【七章・ = 〜イコール〜】


激しく、強く、雨が傘のビニールに打ち付ける。
ビニールに雨の雫が当る度に、パンパンと弾けるような音がする、1回、2回とリズム良くではない。
バシャバシャと降り続ける雨は、途切れることなく音を産み出し続けている。
これだけ降っていると、あまり外出をしようなんて気にはなってこない。
それでも、私は部屋でじっとしていることなんて出来なかった……

行きかう人の顔に休むことなく視線を向ける、違う、違う、違う。
今日でもう実に4週間目、私は1日も休むことなく毎日のように街の中を探し続けている。
明日はお休みの土曜日、今日は学校のあった日だけど、気分が優れないと嘘をついてズル休みをした、これで2回目。
何回まで休めるのかわからないけど、とりあえずまだ進級に問題はない。

降り続ける雨は一向に大人しくなる気配を見せず、今もなお私の傘に降り注ぎ続けている。
地に落ちた雨ははぜて私の足元を濡らし、時折吹く風が私の衣服を濡らす、今日も私はびっしょりだ。
濡れた衣服をまとった体に吹きつける風はとても冷たい、体がブルブル震えてくしゃみがこみ上げてくる。

「クシュ!……」

我慢することも出来ずに私の口からくしゃみが出て行った、一瞬だけ体が熱くなるけど、すぐにまた元通り。
なんだか余計に寒くなったような気がするけど、たぶん気のせいかな。

立ち止まっていると体が温まる要素が生まれないので、ひとまずまた歩き始めた。
多少暖かくなり始めたような気がするけど、きっとこれもまた気のせい、だって服はさっきよりも濡れているんだもの。

「……憐!」

キョロキョロ動かしていた視線を前に移すと、私の対向から傘をさした澄ちゃんが小走りに駆け寄ってきた。

「何してるのこんなところで、具合悪いんじゃなかったの?」

お昼ごろに澄ちゃんから『今日お休み〜?』とメールが着たから、『具合悪くて』と送り返したっけ。
具合悪いのにこんな雨の日に外でばったり会ったらそりゃ不思議にも思うよね。

「あ、うん……ちょっと薬屋さんに」

「嘘ばっかり……」

あっけなくばれた、というかひっかかる人なんてきっと居ない。

「具合悪くはないみたいね、あんなところで何してるのって聞かなくてもわかるけどね。
って憐、あんたびしょびしょじゃないの!」

「うん、ちょっと雨に当たっちゃったから……」

「どこがちょっとよこのままじゃ風邪引くよ、寮に戻るよ」

グッと澄ちゃんに手をひかれるが、私は力をこめて澄ちゃんの力に反発した。
まだ時間は4時だ、まだ時間は十分にあるのに帰りたくないよ。

「まだ、帰る時間じゃない……」

「時間じゃなくても帰るの、このままじゃ本当に風邪引いて寝込むよ。
寝込んでたらそのぶん無駄な時間が出来る、それで良いの?」

やっぱり澄ちゃんは全てお見通し、澄ちゃんに敵わないと思った私は反発を止め、澄ちゃんに腕を引かれてされるがままになった。
寮に戻るまでの間、澄ちゃんは私に何も言わなかった、終始無言、時折私のクシュンというくしゃみの音が聞こえるだけだった。

……

「……熱い」

冷えた体だと、いつもと同じ熱さのお風呂でもやけに熱い、それだけ体が冷え切っていたということもあるけど。
寮まで私を送ってくれた澄ちゃんは、私の度重なるくしゃみのせいかすぐにお風呂に入れと言って準備をしてくれた。
そんなことしなくて良いよって言ったんだけど、私の言葉は見事に無視されて無理矢理お風呂に入れられた。

で、今お風呂に入っているんだけど、やっぱり熱い。
だけど我慢、まだ入って3分と経っていない、今出て行ったら確実にまた戻される。

「はぁ……ポコポコ」

顔を鼻の下までお湯に沈め、小さく息を吐くと気泡がポコポコと音を立てた。
さっきまではただ熱いだけだったけど少しずつ慣れてきた、そうなるとお風呂はとても気持ちが良い。
温かいお湯が私の冷え切った体にじんわりと沁み込んでいく、折角だから後10分くらい入っていようかな。

お湯を両手で作った勺で汲み上げてみる、始めこそたっぷり入っているものの、指の隙間から徐々に抜けて行き最後には数的残るだけ。
不完全な器だと、こうやって水を溜めておくことが出来ない、洗面器のようなものでないとやっぱり無理だ。
私とあいつの想いでというものは、一体どんな器に入っているんだろう?

どこにも亀裂のない美しい入れ物? それとも、私の指のようにどこかに抜け道がある器なの?
考えたって答えは出ない、記憶が何に入っているかなんて誰にだってわからないんだから。
『脳』なんて簡単な答えじゃない、それじゃあそれを取り出したらどんな記憶が入っているのかわかるの?
わかる訳ない、だって記憶は物じゃない、人の頭の中にだけ存在する不確定なものなんだから……

「はうぅ……」

少しのぼせてきたかな、お風呂の中で考え事をするといつまでも考えてしまうからいけない。
もう十二分に体も温まったので、私はお風呂から出ることにした。

「温まったみたいだね、そんじゃこっちおいで」

バスタオルに身を包んだ私に、ベッドの上で来い来いと手で合図する、なんか青年向け映画のシーンみたいな感じだよ。
私何されるの? もしかして澄ちゃんに何かされるの?

なんてどうでも良い考えは吹き飛ばし、髪から雫が落ちないように気をつけながら澄ちゃんの下へ。

「後ろ向いて」

言われるまま後ろを向くと、頭から何かを被せられて視界が急に暗くなった。

「わわ」

「暴れないの」

急なことで驚いちゃったけど、よく見るとこれバスタオルだ、バスタオル越しに澄ちゃんの手がワシワシと動いているのが伝わる。
髪をふいてくれている、強過ぎずまた弱過ぎもしない、なんとも心地良かった。
私の長い髪のてっぺんから徐々に下へ、髪の先まで澄ちゃんは丁寧に拭いてくれた。

「はいお終い、乾かすのは着替えてからね、服と下着どこ?」

「え、良いよ自分でやるから」

あんまりタンスの中は見られたくないので、澄ちゃんのお手伝いは断って自分で用意する。

「向こう向いててくれる?」

「女の子同士なのに?」

「私は恥ずかしいの!」

顔を赤くして怒る私に、澄ちゃんはいつものように笑ってくるりと向きを変えた。
私は手早く下着と変えの服に着替え、どうせ今日はもう外には出ないから寝巻きで十分だ。

「こっち向いて良いよ」

「ん、それじゃあ髪乾かそうか、おいで」

また手で来い来いと合図、正直ちょっと恥ずかしいんだけど、今日はもう澄ちゃんに甘えてしまおう。
澄ちゃんの横にちょこんと腰を下ろして背を向ける、ドライヤーの風が髪に当てられ、澄ちゃんの指が私長い髪の間をすり抜けていく。

「ちょっと髪痛んでるよ、ちゃんとお手入れしてるの?」

「最近はちょっと、してるにはしてるけどあんまり丁寧には」

「長くて綺麗な髪なんだから、勿体ないよ」

クシではなく澄ちゃんは手グシ派のようだ、かく言う私も手グシ派、クシはちょっと引っ張られて痛いし。
寝癖を直す時にだけ歯の柔らかくふにふにしたブラシを少し使うくらい、後はずっと手グシ。
濡れてぺったりとくっついていた髪が、ドライヤーの風に乾かされて徐々にさらさらになっていく。
澄ちゃんの手の感触ももうあんまり感じない、ほとんど乾ききった証拠。

「もう大丈夫だよ、さらさらのするする、思わず抱きしめたい」

がばっと澄ちゃんの腕が私の肩から回り、私の胸の前で澄ちゃんの腕が交差する、後ろから抱きしめられている形だ。

「きゃ、ちょ、ちょっと澄ちゃん?」

「シャンプーの良い香りするー」

シャンプーの匂いがするのはシャンプーしたから当たり前なんだけど、なんで私は抱きしめられてるの?
軽く肩や体を揺すってみたけど、澄ちゃんの腕は解放してくれない、というかなんだかさっきよりもギューってされてるような気がする。

「や、澄ちゃん、痛いよ……」

「痛かった? ごめんごめん」

私の肩越しに顔を出し、澄ちゃんはクシクシと笑みを見せた、高校時代は澄ちゃんこれが癖だったな。
いつも私の後ろ肩から顔だけ出して笑っていた、なんだかとても懐かしい。

「……で、……りなの?」

そんな懐かしさを感じている余裕などほとんどなく、澄ちゃんの表情が暗いものになっていった。
なんて言ったのかははっきりと聞き取れなかった、だけどなんだか澄ちゃんの声、さっきと違ってとても沈んでいた。

「え、なんて言ったの」

「……いつまで、探し続けるつもりなの」

「……」

澄ちゃんの問に、私は応えることが出来ず、視線を外して掛け布団に視線を移した。

「今日も、探してたんでしょ……こんなに雨がいっぱい降ってるのに、あんなにびしょびしょになるまで」

「……うん」

「どうして、何がそこまで憐を動かすの、あの人は人違いだったじゃない」

人違い、私がずっとハモンだと思って探していた人は実際ハモンではなかった。
だけどあれはきっと私の見間違い、あの人はきっと私が交差点で見た人とは別人だったんだ。
髪の感じもそっくりだったけど違う、顔立ちもそっくりだったけど違う、きっとたまたま似てただけ。

私はずっとそう考えている、そうでも考えないと、挫けてしまうから……

「あいつは、きっとこの街にいるよ、あいつに会えるまで私は探したいの」

「どうしてよ、どこにそんな根拠があるの……」

「根拠なんてない、ただ私にはわかるの、あいつはこの街にいて、きっと私を探している」

自分で言っていてもなんだか莫迦みたいな感じになってくる、本当に何の根拠もないんだから。
だけど何故なんだろう、あいつはこの街にいるって気がしてならない、これにも全く根拠はない。
1から10まで全てにおいて根拠がない、それなのに私は自信たっぷりにこう告げた。

「だから私も、あいつを探して見つけたいんだ……」

「憐……」

緩んでいた澄ちゃんの腕が再び強く抱きしめられる、少し痛いけどあえて何も言わなかった。
だって、澄ちゃんの腕……

「いつまでも他人に振り回されないで、このままじゃいつか憐が参っちゃうよ……」

震えている、声も、腕も、澄ちゃんの全てが震えていた……

「このまま倒れちゃったら、私は……嫌だよ……」

声は完全に泣き声になっていた、澄ちゃんが泣いている、原因は私以外には考えられない。
私が心配させてしまっている、澄ちゃんは本当に優しい子だ、そんな子を泣かせる私は凄い悪者。

「澄ちゃん……」

「振り向かないで」

振り向こうとした私を止める、泣いているために少し発音が変だった、きっと泣き顔を見られるのが嫌なんだろう。

「それじゃあそのまま聞いて……心配かけて、ごめんね」

私は謝ることしか出来ない、私の行動が澄ちゃんに余計な心配をかけ、結果澄ちゃんを泣かせてしまった。
もしかすると、今日街で澄ちゃんに会ったのも偶然ではないのかもしれない。

「だけど私は大丈夫、体は昔から丈夫だから」

「それ、理由になってない……」

「ごめんね、こんなことしか言えなくて……泣いてるの、澄ちゃんらしくないよ」

「な、泣いてなんか……」

いないと続かない、やっぱり泣いているんだ、声を聞けば疑う余地は何もないんだけどね。

「余計なお世話、だったかな……?」

「ううん、全然……」

「……ありがとう、それから、もうちょっとこのままで」

「うん……」

もうちょっと、それはきっと澄ちゃんが泣き終わるまでだろう、だから泣き終わるまで私に回された腕は解放されない。
澄ちゃんの体温が間接的に伝わってくる、ほんのりと温かく、とても優しい感じ。

「……私も、ありがとう」

声には出さなかったけど、私も心の中で澄ちゃんにお礼を言った。
なんだろうこの頬を伝う感触、なんだ、私まで泣いちゃってる……

だけど、泣いているその顔には悲しみなどなく、柔らかく微笑んだ表情がそこにはあった。


……


「いらっしゃいませ、あ、どうも」

カランコロンと鐘が鳴ったので、入り口に移動してお客様の相手をすると、お客はあの銀縁眼鏡がとても似合う男性だった。

「また来ちゃいました」

「いえいえ、当店としては大変喜ばしいことですよ、カウンターでよろしいですか?」

「勿論」

あれからというもの、この人はよくお店に来てくれるようになった。
俺や前河さんとも親しくなり、最近ではカウンター席で3人で会話を交わすことも多い。

「いらっしゃいませ、本日は何に致しましょうか?」

「そうですね……何か甘めのやつお願いできますか?」

「甘めですか、ではプッシーフットなどいかがでしょうか? レモン、オレンジのジュースに卵黄とシロップを混ぜたものですが」

「それじゃあそれでお願いします」

かしこまりましたと前河さんは小さく笑い、注文のカクテルの準備に取り掛かった。

「今日で一週間皆勤ですね、そんなに気に入りましたか?」

「ええ勿論、店長さんは良い人ですし、料理も美味しいです、何より彼方のヴァイオリンを聴くのが楽しみなんですよ」

「え、そうなんですか、ありがとうございます、素人技術で人様に聞かせるものじゃないんですが」

いまだに俺はこんな返答を続けている、さすがに「凄いでしょう?」って胸をはる勇気はない。
確かに最近では俺目当てのお客が増えてきている、初めて弾いた時はこんなことになるなんて思っても見なかったな。

「それで良いんですよ、世の中で自分を天才と言った人に本当の天才が何人いましたか?
逆に言えば、天才だと思ってしまった時点でそれ以上の成長を妨げてしまうんです、世間では天才以上の褒め言葉はないですから」

「なるほど、筋が通っていますね」

「ですから、素人技術と言っているうちは上限なく腕は上がり続けるんですよ。
もっとも、理屈ではですけどね」

はははと小さく笑う、理屈の上ではほぼ完璧だ、自分に目標到達点をつけなければ腕はどこまでも上がり続ける。
到達点を決めてしまえば、そこに到達したことで満足してそれ以上上を目指そうとは思わないのかもしれない。

「中々面白い話ですね、では私はもう落ちる一方かもしれませんね、プッシーフットですどうぞ」

俺たちの話に割ってカクテルをお客様の前にタンと置く、だけど落ちる一方って、よくそこまで自信たっぷりでいられますね。
きっと久我瀬さんに聞いても同じようなことを言うだろう、いや、久我瀬さんも前河さん以上に自信家だからもっと酷いかもしれない。
「天才と呼べ」とか言う可能性があるから怖い……

「店長さんはもうそれだけの高みに到達したということですよ、ようは言いようですね、いただきます」

半分ほどカクテルを飲み、ふうっと一息つく。

「美味しいですね、さすが高みにいる人だ」

「お褒めに預かり光栄ですよ、ごゆっくりどうぞ」

頭を軽く下げ、前河さんはいつもの指定場所でグラス拭きを再開した。

……

「へえ、一仁さんは大学生だったんですか」

2人の会話は弾み、色々とプライベートの会話もする間柄になってきていた。
今日初めてわかったのはこの人の名前、一仁さんというらしい。

「ええ、大学生のくせにこんな時間まで毎日遊んでて良いのかって思われるかもしれませんけどね」

「大学生でも遊ぶ時は遊ばないと壊れますから、適度な休息は十分必要ですよ」

「そう言ってもらえると助かりますよ、あんまり遊びすぎなんでよく怒られてしまって」

ピピピっと携帯の着信が鳴った、今時こんな単調な音は珍しいな。

「ちょっと失礼します」

服の胸ポケットから携帯を取り出し、画面を見ながらカコカコと操作を始めた。
電話に出ていないのだからたぶんメールだろう、画面を見ながらの操作は続き、やがてパタンと携帯をたたむ。

「さっそく怒られてしまいましたよ、早く戻ってこないと別れるですって」

「彼女さんですか?」

「ええ、本当はもっと話していたいところですが、あいつに呼び出されたらむげに断るわけにもいきませんから」

いそいそと帰りの準備を始め、俺は一仁さんのグラスを流しへと下げる。

「急で申し訳ないですが、また……あ、携帯持っていますか?」

「一応は、あんまり使いはしませんけど」

「アドレスと番号の交換でもしましょうか、今度2人で飲みにでも行きましょう」

「良いですね、一仁さんとは気も合いますから、こちらこそ喜んで」

自慢じゃないが、俺は交友関係が極端に狭い。
携帯の登録画面には前河さんと久我瀬さん、それに南条さんと新沼さんの計4人しか登録されてないくらいだ。
しかも皆俺よりも年配者、正確にはわからないが歳も近いであろう一仁さんの誘いはとてもありがたい。

が、携帯を探して服の胸ポケットやジーンズのポケットを探ってみても携帯の形を確認することは出来ない。
これはもしかすると、家に忘れてきてしまたのかもしれない。

「すいません、今携帯手元にないんでメモしておきますね」

ポケットに携帯はないが、手帳とボールペンは入っている。
俺が日本に来るきっかけになったこの手帳、今となってはそのきっかけもなかったこととして忘れてしまうことになったけど……

「良いですよ、お願いします」

「……」

俺が手帳を開いて準備をした途端、一仁さんは黙ってしまった、一体どうしたんだろうか?

「その手帳、少し見せてもらって良いですか?」

「? 別に構いませんけど」

こんな煤けてボロボロになった手帳のどこに一仁さんは気になることがあるのだろうか?
しげしげと手帳を眺め、裏にひっくり返したり表にしたりを繰り返す。

「その手帳が、何か?」

「……あ、いえ、申し訳ない、番号は……」


……


店の階段を上りきり、日付が代わろうとしている空を見上げて1つ溜め息をついた。

「あの手帳……彼はもしかして……」

彼が持っていた手帳、あの手帳には見覚えがあった。
俺の親友がまだこっちにいた時に使っていた物によく似ていた、ただの見間違いなのかたまたま同じ物なのかはわからない。
ただ、非常に近いものを俺は前に見ていた……

あの手帳、あれはあいつが、『六乃宮ハモン』が使っていた手帳にそっくりだった。
俺1人ではあれを彼の者と同じだとは言えない、誰か他に、あの手帳を見ていた人物に……

「宇崎です、明日の夕方からお時間を……」

電話せずにはいられなかった、突然生まれてきた可能性、はたして可能性は真なのか偽なのか。


……


「最堂君、店の看板の電気がやられてしまったみたいなんです、付け替えてもらえませんか?」

開店準備をしている最中、小さな蛍光灯を2つ持った前河さんに呼び止められ、お仕事を頼まれた。
もうほとんど店内の掃除も終わっていたので、俺は2つ返事で前河さんのお仕事を承諾する。

ドライバー1本と蛍光灯2本を持って看板の付け替え作業、わりと構造は簡単で迷うことは特にない。
ただ生憎マイナスドライバーを持ってきてしまった、止めてあるネジは皆プラス、取りに戻るのも億劫なのでそのまま作業に入る。
取りに戻ってプラスでやる方が明らかに早いのはわかっているが、なんか戻ったら負けたような気がしてどうしても戻る気にならない。
そんなんで看板と格闘すること約10分、なんとかマイナスドライバーだけでことを終えることが出来た。

「はぁ、なんか達成感……アホらし」

本当にアホらしい、素直に戻って代えてくればこんなに苦労しなくて済んだのに、自分の意地っ張りにムカムカしてきた。

「こんばんわ」

不意に後ろからかけられた声に、ムカムカしていた気持ちがさあっと退散する。
振り返ってみると、そこにいたのは一仁さんだった、しかも今日は横に女の子がいる、昨日話していた彼女だろうか?

「一仁さん、こんばんわ、今日は随分と早いですね」

「ええまあ、ちょっと話したいことがあったものですから、少し抜けられませんか?」

「今からですか? さすがにそれはちょっと、開店準備もまだ残っていますから……」

「そうですか、ではまた後で寄らせて……」

「最堂君、看板の方は完了しましたか?」

一仁さんが諦めて振り返ると同時に、前河さんが外まで上がってきて看板のチェックにやってきた。
電源が入れられたのか、俺の身長より少し低いの看板がぼんやりと白っぽく光っていた。

「直ったようですね、ありがとうございます……おや一仁さん、こんばんわ」

前河さんはいつものように軽く笑み、一仁さんに声をかける。
その声に気付いた一仁さんはこちらに向き直り、前河さんにひとつ礼をした、勿論前河さんもそれに応える形で礼を返す。

「そちらの方は彼女さんですね、以前お2人で来店していただけたのを覚えていますよ」

女性の方にも前河さんは笑みを見せる、女性も一仁さんと同じように軽く頭を下げて応えた。

「前河さん、少し出てきて良いですか、一仁さんが俺に話があるみたいなんで」

「お話、ですか……それは何か最堂君に重要なことですか?」

一仁さんにどうなのか問うと、一仁さんはこっくりと1つだけ頷いた。

「わかりました、それじゃあ下の店を使うと良いですよ、まだ開店前ですから他のお客様は居ませんし。
なにより融通も利きますからね、どうぞ」

前河さんが店の階段へと手を差し伸べる、一仁さんと彼女は何度か前河さんに頭を下げてから店の階段を降りていった。

「すいません、無理言ってしまって」

「いえいえ構いませんよ、一仁さんは私たちの大切なお客様ですから。
それでは私は何か飲み物でも作ってお持ちしましょう、勿論私のおごりですよ」

にいっと歳不相応な、30代後半くらいの人がするような笑みを見せて前河さんも店へと降りていった。
俺も前河さんの後に続き、店の入り口で待っていた一仁さんたちをカウンター席へと案内する。

「こちらで、よろしいですか?」

「ええ、ありがとうございます」

2人がこしかけるのを確認してから、俺もカウンター側へと回る。

「それで、俺に話とは……?」

俺が問うと一仁さんは一瞬だけ黙る、が、すぐに言葉を繋いで会話を開始する。

「昨日の手帳、もう一度見せてもらっても良いですか?」

また手帳? こんなボロボロの手帳見ても何もないと思うけど、見せて欲しいというので俺は手帳を手渡した。

「!……」

その手帳を見て、明らかに動揺している人が1人、一仁さんの彼女だった。
女性は口元を手で押さえ、何か信じられない物を見たかのように固まってしまった。

「中を見ても、良いですか……?」

おそるおそるといった感じで女性は聞いてくる、特に見られてしまって困るものもないので俺は「どうぞ」とだけ応えた。
パラパラと煤けた手帳のページを捲る音がする、その1ページ1ページを確かめるように、ゆっくりと。
そして、女性の指がぴたりと止まる、そして再び女性は口元に手を当てて固まってしまった。

「……こ……れは……」

かすれるような声が薄っすらと聞こえた、「これは」、女性はそう言った。
一体何を見てそこまで驚いているのだろうと思って少し体を乗り出してみると、女性が止まっていたのはあのページ。

『川崎 四年後にこの公園でまた』と書かれたあのページ……

「どう……して……」

女性のかすれた声が続く、今度はなんだか違う感情も入り混じっているようだ。

「どうして、あの時嘘ついたの……」

「え……?」

何を言っているんだ? 嘘をついたって、一体どういうことだよ?
そういえばこの女性、どこかで見たことがあるような……

「どうしてあの時憐に、本当のことを言ってあげなかったの……」

「憐……あ、君は」

思い出した、この女性には見覚えがあって当然だ、俺のことを『ハモン』と呼んだ女の子と一緒にいた子だ。
まさかこの人が一仁さんの彼女だったとはね。

「答えて……彼方、ハモンなんでしょ?」

真剣な眼差しは俺の眼を捉えて逃がさない、少女の眼はとても真剣で、それ以上に違う感情が眼を見るだけでわかる。
『怒り』、少女の眼が宿している感情はそれだ。

「……」

「ねえ、どうして答えてくれないの、この手帳に書いてあること、これは彼方が憐と交わした約束じゃない。
憐は今でも彼方を探し続けている、それなのにどうして……」

「俺は……」

この後がどうしても続かない、何故なら、それは俺にとってもう考えてはいけないことだから。
あの日、憐という少女に腕を掴まれたあの日、俺は過去というものを全て忘れることにした。
過去に縛られることなく、俺は『最堂セラ』として生きていくことを決めてしまったんだ。
1回完全に決別してしまったものを、はいそうですかといってもう一度元に戻すのはなんだかずるい。

だからもう、その話題を俺に振るのは止めてくれ……

「……答えてよ!」

少女は語尾を荒げカウンターをだんと強く叩いた、感情が抑えきれずに行動として現れ始めた。

「観澄、あまり大きな声を出すな」

「だって一仁、この人は……」

「良いから、無理を言って店を使わせてもらったのに、その態度はいただけないよ」

女性はまだ何かを言い返そうとしていたが、一仁さんが上手く沈めてくれたのでそれ以上口調を荒げることはなかった。

「ですが、それは私も気になるところです……この手帳は私の親友だった『六乃宮ハモン』という人物が使っていた物です。
そして彼方は彼とそっくりな外見をし、彼が使っていた手帳を使っている、しかし彼方の名前は『最堂セラ』、どういうことなんですか?」

「それは……」

「最堂セラっていう名前、偽名なんでしょ……」

「違う、俺は……」

どうしてもその後が続かない、これ以上喋ってしまえばきっと俺は過去を知ってしまう。
過去を知ることを諦めたというのに、ここにきてまた知るチャンスがめぐってくるとは、神様はなんて残酷なんだ。

「喋るな」、俺の頭の中で伝達されたのはそんな命令。 しかし……

「一仁さん、大変申し訳ないんですがそろそろ……」

見かねた前河さんが助け舟を出してくれた、が、俺にはもうそんなものは必要なかった。

「前河さん、大丈夫です……全て、話してしまいます」

「最堂君……本当に、それで良いのかい?」

「……はい」

俺がはっきりと頷くと前河さんはそうですかと一言残し、厨房の中へと消えていった。
卑怯者と言われても良い、俺は全てを話し、俺が誰であるのかを知ろう……

「お2人は、何年か前にアメリカで大きな飛行機事故があったのはご存知ですか……?」

……

以前、前川さんたちに話したことと同じことを、今度は一仁さんたちに話した。
あえて一番重要な点である、『記憶がない』ということだけはぼかしておいた、今言ってしまうことが何故だか躊躇われたから。
俺が話し終わると、2人は顔を見合わせてそのまま何も言えなくなってしまった。

「……」

「……」

「……」

3人の間に恐ろしいほどに静かで、永遠とも思えてしまうような長い沈黙が訪れる。
皆お互いに次の会話を探っているようなそんな感じ、やがて1番最初に口を開いたのは一仁さんだった。

「死者数延べ149人、生き残ったのはたったの4人だけ、奇跡ですね」

「ええ、俺もそう思います、ただ生き残るかわりに、失ったものもありますけどね……」

「ご両親ですか?」

「かもしれません」

回答に2人が同時に首をかしげた、俺が反対の立場だったらたぶん同じような行動をとるだろう。
かもしれない、そんなわけのわからない回答があるか? 困ったことに俺にはあるんだ。

「かもしれないって、どういうこと……?」

「わからないんですよ、親が死んだのかどうか、いや、親というものが居たのかさえも……」

「居たのかさえって、まさか……」

どうやら一仁さんは気が付いたらしい、俺が何を失い、さっきから何に躊躇っていたのかを。

「最堂さん、もしかして彼方……」

「たぶんご想像の通りです、俺には、過去の記憶が全くないんです……」

「!」

「!」

2人は目を見開き、口を小さく開けたまま絶句していた。
俺がどうしては『ハモン』という人物と同じ顔をしているのか、俺がどうして『ハモン』という人物の手帳を持っているのか。
それなのに俺がどうしてさっきから何も応えられなかったのか、全てを知ったことだろう。

「奇跡的に生存できたものの、俺はそれ以前の記憶を全て失いました。
自分が誰であるのか、自分が何をしていたのか、自分がどういった人物なのかも、俺という全てを忘れてしまっていた」

「それじゃあ自分の名前も……」

「当然覚えていません、今名乗っている『最堂セラ』というのは養子に貰った親父が付けてくれた名前ですから。
あなた方が言うように、俺はもしかすると『六乃宮ハモン』という人物だったのかもしれません。
ですが、今の俺はもう違う、俺は『最堂セラ』という名前を持った全くの別人なんですよ」

話を一区切り付けるために、前河さんに貰ったシンデレラをくぅっと飲み干した。

「これで、おわかりいただけましたか?」

「……ごめんなさい、さっきは何も知らずに言いたいこと言ってしまって」

一仁さんの彼女、観澄さんというらしい女性は小さく俺に頭を下げた。

「仕方がないことですよ、そちらは俺の事情を知らなかったんですから」

「でもあれは言いすぎです、本当にごめんなさい」

「いえいえ、あ、1つ聞いてもよろしいですか?」

観澄さんが俺に向かって再三投げかけた言葉、俺が『六乃宮ハモン』という人物だったとしたら、あれはどういうことなのだろうか?

「俺が『ハモン』という人物だったとして、俺とその、憐さんというのはどういった関係だったんですか?」

「……高校1年生の時、2人は付き合っていたんですよ、だけどハモちゃんが親御さんの都合でフランスに行かなければならなくなって」

ハモちゃんというのはたぶん『ハモン』のことだろう、だけどその展開からすると2人は別れたのかな? 付き合っていたって過去形だし。

「1年生の最後で2人は別れちゃって、だけどその4年後、20歳になったら彼はまた帰ってくるって約束したそうです。
それがその手帳に書いてあった『川崎 四年後に公園でまた』ってやつです」

「その4年っていうのは、まだ過ぎていないんですか?」

「まだだって聞いてます」

そんなことを知って今更どうしようというのだろう、仮に俺が『六乃宮ハモン』だったとしても、その頃の記憶は何もない。
会ったところで何の意味はない、逆に相手に哀しみを味あわせるだけだ……

「……お願いします、憐に会ってください、彼女ずっと待っているんです」

急なお願い、観澄さんはきっとあの子のことを本当に心配しているんだろう。 だけど……

「それは、出来ません」

会うことなど出来るわけがない、今の俺は『最堂セラ』であって『六乃宮ハモン』ではない。
彼女が待っているのは『六乃宮ハモン』だ、確かに姿形は同じかもしれないが、中身は全く違うんだから。

「どうして……ですか?」

「さっきも言ったとおり、俺は『ハモン』ではありません、見た目はそうかもしれませんが中身はまるで違う。
それに彼女が待っているのはあの頃の『ハモン』です、何の記憶もない抜け殻が出会っても悲しませるだけです」

「今はそうかもしれないけど、見た目はまんまハモちゃんなんだから、会って何か一言言うぐらい……」

もう一度頼まれるが、俺の返答は変わらない、首を左右に1回振って否定を表現する。
絶対に会ってはならない、俺が『六乃宮ハモン』という人物であったとしてもだ。

「観澄、帰りましょう……」

「一仁、だけど……」

「最堂さんには最堂さんの考えがあるんです、それを他人である俺たちが無理を言って考えを変えさせるのは良いことではありません。
ですが最堂さん、俺は彼方が……あの『六乃宮ハモン』であると思っていますから」

「私も、彼方はハモちゃんだと思うよ……」

「……ありがとうございます」

どう返答して良いのかわからず、俺はお礼を言ってしまった。
何がありがとうなのかよくわからないけど、口が喋ったのはそんなお礼の言葉だった。


……


食堂で頬杖を付きながらぼんやりと視点を彷徨わせていた。
注文したパスタからモアモアと湯気が立ち上るものの、私をそれを食べようとはしなかった。
フォークをパスタの中に入れてそのまま、絡ませることもなければ動かすこともない。

わき腹を肘でコツンとつかれ、私の彷徨っていた視点と思考が元の場所へと戻ってくる。

「え、何?」

「食べないと午後持ちませんよ、それに時間もそんなにありませんし」

「ああ、ううん、ちょっと食欲ないかな」

「ほう、珍しい」

正直今の発言はムカってきたけど、そんなことよりも私には気になることがある。
いつもなら私の対面に座る少女の姿が今日もない、ここ最近食堂で一緒になることがほとんどない。
食堂どころか、最後に会ったのは前に偶然街中で会い、そのまま寮まで連れ戻してお風呂に入れたあの日が最後。
何度かメールはしたけど、当たり障りのない返事が来るばっかりだった。

「三田村さんのことですか?」

「え、わかるの……?」

「昨日の今日ですからね、ですが観澄が気にしてもどうにもなりませんよ」

「わかってる、わかってるんだけど……」

『最堂セラ』は『六乃宮ハモン』である可能性がとても高い、というよりも100%に限りなく近い。
昨日本人に出会い、色々聞いてわかった真実、確証はないけどじゅっちゅはっくハモちゃんで間違いない。
この可能性を知っているのは私と一仁、後は当人であるセラだけである。
真っ先に憐にはそのことを教えたかったけど、セラから口止めされてしまっている。

「俺が『六乃宮ハモン』である、という仮説は彼女には言わないでおいてください。
期待させるだけさせておいて、彼女の期待を裏切ってしまうことにしかなりませんから」

そんなことを言われてしまった。

「最堂さんの考えを尊重するべきです、我々が三田村さんに教えてしまうのは絶対に良いことではありません。
いくら観澄でも、そのくらいのことはわかっていますよね?」

「私だってわかってる、だけどそれじゃあ憐が……」

たぶん憐は今日も朝からハモちゃんのことを探し続けているのだろう。
だけど、彼がハモちゃんである以上、いくら探しても憐は絶対にハモちゃんを見つけることは出来ない。
ずっと探し回り、ようやく見つけた人物は『最堂セラ』としか名乗らない。
同じことをいつまでもいつまでも何の変化もなく繰り返し続ける、憐はすでに絶対に抜け出せないループの中に入ってしまっている。

探しても探しても想い人には会うことが出来ない、そんなの……

「可哀想すぎるよ……」

そうだとわかっていても、私たちにはどうすることも出来ない。
どうしてこういう時に人は無力なのだろう、人には何か特別な力って備わってないのだろうか?

離れ離れになった2人をくっつける、そんな力が……





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