【二章・ 羽ばたく翼、傷付く翼】
屋上から眺める景色がとても綺麗だ。
早咲きの桜がちらほらと咲き始め、お日様も程よい暖かさ、今日はもってこいの日だった。
「……」
手すりに手を添え、スッと誰もいない私の横へと視線を投げる。
ハモンが私の隣から居なくなって、もう2年もの月日が流れていた。
あいつが居なくて泣いた事もあった、あいつが居なくて澄ちゃんに愚痴った事もあった。
澄ちゃんはいつも嫌な顔もせず、ずっと私の愚痴に付き合ってくれた。
私が泣いている時も、隣には澄ちゃんが居ることが多かったな。
「あ、居た居た、おーい」
「あ、澄ちゃん」
私を見つけた澄ちゃんは、軽く手を振りながら私の方へとやってくる。
「こんな所に居たんだ、探しちゃったよ」
よく見ると、少しだけ制服に走った後のようなよれが見えた。
「なんでこんな日に学校中走り回らないといけないわけよ……」
「先に行ってても良かったのに」
「ちょっと待った、用事があるから教室で待っててって言ったの誰だったかしら?」
う、そういえばそんな事を言ったような気も……
「私、そんなこと言ったっけ?」
「ええはっきりと言いましたよ、時間になっても戻ってこないから、私が探しに来たんじゃないの」
「あぁ、ええっと、ごめんね」
「罰として、帰りに甘い物でも奢ってもらうからね」
ここは大人しく、澄ちゃんの言うとおり奢った方が良いよね、悪いのは私なんだし。
さっきまで、肩が激しく上下していた澄ちゃんの呼吸も、落ち着いてきたのか安定し、ゆったりしたものになっていた。
「とりあえず早く行こうよ、皆待ってるよ」
「うん……」
手で来い来いとシグナルを送る澄ちゃんの元へ、私はもう一度視線を屋上から見える景色へと映した。
「……」
「……憐」
ポンと澄ちゃんの両手が、私の肩へと添えられた。
「式が終わったら私も付き合ってあげるから」
「……ありがとう」
私のことを心配してくれる澄ちゃんに笑顔を返し、澄ちゃんと一緒に屋上を後にした。
教室に戻ると、担任の久世先生が振袖姿で点呼を取っていた。
「三田村さん、こんな日に自由行動はいけませんよ」
愛用のピンクのボールペンを左右に振る、久世先生の良くやる動作の1つ。
どんな真面目な話をしていても、あれ1つで和やかムードになるから不思議なものだ。
「すいません、ちょっと時間がわからなくなっちゃって」
「なんで私がとばっちり食らうのかねぇ……」
「藤島さんもお疲れ様、とりあえず2人とも席についていてください」
クラスメートの何人かはクスクスと笑っていた、この顔を見るのも、今日が最後なんだな……
「はい、全員出席ですね」
久世先生は出席簿を閉じ、ゆっくりと教室の中、生徒1人1人の顔を見渡した。
「はい、皆とても良い顔をしていますよ、今日にはぴったりの顔です。
私も今日は振袖にしたんですが、似合いますか?」
男子生徒から「似合うー」という声が聞こえる。
若い久世先生は、このクラスの男子にはすこぶる評判が良かったからな。
「式までは後数十分です、時間になったら担当の先生が呼びに来ますから、それまで教室でじっとしていてくださいね。
くれぐれも、どこかの教室に行っちゃって式に遅れたなんてことはないように、お願いしますねー」
またも男子生徒から「わかりました」や「はーい」という声が聞こえる、なんだか凄い子供みたい。
「では、上級生の威厳がなくなっちゃいますから、在校生の前では泣かないでくださいね」
そう言うと、久世先生は笑顔で手をフリフリ、そのまま教室から出て行った。
「久世先生、随分とめかしこんでたね」
「そうだね、まあ今日は特別な日だからね」
今日は特別な日、私も、澄ちゃんも、久世先生もそう表現した。
それもそうだよね、だって今日は、3年間で1番盛り上がる日なんだから。
「そろそろ時間になります、準備をお願いします」
パリッとした背広を着た先生が顔を覗かせ、私たちに行動を促した。
あの鼈甲縁の眼鏡、あれは教頭先生だ。
「さ、いこっか」
さっきと同じように、澄ちゃんは私の肩に両手を置き、私に笑顔を向けた。
「途中で泣くなよー」
「な、泣かないよ!」
本当はそんな自信、どこにもないけど、そうでも言っておかないと、とても恥ずかしい気がした。
今日は、私たち3年の晴れ舞台、卒業式なんだから……
在校生が行儀よく整列する中を、紅白の垂れ幕をくぐって入場する。
黒い服を着た音楽の先生が、ピアノを奏で、在校生の控えめの拍手が後押しを加えた。
私たちのクラスは最後のクラス、私たちが席に着くと、ピアノの旋律と拍手は徐々に音を落とし、やがては聞こえなくなった。
「ただいまより、第27回、卒業証書授与式を始めたいと思います、一同、ご起立ください」
教頭先生の挨拶で全校生徒、教師陣、来賓、保護者が一斉に立ち上がる。
私たちの卒業式は、今始められた……
……
卒業証書授与、私たちの学校は代表がまとめて取りに行くのではなく、1人1人手渡しで渡される。
受け渡しは滞りなく進み、今はもう私たちのクラス。
「藤島 観澄」
「はい」
澄ちゃんの番だ、澄ちゃんは全く乱れることもない、しっかりとした足取りでひな壇を1段ずつ登っていく。
こんな時でも、澄ちゃんには焦りや同様というものが全く感じられない、前から思ってたけど、澄ちゃんは凄い。
「卒業証書、藤島 観澄殿、以下同文です」
校長先生から渡される証書を両手で受け取り、深々とお辞儀をする。
段を離れる際に、私と視線が交差した。
あ、澄ちゃんウインクしてくれた、こんな時でも余裕たっぷりなんだ。
「三田村 憐」
「はい」
澄ちゃんほどではないけど、私も粗相がないように、気をつけて1歩1歩を踏みしめた。
ひな壇を1段ずつ上がり、てっぺんに立って校長先生と向かい合う形になる。
私は澄ちゃんとは違って、やっぱり緊張していた、そんな私を見透かしたのか、校長先生は軽く笑ってくれた。
「卒業証書、三田村 憐殿、以下同文です、おめでとう」
もう一度、校長先生が笑ってくれたので、私も軽い笑みを返した、なんだかやっと緊張がほぐれてきた感じだ。
私も、皆と同じように証書を受け取り、ひな壇を後にした。
「以上で、卒業証書の授与を終ります、引き続きご来賓の方から……」
「……」
本当だったら、私の後にあいつの名前も続いていたのに……
ぽっかりと空いてしまった、私の後ろの名前、本来なら私の横に彼の席もあったはずなのに。
私の心はどこか冷めていた、それは全て、あいつが居ないからに他ならない。
終ったら、澄ちゃんにたくさん愚痴を聞いてもらおう……
「一同、ご起立ください」
教頭先生の合図で、体育館に居る人が一斉に立ち上がる。
「以上を持ちまして、第27回卒業証書授与式を閉幕したいと思います」
……
教室に戻ってくると、さっきまで泣いていなかった生徒が途端に泣き出した。
それもそうだよね、三年間一緒にいたのも、今日でお終いなんだから。
泣きながら抱き合う子もいれば、男子は再会を約束して握手を交わす子もいた。
私自身も、友達の女の子とは、もう何人も再会を約束を交わしてきた。
「れーん」
私の肩に両手を添え、顔の脇から顔を出す、もう澄ちゃんのお決まりの行動となってしまった。
「お、泣いてないね」
「そういう澄ちゃんこそ」
「まあね、皆そのうちまた会えるわけだし、何より憐とは次も一緒だからね」
私と澄ちゃんは同じ大学を受験し、2人とも見事合格することが出来た。
4月からは2人とも大学生、私は法学部で、澄ちゃんは経済学部だけど、通う学校は2人とも同じ。
「はーい、皆お疲れさまー、席に着いてください」
振袖姿のまま、久世先生が教室へと戻ってきた。
「さて、今日を持ちまして、皆がここの生徒ではなくなるわけですが、今日はまだここの生徒であります
高校生活最後の日ですから、悔いのないよう友達といっぱい話したりしてくださいね」
話の途中から、先生の声色が少しずつ変わっていた。
「それから、皆、1年間私についてきてくれて、ありがとね」
久世先生が泣いていた、笑ってはいるけど、頬にはしっかりと涙の跡が出来上がっていた。
「卒業しても、たまにはここに遊びに来てください、気が向いたときは、私のことも思い出してくださいね
それじゃ、かいさーん!」
先生は泣いた笑顔のまま、手を大きく上へ突き上げる。
先生の合図に、何人もの女の子が一斉に先生の元へと集まっていった。
皆泣いていた、当然久世先生も泣いていた、中には男子生徒の姿もあった。
久世先生、本当にこのクラス皆から慕われていたんだな。
「私たちも行く?」
「……ううん、今行ったら、きっと泣いちゃうよ」
「だろうね、それじゃ、私たちは私たちの場所に行きましょうか」
澄ちゃんがクイクイと指で合図、私と澄ちゃんには、ちゃんと約束があるんだ。
私たちがやってきたのは、式が始まる前に私がいた、この屋上。
屋上から見える校門の辺りでは、下級生であろう生徒が、卒業生にたくさんくっついていた。
運動部系の上級生は、下級生に人気高いから、皆お別れして泣いてでもいるんだろうな。
「それで、私は何に付き合えば良いのかしら?」
澄ちゃんが手すりに背を預け、私に尋ねてくる。
聞かなくても澄ちゃんならわかってるくせに、こういうときだけ澄ちゃんは意地悪だ。
「うん……」
「うん、じゃなくてさ……ハモちゃんのこと?」
「……」
無言、この無言は澄ちゃんの問に対する、肯定を意味していた。
「卒業式くらい、顔でも出してくれると思った?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
「嘘つかないの、顔には出してないつもりだろうけど、仕草には出てるよ」
「え! そ、そうなの……?」
「嘘」
ガックリと肩が落ちる、よく考えれば、澄ちゃんがこういった小さい嘘をつくのはよくあることだ。
だけど、その後私はしまったと思った、私の反応は、明らかに嘘つきましたって反応だった。
「やれやれ、第一よく考えて御覧なさいな、ハモちゃんがここに顔を出すということは、日本に戻ってきてるってことよ。
もし日本に戻ってきてるんなら、あんたに一言ぐらい連絡があっても良いんじゃないの?」
「それは、そうだけど……」
「あんまり、無駄な期待はしない方が良いよ、期待をすればするほど、空しくなるだけだよ」
「わかってる、それはわかってる、だけどさ……」
なんだろうこの感じ、目頭の上が熱くなって、少しだけ頬も熱くなってきた。
それになんだか、少し眼が霞むような……あ、わかった、私泣いてるんだ。
僅かではあるが、私の目には涙が溜まり始めていた。
「あいつを……私は待ち続けてるのに、私には、あいつの気持ちがわからないんじゃ……」
気が付けば、涙が頬を伝っていた、卒業式で泣かなかったせいか、涙は止まらない。
「泣かないの、心配しなくても、あいつなら絶対に憐を忘れたりはしないって」
ポンポンと頭の上で手をバウンドさせる、まるで母親が子供でもあやすように、優しく。
「ほんと……かな……」
「大丈夫、私が言うんだから問題ない、心配するだけ無駄に疲れるよ?」
「すみ……ちゃん……」
澄ちゃんの胸元にしがみつき、私の涙は勢いを増して溢れ続けた。
私の涙が澄ちゃんの制服を濡らす、だけど、澄ちゃんはそんなことを気にもせず、私の頭に手を置いた。
「泣きたいだけ泣きなさい、あいつと再会して、泣き続けじゃ恥ずかしいよ」
「う……うぅ……」
泣きながら、私は澄ちゃんの胸元をトントンと叩いていた。
なんでそんなことをしたのかよくわからないけど、そうせずにはいられないような気がしていた……
「あんまり叩かないで、私の胸は男の子みたいに硬くないんだから」
「ごめん……」
「良いよ、別に……」
澄ちゃんの両腕が私を包み込む、片腕は腰に、もう片腕は頭に添えられている。
それからどれくらいの時間、私が泣いていたのかは正直覚えていない。
だけど、その間中ずっと、澄ちゃんは私を抱きしめる形で居てくれた。
卒業式、私は絶対に泣かないって決めていたけど、やっぱり泣いてしまった。
もう高校生にもなって、人前で泣くことはちょっと恥ずかしいかなって気がしていたから。
だけど、今はもう別に恥ずかしいとか、そういうのはない。
逆に、泣けて良かったんじゃないかとも思う、理由は……いまいちはっきりしないけど。
「さてと、そんじゃそろそろ行きますか?」
「行くって、澄ちゃん何か用事あるの?」
「なーに忘れちゃってるのよ、今日の帰りに甘い物奢ってくれるって約束だったでしょ、忘れた?」
そうだった、式が始まる前に、澄ちゃんに甘い物奢るって約束してたっけ。
「忘れてた……」
「じゃあ今思い出したね、今日は卒業式で女子は皆固まってる可能性があるから、早く行こう」
澄ちゃんは1人、屋上と下の階を繋ぐ階段へと姿を消した。
私も早く行かなきゃ、澄ちゃん足速いから。
鞄を手に取り、もう一度だけ、私は屋上から見える景色を目に焼き付けた。
「今までありがとう、バイバイ」
誰に向かって言ったわけでもない、しいて言うならば……時間に、かな。
「おーい、早く行こうよー」
階段の奥からひょこっと顔だけ出し、私を急かさせる。
「うん」
散々泣いた後だから、ちゃんと笑えるのか心配だったけど、何にも難しいことなんかないじゃないか。
微笑み返す私に、澄ちゃんもニッコリ笑って頷いた。
卒業式が終わり、明日から私は大学生へと変わり始める。
とりあえず1つは終わったけど、まだまだ先にはいくつも終らせなくちゃいけないことがあるんだ。
まだまだこれから、私がやらなくちゃいけないことはたくさんある。
翼を広げた鳥は、羽ばたいて飛ぶことが出来る。
今の私の状態は、ちょうどそんなところなんだから。
……
ピッピ、と規則正しい電子音が聞こえてくる。
とても単調で、変化には乏しく、何の感情もこもっていないつまらない音。
ぼんやりと白い世界の中、ずっとそんな音が聞こえていた。
1面が白い砂漠、とでもこの世界を表現すれば良いのだろうか?
周りには何もない、あるのはぼんやりと白くかすんだ世界と、単調な電子音。
そんな世界を1人歩き続けていた、周りには誰もいない、何もない。
なんてつまらない所なんだろう、ずっとそう思っていた。
どうしてそんなところに居たのか、それを知ることになったのは、もう少ししてからのことだった……
目を開くと、上に高い空間と、空間終わりである壁が見えた。
耳元では、あの場所と同じような電子音が、同じタイミングで鳴り続けていた。
「う、うぅん……」
ぼやけていた視界が徐々に色付き始め、自分がどうなっているのかを、脳が伝え始めた
上に見えるあれ、あれは天上だろう、とういうことはどこか室内に居るということか。
しかもこの体勢、柔らかい布団か何かの上に横になっているようだった。
「よっ……いつつ」
体を起こしてみると、腕が何かに引っ張られるような感覚。
見てみると、腕からは細い管が伸び、その管は頭上にある何かの補給パックへと繋がっていた。
一体ここは、どこなんだ?
「失礼します」
コンコンとノックが聞こえた後、1人の女性が入ってくる。
その女性を見て、初めて自分がどこにいるのか知ることが出来た。
女性が身につけていたのは、白い統一された清潔感溢れる看護服、ここは病院か。
「あ、気が付かれたんですか!?」
女性は、こちらが起きていることがよっぽど驚きだったのか、あたふたしながら医者と連絡を取った。
たどたどしい英語が、どうにもまだ慣れていないという感じを表現していた。
ややあってから、白髪交じりの医者が姿を現した。
医者はこっちの姿を見るやいなや、ぎゅうっと手を握り締めた。
「おめでとう、よくがんばりましたね」
と英語で言われた、顔はどう見ても日本人なのに、結構英語は上手かった。
キョロキョロと辺りを見渡す、部屋は白を基調とし、清潔感溢れる感じがする。
病院だということはわかっている、本当に聞きたかったのは、どうして病院に居るのかということだ。
そう聞きたかったのに、何故かそう聞けなかった、まだ頭が起きていないのだろうか?
「見ての通り、ここは病院だ、何故ここにいるのかはわかるかい?」
ゆっくりと左右に首を振る、否定を表してみた。
「10時38分 シアトル発の旅客機がエンジントラブルで不時着、君はその生存者の1人だ」
「……?」
旅客機が不時着? エンジントラブル? 生存者? 何がどうなっているのか即座に理解できない。
「乗客乗組員合わせて153人、内生き残ったのは君を含めて僅か4人だけだ」
医者の言葉が淡々と続けられる、こちらの理解スピードではとても追いつけない。
1人で先に進む医者を、ひとまず止めるために、胸にかけられたネームプレートを読んだ。
「さいどう……たいき……」
「え……」
こちらの言葉に、医者が目を白黒させた。
「君、日本語が読めるのかね?」
ネームプレートには漢字で「最堂 泰樹」と書かれ、上にはカタカナで振り仮名が。
下にはローマ字で、SAIDOUと振られている、TAIKIとは振られていなかった。
「少しだけなら」
再び医者は目を白黒、こちらが日本語を喋ったのがよほど驚いたのであろう。
「そうか、では、ここからは日本語で話しても良いだろうか?」
了解を求めてはきたが、すでにその問いかけが日本語に変わっていた。
「かまいませんよ……」
それから数十分の間、俺は医者の話を聞いていた。
話を聞いていくうちに、徐々に話の全容が見えてくる。
「私たちが駆けつけたときには、それはもう目を覆いたくなるような惨状だった。
油の匂い、木々のこげる匂い、血の匂い、それら全てが混ざり合った、まさに戦場とも言える現場だったんだ」
その時のことを思い出したのか、医者の顔が少しだけ苦痛に歪んだ感じがした。
「誰もが予想したとおり、発見されるのは遺体ばかり、とても生存者が居るとは思えなかった。
しかし、そんな惨状の中でさえ、生存者が居たんだ……その中の1人が君だよ」
「俺が……」
「あの惨状から救出されたのは全部で13人、内9人はこの病院で帰らぬ人だ……」
「……」
医者と同時に俺は言葉を失った、折角助かったのに、病院で死んでしまうなんて……
「君も運ばれた時には、きっと助からないだろうなんて言われていたんだ。
しかし、あの事故から1月後の今日、君の眼が覚めたというわけだ」
「1月後って、俺はそんな長い間……?」
「あぁ、このまま眼を覚まさずに生き続ける心配もあった、その心配は我々の取越苦労になったがね」
医者は、ハハハと乾いたような寂しい笑いをもらす、きっと笑いたくなんてないのだろう。
医者の笑いの後ろで、割り込むようにしてかけ時計がピピピと音を立てた。
「もうこんな時間か、君も疲れただろう、私はそろそろ失礼するよ」
医者はこちらに1礼し、部屋を出て行こうとする。
そんな医者の背中に向かって、言葉を投げかけた。
俺が投げかけた言葉は……
「あの……俺は一体……誰なんですか?」
「え……まさか君、記憶が……」
……
俺が眼を覚ましてから、すでに2ヶ月が経過していた。
翌日から、医者は毎日のように俺の病室を訪れた。
どうやら担当医になったらしく、俺も今では最堂先生と呼んでいる。
「お早う、昨日はよく眠れたかね?」
「まあまあ、ですかね」
2人の会話は大概日本語、2人ともそれで何の障害もなく上手くいっている。
「今日はそろそろ、松葉杖なしで歩行練習をしてみないかい」
「いっそのことギプスも取りたいです、これがあると歩きにくくて」
「ははは、それはまだ出来んな、全治2ヶ月の複雑骨折とはいっても、1ヶ月は寝っぱなしだったんだ。
実質ようやく2ヶ月経ったといったところだよ、外すのはまだ先だね」
「そうですか……」
「まあそう落ち込みなさんな、このままならすぐにギプスの切除、退院ももう目前だな」
「退院、ですか……」
言ってから、最堂先生はしまったというような表情を見せた。
仮に退院できたとしても、俺には行くところがない、仕事をするにしても、まず仮の住まいを作らないと……
いや、身分証明の出来ない俺に仕事なんて見つかる訳ないか。
「すまない、軽率な発言だった……」
「いえ、気にしてはいませんよ……」
病室に気まずい空気が流れる、何とか話題を変えようと、俺は前から気になっていることを訊ねてみた。
「あの、最堂先生、前から気になってたんですけど」
「なんだい?」
「あの隅に置いてあるあれは、ヴァイオリン、ですか?」
眼を覚ました時からずっと気になっていた、俺の病室に置いてあるあのヴァイオリン。
あれは一体何のために、誰が弾くために置いてあるんだろうか?
「やはり覚えては、いないかい?」
「と言いますと?」
「あのヴァイオリンは事故現場で君のそば、というよりは君が持っていたんだよ」
「え、俺があれを……?」
「君が持っていたから、君の持ち物だと思って一緒に持ってきたんだが、君のではなかったかね?」
「……わからないです」
もしかすると、俺のかもしれない、だけど、そんな確証はどこにもない。
「ちょっと弾いてみるかい」
最堂先生がヴァイオリンを取り出し、本体と弓を俺に渡す。
渡されはしたものの、俺にはヴァイオリンの構え方すらわからなかった。
「駄目、かね?」
「弾けるかもしれませんが、今の俺には無理ですね……」
「そうか……」
最堂先生は少し残念な顔を見せ、ヴァイオリンを受け取る。
「触発されて記憶が蘇るかと思ったんだが、甘かったみたいだな」
そうなのだ、俺の記憶は全てあの日に消し飛んでしまっていた。
先生の話では、事故のせいで情報が混乱し、一時的に記憶がなくなっている状態が考えられると言う。
その場合、突発的に記憶が戻ることもあるらしいが、そうでない場合は、ずっとこのままかもしれないらしい。
「先生は弾けないんですか、ヴァイオリン?」
ほんの冗談で聞いてみた、、まさか最堂先生が弾けるなんて初めから思っていなかった。
「久しぶりだから腕は落ちてるかもしれないが、少し弾いてみようか」
ヴァイオリンをアゴで押さえ、弦に弓を滑らせる。
驚いた、まさか最堂先生がヴァイオリンを弾けるなんて、軽い冗談のつもりだったのに。
しかも、結構腕も良いみたいだ。
小刻みに弓を滑らせ、そのたびに旋律が表現を変える、扱い慣れてないと中々あんな真似は出来ないだろう。
やがて音が終わり、最堂先生は小さく息を吐いた。
「お粗末様、どうでした?」
「先生、上手いですね」
「はは、褒めても何も出てはこんよ」。
とりあえず、これは君の部屋に置いておきましょう、もしかしたら記憶が戻る可能性もありますから」
丁寧にヴァイオリンのケースに戻し、再び部屋の隅へと立てかけた。
「さて、それじゃあ今日もリハビリを始めますか?」
「はい」
……
眼が覚めてからの俺の回復力は早かった。
あの後、すぐにギプスも取れ、日常生活は何の問題もなく送れる程度に回復していた。
「骨折も治ったし、パニック障害もない、本当に驚くべき回復力だな」
「俺自身も驚いていますよ」
「このぶんだと、そう遠くないうちに退院できるでしょうね。
あ、もちろん月に1回程度通院してもらういますけどね」
「退院ですが、長かったような、短かったような……」
退院と聞いて、普通の患者だったら喜ぶ所かもしれない、だけど、俺には素直に喜べる訳もない。
これからが、入院生活以上に辛いとわかっているからだ……
「先生、安いアパートかなにか知りませんか?」
「そのことなんだが……」
先生は言い淀み、軽くこめかみを掻いた。
「君が良ければの話しなんだが……私の所に来る気はないかい?」
「は、え、それって……」
「君を、養子として招きたいんだよ」
とても意外な誘いだった、先生が俺を養子に?
「どうして、そんなことを?」
「理由は至極簡単、君のことが心配だからだよ。
生存者の身元を調べようと、地元警察は搭乗リストから1人1人身元調査を行ったらしい」
「それじゃあ、俺が誰なのかも……」
少し期待してしまった、警察が調べたんだから俺が誰であるかもきっとわかったんだろう。
しかし、先生は首を横に振った。
「見つかった遺体は損傷が激しく、誰が誰なのか判別がつかないらしい。
DNA鑑定も難しく、個人を判別することは不可能と言っても良い」
「そうなんですか……」
「そこに来て君の退院だ、身分を証明する物のない君に、住処や仕事を探すことは困難だろう。
金銭面的にも、何かしらのバックボーンが必要なことは事実だ」
先生の言っていることはもっともだ、今の俺は善か悪かもわからない不信人物と同じような者。
そんな身元不明……本名不明の男を雇う店も、住まわせる場所もないよな。
「どうだろうか、私が1人で勝手を言っているのは重々承知だ、最終的な決断をするのは全て君だ。
たとえ君が養子にならなくとも、私は私なりに精一杯、君を援助して行くつもりだよ」
先生が、歳不相応の、祖父が孫に向けるような微笑を見せた。
「1つ、聞いても良いですか?」
「なんでも」
「先生の誘いは、同情ですか、それとも……」
「確かに、そう思われてもしょうがないか……しかし、同情というよりは……償い、かな」
先生の返答は、まるで迷路のように複雑で、謎かけのように難解だった。
だけど、そう応えた先生の眼は、嘘偽りを感じない真剣なものだった。
「俺が行って、先生は迷惑じゃありませんか?」
「全く、むしろ君のような子が養子に入ってくれれば、私としてはとても嬉しいのだがね」
もう一度軽く微笑み、先生は手を差し出してきた、握り返せば成立、握り返さなければ不成立。
俺が返した返事は、前者だった。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ、これからお願いします」
「早速今日から家の整理をしなければならんな、あ、それからもう1つ。
君の名前を考えなければならんね」
そういえばそうだった、俺は今まで最堂先生と呼んできたけど、先生は俺を君としか呼んではくれなかった。
名前がわからないため、それくらいしか呼び名がないのはしょうがないのだけど、なんだか味気ない。
「そうだな……君の顔立ちからして、あまり日本人的な名前は向かないな」
こめかみに指を当て、うんうんと俺の名前を考える。
子供が産まれた時って、親は皆こんな感じなんだろうな。
「こんなのはどうだろうか?」
「なんですか?」
「セラ……最堂 セラ、というのは?」
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