【4月16日(水)】


【一条】
「頭が……痛い……」

頭がガンガンする、理由など百も承知、昨日の宴会のせいだ。
よりによって2日も連続で酒盛りをする羽目になるとは、俺はいつからこんな悪い子になったんだろう?

……廓に出会った日からじゃないかな?

【某】
「人を悪の病原体みたいに云うな!」

【一条】
「うわ!」

頭の中で考えていた人物の声がして辺りを見回す、ところがそこにその人物は存在しなかった。

【一条】
「あいつ、また……」

またしてもあの男は俺の思考の中に突っ込みをいれた、あいつ使い魔でも持ってるんじゃないだろうな?
あいつなら持ち前の邪念で使い魔の1匹や2匹持ってても不思議じゃないけど……

【美織】
「おはよー!」

【一条】
「!!!!!」

耳元で大きな破裂音がする、耳からはいっていった音が病んだ脳を攻撃しながら通り抜け、反対の耳から音は逃げていった。

【一条】
「ピクピクピクピク……」

【美織】
「ちょ、ちょーっと大丈夫、もしかしてまたおかしくなっちゃったの、どうしよー」

あまりの衝撃音に俺の体が動かない、美織のやつ耳元でおもいっきり大きな声で挨拶しやがった。
普段ならまだクラクラするぐらいですんだだろうさ、でも今日の俺は二日酔いなんだぞ。

朝の目覚ましですら俺の頭を攻撃してきた、あれには正直殺意を覚えた。
まぁあの目覚ましももう俺に牙をむくことは無い、短い間だったが楽しかった……のはお前だけだよな。

二度とあいつが動くことは無い、背中を開けてギアを2、3個捨ててやった、ざまみろ。

【一条】
「おーまーえーはー……」

体に自由が戻ってくる、ゾンビのようなゆっくりとした動作で俺は起き上がる。

【美織】
「あー、よかった、このまま動かなくなったらあたしのせいになるところだった」

動かなくなったらって、勝手に殺すんじゃない、しかも死んだらそのまま逃げる気だったな。

【一条】
「……」

【美織】
「どうしたのよ、早く学校行かないと遅刻しちゃうわよ」

美織は何の罪悪感も持っていないようだ、俺は死にかけたんだぞ。
この女に俺は天誅を下してやらねばならなそうだ、殺しかけた恨み……晴らさせて貰いましょう。

【一条】
「るらぁー!」

【美織】
「へ? どうしたのって、きゃぁ!」

後ろを向いていた美織を羽交い絞めにする、いきなりのでき事に美織は悲鳴を上げた。
腰と首の下に腕を回して美織の動きを封じる。
これは羽交い絞めっていうよりむしろ抱きついてるっていった方がいい。

いきなり後ろから女学生に抱きついて、俺は変態だな……(泣き)

【美織】
「ちょっと、いきなり抱きついてなんなのよ、放しなさいよ!」

ギャーギャーと喧しく騒ぐ、これ以上騒がれたら本当に逮捕されかねない。
急いで天誅を実行することにする、しかし……何をしたら良いだろう?

俺の眼の前には美織の頭、右側の耳が髪から出ているのが眼にはいった。
耳が出ているんだったらやっぱりあれだよな……

美織の右耳に息を吹きかけてやる、これは誰でも背筋がゾクゾクして気分悪い。

【美織】
「や……はふぅ……」

妙に色っぽい声を上げて美織の体から力が抜け、その場に腰くだけになる。
何か妙に顔が赤らんでいるけど、風邪でも引いてるのか?

【一条】
「急がないと遅刻するぞ、美織ってば結構色っぽい声出すんだな」

【美織】
「色っぽいって……マコー、待ちなさーい!」

顔を真っ赤にしながら美織が立ち上がる。
やば、かなり怒っている、あれは誰でもされれば怒るよな、つかまったら……

つかまるわけにはいかないな、美織の怒鳴り声を後ろに聞きながら学校まで全力疾走する。
幸いにも俺の方が美織より足が速い、でだしも俺の方が早かったから負けることはない。
負けることはないんだけど……

……

【一条】
「駄目だ……」

学校についたとたん嘔吐感とめまいに襲われる、今日は二日酔いだったことを忘れていた。

よろよろとした足取りで階段を……昇れない。

階段の一段一段が凄く高く見える、二日酔いの朝は皆こんな感じなんだろうか?
手すりにつかまって一段目に足をかける、が、体は階段を昇ってくれない。
まずいぞ、一段も昇れない、これじゃ教室につくまでに一時限目が終わってしまう。
それよりも美織がもう間近に迫ってきているんだ、どうにかしてこの場から逃げなくては。

【一条】
「……死ぬ」

どうやら俺の胃腸に限界が迫ってきているようだ、さすがに階段でするのはまずい。
重い足を動かして一番近い特別棟のトイレに移動する、普段なら3分とかからない距離だというのに。
今日はその距離が恐ろしく遠い、1歩1歩も足枷でもつけているかのような重さだ。
3分の距離を10わかけて移動した、扉を開けると俺の胃腸が限界に達した……

……

【一条】
「間に合った……」

トイレから出て特別棟の廊下に腰を下ろしてしまう。
動けない、二日酔いがここまで恐ろしいものだとは思わなかった。
授業開始まではまだ15分残っているからしばらく休んでいても大丈夫そうだ。

【一条】
「教室に行ったら美織がいるんだよな……」

教室に行かなければ欠席扱いになる、かといって行くと鬼神のような美織が俺を待ちかまえている。
どっちを選んでも俺に天国は無いんだよな……

どちらの地獄の方がリスクが少ないか……教室に行く方が良いか。

さすがに一時間逃げおおせてもその後の未来が前者には無い。
多少の傷は覚悟のうえだ、美織でも俺を殺ったりはしないだろ。

【一条】
「だけど、もう少しこのままで……」

気分が回復するまでとは云わないがせめて少しでも命を永らえさせてくれ。

【美織】
「何がもう少しなのー?」

ビクっと心臓が止まるかと思うほど驚いた、特別棟の影になった階段の方から美織が現れた。

【一条】
「やば……」

逃げたい、逃げたいのだが体が逃げさせてくれない、頭も俺に逃げるなと信号を送っているようだ。

【美織】
「さっきはよくもやってくれたわねー」

美織が俺の正面に仁王立ちしている、顔はいつもと違った険しい顔をしていた。

【一条】
「や、やぁ……どうしてこんなところに?」

【美織】
「そんなの決まってるでしょ、あんたを探しにきたのよ」

待つのではなくそちらから来ましたか、行動派だな。

【一条】
「俺に、何か用でもあるのか?」

しらばっくれてみる、俺を探していた理由なんて1つしか思いつかない。

【美織】
「しらばくれるんじゃないわよ! さっきはよくもあたしに耳に息吹きかけてくれたわね」

ひぃー怒ってる、眼も口も笑っているのに、頭の片隅に怒りマークでも出ているかのような怒り方だ。
この場合は一番質が悪い、後々までねちねちと引きずるんだよな。

【一条】
「悪かったって、そっちは俺を死なせかけたんだぞ、おあいこだろ」

【美織】
「おあいこですってー、あたしを腰くだけにしておいておあいことはなんだー!」

美織が怒鳴るたびに俺の頭の中で爆弾が起爆する、これは拷問と同じだ。

【一条】
「ぐぅぅぅぅー、た、たのむから、もう少し声のボリュームを……」

【美織】
「責任取りなさい、責任ー!」

ボリュームを落としてくれと云おうとしたのに、今までで一番大きな声で怒鳴りやがった。
頭がキーンとなる、頭の中でジェット機が飛び立った。

【一条】
「頭……割れる……」

【美織】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……頭が……何だって?」

【一条】
「頭痛い、二日酔いで、ガンガンする」

【美織】
「は? 二日酔い?」

美織が俺の顔に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。

【美織】
「うぁ、お酒くさーい、未成年のくせにお酒飲んでいけないんだー」

【一条】
「全部……廓のせいだ……」

【美織】
「某はほんっとにお酒好きね、あいつに飲まされたんだ」

こくこくと頷く、もう声を発するのも面倒だ。

【美織】
「それで朝から調子悪かったんだ、某のやつお酒強いから対抗でもしたの?」

【一条】
「あいつらに酒で勝つのなんか不可能だ……」

【美織】
「あいつらって勇もいたんだ、まぁあの2人はかなりの酒豪だから張り合うのは無理かもね。
なにも二日酔いになるまで飲まなくても良いのに」

【一条】
「飲まないと廓がからむんだよ……」

【美織】
「あいつらしいわねー」

そう云うと俺の隣に美織も腰を下ろした。

【美織】
「どうせ二日酔いで動けないんでしょ、あたしが付き合ってあげるわよ」

【一条】
「止めておけ、俺の近くは酒臭いだろ」

【美織】
「いいのよ、こんなマコめったに見られるもんじゃないんだから」

珍し物見たさに俺に近づかないでくれ、今の俺はいつ崩壊するかわからないんだぞ。

【美織】
「二日酔いになるまでってどのくらい飲んだのよ?」

【一条】
「グラスに3杯……」

【美織】
「3杯ってちっとも飲んでないじゃない、お酒弱いんだ」

【一条】
「昨日は3杯……一昨日は4杯……」

【美織】
「学生のくせに2日続けてお酒飲んでたの、呆れた……」

【一条】
「だから……全部廓のせいなんだよ……」

考えてみたら呆れられて当然だ、あいつ(廓)は飲兵衛親父か。

【美織】
「でも、マコ変わったよね」

【一条】
「どんな風に変わったっていうんだよ?」

【美織】
「マコ、すごい楽しそうに喋ってる」

【一条】
「そんな風に見えるのか?」

【美織】
「うん、前のマコは何か話しててもどこか寂しそうだった、だけど今は凄い楽しそうに話してるの。
何があったのかはわからないけど、あたしにはマコが活き活きして見えるのよね」

【一条】
「活き活きして見えるか、それは美織たちのおかげだよ」

【美織】
「もぅ、茶化さないの」

美織は笑っている、その顔が少し赤くなっていたのを俺は気付けなかた……

……

時間ギリギリまで休んだおかげで少しは楽になった。
だけど俺1人の力では教室まで行くところまでは回復しなかった。
しかたなく美織に肩を貸してもらって教室まで向かう、男が女に肩を借りるなんて恰好悪いな。

【一条】
「悪いな、何から何まで」

【美織】
「気にしない気にしない、まあ借り1つってことで」

教室にはいると自分が情けなくなる、女の子に肩借りてでもしないと自分の席までいけないもろい体……

【某】
「一条、美織おはよーさん、どうしたんや今日は? えらい一条ボロボロやんけ」

【一条】
「二日酔いだよ……お前のせいでな……」

【某】
「あーそっか昨日のことか、しかしあれぐらいで一条あかんのかい、酒弱いなー」

俺は確かに強くは無い、だけどお前は異常だ、俺の倍以上飲んだくせにけろっとしてやがる。

【美織】
「あんまりお酒飲んじゃ駄目よ、某も無理やり勧めない」

【某】
「いやー、美味い酒は大勢で飲む方が楽しいやん、せやろ一条?」

【一条】
「楽しくない、お前と飲むのは楽しくない……」

【某】
「一条のイケズー、ほんまは楽しくてたまらんのやろ、このこの」

こいつに何云っても駄目だ、自分にプラスになることしか考えてない。
だけど、そんな風に生きられる廓が時折羨ましく思う……

……

「昼飯はサラリーマンにとって喜びと落胆の時間である」

とかいうのをどこかで聞いたことがある。
喜びは昼休みにはいって楽な時間がとれるということ。
落胆は昼食を食べるには金がかかる、何を食べるか財布と相談するのは少し物悲しいことである。

それは学生だって同じことだ。

【一条】
「食堂に行くには少し財布が寂しいな、かといってまたパンを食うのもなんだな」

昼食を何にするか決まらない、食堂で食べるとそれなりの出費になるけど胃も満足できる美味い食事ができる。
パンを食べると出費はかからないがいい加減パンばかりの生活も飽きてきている。
さて……どちらにしたもんか?

【某】
「一条ー、飯食いに行こうや」

【一条】
「廓、お前今日は何を食べる?」

【某】
「今日は学食や、久しぶりにトンカツ定食でも食うたろと思うてな」

トンカツ定食、今日は豪勢な物を食べるんだな、トンカツは育ち盛りの学生には栄養満点で良い食べ物だと思う。

……あ

トンカツで思い出した、俺の今日の昼食は既に決まっていたんだった。

【一条】
「悪い、今日は飯食べられそうにないんだ、1人でトンカツ堪能してきてくれ」

【某】
「そか、んなら行ってくるわ、待っとれよ愛しのわいのトンカツ!」

それほどまでにトンカツに愛着でもあるのか廓は食堂にとんでいった。

【一条】
「トンカツ……ぐふ」

考えただけで胃がぎゅるぎゅると不快な音をたてる、胃が俺の思考に反発している。
忘れていたが今日は二日酔いだったんだ、飯なんか食べられるわけがなかった。
昼食を食べることができない、だとするとすることは1つしかない。

……

相変わらず人気の無い空間に出る、暇な時は屋上、もう刷り込まれた行動にもなってきている。
西側には誰もいなかったが東側には2人の女の子の姿があった。

【美織】
「マコー、こっちこっち」

美織がブンブン手を振って呼んでいる、その隣にいるのは音々だ。

【美織】
「どうしたの、もうお昼終わったの?」

【一条】
「昨日のことが引きずっててまだ食事はとれなそうだ」

【美織】
「あーあ、ま、自業自得よね」

【音々】
「あの、昨日何かあったんですか?」

音々が何のことだかわからないといった感じで訊ねてくる。

【美織】
「マコのやつ今日は二日酔いなのよ、昨日いっぱい飲んだんだってさ」

【音々】
「誠人さんお酒飲むんですか、あまり良いことだとは云えませんね」

ごもっとも、未成年の飲酒は許可されていないんだからあまりどころか完全に良いことだと云えない。

【一条】
「2人とも酒は飲まないの?」

【美織】
「あたしは飲むわよ、勿論1人でじゃないけど」

【音々】
「私も少しだけでしたら飲めますけど」

【一条】
「なんだ2人とも飲むんだ、特に音々が飲むって云うのは意外だったな」

【音々】
「意外……ですか?」

【一条】
「音々は酒って云うよりもむしろ紅茶とかの方が似合ってると思ったからさ」

【音々】
「あら、私だって少しはお酒飲むんですよ、ですがやはり紅茶とかの方がよく飲みますね」

【美織】
「ちょっとー姫だけなの、あたしは意外じゃないって云うの?」

【一条】
「お前はイメージ通りって云うか、なんと云うか、別に酒飲んでても不思議じゃないなって」

突如頭の中に一升瓶を抱えた美織の姿が思い浮かんだ……似合っている。

【美織】
「あたしを某みたいな飲兵衛親父と一緒にするなー!」

美織が俺の首を絞めにかかる。

【一条】
「美織……苦し……首……し……絞まってる」

【美織】
「訂正しろー!」

訂正したくても首が絞まってるせいで声が出せない、というかマジで死ぬって。

……

【一条】
「はぁ、はぁ……まったく、少しは落ち着けっての」

首締めから開放されるとその場に仰向けに倒れた、ちょうど体が大の字になっている。
仰向けになった頭上には澄み渡った空が広がっていた。

【美織】
「ご……ごめん……」

【音々】
「ふふふ、お2人は仲がよろしいんですね」

あれは仲が良いというよりは俺が一方的にやられているだけであって決して仲が良いわけじゃない。
音々も楽しそうに見てないで助けてくれれば良いのに。

【一条】
「それにしても……良い気持ちだ……」

【美織】
「なんなのマコ、あんたマゾ?」

以前俺も廓に同じ様なことを云ったな、云われると無性に腹が立つ。

【一条】
「違う! 空だよ、空……」

【美織】
「空……?」

美織と音々も同時に空を見上げた。

【一条】
「ここの屋上ほとんど人気が無いせいかいつでも静かだろ、この空間にはほとんど外の雑音が届かない。
しかもここは学校で一番高い、一番空が近い場所だ、こうして見ると俺はこの空を独り占めしている気分だ。
空と一体化する、雑音の存在しないこの空間ならではの効果、気持ちが落ち着くんだよな……」

【美織】
「へー、マコらしくないこと云うわね」

どういう意味だと反論しようとしたがそれすらもこの空の中では莫迦らしくなる。

【音々】
「誠人さんは詩人ですね、まるで空の落とし子みたいです」

【一条】
「空の……落とし子……」

俺はことあるごとに空を気にしていた、何も無い空に俺は何を思っていたのか……

それにしても、音々の方が詩人にぴったりなんじゃないかと俺は心の中で思っていた。

……

毎日毎日この時間になると本当に暇だ。
部活でもやれば暇じゃなくなるんだろうがあいにく部活に入る気はさらさら無い。
しかたなくまた屋上に行くことにする。

もうこの屋上に来るのも何回目だろう、学校での俺の居場所はもう屋上といっても良いかもしれない。
屋上に繋がる鉄扉を開いて屋上におどり出る。
そこはいつもの屋上とは違っていた、いつもの静寂を産み出す屋上の空気じゃない。
重く、全てを避けているようなそんな空気だった。

その空間を作り出しているのはただ1人の少女、水鏡の存在だった。

【水鏡】
「……」

西側の手すりに体をあずけて街の方を見ていた、屋上に現れたもう1人の存在には気付いていないようだ。
息が詰まるようなというのはまさにこの状況だ、この場を去りたい、それなのに体はそれを許してくれない。
その場に立ち尽くしたまま時間だけが確実に進んでいた。

【水鏡】
「……」

水鏡がこちらに振り返り来客の存在を知る、驚いたような顔を一瞬だけした。

【水鏡】
「……何か御用ですか?」

突然の問いに答えをすぐ返すことができなかった、それどころか水鏡に用があるわけじゃなかった。

【一条】
「用は……無いさ……ただオカリナを吹きに来ただけだ」

水鏡の視線を後ろに浴びながら給水塔のハシゴに手をかけた。

【水鏡】
「……待って」

【一条】
「……何か?」

【水鏡】
「ここで……吹くことはできない?」

【一条】
「ここでって、給水塔の上じゃなくて屋上でってこと?」

【水鏡】
「……コク」

どういうことだろう? どうして給水塔の上じゃなくてここでなんだろう?
少々疑問に思ったが別に給水塔の上じゃなきゃ駄目ってわけでもないのでここで吹くことにする。

【一条】
「別にかまわないさ……」

足が自然に水鏡の方へと向かう、内なる獣が眼を覚ましたりしないだろうか?
もしかすると足が自然に動いてるのもう獣に操られているのだろうか?
足を止めようとしても足は止まらなかった、俺は水鏡の横に体を持ってきた。

……どうなる……

ポケットからオカリナを取り出して口にくわえる。
良かった、どうやら獣は目を覚まさなかったようだ。

そうとわかるとオカリナから産声が上がった、いつもと何も変わらないおなじみの曲。
眼の前に広がる街を眺めながら音楽は紡がれていく、やがて俺の眼から光が消えて薄暗い世界へと変わる。
瞳を閉じるだけで音の聞こえ方が違う、音の細やかなところまで感じ取ることができる。
視力を失った人が他の五感が敏感になるというのはあながち嘘でもなさそうだ。

曲が終わると同時に眼を開く、横にはまだ水鏡の姿があった。

【水鏡】
「……」

水鏡が首を左右に振っている、2、3回首を振ると水鏡はそのまま屋上を後にした。

待って!

またしてもその言葉が出てこなかった、水鏡と少しながらでも会話を交わすことができたというのに。
その一言はどうしても出てこない、俺はどうしたっていうんだ?

1人残された寂しさの象徴ともいえる屋上で、俺は1人佇んでいた。
もうそこに、重い空気は存在していなかった……

……

校舎を出ると僅かながら空には赤みが射していた、結構な時間屋上で立ち尽くしていたようだ。

1人の帰り道、考えることは水鏡のことだ。
水鏡は何について首を横に振ったのだろうか? 俺の曲に何かおかしなところでもあったというのだろうか?
だとすると水鏡はあの曲のことを知っていることになる、しかしそれはおかしい。
水鏡は昨日も俺のオカリナを聞いている、知っているなら昨日の時点でそのことについて触れるはずだ。
それなのにそのことに触れなかったということは水鏡はあの曲のことは知らない。

頭の中でいくつかの疑問が無限ループを始める。
1つの疑問を解こうとすると違う疑問にぶつかり、違う疑問を解こうとするとまた違う疑問にぶつかる。
最後の疑問を解こうとしても結局最初の疑問にぶつかってしまう。
終わりの無い迷路をただひたすら歩き続けるような不思議な気分になる……

……

来るつもりも無かったのに俺の足は商店街へと向いていた。
正確には商店街ではなく、商店街とは真逆、以前俺が迷子になった道を歩いている。
何故そこを目指しているのか理由はわからない、しかし足は確実にそこを目指している。
俺の足は何かに導かれるように、そこで確実に何かが起こることをわかっているかのような確かな足取りで。

足は目的の場所を目指した。

……

街からどんどん離れていく、目的地の正確な場所を俺は知らない。
けれど、足は確実に前へ前へ動いている。
公園脇の小道を抜けるとそこに広がる光景はあの日の夜と同じ物があった。
違うとすれば夕方と夜の違いぐらいしかなかった。

【一条】
「へぇー、こんなところにあったんだ、よく足が覚えてたな」

広がる土手、流れる川、吹き抜ける風全てがあの日の夜と同じだった。

ここってもしかして廓と二階堂が二度に渡って激戦……訂正
二度に渡って廓が無残にもやられた現場じゃないのだろうか?

川原を見下ろすと川の近くに人影が1つあった。
地面につく位の長い髪を垂らした人影、同じ学校の制服を着ている。
あの髪から俺が感じ取れる人物は1人しかいない。

……水鏡だ

時折吹く風に水鏡の長い髪が波を打っている。
後ろから見る背中が嫌に寂しげに見える、さっき屋上で見た時と同じように

全てを避けているような空気がその場にもできていた。
水鏡はじっと川の流れを見ていた、川の近くに立ちただひたすら川の方向を見ていた。

本当に川を見ていたのかはわからない、川の音を聞いていたのか
はたまた夕暮れの僅かな間の世界を楽しんでいたのかは本人だけが知ることだ。

【一条】
「……」

水鏡には色々と聞きたいことがあったはずなのに、今の水鏡には声をかけることができない。
水鏡の周りに広がる空間が屋上の物とは明らかに感じが違っていた。
より強く、より重く、その空間の空気は全てにおいて屋上の時を凌駕していた……

【水鏡】
「……」

川を前に水鏡は立ち尽くしている、俺にはそれを見ていることしかできなかった。
足を動かして水鏡の元に行こうにも俺の足は全く動かない。
ここに来るまでの足と同じ足だとは正直思えなかった。

動くのは視線だけ、以前みたいに水鏡に視線を奪われることは無いようだ。
視線をずらしてみると川原の上に俺と同じように水鏡を見つめている男の姿があった。

なんか見るからに普通の男には見えない。
焦げ茶色のロングコートを羽織って黒いフリースを着ている、さらには帽子を眼深に被ったいかにも怪しい恰好の男だ。
変質者か、もしくはあちらの世界の人にしか見えなかった……

【?】
「……」

男はじっと水鏡だけを見ていた。
水鏡と何か関係のある男なのだろうか?

……知りたい。

水鏡から視線を逸らすと足が自由に動くようになっていた、俺は戸惑うこと無く男の元に向かった。

【一条】
「あの……」

おそるおそる男に声をかけると男がこちらに振り返った。
眼の下にクマができていて、顔も骨張った少し怖さを覚える顔をしていた。

【?】
「……何だ?」

男の声はかなり低く、ドスの効いた声をしている、きっとあっちの世界の人なんだろう。

【一条】
「さっきからずっとあの子見てますよね?」

【?】
「……」

【一条】
「水鏡と何か関係があるんですか?」

【?】
「関係か……表面上は無い」

【一条】
「表面上? どういうことなんですか?」

【?】
「……君に答える必要があるか?」

【一条】
「……いえ」

【?】
「無闇やたらに散策するのはいただけないな」

【一条】
「……はい、すいません」

【?】
「まぁ、そんな気になるのもわからなくは無いがね、一条 誠人君」

【一条】
「……え?」

男は踵を返して俺の元から去っていく、男は去り際に水鏡の方を指差した。
指差した方を向くとそこにはさっきと変わらない水鏡の姿があった。
首をかしげながらもう一度男の方を向いた。

……そこに男の姿は無かった。

一瞬のでき事、時間にしたら5秒程度ではなかろうか。
その僅かな時間に男の姿は無くなっていた。
この川原は見通しが良い、5秒やそこらで姿を消すことは不可能だ。
しかし、その不可能が俺の前で現実に起きている……どうやったんだろう?

【一条】
「それよりも……」

それもおかしなことだがそれ以上におかしなことが俺にはあった。

あの男、どうして初対面の俺のことを知っているんだ?
勿論俺は名乗ってなんていない、記憶を失う前にもしかしたら知り合っているのかもしれない。

……いや、それは無い

記憶を失ったのはこの街じゃない、以前住んでいた街なんだから。
あの男は俺の頭に2つの謎を植え付けたまま消えてしまった。

水鏡は変わらずその場にいるが今の水鏡に近づくことはできなそうだ。
あの寂しそうな背中にかける言葉が今は見つからなかった。
頭に大量の謎を抱えたまま、俺は家に帰ることにした。

……

夕食を済ませた後も今日は大量の謎に悩まされている。

1つは屋上での水鏡の行動、あの時何故水鏡は首を横に振っていたのか?
他にはあの男のことだ、全てがおかしなあの男、あの男は何者なのか?
水鏡と関係があるのか? 何故俺の名前を知っていたのか?

ヒントの一切無いパズルを夜通し俺は組み立てていた。





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜