【六章・ 知ることへの恐怖】
歩いていると突然体が動かなくなる、腕に感じる感触から考えて誰かにつかまれてしまったようだ。
「あ、あの!」
声から察するに女の子、振り返ると予想通り女の子だった。
女の子は俺の顔を見たまま何も喋らなくなってしまった、それは俺も同じこと。
こんな時はなんて声かければ良いんだよ、こんな経験ないから解決策がわからない。
「……」
2人の間に沈黙が流れ、ただでさえ気まずいのにさらにその効果が上がってくる。
「憐、いきなり走られると、あ……」
次に現れたのはまたも女の子、俺の腕を掴んでいる少女を追ってきたのか、肩でハァハァと息をしている。
名前を呼んでいるところからこの子の知り合いだろう、しかし現れた女の子も俺の顔を見て止まってしまった。
このままじゃらちがあかないので、とりあえず1番の疑問を女の子に聞いてみた。
「君は……誰?」
「え……」
俺の返答に少女は驚いたように大きく目を見開いた、本当は俺がそうしたいんだけど。
「私のこと忘れちゃったの、憐だよ……」
憐と少女は名乗る、しかしその少女の名前は俺の頭の中にはどこにもない、この子の顔も当然頭には入っていない。
「憐、さん……いや、俺の知り合いにそういう名前の人は……」
俺の返答を聞き、憐という少女は酷く寂しそうな顔をした。
だけど居ないんだから居ないとしか言えない、ここで嘘を言っても何にもならないんだから。
「ハモン、どうして……」
俺に向かって少女はハモンと言った、しかし、俺の名前は……
「ハモン……いや、俺の名前は」
「彼方、名前はなんていうの?」
ずっと黙っていた友人であろう女の子が急に訪ねてきた。
その間も掴まれている腕は放されない、むしろさっきより掴む力が強くなっている。
「……俺は最堂、最堂セラですけど?」
「!」
俺の名前を聞き、憐という少女は信じられないというような眼をしていた。
それと同時に腕を掴んでいた力がスッとなくなった。
「お2人が探している人とは別人ですよ、急ぎますからこれで」
力がなくなった少女の腕は容易く外れ、俺は少女たちの前から立ち去った。
だけどあの子、どうして俺の顔を見てあんな悲しそうな顔をするんだろう?
もしかすると……いや、そんなことあるわけないだろう。
自分に言い聞かせ、俺は久我瀬さんに呼び出されたショッピングセンターへと足を進めた。
……
「はぁ……」
久我瀬さんの買い物を手伝い、そのまま2人で店の仕事へと向かった。
今日の賄いは今までとは全く違う新作を披露するということで楽しみなんだけど、何故か溜め息ばかり出てくる。
「どうしました溜め息なんてついて、恋ですか?」
いつものようにグラスを磨きながら、前河さんは冗談じみた質問をしてくる。
「いえ、そういうことじゃないんですけど……」
「そうですか」
初めから違うとわかっていたんだろう、それ以上は何も聞いてくることはなかった。
さっきから考えているのは勿論あの女の子のこと、確か『憐』といったな。
あの少女の期待に満ちた目、それが俺の一言で全く逆のものに変わっていた。
信じていたものから裏切られた、なんだかそんな感じだった。
「はぁ……」
もう一度溜め息、なんか考えれば考えるほど自分が悪者のように思えてくる。
あの場から逃げるように去ってきたけど、あれからあの子はどうしたのだろう?
もしかすると、泣いてしまったのかもしれない……
だったら悪いことしたな、だけど……俺は俺だ。
頭をブンブン振るって思考を散らす、もう仕事が始まる時間だっていうのに私情を挟むのはいけない。
今は仕事に集中しよう、考えるのはそれからでも遅くはないだろう。
「ありがとうございました、またのお越しを」
いつものような前河さんの応答、作り笑顔なんだろうけど全くそう見えないところが凄い。
あの人辺りの良さは俺や久我瀬さんにはちょっと真似できない、俺のほうが久我瀬さんより少し人当たりは良いけど。
久我瀬さんはちょっと、見た目からして笑顔とかあんまりしなそうだし……
「いらっしゃいませ、あ、南条さん」
「こんばんわ、マスター」
南条さんと呼ばれたのはここの常連さん、白い口ひげときっちり整えられた髪形が印象的な初老の男性。
深々と帽子を被った姿がえらく様になっている、俺も将来的にはこんな風に歳をとりたいもんだ。
「いらっしゃいませ」
「ありがとう、最堂君」
メニューを手渡すと、南条さんは目尻にしわを寄せて微笑んだ。
俺は何度か南条さんとは会話を交わしたことがあるが、いつの間にか名前を覚えられていたなんて、ちょっと嬉しい。
さらに加えて、南条さんは俺のヴァイオリンを聴きに来てくれているお客様の1人だ。
何でも若い頃はフルート奏者だったらしく、非常に耳がこえているらしい。
「今日も期待しているよ」
にんまりと口元を少し上げ、ちょっとプレッシャーをかけられた。
「出来るだけのことはやりますよ、ご注文はお決まりですか?」
「そうですね……辛口のドライ・マティーニを頂きましょうか」
ドライ・マティーニってなんだろう、俺にはなのことだかわからないけど前河さんはすでに動き出していた。
……
「ありがとうございました、またのお越しを」
日付が今日に代わり、店の中はもう数人のお客だけになっていた。
見たことがある人と見たことのない一見さん、そして南条さんもいまだカウンター席に腰掛けている。
「最堂君、そろそろ準備をお願いします」
「はい」
前河さんの指示で俺はヴァイオリンの準備に取り掛かり、チューニングを調節するために厨房へと入っていく。
厨房では、髪が落ちないようにナプキンで頭を縛った久我瀬さんがフライパンを振るっていた。
ぷうんと鼻を掠めるこの香り、トマトソースを使った何かの料理だろう。
「なんだそろそろか、聞きたいところだが料理がまだ終らないから無理か」
「久我瀬さんは毎日のように聞いてるじゃないですか」
「毎日聞いているから良いってもんじゃないんだ、毎日毎日同じ音で演奏することが出来るのか?
そんなんだったら1回しか聴く価値はないな、毎回違うから良いんだろ」
意外、久我瀬さんからそんなごもっともなことを言われるなんて思ってなかった。
確かに俺が演奏するのは生身の腕だ、CDに焼き付けられた同じ音を永遠と流し続ける機械とはわけが違う。
「……」
「どした?」
「いえ、久我瀬さんでも真面目なこと言うんだなって」
「酷い言われようだな、それじゃ俺はいつも不真面目ってことか、っよ」
フライパンを振りながら肩をすくめ、手首のスナップでフライパンの中の料理を返す。
フロアに戻ると、すでに照明が落とされ、ステージの一角だけがライトアップされていた。
薄暗い中で前河さんとアイコンタクトを行い、俺はステージへと立った。
「お待たせいたしました、本日も当店が誇るヴァイオリニスト、最堂セラの演奏をお楽しみください」
前河さんの紹介の後、ヴァイオリンをあごで支えて弓を弦に添える。
そのまま一呼吸する下への動きと同時に弓を弾き下ろす、鋭利な刃物を思わせるヴァイオリン特有の音が店へと響き始めた。
1曲目は先日、久我瀬さんに貰ったゲーム音楽の第2楽章、なんでも全部で第6まであるらしい。
聴いている人の中で何人の人が知っているかはわからないけど、結構激しい曲なのでいの1番にはちょうど良い。
アップテンポの1曲目が終わり、続いて2曲目はここでよく演奏するバラードタイプの曲。
2曲目、3曲目と俺の演奏は進んで行き、気が付くことにはすでに最後の曲までたどりついていた。
最後の曲はこの店のイメージテーマ、曲名は『リセット』。
なんと前河さんの自作、自分で店をやるときには店内でこんな曲を流してみたいと思って昔に作ったらしい。
さすがに親父のように慣れていないため、何箇所か強引なもっていきかたがあったけど、結構悪くない。
最後を締める曲にはもってこいだろう、そんなことを考えているうちに曲は終焉を迎えていた。
ヴァイオリンを肩から下ろし、客席に向かって深々とお辞儀をする。
まばらな拍手がパチパチと聞こえ、ここでやっと一息つくことが出来る。
「お疲れ様」
「ふぅ……なんだか、いつも以上に疲れました」
なんだろう、このなんともいえない疲労感は?
今までどんなに疲れているときに弾いても、ここまで疲労をおぼえることはなかった、それもなんだか嫌な疲労感だ。
「ふむ……」
いつも俺が演奏を終えたときには、目じりにしわを寄せた微笑で迎えてくれる南条さんが、今日は目を瞑って小さく唸っていた。
「南条さん、どうかなさいましたか?」
「いやなに、ちょっと最堂君の演奏が気になったものですから」
「気になる、ですか、どういうことですか?」
「なんて言いますかな、今日の最堂君の演奏はいつもと違っていたんですよ。
なんだか彼らしくない、いつもの彼だったらもっと曲に鋭さがあるはずなんですよ。」
頬杖を付き、真剣な眼差しで淡々と南条さんは続ける。
「鋭いとはいってもとげとげし過ぎてはいけません、それでは耳がなじむわけがない。
いつもは要所要所で最適な鋭さで演奏している最堂君にしては、今日はいささかとげとげしいような鈍いような感じがしたね」
「なるほど、どうですか最堂君は?」
南条さんに指摘された点を少し考えてみる、確かに今日はいつもよりも耳に合わない音が多いような気がした。
だけどなんでまた今日なんだ? この嫌な疲れと何か関係があるんだろうか?
どうにも納得いく答えが出ず、俺は首を傾げるだけだった。
「音楽はとても神経を使う芸術です、油絵なら後から塗り重ねればどうとでもできますが、音楽はそうはいかない。
神経を集中させて、その1曲頭から終わりまで神経をとぎらせずに続けなくてはいけません。
なんだか今日の最堂君には、それがかけていたような気がしてならないんですよ」
「そういえば、今日は溜め息が多いですね」
あ……言われてみれば確かにそうだ、今日は店に入ってからなんべんも溜め息をついていた。
理由なんて1つしか考えられない、あの女の子のことだ。
あの子の目がどうにも頭から離れず、神経を集中させきれずにいたのかもしれない。
あの裏切られたような泣きそうな目、俺はあの子に何をしたんだ……
いつまでも頭の隅にこびりついて離れない思考を、ブンブンと頭を振るって無理矢理引き剥がす。
「なんでもありませんよ、なんでも……3番入ります」
『3番』とは飲食関係の店で使う隠語、お手洗いに行ってきますの意味を持つ。
店の端っこに目立たないように色を塗られた木目の扉を開け、誰も入ってこないよう鍵をかける。
特にもよおしているわけでもないが、なんだかあの場所には居づらかった、だから逃げてきた。
流しに手を付き、もう一度深く、ふかーく溜め息をついた。
「はあぁ……」
視線を上げ、壁に打ち付けてある鏡で自分の顔を見る。
この顔に、あの子は一体何を見たというのか……たぶんきっと、いや、あれ以外には考えられない。
そう考えるのが1番自然をわかってはいるものの、俺の頭はそのことだけは考えないように働く。
不思議なものだ、前は知りたい知りたいと思っていたのに、何故か俺の頭はそっちへ働いてくれない。
顔に触れてみる、鏡の中の俺も当然同じ動作をやっている。
ぺたぺたと両の頬に触れる、鏡の中の俺も同じ動き、出来ないとはわかっているが鏡の中の俺に手を伸ばす。
当然あっちも同じ動き、そして鏡で2人して手を合わせてリンクする、勿論俺の1人遊びだ。
どこかのお伽話で、鏡が映る人物に助言を与えてくれる話があったな。
あの話と同じような鏡がどうしてないのか、もしあったとしたら、鏡の向こう側の俺は今の俺になんて言うだろうか?
うん、良い感じに思考回路が始まりからずれてきた、今は忘れてしまうのが1番良いだろう。
蛇口の捻りを勢いよく回し、吐き出される水で顔をなんべんも洗う。
冷たい水は、少しの間意識を逸らすのにはちょうど良かった。
「ありがとうございました、またのお越しを」
最後のお客が帰り、時間は閉店時間を迎えつつあった。
3人揃って掃除を始め、ものの30分で閉店業務は終ってしまった。
「売上、いくらですか?」
「飛びぬけて上がりもせず、また下がりもせず、安定期ってとこですかね」
俺は経営には絡んでいないため、一体どのくらいの黒字になっているのかはわからない。
だけど2人とも慌てた様子がないところを見ると、潰れることはないくらいに儲かってはいるんだろうな。
まあ、2人が楽天家で店が潰れても別に良いって考えてるんなら話は別だけど。
「安定するのが1番良いんですよ、逆に変に売上が高いときは用心した方が良いですから」
素人の俺には売上は高ければ高いほど良いような気がするけど、そこには何か俺の知らない大人の事情があるんだろう。
久我瀬さんもうんうん頷いてるし、たぶんそれで良いんだよ。
「2人ともお疲れ様です後は私でやりますから帰ってもらって結構ですよ」
「あ、前河さん、少しお時間良いですか?」
顔を冷たい水で洗ってすっきりはしたものの、それは今日をしのいだに過ぎない。
きっと明日になれば、いや、明日どころか家に帰って1人になったらまたそればかり考えてしまいそうだ。
逃げても逃げても彼女の目は追いかけてくる、忘れても忘れてもまた頭の中に蘇ってくる。
こんなことが続けば、いつか俺には耐えられなくなる日が来るに決まっている。
……いや、違うな。
俺が彼女を忘れられないのはあの眼を見たからじゃない、根底はもっと深いところにある。
そして、根底として考えられるこてとはあれ意外には考えられない。
助言が欲しかった、助言でなくても俺がこれ以上悩む必要のなくなるヒントでも良いから欲しかった。
それには、俺が今まで隠し続けていたことを打ち明ける必要があるわけだけど、特に隠し続けないといけないことではない。
聞かれたら素直に応える、今まで聞かれなかったから喋らなかっただけだ。
きっと全てはあれで繋がっているはず、俺が過去の記憶をなくしてしまったことが……全ての核であるはずだ。
「君からお誘いとは珍しいですね、良いですよ私は独り身で暇ですから。
それじゃあ、何を飲みますか?」
一瞬、「へ?」 と止まってしまった。
最初の部分は俺の申し出を受けてくれた応え、だけどその後の何を飲むってどういうことだ?
回転の遅い頭をフル回転させ、俺なりに解釈してみるとこうなる。
『話はここで聞きましょう、話のお供に飲み物は当たり前ですよね、何を飲みますか?』
っということではないだろうか?
「あ、えっと……何かジュースみたいなので良いですよ」
「アルコールも各種揃えてありますが? 勿論私のおごりですよ」
くいっと何かのお酒であろう瓶を見せてくれた、紫色をしたとても綺麗な瓶だ。
だけどあの中身は100%アルコールだよな、俺酒は苦手なんですって……
「いえ、ジュースで大丈夫です」
「そうですか、残念ですね」
「じゃあ俺がもらおうかな、前さん俺にもグラスを」
帰り支度をしていた久我瀬さんが、いつの間にか俺の横の席にこしかけ、グラスを注文していた。
「久我瀬さん、帰らないんですか?」
「悩める若人の相談を一緒に考えるのも、年配者の務めってね、ま、半分は興味本位だけどな。
それに、重要な話をする時に仲間はずれはいかんぜ、3人いてこの店だろ」
含みがある独特の笑みを見せ、久我瀬さんは受け取った瓶から酒をついでいく。
前河さんとほとんど歳は変わらないのに、久我瀬さんの考え方は非常に大人びていた。
「野次馬根性はいただけませんね」
「そう言うと悪く聞こえますね、仲間を心配してるって言ってください」
2人は声も上げずに口元だけで笑っていた、とても歳不相応な笑い方だと思った。
「お2人とも、ありがとうございます」
これは俺の私事で、わがままで、2人に助言を求めるなんてしちゃいけないことなのかもしれない。
自分のことは自分でかたをつける、そんな勇気のない俺に付き合ってくれる2人に、俺は頭を下げることしか出来なかった。
「おやおや、水臭い事は言いっこなしですよ」
「何でも頼ってくれたまえ、一応年配者だからな」
……
とりあえず、俺がこの店に来ることになった経緯を話してみた。
2人は俺が飛行機事故で記憶を失ったことを知ると、口をつぐんだまま下を向いてしまった。
「それで、俺はこっちに来たと、そんなところですね……」
手にしたグラスをグイっといっきにあおる、さわやかな清涼感と咽を駆け抜ける炭酸のぴりぴりとした感触が心地良い。
サラトガ・クーラーという、ライムジュースを使ったノンアルコールカクテルらしい。
「なるほどな……」
久我瀬さんも俺と同じように、とは言ってもいつの間にか久我瀬さんはグラスからジョッキに代わっている。
ジョッキに残された半分ほどのビールをいっきに飲み干し、ぶはぁっと息を吐く。
だけどこんな早朝からそんなに飲んで良いんですか? まだ5時ですよ。
前河さんは前河さんで、自分で呑みたいものを自分でシェイクして作っている。
これで3杯目、久我瀬さんほどではないが前河さんも朝からよく飲むなあ。
「随分とまあ、波乱に満ちた珍しい人生を送ってるんだな、若人よ」
本当は久我瀬さんだって全然若人なんだけど、なぜだか10歳以上離れているように見えてしまうから驚きである。
「確かその墜落事故はテレビの臨時ニュースで取り上げていましたね、生存者はほぼ皆無、そんな報道でした。
でもまさか、君があの事故の被害者で、君が奇跡的な生存者の1人とはね」
俺の他に助かったのは全部で12人、内9人は病院で帰らぬ人に。
親父からそう聞かされた時は本当に驚いた、『奇跡』というものが夢……幻ではないことを初めて実感した。
今ここで生きていられることを考えれば、記憶がなくなっただけで済んで良かったのかもしれない。
昨日までずっとそう思っていた、助かったんだから多少のマイナス要素には目をつぶろうと思った。
しかし、昨日の少女との出会い、あの少女の目が俺の全てを否定し始めていた。
今頃になって、俺は記憶がなくなったことが許せなくなった。
あの少女、彼女はきっと……過去の俺を知っているんだ。
彼女が呼んだ『ハモン』という名前、あの名前は俺のことを指しているのかもしれない。
あの日あの時、少女に腕をつかまれてあの少女が俺を『ハモン』と呼んだ。
あれは俺に与えられた数少ないチャンスの1つだったのだろう。
あそこで彼女に、何故俺を『ハモン』と呼んだのかを問えば、俺は過去を知ることが出来たかもしれない。
だけど、俺は自分の過去を拒絶した。
過去を知るためにこっちに移ってきたっていうのに、いざ知るチャンスが訪れると俺はそれを拒絶した。
怯えている、過去を知ることで俺の中に俺の知らない俺が生まれるような気がして、とても怖い。
だから俺は彼女に、人違いであると言って逃げてしまった。
最大のチャンスは最大の決断場所でもある、親父の口癖の1つ、まさか身をもって知ることになるとはな。
それでも最初から逃げ腰だったわけではない、もしやという考えが頭をよぎりもした、返答の間にあった若干の間がそれだ。
終ったことをここでグジグジ言ってもしょうがない、今更後悔しても遅すぎる。
俺の応えは『ハモン』ではない、という俺自身が告げた幕引きの言葉。
今更彼女の前に行って、「やっぱり俺はハモンでした」は通じるわけもない。
俺は自分で最大のチャンスを潰し、可能性の芽を摘み取った。
なんとも臆病で、なんと弱く、なんと情けないことか……
「それで実の所、最堂君はどうしたいんですか?」
カクテルグラスに口をつけ、一呼吸置いてから前河さんは質問を始めた。
「こう言ってしまっては失礼かもしれませんが、所詮は手帳に書いてあったいつのことなのかもわからない約束です。
それを今になって見つけ、今更こちらに移るというのはそれ相応の覚悟がないと出来ることではありません」
「ごもっとも、俺なら絶対にやらんだろうね」
「久我瀬君だけではなく、大概の人はそんなあやふやな上方だけで決断は出来ませんよ、勿論私もね。
しかし君はそれを実行に移した、それは何故か? 記憶を見つけたかったんじゃないんですか?」
1つだけ小さく頷く、それを確認した前河さんはまた質問を開始した。
「記憶を見つけたいが、いざそうなってみると記憶を知るのは怖い、矛盾していますね。
とてもこちらに移ろうと決断した人物と同じとは思えませんね……」
カクテルグラスに残った僅かな酒をクッと飲み干す、そして小さくふぅっと息を漏らす。
「そんな揺るぎやすい決意なら、捨ててしまった方がよろしいですよ。
過去の記憶など全て忘れて、今とこれから先だけ考えて生きる、そっちの方が楽ですよ?」
前河さんの瞳が真っ直ぐに俺の眼を見続ける、まるで獣のような鋭く冷たい視線だった。
そうなんだ、確かにそう考えると何も苦しまず、全ての枷を外して楽しく生きていけるんだ、だけど……
「前さん、こういう時はもっときちんと言った方が良いですって、最堂。
お前、記憶欲しいのか、それともいらんのか?」
少し焦点をぼかした前河さんとは対照的に、久我瀬さんは直球で応えを求めてきた。
これはもう応えないとどうしようもない、付き合ってくれた2人にも悪い。
だけど、本当に応えを急ぎ過ぎて良いのだろうか?
俺は本当に過去を知りたいのだろうか? 確かにこの手帳に書かれていることを確かめたいという気持ちはないわけじゃない。
日本に来たのも、1番に考えていたのは記憶を探して見つけ出すことだった。
しかしだ、俺はその記憶を見つけ出してどうしようというのだろうか?
俺はすでに過去の人物とは全く違う、『最堂セラ』として確立されている。
今更過去を手に入れて、俺はそこから何をしようというのだろうか?
もしかしたら、過去を手にしてしまったら今の生活をすることは出来ないかもしれない。
その前に、俺が過去の自分の思い出したとしたら、『最堂セラ』という人物の存在は認められなくなる。
『最堂セラ』という個体は、俺が俺であることを一時的に繋ぎ止めておく為に親父が考えた名前に他ならない。
少女が言うとおり、俺が『ハモン』という名前であるとすれば、俺の名前はそこでまた『ハモン』に戻ることになる。
だってそうなった場合、『ハモン』という人物はまだ死んだことにはなっていないのだから。
『ハモン』が生きている以上、その名前を消すことは出来ない。
消すことが出来るのはもっと後につけられた、『最堂セラ』という存在。
『最堂セラ』の存在ならば、消せる、ようはなかったことに出来るのだ……
だけどそれって、凄い理不尽で、凄い悲しいことではないか?
『最堂セラ』という存在は今ここに存在している、が、記憶が戻ると同時に俺は『ハモン』に戻り、最堂セラとしての存在はそこで終る。
今さっきまでそこに存在していた物が、ふっと世界から消えてしまう、これを悲しいと言わずになんと言うか?
それに『最堂セラ』という存在、俺は今のままでも十分満足している、現にあの少女に会うまでこれといって過去に悔やみはなかった。
俺が、前の俺であった『過去』と『記憶』、俺には本当にこいつらが必要なんだろうか……?
忘れてしまえることは、忘れてしまった方が自信のためになるのではないだろうか……
そう考えがまわり始めた瞬間、俺の先は決まってしまったような気がした。
「忘れてしまう方が、俺のためかもしれませんね……」
俺の返答を聞き、前河さんは大人びた笑みを見せながら、俺のグラスに飲料を注いだ。
いっきにあおったその飲料の苦味と刺激が舌と咽を順繰りにめぐり始める。
ジンジャーエールの苦味が、なんだか悲しげに体の中に沁み込んでいった。
……
真っ暗な部屋の中、電気もつけずにベッドに死んだように倒れこんでいた。
視点は1点を見つめて動かない、その視点の先に何があるのかもこの暗さじゃわからない。
その視点さえもかすんであまり良く映ってはいない、かすむ理由は止め処なく流れる涙に他ならない。
声もなく泣き続け、涙は無制限に私の瞳から溢れては零れ落ちて行く。
もうそこに私の意思など関係なく、捻られた蛇口のように止まることを知らない。
信じられない、信じることが出来ない、頭の中にはそれだけがまわっている。
やっと再会が叶ったと思ったら別人だったという結末、どうしても信じられない。
あの顔は私がずっと待ち続けていた者、そう信じていた私の願いはあっけなく砕かれた。
同じ顔をした別人、私にはどうしても信じられない、いや、認められないといったほうが良いか。
しかしあれは現実だ、夢ではない。
彼はハモンという呼びかけには応えず、『最堂セラ』という全く知らない名前を口にした。
彼は私が探している人物ではない、頭ではわかっているはずなのに、どうしても認めることが出来ないでいる。
だから私は、いつまでも涙が止まらないんだ……
「やっと、会えたと思ったのに……」
少女以外誰も存在しない部屋に投げかけた私の言葉は、空しく部屋に響いて消えていく。
応える物など誰も居ない、孤独、今までなら特に気にもしなかったのに、今日はなんだか孤独感いっぱいになる。
明日からまた街に出て、あいつを探してみよう。
きっとあれは私の人違い、あいつがいつまでも見つからずに焦ってた私のちょっとした勘違いだったんだろう。
探し続ければきっと出会えるんだ、私はそう考えながら深い、深い眠りに付いた。
翌日は生憎の雨、それも結構強めの雨が傘に当たってパチパチと弾ける音を立てる。
今日は普通に授業がある日だったけど、大学に入って初めてサボってしまった。
朝から降り続ける雨は昼になっても止まず、夕方が近づいても鈍い灰色の空をしたままだった。
今日はもう帰ろう、傘をさしてはいるものの完全に雨をしのげるわけじゃない。
時折横から吹き付ける雨に服を濡らされ、じんわりと湿った服は私には温もりではなく肌寒さを与えている。
ぶるっと肩が振るえ、クシュンとくしゃみが1つ出た。
今日はもうこの辺にして帰ったほうが良さそうだ、風邪なんてひいたらたまったもんじゃない。
もし風邪なんて引いてしまったら、あいつを探しに行けなくなってしまうから。
ぼんやり眺めた空は、雨を降らせ続ける雨雲によってどんよりと暗く、そしてとても冷たい嫌な空模様。
まるで私の行動を否定するような、空の嘲笑いのように見えた……
……
演奏を終えて一礼すると、客席側からパチパチとまばらな拍手を頂いた。
「お疲れ様、それとこれを」
カウンター裏に引っ込む際、ねぎらいの言葉と共にグラスを1つ受け取った。
中に入っているのは前にも一度貰った、確かシンデレラというノンアルコールカクテルだ。
カウンターを見ると、前と同じ眼鏡の似合う中年男性が笑みを浮かべながら軽く手を上げて答えた。
「今日も楽しませてもらいましたよ」
最近わかったことだけど、この人は新沼さんと言って、学生時代にはブラスバンド部に所属していたらしい。
本当に偶然で、何故だかわからないけど、この店には音楽をかじった経験のお客が多い。
「本当に、最近腕を上げましたね」
新沼さんの横には南条さんが座っていた、2人は俺のヴァイオリンを聴きに来てくれる俺のお得意様。
新沼さんしかり南条さんしかり、他にもちらほらと俺のヴァイオリンを気に入ってくれている人の声を聞く。
最初はあまり人に聞かせるのはどうかと思ったけど、こう気にいってくれるという声を聞くとなんだかやって良かったと思えるから不思議。
「どうですか、我々で1回セッションでもしてみますか?」
そう提案したのは南条さん、いやいや、冗談でしょ?
「面白そうですね、実現できるんでしたら私も楽器出してきますよ」
「良いですね、一夜限りのセッションバンドとして店のイベントとして取り上げられますよ」
おいおい、新沼さんとよりによって前河さんまでノリノリだよ、まさか本当に実現するんじゃあるまいな?
ベテランとかじった人間の差っていうのは驚くほどはっきり出るものですよ。
ベテラン2人に挟まれて、俺は1人だけ浮いた音を響かせるのはきついんじゃないですか?
「はっはっは、渋い顔をしてますね、最堂君」
「やるといっても今日明日の話じゃありませんよ、いつか出来たら良いなって仮定の話ですから」
2人は笑いながらそれぞれのグラスに注がれた酒に口をつける、だけど3人でセッション、いつか出来たらそれはそれで良いと思う。
あと3年か4年、俺がもっと上手くなってからの話ですけどね。
「結構似合ってますね、それ」
新沼さんはこめかみより少し手前、眼鏡のフレームをトントンと叩いた。
それだけで何が言いたいのか俺にはわかった、最近になってしはじめたこの眼鏡のことを言っているんだろう。
暗い場所で作業をするせいか、最近少しだけ視力が落ちた。
まあ生活に支障をきたすことなどこれっぽっちもなく、1……5が1……2程度になっただけ。
眼鏡などなくても十分に生活を送れるのだが、久我瀬さんの勧めで眼鏡をかけることにした、まったくの伊達眼鏡。
かけろと進めた久我瀬さんも、俺の視力云々よりもそっちの方が面白いからということだけらしい。
最近ではアクセサリー感覚で伊達眼鏡にするって聞くし、折角だからつけることにしている。
「ありがとうございます、ですが新沼さんのほうがもっと似合ってますよ」
「似合うというのはちょっと違いますね、この眼鏡は入浴……睡眠以外は常につけていますから眼鏡が合って初めて私の顔なんです。
もししていなかったら違和感があるだけです、似合う似合わないではなく、これが合って私の顔なんですよ」
なるほど、ずっと前から眼鏡をかけ続けている人にとって眼鏡は顔の一部ということか。
だから似合っているというのは間違いで、あれが合って始めてその人ということなのだろう。
眼鏡をしている人にしかわからない、なんとも深い回答だ。
カランコロンとお客の来店を告げる鐘が鳴る、南条さんたちに軽く頭を下げ、お客様の元へ急ぐ。
「いらっしゃいませ、お1人ですか?」
「あ、はい」
お客様は俺よりも少し身長が高く、銀縁のメガネフレームがよく似合う若い人だった。
「カウンター席になさいますか? それともテーブル席がよろしいですか?」
「それじゃあテーブル席でお願いします、あの、1人でも大丈夫なんですか?」
「勿論です、お1人になりたがるお客様もたくさんいらっしゃいますから、何も気にされなくて大丈夫ですよ」
ありがとうございますとその人は軽く笑む、中々礼儀正しくて好感を持てる人だ。
見た感じだと俺とほとんど同じくらいの歳に見える、見えるだけでもしかしたら10も違うかもしれないけど。
お客様を席にご案内し、小脇に抱えたメニューを手渡す。
「ただいまお水を持ってまいります、少々お待ちください」
お客様に一礼し、カウンター裏に戻ってお冷を準備する。
かち割った氷をグラスに入れ、水差しから水を注いでお絞りと一緒に持ってお客の元へと戻る。
「お待たせしました」
「どうもありがとうございます」
「ご注文がお決まりになりましたらお声をおかけください、ではごゆっくり」
「はい、ありがとうございま……」
「す」と続くかと思われたが、お客様は俺を見上げたまま顔をジッと見て止まってしまった。
なんだか驚いているような、幽霊か何かでも見たように目を丸くさせていた。
「……どうかなさいましたか?」
「……あ……いえ、なんでもありません、申し訳ない」
謝られてしまった、だけど俺にはどうしてお客様が謝ったのかわからず、とりあえず一礼してお客の元を去った。
その後も、注文を受けるときや、グラスを下げに行くたびにあの人は俺の顔を不思議そうに見ていた。
少々疑問に思いながらも、結局何も聞くことが出来ずにお客様は帰られてしまった。
俺の顔に何かおかしな所でもあるのかと思ったけど、別段そんなところはない。
なんてことを久我瀬さんに話したら、「そいつ惚れてるんじゃないか?」とかいうハチャメチャな回答を貰った。
「今日はお1人でしたね、以前は女性と一緒にご来店があった方ですよ」
「あ、そうだったんですか、俺はちょっと覚えてないな……」
「あの日は……ああ、覚えていなくて当然ですよ、君はその時風邪を引いて休んでいた日ですから」
また随分前の話だな、俺が風邪引いたのって4ヶ月くらい前だぞ。
しかもその日1回来ただけの客の顔まで覚えているなんて、前河さんの記憶力はどう出来てるんだ?
「私たちのようにしょっちゅう来る常連の顔も、1回しか来ていない客の顔も覚えているんだから、マスター凄いね」
「はは、おだてても何も出ませんよ」
結局前河さんの話で盛り上がってしまい、あのお客様のことはそれ以上話題に上ることはなかった。
だけどあの人、どうして俺の顔を不思議そうに眺めていたのだろう?
……
アゴで固定したヴァイオリンの弦に弓を当てる、そして弓を軽やかに弾くと鋭利な音に包まれた。
今日はいつもよりお客が多い、しかも俺の演奏が始まる20分くらい前から客の入りが良くなった。
俺のヴァイオリンを聴きに来てくれているのかはわからないけど、実際お客は多い。
南条さんも新沼さんも、もっと自分の音に自信を持てと言うけど、案外自分の音って他人にどう聞こえているのかわからない。
カラオケに行って上手い上手いと言われても、自分ではよくわからない。
歌うことに集中しているため、自分の歌に耳を集中させることは難しいからだ。
楽器とて同じこと、演奏中に自分の音を評価するのはそう簡単に出来ることじゃない。
お客さんにはどう聞こえているんだろう? 今度録音でもしてみようかな。
そんな余計なことを考えていると音に乱れが生じてしまうので、今は頭の中から余計な思考を排除し、ヴァイオリンに集中する。
目を閉じているために何も見えない、視界はぼんやりと暗く、ただ俺のヴァイオリンの音だけが響いている。
お客さんはこの空間に、一体何を感じているんだろうな……
ヴァイオリンは最後の曲を終え、鋭利な音はスウっと店内の壁に吸い込まれて消えていく。
ヴァイオリンをアゴから離し、ゆっくりと客席に向かってお辞儀をする、ここでようやく目を開ける。
真っ先に見えるのは店の床、そして頭を上げると聞こえてきたのはお客様の拍手の音だった。
ここでようやく一息つける、常に真剣勝負の気持ちを持ってやっているから。
「お疲れ様です、戻ってきて早速で悪いんですが、この水をお客様の席へお願いします」
「はい、どこのテーブルですか?」
「5番です、昨夜と同じお客様ですよ」
前河さんの言葉に5番のテーブルに目を向けると、薄暗い店内だけどあの眼鏡の顔立ちには見覚えがある。
昨日俺の顔を不思議そうに眺めていたあの男性だった。
「いらっしゃいませ、連夜のご来店ありがとうございます」
「いえいえ、ヴァイオリンお上手ですね」
「ありがとうございます、これくらいしか取り得がないものですから」
「あの、1つ伺ってもよろしいですか?」
「私にですか? まあ、答えられることなら」
「宇崎という男、ご存知ありますか?」
何を聞かれるのかとあれこれ考えたけど、さすがにそんな質問をされるとは思わなかった。
せめてどこかでお会いしたことありませんか? ぐらいだろう。
まさか特定人物を指定してくるとは、しかもどうしてまたそれを俺に聞くんだ?
「宇崎、ですか?……生憎私の記憶にそういった人は」
考えてみたけど、そんな名前の男は俺の頭の中には入っていなかった。
「そうですか、すいません変なこと聞いて」
「気にしていませんよ、ご注文がお決まりになりましたらまたお呼びください」
「あ、いえ、今日はちょっと確認したいことがあっただけですから、これで失礼します」
男性は席から立ち上がり、前河さんに軽く頭を下げた。
前河さんはいつものように笑い、かまいませんよというような態度を見せた。
「申し訳ない、来店して何も注文せずに帰るというのは非常に失礼なんですが……」
「いえいえ、また今度いつでもいらしてください、それではお気をつけて」
「ええ、近いうちにまた寄らせてもらいます、では」
何度も男性を頭を下げて店を後にした、だけどあの人、どうして俺にあんなことを聞いたのだろうか?
……
「違った、か……」
店を後にした男はポツリとそんなことを呟き、店の階段を上がっていくとぽつぽつと小粒の雨がパラパラと降っていた。
傘をさすほどでもなかったので、男はそのまま歩き始めた。
「俺のことがわからないんじゃ、あの人は六乃宮ではないか……」
顔は似ていたが、どうやらただ似ているだけの人違いだったようだ。
男ははあっと溜め息を吐き、今出てきた店に一度だけ視線を向けた。
蛍光灯が看板の中でともり、店の名前を暗い街に浮かび上がらせている。
「リセット」、店の看板にはそう記述されていた。
「……ふぅ」
小さく、長く息をはき、男は再び歩き始めた。
銀縁眼鏡がとてもよく似合う男性、彼の名前は「宇崎 一仁」という……
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