【三章・ それぞれの今】


教科書をまとめ、パタパタと廊下を駆けている。
講義が押してしまったので、走っても間に合わないのだけど、少しでもロスは少なくしたかった。
教師陣に見られたらお咎めがあるかもしれないけど、今はそんなことは言ってられない。

足が地に着くたびに、私の長い後ろ髪が軽く跳ね、首元がなんだかこそばゆかった。
廊下を抜け、エントランスをと出てきた私に気付き、目的の人物が手を振った。

「おーそーいー、4分遅刻」

備え付けのベンチに座り、私を待っていたのは澄ちゃんだった。
髪を後ろで束ねた姿は、高校時代とは違う、とても大人びた印象を受ける

「はぁ、はぁ、ごめん……講義が延びちゃって」

「西崎先生?」

「はぁ、はぁ……うん」

「あちゃー、それじゃ仕方がないね、というよりも、あの人の講義が定刻に終ることってあるの?」

「えぇと……ない、かな」

西崎先生の教えたが悪い、というのではなく、もっと根本的なところに問題がある。
ゆっくりまったり、のーんびりと喋るため、どうしてもやりたいところまで進まないで講義が延長されてしまう。

「ま、西崎先生のことはおいといて、お昼ご飯いこ」

「うん、あ、今日はお弁当じゃないんだ」

「バタバタと色々あってね、こんなことなら私も寮にすれば良かった」

澄ちゃんは家から電車でここまで通っている、比べて、私は寮生活へと切り替えた。
なぜかというと、私は少し低血圧で朝に弱いため、あまり早起きは得意ではないからだ。
だって、寮からならば、よっぽどのことがない限り遅刻はしないだろう。

「あぁー、今、寮は楽で良いよーって顔した」

「うぇ、そ、そんなことないよ……」

慌てて顔の前で手を振る、否定のつもりだったんだけど、澄ちゃんには通じるはずもなかった。

「むぅ、今日の飲み物、憐の奢りだからね」

「え、そ、そんなぁ……」

「ふふ、冗談よ、いこ」

いつもは生徒で溢れかえる学食が、今日は意外にも空いていた。

「お姉さん、キノコのクリームパスタお願いします」

「私は、チキンカレーで」

澄ちゃんがパスタ、私がカレー、学食を2人で利用する際、この組み合わせはよくある光景だった。
というのも、ここは毎日日替わりでカレーとパスタが一品ずつメニューに並ぶ。
勿論固定メニューのカレー、固定メニューのパスタもあるけど、学生の人気はいつも日替わりの方にいってしまう。

「はい、お待ちどうさま」

モアモアと湯気を上げ、受け取り口から2人の料理が差し出される。
お姉さんはおまけとして、サラダを一緒に付けてくれた。

「今日はこんなで残っちゃうからね、私からのおまけだよ」

「ありがとうございます」

「まーす♪」

おまけを貰った澄ちゃんは、まるで子供みたいにキャハハっと笑っていた。
2人で適当な席に着き、澄ちゃんが勢いよく手を合わせた。

「いただきまーす」

「いただきます」

カチャカチャと一口分のご飯とカレーを混ぜ、口に運ぶ。
うぁ、今日のカレーいつもよりも辛口だ、舌がひりひりするよ。

だけど、そんなひりひりもすぐにひけ、独特の深い味が広がっていく。
最初の一口は辛かったけど、その先はそんなでもなく、とても美味しく感じられる。
鶏肉もとても柔らかく、味もよくしみていて、とても学食で出すには勿体ない味だった

「どう、今日のカレーは?」

フォークにパスタを絡ませながら、澄ちゃんがたずねてくる。

「いつもよりちょっと辛めだけど美味しいよ、澄ちゃんのほうは?」

「いつも通り、二重丸だよ」

器用にフォークとスプーンを使い、パスタとソースを絡めてから口へと運ぶ。
なんだか食堂ではなく、どこかのレストランで食べているように見えた。
大体、普通の学食ではキノコのクリームパスタなんて凝った物出ないよね。

「こっちも食べてみる?」

半分くらい食べた頃、澄ちゃんからお決まりの台詞が聞こえてきた。

「良いよ、はい」

カレーが澄ちゃんへ、パスタが私のほうへと交換される。
2人が学食の際、毎回のように半分くらい食べたら2人で交換することにしている。
お行儀悪いと言われるかもしれないけど、料理は楽しく食べた方が良いと思う。

「あく……あ、本当、いつもより辛く出来てる、だけどまだ私には物足りないかな」

いつもより辛いことは辛いけど、澄ちゃんにはまだ辛さが足りないようだ。
私はこれ以上辛くされるのはちょっと……

「そうかな、私はこれ以上はちょっと無理かな」

「まあその辺は好みの問題だしね、だけど味は良いね」

辛さには不満があるようだが、味には満足しているようで、その後も二口三口とスプーンが伸びていた。
私のほうも、フォークとスプーンでパスタとソースを絡めて食べる、澄ちゃんのおかげでこの食べ方も、もう慣れたものだ。

コクのあるクリームソースに、キノコのぷりぷりとした歯ざわりがとても良いアクセントになっていて。
澄ちゃんの言うとおり、こっちも文句なしに美味しかった。
辛いのが苦手な私としては、こっちの方が若干ランクが上かな。

「パスタどう?」

「とっても」

あえて美味しいとは言わない、そのかわりににっこりと微笑んでみた。
だけど私のその顔を見た澄ちゃんは、もう私が何を言いたいのかお見通しといった感じで、うんと1つ頷いた。

「お隣、良いですか?」

突然私たちに声がかかる、声をかけてきた人物は男の子、お盆片手に席を探していた。
こんなに空いてるんだから好きなところに座れば良いのに、と思った、だけど彼の顔を見て納得。

「一仁、女の子同士楽しく食べてるのに、野暮だよ」

「これは失礼、だけどね、これだけ空いてると1人で食べるのは少し惨めなんですよ」

軽く肩を落とし、わかってくれよというような顔をする。
銀縁眼鏡がとてもよく似合う長身の男の子、彼の名前は「宇崎 一仁」、澄ちゃんと同じ経済学部の男子生徒。
加えて言えば、宇崎君は高校時代、私たちのクラスメートだった。

「隣、座らせてもらっても良いかい?」

「ご自由にどうぞ」

澄ちゃんの隣の席に腰を下ろし、注文したキツネうどんに箸を伸ばす。

「あ、そういえば、一仁さっきの講義寝てたでしょ?」

「おやおや、ばれてましたか」

うどんから顔を上げた宇崎君の眼鏡が、湯気で真っ白に曇っていた。

「やれやれ、そろそろ期末考査があるっていうのに、余裕だね」

「余裕はありませんよ、ただ眠くなったから欲求に従っただけ」

「眼鏡曇ってるんだから、拭きなさいよ、まるで女湯でも覗きにいった後みたいだよ」

「心配しなくても、そういったときは眼鏡は外していきますよ。
勿論、そういった場合になる可能性があったらですが」

そう言って宇崎君は眼鏡を外す、素顔の宇崎君ちょっとかっこいい。

「伊達眼鏡なんだからつけなくても良いのに、かっこつけ」

「伊達とは酷いですね、ちゃんと度も入ってますよ、つけなくても問題なく生活は送れますけどね」

「それが伊達だって言うのよ」

高校時代はあんあまり話しているところなんて見なかったのに、大学になったらこの2人、結構よく喋ってるな。
周りに誰も旧友が居ないからっていうのもあるんだろうけど。

「三田村さんの方はどうなんですか?」

「え、わ、私?」

突然のフリで思考が追いつかない、一体何の話をしていたんだろう?

「テストですよ、期末考査、法学部の方は難しいと聞きましたよ?」

「難しいだろうけど、それは経済学部も同じなんじゃないかな。
他の学科にしてもそう、どこも全く違うと思うけど、難しさのレベルで考えたら同じじゃないかな」

「まあ極端に差があったら、その科は問題ありでしょうからね」

うどんのおつゆをすすり、ふぅっと小さく息を吐いた。

「そういえば三田村さん、1つ訊ねても良いですか?」

「何?」

「六乃宮は、あいつから何か連絡は?」

「あぁ……」

パスタを絡める手が止まり、私の視線は渦を巻くパスタへと落ちてしまった。

「……むぅ」

「いつ! 何するんですか?!」

「莫迦、デリカシーない……」

「うぅん、良いんだよ……まだ、なんだ」

「そうですか……」

私は高校時代、宇崎君とはそれほど仲が良いほうではなかった、だけどハモンと宇崎君の仲は良かった。
男女両方から人気のあったハモンだけど、クラスでは宇崎君と居るのが一番多かったんじゃないかな。

「フランス、でしたか?」

「うん、まだフランスに居るのかはわからないけど、たぶんそこだと思う」

「いまだに電話の1つもないの?」

「……うん」

「……」

「……」

澄ちゃんと宇崎君が顔を見合わせ、なんだか言葉にならないような表情をしていた。

「もう、2人してそんな顔しないでよ、確かに電話の一本もくれない薄情な奴だけど。
あいつは約束を忘れたり、破ったりすることは一度もなかったよ」

「うん、そうだよね、莫迦がつくくらい生真面目なハモちゃんだもんね」

「六乃宮の唯一良い所ですからね」

「2人ともきついなぁ……」

私たちの中に、やっと笑い声が生まれた。
私も笑っていた、だけど、私のは所詮作り笑いなんだ……

「おっと、そろそろ食べ終わらないと午後の講義遅れるよ」

「そうですね、急ぎますか」

澄ちゃんと宇崎君はパパッと手早く昼食を平らげ、いそいそとお膳を返しに行く。

「どした? 憐も急がないと遅れちゃうよ?」

「大丈夫、今日は午後からお休みなのですよ」

「あー良いなー、私も法学部にすれば良かった」

「法学部にしたらしたで、経済学部のほうが良かったーとか言いそうですけどね」

「なんか言ったか?」

「特に何も、急ぎましょう」

「そんじゃ憐、またね」

2人はぱたぱたと走って行ってしまった、手を振る澄ちゃんに私も軽く手を振り替えした。
澄ちゃんが見えなくなり、手を振るのを止めると、不意にさっきのことが思い出される。

「……約束は守る、か」

あの時は咄嗟にあんなことを言って場の空気を換えたけど、本当にあいつは戻ってきてくれるのだろうか?
そんな保証はどこにもない、いつどこで何が起こるかわからない世の中だ、確実なことなんて存在しない。
そう考えていると、なんだか胸が締め付けられるような寂しさに支配された。

「どうした、お腹痛い?」

気が付くと、私の横で学食のお姉さんが心配そうに私を見ていた。

「いえ、なんでもないです、すぐに食べちゃいますから」

もうそんなに残っていなかったので、私もお皿に残ったパスタを平らげる。
冷めたパスタは少し味が強く、もっと暖かいうちに食べておけば良かったととても後悔した。

「午後の授業、休みなんだって?」

「はい、なんでも担当の先生が急な出張とかで」

「ねえ、暇だったら少しお茶でも飲んでいかない?」

「え、だけどご迷惑なんじゃ、後片付けとかあるんじゃ……」

「今日は利用者が少ないからほとんど終ったよ、後はこいつを洗うだけ」

「そうなんですか、それじゃあ……お言葉に甘えて」

「良いお返事ね、待ってて、すぐに終わらせてくるから」

お姉さんは私が食べたお皿を持って、食堂の奥へと消えた。
本当ならそろそろ講義堂に戻っていないといけない時間、そのために食堂はびっくりするほどしんとしていた。

「お待たせー、緑茶・紅茶・コーヒー・ココア、どれが良い、私の奢りだよ」

「そんな、悪いですよ」

「気にしない気にしないの、誘ったのは私なんだから、で、どれが良い?」

「じゃあ、紅茶を……」

「ストレート・ミルク・レモン、味はどれ?」

「ミルクで」

「了解」

お姉さんはにっかりと笑い、自販機から私の飲み物と、自分用の飲み物を買ってくる。

「ほいよ」

「あ、ありがとうございます」

私の前の席に座ったお姉さんは、頭に巻いていた布巾を外し、長い髪を軽く横に振った。
赤く色付けられたその髪の毛は、とても料理をする人の髪だとは思えなかった。
しかも、お姉さん相当美人で、相当若い。

「あ、あの」

「どした? 何か質問? 体重以外なら何でも良いよ」

「そんな失礼なことは聞きませんよ、あの、お姉さん若いですよね、今いくつなんですか?」

「私はまだ22歳だよ、君たちと実際にはあんま変わらんよ」

「22歳!?」

思わず素っ頓狂な声が出てしまった、まさか22歳だなんて、うそ、信じられない。
普通こういったところって、もうちょっと年配の人がやるんじゃないの?

「どうしたのその顔、私が22歳でそんなに驚いた?」

「はい、いつからやってるんですか?」

「去年だよ、調理師の専門学校出てすぐここに就職ってわけ、あの時は私も驚いた。
タバコ、吸っても良いかな?」

「あ、どうぞ、私は気にしませんから」

「サンキュ〜」

満面の笑みを見せ、お姉さんはタバコに火をつける。
気を使ってくれているのか、煙を吐く時は私にかからないようにむこうを向いてくれた。

「そういえば、お姉さん名前なんて言うんですか?」

「私? 私は橘 楓、一応ここの調理主任だよ」

「うぇ、主任さんなんですか!?」

またも驚き、この若さでここの調理主任、そういえばよく楓さんが指示を出していた気がするけど……まさか主任だったとはね。

「ま、6人しかいない中の主任だけどね、君の名前は?」

「三田村 憐です」

「憐ちゃんか、良い名前ね、憐ちゃん彼氏と上手くいってないの?」

「え、えぇ、ど、どうしてですか?」

この慌てよう、どう弁解しようとも覆らないかな。

「あはは、慌てすぎ、ちょっと会話が聞こえちゃってね、そのあと凄い落ち込んだ顔してたから」

あちゃー、見られてたんだ、2人には見られないようにしたつもりだったんだけどな……

「彼氏、浮気性?」

「い、いえ、そんなことはないんですけど……」

わたわたと両手を顔の前で振る、ハモンは浮気性ではない……と思ったから、確証はないけど。

「ちょっと、離れ離れになってまして……」

「遠距離?」

「はい、日本ならまだ良かったんですけど」

「海外なんだ、それはちょっと辛いね、日本なら連絡手段がたくさんあるから良いけど。
海外となるとあんまり連絡も出来ないか、彼とはどれくらい会ってないの?」

「もう2年以上になりますね」

「2年間もか、そんだけ長い間声も聞いてなかったら、寂しくもなるわね」

楓さんは大きくタバコの煙を吐き、燃えガラを灰皿の中に落とした。

「男は無神経だからね、彼女がこうやって悩んでいても、男は素知らぬ顔。
その上、男は彼女に向かって好きだとかあんまり言おうとしない、ずるい生き物だと思わない?」

「ずるいですよね、やっぱり」

そういえば、一度も私を目の前にして「好き」って言葉を聞いたことがない。
恥ずかしがりやなのか、もしくは、本当は私に興味がないか……

「憐ちゃん自身はどうなの、その2年間以上も待たせる彼氏君のこと、今でも好き?」

「……」

本当のところ、どうなんだろう、私は今でもあいつのことが好きなんだろうか?
これだけ長い間待たせて、何の音沙汰もなし、一度も私に好きとは言ってもくれない。

私が持つ「好き」という感情は、あの時のまま止まっているのかもしれない。
あいつが帰ってくると言ったから、私はまだあいつを好きでいるだけなのかもしれない。

本当に好きなのか、見せかけだけの好きなのか?
私の本当の気持ち、一体どっちなんだろう?

「好き……ですよ、今でも」

やっぱりそうだよね、私は今でもあいつのことが好きなんだと思う。
でなかったら、あいつのことを考えて、寂しげな顔なんて絶対に出来ないもの。

「うん、だったら何の心配もないじゃない、憐ちゃんは今でも彼氏のことが好き、その気持ちがあればなら大丈夫。
もし彼氏が帰ってきたら、一発くらい殴ってあげな、長い間待たせた罰ってことでね」

楓さんはまたにっかり笑い、下から拳を突き上げた、私に出来るかな……

「楓さんって、面白い方ですね」

不意に笑みがもれた、そんな私を見て、楓さんまでもが嬉しそうに笑い出す。

「そうそう、女の子は笑ってたほうが可愛いぞ、しょげた顔してると運気逃げるよ」

「はい、そうします」

「良いお返事ね、今はそれだけで良いと思うよ、後は帰ってきた彼次第。
帰ってくるまで、根気強く待ってあげなさいな、帰ってきたら、今度はうんと甘えれば良いんだよ」

「……」

「ん、どしたの?」

「いえ、なんだか人生経験豊富な人の言葉だなって」

「むか、私はまだ22だよ、人生経験豊富って言うのはちょっと酷すぎー」

「ふふ、ごめんなさい」

……

食堂で楓さんと別れ、私は寮へと向かっている。
楓さんは、これからも学食を利用してくれればサービスする、だってさ。
サービスも嬉しいけど、なによりも楓さんとお知り合いになれたのがもっと嬉しかった。

寮までスキップをするわけじゃないけど、私の足取りはなんだかとても軽かった。


……


最堂先生の養子になって、もう2年近くが経とうとしていた。
気が付けばもう2年、色々なことがあったけど、どれもこれもとても駆け足だったな。

ベッドに横にしていた上体を起こし、コンポに電源を入れる。
中に何が入っているのか覚えていなかったけど、確か弦楽4重奏だったと思う。

僅かな静寂の後、美しいヴァイオリンの旋律が聞こえてきた、当たりだな。
第1ヴァイオリンがメロディーを奏で、第2ヴァイオリンがそれをアシストする。
さらにはチェロが重低音を響かせ、ヴィオラが曲に締りを入れる。

互いが互いを引き立てあい、全てが壊されることなく1つにまとまっていた。
音楽とは、何よりも神経を使う事の1つといっても良いだろう。

「音楽家って凄いんだな」

ちょっとやそっとかじったぐらいでは絶対に出来はしない、あれで生計を立てようという決意が合って初めて出来るのだろう。
趣味程度にしか思っていない人には、きっといくら練習したところで、趣味のレベルを抜け出すことなんて出来やしない。
情熱、というレベルできっともう差が出てしまうのだろう、まあそれは音楽以外のことにも言えることだけど。
一曲目が終わり、続いて二曲目の曲に移り変わる。
今度はバイオリンとチェロが主旋律、ヴィオラが1人でバックを担当する曲だった。

ベッドに寝転がりながら、ゴロンと寝返りをうつ、大量の本が部屋の隅に整頓されていた。
ここは元々、親父が二部屋目の書庫として利用していた部屋で、一部屋目に入りきらなかった本が少しここにきている。
自分の部屋に動かそうと親父は言っていたが、俺は別にこれで構わなかった。

あんまり広すぎる部屋は好きじゃない、これくらいの圧迫感があったほうが俺は落ち着く。
逆に、あまり広すぎる部屋に放り込まれると、どうとはいえないが、なんだか不安いっぱいになってしまう。
決して狭い部屋ではないが広すぎず、生活空間にするには十分すぎる部屋だ。
ベッドがあって、本棚があって、コンポがあって、テレビがある、十分すぎるだろう。

そしてテレビの横には、立てかけられるようにして置いてある独特の形のケース。
ベッドから起き上がり、そのケースを手にとってみる。
重い、と表現するにはいささか無理のある、僅かな重さを感じるだけのケース、そしてこの形。
直線と曲線が入り混じった、入っている物の形そのまま、ヴァイオリンの形そのまま。

ケースから取り出し、ヴァイオリンを顎に当てる。
ゆっくりと弓を弾くと、ヴァイオリンから弦楽器特有の鋭利な音が響く。
ヴァイオリンはとても鋭利な音、小刻みなずらし方で音が様々な変化を示すことができる。
木管楽器や金管楽器ではとても出来ない、突発的なシャープさ、それがヴァイオリンには可能である。

退院後、親父に教わってある程度の音が出せるまでになっている。
まだ親父の足元にも及ばないが、いつかは横に並べるくらいになってみたいものだ。

親父からエチュードとして曲を貰ったは良いが、これがまだ全く弾けていない。
有名な曲ならまだ良いのだが、このエチュード、よりによって親父の自作らしい。
全くの初心者が作った物だから、エチュードとして成り立っているのかわからないが、親父はこれで上達したらしい。
ちなみに、エチュードとは練習曲の意味を持ち、誰でも1回は弾くらしい。
全部親父に教えてもらったことだから、間違っていることも多々あるかもしれないが……

「セラ」

名前を呼んだ後、コンコンと2回ノックの音、入っても良いかの確認をとる合図だ。

「どうぞ」

俺の返事を待って、親父が俺の部屋へと顔を出した。

「失礼するよ、ほら、お前宛」

親父からポンと渡された物は、しわ1つよれ1つなく丁寧に包まれた封筒。

「手紙か?」

「いや、今月の診断証、どこも異常なしだよ」

おいおい、口で言うんだったらこんな封筒渡さなくても良いじゃないか。

「ヴァイオリン、弾いていたみたいだな」

両腕に持たれた弓と本体に交互に視線をやり、親父がたずねてくる。

「少しだけな、ちょっとは上手くなったろ?」

「最初に比べればほんの少しな、まだ硬い感じがする、押さえる指にまだ力が入りすぎている感じだ。
もっと軽く、もっと優しくだ、女性のように扱うこれが基本」

1本指を立て、親父はちっちっちと横に振った。

「力を入れすぎないように意識はするんだけど」

「意識しているようではまだまだだな、無意識下のうちに力をセーブ出来るようにならないと。
ヴァイオリンは他と違って、次の瞬間には全く違う波長になっているんだから」

「あのさ、前から気になってたんだけど、どうしてヴァイオリニストにならなかったんだよ?」

これだけいろいろ知っているのなら、そっちの道も考えられたんじゃないのか?
と、今まで気にはなっていたがどうしても聞けなかった、今日初めてそんな質問をぶつけてみた。

「腕が悪かったんだよ、私の腕がな」

「あれだけ上手くても、駄目なもんなのか?」

「いや、技術的云々ではないんだ、私のこの左腕自体に問題があってな」

ぽんぽんと左腕を叩く、腕自体が問題? 義手だとでもいうのだろうか?
どういうことか聞いてみたかったけど、なんだか踏み込んではいけない感じがしてこれ以上は聞けなかった。

「ま、そんな昔の話はどうでも良いんだが、夕食は何にする?」

突然の話題転換、親父があまり昔の話を良く思っていない証拠だ。
そんな親父に合わせるように、俺はこれ以上過去の話を振るのは止めにした。

「親父に任せるよ、魚料理を一品入れてもらえるとありがたいかな」

「了解だ、出来たら呼びに来るから、それまで練習でもして時間を潰してくれ」

それからややあってから、親父からのお呼びがかかった。
練習でもしてろと言われたけど、俺はベッドで一眠りしていた、まだ眠気が抜け切っていないせいか頭がぼぉっとする。

そんな頭を覚醒させたのは、親父が夕食に出したサーモンムニエルの冴えるようなレモンソースの香りだった。
レモンの芳香が鼻から入り、神経伝達を行って脳まで運ばれる、眼の覚めるようなさわやかな香りだ。
こいつは親父の得意料理、これとトマトシチューは親父の物が1番美味いと思っているくらい美味い。

「相変わらず、料理美味いな」

「伊達に何年も1人で暮らしてはおらんよ、これでも調理師免許もあるんだぞ」

「マジ、驚いたな……」

医者であり、ヴァイオリン経験者であり、調理師免許まである、なんか変わった親父だよ。
普通どれか1つくらいだろ、欲張って3つもやるからこんな親父になったんだろうな。

「少しくらいお前も料理をやってみたらどうだ? そのうち1人暮らしにもなるだろうしな」

「その時はその時だよ、死にそうになたら戻ってくるから」

「久しぶりの再会が病院、というのだけは勘弁してくれよ」

2人同時に笑い声が漏れた、楽しい食事会、男2人しかいないけどそこに寂しげな感じは全く感じられなかった。
俺たち2人に血の繋がりは全くない、だけど、そんなことはこれといって関係ない。
ようはどれだけ互いに信頼を寄せれるか、そういうことではないだろうか?

「ごちそうさん」

「あ、ちょっと待ってくれ」

夕食を平らげ、部屋に戻ろうとした俺に、親父は大きめのダンボールを渡す。

「何これ?」

「おまえが病院にいた頃に病室にあった荷物だ、全部移したと思ったらまだ私のロッカーにあった」

「ちょっと待ってくれよ、俺が退院したのはもう2年も前だぜ、なんで今更こんなもんが?」

「ロッカーの整理をしてなかったものでな、今日病院で整理をしている最中に見つけたんだ。
これといって重要な物もないと思うが、一応な」

おいおい、今頃になってそんな昔の物渡されてもさ。
ていうか、もっと早く掃除しようぜ親父、外では自分の部屋みたいに散らかしたままにはしないでくれよ。

親父は料理は美味いのだが、掃除は全くと言っていいほど出来ない人だ。
そんなわけで、休みの日にはよく俺が親父の部屋の整理を手伝わされるんだけど、あの散らかりようはもう才能だよ。
高くつまれた医学書の山・山・山、書き散らされた何かのメモ、開いたままになった海外の本。
調べ物に夢中になるのは良いけど、1つ終ったらちゃんと元に戻してから次を初めてもらいたいものだ。

「その前に、俺荷物なんか持ってたか?」

「覚えてないな、自分で確かめてみてくれ」

本当に俺のなのかこれ? 開けてなんか見たこともない標本とか入ってたら嫌だな……

部屋に戻ってダンボールを開けてみた、開けた瞬間になんだか埃っぽい感じがしたのは言うまでもない。
見てみると、中に入っていたのは薄汚れたシャツや、激しく穴の開いたジーンズなどだった。
この汚れ方、それにこの破れ方……たぶん、俺が救助されたときに着ていた物ではないだろうか?

手に取ってみてみると、なんだかこんな物を着ていたような記憶が薄っすらと残っているような気がする。
ワイシャツの左袖が激しく擦り切れ、肘の辺りには赤く滲む、たぶん血であろう痕が薄っすらとこびりついていた。
左袖は煤で汚れてしまい、黒と白のマーブルがとても悲壮感漂う物だった。
ジーンズにしてもそう、よくこれだけボロボロになっていながら、骨折程度で済んだものだ。
右足の方なんてもう膝から下がなくなってるじゃないか……

出てくるのはそんな衣服ばかり、シャツにジーンズになんだか原型もわからないようなジャケット。
しかもどれも洗ってない、病院とはいえそこまで親切にはしてくれないってことですね……
だったら捨ててくれれば良いのに、さすがにもうこんな服は着る気にさえならないよ。

親父が言うとおり、本当に重要な物など入っていない、むしろゴミに近い。
こんな縁起の悪い物はさっさと捨ててしまおう、取り出した衣服を再びダンボールに投げ入れて行く。

ワイシャツを投げて、ジーンズを投げて、ジャケットを投げ入れる。
その時、ジャケットの胸ポケットに何かが入っていることに気付いた。
取り出してみると、表面は拉げているが、どうやらメモ帳のような物だった。
俺のジャケットから出てきたってことは、このメモ帳は俺の物だよな?

パラパラ捲ってみると、なんだか難しい字がいっぱい書いてあった、こいつは日本語だな。

……日本語? え、一体これは……どういう?

「おーい、親父ー」

急いで1階に降りてくると、親父はソファーに腰掛けてニュース番組を見ていた。

「どうかしたか、何かまずいものでも入っていたか? 偽札とか」

そんなもんが出てきたら、あなたの病院はとんでもないことになっちゃうって。

「これ、どう思う?」

手帳を渡すと、親父はしげしげと手帳をひっくり返したりしていた。

「どうしたんだ、この手帳?」

「ダンボールの中から出てきたんだよ、服の中にあったから俺のだと思うんだけど」

「服……なるほど、すると中には病院に連れて来られた時の服が入ってたわけだな。
で、この手帳がどうしたっていうんだ?」

「中、見てみてくれよ」

「中だって? 別に普通の手帳なんじゃ……これは」

親父も俺と同じように、手帳の中身を見て固まってしまった。

「この手帳、服の中にあったって言ったな?」

「あぁ……」

2人ともそのまま沈黙してしまった、きっと2人の頭の中では同じようなことが廻っていることだろう。
手帳に日本語が書いてあるということは、少なくとも、俺は日本語を使えるということだ。
話すことが出来るのだから、書くことが出来て当然と言えるが問題はそこではない。

この手帳には、全て日本語で文や単語が書かれている。
すなわち、他の言葉を使う必要がまったくなかったということ、つまり。

俺は日本に居た、ということだ。

失われた過去のピースが1つ、ぼんやりとだが浮かび上がってきた。

「なるほどな、だからそんな顔立ちなのに日本語が達者なわけだ」

親父も同じ結論に至ったらしい、「俺は日本に居た」これだ。

「俺は、日本人なのか……?」

「これだけで断定は出来んよ、ハーフの可能性は十分に考えられる。
いやむしろ、日本人とどこかの国のハーフ、と言ってしまって良いだろうな」

確かに、俺のこの髪とこの瞳、純粋な日本人にはありえない、どこかで血が混じっているのだろう。
日本人は親父か? それとも母親か? もしくはクォーターの可能性も否定できない。

親父は俺に手帳を返し、何かを考え込むように目を瞑って上を向いた。
手帳を捲り、他に何かないのか探してみる、捲っても捲っても書いてあるのはどうでも良いようなメモばかり。
それもびっしりと書いてある、前の俺ってこんな性格だったんだな……

そのまま何ページか捲っているうちに、あるページで手が止まった。

「こいつは……」

「他にも何かあったのか?」

上を向いていた親父の視線が、俺の声に下へと落ちてくる。

「カワサキって、どこのことかわかるか?」

「カワサキ……日本にその名前の場所はあるが、そこがどうした?」

「これ……」

親父に見せると、親父は再び沈黙してしまった。
書かれていたのは「川崎 四年後にこの公園でまた」という一言だった。

これはつまり、4年後にまた川崎で会いましょうという、何かの約束ではないだろうか?
もしかすると、俺は記憶を失うことで、忘れてはいけない大切な何かを忘れてしまったのではないだろうか?

これを書いたのがいつなのかわからないが、何故だか、まだその4年は過ぎていないような気がしてならなかった。
確証なんて何もない、ただの勘でしかないが、俺には訳のわからない自信があった。

……俺は、行かねばならないのではないだろうか?

「親父……」

「セラ……少し、私の話に付き合ってくれるか」

親父は神妙な顔になり、俺にソファーに座れと手で誘導する。
ソファーに親父と向き合う形で座ると、親父は言葉を選ぶように話し始めた。

「お前がこの家に来て、もう2年もの月日が経ってしまった、その間何度か喧嘩もしたな」

昔を懐かしむように、親父は少し遠い眼をしていた。

「もう何年も前になるが、私にも息子が居たんだ、私の血をわけた実の息子がね」

今、「居たんだ」と表現した、すでに過去の形にされている。
しかし、そこにはあえて触れないでおこう、親父が話したくなければそれでも良かった。

「おや、何も聞かんのかね?」

「聞いてしまっても……良いものなのか?」

俺が何も聞き返してこなかったので、不思議に思ったのか親父から聞いてきた。
だって、過去形になっているということはつまりは……

「10年も前のことだ、私の息子は私の妻と共に、車でがけの下へ……」

手で車が下に落ちるようなジェスチャーをする、最後にはボンと爆発の表現までしてくれた。

「事故、だったんだ……」

「いいや、事故だったらまだ良かったんだがね……」

「どういうことだよ?」

さっきのこともあったため、もはや俺に遠慮はなかった。
親父が話そうとしていることを、全部聞いてしまおう、そして、それを受け止めよう。

「……自殺、だったんだよ」

「え……」

2人の間に突如訪れる恐ろしいまでの静寂。
何も聞き返せない、何を聞き返せば良いのかわからない、何を喋ったら良いのかもわからなかった。
最初に沈黙を破ったのは親父だった、もっとも、俺には喋ることさえ許されていないような感じがした……

「今でこそこんなだが、当時は結構うるさい男でね、息子に私の夢をたくそうと必死だった。
私が出来なかったことを、世代を超えて達成してもらいたかった、ヴァイオリニストになるという夢をな」

「……」

「しかし、私は自分の夢に固執しすぎた、息子のことも考えず私が全てを押し付けた。
厳しい言葉も浴びせ、息子の自由全てを奪ってしまった」

はぁっと小さな溜め息が聞こえる、なるほど、大体筋書きは読めてきた。

「妻は何度も私を説得した、もう息子を解放してやれと、だが、私はそれさえも許さなかった。
私のせいで疲れ切ってしまったんだろう、妻は息子を連れ出し、そのまま帰らぬ人だ……」

過去を話し終えた親父の顔は、それこそ疲れきったかのように消沈していた。
きっと、俺には隠し続けようと思った話に違いない、だけど、何故俺にそんな話を?

「私は悔やみ続けた、もしもう一度家庭を持つことができたら、今度は自分の我を通すのは止めようと。
それから10年、私は再び家庭を持つことができた……セラ、お前とな」

そういうことだったのか、親父が俺を養子にしようとした理由、償い。
悔やみ続ける親父が、償える場所はここしかないと思ったわけか。

「あいつに与えてやれなかった自由を、お前から奪いたくはない。
お前は自分の考えるように、お前の自由で人生を渡って行って欲しい……行くんだろ、日本に?」

全て見透かされている、親父は俺が何を切り出そうとしたか全てお見通しのようだ。

「俺は……行ってしまって良いのかな?」

「行くのも自由、行かないのもお前の自由だ、選択権は全てお前にある。
もし行くのならば、私は出来る限りのことはしよう」

親父の眼は真剣そのもの、俺もそんな親父の眼を正面に捉え、俺の気持ちをぶつけた。

「日本、行かせてもらえるか……」

「……あぁ」

すると、親父はいつもとは違う、慈愛に満ちた微笑を向けてくれた。
きっと親父自身、俺がどんな決断を下すのか最初からわかっていたのだろう……

「わかった、川崎には私の古い友人がいる、その人が経営している店に後で電話してみよう。
上手くいけばそこで働くことが出来る、生活するにはまず仕事がないといかんだろうからな」

「……ありがとう、親父」

「何、気にすることはない……父親としては当然のことだ。
向こうで気の済むまで生活をして来い、記憶、戻ると良いな」

「あぁ……」

今頃になって見つかった手帳は、俺の全てを変えようとしていた。
記憶の一部を握るこの手帳、これはこの先も使っていこう、またどこかで役に立つかもしれない。
向こうで記憶が戻るのかわからないが、俺には行かねばならない、そんな気がする。

俺は、日本へ行く……





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜