【5月12日(月)】

体を駆け抜ける激痛によって眼が覚める。
昨日丸1日休んでいたというのに痛みはいっこうに引かず、今日はさらに酷くなっている。
思い起こしてみれば最初は肩が痛み出し、腰も痛み出し、今となっては手足までが痛みを帯び始めている。

【一条】
「こんな日でも学校に行くのかよ……」

動くたびに走る激痛をこらえながらベッドから抜け出す、これだけでも酷く重労働だ。

……

【一条】
「痛つつつつつつ……」

1歩踏み出すたびに体を殴られたような痛みを感じる、着替える時に体を見たけどおかしなところはなかった。
どうして体が痛むのか、俺には心当たりさえもない……

……

普段ならなんてことのない道なのに今日は勝手が違う、まるで足枷でもはめているかのように足が重い。
このままだと遅刻になるかもしれないけど仕方がない、ペナルティー覚悟でゆっくりと行こう。

【美織】
「だーれだ?」

急に視界が真っ暗になる、世界が反転したのかと思ったが違う、誰かに眼を塞がれただけだ。

【一条】
「朝からくだらない悪戯しないでくれよ、美織」

【美織】
「ありゃりゃ、やっぱりばれちゃったか」

ぴょこんと美織が俺の前に姿を見せる、美織に悪気はないんだろうけど……俺には悪意以外のなにものでもない。

【一条】
「ううぅぅぅ……」

【美織】
「マコ顔色悪いよ、もしかして病気か何かじゃないの?」

【一条】
「朝飯食べなかったからだよ、ちょっと時間がなくてさ……」

【美織】
「ふうん、それなら良いけどあんまり無理しちゃ駄目だよ」

【一条】
「わかってるって、いざとなったら学校休むから心配するな」

美織に体の不調を悟られないように明るく振舞う、顔色までは隠すことはできないから適当に誤魔化した。

【美織】
「あれ……マコアクセサリーつけないの?」

【一条】
「学校でするのは恥ずかしいから、だけどちゃんと持ってるよ」

ポケットの中からアクセサリーを見せる、美織の胸元にはアクセサリーの片側が提げられていた。

【美織】
「確かにあたしがしててマコもしてたらペアになっちゃうもんね、某に見られたら絶対からかわれるね」

【一条】
「あいつはそういうところにすぐ眼がいくからな」

【美織】
「でも良かった、マコもアクセサリー持っててくれて……」

【一条】
「当然さ、これは2人の願いなんだから」

【美織】
「朝からキザっぽい科白云わないの、そういうのはもっとムードがある時に云ってよね」

【一条】
「ははは……」

笑ってみても乾いた笑いにしかならない、精一杯元気を装ってみるがこれは長くは持ちそうにないな……

……

【二階堂】
「……よ」

【一条】
「おはよ……」

【某】
「なんや元気あれへんぞ、昨日も寝る時間割いてまでがんばったんか?」

【一条】
「そんな元気もないよ……」

机に突っ伏して体を休ませる、柔らかい布団の上じゃないけど休めるだけで心地良い。

【一条】
「勇……突然全身に筋肉痛が来ることってあるか?」

【二階堂】
「慣れないことを何時間もやったのなら可能性もあるが、普通ならありえんな」

【某】
「筋肉痛なんか? 何もそこまで熱くならんでもええと思うけど」

的確な答えを返す二階堂に比べて、廓は茶化しているとしか取れないような返答だ。

【二階堂】
「突然痛み出したんなら病院に行くのが一番良いと思うが?」

【一条】
「いや、大したことじゃないから良いよ、変なこと聞いて悪かったな」

ちょうど志蔵先生が来たので廓と二階堂が席に戻る、二階堂が云うことがもっともなのかもしれない……

……

授業に集中することも、睡眠に集中することもできない。
頭を使えば上半身に痛みが走り、眠りについてしまうと不意打ちのように痛みがやってくる。
痛みを最小限度に抑える手は1つ、何も考えないでぼーっと外の景色を眺めるだけ。

青々とした新緑の木々がそよ風に凪いでいる、強さを見せ始めた陽光の日差しが木々を輝かせる。
そんな時の流れを見ることしか俺にはできない、だけど、退屈には思わない。
今見ている時間と景色は二度と現れることはない、その瞬間だけの時間。

世界が見せた一時の表情、それはとても尊く、とても儚いものだから……

……

4時限目終了の鐘が鳴り響き、昼休みの到来を告げるが俺には嬉しくない。
昼休みとなればなにかしらのアクションを見せなければならない、大方は昼食だったりするわけだけど。

【一条】
「屋上に逃げるか……」

そう思って椅子から立ち上がる、たったそれだけの動作だったはずなのに俺には耐えられなかった。
足に力を込めることが上手くできず、おぼつかない足運びで俺の体は床へと崩れ去っていく。

【二階堂】
「……」

このまま床に倒れるだけだと思っていたが、倒れる瞬間に誰かによって体を支えられた。

【一条】
「……勇」

抱えてくれた人物の正体は二階堂、二階堂がいなかったら教室はちょっとした騒ぎでも起きかねなかっただろう。
そのまま二階堂は俺の体を椅子に座らせ直す。

【二階堂】
「どうやら、相当重症のようだな」

【一条】
「重症かどうかはわからないけど……」

【二階堂】
「午前中の授業は上の空、今の急な異変、それに朝のおまえの言葉を考えたら重症と云わなければならんだろうな」

朝のことを気にかけてくれていたのか、二階堂らしい気の使い方が嬉しくなってくる。

【二階堂】
「もう今日は帰れ、帰って寝ろ、俺から先生に伝えといてやる」

【一条】
「すまない……迷惑かけるな……」

【二階堂】
「なに……それよりも1人で帰れるか、なんなら俺がサボっても良いが?」

【一条】
「そこまで迷惑かけられないだろ、大丈夫、なんとか帰ってみるさ、それじゃ……」

【二階堂】
「またな……」

……

照りつける太陽の中、重い足取りでゆっくりと家を目指す。
歩いては休み、歩いては休みの繰り返し。
結局家にたどり着いたのは昼休みも終わって午後の授業が開始されるのとほぼ同じ時間だった。

【一条】
「あああ……」

ベッドにどさりと寝転がる、それだけでも体にズキリと痛みが走る。
しかし、横になれるだけ学校にいるよりもマシかな……

TrrrrrTrrrrr……

携帯が着信音を発しながら呼びかけている、一体誰が?
画面を見ると、「アホ関西人」と名前が出ている。

【一条】
「はい……」

【某】
「あぁ、わいやわいや、ちゃんと家たどり着けたか?」

【一条】
「なんとかな……それで何か用でも?」

【某】
「用とゆうよりはちょっと心配になってな、なんでも教室で倒れたそうやないか、勇がゆうとったで」

【一条】
「倒れちゃいないさ、倒れる直前に勇が支えてくれたんだ」

【某】
「それは倒れたと同じや、でもまあ家に着いたんなら一応大丈夫やな、勇も心配してたんやで」

【一条】
「心配してくれてたんだな、勇には礼をしなくちゃいけないな」

【某】
「わいはー?」

【一条】
「わかってるよ、廓にも心配かけたな、そういえば……」

壁に掛かった時計に視線を移す、今は5時限目の授業中のはずなのに……

【一条】
「おまえどこから電話かけてるんだ、授業は?」

【某】
「今屋上や、授業なんかボッたわ」

【一条】
「おまえなぁ……」

【某】
「気にしない気にしない、どうせ授業なんか聞いてへんのやから
声も元気そうやし、今日ゆっくりと寝れば体も戻るやろ、あんまり無茶すんなや」

【一条】
「俺が無茶するようなやつに見えるか?」

【某】
「ははは、そうやな、それじゃま元気やったらまた会おうや、1日か2日後やろうけどな
あん、誰か来た?……げ!志蔵センセ!!……」

ブツ!!   ツー、ツー……

【一条】
「……」

あーあ……あいつこれからお説教とペナルティーの2大拷問が待ってそうだな。
電話を切って布団にもぐる、今から寝ればそれなりの時間までは起きなくても良いか。

……

暗い部屋の中を月明かりが照らし出す、薄暗い部屋の中で時計を確認すると9時を過ぎたころ。

【一条】
「……痛」

まだ体の痛みは取れない、何がどうなってこの痛みを形作っているのかわからないから手のうちようがない。
寝たら治るなんて考えは甘かったようだ。

腹が減ったが食事を作るような力もなければ痛みを感じることも嫌だ、このまま眠ってしまおう。

ピンポーン

チャイムの音が睡眠を妨害する、こんな時間に誰が来るんだよ……。
起き上がるだけでも痛みを伴うので正直動きたくない、鍵が開いてるから用事があれば入れば良い。

ガチャンと扉の開く音、用件の主が家に入ってきたようだ……俺って無用心だな。

【美織】
「こんばんはー、マコ起きてる?」

【一条】
「美織……?」

声を聞く限り、主は美織だと思われる。
体に鞭打って上体を起こし、電気のコードを引っ張って明かりをつける。

【美織】
「勝手にお邪魔してごめんなさい、具合どう?」

【一条】
「ぼちぼち……かな」

正直に嘘をつく、本当は良くなんかなっていない、余計酷くなったような気もする。

【美織】
「勇にマコが倒れたって聞いて、すぐに来たかったんだけど抜け出す口実ができなくて」

【一条】
「俺のことなんか気にしないで真面目に授業受けてくれよ」

【美織】
「そうはいかないよ、マコはあたしが倒れた時家まで運んでくれたじゃない
あたしがその場にいれば一緒に付き添ってあげれたのに……」

【一条】
「俺なんかのせいで美織に迷惑がかかるのは嫌だな、それに付き添っても暇なだけだぞ」

【美織】
「そういうことじゃないの……あたしは、マコが1人で辛そうにしてるのが嫌なんだよ」

だからこんな遅い時間なのに俺の家を訪ねてきてくれた、それが美織の優しさ。

【一条】
「見てわかると思うけど、辛くはないよ……それよりもこんな遅い時間に何を?」

【美織】
「何をって、倒れた人の所に来る理由なんて1つか2つしかないと思うけど?」

考えられるのは見舞いか看病、はたしてどっちの理由で来たんだろう?

【一条】
「見舞い……か?」

【美織】
「ハ……ズ……レ、でも3割は正解かな、残りの7割はマコの看病に来たの」

【一条】
「看病って云っても……してもらうこともないと思うけど……」

【美織】
「じゃあ聞くけど、晩ご飯はちゃんと食べた?」

【一条】
「……」

【美織】
「ほらね、そういうところであたしが役に立つんじゃない、台所借りるわね」

台所へと消えて行く美織の背中を見つめながら再び横になる、作ってもらっても食べられるのかな……?

……

【美織】
「お待ちどうさま」

【一条】
「作ってもらった後で悪いんだけど、あんまり重いものは食べれないから」

【美織】
「大丈夫、そう思ってちゃんと軽い物選んだから、はいこれ」

渡されたお盆の上には1人分の大きさの土鍋、その中には病人の定番、お粥が入っている。

【一条】
「助かった……これならなんとか」

匙でお粥をすくって胃に流す、俺にとってお粥は味がなくくなにかのトッピングで味を付ける物だった。
だけどこのお粥にはちゃんとした味が付いている、何かダシでも使ったのかな?

【美織】
「お粥くらいなら食べられると思ったんだけど、味の方はどうかな?」

【一条】
「美味いよ、このお粥何か味が付いてるけど?」

【美織】
「それは水じゃなくてカツオダシで煮たから、本当はダシとお粥を別々に作って上から好みでダシをかけるようにしたかったんだけど
急いでて片栗粉買うの忘れちゃって、だけど美味しいって云ってくれて良かった」

ホッと胸を撫で下ろす、美織ならなんの心配もなかったと思うんだけど。
そんなことを思いながらお粥をすする、やっぱり病人にはお粥だな。
後々考えれば風邪を引いたわけでもない、ただ体に痛みを感じるだけの俺にとってお粥は最適じゃないんだろうけど……

【一条】
「ごちそうさま……」

【美織】
「お粗末さま、食欲もあるしそこまで危ない状態じゃなさそうだね」

【一条】
「だから元から危なくなんかないんだって、ちょっと体が倒れただけなんだから」

【美織】
「そのちょっとが油断すると危ないのよ、あたしがいて良かったでしょ?」

【一条】
「ああ、ありがとうな」

【美織】
「どういたしまして、あたし洗い物やっちゃうね」

……

【美織】
「それで某のやつ大目玉食らっちゃって、罰としてとうぶんの間、教室掃除やらされちゃったわけ」

【一条】
「授業サボって屋上で電話なんかしてたらそりゃ怒られるよな」

どうやら志蔵先生にみつかって電話が切れた後、予想通りの展開で廓は怒られたらしい。

【一条】
「もうこんな時間、そろそろ帰らないとまずいんじゃないのか?」

【美織】
「……」

ベッド上で壁にもたれかかっていた俺に美織がしなだれてくる、こんな場面を前にも見たことがある。
弱いからこそ、2人が強くなるために体を重ね合わせたあの日に……

【一条】
「……美織?」

【美織】
「あたしたちって……あの日から変われたのかな……」

美織が云うあの日、正確にはあの夜、きっと2人の頭の中に浮かんでいるのは同じあの日だろう……

【美織】
「あの日……初めて2人で1つになって、お互いを感じられたはずなのに。
なんだか、すごい冷たい感じがするの……」

【一条】
「……どういうことだ?」

【美織】
「あたしたちが結ばれたのは……あたしたちの本当の意思だったのかな……」

そういうことか……あの日2人が結ばれたのは俺たちが強くなる為に、水鏡の悲しみに打ち勝つ為にだった。
云い換えてしまうと、俺たちの意思ではなく、水鏡に触発されて成り行きで体を合わせたと云えなくもない。

【美織】
「水鏡ちゃんが消えたことを利用して、あたしたち1つになったような気がして
そう考えると、冷たいことしてるようにしか思えなくて……」

【一条】
「……」

あの日から、美織は悩んでいたんだろう、好きだった水鏡のことを踏み台のようにしたことを。
水鏡の消失があったからこそ、そう云ってしまえば全てが成り行きでまとめられてしまう。
そこに自分たちの本当の意思は存在しない、美織はそのことを悩んでいたんだ。

だけど……

【一条】
「……美織」

【美織】
「え……んん!」

悩んでいた美織の唇にそっと自分の唇を重ねる、唇越しにも美織のかすかな震えが感じられた。

【一条】
「それは……違うよ」

俺の言葉に美織は驚いたような戸惑ったような顔をしている。

【一条】
「あの時、俺たちが本当に水鏡に触発されて体を合わせたんなら、そこで終わってただろうな」

そう、あれが本当に自分たちの意思でなかったのなら、2人はそこで止まってしまったことだろう。

【美織】
「でも……だけど……」

【一条】
「だったら、これから俺が美織のことを抱きたいって云ったら、どう答えを返す?」

【美織】
「どうって云われても……」

【一条】
「はっきりとした拒絶ができないだろ、それだけでも俺たちが結ばれたのは俺たちの意思なんだよ」

止まってしまった2人には二度と互いの気持ちを受け入れることなんてできない。
それが存在しない2人だからこそ、互いをもっとよく知ろうとする。

【美織】
「……それじゃあ、お願いがあるの……」

【一条】
「何?」

【美織】
「あたしのこと……抱いて欲しいの、あたしが何も悩まないように、2人のために抱いて欲しいの」

【一条】
「おいおい、いきなり抱いてくれって云われても……」

【美織】
「さっき抱きたいって云ったでしょ、それに……彼女が抱いて欲しいって云ってるのにマコは断っちゃうの?」

【一条】
「良いんだな……今俺が美織のことを押し倒しても文句は云えないんだぞ」

【美織】
「好きな人と1つになれるのに文句を云う必要なんてないよ……」

そんな風に云われたら俺が抵抗できるはずなんかない。
美織の体を抱きしめてベッドに倒れこむ、自分からしてくれと云ったくせに美織の体は震えていた。
そんな震えを取り払うかのように唇にキスをして、美織の肩に手を伸ばした……

……

【美織】
「これで……良かったんだよね?」

【一条】
「ああ、俺たちは何も間違っちゃいないさ」

【美織】
「ふふ……でも意外だったな、まさかマコの方から抱きたいって云われるとはね」

【一条】
「あれは美織が意地っ張りだからいけないんだ」

たとえ、以前の行為が水鏡に触発されて行ったものだとしても、今日の行為が全てを覆す……
前は1歩を踏み出すために、今回は2人が未来を信じるために行った行為なのだから。

……

【美織】
「ほーら、病人は大人しく寝てなくちゃ駄目だよ」

【一条】
「もう時間も遅いんだ、なんだったら泊まっていけば良いのに」

【美織】
「本当はそうしたいけど、お母さんがちょっと具合悪いから帰らなきゃ」

【一条】
「だったら俺の所なんかじゃなくて親の所にいてやれよ」

【美織】
「それとこれとは話が別なの、それじゃ、また元気になったら学校でね」

美織にとって、俺は親と同等のレベルで見てもらっているようだ、
なんだか嬉しいような、恥ずかしいような感じがして体がムズ痒い。

【一条】
「……痛」

行為の時はほとんど感じなかった痛みが今になってやってくる、痛みを忘れてしまうほどに集中していたのだろうか?
行為中とはうって変わって体中が痛い、今日はもう動くことさえままならなそうだ。

【一条】
「寝よ……」

肉体的にも精神的にも疲れきった体は再びまどろみを求め、深い闇へと落ちていった。

……

「……ん……い」

どこかで声が聞こえる、耳に届いているのかさえわからないような小さな声、空耳か?

「せ……い……」

空耳ではない、確実にどこかで声を発している、一体どこで誰が?

「せ……ぱい」

声がだんだんとはっきりと大きく聞こえてくる、しかも、その声はどこかで聞いたような懐かしさに満ちている。

「先輩、誠人先輩」

はっきりとした単語が頭の中に響く、そしてこの声、もう二度と聞くことも無いと思っていたあの子の声。
この声の主を、間違えるはずなんかなかった……

【一条】
「水鏡!」

まぶたを開くと、眼の前には二度と出会えないと思っていた少女、水鏡の姿があった。

【水鏡】
「お久しぶりです、先輩」

【一条】
「水鏡……どうして俺の家に……!」

眼を覚ました場所は俺の部屋なんかじゃない、眼の前に広がる景色は形もあやふやな不思議な世界。
ぐんにゃりと曲がった壁が不思議な色を放つ世界、こんな空間は今まで見たことがない。
いや、ここは空間と云うことさえもためらわれるような奇妙な景色だった。

【一条】
「ここは……一体……?」

【水鏡】
「驚かせてしまってすいません、ここは先輩の夢の中です。
夢ですから空間もこんなふうに不安定であやふやな感じになってるんですよ」

【一条】
「夢の中……?……どういうことなんだ?」

【水鏡】
「正確には夢の中ではなく、夢を見るために蓄積された記憶の断片とでも云いましょうか
私はこんな形じゃないと先輩に会うことができませんから……」

【一条】
「そっか……だけど、たとえ夢だったとしてもまた水鏡に会えて嬉しいよ」

【水鏡】
「先輩……」

ポッと頬を赤らめて視線を逸らす、相変わらず水鏡らしい初心な反応だな。

【一条】
「それで……どうして夢の中に出てきたの?」

【水鏡】
「先輩に……真実を伝えるために来させてもらいました」

【一条】
「……真実?」

【水鏡】
「はい……先輩にとって、もっとも残酷で、もっとも信じられないような真実です」

不意に水鏡の顔が暗さを帯びる、一体どんな真実だというのだろうか?

【一条】
「それってどんな真実なの?」

【水鏡】
「驚かないで聞いてください……
先輩は、この世界に存在していてはいけない人間なんです……」

言葉の意味を理解することができない、俺が存在してはいけない? どうしたらそんな見解が出るんだ?

【一条】
「意味が理解できないんだけど……」

【水鏡】
「順を追って説明します、まず先輩は自分の正体がなんだかわかりますか?」

【一条】
「人間……じゃないの?」

【水鏡】
「違うんです……先輩が人間でいられたのは12月の29日まで、そこから先は全くの別物なんです」

【一条】
「12月の29日……それって」

【水鏡】
「察しの通り、先輩が倒れた日です、そしてその日に、先輩という個体は消滅した……」

【一条】
「消滅したって……死んだってこと?」

言葉なくコクンと水鏡は頷いた。

【一条】
「はは……そんなのおかしいじゃないか、だったら今の俺はなんだっていうのさ?」

【水鏡】
「今の先輩はこの世に留まった残留思念です、私と同じ、この世に未練を残して死んだ残留思念なんです」

【一条】
「俺が死んだだって?……莫迦なことを云わないでくれ、俺は今だって元気に……」

【水鏡】
「記憶喪失」

その言葉で俺の口がピタリと止まった。

【水鏡】
「なぜ先輩の記憶の大半が失われてしまったのか説明できますか?」

【一条】
「そ……それは……」

【水鏡】
「先輩の失ってしまった記憶はあの日にもう死んでしまったんです。
そして、先輩の中でもっとも強く残っていた記憶が残留思念となって現世に留まってしまった」

【一条】
「……」

説得力のある水鏡の言葉に俺は何も返すことができない。

【水鏡】
「本来、残留思念がその場に形を持ったまま残るのはタブーとされています。
ですが、先輩に残された記憶はあまりにも強すぎた、タブーを打ち破るほどに強い記憶だったんです」

【水鏡】
「しかし、タブーは必ず正される時が来ます、先輩にとって、それはもう1人の自分の覚醒なんです。
思い出してみてください、もう1人の自分が覚醒した時、先輩は自分を恐れたりしませんでしたか?」

【一条】
「どうしてそれを……?」

【水鏡】
「タブーを排除するためです、先輩が自分を恐れ、自らの存在を自分の手で消滅させるために……」

自らの手で消滅させる、すなわち自ら死を迎えること……

【水鏡】
「もし先輩が人との交わりを避け、孤独を望んでいたとしたら
たぶん……先輩は死を受け入れていたと思います」

【一条】
「たぶんじゃなくて確定だったろうね、1人で悩むにはきつすぎる問題だったから……」

【水鏡】
「人は決して1人では生きていけない、人はそれ個々ではあまりにも小さくて弱すぎるから
ですが、先輩は1人じゃない、先輩には苦悩を共感してくれる大切な人がいらっしゃいますから」

廓や二階堂、新藤先生に音々、そして……美織。
皆俺にはかけがえのない大切な人たち、俺が自分を否定しなかったのは皆の存在があったからだ。

【水鏡】
「でも安心してください、もう二度と、もう1人の先輩が覚醒することはありませんから」

【一条】
「なんだって? それはどういう……?」

【水鏡】
「もう1人の先輩が覚醒する時、1つの共通点があったことはお気付きですか?」

共通点だって?……俺が覚醒したのは全部で2回。
1回は廓……二階堂目当ての他校の生徒との喧嘩の時、もう1回は喧嘩で傷を負った廓を助けに入った時……

【一条】
「2回とも喧嘩の現場だったってこと?」

【水鏡】
「現場は重要じゃないんです、本筋はその現場で先輩が何をされたかが重要になってくるんです」

【一条】
「されたこと……?」

俺が覚醒する直前、どちらも同じ行動を俺はされた。

それは……胸元をつかむこと。

【水鏡】
「もうお気付きですね、先輩が胸元をつかまれた時、それが覚醒のスイッチなんです」

【一条】
「確かにどちらも胸元はつかまれたけど、どうしてそれで俺が覚醒するんだ?」

【水鏡】
「それが残留思念として残った先輩の全てを表しているからなんですよ」

さっきから水鏡の言葉は理解に苦しむような表現が多くされている。
当然今も俺にはよく理解できない、残留思念としての全てが胸元をつかむことに繋がるらしいが……

【一条】
「ちょっと俺には理解できないんだけど……」

【水鏡】
「先輩が残留思念として現世に留まってしまった最大の要因であるのは『母親の死』です。
そして、そこに胸元をつかむという行為を加えてみると、先輩にも全て思い出せるはずなんです……」

母親の死と胸元をつかむ行為、突然の一言なのに何故か違和感がない。
もしかしたら、俺はどこかでそんな光景をすでに体験していたのではないだろうか?……

……

【母親】
「はぁ、はぁ……誠人、お母さん少し眠くなっちゃった、悪いけど……寝かせてもらえる……かしら?」

【一条】
「解った、じゃあ僕はお母さんが起きるまで待っててあげるね」

【母親】
「ありが、とう、はぁ……ま、こと……」

最後にお袋が見せたのは本当に優しい笑顔。
苦しみから胸元を押さえながら必死に笑顔を作るお袋の表情はいつまでも俺の脳裏に焼きついている。

「そうか……そういうことだったのか……」

……

忘れられていた過去の映像が頭の中でフラッシュバックする。

【一条】
「あれは……お袋が最後にとった行動だったんだな」

【水鏡】
「思い出されたようですね……」

【一条】
「……あぁ」

お袋が最後に見せた行為は記憶の中ではなく、直接俺の脳内に刻まれていたんだ。
そして、その日から俺は『死』というものに対して考えを改めた。

【水鏡】
「先輩にとって、胸元をつかまれるという行為は『死』というビジョンに直結しているんです。
体は死から逃れるために自己防衛を行います、それが先輩の覚醒
ですが、それは全てタブーである先輩の存在を消す為の世界の思惑、それが世界が持つ『秩序』なんです」

なるほどな、決して存在してはいけない者を消す役目が世界にはある。
『秩序』を守る為に、もう1人の俺を使って世界は俺の存在を消そうとした。

【一条】
「だけど俺は消えなかった、それはどうしてなんだ?」

【水鏡】
「それは……あのオカリナのおかげなんです」

【一条】
「オカリナのおかげ? オカリナがどう関係してるっていうんだ?」

「あのオカリナは、君と世界を繋ぎとめる鍵だったんだよ」

俺と水鏡の2人しかいない世界にもう1つ声がこだまする、この声には聞き覚えがある。
突如、空間が避け、その裂け目から1人の男が姿を見せる。
上下黒一色の服を着込み、真っ黒なロングコートをまとった長身の人物。

【萬屋】
「久しぶりだね、一条君」

【一条】
「萬屋さん、どうして俺の中に?」

【萬屋】
「君に用事があるからさ、オカリナの件に関しては私も1枚かんでいるのでね」

【一条】
「萬屋さんが……?」

【萬屋】
「ああ、君はあのオカリナがどうして自分の手元にあったのかわかるかね?」

【一条】
「それは……わかりません、物心ついた時にはもう手にしていましたから」

【萬屋】
「あのオカリナは本来君とめぐり合うことはなかった、しかし、それをめぐり合わせたのがこの私なんだ」

【一条】
「萬屋さんが……どうして?」

【萬屋】
「あのオカリナが君と世界を繋ぎとめる鍵だったからさ、もっとも、それに気付いたのは水鏡だったがね」

水鏡の方に振り返ると、うつむいて手をもじもじと動かしていた。

【一条】
「オカリナと俺にはどんな関係があるんですか?」

【萬屋】
「忘れているようだが、君が胸元をつかまれたのは全部で3回だ、だが1回は覚醒が起きなかった。
何故だと思う?」

【一条】
「何故って云われても……?」

そういえば、1回胸元をつかまれても覚醒しないことがあったな、あれはどうしてなんだろう。
萬屋さんの口ぶりからするとオカリナが関係しているようだけど。

…………もしかして

【一条】
「オカリナの有無……ですか?」

【萬屋】
「ご名答だ、オカリナを携帯していたかどうかで君の覚醒は左右された、覚醒した2回はどちらもオカリナを持っていなかった
君の生死に関わる重要なあのオカリナをね」

【一条】
「生死に関わる?」

【萬屋】
「あのオカリナは云ってみれば現世と思念を繋ぐ君の生命線だ、その証拠に君の記憶を一番強くオカリナは記憶していた」

【水鏡】
「先輩が忘れなかった、あの曲のことですよ……」

【萬屋】
「それほどまでに強く残ってしまった、あのオカリナが他でもない、君の肉親の形見だったからね
形見に残された君の記憶が強すぎたため、君の存在はタブーになってしまったんだ」

【一条】
「……」

萬屋さんがコートの内ポケットをゴソゴソとあさり、何かを取り出した。
それは紛れもない、あの日、水鏡と共に消えてしまったあのオカリナだった。

【一条】
「それは……!」

【萬屋】
「どうしてこのオカリナがここにあるのか不思議かい?
だけど、元々これが現世に存在していることも云ってみればタブーなんだよ」

【一条】
「俺だけじゃなくて、オカリナもタブー……?」

【萬屋】
「君の母親と水鏡の死と共に、このオカリナも現世では死を迎えた
水鏡が気が付かなかったら、このオカリナが君の前に現れることも無かったんだ」

【水鏡】
「私が、現世から消える時にオカリナを一緒に持ってきてしまったんです
それが先輩の記憶を繋ぎとめているとも知らずに……」

【萬屋】
「それに気付いたため、オカリナは君の前に姿を現した。
現したとは云っても、実際には私が直接届けたと云った方が良いかな」

【一条】
「萬屋さんが……一体どこで……?」

【萬屋】
「君が病院で生死の境を彷徨っていた時、一度私は君の病室を訪問させてもらってね
その際にオカリナを渡し、少々君の記憶を操作させてもらった」

【一条】
「記憶を操作したって……?」

【萬屋】
「君がオカリナを手にした時の記憶があやふやだったのはそのためだ、急にオカリナを持っていたら混乱を招くと思ってね」

この人は記憶の操作までできるのか……やっぱりこの人は……

【一条】
「萬屋さん、もしかしてあなたは……」

【萬屋】
「どうやら気が付いたようだね、君が考えている通り、私は現世を生きる人間ではない
現世と黄泉のチャンネルを結び迷人を導く者、私の正体は生命の番人『死神』だ」

【一条】
「やっぱり……そうだったんですか……」

うすうす感じてはいた、この世に死神がいるなんて信じてもいなかったが。
全身を真っ黒な衣装で固め、ああも人間離れした行動を見せられては信じざるをえない。

【萬屋】
「死神としての立場上、水鏡が期間を終えるまでは君に正体を明かすことができなくてね」

【水鏡】
「恨さんは私の監視者だったんです」

【一条】
「その期間ってのと監視者って云うのは何?」

【萬屋】
「人は死ぬと黄泉世界で輪廻転生の時間を待つ、しかし、いつ転生できるかは誰にもわからな。
最低でも死後百年は黄泉世界に留まらなければならない、しかし、ごく稀に特例という物が存在する。
現世に強い未練を残したまま去った者には特例として、現世に帰ることが許されるんだ」

【萬屋】
「ただし、未練が強ければ誰でも現世に戻れるというわけじゃない
並外れた強い未練でない限り、現世に帰ることは許されない。
帰れたとしてもそれには期間があり、その期間は1ヶ月、桜の花が咲き、散り終わるまでの僅か1ヶ月だけ許されている」

桜の花が咲いている期間、確かに桜が終わりを向かえた時、水鏡も俺の前から姿を消したっけ。

【一条】
「その特例が水鏡だったってことですか?」

【萬屋】
「そういうことだ、私も特例の知らせを聞いた時は驚いた
ここ数千年の間、一切特例が認められなかったくらいだからな」

数千年って、萬屋さんはもうどれくらいの時間、死神としての仕事をしてきたんだろう?

【萬屋】
「水鏡は黄泉世界へ来た時から特例として認められていた
だが、本人があまりそのことをよろしくは思ってくれなくてね、今までずっと拒否していたんだよ」

【水鏡】
「私が現世に戻ったとしても、そこには何の意味もありませんでしたから
ですが、今の時期なら、私の存在が大切な人を救えるような、そんな気がしたから……」

チラッと水鏡が俺の方に視線を向けた、大切な人を救うために。
その言葉は紛れもなく、俺自身に向けられているんだ。

【萬屋】
「現世に戻るためには自分の他に、死神を1人連れて行かなくてはならない
自分と死神との間に、監視者という立場が生まれてくるんだ」

【一条】
「だから萬屋さんは水鏡のことをいつも気にかけていたんですね」

【萬屋】
「それが私の仕事だからな、話をオカリナに戻させてもらうが……
オカリナに込められた君の記憶は消滅から逃れるために、その地に根を張り巡らせる
地に根が定着した時、タブーは存在の確定に変わる、それに待ったをかけるのが君の覚醒だ」

【水鏡】
「根が定着するには、その人が生きる意志を持たないといつまでたっても駄目なんです」

【萬屋】
「本来なら、私がそのタブーを摘み取らなければならないんだが
水鏡と1つ約束をしてね……」

【一条】
「……約束?」

【萬屋】
「水鏡が存在する期間中は君のことを摘み取るのは待ってくれとお願いされてね、それから……」

【水鏡】
「私が先輩に生きる意味を見つける手伝いができなかったら、恨さんは先輩のタブーを摘み取る
もし、私が先輩に生きる意味を見つけてあげることができたのなら、恨さんに先輩のことを助けて欲しいとお願いしたんです」

死神に助けて欲しいってお願いするのはどうかと思うけど、それを了承する死神もどうなんだろうな……

【萬屋】
「結果は……私の負けだ、一条君はもうこの世界との共存を心から望んでいる
根もしっかりと地に定着して、もう私が君のタブーを摘み取ることは不可能だよ」

お手上げだといった感じで軽く両手を挙げ、小さく肩を落とす。
    
【一条】
「すると……俺は……」

【水鏡】
「先輩はもうタブーではなくなります、残留思念なんかではなく、肉体を手に入れた人間として
これからの時間も生きていくことができるんです」

喜んで良いところなのだろうが、喜んで良いのかわからない。
今まで、自分が残留思念だなんて思って生活をしていなかったからだろう。

突如突きつけられた事実に、未だ思考は追いついていない。

【萬屋】
「ただし、まだ君は完全に肉体を手に入れたわけじゃない
9割方手にしているが、後1割が問題だ、その1割を手にできなければ、君の願いは叶わない」

【一条】
「後、1割……」

【萬屋】
「とは云ったものの、その1割は時間が解決してくれるだけの消化物に過ぎない
君が特に何かをしなければならないとかではないんだ」

【水鏡】
「先輩……今、体に覚えのない痛みを感じていませんか?」

【一条】
「体中痛いんだけど、まさかそれって……」

【萬屋】
「ああ、思念と現世が最後の定着をする、その副作用みたいな物だ
存在の『嘘』が『事実』に変わるのだから、反発が起きるのは不思議ではない」

【一条】
「後どのくらいで、俺の痛みはとれるんですか?」

【萬屋】
「時間にして後3日、3日経てば君は完全に現世と定着し、痛みも消える。
しかしこの3日の間、ここで下手に動いたりすれば、君の存在はまた嘘に逆戻り
そうなってしまえば、どうなるかは云わないでもわかるな?」

【水鏡】
「この3日間は家で安静にしていてください、そうすれば全部うまくいきます
激しい運動なんかは絶対にしないでくださいね、先輩には素敵な方がいるんですから」

【萬屋】
「激しいといえば、今日のような行動は慎んでもらいたいんだがね……」

【一条】
「な!……」

【水鏡】
「う、恨みさん!」

萬屋さんは全てお見通しといった感じで言葉を投げかける、見られていたのか?
横にいる水鏡なんて両手で頬を覆っている、まさか水鏡まで……

……

【萬屋】
「死神として幾千の時を揺らいできたが、君のような判例は初めてだ
たぶん、これからも君のような例が出てくることは無いだろうな」

【水鏡】
「先輩、絶対安静にしていてくださいね、でないと宮間先輩が悲しんじゃいますよ」

【一条】
「わかってるって、俺だってせっかく貰ったチャンスをふいにするようなことはしないよ」

【萬屋】
「さて、そろそろ私たちも去らねばならんようだ
一条君、最後に云わせて貰うが……楽しませてもらったよ、ありがとう」

死神にお礼を云われるなんてな、生涯一の誇りになるぞ。

【水鏡】
「私も、もう一度先輩に会えて良かったです、これからも宮間先輩と幸せになってくださいね」

【一条】
「俺がどれだけ美織を幸せにしてやれるかわからないけど、やれるだけのことはやってみるよ」

【水鏡】
「そのいきです、ファイトファイトです」

両腕に小さく拳を作って応援する、相変わらずそんなポーズの水鏡はかわいらしいな。

【萬屋】
「そろそろ良いかな? 一条君、これからの3日間、健闘を祈るよ」

【一条】
「……はい」

世界が一瞬にしてパアッと白1色に染まってゆく。
そこに存在した3人の影も今となっては白1色、この世界は崩壊を始めた……





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