【5月13日(火)〜エンディング】
眼を開くと、そこに広がるのはいつもと変わらない天井。
ぼんやりとした意識の中で昨日の、夢の中でのことを思い出す。
……
【萬屋】
「時間にして後3日、3日経てば君は完全に現世と定着し、痛みも消える。
しかしこの3日の間、ここで下手に動いたりすれば、君の存在はまた嘘に逆戻り。
そうなってしまえば、どうなるかは云わないでもわかるな?」
【水鏡】
「この3日間は家で安静にしていてください、そうすれば全部うまくいきます
激しい運動なんかは絶対にしないでくださいね」
……
ベッドから上体を起こすと、昨日よりもさらに痛みは増していた。
【一条】
「どっちみちこれじゃ学校なんて行けないな……」
携帯電話で学校に連絡を入れる、ちょうど志蔵先生がでてくれた。
病気で2、3日学校に行くことを医者に止められた、そんなでまかせだけど志蔵先生はお大事にと云ってくれた。
嘘をついているので少しばかり心が痛いが、現世に定着するまでは仕方がない。
電話を切ると再びベッドに横になる、3日間は絶対安静。
何もすることなく、布団の中で時間を潰すだけだった。
……
夜になって、空腹が俺の眼を覚ます。
冷蔵庫まで行くのでさえ痛みを伴うので、行きたくないが行かなければ空腹は治まってくれない。
痛み覚悟で1歩を踏み出すと、予想通りの激しい痛み。
このまま意識さえも飛んでしまうのではないかと云わんばかりの痛みが体を駆け抜ける。
【一条】
「こんなんじゃ3日目はどれだけ痛いんだよ……」
日に日に痛みが増していることから確実に今日以上の痛みがある、考えるだけで憂鬱になるな……
……
寝たは良いものの、寝返りを打つだけで再び現実へと引き戻される。
一体いつになったらゆっくり眠れることやら……
……
清々しい陽光で眼が覚める、窓から差す陽光とは対照的に、俺の中はどんよりとしている。
憎々しいまでに陽光はさわやかに体を照らす、カーテンを閉めたくてもそこまで行くのが辛い。
【一条】
「……」
眠りたくても眠れない、ほとんど寝てないはずなのに眠気がない。
天井を見つめたまま昔のことをぼんやりと考えた。
この体は残留思念が作り出したタブー、正直、今になっても信じられない。
目の前に存在しているこの体が、実は現実世界の物ではない。
本来なら世界の秩序に従って、俺は黄泉の世界へ行かなければならないのに……
【一条】
「全部、水鏡のおかげなんだな……」
水鏡は最初から最後まで、俺のことを助けてくれた。
俺のこと、美織のこと、そして、これからの2人のこと……
もしも、俺が逆の立場だったら、俺は水鏡のように動けただろうか?
【一条】
「……」
答えは……NOだ
人間は自分のことで精一杯、自分の幸せのことしか考えることなんてできない。
自分でない、他人の幸せのために生きることがどれほど難しいことか……
だけど、水鏡はそんな生き方を選んだ、あえて自分を殺して、他人の幸せのために与えられた時間を費やした。
お人好しと笑う人間もいるかもしれない、しかし、それも1つの答え。
自分の幸せのために生きるのか、他人の幸せのために生きるのか、どちらが良いかなんて答えは存在しない。
両方叶えられれば一番良いのだが、人間にはそれは不可能なんだ……
【一条】
「俺は……」
俺はどちらのために生きていくのだろう……
自分のためか、それとも……美織のためか……
違うな……俺の考えの中ではどちらも該当しない。
たとえ俺の答えが甘いとしても、美織と一緒なら叶えられると信じている。
俺たちなら、不可能も可能にできると信じているから……
……
TrrrrrrrTrrrrrrr
まどろみの中、携帯の着信音が俺を呼んでいる。
画面には良く見慣れた名前、俺の一番大切な人の名前が表示されている。
【一条】
「はい……」
【美織】
「やっほー、あたしだよ、体の方は大丈夫?」
【一条】
「悪くないと云ったら嘘になる、だけど決して悪いわけじゃない」
【美織】
「なんかはっきりしないわね、でも、声を聞く限りじゃ元気ってわけでもなさそうだね」
【一条】
「ははは……それで、何か用でも?」
【美織】
「あぁ、明日は学校が創立記念日で休みっての知らないかもと思ってね」
【一条】
「初耳だな、だけどどっちみち明日も学校は休むつもりだったんだ」
【美織】
「やっぱり、体良くないんだ、あたしがお見舞いにでも行ってあげよっか?」
【一条】
「いや大丈夫、美織の声が聞けただけで十分だから」
【美織】
「ふふ、それじゃ早く体治しなさいよ、お休み」
2日ぶりに聞いた美織の声、顔は見えなくても声だけで美織が心配してくれているのがわかる。
心配してくれる人がいるっていうのは良いもんだ、以前の俺には許されなかった感情。
1人を望み、終わりを求めて彷徨っていたあのころの自分から考えればだいぶ成長したな。
それもこれも全部美織がいてくれたから、美織の優しさに触れることができたから。
俺は、美織のためにも元気にならなければいけないんだ……
……
そして、最終日の朝を迎えた。
今日はベッドから起きることさえ困難なほどの痛みがあるのだろうか……?
…………あれ?
上体を起こしてみても痛みを感じない、昨日までの体を引き裂くような痛みが無い。
【一条】
「……」
ベッドから立ち上がってみる……やっぱり痛みなど感じない。
【一条】
「治った……のか?」
軽く腕を回したり、屈伸をしたりしてみるが、いたって普通にこなせるぞ。
【一条】
「どうしてなんだ……?」
萬屋さんは後3日は痛みが無くならないと云っていた、そして。
痛みが消えた時、それは現世との完全な定着とも云っていた……
そして今……痛みが消え去っている。
もしかして萬屋さんが間違えたのか?
【一条】
「死神が間違えるか……?」
そうだよな、死を司る神がそんな間違いを犯すとは思えない。
もし萬屋さんが間違っていたとしても、今日は大人しくしていよう。
……
【一条】
「料理までできるぞ……」
フライパンで卵を焼く、そんな簡単なことでも俺には新鮮に感じる。
久々にまともに食事を採るような気がする、今までは食べれる物をそのまま食べるだけだったからな。
お世辞にも綺麗とは云えない卵焼きを作り、朝食を済ませることにした。
……
ベッドに大の字に寝転がって天井を見つめる。
体がまともに動くようになってもこれといってすることはない、ぼうっと時間が過ぎるのをただ待つだけ。
少しくらい体を動かしたほうが良いと思い、部屋の中を見渡す。
眼に付いたのは部屋の片隅でジッとしている掃除機。
【一条】
「掃除か……」
そういえば、最近部屋の掃除をした記憶がない、何もすることがないんだしちょうど良いか。
掃除機のコードを伸ばし、コンセントに差し込もうとしたその時。
TrrrrrrrTrrrrrrrrr……
携帯電話が忙しなく鳴り響く、タイミングを狂わされてしまったな。
【一条】
「タイミング悪いな、一体誰が?」
画面には『姫崎 音々』の名前
音々が? 音々から電話をかけてくるなんて珍しいな。
【一条】
「はい、一条」
【音々】
「あ、誠人さんですか! 大変なんです、家に行ったら、美織ちゃんが、紙が置いてあって!」
音々にしては珍しくひどく慌てている、何がどうしたって云うんだ?。
【一条】
「音々、落ち着いて喋ってくれ、慌ててちゃ用件が伝わらない」
【音々】
「は、はい、すいません……」
電話の奥で、スゥハァと呼吸を落ち着ける音が聞こえる、音々がそこまで慌てる訳は一体?
【一条】
「……落ちついたか?」
【音々】
「はい……なんとか……」
【一条】
「それで、何があったんだ?」
【音々】
「それが……美織ちゃんが大変なんです、誠人さんは今日、美織ちゃんのお母さんが倒れたのはご存知ですか?」
【一条】
「なんだって! いつ倒れたんだ?」
【音々】
「今朝です、美織ちゃんから連絡を貰って、私も病院まで付き添ったんです」
【一条】
「美織のお袋さんの容態はどうなんだ?」
【音々】
「お医者様の話だと……かなり危険な状態らしいです、助かるかどうかは誰もわからないそうで……」
美織のお袋さんが、美織のことを心から心配していたあのお袋さんが危険な状態だって……
【音々】
「私たちはお医者様に云われて一旦帰ってきたんです、私、美織ちゃんのことが心配で
美織ちゃんの家に行ったんですが返事がなくて、悪いと思ったんですが部屋にお邪魔させてもらったんです。
ですが美織ちゃんは部屋にいませんでした、代わりに、机の上に1枚だけ、紙が残してありました……」
残してあった、置いてあったのではなく残してあった。
音々のそんな表現に、背筋が寒くなるような嫌な気分を感じる、もしかして……まさか……
【一条】
「その紙は……」
【音々】
「書置きです、たぶん美織ちゃんが書いたものだと思いますが、そこには一言だけ……」
【一条】
「……」
【音々】
「……『もう、耐えられない』とだけ、書いてあったんです……」
【一条】
「!」
『もう、耐えられない』そんな書置きを残し、姿をくらませたのだとしたら、考えられることは1つしかない……
【音々】
「お願いです誠人さん、美織ちゃんを、助けてあげてください」
【一条】
「廓や勇にはもう連絡してあるのか!?」
【音々】
「それは大丈夫です、2人とも美織ちゃんを探し回ってるんですが見つからないらしくて
病気のところ、本当に申し訳ありません、ですが、もう誠人さんしか頼れる人がいないんです」
どうしたら良い、このままじゃ美織がどうなるのかは明白だ。
すぐにでも美織を探しに行きたい、だけど、俺の体はまだどうなってしまうのかわからない。
探しに行くか、美織が行きそうな場所を伝えるか……
どっちだ!
【一条】
「……!」
電話を放り投げ、上着を羽織って家を飛び出した、体のことなんか気にしてなんかいられない。
俺がこの世に定着したとしても、美織がいないんじゃ意味なんて無いじゃないか!
【音々】
「誠人さん! ……ことさん!……」
……
【音々】
「誠人さん! 誠人さん!」
呼びかけても答えない電話の相手、代わりに聞こえてくるのはバタバタと部屋を駆けずり回る物音。
その音で全てを悟った少女は電話を切った。
【音々】
「美織ちゃん……誠人さんが行くまで、早まらないでください……」
ポツリと呟いた少女の眼からは涙が溢れていた。
すでに少女は気付いていたんだ、彼女が求めているのは心から愛することのできる人。
自分たちが探したところで決して見つからないことを、少女は気付いていた……
……
【一条】
「はぁ、はぁ……」
痛みが無いおかげで走ることもできる、もしかしたら本当に萬屋さんの勘違いだったのかもしれない。
走りながら美織が行きそうな場所へ考えをめぐらせる。
答えとして考えられる所はそう多くない、隣町か、商店街か、川原か……
中でも隣町は考えにくい、人は自分を消す場合、一番想いの強い場所を選ぶ傾向がある。
一時の俺がそうだったように、美織も同じ考えだと思う。
となると、考えられるのは商店街か川原、幸いにも二箇所の距離はそんなに離れていない。
まずは……商店街だ!
……
商店街……美織とは何度も買い物に来ていた場所。
もっぱら俺の用事に無理矢理美織を付き合わせちゃったようなものだけど、美織は文句1つ云わなかった。
そういえば、ここでは初めて美織にぶたれた所でもあったっけ。
【一条】
「どこだ、どこにいるんだ!」
商店街の中にくまなく眼をこらして見ても、美織の姿をとらえることができない。
その後も2往復してみたが美織の姿はどこにもなかった。
【一条】
「ここには……いないか……」
……
川原……俺のにとっては水鏡との別れの場所。
美織とはよく買い物の帰りなんかに一緒に立ち寄った場所でもある。
【一条】
「っく……はぁ、はぁ、はぁ……」
川原にたどりつくと、ガックリと膝が折れてしまった。
くそ、やっぱりまだ早かったのか……
地面に膝をつきながら川岸に視線を移す、しかし、そこに美織の姿はなかった。
いないとわかっているのに、俺の足は立ち上がって川岸に向いていた。
【一条】
「どうして……どうしていないんだ!」
またも膝がガックリと折れた、まるで膝に力が入らない。
地面に膝をつき、手元に生えていた雑草を力いっぱい握り締めた。
美織はここにいると思っていた、ここは、俺たちが初めてのキスを交わした場所。
俺たちにとって、始まりのこの場所に……
だけど、それは間違いだった。
手を伸ばしても美織の腕に近づかない、俺と美織の想いは互いにすれ違っているのだろうか……
【一条】
「くそ……くそぉ!」
握り拳を何度も地面に叩きつける、何度も何度も、手が擦り切れて血が滲むまで。
滲み出た草の汁が傷口に入り込み、ジンジンと鈍く痛みを残す。
しかし、そんなことすら俺には感じることができない。
美織は一体、どこに行ってしまったんだろうか……?
不意にあふれそうになった涙を必死で堪える、泣いてしまったらそこでアウト、俺の負けを認めることになる。
考えろ、考えるんだ! 他に美織の想いが強く残っている可能性がある場所を。
血の滲んだ拳をジッと見る、手の先には俺自身から伸びた長い影が存在している。
すでに空は紅みを帯び始め、影法師を長く伸ばすほどに夕日は少しずつ頭角を現していた。
……夕日?
何か小さな引っ掛かりを覚えた、何かを忘れている、それはとても重要で、とても大切なこと。
そういえば、俺たちが紡いできた時間の中で、夕日は一番背景を彩った場面ではなかっただろうか?
初めてキスをした時、初めて2人が一つになった時、水鏡が消失した時、そして……
初めて、2人が恋人同士になったあの時も……
【一条】
「……っ!」
俺は大切な場所を忘れていた、俺たちの始まりの場所、俺たちが同じ歩みを始めたあの場所を。
そうわかった時、俺は駆け出していた……
【一条】
「待っていてくれ、美織!」
……
息も絶え絶えになりながら目的の場所を目指す。
踏みしめる1歩1歩にもう力が入らない、病み上がりの体にこの距離は辛かったな。
だけど、歩みを止めることはない、止めてしまえば俺は大切な者を失ってしまう。
この体がどうなってしまっても、俺は、俺が心から愛する人を守るんだ……
ギイィ……
鉄扉に力を込めて開放する、そこに広がるのは学校の屋上。
急いで給水塔のハシゴに手をかける、この上に大切な人がいると信じて、もう……時間が無い!
ハシゴを上りきった先、この街を一望することができるその場所に視線を向ける。
…………いた
【一条】
「美織!」
目的の人物の肩がビクッと振るえ、そのままこちらに向き直った。
【美織】
「ま……マコ……どうしてここに……?」
【一条】
「音々から連絡をもらったんだ、お前が、書置きを残して消えたってな」
【美織】
「姫が……」
【一条】
「お前の残した書置き、あれは……遺書だろ」
【美織】
「……!」
あの言葉を聞いた時、美織が考えの全てが読み取れた。
美織が求めたのは時間の停止、『もう、耐えられない』それが示しているのは……
【一条】
「お袋さんが危ない状況なんだろ、なのにどうしてこんな所にいるんだ」
【美織】
「もう、あたしには耐えられないんだよ……お父さんのことも……お母さんのことも」
やっぱりそうか、美織が云うもう耐えられない、それは美織の親父さんのことだ。
小さいころに親父さんを亡くして、今は母親までも失うかもしれない。
どちらか片方を失うだけでも辛いのに、両方失ってしまう辛さは計り知れない。
美織は親父さんの時に辛い時間を過ごしてきた、そして今……
それ以上の苦しみを再び味わなければならないことが、美織には耐えられないんだ。
【一条】
「お袋さんがまだ駄目かなんてわからないだろうが」
【美織】
「無理だよ……お医者さんだって、覚悟しておいた方が良いって、云ってたんだから」
【一条】
「医者が云ったことが全てじゃないだろ、医者は神様じゃない
俺たちと同じ人間だ、人間の云うことに絶対はありえない」
【美織】
「だとしても……もう良いんだ……あたし、ちょっと疲れちゃったから」
今の美織には気力が無い、俺が何を云ってもたぶんほとんど聞こえてはいないだろう。
ならば、俺はここで人生最大の賭けにでる、その賭けに俺が勝てるかなんてわからない。
全てを取り戻すか、全てを失うか、人生で一番危険な賭けに手をかけた……
【一条】
「そんなに死にたければ……死ねば良いじゃないか!」
【美織】
「……え?」
無気力だった美織の瞳が大きく開かれる、それは驚きと絶望の色をしていた。
【一条】
「美織がそんなに死にたいんだったら、俺には止める権利なんてない。
そこから飛び降りれば痛みを感じることな無く一瞬で息を断つこともできるだろうさ
だけど、美織が死ぬことによって、何か解決することはあるのか?」
【美織】
「それは……」
【一条】
「お袋さんの意識が戻った時、お前がすでに死んでいたらお袋さんはどう思うだろうな?
お前の書いた遺書を見た時、それをお袋さんはどうとらえるだろうな?」
遺書を見た時のお袋さんの反応は確信を持って断言できる。
お袋さんは、自分のせいで娘を死なせてしまったと、そう考えるだろう……
【一条】
「1人残されたお袋さんは一生自分のことを恨むだろう
お前が死ぬのは勝手だ、だけど、お前にはその覚悟があるのか?
お袋さんに、消えることのない足枷をはめさせる覚悟が、お前にはあるのか!」
【美織】
「……っ」
思わず語尾を荒げてしまう、突然突きつけられた問いと怒鳴り声に美織の肩がビクッと跳ねた。
【一条】
「美織は、逃げようとしているだけだ、現実から眼を背け、自分で楽な道を選ぼうとしている。
楽な道に逃げ込んで、美織はそれで楽になれるかもしれない
でもな、美織が死ぬことで周りがどうなるか、おまえは考えられるか」
【美織】
「あたしは……」
【一条】
「答えなんか出るわけない、今の美織は現時点、その時のことしか考えていないからだ
おまえが死ぬことで、周りの人間が納得できるとでも思っているのか?
廓、勇、音々……そして、この俺が」
【美織】
「……」
【一条】
「皆おまえに死んで欲しくなんかないんだ、だからこそ皆必死になっておまえのことを探していた。
そんな皆の気持ちを裏切ってまで、自分が楽になりたいんだったらもう……止めはしない」
美織は下を向いたまま何かを考えている。
明らかに美織は動揺していた、気持ちが揺らいできている証拠。
もう少し、決着がつくのは……もうすぐだ。
【美織】
「……」
【一条】
「飛べよ!」
【美織】
「……っ!」
俺が最後に放った一言、美織の決心を打ち崩すのにはそんな短い言葉で十分だった。
美織は尻餅をつき、両手で顔を覆って涙を流した。
【美織】
「あたし……死にたくない、まだ……皆と一緒に生きていたいよ……」
涙で掠れてはいたが、はっきりとした言葉で俺の耳には届いた。
それは美織の本当の気持ち、嘘偽りのない、美織の真っ直ぐな気持ちだった。
【一条】
「もう、現実から逃げるのは終わりにしよう、でないと、お袋さんが悲しむぞ」
さっきまでの強く、強要を促すような声じゃなく、美織の心に訴えかけるように声をかける。
美織を救えるのは俺しかいないんだ、同じ立場に立ったことのあるこの俺にしか
自らの死を望んだこの俺にしか、美織の気持ちがわかるわけないのだから……
【一条】
「……ふぅ」
ホッと溜め息が出る、今の美織にはもう死を思わせるような感じは存在しない。
美織の言葉が、美織の行動が、全てを物語っていた。
俺はなんとか、賭けに勝つことができたようだ……
【美織】
「ごめん……ごめんね、皆……」
ゆっくりと美織が立ち上がり、涙を拭って俺の方を向いた。
【美織】
「マコ……ありがとう……あたしもう……逃げたりしないから」
美織が見せたのは涙に濡れたままの笑顔、その笑顔は今までの中でもとびきりの笑顔。
それはまるで、あの映画の中、あの主人公が最後に見せた笑顔のように美しく輝くものだった。
【一条】
「綺麗だな……」
夕日の光とあいまって、美織の笑顔は絵画のような美しさをしている。
すると、夕日の赤みが最高潮に達した、どうやら時間的余裕はぎりぎりだったみたいだな。
【美織】
「夕日か……あたしが染まるはずだった最後の色、ばいばい……」
ばいばい、それが何を意味していたのかはわからない。
しかし、運命の悪戯は最後まで俺たちを開放してはくれなかった……
紅に染まりきった空から一筋の風が吹き荒れた。
それは思いのほか強く、同時に、俺たちを引き裂く力を持った風だった。
【美織】
「きゃあ!」
【一条】
「美織!」
一瞬のでき事、縁に立っていた美織は風の力を正面から全て受けてしまった。
風の力により、美織の体がバランスを崩す……この先に起こりうることなど容易に予測できてしまう。
その瞬間、俺の体は無意識のうちに動いていた。
世界の時間がスローモーションに入ってしまったかのようなゆったりとした時間の流れ。
ほんのコンマ数秒の時間のはずなのに、ひどくゆっくりと時間が流れている。
そんな緩やかな時間の中、俺は手を伸ばした、今まで手を伸ばしてつかめたものなど何もなかったけど……
絶対に失ってはならない者のために、必死で腕を伸ばした……
……どうか……間に合ってくれ!
【美織】
「うわわわわわ!!」
【一条】
「っく……!」
完全に体勢の死んでいた美織の腰に、俺の腕は巻きついた。
そのまま美織の腰を力いっぱい自分の下へと引き寄せる。
【美織】
「きゃ!!」
俺の上で美織は尻餅をつくような恰好になる、なんとか間に合ったみたいだ。
【美織】
「はぁ、はぁ、はぁ……怖かったー」
【一条】
「怖かったのはわかってるから、どいてくれないか?」
【美織】
「あぁ、ごめん!」
いそいそと美織の体が上から退き、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
【美織】
「……大丈夫?」
【一条】
「世話ばっかりかけやがって、あんな所に立ってたら危ないだろ」
【美織】
「マコ!」
仰向けに寝転がった俺に美織が抱きついてくる、美織の体は小さく震えていた。
頭を軽く撫でてやる、死を決意して、放棄して、また死に誘われて。
本当は怖かったに違いない、しかし、決意が揺らぐのを恐れ必死でそれを隠して
俺は美織の頭を優しく、慈愛を込めて撫で続けた。
【一条】
「そのネックレス、今日も付けてくれてたんだ」
【美織】
「うん、本当は外そうと思ったんだけど……これだけはどうしても外せなかった。
あたしが死んじゃったとしても、マコが近くにいてくれるような、そんな気がしたから」
【一条】
「……良かった……ありがとう……」
その一言に込められたのは心からの感謝。
男は気付いていた、この言葉を、もう二度と彼女に向かって告げられないことを。
男は気付いてしまっていたから……
心臓の鼓動が少しずつ早くなる、治まる気配など一切見せず、ただ終わりを求めて速度を上げる。
行き着く先は終わりの世界、俺が本来行かなくてはならなかったあの世界へ、俺は近づいていた……
【一条】
「はあぁ! く、うぅぅ!」
急に襲ってきた痛みに苦痛の声が漏れる、前のような痛みではなく。
内と外から全てを崩壊させてしまうような、そんな痛みが全身を駆け巡った。
【美織】
「マコ! どうしたの、どこか痛むの?」
【一条】
「なんでもない……美織が、気にすることじゃ……ない」
【美織】
「嘘! そんな声出して、そんな辛そうな顔してるのになんでもないわけないじゃない!」
当然といえば当然か、美織でなくても、異常事態なのは誰の眼が見ても明らか。
【一条】
「う、ああぁぁ!」
痛みだけでなく、内側から肉体を焼き尽くすような熱も全身を巡り始める。
心臓の鼓動も、太鼓でも叩くような大きな音へと姿を変えていた。
そして、他人の眼にも見える形として、俺の体は終わりに向かい始めた。
【美織】
「ま、マコ……なに……これ……」
体が不思議な光を放ち始める、姿はぼやけ、少しずつ色を失っていく。
【一条】
「どうやら……俺も進むべき道を進まなくちゃならないみたいだ」
【美織】
「それってもしかして……!」
全部云わなくても美織にはどうなるかが予測できているようだ。
それもそのはず、この状況を美織は以前にも見ている、水鏡が姿を消した、その時と同じなのだから……
【美織】
「どうして、どうしてよ! なんでマコまで消えなくちゃならないのよ!」
【一条】
「それが俺の定めだから、俺が進むべき本当の道がこれだったんだから……」
【美織】
「そんなの、納得できるわけない! だって約束したじゃない……
あたしの前から消えないって、約束したじゃない!!!」
美織の瞳から、再び涙が流れ始める。
流れ落ちた涙が俺の顔に降り注ぐ、しかし、もう俺には涙の温度を感じることもできない。
【一条】
「泣くのは……止めてくれ、美織に泣いている顔は似合わない。
美織は……笑ってる顔の方が似合ってるんだから」
【美織】
「笑えるわけない、笑えるわけないよ……マコがいなくなったら、あたし1人になっちゃうよ……」
【一条】
「大丈夫……美織は1人じゃない、美織には本気で心配してくれる友人が沢山いるじゃないか
俺がいなくなっても、美緒が1人になることなんてないんだから」
【美織】
「だけど……一番大切な人がいないんじゃ、独りぼっちと同じだよ。
あたしにはマコが必要なの、マコがいないと弱くなっちゃうよ……」
涙は枯れることなく、溢れ続けている。
そんな美織の耳元で、そっと美織に囁いた……
【一条】
「……」
【美織】
「……」
内ポケットからペンダントを取り出して美織の前で開いて見せる。
【一条】
「俺がいなくなっても……負けるんじゃないぞ」
そんな言葉と共に、ペンダントをギュッと握り締める。
体が一際大きく光を放ち、全身が浮き上がるような感覚を覚えた。
残された時間はあと僅か、残された時間、美織に最後の言葉を告げる……
【一条】
「……またな」
最後の言葉はそんな一言、それと、できる限りの笑顔を美織に向けた。
そして……
美織の腕の中から『一条 誠人』という個体は消滅した。
最初からその場所には何もなかったかのように、温もりさえもそこには残っていなかった。
【美織】
「ま……こと……」
【美織】
「う……う……うあああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
大声を上げ、少女は泣き出した。
悲しみの全てを出し切ってしまうかのように、少女は泣き続けた。
ありもしない温もりを求めるように、少女は自分の体を強く抱きしめた。
夕日が少女を染め上げる、真っ赤な世界の顔と、真っ黒な少女の影だけが
屋上という、小さな想い出の世界の中に、存在することを許されていた……
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜