【美織】
「朝からエキサイトしてるわねー」

【2人】
「は……ははは……」

力尽きた俺と廓が乾ききった苦笑を見せる、このぶんだと1時限目は授業なんか受けてられる気分じゃ無さそうだ……

【美織】
「……マコ、今日のお昼、少し時間良いかな?」

【一条】
「昼? わかったよ、時間空けておくから屋上で」

【美織】
「うん、お昼に屋上ね、それじゃお休み」

美織には俺がもう午前中は寝て過ごすというのがばれているようだ。
お休みってことは起こさないでくれるだろうな、お言葉に甘えて午前中は睡眠学習にさせていただきます。

……

4時限目終了のチャイムが鳴るまで一度も起きなかった、昨日あまり眠れなかったことと朝の全力疾走が効いた。
目覚めは朝に比べると驚くほど良い、学校でここまで眠ったのも久しぶりだ。

【一条】
「昼か……美織と待ち合わせしてたな……」

教室にすでに美織がいないことを確認して急いで屋上に向かった。

……

屋上に出ると東側のベンチに美織の姿があった。

【美織】
「呼び出しちゃってごめんね、ちょっと話がしたくてさ」

いつも元気な美織らしくない、朝は元気があったのにどうしたんだろう?

【一条】
「それで、話したいことって?」

【美織】
「うん……昨日の……ことなんだけど……」

なるほどな、それで美織には少し元気が無かったのか、俺に聞くことをためらっているのだろう。

【一条】
「遠慮はいらないさ……美織が疑問に思ったことは全部聞いてくれてかまわない」

【美織】
「ありがとう、あたしが疑問に思ったことって云うよりも……姫のことなんだ」

【一条】
「音々? 音々がどうかしたのか?」

【美織】
「姫はどうしてマコがあんなになってしまったのかわからないわけじゃない、だから……その」

【一条】
「俺に脅えているのか……」

申し訳無さそうに美織がコクンと頷く、音々もあの現場に居合わせた目撃者なんだ。
何も知らされていない人物があの現場を目撃すれば、俺という個人の印象は1つに確定付けられる。

恐ろしい……それ以外表現のしようが無いほどその答えは的を射ていた。

【一条】
「それは……仕方のないことさ……」

【美織】
「仕方なくなんかないよ、だってあれはマコじゃないんだよ、それなのに誤解されて避けられるなんて」

【一条】
「それは違う、あれは紛れも無い俺自身だ……俺とは対極に位置するもう1人の自分。
姿が同じならこれほどまでに確実な証拠は存在しないさ」

【美織】
「それじゃあ……マコは姫に誤解されたままで良いの?」

【一条】
「良いとは思ってない、音々は俺の大切な友人だ、できれば友人は失いたくない」

【美織】
「……だったらどうして?」

【一条】
「今は時期が悪すぎる、もし俺が今から音々に真実を話しに行ったところで今の音々は俺を避けているんだろ。
そんな時に俺がいくら本当のことを話しても音々には信じられないさ、かえって状況は悪くなるだろうね」

【美織】
「じゃあ……どうするの……?」

【一条】
「少しの間時間を置くよ、音々が落ち着いてくれるまで、そこで音々にも本当のことを話す。
それで音々が納得してくれるか、俺のことを避け続けるか、どうなるかわからないけどもし音々が納得してくれるなら
音々とはこれからも友人関係でありたい」

【美織】
「……」

【一条】
「……駄目……かな?」

左右にブンブンと美織は顔を振るった。

【美織】
「そっか……マコはそこまで考えてたんだ、確かに今の姫に真実を話すのは良い状況じゃないわね。
余計なこと云ってごめんなさい、あたしが思ってるよりも、マコはずっとしっかりしてるんだね」

【一条】
「ムム……それは辛亥だな、俺だって何も考え無しに行動しようなんて思ってないさ、それは廓だけで十分だ」

【美織】
「……云えてる……ふふ」

暗かった美織の顔にも僅かだが笑顔が見えた、やっぱり美織は笑った顔の方が良い。
話も一段落付いたところでポケットからオカリナを取り出す、新たにわかった所を昨日は吹けなかったからな。

口にしたオカリナに息を吹き込み旋律を奏でる、記憶の中に残っていた曲の前半部。
前半部から展開部、展開部から転換部へと曲は進んでいく。

転換部の最後の一小節を吹き終える、前はここが曲の終焉だと思っていた、しかし、今は違う。
全休符でぷつっと音が途切れる、肩で大きく息を吸い込んで未踏の開拓地へと足を踏み入れる。
音符は全て覚えていたので詰まることも無く曲は続けられる、五小節分の未知の世界をオカリナの音は紡ぎだした。

【一条】
「……」

中途半端なところで楽譜が終わっていたのでなんとも歯切れの悪い終わり方になってしまった。

【美織】
「マコ、その曲にそんなところあったの?」

【一条】
「俺も昨日わかったんだ、あの曲はまだあそこで終わりじゃなくてまだ先があって。
試しに吹いてみたんだけど、どうだった?」

【美織】
「良いと思うよ、曲の繋がりとしても盛り上がる感じがあったし、でも、少し唐突に終わりすぎかな」

【一条】
「やっぱりそう思うよな、これより先があるはずなんだけど……」

【美織】
「ふーん、だけど、この先の曲の展開がなんとなく読めるな……なんだか凄い切ない感じの曲だね」

【一条】
「俺にはそういったことはよくわからないんだけど、案外そうなのかもしれないな」

今まで吹けていたところもどちらかというと明るくポップな感じではなくて、しっとりとそれでいて幻想的な感じだったな。
そんな考えをすると同時に予鈴が鳴り響く。

【美織】
「予鈴鳴っちゃったね、そろそろ戻りましょうか」

ベンチからすくっと立ち上がった、はずなのだが美織の体はゆらりと左右に揺れた。

【一条】
「危ない!」

倒れそうになった美織の体を後ろから抱きとめる。
身長差があるせいで、後ろから見たら美織の体の存在さえもわからないかもしれない。

【一条】
「大丈夫か?」

【美織】
「あ……ありがとう、ちょっとふらっとしちゃった」

俺から離れると足取りはもういつもどおりの美織のものになっていた。

【美織】
「あんまり急に女の子に抱きついちゃ駄目、訴えられたら負けちゃうんだから」

キャハハと笑いを浮かべたまま足取りも速く屋上から美織が駆け出した。
後ろから抱きとめた美織の体がほんのりと熱かったのは、夏の準備を始めた世界の表情なのだろうか?

……

6時限目も眠ってしまった、結局今日の授業は何1つまともに起きていなかった、5時限目は自習だったし。
普段なら学校が終わったらすぐに帰るのだが、今日は廓と一緒に教室掃除の当番の日なんだよな。

【某】
「かったるいのー、1日くらい掃除せんでもええと思うんやけどなー」

【一条】
「愚痴ばっかり云ってないで手を動かせ、口は教室掃除なんてしてくれないんだから」

【某】
「それはそうやねんけど、教室2人ってえらいきついんとちゃうんか?」

クラス人数の関係でいつも三人一組で掃除をやることになっていて、俺は廓と二階堂と同じグループ内にいる。
本来ここにはもう1人、二階堂がいるんだけど先生の頼まれ事で席を外しているせいで2人で掃除をすることになった。
ホウキをかけて、黒板を拭いて、ゴミを捨てて、戸締りを確認して……2人でやるには確かに少しきつい気がする。

【一条】
「しかたがないだろ、勇の分も俺たちがやらないといつまでたっても終わらないぞ」

【某】
「せやったらわいらはとんずらこいて、全部勇に押し付けるってのはどうや?」

【一条】
「……明日俺たちどうなるんだろうな……」

生きている保証が無い、あまりにも危険な賭けなので俺は降ろさせてもらう。

【一条】
「ご自由にどうぞ、俺は明日の生活があるから掃除する」

【某】
「ガックシ……やっぱりわいらでするしかないんか……」

肩を落としたまま廓がホウキをかける、その間俺は黒板を拭いていた。

……

【一条】
「後はゴミを捨てて、戸締りしたらお終いか……」

【某】
「ほんならわいがゴミ捨ててくるわ、ついでになんか飲み物でもこうてこよか?」

【一条】
「頼まれてもらえるか、じゃあこれ金な」

【某】
「あーいらんいらん、ここはわいのおごりや、紙コップの販売機やけど何がええ?」

【一条】
「悪いな、それじゃあ紅茶のストレートをホットで頼む」

【某】
「りょーかい、ほんならひとっ走り行って来るわ」

両肩にゴミ袋を担いで教室を飛び出して行く、その光景がまるで火事場泥棒の様に見えて少しおかしかった。
窓の施錠をしていると後ろの扉がガラガラと開く音が聞こえる、えらく早く戻ってきたな。

【一条】
「ものの2分も経ってないのにもう帰ってきたのか?」

振り返るとそこにあったのは廓の姿ではなく、美織の姿だった。

【一条】
「美織、まだ帰ってなかったの?」

【美織】
「うん、マコと一緒に帰ろうと思って、掃除が終わるまで屋上で待ってたんだ」

【一条】
「待っててくれたの? 云ってくれればさっさと掃除なんか終わらせたのに。
もうすぐ廓も戻ってくると思うから皆で帰ろうか」

【美織】
「わかったよ、こんなに良い天気なのに、今日は少し……寒いね」

窓際で外を眺めていた美織がポツリと呟いた、最後の表現が俺には少し納得できなかった。

【一条】
「寒い? 俺にはだいぶ暖かくなってきたと思うけど、風邪でも引いてるんじゃないの?」

【美織】
「そんなこと無いよ、あたしは元気が一番の取り柄……なんだから」

俺に向き直った美織はニッコリと柔らかく微笑んだ、その表情はほんの一瞬の幻のようなでき事。
次の瞬間には、美織の体は足から力無くその場に倒れこんだ、病人が支えを失ったかの様な弱々しい動きだった。

【一条】
「美織!」

慌てて倒れている美織に駆け寄って美織を抱き起こす、腕の中で美織は荒い息遣いをしている。
顔も少し紅潮していて、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
抱き起こした体から制服越しにも美織の体が熱いのが伝わってくる。
苦しんでいる美織の額に手を添えてみると美織の額はかなりの熱を持っていた。

【一条】
「凄い熱……美織、お前熱があるじゃないか」

そういえば屋上でも美織は体のバランスを崩していた、体が少し熱かったのも俺は感じていたのに。
美織の体の変化に気づいてやれなかった、このぶんだと朝から熱があったのだろう。

【一条】
「どうして家で休まなかったんだ、途中で早退だってできたのに」

【美織】
「はぁ……ごめんね……心配かけて……熱があるのは……わかってたんだけど……はぁ……」

【一条】
「わかってたのならなおのこと学校に来たんだ、この熱じゃ立ってるのさえ辛いはずなのに」

【美織】
「はぁ……家に……はぁ……いたら……迷惑……はぁ……だもん」

何を云ってるんだ? 自分が自分の家に居るのがどうして迷惑なんだ、自分の体が大変だっていうのに……
それよりも、今は美織の体のことが心配だ、ひとまず保健室まで連れて行くか。
その時ガラガラと扉を開ける音が聞こえた。

【某】
「おまっとさーん……って一条! 夜這いは夜にやるもんやぞ!」

両手に紙コップを持ったまま廓は大きな勘違いをしている、こんな時にまで気の利いたボケは要らない!

【一条】
「アホな勘違いするな! 美織に熱があるんだ、保健の先生にこれから連れて行くからベッドの用意をしてくれって伝えてくれないか」

【某】
「保健室……あかん、今日は先生おらんから保健室は開いてへんわ」

【一条】
「おいおい……じゃあどうすれば」

考えられる一番良い選択肢が消える、美織の表情は回復しそうもないし、一体どうしたら良いんだ……

【某】
「保健室があかんとなると、一番早いのは美織を家まで送ってくんがええな、ちょっとまっとれ」

自分の机から紙とペンを取り出すとその場でシャカシャカとペンを動かした、何を書いているんだろうか?

【某】
「ほい、これは美織の家までの地図や、その道通りに行ったら美織の家に着くさかい」

【一条】
「ちょっと待て、お前は手伝ってくれないのか……」

【某】
「一条……」

廓が肩にポンと手を置く。

【某】
「お前はまだ気づいてへんかもしれんけど、これはお前にしかできん仕事や。
わいが口出しするのは野暮っちゅーもんやで」

意味深なことを云っているが俺には理解できなかった、わかったことは俺に1人で美織を家まで送り届けろということ。

【一条】
「……訳がわからないんだけど……」

【某】
「今は余計なことは考えんでええわ、お前の使命は美織を家まで送り届けること、以上。
もしどうにもならんことがあったら携帯に電話してーな」

それだけ云い残すと廓はさっさと教室を後にした、残されたのは俺と美織の2人だけ。
美織の体を抱き起こして片腕を肩に回して横から美織を支えようとしたが美織には立っている力すら残っていなかった。

【一条】
「迷惑かもしれないけど……我慢してくれ」

美織が立つことができないので俺が美織をおんぶして帰ることになる。
後ろに回した腕がお尻の下になっているが今はそんなことを気にしてなんていられない。
なるべく振動を与えないようにゆっくりと、それでいて迅速に足を進めた。

……

幸いなことに、教室から校門を出るまで誰にも出会うことは無かった。
理由を話せば誰でも解ってくれると思うがいちいち説明している時間が勿体ない。

校門を出ていつもの帰路を美織と共に歩く、いつもと違うのは美織が俺の横にいないこと。
俺の背中で微かに聞こえる美織の息遣いが胸に痛い、なんで俺は美織に気づいてやれなかったのか。

【一条】
「……ごめん」

耳に届く息遣いの音に耐え切れなくなって不意に漏れてしまう、意識の朦朧としている美織にとどいたかはわからない。
だけど、俺には謝ることしかできなかった……

【美織】
「はぁ……はぁ……はぁ……ま……マコ……」

荒い息遣いの中に混じって俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。

【一条】
「どうした……どこか痛むのか?」

【美織】
「はぁ……はぁ……はぁ……」

美織から返答は無かった、名前が聞こえたのは俺の気のせいだったのだろうか?
疑問に感じたが今は立ち止まってなんかいられない、疑問を振り払って再び足を動かした。

……

いつも美織とわかれる交差路にたどりつく、まっすぐ行けば俺の家だけど、美織の家は右の方だ。
片腕で美織の体を支えながらポケットから廓がくれた地図を取り出して開く。

【一条】
「……なんだよこれ」

廓がくれた紙には確かに地図が書いてあった、しかしこの地図は見たことも無いような不思議な作りをしている。
道が1本の線で形成され、所々に奇妙な印がしてある、地図記号とかなら良いんだけどこの印は……

【一条】
「$マークって……しかもこっち文字はギリシャ文字……」

目に付く印は古代ギリシャ文字や象形文字が大半で何が何を表しているのかさっぱりわからない。

【一条】
「記号以前にこの地図自体が離して見ると地図記号みたいな形なんですけど……」

今の現在位置もよくわからないような謎の地図片手に美織の家を探した。

……

【一条】
「みつけた!」

ようやく宮間の表札をみつけた、本当に美織の家かはわからないが可能性はある。
躊躇することなく玄関の扉を開ける。

【一条】
「すいませーん」

【女性】
「はい、どちらさまでしょうか?」

奥の廊下から女性が現れる、その女性は少し痩せ気味で、肌の張りはけっして良いとは云えなかった。

【一条】
「宮間美織さんのお宅はこちらで宜しいでしょうか?」

【女性】
「美織は私の娘ですけど……っ!」

女性が俺の背でぐったりとする美織を見て言葉を失った。

【一条】
「熱があるみたいで学校で倒れたんです、部屋で横にさせてあげたいんですが宜しいですか?」

【女性】
「わかりました、美織の部屋は二階ですのでついてらしてください」

【一条】
「失礼します」

靴を脱ぎ、親御さんの後について階段を上り、美織の部屋まで案内された。

……

【女性】
「この部屋です」

親御さんに部屋に通してもらうと親御さんは一階に降りて行ってしまった、ベッドの上に美織の体を寝かせて布団を上からかける。
横になれたことで美織も少しは楽になったと思うが、美織の額にはまだ薄っすらと汗が浮き出ていた。

【一条】
「じゃあ俺はこれで、無茶すんなよ」

美織を無事家まで送り届けたことで俺の任務は終了した、普段は使わない神経をフルに使ったせいで変な疲れがある。
部屋を出て早々に美織の家から去ることにする。

【女性】
「あっ待ってください、少しお話を聞かせてもらっても宜しいかしら?」

【一条】
「かまいませんよ」

【女性】
「それではこちらへ……」

……

【女性】
「今お茶を淹れてきますね」

【一条】
「そんな、何も気を使わなくて結構ですよ」

そう云ったのだが女性は台所へとお茶を淹れに行ってしまった。

【一条】
「あの人が美織の母親なんだ、美織とは対照的な人なんだな」

元気の良い美織とは対照的なおっとりとした女性、美織は父親似なのかもしれない。

【女性】
「お待たせしました」

女性がお盆からお茶を手渡してくれる、緑色の淡い色を見るのは久しぶりだ。

【女性】
「今日はありがとうございました、なんとお礼を云ったら良いやら」

【一条】
「そんな頭を下げないでくださいよ、女の子が倒れたら見捨ててなんておけないじゃないですか」

【女性】
「そうですか、朝から少し美織の様子がおかしいとは思っていたんですが、美織は大丈夫って聞かなくて」

【一条】
「あれは大丈夫な熱じゃないと思いますけどね、どうして美織さんは学校を休まなかったんでしょう。
あんなに熱があったんなら朝も相当きつかったはずなのに……?」

【女性】
「それはきっと……私のせいだと思います……」

女性は寂しげな表情でポツリと呟いた。

【一条】
「それは、どういう意味ですか?」

【女性】
「見てわかるかもしれませんが、私は体が強くないんです、そんな体の私を美織はいつも気遣ってくれるんです。
自分が家で休んでいたら私にも病気が移るかもしれない、そんなことを美織はいつも心配しているんです」

話を聞いて、学校での美織の言葉が甦った。

……

【美織】
「はぁ……家に……はぁ……いたら……迷惑……はぁ……だもん」

……

あの言葉はこのことを意味していたのか、家にいたら親に迷惑がかかる、美織はそんなことを考えていたんだ……

【女性】
「美織はあの人に似て自分よりも私の心配をするんです、自分の調子が悪くてもけしてそのことは口にしないで……」

【一条】
「……あの人?」

【女性】
「あ……すいません、私の亭主、美織の父親のことです、似なくても良い所が似てしまって。
私を気遣うよりも自分の体のことを心配してほしいのに」

【一条】
「良い親父さんじゃないですか、そんな性格を受け継いだ美織さんも」

【女性】
「ええ、本当に私にはできすぎた亭主でした」

おや?……今の科白には少し違和感を覚えた。
親父さんの表現が過去形になっている、できすぎた亭主ですと云うなら解るがでしたとなると……もしかすると。

【一条】
「気分を害されてしまうかもしれませんが、もしかして親父さんは……」

最後の方はあえて言葉にしない、あかの他人である俺が口にしてはならないと解っているからだ。
俺の沈黙を女性は理解してくれたようで、ゆっくりと1つ頷いた。

【女性】
「察しの通り、私の亭主、美織の父親はもう居ません、あの子がまだ小さい時に事故で亡くなりました」

【一条】
「そうだったんですか、すいません余計なことを聞いてしまって」

【女性】
「良いんですよ、たぶんこのことを美織は云ってないと思うんですが?」

【一条】
「はい、俺も初めて聞きました」

【女性】
「美織は父親が居ないことをとても気にしています、昔はそれでよく苛められていましたから。
だけど、どんなことが起きようとも父親が帰ってくることはないんですよね」

【一条】
「再婚とかは……考えなかったんですか?」

【女性】
「始めは考えましたけど、それは何の解決にもならないと解ってしまいましたから……
再婚すれば父親の存在はできますが、それは美織にとって偽り、虚像にしかならないんです」

俺はなんて無知なんだ、考えれば解ったはずなのに。
新しい父親の存在ができたとしても、それは所詮血の繋がりも無い見せ掛けだけの飾りにしかならないんだ。
そんなことも考えずに失礼なことを云ってしまった。

【女性】
「父親が居ないことで美織は滅多なことが無いと他人を家に呼んだりしないんです。
人様に自分は父親が居ないことを隠して、いつも明るく振舞って……」

そうだったのか、前に美織の家に行こうとして美織が困惑したのはそんな理由があったんだ。
いつも明るく振舞っているのは自分の弱みを人に知られないため、悩みを考えないようにするため。
明るさの奥には美織の本当の気持ちが隠れていたんだ……

……

【一条】
「長居をしてしまいましたね、そろそろ俺は退散しますね」

【女性】
「そうですか、今日は本当にありがとうございました、それから……
私が父親の話をしたのを美織には云わないでおいてくれますか、美織には迷惑かけたくありませんから」

【一条】
「わかりました、お2人の迷惑になりそうなので黙っておきます」

【女性】
「あっ……お名前の方、教えていただけますか?」

【一条】
「一条です、それでは……」

美織の家を出ると辺りは夕暮れ時の紅の世界に足を踏み入れていた。
そしてその赤色の世界にたたずむ少女が1人、俺の存在を待っていた。

【音々】
「誠人さん……」

学校の制服ではなく、普段着の姿で音々は美織の家の前に立っていた。

【音々】
「少し、お話したいことがあります」

【一条】
「何が話したいかわかってるよ、歩きながらでも良いかな?」

頷いて了承してくれたので家までの帰路につくのと同時に音々の対応を行う。

【一条】
「話したいことってのは……昨日のことでしょ?」

【音々】
「はい……あれがどういうことなのか説明していただけますか……」

【一条】
「わかったよ……」

美織は理解してくれたけど、音々はどうなるかわからない、音々に嫌われたとしても俺にはどうすることもできない。
どんな結末になるかわからないが、音々にも俺の体のことを全て話そう……

……

【音々】
「……」

【一条】
「大体こんな感じかな、俺の中には獣が眠っているんだ、狂気を楽しむ狂った獣がね。
俺との関係を続けて行くとどうなってしまうかわからない、俺と距離を置くのが一番良いと思うけど……」

【音々】
「わかりました……誠人さんが本当ことを話してくれたんで決心がつきました」

どうやら音々は俺とは距離を置く選択をしたようだ、その選択が一番安全かつ確実だもんな……

【音々】
「私はこれからも誠人さんとお友達でいますね」

【一条】
「……え?」

音々の科白が引っかかる、距離を置く選択をしたんじゃなかったのか?

【一条】
「それってどういう……」

【音々】
「誠人さんの話してくれたことに嘘は無さそうです、それに、狂気に取り憑かれた人間はあんな優しさは持っていません。
倒れた人を放っておけない、それはとても気がおかしくなってしまった人間ができることではありませんから」

険しかった音々の表情がニッコリと笑みを帯びた。

【一条】
「もしかして……見てた?」

【音々】
「はい、と云っても私が見たのは校門を出てからですけどね。
最初は驚きましたよ、誠人さんの背中で美織ちゃんぐったりしてましたから」

【一条】
「どうやら熱があったみたいなんだけど、親御さんに迷惑かからないように無理して学校に行ってたみたいなんだ」

【音々】
「お母さんの為ですか……美織ちゃんのお母さんと話はされましたか?」

【一条】
「少しだけね……」

【音々】
「それじゃあ、お父さんの話は……」

【一条】
「それも聞かせてもらったよ、美織の両親が片親だってことも、美織が家に人を招かない理由も……」

【音々】
「……美織ちゃんは、いつもはあんなに元気なんですけど、時折凄く寂しそうな顔をするんです。
私にはそんな美織ちゃんの気持ちをわかってあげることはできません。
だから、私と一緒にいる時の美織ちゃんはどこか、笑っていても心の中では笑っていなかったんです」

【一条】
「……」

【音々】
「だけど、誠人さんと一緒にいる時の美織ちゃんの表情は違いました、偽りを持たない心からの笑顔。
私たちの前では決して見せることの無い美織ちゃんの本当の気持ちなんです」

【一条】
「俺の前でだけ……?」

【音々】
「本人でない私がこれ以上でしゃばってはいけませんね、後は誠人さん次第です。
どんな方向に転がろうと、答えだけは出してくださいね」

笑顔のまま音々が足早に去っていく、走れば音々に追いつくがここで追いかけてはいけないような気がして足を進めることは無かった。

……

美織のことについて色々と知ってしまった、家族事情から美織の振舞い方まで、望んでもいない事までも知ってしまった。

【一条】
「美織も……」

美織も俺と同じ、頭に言葉はできていたのに口には出せなかった。
片親の辛さは痛いほど実感できる、体験した者でないとあの辛さを表現することはできない。

俺はまだ良い方なのかもしれない、俺は片親ということで苛められることは無かったから……
美織はそのせいで父親が居ないことを隠すことにしたのだろう、いつも明るく振舞うことで……

【一条】
「辛かっただろうな……」

俺みたいに親が死んだことを過去のことと考えられれば良い、だけどそれはとても残酷なこと。
自分の存在を産み出した人物を過去の一点に置き換える、親が死んで初めに突きつけられる現実の認証。
美織はそれを上手くやり過ごすことができなかったのだろう……

美織の家から俺の家までの帰路で考えられるのはそんなこと、そんな悲しいことしか考えられなかった……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜