【4月23日(水)】


【一条】
「ぜぇ、はぁ、はぁ、はぁ……」

走らないと間に合わない、時間はもう15分をまわっている。

【一条】
「なんで、今日に限って……」

今日に限って俺を長らく苦しめた時計が鳴ってくれなかった、あれだけ部品を取り除けば動かなくなるのも当然なんだけど……
今まで動いていたせいで今日も当然のように鳴ってくれると考えていたのは甘い考えだったな。

【一条】
「……俺が悪いのか?……」

十中八九俺が悪いんだろうな、時計に八つ当たりして壊した俺に非があるんだろうな……
満開から少しずつ散り初めた桜を余所目に突風のように道を走り抜けた。

……

【一条】
「…………死ぬ」

学校に着いたのはぎりぎり開始二分前、オリンピックで新記録並のスピードで通学路を走った。
勿論それは俺の中だけのことでオリンピックの記録と比べるまでも無いほど遅いのは云わずもがな……

【美織】
「そんな汗だくになって、朝寝坊でもしたの?」

【一条】
「目覚ましが……はぁ……鳴らなかった……はぁ」

【美織】
「目覚ましって昨日マコが云ってたやつ? 昨日自分で壊したって云ってなかった?」

【一条】
「……壊れてないと思ってた」

【美織】
「はぁ……呆れた」

呆れられた、俺が美織の立場だったら同じように呆れるだろうな。

【一条】
「そこでだ、今日代わりの目覚ましを買いたいんだが、どこか時計屋ないか?」

【美織】
「商店街の方に行けば一件か二件あったと思うけど、止めておいたら?」

【一条】
「なんで?」

【美織】
「新しいの買ってもまた同じように壊すんじゃないの?」

【一条】
「ぐうぅ……」

ぐうの音しか出ない、正直また壊す可能性が無いわけじゃ無いんだよな。

【一条】
「しかしだな、時計がないと確実に俺は毎日遅刻しなけりゃならないんだよ。
遅刻のペナルティーと時計を買う出費を考えると時計を買った方が良いと思うんだけど」

【美織】
「それもそっか、それじゃあ今日の放課後あたしが付き合ってあげるから買いに行きましょう」

【一条】
「時計買いに行くくらいで付き合ってくれなくても……」

【美織】
「あたしがいないとお店がどこにあるかわからないでしょ、マコが壊さないような時計選んであげるから」

【一条】
「ぐうぅ……」

またもぐうの音しか出ない、ここは美織について来てもらった方が良さそうだな。

【一条】
「わかった、それじゃあ今日の放課後は俺のために時間を割いてください」

【美織】
「はいはーい」

表情がサッと笑顔に変わる、人の時計を買いに付き合うのがそんなに嬉しいことか?

……

パンを片手に屋上を目指す、屋上で食べるパンは格別に美味い、百円のジャムパンも高級ジャムパン並の味に変わる。
……変わってると思った方が良いじゃないですか、でないと屋上に来る意味が……

ギイィィィィィ

扉を開け放つがそこに人の気配が感じられない、それはいつものことなのだが1つ矛盾点が存在する。
人の気配は存在しない、それなのに、屋上には人の姿があった。

【一条】
「水鏡……」

いつもと同じように西側で街の方へと視線を向けている、俺が来たことには気付いていないようだ。
声をかけようと思った、が、水鏡の背中が揺らいで見える。
そこに存在する水鏡の姿が俺の中で確立されていない、もしかして俺は幻覚を見ているんだろうか……

【一条】
「……そんなわけないか」

そんなことあるはずが無い、そう考えると途端に水鏡の輪郭がくっきりとそこに露になる。

【一条】
「……」

1人でここに来る人物には何か考えることがある、そうでなければこんな物悲しい殺風景な世界に進んで来ようなんて思わない。
何かを悩んでいるであろう水鏡に背を向けて東側のベンチで昼食にしよう。

カサカサと袋を破ってパンをかじる、屋上の景色と風の匂いがただのパンの味を僅かに上昇させる。
あくまでも僅かにだ、ジャムパンの味がクリームパンに変わるなんてことはありえないから。

【一条】
「……」

無言のままパンを食べる、パンを噛む音だけが頭の中に木霊する。
片手にパンを持ったまま内ポケットを探ると、中からは4つ折りにされた小さな紙が出てきた。

昨日、萬屋さんが俺に残したあの曲の楽譜だ、どうして萬屋さんがこの楽譜を持っているのかは疑問だが
それよりもこれは俺にとっての唯一の手がかりなんだ……
水鏡の言葉で甦った曲の終盤の存在、それを明らかにすることができる。

【一条】
「俺が忘れてしまった曲の終盤は……」

一小節目から順に音符を頭の中で口ずさみながら読み進めていく、さすがに何度も吹いているおかげで順調に作業は進む。
音は全て暗記しているが音符としてみると新鮮味を感じる。
序盤から中盤にかけて、ここは展開部、この先が自分では幕引きだと思っていたがそこは転換部だった。
俺が覚えていたのは転換部の終わりまで、ここから先が俺には未知の世界、幕を閉めるために必要な最重要ポスト、終焉部。

【一条】
「……ゴク」

思わず唾を飲み込む、期待と緊張が形として体に現れている証拠だ。
転換部から視線を先に送ると全休符で一小節分の空きをとってから再び音が排出されている。

一小節の中にある音符一つ一つを確実に頭に読み取らせていく、パズルのピースを繋げていくのと同じ感じ。
それを五小節分行うとぷっつりと音符が姿を消した。

【一条】
「これって……」

音はまだ完結していない、ここで終わってしまうとあまりにも中途半端で音楽としての締めがつかない。
しかし、楽譜はそれ以上先に音符は存在しない、つまりこれは……

【一条】
「この楽譜ではまだ未完成ってことか……」

そうだろう、締めの記号がついていないことからもこの楽譜はまだ完成してはいない。
こんな高音の音で曲を締めるのはいささか強引な気がする、これより先の音符は一体……?

【一条】
「完全解明はまだできないか、だけど、これで少しは完成に近づいたか」

紛れも無い事実、曲の全容を知ることはできなかったが萬屋さんのおかげで終盤を少し知ることができた。
これはかなりプラスになる、忘れないうちに少し吹いておくか。
ポケットをあさってオカリナを探すがそこにオカリナの姿は無い。

【一条】
「……」

…………朝のあれか。

今日は朝ドタバタしていたせいでオカリナを持って来るのを忘れてしまったらしい、折角曲がわかったのに吹けないなんて。
しかたがない、家に帰ってから川原にでも出かけて吹くことにするか。

オカリナを吹けなくなったのですることも無く空を見上げる。
空は雲が半数以上の席を占めて天気上曇りの空、しかもその雲は純白ではなく、鈍く黒ずんだ灰色の雲に見えた。
気分は良いのに空は不機嫌そうだ、たまにはこんな空だって有るよな。

……

【美織】
「マコ、早速行きましょっか」

【一条】
「行くって……どこへ?」

【美織】
「どこへって忘れちゃったの? 朝目覚まし買うから一緒に商店街まで付き合ってくれって云ったじゃない」

あぁ、そういえばそんなことを云った記憶もあるな、オカリナを早く吹きたくてころっと忘れていた。

【一条】
「忘れてた、ごめん」

【美織】
「はぁー、自分の遅刻を繋ぎとめる生命線である時計のことを忘れるなんて、天国に背中向けて歩いてるみたいね」

【一条】
「背中向けて後ろに歩いているから大丈夫だ」

【美織】
「まったく偏屈なんだから、それよりも、商店街行くの?」

【一条】
「……付いて来てください」

【美織】
「素直でよろしい、それじゃいこっか」

……

【某】
「一条ー、美織ー」

美織と共に校舎を出ると後ろから声がかかる。

【一条】
「廓か、どうかしたか?」

【某】
「お前らこれから商店街いかへんか?」

廓の横には音々の姿もあった。

【一条】
「俺たちはこれから行くつもりだけど、そっちも?」

【某】
「せやで、音々が商店街まで行こうって云ってな、どうせならお前たちも誘おうかって話になって」

【音々】
「それでお2人を探したんですけど、もう教室にはいらっしゃらなかったんで」

【美織】
「マコが目覚ましを壊しちゃったから一緒に買いに行こうと思って」

【某】
「一条、目覚まし壊れたんか?」

【一条】
「……」

うるさかったから壊したなんて云いたくない、しかもこの男にはさらに云いたくない。

【音々】
「楽しそうなお話ですね、それは歩きながら聞かせてもらいましょうか」

【某】
「せやな、皆一緒のとこ行くんやから歩きながら聞かせてもらおか」

音々、そこには触れないでくれ、廓のやつが食い付いてしまうじゃないか……

……

【某】
「ぶはははははははは」

【一条】
「そこまで笑うことか……?」

【某】
「だってお前、それ、ガキと一緒……ふははははは」

廓は腹を抱えて笑っている、案の定話した途端にこの男は笑い出した。

【音々】
「ふふふ、誠人さんらしいですね」

音々までも口に手を当ててクスクスと笑っている、音々になら笑われても腹が立たない、これが男と女の違いなのか?

【美織】
「マコらしいって云うか、なんか抜けてるって云うか」

【一条】
「……」

ボロボロに云われているな、そこまで俺はおかしなことしたのか?

【某】
「それで今日の朝死にそうな顔しとったんか、それやったらお前もわいみたいに早くから来ればええのに」

【一条】
「誰が開門と同時に学校なんか来るもんか、そんなに早く来てよく暇じゃないな」

【某】
「わいに暇な時間なんかあらへん、空き時間は全てデータ収集にあたるから朝早くてもええんや、むしろ早くないとあかん」

朝一からこいつは何を調べてるって云うんだろう? 教師の不倫でも調べてるのか?

【某】
「データに勝る物無しや、データさえ手に入れておけば対策を立てるのも簡単やし相手の手の内など丸見えや。
データ戦を制する者が後に天下を取る、皆わいの手のひらの上で踊るんや」

廓、それは悪党の考えじゃないのか? 

【一条】
「だけど、学校のデータってかなりの物があるだろ、それ全部覚えてるのか?」

【某】
「そんなもん覚えれるわけ無いやろ、そのためにわいにはこれがあるんやないか」

……なんだろう、あの趣味の悪い手帳?


……

頭痛がする、頭の中を訳のわからない言葉がぐるぐると走り回っている

【某】
「でや? おもろいやろ?」

【一条】
「気持ち悪い……」

【某】
「それだけ毒性の強い情報、ちゅうことや」

【美織】
「い、一体……」

【音々】
「何が書いてあったんでしょう?」

女の子2人が不思議そうに俺たちの会話を聞いている、あれは2人には目の毒だ

【一条】
「は……ははははは」

空しく笑うことしかできない、見た目からしてまともな男じゃないと思っていたけど、中身はさらにわけがわからない男だ……

【某】
「空しく笑ってへんではよ行こや、日が暮れてまうで」

【?】
「……待て」

図太い男の声に皆が一斉に振り返ると、そこにはいかつい男が6人集まっていた。

【某】
「なんやお前ら? こんなかの誰かの知り合いか?」

【男】
「女や貧相な男に用はない、用があるのは貴様だ、廓某」

【某】
「あれ? どこかでわいと遇ったっけか?」

男がビシッと廓を指差した、しかし当の廓は男たちに面識が無いようだ、すると……

【男】
「貴様の噂はこの街の全域に広がっている、相当の実力者らしいじゃないか」

【某】
「なるほどな、するとお前らはわいに喧嘩を挑みに来たんやな」

やっぱりそうなるのか、ここ最近こんな場面も無く平和だったせいで薄れてしまっていたが
廓と二階堂は他校から目を付けられた賞金首だったっけ……

【某】
「一応聞いておくわ、お前らどこのもんや?」

【男】
「外鷲野だ、外鷲野の西邑」

外鷲野……たしか学校から4キロ程の距離にそんな名前の学校があったな。

【某】
「外鷲野か、前あこの頭とタイマンはったけどちっともおもんなかったで」

【男】
「それはもう過去の話だ、今日は過去の汚点を消させてもらいに来た」

【某】
「そらご苦労なこって、ほんならちゃっちゃと始めようか、今日はわいも暇じゃないねんから」

ボキボキと指を鳴らして廓は臨戦態勢に入る、ここは俺も出た方が良いいだろう。

【一条】
「廓、力になれるかわからないけど、俺も出よう」

2人に聞こえないように廓の耳元で小さく呟く。
上着に手をかけるとその手を廓がすっと静止した。

【某】
「一条は入らんほうがええ、あまり女共の前で手荒な格好したく無いやろ、イメージ悪くなるで」

【一条】
「そんなことはどうでも良いだろ、それだったらお前だって同じじゃないか」

【某】
「わいはええねん、それに、もし万が一にもわいが負けたら2人はどうする?」

【一条】
「え……?」

【某】
「ちゅーことや、おまえはゆっくと見物しときや」

廓は俺のことを気にしてくれている、俺の手が汚れるのを避けるために自ら悪役をかってでてくれた。
ここで俺が無闇に参加するのは廓の意思を裏切ることになっちゃうな。

【一条】
「わかった、だけど、負けるなよ」

【某】
「おう、まかせとけや!」

二カッといつもと同じように笑う、脱ぎ捨てた上着と鞄を受けとって廓を見送る。

【美織】
「どうしてあいつは喧嘩が好きなんだろうね」

【音々】
「某さん、大丈夫でしょうか……」

廓の光景を見慣れている美織と、廓の身を案じている音々、2人の反応は対照的だった。

【某】
「さてと、一体誰から来るんや? 何なら全員いっぺんにでもかまへんで」

【西邑】
「大した自信だな、しかし、その発言は不用意すぎるんじゃないか!」

言葉を全て云い終わる前にリーダー格の男が拳を振り上げ廓を狙った。

【某】
「おおっと、せっかちやな、早いのは女に嫌われるで」

【西邑】
「余裕持っていられるのも今の内だぞ」

振り下ろされた拳を後ろに飛んで避ける、地面に足がつく前にさらに横からも拳が飛んでくる、どうやら一対多の勝負になりそうだ

【某】
「危ない危ない、さすがに六方向から拳が飛んでくると避けるのも一苦労やな」

【西邑】
「だったら避けてばかりいないで打ってきたらどうだ!」

【某】
「……そうさせてもらうわ!」

前に拳を運ぶように見せて後ろの男に肘鉄を入れる、予測していなかったのかピンポイントで顎にヒットした。

【男】
「ごふ!」

【某】
「拳は前から飛んでくるだけとちゃうで、後ろにも眼もたなあ」

【男】
「でやあ!」

云ってるそばから後ろからの拳が飛んでくる、予測していたであろう廓は首を振ってそれを避ける。

【某】
「有言実行、まさにそれそのものやな」

拳を避け、振り向きざまに男の顔面にストレートが決まる。

【男】
「あがぁ!」

【某】
「どうした、こんなもんか」

少し廓の表情に余裕が見えた、それは廓にとって命取りとなるとも知らず。

【男】
「……ヒュ」

【某】
「がは!」

後ろに立っていた男が小さな棒のような物で廓の頭を殴打した、苦悶の声と共に廓の体勢がぐらりと揺らぐ。

まずい!

【美織】
「きゃ!」

【音々】
「……!」

2人とも頭を殴られた廓を見て驚きの声を上げた、正直俺にも意外だった。

【一条】
「っく……」

廓の上着と鞄をほうって俺の体は廓の元へと駆け出していた。

【美織】
「マコ!」

美織の呼び止める声が聞こえたが体は呼びかけにこたえることは無かった。

【一条】
「……」

【西邑】
「なんだ貴様は?」

衝撃で地に片膝を付いていた廓の前に立つ、廓の額からは赤い筋が僅かに見えた、血を流しているようだ。

【一条】
「……」

【某】
「い、一条、戻れ! お前が出てくる必要は無い!」

【一条】
「……」

返答は無い、もう俺の頭の中には廓の声すら届いていなかった。

【西邑】
「廓の知り合いか、どかんのなら貴様にも痛い目をみてもらうぞ」

【一条】
「……」

【男】
「てめー、聞こえてんのかよ!」

凶器を持った男が俺につかみかかる、このまま手にした凶器で俺の頭をカチ割ることは容易い行為のはず。
しかし、男の凶器は振り上げられた後、振り下ろされることは無かった。

ゴギン!

【男】
「ぎやぁぁぁ!」

男の肩が音を立てて拉げた、男の肩はありえない方向への回転で複雑骨折を起こしている。

【一条】
「……」

俺の意思ではない、それ以前に今動いているのは俺じゃない。
そう、あの日以来影を潜めていたもう1人の俺の存在がここで再び甦った。

【一条】
「……ククク」

薄気味悪い笑い声を俺は上げている、その口元は不気味に吊り上っていた。

【男】
「やろう! 皆やっちまえ!」

【一条】「……」

飛んでくる拳をつかむと、そのまま肘を逆方向へと曲げて骨をへし折る、ベキンと骨が割れる音が感触として伝道する。

【男】
「う、ああ、あ……」

【一条】
「……」

【男】
「ごはあ!」

前と同じように鼻に拳がめり込む、グジュグジュと血と鼻骨が混じる感触。

血に飢えた獣のようにその場にいる男の体を傷付けていく、血を流し、骨が砕け。
戦意どころか意識さえも途切れてしまいそうな男を見て今の俺は酷く興奮している。

当然体の制御は俺にはできない、何度も止めようと試みているが一向に体は云うことを聞いてくれない。
前と同じ、腕の先、指一本たりとも今の俺には動かすことができない。
もしかすると、動かしたくないのかもしれない……

【男】
「……」

男の手が肩にかかる、が、その手を取るとまるで合気道のように体を流して相手をねじ伏せる。
そして、同じように男の腕を捻り上げて、折る。

ガキン!

【男】
「ぐあ、あ、あ……」

【某】
「い、一条……」

男が1人、また1人と地面に倒れていく、すでに残っているのはリーダー格の男1人となっていた。

【西邑】
「く、くそ……出直しだ!」

背を向けてその場を去ろうとした男の肩をつかんで地面にねじ伏せる、うつ伏せ状態になった男の顔を小突いて横を向かせた。
頬が天を向いたので俺の体は頬の上に足を乗せた、このまま体重をかければ頬が砕けることは必至だな。

【西邑】
「ま、待ってくれ、わ、悪かった、もうお前たちに手を出したりしないから、ゆ、許してくれ!」

この男も命乞いか、まったく、見苦しい、見苦しいことこの上ない。

【一条】
「……」

吊上がった口元に、背筋が凍るような恐怖を覚える笑みが見えた。

グググググ

【西邑】
「や、やめてくれ!」

徐々に体重をかけていく、一気に粛清するのは勿体ない、真綿で首を絞めるようにじわじわと恐怖を植えつけなくては。
ゆっくりと、それでいて確実に加わる力は強くなっていく、もう少しだ……

【西邑】
「ひ、ひぃ……」

【某】
「一条!」

耳に聞き覚えのある名前が飛び込んでくるが一体誰の名だったか、耳障りなノイズだな……

【一条】
「ククククク……」

ミシミシと頬を踏みつける感触とともに下の害虫の振るえが感じ取れる、害虫の分際で良い身分だな。

ふっと男の頬の上にあった足が中に上げられる、男の表情が恐怖で支配されていたものから少しだけ安堵の表情に変わる。
何も知らない者にはそれが放棄に思えたのかもしれない、しかし、現実は違うんだよ……

【某】
「見んなー!!」

男の声が響き渡る、誰に向けられているかなんて俺には関係ない、俺は目の前にある障害をただ破壊するだけだ。

グシャ!! ベキベキベキ!!

【西邑】
「があ……ぁ……ぁ……ぁ」

【美織】
「っひ!」

【音々】
「きゃああああ!」

足を上げたのは放棄したからではなく、勢いをつけるためにやったこと。
予想通り、男の頬はぐしゃぐしゃに砕け、惨たらしい呻き声と鼻を刺激する鉄の匂いがその場に広がった。

意識が飛んだ男の頬を何度も何度も踏みつける、二チャッとした不機嫌な感触がするだけだ、もうこいつに用など無い。
顔から足をどけるとその顔はもう最初に比べると見るも無残な歪な形になっていた。

視線が不安定に宙を彷徨った後、片膝を付いた男が目に映るがこの男には何もしようと思わない。

【一条】
「ククククク……狂想曲ニハモッテコイノ舞台ダ……ハハハハハハハ」

用意された舞台で役者が演じ、演奏者が曲を奏でる、それによって芝居は成り立つ物である。
芝居をまっとうした体が不意に軽くなる、視線の中に白一色の世界が広がるが一瞬のでき事、すぐに視界の中は真っ黒な闇の世界へと変わる。
暗闇の中で最後に感じることができたのは体が崩れる感触と耳障りなノイズだけだった……

……

【一条】
「う、ううん……」

頭の中がガンガンする、俺は何をしているんだ?
どうやら俺の体は横になっているようだ、しかも背中に感じる柔らかさからしてこれは布団の中か。

【某】
「おはよーさん、といってももう夜やけどな」

上体を起こして最初に眼に入ったのは廓の顔だった。

【一条】
「廓、ここは……?」

【某】
「見渡してわからんのかい、ここはお前の部屋や」

視線を泳がせると見慣れた内装でここが自分の部屋だとわかる。

【一条】
「廓……すまなかったな」

【某】
「ええって、それよりも、また来たみたいやな」

【一条】
「……あぁ」

また来たというのは紛れも無いもう1人の自分のこと、前と同じ、絶対的力を手に入れ狂気に満ちたもう1人の俺。

【某】
「しかし今日のはこの前のに比べてえらいきつかったなー」

【一条】
「……」

前と比べても今日の俺は大きく違っていた、以前にも増した狂気が全てを物語っている。

【某】
「一条は今日どないなったか覚えとるか?」

【一条】
「覚えてるよ……思い出したくも無い事だけど……」

【某】
「そりゃそうやろな、誰でもあんなことを自分がしたとあっては忘れたくもなるわな」

【一条】
「廓から見て……今日の俺はどう見えた?」

【某】
「……素直に云わせてもらってええか?」

1つ頷く、ここで頷かなかったとしても廓は本音で喋っただろうな。

【某】
「わいが一条を見て思ったことは……怖い、その一言や」

【一条】
「……怖いか……」

【某】
「あぁ、前見た時とは比べもんにならんほど怖い眼しとった、あれはまるで……」

云い淀んでいる、はっきりしないのは廓らしくない。

【一条】
「廓、正直に云ってくれ……」

【某】
「……狂信者の眼や、破壊や崩壊を楽しむ狂気一色の眼やった」

【一条】
「……」

やっぱりそう思ったか、自分を見ていた俺でもあの眼はまともではないと思った。

【一条】
「廓、聞いてもらいたいことがあるんだ……」

【某】
「なんや?」

【一条】
「今回のことと前のことには大きく違うところが1つあるんだ」

【某】
「一体どこが違ったんや?」

【一条】
「今回のあれはもう1人の俺じゃない、多分俺自身の中に潜む狂気だ」

【某】
「なんでそう考えるんや?」

【一条】
「前は勝手に動く体を何度も止めようと俺は意識を集中していたんだ、だけど今回は違った。
止めようという気にさえならなかったんだ、俺の意識は現実に動く体と同化してあの惨事を楽しんでいた。
俺の体の奥底にある黒い狂気に流されるまま、ひたすら狂気の限りを尽くしたんだ」

【某】
「……」

【一条】
「しかも、俺はあの男のことをなんだと思っていたと思う? 
……害虫だよ、あの男のことを俺は害虫ととらえて狂気に任せ、あの男をいたぶった」

【某】
「……」

【一条】
「これを俺自身の意志と云わないで何と云うんだろうな……」

【某】
「一条……」

【一条】
「……うん?」

【某】
「悲観的に考えるのはもう止めにせえへんか?」

【一条】
「どういう意味だよ?」

【某】
「聞こえたまんまの意味や、前のことにしても今回のことにしてもお前は悲観的に考えすぎや。
確かに今日のお前は普通やなかった、せやけどいつものお前を知ってるわいからしてみれば今日みたいなことは考えられへんねん。
いつものお前と変わってしまった時のお前が1本に結びつかない、自分でも少し変やと思わへんか?」

変だとは思っている、だけど、これが現実、変だとしてもこの現実しか俺には選択肢が無い。
あれが夢の話だったとしたらどんなに嬉しいことか、しかし、手を染め上げた血の色は紛れも無い現実世界の物だ。

【一条】
「……」

【某】
「言葉が無いってことは、自分でもわかってるみたいやな、それやったら大丈夫や」

【一条】
「大丈夫って何が大丈夫なんだよ?」

【某】
「一条の気の持ちようや、今の自分に疑問を感じるんなら突き詰めてみることや、すぐに答え出るとは思わんけど
現状に飲まれて殻に閉じこもっとるだけじゃ何も変わらんで」

【一条】
「……廓」

何度この男の言葉で立ち直らせてもらったことか、この男にはいつまでも頭があがらなそうだ。

キンコーン

もう夜も遅いのにチャイムが鳴る、こんな時間に誰が来たんだ?

【一条】
「はい……?」

扉を開けるとそこに立っていたのは美織だった。

【美織】
「……」

【一条】
「どうしたんだよ、こんな遅くに?」

【美織】
「マコ、話があるの?」

【一条】
「……わかったよ、上がってくれ」

どんな話か予想は付く、あの現場にいた人間なら真実を聞きたいのは当然のことだろう。

【某】
「なんや美織やったんかいな……それじゃ、お邪魔は消えさせてもらうわ」

【一条】
「……帰るのかよ」

【某】
「2人の時間を邪魔しちゃ悪いやろ、それから、美織には本当のことを云っておいた方がええかもな。
せやけど、それはあくまでわいの意見や、決めるのは本人である一条、お前なんやからな」

それだけ云い残して廓は帰って行った、よりによってこんな日に美織と2人にされちゃどうしたら良いんだよ……

【一条】
「それで……話って今日のこと?」

【美織】
「……」

コクンと頷く、答えがわかっていたとはいえ美織にあのことを聞かれるのは嫌だな。

【一条】
「何を教えて欲しいんだ?」

【美織】
「……できることなら全部教えて欲しい……けど……それはマコが決めることだよ」

【一条】
「……」

本当は聞きたくてしょうがないはずなのに、俺のことを考えて全てを話さなくても良いと云ってくれる。
美織には……本当のことを話そう、包み隠さず、おかしくなった俺の全てを。

【一条】
「信じられないかもしれないけど……全部話させてもらうよ」

……

【美織】
「嘘……そんなことって……」

今日起こった全て、それから以前にも同じようなことがあったことの全てを美織に話した。
事実を知った美織の表情は驚きの色一色に塗りつぶされた、それはとても暗く、明るさが立ち入れないような感じだった。

【一条】
「話だけだと事実に聞こえないかもしれないけど、今日の光景を見たんなら事実だってわかるよな……」

【美織】
「……」

【一条】
「俺はまともじゃないんだ、だから、俺にはなるべく近づかない方が良い……そうしないと、美織にも危害を加えるかもしれない」

【美織】
「……く」

美織の平手が頬に当たる、覚悟していたことだ、だけどこれで美織の身が安全になるなら俺には嬉しい。
鈍い痛みが頬からじわじわと広がる、これで美織との関係を繋ぐパイプは断ち切れただろう……

【美織】
「……莫迦」

【一条】
「なんとでも云ってくれ、好きなだけ云われた方が俺を避けるのも楽になるだろ」

【美織】
「そんなんじゃないわよ!」

声が震えている、もしかして美織は……泣いて……いるのか?

【一条】
「どうして美織が泣く必要があるんだよ?」

【美織】
「莫迦莫迦莫迦……どうしてあたしに何も相談してくれないのよ!」

【一条】
「美織……」

【美織】
「あたしは……いつでもマコの力になってあげようって思ってた、マコが困ってたらあたしは力を貸そうと思ってた。
それなのに、そんな大事なこと……一言も相談してくれなかった……あたしなんかじゃマコの力にはなれないって云うの!」

【一条】
「……それは……」

【美織】
「何の相談もなく……それで……マコとは関わるなって云うの……そんなの……無理に……決まってるじゃない」

もう声は完全な涙声になっていた。

【一条】
「……」

【美織】
「う……うぅ……うう……うわあぁぁぁぁぁぁ!」

俺の胸に顔を押し付けて美織が声を上げて泣いた、美織も俺のことを心配してくれていた。
それなのに……俺はその気持ちに気づくことができなかった、俺の周りにはこんなにも俺を心配してくれている人間がいるというのに。
俺は……何をやっているんだろうな……

【一条】
「……美織……ごめん」

胸の中で泣き続ける美織の体を抱きしめる、美織の体はとても小さく、泣いているために小刻みに震えていた。

【美織】
「う……うぐ……えぐ……う……」

美織が泣き止むまでの間、ずっと体を抱きしめていた、こんなことで償いになるとは思わないが、今の俺にはこんなことしかできなかった。

……

【美織】
「ごめんね……恥ずかしいところ見せちゃったね……」

【一条】
「いや……悪いのは俺だし……」

美織が泣き止むのにはそれなりの時間を要した、泣き止むころには辺りは真っ暗になっていたので今は美織を送っているところだ。

【美織】
「だけど……少しはあたしも頼って欲しいな……少しくらいは力になれると思うんだけどな」

【一条】
「ありがとう……だけど俺……少し怖くてさ……美織に本当のことを話して
避けられるのが怖かった……美織とはそれなりの付き合いをしてきたからいざ避けられるとなると……云えなかった」

【美織】
「……マコ……」

【一条】
「男らしくないだろ……他人に危害が及ぶかもしれないのに、自分の日常を必死で守ろうとした
それが……俺の自己主義でしかないとわかっていながらだ……」

【美織】
「違うよ……」

【一条】
「……え?」

【美織】
「それは自己主義なんかじゃないよ……それが……マコの本当の意思なんだよ」

本当の意思だって?  それは……俺が望んでいるということか?

【美織】
「この辺で大丈夫だよ……今日はありがとう」

【一条】
「こちらこそ……ありがとう」

互いに礼を云い合って美織が駆け出す、後姿にさっきまで泣いていたような弱々しさは見えなかった。

【一条】
「……」

1人になると美織の言葉が思い出される……俺の本当の意思。
俺は……平穏を望んでいる、変わることの無い日常を望んでいる。

それが俺には許されないことだとしても、望まずにはいられなかった……





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