【5月01日(木)】

カレンダーをバリッと勢いよく剥がす、今日から暦は5月、卯月から皐月へと変わった。
5月になったから別にどうというわけではないがなんだか気分が良い。
たぶん月が変わったことではなく、昨日のでき事のおかげで気分が良いんだろう……

【一条】
「飯でも食べるか……」

……

家を出ると外の景色はもう桜の時代を終え、新緑が少しずつ力を伸ばし始めている。
この街に来たころは満開の桜が印象的だったな。

【美織】
「マコ、おはよ」

【一条】
「おはよう」

【美織】
「なんだか普通の挨拶だな、折角恋人同士になったんだからちょっとお早うのキスでもしてみる?」

【一条】
「何莫迦なこと云ってるんだ、俺はそんなバカップルみたいなことはしたくないからな」

【美織】
「あはは、マコってそういったの好きそうじゃないもんね」

【一条】
「俺がそんなことしてみろ、廓の莫迦に何云われるかわからないだろ」

【某】
「わいがなんやってー?」

後ろからの予想だにしなかった声に肩がビクッと跳ね上がってしまった。

【一条】
「な、廓……急に声かけるなよ、びっくりするだろ」

【某】
「いやーなんかわいがどうのこうのいっとったなーと思ってな、それで一条、なんで美織と一緒やねん?」

そういえば廓には美織にはふられたって云ってたんだっけ、このまま云わなくても良いかな……?

【美織】
「なんでってあたしとマコは恋人同士になったの、一緒にいるのは不思議じゃないと思うけど?」

【某】
「恋人同士ー! それほんまなんか一条!」

どうしてそんなあっさり云っちゃうんだよ、この男にばれたらどうなるかわかったもんじゃないのに。

【一条】
「まあそのなんだ……そういうことだ」

【某】
「おいおいそれほんまかいな、一条と美織が恋人同士ねぇ」

俺と美織の顔を交互に見比べる、見比べた後、廓らしいニィっとした笑いの口に変わった。

【某】
「おめっとさん」

【一条】
「廓……?」

【某】
「2人ならお似合いのカップルやで、2人とも両想いやったんやろ?」

【美織】
「なんだ、やっぱり某は気づいてたんだ」

【某】
「一条とおる時の美織の表情でなんとなくな、せやけどほんまにじらせてくれたなぁ」

【一条】
「それは俺が鈍感だったのか? それとも美織のアピールが足りなかったのか?」

【某】
「両方や、美織が散々アピールしても一条気付へんし、途中から美織もアピールせんようになったし」

【美織】
「だってさ、あたしがそいういう仕草をしても気付いてくれないからあたしには興味がないと思って」

【某】
「それだけ一条が度を越えた鈍感やったっちゅーことや、美織も辛かったやろうに」

【美織】
「そりゃもうね、あたしもよく今まで諦めなかったと思うわよ」

なんだか俺1人が悪者みたいだな、そこまで俺は鈍いのか?

【某】
「なっ一条、わいがゆうたとおり近いうちに状況が変わったやろ」

【一条】
「まさかこんなことになるとはな、もしかしてこうなるってわかってたのか?」

【某】
「さぁそれはどうやろな、とにかくや、2人ともおめっとさん」

【一条】
「ありがとな」

【美織】
「ありがと」

【某】
「それでや、はよやったらどうなんや?」

【一条】
「やるって何をだよ?」

一体何をやれっていうんだ? 廓にお礼でもしたほうが良いのかな……

【某】
「何をって決まってるやんけ、恋人同士ってゆうたら朝のあつーい口づけやろ」

【一条】
「な!……」

【某】
「わいのことなんか気にせずやってもうたれや、ほれほれブチューっとあつーい口づけで身悶えながら
今日は学校さぼって一条か美織の家で2人で熱々の初夜を……」

【2人】
「初夜って云うなー!!!!!」

バギ! ボゴ!

【某】
「ふがぁ!!」

初夜の単語に俺も美織も揃って廓に攻撃を加える、廓の口はいつもいつも災いを招いているな。

【某】
「付きおうたらその内迎えるんやさかい早い方がええで、まぁ男は早くない方がええけどな」

【一条】
「お前はいつもいつも一言多いんだ!」

【某】
「おっと、何を焦っとるんやもしかして一条早いんか?」

【一条】
「もう許さねえ!!!!!」

逃げる廓、追う一条にクスクスと笑う美織、もしかして美織は早いに反応したんじゃないだろうな?

……

【某】
「頭痛いわー、少しやりすぎちゃうか一条?」

あの後廓を捕まえて脳天に何発か平手を入れてやった。

【一条】
「自業自得だろ、お前のせいであらぬ疑いをかけられたらどうするんだ」

【美織】
「別にそんなこと気にする必要ないでしょ、マコってそういうの気にするタイプなの?」

【一条】
「気にしないタイプ……だと思う」

【美織】
「だったら気にしないで良いじゃない、若い内から気にしすぎると老けるの早いよ」

【某】
「せやでー、あっという間に役立たずになってまうで」

【美織】
「……」

【某】
「げほぅ!」

美織の突っ込みが後頭部に入る、役立たずってあれのことか?

【美織】
「まったくこの男は朝一からエッチな事ばっかり考えて、マコもそんなんじゃないでしょうね?」

【一条】
「俺と廓を一緒にしないでくれ、というか俺がそういった話に疎いことは美織が一番良く知ってるだろ?」

【美織】
「あはは、マコならそう云うんじゃないかなって思ってたよ」

付き合い始めてまだ2日だというのにもう美織には読まれてしまうようだ、これじゃ隠し事はできそうもないな。

【某】
「2人で盛り上がっとるとこ悪いんやけど、わいもおんのを忘れんといてや」

……

昼休みの鐘は生徒にとって一時の解放の時間、そんな時間に生徒は常に慌ただしい。

【美織】
「あーあ、今日は購買に行っても何も買えなそうだね」

【一条】
「授業が少し延びたんだからしかたないだろ、食堂でも行くか?」

【美織】
「今日は学食って気分でもないんだよね、どうしよっか?」

【一条】
「どっちも駄目となると今日は昼食抜きって選択しかないけど?」

【美織】
「そんなの嫌だよ、お昼食べないと午後の授業でお腹鳴っちゃうよー」

どの選択肢も嫌だって云われるともうどうしようもないじゃないか。

【一条】
「確実なのは学食だな、ほら気分変えて行くぞ、でないと午後の授業中に恥ずかしいめにあうけど?」

【美織】
「ぐぅ……わかったわよ、行けば良いんでしょ」

【某】
「おーい2人とも、もう昼飯は食ったんか?」

【一条】
「いや、これから学食にでも行こうと思って」

【某】
「ほんならちょうどええタイミングやな、これわいからのお祝いや」

ドサドサと廓の腕から大量のパンが雪崩れ落ちる、こんなに買ってきたのか?

【一条】
「お祝いって、授業が長引いたのによくこんなに買えたな」

【某】
「これも全て情報の力やで、わいほどの情報網を持つとパンの差し押さえなんか容易いもんや」

【一条】
「廓の情報網って一体どれほどの力があるんだよ、個人の力で購買の差し押さえなんて普通できないぞ」

【某】
「その謎は全て手帳にあり、まぁそんなことは置いといて好きなだけ貰ってってや
今日はわいのおごりやさかい遠慮は要らんで」

俺と美織はそれぞれ2つずつパンを貰った、それでもまだ机の上には大量のパンが残されている。

【美織】
「残ったそのパンってどうするつもりなの?」

【某】
「勿論食う、勇と一緒なら1時間もあれば全部片付くやろ」

【一条】
「勇まで巻き込んでどうなっても知らないぞ」

【某】
「大丈夫大丈夫、ああ見えて勇の奴よく食うんやから、お前らはそれ持って屋上でも行けや
たぶん今日も誰もおらんで静かに飯食えるで」

【一条】
「廓は行かないのか?」

【某】
「野暮なこと聞くなや、2人の時間を邪魔する気なんかわいにはあらへん」

【美織】
「某……」

【某】
「ぼさっとしとらんとはよ行かんと昼休み終わってまうで」

手でシッシと俺たちを遠ざける、廓流の気の使い方なんだろう。

【美織】
「今日は某に感謝だね」

屋上まで行くのに美織は俺の腕に自らの腕を絡める、以前は恥ずかしかったが今はそんなでもない。
これが心境の変化ってやつかな……

……

【美織】
「今日も全然人がいないね」

【一条】
「この屋上どうしてここまで人気が無いんだろうな」

誰もいない2人だけの屋上、そんな屋上がとても嬉しく思う。
2人ともベンチに腰を下ろしてパンにかじりつく、良い天気の下で食べると普通のパンもいつもより美味い。

【一条】
「さてと、飯も食べたことだしやることもなくなったな」

【美織】
「良いじゃないの、こんなに良い天気なんだからここにいるだけでも気持ち良いじゃない」

……

【一条】
「静かだな……」

【美織】
「そうだね、だけどそれがここの魅力なんじゃない、マコはもっと賑やかな方が好き?」

【一条】
「静かな方が良い、あまり賑やかだと落ち着かないんだよ」

【美織】
「でしょ、でもそうだとしたらあたしみたいな賑やかな女じゃマコは疲れるんじゃない?」

【一条】
「美織は別だ、美織だったらいくら賑やかでもかまわないさ」

【美織】
「あら、本当にそんなこと云っちゃって良いのかなー?」

【一条】
「……度を越えないようにしてください」

【美織】
「あはは、云われなくてもわかってるよ、大切な人が困るようなことはしたくないからね」

大切な人、美織にそう思われていると思うとなんだか気恥ずかしい、顔に出ていないだろうか?

【美織】
「マコ顔赤いよ、どこか具合でも悪いの?」

うわぁ、顔に出てたみたいだな、深く探られないように話題をそらさないと。

【一条】
「時間もまだあることだし、上でオカリナでも吹いてくる」

【美織】
「あ、それだったらあたしも行くー」

ハシゴのかかっている西側に移動する、西側にはある少女がいつもと同じように体を手すりに預けていた。

【美織】
「あれって水鏡ちゃんじゃない、おーい、水鏡ちゃーん」

【水鏡】
「宮間先輩、それに誠人先輩」

【一条】
「こんちは、今日もここに来てたんだ」

【水鏡】
「特にすることもありませんから、何もすることがないならここで時間を過ごすのが私は好きなんです」

【美織】
「水鏡ちゃんも屋上好きなんだ、あたしたちってなんだか似てるね」

【一条】
「お前と水鏡のどこが似てるって? たまには美織も水鏡みたいに静かにできないのか?」

【美織】
「さっきあたしは賑やかな方が良いって云ったのは誰だったかしら?
それからそういうところじゃないの、もっともマコみたいな鈍感男にはわからないだろうけど」

【一条】
「毎回毎回鈍感の一言で片付けないでくれよ、そうだ、水鏡にお礼を云わせてもらいたいんだ」

【水鏡】
「私に……お礼ですか?」

【美織】
「そう、あたしとマコさ付き合うことになったんだ、そのことで水鏡ちゃんにお礼を云いたくてね。
水鏡ちゃんはあたしとマコをくっつけてくれた恋結びの天使なんだからね」

【水鏡】
「そうですか、お2人ともおめでとうございます」

ニッコリと水鏡の顔に笑顔が灯る、ここ最近水鏡はよく笑ってくれる、笑ってる水鏡は歳相応のかわいらしさがあるんだよな。

【美織】
「あたしたちが結ばれたのは全部水鏡ちゃんのおかげ、水鏡ちゃんの言葉のおかげだよ」

【水鏡】
「私は背中を押しただけです、お2人が心からお互いを必要としていたから恋は結ばれたんです。
でも、少しでもお2人のお手伝いができたのなら、私も嬉しいですよ」

【美織】
「水鏡ちゃーん」

ギュムゥゥ

【水鏡】
「ふぁ……」

美織が水鏡のことを抱きしめている、突然のことで水鏡が珍しくおろおろとしているのが見てわかる。

【水鏡】
「ちょ……宮間先輩?」

【美織】
「本当に、ありがとね、あたし絶対にがんばるから」

【水鏡】
「……はい」

開放された水鏡の顔がほんのりと赤く染まっている、2人の会話は俺には小さくて聞き取ることはできなかった。

【一条】
「美織ばっかり役得だな、なんなら俺も水鏡のことを抱きしめようか?」

【水鏡】
「え!……」

【美織】
「……むぅ」

ギュウウウゥゥゥゥ

【一条】
「痛い痛い痛い! ちょっと、背中を抓るなって!」

【美織】
「マコがいやらしい眼で水鏡ちゃんを見るからでしょ、浮気は駄目」

【一条】
「浮気ってお前なぁ……」

【水鏡】
「フフ、結ばれてまだ全然経ってないんですから宮間先輩だけを見なくちゃ駄目です、浮気なんかしたら承知しませんよ」

【一条】
「水鏡にそう云われちゃったら絶対にできないな」

【美織】
「云われなくても浮気なんかするんじゃなーい!」

ポコポコと美織に頭を叩かれる、水鏡はクスクスと笑っている、こんな日常が俺は一番好きだ。

……

【一条】
「そろそろ鐘も鳴るころだな、戻ろうか?」

【美織】
「午後の授業は数学だね、指されたら起こしてあげるからマコは寝てても大丈夫だよ」

【一条】
「それだったらとっと戻って寝る準備でもするか」

【水鏡】
「あ、待ってください」

立ち上がった俺たちを水鏡が制止する。

【水鏡】
「あの、宮間先輩にお話があるんですけど」

【一条】
「それは俺がいないほうが良いのか?」

【水鏡】
「できれば、宮間先輩と2人だけにしてもらえますか」

【一条】
「OK、俺は先に教室で寝てるから授業が始まったらとりあえず起こしてくれる?」

美織がうんと頷いたので俺は邪魔にならないように退散する、女の子同士なんの話をすることやら。

……

【美織】
「それで、あたしに話って何かな?」

【水鏡】
「宮間先輩は、今幸せですか?」

とても唐突に水鏡は切り出した、どうしてそんなことを聞いてきたのかはなんとなく予想がつく。

【美織】
「とっても……幸せだよ」

【水鏡】
「良かった、宮間先輩は誠人先輩に全部打ち明けたんですか?」

【美織】
「うん、マコに嫌われるかもとか思ったけど全部話したんだ、そしたらさ水鏡ちゃんの云うとおりにマコのやつ……」

【水鏡】
「抱きしめてくれた、ですよね?」

【美織】
「まさか本当に抱きしめられるとは思ってなくて、その時は心臓が怖いぐらい大きく鳴ってたんだ。
だけど、すっごく嬉しかった、マコがあたしに振り向いてくれて、あたしのことを求めてくれて……」

【水鏡】
「それを聞いて安心しました、宮間先輩ならこれから誠人先輩の支えになってもらえそうですね」

スクッと水鏡は立ち上がった、ちらりと見えた横顔には光が存在していない、泣いたように曇った表情をしていた。

【水鏡】
「今日の放課後はお時間ありますか?」

【美織】
「それは大丈夫だけど、今ここじゃ云えないようなこと?」

【水鏡】
「はい、放課後もう一度ここに来ていただけますか、宮間先輩1人でお願いします」

そう云い残すと水鏡は足早に屋上を後にした、あたし1人残った屋上はなんだか泣いているような感じがした……

……

放課後の鐘は定刻どおりに鳴り響く、学生は皆この鐘の音を待っている、俺もそんな1人だ。
教室の中には美織の姿がなかった、もう帰ってしまったのかな?

【一条】
「しかたない、俺も帰りますか」

【水鏡】
「誠人先輩……」

鞄に教本を詰めて教室を出ようとすると入り口から水鏡に呼び止められた。

【一条】
「水鏡、俺の教室に用事なんて珍しいね、それで俺に何か?」

【水鏡】
「あの、今日の夕方ごろに川原まで来ていただけませんか?」

【一条】
「夕方に川原って、そこで何かあるの?」

【水鏡】
「大切なお話があります、誠人先輩にとっても、そして私にとっても……」

妙に水鏡の表情はしんみりとしていた、そんな表情の水鏡を見ているのがとても辛かった。

【一条】
「そこじゃないと駄目なんだよな、わかった、川原に行かせてもらうよ」

【水鏡】
「ありがとうございます、私なんかのわがままを聞いてくれて……」

【一条】
「わがままなんかじゃないさ、だからそんな暗い顔しないでくれよ」

【水鏡】
「すいません、誠人先輩には励まされてばかりですね」

【一条】
「ははは、それじゃ夕方にな」

水鏡に後ろ手でひらひらと手を振って教室を後にした。

……

それなりの重さのある屋上の扉を開ける、屋上に出るとそこにはあたしを呼び出した人物の姿だけが存在する。

【美織】
「お待たせ、もしかして待たせちゃった?」

【水鏡】
「いえ、私も今来たばかりですから……」

長い髪を空に躍らせて水鏡がこちらに向き直る、声は優しげな声だったのに、顔は昼と同じ曇りに満ちていた。

【水鏡】
「今日はもう5月……桜の季節も終わってしまいましたね」

【美織】
「今年の桜は特に綺麗だったね、それで桜がどうかしたの?」

【水鏡】
「桜の花の伝説、桜が美しいのは根本から骸の血を吸い上げてそれが花弁を染め上げるから。
神秘的で、なおかつ幻想的な伝説ですよね……」

【美織】
「……」

【水鏡】
「桜の木は霊樹なんです、その場限りの美しさを認められて僅かな時の中に存在できる霊樹
そして、それは桜の木だけじゃないんです……」

【美織】
「……!」

優しい風が2人の間を吹き抜け、水鏡の長い髪が風の中を泳いでいる。
普段前髪で見えることの無い水鏡の瞳を見ることができた、その瞳は移ろいや戸惑いの無い、恐ろしいまでに真っ直ぐな瞳をしていた。

……

夕方までまだかなりの時間があるが俺はもうここに来ていた。
これといってすることもなかったので、学校から帰るその足でここに来た。

【一条】
「水鏡の大切な話ってなんだろうな?」

水鏡と出会う確立はここも多い、屋上か川原かどちらかで水鏡には出会うことが多かった。
そういえば、水鏡は屋上では必ず西側に、ここでは必ず水辺に立っていたな。

前から不思議に思っていたことがあった、なぜ水鏡が屋上では必ず西側にいたのか。

【一条】
「西側からしか見えないって云ってたっけな」

西側からしか見えない、それはこの川原のことだ。
川原にいる時の水鏡の後姿、前にそれを見た時俺はその背中に悲しみを覚えたっけ。
水鏡とこの川原に何か関係でもあるんだろうか?

【一条】
「……」

川原の土手に仰向けに寝転がる、視線の先には白を基調とした戸惑いの空が広がった。
そのまま頭の中が真っ白に染められていく、全ての考えを侵食した空の色が俺の自由を奪っていった。

……

【一条】
「……うぅん」

赤みを帯びた陽光が寝惚け眼に突き刺さる、どうやらあのまま眠ってしまったようだ。
眼を擦りながら腕時計に視線を落とすと時間は5時、夕方というにはまだ若干時間は早いようだ。
辺りを見渡してみてもまだ水鏡の姿は無い。

【一条】
「こんな所で寝るのは久しぶりだな」

頭の横には草が茂り、背中には軽い凹凸を帯びた土手の感触、着ている服も汚れてしまう自然が作り上げたベッド。
しかしそんなベッドで眠ることが思いのほか心地よい。
両手を頭の下に置いて再びまぶたを閉じる、視界を奪われたことで耳や鼻に神経が集中する。
風が吹きぬける音、草木がそよぐ音、水が流れる音、土の香り、水の香り。
それら全てを感じることができるここは人が作り上げた偶像世界にいたのでは決して感じ取ることなんてできないだろう。

【水鏡】
「先輩」

【一条】
「水鏡だね、まさかとは思うけど俺の頭の上にいないだろうね?」

【水鏡】
「安心してください、先輩の横に立っていますから大丈夫ですよ」

それを聞いて安心した、おそるおそる眼を開けると横に立った水鏡の姿が見える。

【一条】
「またいつもみたいに下着を見せられちゃかなわないからな」

立ち上がって背中や腰についた草や土をぱんぱんと落とす。

【水鏡】
「先輩はお早いんですね、もしかして結構待たれましたか?」

【一条】
「待ったって云うか、学校からそのまま来たからもう1時間ぐらいはここにいるかな。
その間ここで昼寝してたから別に少しも待っていないよ」

【水鏡】
「すいません、放課後すぐに会えればよかったんですけど私に用事がありまして」

【一条】
「そんなこと別にどうでも良いって、それよりも水鏡の……」

【水鏡】
「わかっています、その前にもう1つだけ私のわがままを聞いてもらって良いですか?」

【一条】
「俺が聞けることだったらなんでも」

【水鏡】
「先輩の……オカリナをもう一度聞かせてもらえますか……」

【一条】
「そんなことで良いの? それってわがままって云わないと思うんだけどな」

ポケットに手を入れてオカリナを探す、手にしたオカリナが今日は何故か軽く感じられた。
眼を瞑ってオカリナに口をつける、息を吹き込むとそこに音の旋律が形成され曲という1つの存在を確立する。

【水鏡】
「いざや……いざや……」

俺がオカリナを吹く横で水鏡はその曲を歌っている、誰も知らないこの曲の歌詞
その歌詞が本当に合っているのかなんて俺にはわからない。

だけど、奏でられる旋律と口ずさまれる調は互いに1つの曲を確立するために生まれてきている。
たとえ水鏡が作り上げたこの場限りの歌でもかまわない、今はこの旋律と調の調和を全身で感じていよう……

【水鏡】
「陽炎のように、貴方の元へと……」

水鏡の調がとても美しく俺の旋律を盛り立てる、しかし、もう少しで俺の旋律は終わってしまうんだよな。
俺の中でまだ曲は未完成、水鏡には悪いけど俺にはまだ無理なんだよ……

「諦めないで」

【一条】
「……!」

頭にどこからともなく声が聞こえてきた、それと同時に俺の頭の中に無数の記号が浮かび上がった。
一瞬、頭の中を無に還すような光を感じた、その直後俺の頭の中に浮かび上がったもの。

それは……この曲の全容を記述した楽譜。

泉のように頭の中に楽譜が溢れてくる、今まで決して知ることのできなかったこの曲の終わりがついに見えた。
ほんの一瞬のでき事でしかなかったが、頭の中に楽譜の全容は完璧に記憶されていた。

【一条】
「……」

途切れてしまった楽譜に新たに足を踏み入れる、曲の終わりを作り上げる終焉部。
終焉部を吹く俺の横で水鏡の調は途切れることなく続いていた。

【水鏡】
「何時か見た空へ……」

調が終わると旋律の独奏に入る、最後の最後の締めは俺のオカリナが締めるんだ。

【一条】
「……」

徐々に最後の音を小さくしていく、そして、オカリナの音が消えると共にこの曲は完成を向かえた。

【一条】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

【水鏡】
「先輩、全部吹くことができましたね……」

【一条】
「あぁ、なんか急に頭の中に楽譜が浮かんできてさ、不思議なことだけど実際に楽譜が見えたんだ」

【水鏡】
「先輩が全部吹ききれたことが何よりの証明ですよ」

その場に膝から崩れ落ちた、膝が笑ってしまって立つことができない、オカリナを手にしていた手もブルブルと震えている。

【一条】
「なんだか、凄い疲れた……」

また自然が作り上げたベッドに体を横たえた、体全身が曲の完成を喜んでいる。

【水鏡】
「そんな所で寝てると風邪を引いてしまいますよ」

【一条】
「こんな良い天気の日に風邪なんか引かないさ、水鏡もやってみたらどうだ? 気持ち良いもんだぞ」

【水鏡】
「……」

どさっと水鏡も俺の横で土手に横たわる、まさか本当に水鏡が寝るとは思わなかった。

【水鏡】
「本当、気持ちが良いものですね……」

【一条】
「だろ、なんかこうさ、生きているっていうのを全身で感じられる気がしないか?」

【水鏡】
「……生きているですか」

【一条】
「ところでさ、さっき水鏡が歌っていた歌詞って?」

【水鏡】
「先輩は……まだ思い出せないんですか……」

【一条】
「思い出せないって何が?」

【水鏡】
「この曲のことです、先輩ならもう気付いていると思うのですが……」

【一条】
「俺が……もう気付いている?」

一体俺は何に気付いているっていうんだろう、まったく心当たりが無い

【水鏡】
「先輩は……私の名前について何かお気付きではないですか?」

【一条】
「水鏡の名前だって? 別に何も不思議には思ってないけど、ただ以前どこかで聞いたような気がするくらいかな」

【水鏡】
「私と先輩は前にめぐり会っているんです、いえ、めぐり会えるはずだったと云った方が良いですね」

どういうことなんだ、俺は昔水鏡に出会っている……はずだったって?

【水鏡】
「私の名前を先輩が聞いたことがあるのも無理はありません、だって私の名前を何より喜んでいたのは先輩でしたから……」

【一条】
「ちょ、ちょっと待って……それって一体?」

【水鏡】
「もうずっと昔のこと、先輩の過去の中に私は存在しているんです、ですけど、先輩の中では私の存在は悪なんですよね……」

【一条】
「だから、なんの話をしているんだよ!」

【水鏡】
「先輩が初めて私の名前を呼んでくれたのは確か、病院の病室の中で。
そのころの私は形さえあやふやな、1つの可能性でしかありませんでした」

【一条】
「……」

【水鏡】
「……先輩が唯一覚えていた記憶の中に、私の存在はあるんです……」

【一条】
「俺が唯一覚えていた記憶の中に……」

唯一覚えていた記憶、それは俺の母親が死んだという記憶、それのどこに水鏡は絡んでいるんだ?

【水鏡】
「先輩のお母さんが死ぬことになった原因、私が関わっているのはそこなんです。
死ぬことになった原因を作り上げたのが他でもない、私なんですから」

【一条】
「何を莫迦なことを云っているんだ、俺の母親が死んだのは流産のせいだ、水鏡は何も関係ない」

頭の中でパズルのピースがぐちゃぐちゃに混ざり合っている、全く完成には近づかない。

【水鏡】
「……どうして……私がこんなに先輩のことを知っているのか不思議じゃありませんか?」

【一条】
「そうだよ、どうして水鏡は俺の母親が流産したことや俺がその記憶しか覚えていないことを知っているんだ」

【水鏡】
「不思議ですよね、だけど見方を変えると不思議ではないんです……
なぜなら、私はいつも先輩と共に存在していましたから、同じ個体から生まれ、同じ時を過ごすはずだったんですから」

【一条】
「同じ個体から生まれて……ま、まさか!」

同じ個体、パズルを繋げる為の最重要ピースを手にすると1つの仮説がパズルの上に成り立ってしまう。

【一条】
「ま、まさか……そんなのあるわけないだろ……だってそれって」

【水鏡】
「気付かれたみたいですね、私が誰であってなんであるのか、そして、私の存在が嘘であることも……」

【一条】
「あり得ない、あり得ないだろ! それじゃあ君は俺の……」

【水鏡】
「はい……私は誠人先輩の……妹になるはずだった……」

あり得ない1つの可能性が水鏡の言葉で全て確立される、死者がこの世に存在しているあり得ない現実。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が足の先まで突き抜ける、その衝撃は逃れることなく体の中に痛みとして溜まってしまう。

【水鏡】
「私の言葉を信じるも信じないも先輩次第です、あり得ない現実を認めろと云われても簡単に認めることなんてできませんから」

【一条】
「水鏡……そうか、そうだったのか」

今まで引っかかっていた水鏡という名前、それがなんだったのかようやくわかった。

……

【一条】
「お母さん、妹の名前はなんて云うの?」

【母親】
「そうねえ……水鏡、水の様に透き通った鏡、この子の名前は水鏡よ」

【一条】
「水鏡か、なんだか凄く綺麗な名前だね、早く生まれてこないかな」

水鏡という名前を何度も口にしながら俺は部屋の中で想いをはせていた。

……

俺の母親がつけた妹の名前、それが水鏡だった。
俺はこんな大切なことまでも失ってしまっていたのか……

【一条】
「ごめん……俺は今まで忘れていた、大切な妹になるはずだった名前だったのに……」

【水鏡】
「先輩が悩むことはありません、全ては私の責任なんですから……」

隠されていた真実を突きつけられ、俺は過去を思い出した。
しかし、それは決して喜べる物ではなく、自らの浅はかさを呪う物でしかない。

【一条】
「だけど、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?」

【水鏡】
「私が真実を話したとしても、それはきっと先輩を苦しめることにしかなりません。
私の存在そのものが嘘であるうちは、先輩に迷惑はかけたくなかった……」

【一条】
「水鏡……」

【水鏡】
「……いけません」

思わず水鏡を抱きしめようとして止められる、水鏡は俺とのふれ合いを拒絶していた。

【水鏡】
「私が先輩に甘えてしまってはいけません、先輩には宮間先輩が一番相応しいんですから」

伸ばした手をグッと握って水鏡へのふれ合いを押し留める、俺の行為を水鏡は決して喜びはしないから。
押し留めた手から伸びる影法師だけが水鏡に触れていた、既に空の色は赤く染まっている。

【一条】
「ごめん……俺は今水鏡に弱みを見せちゃったな、こんなんじゃ兄失格だよな」

【水鏡】
「そんなことはありません、先輩はこの世でただ1人の私の兄なんですから」

【一条】
「駄目な兄貴で悪かったな、それにしても……奇跡って起こるんだな」

【水鏡】
「奇跡……ですか?」

【一条】
「そう、俺は絶対に会うことのできないと思っていた妹に出会うことができた、これが奇跡と云わずになんて云うんだ?」

【水鏡】
「これは奇跡なんかじゃないですよ、これは私のわがままが作り出した嘘なんですから」

水鏡の言葉がいまいち理解できない、だけど今はそんなことは気にならない、妹に会えたことを喜ぶだけだ。

【一条】
「それで、まだ1つわからないことがあるんだ、あの曲のことなんだけど
あの曲の名前、水鏡ならわかるよね」

【水鏡】
「……コクン」

【一条】
「教えて……もらえるかい?」

【水鏡】
「……わかりました」

一呼吸の間をおいて、水鏡は告げる。

【水鏡】
「……LOVE SONG」

【一条】
「……え!」

驚いた、水鏡の言葉に驚いたのではない、手にしていたオカリナに違和感を覚えたから驚いた。
手の中でオカリナが少しだけ、ほんの少しだけど暖かくなっていた。

【一条】
「こ、これは……」

オカリナを見てまた驚いた、オカリナが薄っすらと光を放っていた、それはとても不思議な光。

【一条】
「水鏡、これってどういう……」

三度目の驚き、オカリナから水鏡へと移した視線の先。
水鏡の体がぼやけている、ぼやけているというよりは薄くなっている、存在するはずの体が透け始めていた。

【一条】
「その体……どうして……」

【水鏡】
「先輩は……全部思い出したんです、私が存在している意味はもう要らないんです」

【一条】
「存在する意味が要らないってどういうことだよ」

【水鏡】
「聞いたそのままの意味、これが私の嘘なんです……嘘は、もう必要ないですから」

【一条】
「そんな、そんな莫迦な説明で納得なんかできるかよ!」

思わず声を荒げてしまう、それはこの先の結末をなんとなく自分の中で予測してしまっているから。

【水鏡】
「大丈夫です、今の先輩には宮間先輩がいるじゃありませんか、嘘が要る必要はもうありません。
私は、先輩が思い出してくれただけで幸せです、だから先輩もそんな悲しい顔をしないでください」

【一条】
「こんな時に、笑える訳無いだろう……」

【水鏡】
「先輩、笑ってください……そうでないと、私も悲しいじゃないですか」

本当は自分が一番悲しいはずなのに、なのに、水鏡の顔はとても達成感に満ちた顔をしていた。

【一条】
「どうして、どうしてそんな顔ができるんだよ、お前はもう……」

【水鏡】
「私は目的を達成できましたから、先輩が幸せになれたのなら私はそれだけで満足なんです。
それに、私にはずっと前からわかっていましたから、先輩とは、別れの時が必ず来ることを……」

【一条】
「俺が幸せになれたらだって、だったら水鏡、お前がいなくなったら俺は幸せを失うことになる」

【水鏡】
「私を忘れてしまうほど、宮間先輩が先輩のことを支えてくれます、自分を心から愛してくれている人に。
先輩は向き続けてください、これは私の最後のわがままです……」

【一条】
「水鏡……」

止めることなどできない、徐々に薄れていく水鏡の体が心に突き刺さる。

【水鏡】
「私はとても幸せでした、少しの間だったけど、先輩と同じ時間の中を過ごすことができて。
先輩と宮間先輩に、たくさん想い出をいただきましたから、もう十分すぎるくらい私は幸せです」

【一条】
「十分なんて、そんな悲しいこと云うなよ……」

俺の眼にはもう涙が溜まっていた、妹の前で俺はもう何度泣いたことだろうか……

【水鏡】
「もう時間です、嘘は必ず正されなければならないんです、先輩……」

これまで達成感に満ちていた水鏡の顔にも、涙の雫が光っていた。

【水鏡】
「本当に、大好きでした……兄さん」

【一条】
「水鏡!」

手を伸ばしてももう遅い、水鏡の姿は初めからそこには存在していなかったかのように世界と同化する。。
眼に涙を溜めたままの笑顔、水鏡が最後に見せたのはそんな表情だった

【一条】
「水……鏡……」

地面に膝を付き、握った拳の上には大粒の涙が零れ落ちる。
夕日に照らされた涙はまるで血を流しているような、そんな風に見えるほど世界は真っ赤に染められていた……

……

【萬屋】
「定刻六時、送還完了……」

懐中時計は6時を指した時点で止まってしまった、それはもうこの時計の役目が終わったことの証明でもあった……





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