【4月15日(火)】
とぼとぼと歩く道がやけに広く感じてしまう。
道はいつもと同じはずなのに、何故か俺の眼と感覚はこの道を広い物と認識してしまっている。
何故こうなってしまったかは云うまでも無い、全て昨日のことが原因だ。
できることなら人に会いたくはない、そんな中でこの道が広いと感じられるのは好都合だった。
こんな怪物を野に放してしまって良かったのだろうか、しかし、今の俺にはそんな判断さえもつかない。
あんなことがあった後では、誰もまともな考えをできるとは思えないな……
……
【美織】
「マコ、お早う」
学校に行く途中で美織に出会う、もしかして俺は美織にも……
【一条】
「……お早う」
【美織】
「昨日の気分は良くなった?」
驚いてしまう、何で美織が昨日のことを知っているんだ?
そうだとしたらその質問はあまりにも残酷すぎる。
【一条】
「もしかして美織、昨日のこと……」
【美織】
「もしかしてじゃなくても昨日のことよ、昨日の屋上のこと」
ああそうか、昨日の俺は屋上でもおかしくなったんだ。
その屋上の現場に居合わせたのは紛れもない美織だった。
【一条】
「屋上のことか、そのことはもう大丈夫だ、それよりも昨日は悪かったな」
【美織】
「気にしない気にしない、私も授業サボれて楽しかったし」
【一条】
「そういう理由で付いて来たんじゃないだろうな?」
【美織】
「いやーねー、そんな訳無いじゃない、先生が昨日は休みだったのは知ってたけど」
【一条】
「休みだったって、それは確信犯って云うんだぞ」
昨日は先生が来るまでとか云っておきながら、元々来なかったんじゃないか。
【美織】
「某と同じみたいに云わないでくれる、保健室に行ってから思い出したんだから
でもまぁ、結果的には確信犯みたいになっちゃったわね」
てへへと悪びれる素振りも無く笑う。
俺の中にもう1人の俺は体の中で何を思っているのだろう?
美織をいたぶり、上げる叫び声に身を震わせて歓喜している、そんな俺を想像するのが俺には怖かった。
普段はまともな振りをしているくせに、ある場面になったら俺は本性を表す。
卑怯者で、悪質で、自らの欲望を満たすためには他人の犠牲など考えない。
欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望、欲望
頭の中に嫌な言葉が響く、もう1人の俺が俺に向かって云っているのだろうか……
「これは、お前の願望なんだよ……」
はっきりとした言葉で俺の頭の中に声が響く、もう1人の俺が俺の気持ちを代弁しているようだ。
やめろ……やめろ……やめろ……やめろ……もう、やめてくれ!
頭にズキズキと痛みが走る、頭をハンマーで殴られたような鈍い痛みだ。
【一条】
「うぅぅ」
頭を抱え込んでその場に屈み込んでしまう。
声は止んだはずなのに、その声は植物のように俺の頭に種を残していった。
【美織】
「ちょ、ちょっと大丈夫、また頭痛むの?」
……
マコが頭を抱えて苦しそうな声を上げている、あたしにはどうすることもできない。
あたしにできることはマコのことを心配することだけ、それはあたしにもマコにとっても無意味な行為でしかない。
それでもあたしはマコを気遣った。
【美織】
「まだ学校始まるまで時間あるから落ち着いてから行こっか」
【一条】
「先に行ってくれて構わない、いつ気分が戻るかわからないから、もしかしたら今日は行かないかもしれない」
【美織】
「そうなったらあたしも付き合うわよ、行くにしても行かないにしても1人じゃなにかと不便でしょ」
【一条】
「……すまない、お前には迷惑かけてばかりだな……」
迷惑、とんでもない、むしろあたしは嬉しいんだ、あたしを頼ってくれる人がいる。
でもそれは言葉にすることはできない、それはとても恥ずかしいことだから。
朝の風景の中、こんな朝があたしにあっても良いと思う。
【美織】
「たまにはこんな朝もい……あ、あれは
マコ、こんなところで屈み込んでないで、あそこのバス待ち用のベンチで休もうよ。
あそこなら今の時間は日陰になってるからここより回復も早いと思うよ」
あたしはマコを日陰の場所まで連れて行く。
勿論これはとっさに思いついた回避策、あたしの眼が見てしまったものからマコを遠ざけるための。
あたしの視線の先には昨日の屋上にいた少女がいた、マコを一時的におかしくしてしまった少女。
今この場でマコと彼女を鉢合わせるのはきっと終わりを意味する。
幸いなことに少女はこちらに気付いていないしマコも何の疑いも無く日陰まで移動してくれる。
【美織】
「日向にいるよりは幾らかましね、待っててあたし冷たい物でも買ってくるから」
ベンチにマコを座らせてから自動販売機で飲み物を買うことにする。
あたしは自分の判断でマコと少女の遭遇を断った、それが良いことだったのか悪いことだったのかはわからない。
でも、あたしはこれで良かったんだと思いたい、あたしが迷ってどうするんだ。
実行してしまったものはもう取り消せない、自分が行ったことには自信を持たなくちゃ。
飲み物を買ってマコの元に戻ると、マコは気持ち良さそうな顔で寝ていた。
【美織】
「こんなところで寝ちゃって、でもこんな朝は初めてだな……」
マコの隣に腰を下ろして眼が覚めるのを待った、2人の間を風が吹きぬける。
それはとても穏やかで、とても気持ちの良い風だった……
……
【某】
「一条、美織、お早うさん」
【美織】
「おはよ、うわー遅刻ギリギリね」
【一条】
「もっと早く起こしてくれればもう少し早く学校につけたのに」
【美織】
「起こしたわよ、それなのにマコが気持ち良さそうな顔してちっとも起きないんじゃない」
【一条】
「水でもかけてくれれば速攻で起きたさ」
【某】
「そうかそうか一条、昨日もよろしくやってたんやな」
【2人】
「はぁ?」
2人同時に聞き返す、よろしくってなんだよ?
【某】
「昨日あんまり気持ち良くなってもうたから今日の朝起きられへんかったんやろ。
そのぶんやとさぞ何回も挑戦したんやろうな、せやけど一条、ただやるだけやあかんぞ。
回数を重ねるごとにテクニックも磨かんとすーぐ女は飽きてしまうで」
そういうことね、つまりは昨日ヤッタんだろってことか。
【美織】
「な、な、な……」
俺は某のギャグだとわかっているが美織のやつはどうやら冗談に聞こえていないようだ。
【美織】
「なんてこと云うのよあんたはー!!」
顔を真っ赤にしながら廓を追い掛け回す、ご機嫌な廓と怒った美織の顔が対照的だった。
廓の顔は確かにご機嫌だ、でもなんだろう、その顔は全て偽りの表情のような気が俺には感じられた。
……
昼休み、今日も購買にパンを買いに行く。
【某】
「おーい一条、購買行くんやろ、今日はわいがおごったるさかい飯付きおうてんか」
【一条】
「お前がおごってくれるなんて、明日は隕石でも降るかもしれないな」
【某】
「たはは……せめて雨くらいにしてもらえると助かるんやけど」
【一条】
「雨でも隕石でもどっちも降らないほうが良いんだけどな」
【某】
「そりゃわいかて一緒やって、こんなアホな話ししとらんと早く購買行かんとええパン無くなるで」
2人で購買に向かう、今日は購買が比較的空いていた。
そのおかげで今日はハムロールと焼きソバを買うことに成功する。
占めて450円、廓様ありがとうございます。
【某】
「さてと、パンもこうたし、わいと昼飯付き合ってもらおうか、天気もええし屋上行こか」
……
屋上の扉を開けると雲1つ無い快晴の空が広がっている。
東側に行く前にちらりと西側に眼を向ける、今日は西側に人影は無い、安堵に胸をなでおろした。
【某】
「なんや西側に気になることでもあるんかい?」
【一条】
「いや、別に……何も無いさ……それより早く昼にしようぜ」
俺はベンチに腰を下ろすが廓は地べたに直接座った。
【一条】
「ベンチがあるんだからそっちに座れば良いのに」
【某】
「地べたの方が気楽やんけ、それにこんな空が近いのにベンチなんか座ってたら気分が萎えてしまうやろ」
それは一理ある、ピクニックに行った人がベンチなどで食事を採らないで川原の土手などに直接座って食べるのと同じ理屈だ。
俺も廓に習って地べたに座ることにする。
【某】
「何も同じにすることあれへんのに、それよりパン食お、もう腹減ってたまらんわ」
ガサガサとやかましく袋を破って中のパンにかぶりつく、豪快な食い方だ。
隣でパンをもそもそと食べている俺とは大違いだ、男はやっぱりああであった方が良いのかもしれない。
……
2人ともパンを食べ終わると廓は内ポケットから線香を取り出してライターで火をつける。
【一条】
「お前学校でも線香くわえてるのか?」
【某】
「当たり前やないけー、食後の線香一腹がものすご旨いんやないかい」
火のついた線香をくわえて誇らしげに語る。
【一条】
「でも学校でふかしてたら先生に見つかったりしたんじゃないか?」
【某】
「見つかったことあるで、せやけどセンセもどう云ったら良いかわからんみたいでな
ライター没収されただけで済んだわ」
そりゃ見つけた先生も困るよな、煙草吸ってると思って見たら吸ってるのは線香なんだから。
でもライター持ってるのばれたら普通停学になるんじゃないのか?
【一条】
「それで、俺をここに呼び出した理由は何なんだ?」
【某】
「ありゃりゃ、ばれとったか」
なははと廓が笑う、燃えて灰になった線香が先から落ちた。
【某】
「今日呼んだのは他でもない、お前の接し方のことや」
【一条】
「俺の……接し方……?」
【某】
「そうや、お前今日なんかわいに隠してないか?」
【一条】
「別に何も隠してないさ、お前にするような隠し事は無いよ」
【某】
「ほぉー、それは嘘や」
【一条】
「どこから俺が嘘をついているって思うんだ?」
【某】
「お前の態度を見とったらわかるわ、今日のお前は昨日とは違う先週までの一条に戻ってしまっとるんや
人と必要以上の関係を拒絶する、今までの一条にな」
【一条】
「……」
【某】
「何で戻ってしまったか、理由はあらかた想像がつくんやけど?」
【一条】
「……昨日の……ことだよ」
廓にはばれていたようだ、俺が前の俺に戻ったことを……
【某】
「やっぱりそうか、どうりで朝茶化してもなんかノリ悪いと思った」
【一条】
「廓……聞いて欲しいことがあるんだが……」
【某】
「わいで良かったらなんでも聞くで」
朝考えたことを、俺が出した俺なりの答えを廓に聞いてもらおうと思う。
そこで廓が俺を拒絶したとしても、俺に恐怖したとしても俺には決心がついていた。
【一条】
「自分なりに考えてみたんだ……昨日の……答えを」
【某】
「……」
【一条】
「俺はどうやら普通の人とは違うみたいなんだ、しかも俺は最低の人間のようだ」
【某】
「その心は?」
【一条】
「俺は昨日街で男たちをいたぶった、たとえそれが俺でないもう1人の俺だとしても、俺の体がやったことには変わりは無い
もう止めろ、止まってくれ、体に云い聞かせようとしたが駄目だった……いや、元々止める気なんて無かったのかもしれない」
【某】
「……」
【一条】
「俺は男たちをいたぶるのを楽しんでいた、自分の圧倒的な力に酔いしれた、こいつらはなんて弱いんだと……
俺は人間じゃない……怪物なんだよ」
廓は一言も喋らない、静寂の中に俺の声だけが音を生成する。
【一条】
「人を痛めつけて、その感触に酔い、相手のぶざまな姿に興奮を覚える、全うな人間は決してこんなことは考えないよな。
でも、それを俺は考えてしまったんだ、精神や思念全てが歪んだ怪物のような考えを……」
立ち上がり空を見上げる、快晴の空の色は俺の心の色と正反対の色をしている。
【一条】
「俺は……この世界に存在してはいけないのかもしれないな」
【某】
「!!!」
これが、俺が導き出した答えだった……
眼を閉じると辺りが真っ暗になる、今の俺の心はこんな色をしているんだ。
【某】
「一条」
廓の声に眼を開けて廓に向き直る。
バギィ!
【一条】
「がっはぁ!」
振り返った瞬間廓の拳が俺の頬をとらえた、以前見たのとは比べ物にならないくらいの衝撃を受け、俺は倒れた。
【一条】
「……廓」
【某】
「このドアホゥ!」
見上げると廓の拳は震えていた。
【某】
「自分は怪物だから存在してはいかんやと、甘ったれるな!」
【一条】
「……」
【某】
「人をいたぶって快楽を追及するのは確かにまともな人間の考えやあらへん。
けどな、普段のお前はそんなことを考えるやつとちゃうやろ」
【一条】
「……」
【某】
「お前とはまだ出会って少ししか経ってへんけど、普段のお前はあの時のお前と同じような考えをしてるとは思えん
もしいつでもそんなことを考えてるようやったらわいや勇がお前とつるむわけあらへん!」
【一条】
「でもな廓……これは現実なんだよ……」
立ち上がって廓と同じ目線になる。
【一条】
「俺はあの時相手をいたぶるのに快感を覚えた……
いつでもそんな考えをしていなくても、俺の奥底にはそんな考えが眠っている……
そしていつか、俺の中に眠っていた獣は牙をむくんだよ」
【某】
「せやったら、何でお前はその獣と戦おうとせえへんのや?」
【一条】
「……え?」
【某】
「獣が自分の体を支配する時、それに負けんように自分が強くなろうとか思わへんのか!」
廓の声はもう怒鳴り声になっていた、それは俺に対する失望を意味しているのだろう。
【一条】
「……それは」
【某】
「獣に白旗を振るのは勝手や、せやけどそれは考えられるありとあらゆる可能性を試した後で最後にすることや。
お前は獣に何もしないで白旗をもう振っている、それが何を意味するかわかるか?」
答えることができない、自分の口からそのことを云うのを怖がっている。
【某】
「お前は逃げてるんや、何の努力もせんとお前は獣から尻尾を巻いて逃げてるだけなんや。
そこを内にひめたる獣に心の隙間を与え獣の介入を許してしまっている
そんな人間が、この世界に存在してはいけないとはよく云えたのう!」
【一条】
「……」
【某】
「この世界に存在してはいけない、そんな悲しいこと云うなや、お前にはこの世界に存在する義務があるんやから」
【一条】
「俺が……存在しなければならない……義務……?」
【某】
「そうや……お前は存在せんければならんのや……お前を必要としてくれる人のためにな……」
廓の声は徐々に小さくなり、最後の方は聞き取るのも困難になっていた。
今気付いた、廓の拳が震えているのは俺に対する怒りじゃない、廓は……悲しんでいたんだ。
自分の存在を否定した俺なんかを……莫迦な男だな……いや、莫迦な男は俺も一緒か。
【一条】
「廓……1つ聞いても良いか?」
【某】
「……なんや……?」
【一条】
「お前は……俺のことを……必要としてくれているか……?」
【某】
「……あぁ」
廓の一言で俺の決心は完璧に固まった。
【一条】
「……ありがとう」
廓の問いに対して、俺は素直な答えを返す。
【一条】
「今すぐには無理かもしれない、だけど……きっといつか……俺は俺に勝つんだ……
こんな俺でも必要としてくれる人がいる限り……それがたとえたった1人だったとしても
俺は、俺であり続けなければならないな……」
【某】
「一条……」
次の瞬間廓が俺の頭を脇に抱えこんだ、ちょうどヘッドロックがガッチリと極まっている。
【某】
「さすが一条、それでこそ一条や、さすがわいが認めただけの男や
心配かけさせおってからに、このこのー」
だいぶ浮かれてやがる、しかもそのせいでヘッドロックがどんどんきつくなっていっているのに気付いていない。
【一条】
「廓……ちょ……いた……まじで……」
……
その後も少しの間廓に頭を極められたままだった、頭が万力で締め付けられるように痛いぞ。
【一条】
「頭がズキズキする、お前もうちょっと手加減したらどうなんだ」
【某】
「ははは、悪い悪いちょっと浮かれてもうたな、せやけど元はといえばお前が悪いんやぞ
わいらに何の相談もなく自分は存在しちゃならんなんて決めるんやから」
【一条】
「お前たちに迷惑かけてばかりじゃ悪いだろ、俺だっていい歳なんだから」
【某】
「くあぁーオッサンくさ、お前は何を水くさいこと云っとんねん、友達になんか相談すんのは当然やんけ。
子供だろうがオッサンだろうがそれは変わらんはずや」
【某】
「一条、考えて自分なりの答えを出すのは良いことや、せやけどそれが本当に正しいのかは誰にもわかれへん。
特に今回みたいなのは1人で全て抱え込んでしまうような難問や。
答えを出すのは自由や、せやけど、それを1人で抱え込んだまま実行するのは止めときや。
取り返しのつかんことになる可能性だってある、実行前に誰かに相談するのも悪くないと思うで」
廓の言葉がしみてくる、廓はこんな俺なんかのことを本気で心配してくれていたみたいだ。
朝の美織にしたってそうだ、俺の体を、俺のことを心配してくれる人間がいる。
少しでもそう思ってくれる人間がいる限り、俺は生きなければならない。
【一条】
「ありがとう……廓……」
聞こえないくらい小さな声で呟いた、涙声は聞こえては少し恥ずかしいからな。
【某】
「さってと、そろそろ午後の授業始まるさかいもどろっかの」
【一条】
「ああ」
戻り際、廓の背中におもいっきり平手打ちをする、上が裸だったらさぞ綺麗な紅葉ができ上がっていただろう。
【某】
「いったああぁぁー! 何すんねん!」
【一条】
「さっきのお返しだ、これでおあいこだな」
【某】
「きっさまー、待たんかーい!」
教室まで俺たちの鬼ごっこは続いた。
……
キーンコーン
1日の日程終了の鐘が鳴る、することもなく屋上を目指す。
屋上に出ると空は相変わらず雲1つ無い快晴の空、快晴の蒼に太陽の白が見事に映えている。
給水塔に登って街を見渡す、昨日あの少女が見ていたのと同じ風景だ。
……俺の方が若干風景を上から見ているか。
少女はこの街に何を見ていたのだろう、人には他人の心を読む力など備わっていない。
思っていることはその人本人にしかわからない、それが人間界のルール。
【一条】
「こんなことを考えるのは止そう……」
ポケットからオカリナを取り出して口にする。
昨日吹いていないせいかオカリナを吹くのが楽しく感じる、やっぱり毎日吹かないと落ち着かない。
眼を閉じて音に集中する、街の騒音も鳥の鳴き声も、風の音さえ俺の耳にはいってこない。
俺の耳に入るのは唯一、俺が奏でるオカリナの音色だけだった。
演奏を終え、家に帰ることにする。
そう思い俺が振り返った時、俺の眼の前にはいるはずの無い人物が立っていた。
俺を狂わせる、あの少女だった。
【少女】
「……」
いつからいたのいだろうか? オカリナに集中すると相変わらず周りが見えなくなってしまう。
少女は何も語らない、ただジッと俺を見つめていた。
毎度のことながら俺は声を出すことができない。
【少女】
「……」
何かを喋ってくれ、でないと俺の内にいる獣が牙をむいてしまう。
俺がこの場で獣に押しつぶされ、狂気に落ちてしまう前に俺から遠ざかってくれ。
逃げろ!
叫びたい、叫んで俺から離れるように促したい。
それなのに、俺の口からは言葉を発することができなかった。
俺の中に潜むもう1人の俺は今何を考えているのだろう?
少女をいかにしていたぶるか、そんな歪んだことしか考えていないんだろうか……
【少女】
「……音」
少女が何か言葉を呟いた。
【少女】
「綺麗な音」
綺麗な音、確かにそう聞こえた、綺麗な音って云うのは俺のオカリナの音だろうか?
【少女】
「でも……」
少しだけ、ほんの一瞬だけど少女はうつむいた。
【少女】
「……悲しんでる」
それだけ言い残すと少女は振り返り、給水塔を降りようとする。
【一条】
「……まっ……」
声が出かかる、あと少し、俺の咽がここで潰れてしまってもかまわない、チャンスは今しかないんだ。
【一条】
「待ってくれ!」
声が出た、俺の声に少女が足を止めて俺の方に向き直った。
【一条】
「君の……名前は……」
聞きたいことは山ほどあったはずなのに、俺はそんなことしか聞くことができなかった。
【少女】
「……水鏡……」
水鏡、少女はそう名乗ると屋上から去った。
俺の足が震えている、ガクガクとまるで怖い物でも見た子供のように俺の足は震えその場に膝から崩れてしまった。
1人になってしまった屋上で、俺はしばらく動くことができなかった。
……
【一条】
「悲しんでる……」
1人きりの帰り道、俺は少女の言葉について考えていた。
……
【少女】
「綺麗な音」
【少女】
「でも……」
【少女】
「……悲しんでる」
……
綺麗な音ってのは理解できる、俺のオカリナの音は人が聞くのが困難なほど酷い物じゃない。
しかし次の言葉、『悲しんでる』これが俺を悩ませている。
悲しんでいるとは俺の何が悲しんでいると云うのだろうか?
考えられるのは俺のオカリナの音、それくらいしか当てはまるものは無い。
でも、もしそうだとするとそこには矛盾が生まれてしまう。
俺は今日のオカリナを楽しいと感じていた、吹いている最中も悲しいなんて少しも思わなかった。
それなのに少女、水鏡は悲しんでると云う、訳がわからない。
【一条】
「何が……悲しんでるって云うんだろうな……?」
【美織】
「男がめそめそするんじゃない!」
美織の声が響く、突然だったので驚いてしまう。
【一条】
「美織か、いきなり驚くだろそれに誰がめそめそしてるって?」
【美織】
「あんた今悲しんでるって云ったじゃない」
聞いてやがったのかこいつは、人の悩みを盗み聞きとは悪趣味だな。
【一条】
「悲しんではいない、だけどな、水鏡は俺が悲しんでるって云うんだ」
【美織】
「水鏡?」
美織は誰って顔をしている、俺が今日知った名前を美織が知っている訳無いか。
【一条】
「昨日の屋上にいた女の子だよ」
【美織】
「あぁ、あの不思議な女の子ね」
屋上と云われて美織にもピンときたらしい。
【美織】
「へぇーあの女の子水鏡って云うんだ、変わった名前だね」
【一条】
「そうだよな、某並に変わってる」
廓には悪いがあいつの某って名前は俺にとっては珍しすぎる。
今時某って、時代劇じゃないんだぞ。
【美織】
「それで、その子がなんだって?」
【一条】
「俺が……悲しんでるんだってさ」
【美織】
「……話がよくわからないわね、どういうこと?」
言葉の理解力に乏しいのか俺の説明が悪かったのか美織の頭の上には見えないクエスチョンマークができている。
俺はさっき屋上で水鏡にあったことを説明した。
【美織】
「ふーん、その水鏡って子変わってるのね、本人は悲しんでないのにその子には悲しんでいる風に見えるなんて」
【一条】
「そういったことって実際にあるのか?」
【美織】
「無いとは云えないわね、例えばマコが宝くじで千円を当てたとするでしょ」
【一条】
「大して嬉しくもない金額だな」
【美織】
「話しは最後まで聞く、千円を当てても大した金額じゃないから大喜びもしないで、ふーんくらいしか思わないでしょ
ましてやそれ位の金額じゃ人に自慢できる金額でもないしね」
【一条】
「……それで?」
【美織】
「たかだか千円だけど、マコはその千円を捨てることはできる?」
【一条】
「莫迦を云うな、たとえ千円でもそれは金だぞ、捨てたら罰が当たる」
【美織】
「つまりはそういうことよ」
【一条】
「はいぃ?」
そういうことって云われてもさっぱり解らない、千円と俺のとらわれ方のどこに接点があったのだろうか?
【一条】
「意味がわからないんだが?」
【美織】
「あらそう? たかが千円で喜びもしない、だけどそれは表面上のものでしかないの。
だから千円を捨てることはできない、本当に嬉しくないんだったら何の罪悪感も無く捨てれるものよ。
簡単に云うと、マコは自分の本当の気持ちを隠しているのよ?」
【一条】
「本当の気持ちを……隠している?」
【美織】
「それが今回の話に完璧に一致しているとは云えないけど、心のどこかでマコは悲しんでいるのよ
本人にもわからないことをその子は感じ取ってしまった、魔法使いみたいな子ね」
【一条】
「俺がどこかで悲しんでいる……」
自分にすらわからない心の中を水鏡は読み取った、だとすると俺は何に悲しんでいるっていうんだ?
俺にはわからないって云ってるんだからどんなに悩んでも答えなんか出るはず無い。
その答えを知っているのはただ1人、水鏡だけなんだ……
【美織】
「それで……今日は大丈夫だったの?」
【一条】
「大丈夫って何が?」
【美織】
「だからほら、昨日みたいなことにはならなかったのかって……」
なるほど、美織は昨日の俺の異変のことを云っているんだ。
【一条】
「なんとか、大丈夫だった」
今日は水鏡に話しかけることができた、今までは体がまるで動かなかったのに。
内にひめたる獣も姿を現すことがなかった、これが出てこなかったのが今日は良かった。
【美織】
「そうなの良かった、またおかしくなったらどうしようかと思っちゃった」
なんで美織がどうかしようとか思うんだろう? それにおかしくなったとしてもあの場にいなかった美織にはどうすることもできない。
【一条】
「おかげさまで、それから、ありがとう」
……
【美織】
「え……? なんのこと?」
あたしは何についてお礼を云われたのかわからなかった。
【一条】
「朝のことだよ、俺が朝頭が痛くなった時付いていてくれただろ」
【美織】
「あぁー、あのこと、別にお礼を云われるほどのことはしてないでしょ」
【一条】
「たとえそうだったとしても俺はお礼を云いたいんだよ、じゃあまた明日」
【美織】
「うん、またね」
十字路でマコと別れる、さっきの話を聞いて肩を落とした。
【美織】
「あたし、よけいなことしちゃったんだな……」
朝、あたしは自分の考えだけでマコと少女……水鏡の接触を避けた。
だけど、そんなことする必要無かった、マコの身を案じたんだけどな……
あたしのやったことは、マコに対しておせっかい以外の何物でもなかった……
……
食事を終えて洗い物をしていると家のチャイムが鳴る。
【某】
「一条ー、おるかーおったら出てこーい」
廓の声がする、こんな時間に何の用だろう?
【一条】
「はいはい、どうしたこんな時間に」
扉を開けると廓だけでなく二階堂の姿もあった。
【某】
「ええもんが手にはいったんやけどな、ちっと2人じゃ量が多くてな」
廓の手にした物を視界にとらえると俺はすばやく扉を閉めて鍵をかけた。
【某】
「一条ーあけったってーなー、わいらの仲やないかい」
【一条】
「嫌だ、お前の手にしてる物を見てしまったから絶対嫌だ」
廓の手にしていた物はガラスでできたビン、そこから推測するに答えは1つしかない。
……酒だよな。
【某】
「ええやんけー、勇もお前ん家で飲みたいって云ってるんやさかいあけてーや」
【一条】
「勇、そうなのか?」
二階堂の声はしない、代わりに鈍器で何かを殴ったような鈍い音が聞こえた。
廓のやつ、二階堂を使って扉を開けさせるつもりだったんだろうが……殴られたな。
【某】
「一条ー! 助けたって勇がわいに暴力振るうんや!」
自業自得だろ、扉をドンドン叩かれてもいれてやるもんか。
【某】
「どうしても駄目かいな、せやったら強硬手段やな」
強硬手段なんて云って騙されるものか、幸い俺しか鍵は持ってないんだ。
……と思っていたはずなのに。
俺の後ろにあったはずの扉が開かれてそれに寄りかかっていた俺は突然の開閉に後ろ向きに倒れてしまう。
【一条】
「痛たたた、どうして開くんだよ?」
仰向けに倒れたまま上に見える廓に尋ねると。
【某】
「うわー、これほんまに開くんやな……」
一升瓶を持った左手ではなく、もう一方の手には驚きの物が持たれている。
【一条】
「……ヘアピン?」
【某】
「せやねん、ただのギャグやってんけど……開いてもうた……」
まさか今の時代に、ヘアピン1つで開くほどセキュリティーの弱いアパートなんてあるんだな。
それ以前に廓、お前のしたことは犯罪だぞ……
【一条】
「廓、一緒に警察行くか?」
【某】
「げっ、マジか……そんなーわいと一条の仲やんけー」
完全にドラマで小さな犯罪を起こした役者みたいになった。
【一条】
「警察で全部喋ってくれればここのセキュリティーも少しは強固な物に……」
【某】
「一条ー、そんなこと云わんと見逃してくれやー、これでもわいは今までまっとうに生きてきたんやー」
うわ! こいつ泣いてやがる、そんなに警察行くのが怖いか。
【一条】
「わかったわかった、今回は見逃してやるから」
【某】
「さよか、ほんなら皆で酒飲もか」
扉の開いた俺の部屋に廓が入っていく、あのやろう嘘泣きしてやがったな!
【二階堂】
「……良いのか?」
【一条】
「もう好きにしてくれ」
廓と違って二階堂は住人に許可を取ってから入っていく、相変わらず廓と違って礼儀正しい男だ。
【某】
「おーい、グラスはここらへんの勝手に使ってもええんかー?」
あいつちっともまっとうに生きてなんかいないじゃないか、未成年のくせに酒飲みやがって。
今度鍵をヘアピンで開けたら警察に突き出してやる。
……
【某】
「カンパーイ!」
カキン!
【某】
「んぐんぐんぐ……ぷはー美味いなー」
【一条】
「一気に飲むなよ、体に悪いぞ」
【某】
「なーにを勇みたいなこと云っとんねん、酒は一気に飲むのが一番美味いんやないか」
【二階堂】
「……」
2人とも対照的に酒を飲む、廓はグイグイ、二階堂はチビチビ、俺は……音が思いつかない。
あえて云うなら……ゼェゼェ
【一条】
「うん、結構美味い酒だな」
【某】
「せやろせやろ、だから2人で飲むの勿体ないなーと思ったからお前の家に来たんや」
この後も3人で酒を飲み交わした、それにしても二2連続で酒盛りってのも学生らしくないよ……
……
【某】
「それで勇のやつポケットにてー突っ込んだまま相手のしてもうたんやから」
【一条】
「少しは相手のこと考えてやれよ」
【二階堂】
「手が汚れるだろ」
【某】
「きっついなー、まぁ勇に挑んだんがそもそもの間違いやったんや」
酒の肴に2人の武勇伝を聞いている、2人とも一般人ではありえない生活を送っているようだ。
【某】
「わいかて隣町の群れ1人で潰したわい、まぁちっとばかしあれは疲れたけどな」
【一条】
「群れって全部で何人だったんだ?」
【某】
「20人目までは数えてたんやけど、そのうち面倒になって数えんの止めた」
単純に20人以上、小さな組クラスの人数がいるじゃないか。
【某】
「せやけど数多いだけでちっとも手応えないねん、それに比べてこの街のやつはちっとはやるで」
【一条】
「ところで……」
俺は前から考えていたことを2人に聞いてみる。
【一条】
「廓と勇ってやったらどっちが強いんだ?」
2人の酒を飲む手が止まる、しかも2人とも一触即発な雰囲気を出し始めている。
【某】
「それはもう決まっとるよなー」
【二階堂】
「……」
しまった、これは禁句だったか、2人とも自分の強さに自信を持っているから決して引かないだろう。
俺の軽はずみな質問でここで決闘なんてやり始めないでくれよ。
【某】
「……」
【二階堂】
「……」
廓の口がニィっと上がる、まずい喧嘩だ!
早く逃げなくては、こいつらの間にはいっていたら死にかねない。
【某】
「……勇に決まっとるやんけー」
【二階堂】
「……」
へ? マジですか、あの廓が負けを認めるんですか?
二階堂も黙っているってことはそれは事実なんだろうけど……
【一条】
「それは冗談とかじゃなくて、実際にやってみた結果なんだろうな?」
【某】
「やってもいなかったらわいが自わから負けを認めるようなこと云わんやろ
それに、わいらかて元からこないに仲良い訳とちゃうんやで」
そりゃそうか、廓の性格を考えればわかることだ。
【一条】
「それはもうものすごい死闘だったんだろうな」
【某】
「それがやなー……」
……
廓と二階堂は元々顔も知らない、この学校に入ってはじめて顔を遇わした。
最初見た時から感じ取った、こいつ、二階堂はそうとうの実力者だってな。
廓は血の気の多い人間で、強いやつ見るとうずうずしてまうたちだから初日の放課後に勇に会いに行った。
【某】
「隣のクラスの廓っちゅーもんやけど、あんたが二階堂やな」
【二階堂】
「……」
【某】
「見たところ相当のもんもってるみたいやのー、どやわいといっぺん勝負してみんか?」
【二階堂】
「……」
【某】
「なんやだんまりかい、いくらわいの方がお前より強いからってなんの返事もせんとおるのは癪に障るのう」
【二階堂】
「……」
勇のやつは何にも喋らずにそのまま帰ろうとした。
そのころからこの男は無口だった、廓がどれだけ喋っても馬の耳になんとかみたいなやつだと思った。
【某】
「待てや! 怖いんか、お前は眼の前の見ず知らずの男に無様に負けるのが怖いんやろ、とんだ鼠やったわ」
廓の買い被りだと思った、廓が教室を出て行こうとしたその時……
【二階堂】
「……おい」
口を開かなかった大仏が初めて言葉を発した。
【二階堂】
「15分後、川原の土手に……」
それだけ云い残すと勇は帰った、当然廓は嬉しくてすぐに川原に向かった。
【某】
「どうやら逃げんと来たみたいやな」
川原の下で勇を待ってた廓の前に勇は現れた。
【某】
「どや、あやまるんやったら今のうちやで」
【二階堂】
「……」
【某】
「命乞いなしか、わいはもう準備ええけどお前はどうなんや」
【二階堂】
「……」
勇はポケットに手突っ込んだまま、まるで廓をおちょくっているようだった。
【某】
「なめられたもんやな、ボコにされても文句は云わせへんで!」
廓は勇との距離を一気に詰めて右のストレートを放った。
【某】
「もらったー!」
完璧にとらえたと思った、が、廓の拳は空を切った。
【二階堂】
「……」
ポケットに手を突っ込んだまま勇はふわりと避けた。
【某】
「なっ、やろー!」
【二階堂】
「……」
【某】
「なめくさりやがって!」
【二階堂】
「……」
その後も廓はことごとく拳を放った、しかし、勇には1つも命中しなかった。
【某】
「はぁ、はぁ、はぁ、なんでや、なんで手突っ込んだままでわいの拳避けられんねん!」
そうなのだ、勇は廓の拳を全てポケットにて突っ込んだまま避けていた。
【某】
「ち、ちくしょぉー!」
廓の最後の一発、しかし勇には命中しなかった、代わりに今まで避けてるだけだった勇の動きが急に変わった。
【二階堂】
「……」
バギィ!
【某】
「がほぉ!」
勇お得意のケンカキックが顔面に命中した、廓はそれで動くこともできなくなった。
結局勇は一度もポケットから手を出さずに廓に勝利した。
6分35秒 ケンカキックでKO
廓が地面に転がるまでの時間、しかも6分半は廓だけが攻撃していたから実質5秒になる。
圧倒的惨敗だっただけに廓はそこで鬼になった、勇を倒せる復讐の鬼に……
あの惨敗を糧に廓は猛特訓をつんだ、その期間は半年間、それだけの時間を費やしてとうとう廓は勇に勝てる力を得た。
これなら廓は勇に勝てる、そう思って廓はもう一度勇に戦いを申し込んだ。
もう一度、あの因縁の川原で2人は対峙した。
【某】
「今日は前回のようにはいかんからな」
【二階堂】
「……」
相変わらず無口で手も出さずに勇は仁王立ちしていた。
【某】
「今日は手出さんと痛い目見るで!」
【二階堂】
「……」
廓の左のストレート、勇の右腕に命中した。
【二階堂】
「……」
【某】
「前のわいとは違うんや、ほれほれ、さっきの余裕はどこいったんや?」
勇に命中した、いけると思った、何せ廓は以前の倍は強くなっていたのだから。
しかし……現実は違った。
確かに倍強くなれば勇に勝つことができた、けれどもそれは半年前の勇にだった。
今の勇は半年前とは違う、廓が変われば勇も変わる。
廓が倍強くなったのに対して勇は……3倍も強くなっていた。
……
【一条】
「それでその時は何分で負けたんだ?」
【某】
「それひっどいなー、それじゃわいが負けてますって云ってるようなもんやんか!」
【一条】
「じゃあ聞くけど、その決闘勝ったのか?」
【某】
「……5分12秒 アックスボンバーでKO」
【一条】
「くくく、ははははははは」
【某】
「何も笑うことないやろー」
だってお前、5分12秒って以前よりも早いじゃないか。
【某】
「それ以来勇に刃向うの止めたわ、あいつに負けるとどんどん惨めになんねん」
【二階堂】
「……懐かしいな」
【某】
「そういえば最近わいらやってへんな、どや今度もっかいやれへんか?」
【二階堂】
「……恥掻くぞ」
そうだそうだ、プライドを踏みつけられないようにここは止めておくんだ。
【某】
「お前も口悪なったな、そういやこの間の一条もごっつ強かったよな
あれやったら勇とも互角にやりあえるんちゃうか?」
【一条】
「無理に決まってるだろ、あの時の俺がいくら変だったからって本気の勇になんて勝てるわけ無いだろ」
【某】
「せやろかー、結構ええ勝負すると思うねんけど」
二階堂なんて俺がダイナマイトか何か持たないと勝てる相手じゃない、正直それでも不安いっぱいだぞ。
【二階堂】
「……勝てんさ」
二階堂もそう云ってることだし、俺には二階堂に勝つなんて夢のまた夢だろうさ。
【二階堂】
「いくら本気を出したところで、あの時の一条には勝てんさ」
【2人】
「え?」
今勇君はおかしなことを云ったぞ、本気の勇が勝てないって? そんなご冗談を、酒が回ってきたのかな?
【一条】
「勇、お前ちょっと酔ってきてるだろ?」
【二階堂】
「残念ながら、俺はシラフだが?」
【某】
「勇……それ、マジなんやな」
【二階堂】
「ああ、あの時の一条の眼、あの眼を見ればわかるさ
あの眼を見た時、俺は武者震いを覚えた、俺が本気を出してもこいつには勝てないってな」
ぐいっと二階堂がグラスを空ける、空になったグラスを俺たちはジッと見つめていた。
……
【一条】
「じゃあな」
【某】
「おう、また今度ええもん手に入ったら持ってくるわ」
【一条】
「二度とヘアピンで扉を開けるなよ」
【某】
「わ、わかってるって、わいかて務所暮らしなんてごめんじゃい」
【一条】
「わかれば良いさ、じゃ気をつけて帰れよ」
【某】
「じゃなお休みー」
【二階堂】
「……」
1人になった部屋の中を見渡す、2人とも後片付けを手伝ってくれたおかげですることもない。
それにしても、さっきの二階堂の言葉……
【二階堂】
「俺は武者震いを覚えた、俺が本気を出してもこいつには勝てないってな」
武者震い、二階堂はあの時の俺を見て恐れた、あの勇ですら俺の姿に恐怖を覚えた。
もう1人の俺は一体何のために存在するんだろう?
他人に恐怖を植え付けるだけの存在、俺の欲望を処理する存在、そして俺を狂わせる存在。
得体の知れないもう1人の俺に、再び俺は恐怖した……
……
【某】
「勇、さっきのあれはマジで嘘や無いんやな?」
【二階堂】
「……ああ」
【某】
「そっか、それにしてもあの時の一条ってほんまになんなんやろな?」
【二階堂】
「わからんな、だけどわかることがいくつかある」
【某】
「なんや?」
【二階堂】
「いつもの一条、あれが本当の一条だろうな」
【某】
「それはわいもそう思っとるわ、他には?」
【二階堂】
「もし、一条が暴走してしまったら、俺たちにそれを止める術は存在しないってことだ」
【某】
「……」
【二階堂】
「……」
2人とも言葉を無くす、友人が道を踏み違えるのを俺たちは救えない。
だまって指をくわえて見てることしかできない。
俺たちは何て無力なんだろう……
もう宵闇に征服された街に、廓のくわえる線香の灯りだけが微かに輝いていた。
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