【4月20日(日)】


鳥の鳴き声が眠りに落ちていた意識を現実に引き戻す。
今日は昼ごろから美織が料理を教えに来てくれるんだった。

【一条】
「そろそろ起きておいた方が良いか……」

ゆっくりと起き上がり時計を確認すると、時間は1時をまわっていた。

【一条】
「昨日の酒のせいだな、まだいつ来るかもわからないのにまずいな……」

昼過ぎに来るといっていたからそんなに早くは来ないと思うがあまり悠長にしている時間も無い。
急いで顔を洗って寝癖を直す、昼食は……食べなくていいか。

【一条】
「何時に来るかわからないし、部屋の掃除はあらかた昨日終わらせたし、することがないな……」

美織が来るまでの間どうにかして時間を潰さねばならないな、確か部屋に小説があったな。
それでも読んで時間を潰すか。

……

ピンポーン

【美織】
「マコー、来たわよー開けてー」

ベル音と共に美織の声が聞こえる。

【一条】
「はいはいただいまー」

【美織】
「ふぅー、重かったー」

スーパーの袋4つも持ってくれば重いだろうさ、電話でもしてくれれば良かったのに。

【一条】
「ずいぶんとたくさん買ってきてるけど、これ全部材料?」

【美織】
「そうよ、どうせろくな物食べてないんだろうと思って1週間分買ってきちゃった」

【一条】
「1週間分ってまさか毎日教えに来るとか云わないだろうな?」

【美織】
「まぁたまに見に来て上げるくらいかな、あたしだって毎日暇ってわけじゃないし」

良かった、もし毎日来られたらどこかで廓たちにばれてしまうよ。

【美織】
「それじゃ、台所の方見せてもらうわよ」

昨日掃除しておいたから別に汚れてはいないと思うけど……

【美織】
「ふんふん、塩と砂糖はここ、お醤油は……うわ、マコ、オリーブオイルなんて持ってるの?!」

【一条】
「ああ、それは知り合いの人が野菜にかけて食べてれば栄養取れるって云ってくれたんだ」

オリーブ油をくれた知り合いは新藤先生だ、先生のおかげで今まで倒れなかったのかもな。

【美織】
「調味料はそれなりにあるし、台所は綺麗だし、これなら彼女できても大丈夫ね」

【一条】
「どうしてそこで女の話になる」

【美織】
「女の子はね、台所が綺麗な男に惚れるのよ、部屋がいくら散らかってようが水場が綺麗ってことは
その気になればすぐに部屋でも綺麗にできるものなのよ」

【一条】
「台所が綺麗だからって部屋まで綺麗にできるとは限らないだろ」

【美織】
「わかってないわねー、水場は一番綺麗にするのが大変なのよ、疲れる上に冷たいんだから。
部屋なんて疲れるだけで済むでしょ、洗い物のできる男はポイント高いのよ」

【一条】
「な、なるほど……」

【美織】
「わかればよろしい、それじゃ早速料理に取り掛かるけど、お昼は何食べたの?」

【一条】
「起きるのが遅かったから食べてない」

【美織】
「ありゃりゃ、ということは当然朝ごはんも食べてないか、だったら少しはお腹に溜まる物が良いかな」

買い物袋をごそごそとあさって材料を選別していく、一体何を作ることになるやら。

【美織】
「簡単にできてお腹に溜まる物……これとこれと……これかな」

テーブルの上に魚やら野菜やらが次々と置かれていく、この材料たちが後に兵器に変わってしまうかもしれないんだよな……

【美織】
「よし、こんなもんかな」

材料を出し終えると自分の鞄から何かを取り出す、あれは……エプロンか。
ピンクのエプロンをつける、ミニスカートにエプロン……好きな人はたまらないんだろうけど
俺はこういったシチュエーションにうといのでなんとも云えない。

が、エプロンをした美織は妙にかわいらしかった、俺ってどこか変なのかな?

【美織】
「もぉー、なーにエッチな眼で見てるのよ、あたしに期待したって何も出ないわよ、はいこれ」

【一条】
「もう1個エプロンってことは……これは俺が?」

【美織】
「料理するんだから当然でしょ、まさか恥ずかしいなんて云わないわよね?」

【一条】
「……恥ずかしいです」

【美織】
「それくらい我慢しなさい、今日は某と勇は隣町に行ってるから来ないわよ」

【一条】
「それならまあいいか、あいつらにエプロン姿なんて見られたら俺はもう駄目だ……」

とりあえずあいつらが来ないということでエプロンをつけてみる、これがなかなか着辛いぞ。

【美織】
「あたしが後ろ結んであげるからジッとしてて、ここでキュッと
はいできた、こっち向いてみて……ふふふ、マコかっわいーい」

【一条】
「かわいい?」

俺のどこがかわいいって……うわ、こ、これは!
普通のエプロンだと思っていたら、正面に大きくネズミのキャラクターがプリントしてあった。
しかも女の子が好きそうな変にかわいいやつ。

【一条】
「お、俺がこれをつけるのは、ちょっと、まずいんじゃ……」

【美織】
「大丈夫、あたししか見ないんだからそれでいいの、さてそれじゃ始めますか、ファイトー」

【一条】
「おぉ……」

テンションはがた落ちのままいよいよ料理が開始された。

……

【美織】
「まず基本の話になるけど、マコは包丁は扱える?」

【一条】
「一応使うことはできるけど、早さも正確さも無い」

【美織】
「そんなもの無くても良いのよ、使えるってことは切るのは大丈夫そうね、まずこの野菜切ってみて」

まな板の上に大根と人参が置かれる、野菜の基本中の基本だな。

【一条】
「切ってみてって何切りにするんだよ?」

【美織】
「皮を剥いて大根はいちょう切り、人参は細切りにしてみて」

【一条】
「いちょう切りって何ですか?」

【美織】
「大根を面にそって薄く切ってそれを4つに切るの、云い方を変えると扇切りかな」

よく汁物に入っている分度器を半分にしたみたいなあれか、できるかわからないがやってみなくては……

【一条】
「……皮が剥けません」

【美織】
「だろうと思って皮剥き買ってきて正解だったわね」

【一条】
「世話かけます」

皮剥きを貰ってさっさと剥いていく、これは一家に1つあると重宝するだろうな。

【美織】
「剥けたら大根を薄切りにして、多分上手くいかないだろうけどあせらずゆっくりね」

大根の薄切り、これが簡単な様で難しい、手が小刻みに震えているぞ。
これじゃあいつか指を切るんじゃないだろうか?

かなりの時間をかけて大根を薄切りにし終えた、これだけでもえらい緊張したな。

【美織】
「次は薄く切ったのを4つに切るの、縦と横に1回ずつ切ればそれでいいから」

今度はさほど手が震えることも無く大根のいちょう切りを完了する。

【美織】
「次は人参ね、また皮を剥いて頭と尻尾を落としてから今度は縦割りにする。
その後切ったのを重ねて端から細く切っていけばいいの」

【一条】
「縦割りとか初心者には危険じゃないか?」

【美織】
「そうかもね、じゃあそこはあたしがやるから細切りはマコがやってみてね」

皮が付いたままの人参を受け取ると手早く皮を剥いて人参を縦割りにする。
これが女の子の力、俺なんかでは足元に行くことさえできないんだろうな。

【美織】
「はい交代、後は重ねて切るだけだから大丈夫よね」

【一条】
「なんとかなるでしょう……」

またしても手が震える、この震えが無くなるまで料理には苦労させられそうだな。

……

【一条】
「で、できました……」

お世辞にも細いとは云えない、太かったり変に細かったりと形がおかしい物ばかりだ。

【美織】
「初めてだったらこんなもんよ、気にしない気にしない、次は魚を切りましょう」

美織が用意したのは鮭の切り身、これのどこに包丁を入れれば良いというのだろうか?。

【一条】
「切り身のどこに包丁を入れたら?」

【美織】
「この切り身よーくみてみなさい、骨が付いているでしょ、それをとるのよ」

【一条】
「骨にそって包丁入れればいいの?」

【美織】
「そゆこと、だけど魚は間違えるとすぐぼろぼろになっちゃうから慎重にね」

【一条】
「そうゆうふうに云われると余計な力が加わってしまうんですけど」

【美織】
「それも体験の1つよ、ほら余所見しない手切るよ」

【一条】
「失礼しました……」

これもかなりの時間がかかってようやくできた、魚の形はなんとか保たれているな。

【美織】
「OK、その切り身に塩胡椒して少しなじませておく、さっきの大根と人参の方茹でちゃいましょうか」

鍋に水を張って大根と人参を入れて火にかける、これは何になるんだろうか?

【美織】
「マコでもご飯ぐらい炊けるよね?」

【一条】
「そこまでできなくはない、米を研いで炊くぐらいはできるよ」

【美織】
「それじゃ今のうちにお米を研いでご飯の準備しとこうか、これはあたしがやるからお鍋が吹きこぼれないか見ててね」

米櫃から手早く三合分の米を取って研ぎ始める、研いでは水を捨て、また研いでは水を捨て、それを計3回繰り返した

【美織】
「1時間くらい水に浸けて置いた方がいいんだけど、今日は30分くらいで良いかな」

【一条】
「美織さん、美織さん! 鍋があまり好ましい状態じゃないです」

【美織】
「吹きこぼれそうになったら少し水を足して火を弱めて」

云われたとおりに水を差して火を弱めると鍋のふちまで来ていた泡がぱあっと消えた、これは裏技なのでは?

【美織】
「そろそろ煮あがったころね、そのお鍋にカツオのダシを入れてもう少し煮ておくの。
ダシの匂いが立ち上ったところで火を止める、それから少しの間冷ましておく」

【一条】
「これは一体なんの料理なんでしょうか?」

【美織】
「ここまでやってわからないの? 大根に人参とダシとくればお味噌汁しかないでしょ」

【一条】
「味噌汁って味噌お湯に溶かすだけじゃないんだ」

【美織】
「あのねぇ、それじゃお味噌汁じゃなくてただの味噌が溶けたお湯にしかならないの。
本当は煮干とか昆布や鰹節でダシを採りたいんだけど、マコだったら素を使った方が簡単で良いでしょ?」

【一条】
「お心遣い感謝します、ダシを採る時間とか細かいこと云われても無理だ」

【美織】
「でしょ、だけどまさかお味噌汁にダシを入れることを知らなかったとはね、今は小学生でも知ってるわよ」

【一条】
「どうせ俺は小学生以下ですよ」

【美織】
「もぅ拗ねないの、魚もそろそろ良い感じだから身に小麦粉をまぶしてと、炊飯器のスイッチもいれて良いわね」

魚に小麦粉まぶしてどうするんだろう? 焼くか揚げるか煮るか、どれになるんだろうな。

【美織】
「フライパンを熱して温まったらバターを入れるの、バターが溶けたところで魚を投入」

答えは焼くでした、さすがにここは美織に任せる、ここが俺の腕が一番力を発揮する悪魔の時間。

普通に焼いているだけなのに何故か不可思議な物ができ上がる、魚の存在が消えるぐらいの核兵器が産み出されるんだよな。
まあ美織がやってくれているから核兵器はできないだろう、良かったな魚よ、お前は人類の敵でなく栄養になれるぞ。

【美織】
「片面が焼けたところで裏返して、隠し味にお醤油をたらす、そしたら蓋をしてちょっと休憩、簡単でしょ?」

【一条】
「見てる分にはそう思うんだけど、やってみると兵器ができちゃうんだよな……」

【美織】
「どこに問題があるのかわかんないけど、迷ったら一旦火を止めて味を見たら良いのよ」

【一条】
「あっ……その手があったか」

一旦火を止めるのは悪いことじゃなかったんだ、なんでそんな単純なことに今まで気付かなかったんだろう?

【美織】
「料理は一発勝負じゃないんだから、手直しはいくらしても良いんだよ」

【一条】
「そうだよな、なんで味見しなかったんだろ?」

【美織】
「味見の段階でもう体が拒否してたとか?」

【一条】
「……ありえる」

一段とテンションが落ちる、味見をしなかったんじゃなくてできなかったんだろう。

【美織】
「落ち込まないの、もう魚も良さそうだし、お皿はあるわよね?」

【一条】
「魚が入るくらいのならあるけど、出してくる」

【美織】
「お願いねー、それからご飯とお味噌汁のも」

食器を探していると台所からこの家ではありえない匂いがしてきた。
昨日廓が食べてた昇天蕎麦とは比べるまでも無い良い匂いが漂っている。

【一条】
「良い匂いだ、最近こういった感じを受けなかったな」

【美織】
「マコは料理しなすぎるのよ、お皿に魚を盛って最後にレモンの輪切りを乗せれば完成」

【一条】
「旨そうです、これはなんて料理?」

【美織】
「鮭のムニエルだけど、云ってもわからないと思うから、西洋版焼き魚かな」

【一条】
「西洋版ねぇ……」

【美織】
「ここで止めても良いんだけど、最後にもう一品、マコがいつも使ってるオリーブオイルを使ってサラダでも作ろっか」

キュウリやらキャベツやらがまな板の上に勢揃いする、これは俺が切れば良いのかな?

【一条】
「俺が切りたいように切って良いかな?」

【美織】
「サラダだし、形を気にする物でもないからかまわないよ」

【一条】
「それじゃ俺流で……」

俺流といってもキュウリは輪切りにして葉っぱ類は手で千切るだけ、サラダなんてこんなもんだろ。

【美織】
「うん、お味噌汁もOK、マコの方はどう?」

【一条】
「もうすぐキュウリを切り終わる、しかし手の震えが止まらないな、そのうちザクッといくんじゃないか?」

ザク!!

【一条】
「なんか手が痛い……あ、切れてる」

指を軽く切ってしまった、これくらいじゃ騒ぐことも無いか、舐めとけばそのうち治るよな。

【美織】
「ちょっとマコ大丈夫!」

【一条】
「軽く切っただけさ、騒ぐことでもないよ、つつつつ……」

【美織】
「ちょっとみせてみて……動脈まで切れてないから救急車はいらないわね。
だけど、このまま放っておいたら細菌がはいっちゃうよね」

【一条】
「大丈夫大丈夫、こんなもんで死にはしないって」

【美織】
「……あむ」

【一条】
「!!!!!!!」

突然美織が傷口を口に含んだ、あまりのでき事に全身が硬直してしまう。

【美織】
「んむ……ふぅ……んん」

【一条】
「み、美織何してるんだよ、俺の傷口なんか口にいれるなってそれこそ大変なことになるぞ!」

美織が傷口を吸い上げるたびに全身を何かが駆け抜ける、それがなんであるか俺にはわからなかった。

【美織】
「んふ……ぷはぁ……止まったかな?」

しげしげと美織は傷口を見ている、指は美織の唾液によってぬらぬらと光って見える。
何故だかそれはとても官能的な光景に思えた。

【美織】
「止まったみたいね、傷口が開かないうちに絆創膏を貼っておかなくちゃ」

【一条】
「……美織」

【美織】
「……え?」

夕日射す部屋で男と女が1人、男の心臓は今までに無いくらい激しく鼓動していた。
男は少女の肩に手を置いて少女の瞳だけをみつめていた、少女の眼も男の瞳をみつめていた。
少女の頬が紅潮するが夕日の効果もあいまって男にそれを悟られることは無かった。

【一条】
「……」

【美織】
「!」

俺は美織の体を抱きしめた、美織の体が微かに震えているが俺を拒絶することは無かった。
初めての感覚、女の子の体を抱きしめる感触、美織の体は思っていたよりもずっと小さく細い物だった。

【美織】
「マコ……」

【一条】
「……」

時よ止まれ、人間に1回だけ魔法が使うことができたら迷わず今使うことだろう。
このまま世界が静止したら、ありえないことへと思いを廻らせる、それは願望であって俺の理想。
突然の衝動、何がそうさせたのかわからないがこれだけは云える。

俺は男で、美織は女なんだ、ただそれだけが頭の中を駆けずり回っていた。

【一条】
「……」

【美織】
「……」

【一条】
「……」

【美織】
「……」

【一条】
「……」

【美織】
「……マコ、晩ご飯食べちゃおうよ」

抱きしめられたままそんなことを云う、それで俺の腕の力がふっと無くなった。

【一条】
「……」

【美織】
「……」

【一条】
「……ごめん」

謝ることしかでき無かった、自分の欲望を衝動に任せて美織を抱きしめた、そこには俺の自己満足しか存在していなかったのだから。

【美織】
「謝らなくても良いよ、もとはといえばあたしが余計なことしちゃったんだし」

【一条】
「……ごめん」

【美織】
「だから謝らないでって、それより冷めないうちに晩ご飯食べようよ」

台所から美織が姿を消すと自分の心臓の高鳴りに気付く、いまにも爆発しそうなくらい激しく鼓動している。
どうにかして鼓動を止めなくては、これから晩飯だって時にもしもう1人が目覚めたら取り返しが付かない。
今の俺はいつもとは違う、そこにもう1人の力が加わったら……頭の中が真っ黒に塗りつぶされる。

【一条】
「落ち着け……落ち着け……落ち着け……」

ゆっくりと鼓動を抑えるがあまり治まってくれない、治まれよ!

【美織】
「マコ、準備できたよー」

【一条】
「あぁ……」

結局鼓動は半分も治まらずに飯になってしまった。

【美織】
「所々あたしが手伝ったけど半分はマコが作った物よ、自分で作った物の味確かめてみたら」

【一条】
「それじゃぁ、いただきます」

【美織】
「いただきます」

味噌汁をすする、ダシと味噌の味が合わさって口の中に旨みが広がる。

【一条】
「味噌汁旨いな、ダシが入るだけでこんなに違うんだ」

【美織】
「ダシが入らなかったら飲めないわよ……」

【一条】
「ごもっとも、しかし野菜は凄い形だな、自分の腕の無さが悲しい」

【美織】
「初めてだったんだからこんなもんよ、他のも食べてみてよ」

【一条】
「ふぐふぐ……魚旨、魚ってこんなに旨いものだったんだ」

【美織】
「ふふ、気に入ってくれた?」

【一条】
「もちろん、作り方は大体覚えてるけどそう簡単にはこの味は出せないだろうな」

【美織】
「そんなことないよ、2、3回やればマコも覚えるって」

久々の旨い食事に腹が食い溜めを要求している、ここは食べれるだけ食べておこう。

【一条】
「飯ってまだ残ってる?」

【美織】
「三合炊いたからまだあるわよ、おかわりする?」

空っぽになった茶碗を差し出すと台所に美織が消える。

【一条】
「こんな飯毎日食べれたら幸せだろうな……」

【美織】
「何感傷に浸ってんのよ、毎日これくらいのものが作れるように練習しなさい」

【一条】
「努力します……」

並大抵の努力じゃ上手くいかないだろう、なんたって作るのが俺なんだから……

……

食事が終わって台所の掃除を2人でする。

【美織】
「それにしてもよく食べたわね」

【一条】
「次はいつまともな食事がとれるかわからないんだ、食える時に食えるだけ食う、戦場の常識だぞ」

【美織】
「突然この街が戦場になる可能性なんて限りなく低いわよ、呼んでくれればご飯ぐらい作ってあげるのに」

【一条】
「それじゃ申し訳ないだろ、俺は得しても美織にはこれっぽっちも得が無いんだから」

それなんだよな、今日のことにしたって俺は上手い飯が食えて料理のことを多少なりとも理解することができた。
しかし、美織には一切の得が無い、休日返上で料理を教えて材料費は自分で出して、損失しか思いつかない。

【美織】
「得が有る無いじゃないのよ、今日はあたしが好きでやったの、それで良いじゃない」

【一条】
「そう云われると何も云えなくなるんだが……」

【美織】
「何も云わなくて良いの、あたしが自分の判断でマコの家に来て料理を教えた、それ以外の何物でもないんだから」

【一条】
「……悪いな、それから……ありがとう」

【美織】
「お礼の言葉だけ頂いておくわ、あたしからも、ありがとう」

【一条】
「……?」

美織は俺の何に対してお礼を云ったのだろう? 思い当たる節がなんにも無いんだけど……

【美織】
「よし、台所の掃除も終わったことだし、お茶でも淹れようか?」

【一条】
「お茶ぐらい俺がやるよ、美織はあっちで待っててくれ」

【美織】
「うーん……じゃあお願いするわ」

少し悩んでから了解の返事を頂く、お茶まで美織に淹れてもらうわけにはいかない。

【一条】
「お茶っていっても、紅茶くらいしかないんだけどそれで良い?」

【美織】
「勿論、でもマコ紅茶なんて飲むんだ」

【一条】
「なんてとは聞き捨てならないな」

戸棚にしまってある紅茶缶を取り出して蓋を開ける、久しぶりに嗅ぐキャンディの香りだ。
ポットに茶葉を入れて先に火にかけて熱くしておいたお湯を注ぐ。
茶葉がお湯の中で花開くまでしばしの時間を置く、この時間が俺は好きだ。

【一条】
「お待たせさん」

2つのティーカップと紅茶の入ったポットを持って美織の元に行く。

【美織】
「紅茶用のポットとカップなんてなんかマコらしくないな」

【一条】
「俺だって少しはこだわる物があるさ、茶葉も良い具合に開いたことだし飲み時かな」

ポットからカップへと紅茶を移動させる、紅茶ならではの清純な香りと暖を約束させる湯気が立ち上った。

【美織】
「良い香り、いただきまーす」

【一条】
「熱いから気を付けて……」

【美織】
「あつ!  少し火傷しちゃったかな」

全部云い終らないうちに早速舌を火傷する、そんな焦って飲まなくても良いのに。

【一条】
「云わんこっちゃない、焦って飲まなくても紅茶は逃げないんだから」

【美織】
「い、云われなくてもわかってるわよ……ふぅー、ふぅー、すす……あ」

冷まして飲んだはずなのにまだ何か疑問があるようだぞ、淹れ方をどこか失敗してたかな?

【一条】
「美味しくなかった?」

【美織】
「ううん、すっごく美味しい、普通の紅茶のはずなのに今までの紅茶とはなんか一味違うの」

【一条】
「あぁそのことか、隠し味程度にブランデーを少し入れるんだ、そうすると体が暖まって気分も落ちつくから」

【美織】
「へぇー、なんか意外だな、料理のことはちっとも知らないくせに紅茶に隠し味使うなんて」

【一条】
「紅茶のことなら多少はわかる、好きなものには人間誰しも貪欲だろ」

【美織】
「今あえて悪い表現したわね、貪欲なんて云わなくても他にも表現はいくらでもあるのに」

いくらでもあるか、それは違うんだよ。
人は誰にしても自分に対して貪欲なんだ、この世に聖徒君子は決して存在しない。
現に俺は……やめよう、今考えても無駄な気がする、もう遅いんだ。

【一条】
「そういえば久しぶりだな、こんなゆっくり紅茶を飲んだのも」

【美織】
「紅茶ぐらい毎日でも飲めるでしょ?」

【一条】
「紅茶を飲むだけなら毎日でもできるさ、だけど、いつもの俺には余裕が無いんだよ」

【美織】
「余裕って、なんのことよ?」

【一条】
「なんて云うかな、落ちついていられる時間がないって云うのかな、いつも何かしら頭の中に問題が存在する。
それが気になってしまうと舌にまで神経を回すことが難しくなる、紅茶も美味く感じれなくなるんだよ」

【美織】
「問題を考えないようにすることはできないの?」

【一条】
「無理だろうね、俺は、普通の人とは違うから……」

【美織】
「……」

【一条】
「……」

言葉のなくなった部屋に紅茶をすする音だけが小さく響く、やがて紅茶もカップから消えて音が掻き消えた。

【一条】
「もう一杯どう?」

【美織】
「お願い……」

交わす言葉はとても短く、質問と答えが直球で投げかわされる。
場を繋ぎ合わせる紅茶の存在がこれほどまでに大きく、俺たちはそれよりも遥かに小さいことを実感した。

……

【一条】
「本当に送らなくても大丈夫?」

【美織】
「心配しなくても大丈夫だって、家までは街灯もあるし、変な奴が来たら大声上げちゃうから」

紅茶を飲み終えるころには時計の針は10時を指していた、送って行こうと思ったのだが美織は首を縦には振ってくれなかった。

【一条】
「大丈夫って云われてもね、美織も若い女の子なんだから少しは怖いとか思わないの?」

【美織】
「あたしはそんなキャラじゃないでしょ、それともマコはあたしが。
『あたし夜の街なんて怖い、家まで一緒に付いて来てくれる?』とか云った方がいいかしら?」

【一条】
「あんまりそんな美織は想像できないな……」

【美織】
「でしょ、それにあたしだって誰かが近づいてくる気配ぐらいわかるって」

【一条】
「そこまで云うならそれでいいけど、本当に気を付けて帰れよ」

【美織】
「あらマコ、あたしのこと心配してくれるんだ、男はやっぱり優しさよねー」

【一条】
「俺がどうこうはいいんだ、明日は学校だし、お互い元気な姿で明日会いたいだろ」

【美織】
「うん、それじゃ、おやすみ」

【一条】
「……おやすみ」

玄関の扉を静かに閉じて美織が出て行く、送らなくてもいいと散々云っていたけどやっぱり心配になる。
追いかけたいが、そうすれば美織に大丈夫だから帰れと云われるのが落ちだ。
それに下手をしたら変態に間違われかねない、それはさすがに俺としても立ち直れるか自信が無い。
衝動を抑えて今日は大人しくしてよう、大丈夫、自分に云い聞かせて気持ちが落ちつくのを待った。

……

上手く断れた、今はあまり2人でいて大丈夫な心理状態じゃない。
心臓がバクバクと弾けてしまいそうなほど強く鼓動している。
一緒にご飯を食べている時も心臓の鼓動は治まっていなかった、あの時、抱きしめられた時からずっと……

【美織】
「マコに……抱きしめられた……?」

それだけのことのはず、なのにいつまでたっても心臓は鳴り止む気配がない、驚きだけでここまで持続するものだろうか?

【美織】
「あたし……どうしちゃったんだろ……胸が……痛い」

そっと胸に手を添えると鼓動が手にも伝わってくる。

【美織】
「落ちついて、明日は学校なんだから、今からこんなんじゃ明日どうやって顔合わせればいいのよ」

あんなことがあったのに落ちつかせてくれる時間がない、明日の学校までの僅かな時間で心を平常心に戻すことができるだろうか?
街灯が唯一の灯りとなる夜道、あたしの中で何かが変わってきている、それが何かはわからない。

【美織】
「だけど、これが良いことなのか悪いことなのか、あたしには難しすぎるよ……」

少女の胸の中、とても小さな物ではあるが、1本の道ができかけていた。





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜