【一章・ 別れた2人】
教室を陽光が照らし出し、ぽかぽかと暖かい空間を作り上げていた。
こんな時はとてもお昼寝日和なんだけど、私は人前で寝ることには抵抗があるのでできない。
私の隣の席の子は、気持ち良さそうな顔でぐっすりと眠っていた。
人前で眠る度胸があるなんて、凄いな。
「ですからここをこうやって、こうすれば……」
教壇に立つ教師から発せられる言葉はいまいち理解できない。
あの教師は、自分の考えは他にも伝わっていると常に思っているせいか、教え方がとても専門的なのだ。
私たちは何も知らない生徒だ、彼方のように色々と勉強して全部わかってるわけじゃないんだからもっと丁寧に教えて欲しい。
そうは思っているものの、何故だか誰もそのことに触れようとはしない。
きっと皆言っても無駄だとわかっているんだろうな。
「はぁ……」
小さく溜め息をつき、陽光の居座った空を眺めてみた。
彼もきっと、この空を見ているのかな? そんなことを考えていた。
「ええとそれでは……三田村君」
「……」
「三田村君? お休みですか?」
教師に呼ばれても、私は反応することができなかった。
コツンと背中を叩かれ、ようやく私に何かあるのだろうということに気が付いた。
「指されたよ」
後ろの子が教えてくれた、慌てて教卓に視線を向けると頬杖をついて教師は私のほうを見ていた。
「は、はい……」
「最近は暖かいですからぼんやりすることも結構ですが、テストに響きますよ?」
「あ、はい、すいません……」
軽く頭を下げた、本当は「教え方悪いぞ」って言ってやりたかったけど、言えなかった。
言ってしまうとまたうじうじと教師が小難しい話を始めるからである。
「今回のテスト、少々難しくしますからね」
クスリと教師の口元がつりあがる、教師にしてはしてやったりなのだろう。
しかし、私たち生徒陣はそんなことは少しも気にしていない。
あの教師の作るテストははなから難しいのだ、それを今更難しくなんて言われてもねえ……
「それでは次の単元に行きますよ、教科書の28ページを開いて……」
周りの理解などお構いなし、自分の進みたいように進むのがあの人流。
そのためなのか、1年の半分もしないうちに教科書の内容が全て終ってしまう。
やる気があるのは良いんだろうけど、もう少し現場も考えて欲しい。
溜め息をもう1つ、視線を空から私の指へと向けた。
指の間に挟んだシャープペンシルをくるくると回す。
淡い紫のかかった、ウサギのマスコットキャラクターが何羽か描かれたシャープペンシル。
「あいつ、今頃何にしてるんだろ……」
ぼんやりと考える私の頭の中に、ちょっと昔の記憶がフラッシュバックする。
……
「え、俺と?」
「う、うん……」
夏期講習の昼休み、私は彼を屋上へと呼び出した。
私より、頭1つ半も背が高く、顎も鼻も私たちとはちょっと変わったシュッとしたつくり。
彼はハーフだった。
「あぁっと……俺はあんまり一緒にいても面白い男じゃないんだけど?」
「それは私が考えること、彼方が心配することじゃない」
「弱ったなぁ……」
頭を軽くカリカリと掻く、困惑しているのは誰が見ても明らかだった。
「とりあえず今すぐの返答は止めよう、あまりにも早すぎるし。
それに、俺は君のことをほとんど知らないしさ」
それはもっともだ、私はずっと興味があったけど、彼になかったのなら当然のこと。
「うん……ダメでも良いから、だけど、そのときはちゃんと言ってね……」
私は彼を置いてそそくさと屋上から退散した。
ちょっとでも強がって見せたかった、だけど、実際には少しだけ足が震えていた。
だって、告白するのなんて初めてだし……
……
その日の放課後、今度は逆に私が彼に呼び出された。
「お待たせ、待たせちゃったかな?」
「全然」
「昼の返事、聞かせてもらえるんだね……」
「あぁ……」
彼は屋上の手すりに寄りかかっている、彼の横に並ぶように、私も手すりに背を預けた。
彼の口元が、なんだか返答を言いよどんでいような感じがした、ああやっぱりそうか。
やっぱり、駄目かな……
口元を見るだけでそんなことを想像できてしまった。
それはそうだよね、クラスには私よりも可愛い子はたくさんいるし。
「付き合おっか……」
「……え?」
耳を疑うその言葉、私の眼は驚きに見開かれ、そのまま少しの間思考は止まってしまった。
「よろしくね」
彼の手が差し出される、思考が回復していない私は握り返すことができなかった。
「え、あ、あの……本当に私なんかで良いの」
「君が俺で良いのならね」
私の心境を見透かしているのか、彼は緊張を解きほぐすかのように軽く微笑んだ。
「あの……よろしく、お願いします……」
「はい、よろしく」
手を握り返した、私の手よりも1回り大きな男の子の手。
私の手は少しだけ彼の手よりも暖かかった、緊張しすぎだよ私……
……
付き合うきっかけはそんな感じだったな……
あの日のことを思い出し、自然と私の口元はほころんでいた。
だけど慌てて表情を元に戻す、今は授業中なんだ、危ない危ない。
「さて、この続きはまた次回にしましょうか、委員長」
起立、礼。
委員長の号令に合わせて一斉に立ち上がり、まばらお辞儀を返す。
お辞儀がそろっていないのだが、教師は気にすることもなく教室を出て行った。
これで今日の授業は全て終わり、教室には授業終了後の雑踏が訪れた。
「憐、授業中にぼおっとしてちゃ駄目だよ」
私の後ろの席、そこは幼馴染の澄ちゃんの席なのだ。
授業中に私が指されていることを教えてくれたのも、勿論彼女だ。
「虚ろな眼で空なんて見て、どうしたの?」
「うん……別に、大したことじゃないんだけど」
「ハモちゃんのことでしょ」
澄ちゃんは、指をピシッと私の目の前で立てる。
「え、べ、別にそんなんじゃ……」
「視線が泳いでるよ、この観澄様の前で憐が嘘つこうなんて無理無理」
立てた指を左右にフリフリ、いつも何かあると澄ちゃんはこの仕草をする。
「もう半年も経つんだよ、いい加減声ぐらい聞きたいころだよね」
澄ちゃんは当然私たちの関係を知っていた、なるべく隠していたつもりだったんだけどな。
「電話の1本くらいないの?」
「国際電話はお金かかっちゃうから、ね」
「良いじゃん、待たせる男には罰としてお金を使わせちゃいなよ」
「それじゃあハモンが可愛そうだよ、まだ学生なんだから」
「ふ〜ん」
澄ちゃんは両手を頬杖にし、ジィっと私の顔を眺めた。
「寂しくないの?」
「うぅん……勿論、寂しいよ」
「そりゃそうだよね……」
私たちは付き合っていた、いや、今でも付き合っているんだ。
好きな彼のことを、毎日とは言わないまでも、週に1回は会いたいと思ってる。
だけど、今はその願いも届かない物でしかない。
「だけど、ちょっと前に比べたら随分と明るくなったよね」
「そう、かな?」
「そうだよ、ハモちゃんが居なくなった1月目なんか、もう毎日目を赤くしてたじゃん」
毎日寂しくて泣いていたんだ、目が赤かったのも仕方ないじゃんか。
「あの頃はほとんど眠れなかったんじゃない?」
「……うん」
「で、今はどうなの?」
「今はもう大丈夫、それなりに慣れたから」
「そっか……」
澄ちゃんが小さく息を吐く、その後、澄ちゃん独特のにんまりとした顔を見せた。
「よし、それじゃあ今日はこの観澄様が何か奢りましょう」
「え、良いよそんな、澄ちゃんに悪いし」
「良きかな良きかな、人の好意は素直に受けておくものよ」
澄ちゃんは手早く帰りの身支度を済ませ、私にも準備を促した。
「何か食べたい物ある?」
「特にこれといっては……何か甘い物が良いかな」
「それじゃああそこ行ってみる? 先週できたばっかりのケーキ屋さん。
確か……姫恋歌、だったよね。」
姫が恋する歌、なんだかホストの台詞みたい……
……
「あ、美味しい」
萌葱色のクリームに覆われた、抹茶のケーキに澄ちゃんは驚きの声を上げた。
「澄ちゃんって、抹茶好きだよね」
2人で甘いものを食べに行くと、大体澄ちゃんは抹茶を使ってあるお菓子を注文する。
そのため、いつもいつも澄ちゃんの前には萌黄色のお菓子が並んでいる。
「お言葉を返すようですけど、憐はいっつも紅茶だよね」
私が注文したのは紅茶のシフォンケーキ、紅茶が混ぜ込まれた生地に白いクリームが周りを覆うように塗られている。
味は中々、甘すぎず、かといって紅茶の香りがきつ過ぎることもない。
これだったら、甘い物が苦手だったあいつでも美味しいって言うだろうな……
「おーい、聞いてるのー」
「え、あ……うん」
突然のことで、笑顔が曖昧な表情で止まってしまった。
「やれやれ、好きなケーキを食べている間でも、頭の中はハモちゃんのことでいっぱいか」
「そ、そんなことないよ」
「ふーん、ま、良いわ……それで、彼いつ帰ってくるの?」
澄ちゃんがケーキを1口、口を小さくもむもむと動かしながら興味の眼で訊ねてくる。
「後3年くらい、かな」
「そっか、短い期間、ではないわね」
次は紅茶を1口、まだ運ばれてきて間もないために湯気はもあもあと自己主張を続けていた。
軽く息を吹きかけて冷ますも、まだ熱かったのか、澄ちゃんは小さく「あち」っと声を漏らした。
「親の都合とはいえ、転入後僅か1年でまた転入とはね、急がしいこと」
「仕方がないよ、あいつの親御さん、忙しい方らしいから」
「あらあら、それじゃあ次の学校もそう長くはないのかもね」
今度は私が紅茶を1口、私は澄ちゃんのと違ってアイスティーなので火傷の心配はない。
澄ちゃんはまだ紅茶が熱いのか、スプーンでくるくると紅茶をかき回していた。
「夏休みに会いに行っちゃえば?」
「え……?」
「よくドラマや映画でやるじゃない、恋人に内緒で長いお休みに会いに行っちゃうの」
「あ……うん……」
返答のはっきりしない私に、澄ちゃんは小さく首をかしげた。
「そういえばさ、ハモちゃんってどこに行ったの?」
「……フランス」
「あちゃー……」
アメリカならまだ良かった、英語は得意ではないけど全く話せないわけじゃない。
だけど、フランス語は何もわからない……
勿論フランスでも英語は通じるけど、大概の人が喋るのはフランス語だろう。
通訳をつける手もあるけど、折角1人で会いに行くのに通訳はなんだか違う気がする。
「……待つしかないわね」
「うん……」
しばらくの間、2人の中から会話が消える。
フォークがお皿に当たる音、スプーンがカップに当たる音、それと店内の静かな音楽だけが私たちの間で流れていた。
……
「結構美味しかったね、またこよっか」
澄ちゃんは抹茶のケーキによほど満足したのか、もう1個注文しようかどうか真剣に悩んでいた。
私自身も、あのシフォンケーキの味には満足している、機会があったらまた澄ちゃんと一緒に来たいな。
「うん」
「勿論、次回は憐の奢りでね」
「はいはい、わかってます」
「うむうむ、良いお返事ね」
またしても澄ちゃん独特のにんまりとした笑み、そんな笑顔に私の顔も自然と笑顔に変わった。
「ねえ、憐……」
突然澄ちゃんの声色が変わる、さっきまでの楽しみを帯びた声色ではない。
なんだか、いつもの澄ちゃんらしくない、真剣みを帯びた声色だった。
「辛かったらさ、私にも、相談とかしてよね……」
ぽそりと、よく聞かないと聞き取れないようにぽそりと、澄ちゃんは告げる。
だけど、私にははっきりと聞こえていたよ……
「ふふ……ありがとう」
笑顔で返す私に、澄ちゃんは照れたように顔を背けてしまった。
もう、素直じゃないなあ。
「そ、そろそろ帰ろうか」
「うん」
澄ちゃんの両肩にチョンと手を添える、いつもしない私の行為に、澄ちゃんはちょっと慌てていた。
「うあ、れ、憐、歩きにくいってば」
「あ、澄ちゃん照れてるの、珍しいね」
「……」
ぽりぽりと頬を掻き、そのままあまり喋らなくなってしまった。
へえ、澄ちゃんって照れるとこうなっちゃうんだ。
……
濡れた髪からやんわりと熱気が立ち上る。
そんな熱気を遮るように、頭の上からバスタオルを被った。
「ふぅ……」
下着をつけ、薄い大きめシャツを1枚着て、バスタオルを頭から被る。
お風呂上りはいつもこんな感じで、音楽でも聴きながらゆっくりと髪が乾くのを待っている。
私はあまりドライヤーが好きではない、あの人工的な熱風で無理矢理髪を乾かすのはちょっと。
だからいつも自然乾燥、結構髪も長いから、乾ききるまでに1時間以上かかることもあるけど、そんな時間も私は嫌いじゃない。
バスタオルを軽く擦り合わせ、髪についた余分な水滴を取っていく。
髪が擦れるたびに、お気に入りのシャンプーの芳香がふわっと鼻を掠める。
軽く鼻唄なんぞを口ずさみ、テレビの電源を入れた。
画面が黒から徐々に色味を帯び始める、画面が表示されると、チャンネルはちょうどニュース番組をやっていた。
今はこれといってニュースにも興味がなかったので、チャンネルを1つずつ変えて音楽番組をやっていないか探す。
数回のチャンネル変えを行うと、画面がオーケストラの合奏風景へと変わった。
タキシードを着た年配の男性がタクトを小刻みに振り、音の強弱を支持している姿が印象に残りそうだ。
曲名はよくわからなかったけど、割とアップテンポな曲で、金管楽器の方が木管楽器よりも主張が強い。
チャンネルを動かす手を止め、軽くバスタオルを擦りながらソファーに腰掛けた。
「たまにはオーケストラも良いかも」
オーケストラはあまり聴きなれていない、大体この時間にやっているのはポップスか外国の民謡音楽。
ポップスよりも、外国民謡の方が私としては好み、ポップスは歌詞がちょっと邪魔になる感じがしてしまうからだ。
火照った体を冷ますように、手でパタパタと体に風を送る。
あんまり効果は期待できないけど、団扇やクーラーといった物とは違う、なんだか心地良さがこっちにはあった。
片手は団扇代わり、もう片手でバスタオルを小刻みに動かして水分を吸収していかせる。
もう最初ほどの熱気は感じられないけど、まだ髪の毛ははんなりと火照りを帯びていた。
下の冷蔵庫から持ってきておいた缶ジュースのプルタブを引き上げると、プシュっという音とともに少しだけ手に水滴を感じる。
「ん、ん……ぷあぁ」
微量な炭酸が渇いた咽を刺激し、お風呂上りの体にはすっきりとして気持ちが良い。
体に流れ込む清涼感と、放出される微熱の対比がこれを作り上げているのだろう。
ジュース片手にオーケストラを聞く、これが男性だったらお酒片手にスポーツ観戦でもしてるんだろうな。
そんなことをぼんやりと考えていると、オーケストラは終焉を迎えていた。
指揮者が客席に振り返り、軽く1礼、その後は見えない客席側からであろう拍手の音が聞こえていた。
演奏者は皆退場し、指揮者も会場から姿を消した。
終ってしまったのかと思っていると、さっきとは違う指揮者と演奏者のグループが入場する。
どうやらこの番組は、コンクール形式のような感じで次々と指揮者……演奏者が変わっていくようだ。
新しい楽団の演奏曲は、ドヴォルザーク作曲の『交響曲第9番ホ短調……新世界より』
オーケストラにはあまり詳しくない私でも、すぐにどんな曲か思い出せるほどに有名な曲。
三大交響曲の1つとも言われ、誰でも一度くらいは聞いたことがあるのではないだろうか?
指揮者がタクトを上げ、タイミングを取って一振り。
それに合わせるように、演奏者が一斉に音を奏で上げる。
「これこれ、新世界はやっぱりこれだよね」
重低音な始まりから、いっきに介抱される様々な楽器のアンサンブル。
先の分からない扉の前に1人立たされ、1歩1歩が重く不可思議な真情の変化を表し。
開け放たれた扉の先には、いまだ誰も見たことのない新世界、そんな感じがする。
感性がそこまで豊かじゃないからこんな感じにしか言えないけど、割と悪くはないと思う。
新世界はそのままゆったりと第一楽章を終え、そのまま1呼吸置いて第二楽章へ。
その時、交響曲には不釣合いなポーンという電子音がテレビから流れた。
ニュース速報の音だ、臨時ニュースが演奏者の姿に被るように上方に流されていく。
『現地時間10時38分にシアトルを飛び立った旅客機が墜落、生存者は不明』
「うわ、可愛そう……」
旅客機なんだから、きっと幼い子供や、家庭を持つ人もたくさん居たんだろうな。
飛行機の墜落事故はほとんど助からない、あんな高い所から落ちるのに、生きているほうが不思議なくらいだ。
悲しいニュースなど関係がないように、交響曲は続いていた。
私も濡れた髪もすっかり乾き、さらさらと指をすり抜ける感触がとても柔らかかった。
「うぅーん……ふあ、ぁぁ……」
軽く背筋を伸ばしていると、不意に小さな欠伸が漏れた。
時計はもう11時を指していた、今日はお風呂に入る時間も遅かったからかな。
「今日はもう眠っちゃおうかな……」
テレビの電源を落とし、いそいそと寝巻きを身につける。
電気を消す前にもう一度。今度はさっきよりも大きく背中を伸ばした。
上に引っ張られるような変な感じ、いつも寝る前にはストレッチの変わりにやっている。
「お休みなさい、ハモン」
机に立てかけられた写真立て、ハモンの腕に私が巻きつくような感じで抱きついている写真。
少し困ったような、照れたような表情のハモンと対照的に、私は腕に抱きつきながら驚くほどの笑顔だった。
「早く、帰ってきてよね……」
パチンと電気を落とし、布団の中に潜り込む。
たまには、あいつの夢でも見れたら良いな……
……
テレビから流れるピアノの旋律が、部屋の中にいつまでも余韻を残していく。
やっぱり音楽鑑賞専用に頼んだ部屋だけあって、テレビの音楽でも十分に楽しめる。
流れている曲名はわからない、作曲者が誰なのかもわからないけど、結構好きなタイプの曲だった。
白髪の老人の、皺の寄った指先が、白と黒の鍵盤を軽やかに叩き、柔らかいソナタを紡ぎ出している。
あんな老人の指なのに、こんなにも柔らかい旋律を出せるのかと少し驚いていた。
「はぁ……」
だけど、俺には溜め息しか出てこない。
この部屋で音楽を聴くことは1種の生甲斐だった、しかしそれも、今日でお終いだ。
コンコンと2回ノックする音、音がするだけで決して入ってはこない。
「ハモン、そろそろ準備を始めておけ」
「わかってるよ、この曲が終ったらな」
2人の男の声は決して顔を合わせることはなく、会話だけでやりとりを終えてしまった。
最近あまり会話はないが、それももう慣れた事、あの人は仕事1番の人だから。
ソファーの深く座り、ピアノの音が聞こえなくなるまで軽く目を瞑ってみた。
こうしていると酷く落ち着く、周りに余計な音や物が存在しない、音だけの世界。
考える思考さえもこの世界には必要がない、ただ流れる旋律に耳を傾けていれば良いだけ。
「ふぅ……」
もう一度深く溜め息、どうして俺の人生こうゆとりがないんだろうな……?
閉じていた眼を開き、ソファーから立ち上がる。
ピアノの旋律がいまだに流れ続ける中、俺は家を出る準備を始めた。
……
準備といってもさほど時間はかからない、特別持っていかなければならない物もないので俺の荷物はほとんどない。
小さなポーチとキャリーバック、それだけで全て事は足りる。
ピアノの旋律はもう終わり、今度はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのカルテットへと移り変わっていた。
俺はさっきまでと同じように、ソファに深く腰掛け、持て余した時間を本を読んで潰していた。
ヴァイオリンの音色と、本のページを捲る音は結構な不調和音だけど、絶対音感のない俺には気持ち悪くなることもなかった。
コンコン、再び2回ノックをする音、当然今回も入ってはこない。
「どうしたの?」
「準備は、終ったのか?」
「ああ、俺自身の荷物なんてほとんどないから」
「……」
そのまま扉外の男は黙ってしまう、しかし立ち去ってはいない。
いつもなら話す事がなくなればさっさと行ってしまうのに、どうしたんだろう?
「ハモン……」
「何?」
「……食事でも、一緒にどうだ?」
「え……」
ページを捲る指が止まる、そのまま視線は扉の先へと向けられた。
正直驚いた、あの人が俺と食事をだって? そんなことが?
「入るぞ……」
扉を開けて入ってきたのは、細いフレームの眼鏡をかけ、細身の顎がスッとのびた中年の男性。
名前は「六乃宮 架史」、れっきとした俺の父親だ。
「相変わらず、音楽鑑賞か?」
「まあね、それくらいしかすることもないし」
親父は俺の隣まで歩みを進め、ゆっくりともう1つのソファーに腰を下ろした。
「仕事の方は、大丈夫なの?」
「向こうに付くまでは暇さ、おかげで久しぶりに家でのんびりもできた。
しかし、お前の部屋に入るのも久しぶりだ、越して来て以来か?」
「そのくらいになるかな、最初に比べると随分と物も増えたろ?」
「確かにな……」
親父はゆっくりと部屋を見渡し、続けて俺に視線を投げ、そのまま自分の足元へと視線を落とした。
「それで、本当に俺なんかと食事を?」
「お前がそれでも良いのなら、な」
「……たまには、それも良いかもな」
「よし、それじゃあ行くか」
……
親父に連れられてきたのは、あまり有名そうには見えない古風な造りのレストランだった。
「ここは私の隠れ家みたいな店だ、ここには私以外誰とも来ていない」
「へえ、親父にもそんな店があったんだ」
親父に続いて店に入ると、クラシック音楽が耳を、少しカビっぽいワインカーブの匂いが鼻を刺激した。
「いらっしゃい、おやおや、架史さんじゃないですか」
きっと店長であろう、初老の男性は親父を見ると表情を崩した。
しかもこの店長、日本人だな。
「お久しぶり」
「珍しいですね、いつもお1人の架史さんが他のお客様を連れてくるなんて」
「息子ですよ、しばらくこの店に来ることもできなくなりそうなのでね」
男性は再び表情を崩して軽く会釈、俺も男性にならうように会釈を返した。
「奥の席は、空いているかな?」
「勿論ですとも、ご案内しましょう」
カウンターから出てきたマスターの後に続き、俺と親父は店の1番奥の席へと通された。
「ご注文が決まり次第、ベルをお鳴らしください」
では、と深々とお辞儀をし、男性はカウンター内へと戻っていった。
「今の人、ここの店長さん?」
「ああ、数ヶ月前に偶然この店を見つけてな、店長も日本人だということでえらく気が合ってしまってな」
口に手を当て、ハハハと小さく笑う。
笑っている、親父が笑ったのを見るのなんて、どれくらいぶりだろうか?
「何か食べたい物はあるか、ここは肉……野菜……魚なんでも美味いぞ」
「親父に任せるよ、親父がいつも頼んでるやつにしてくれ」
こういった店に来ることが少ないので、どれを注文したら良いのかわからないというのもある。
だけど、それ以上に、俺はこの人がどんな物を食べているのかがずっと気になった。
親父は備え付けのベルを軽く叩き、店長に呼びかける。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「いつものを2人分、ワインは今日はなしで」
「かしこまりました」
店長はまた深々とお辞儀を残し、カウンター内へと消える。
ややあってから、料理が運ばれてきた。
1品目はトマトの冷菜、くりぬかれた丸のままのトマトの中に、様々な野菜とストックのジュレが綺麗に盛り付けられていた。
味は親父が言うとおり申し分ない、この手の料理は、慣れていない人には結構食べづらく感じるはずだけど、そんなことはなかった。
日本人の店長が、料理の指示をしているらしいから、きっと日本人の口に合わせて作ってあるんだろう。
2品目のスープ、3品目のサラダ、4品目の魚料理、メインの肉料理が1品ずつ食べ終わるごとに運ばれてくる。
こっちが食べ終わるのを見計らっているかのように、料理が下げられるとすぐに次の料理。
この辺の気配りが、親父がこの店を隠れ家にした、要因の1つかもしれないな。
メインも食べ終わり、デザートとコーヒーが運ばれてきた。
デザートは、洋ナシのコンポートを添えた洋ナシのパイ、親父いわく店長の自信作らしい。
「ごゆっくりお楽しみください」
今までと同じように、店長は深々とお辞儀をしてから、カウンターの奥に戻っていく。
「どうだった、私のお気に入りの店の味は?」
「さすが、親父だな」
親父はコーヒーを1口飲み、はははと渋めの笑みを見せた。
本当に、この店に来てから親父はよく笑っているな……
「なあ、親父……」
「どうした?」
「どうしてまた急に、俺を食事になんて誘ったんだ?」
家にいる時からずっと疑問に思っていた、どうして親父は俺を食事になんて誘ったんだろう?
いつも仕事一辺倒で、家にいることなんてほぼ皆無な親父が、どうして俺を?
「どうして、か……どうしてだろうな?」
「なんだよそれ、聞いてるのは俺だぜ」
「はは、そうだな……しいて言うなら……いや、やっぱり止めよう」
「途中で止めるなよ、後味の悪い」
親父にどんな心境の変化があったのかしらないけど、何かしらあったのは確かだろう。
でなければ、ここ数年間一緒に食事もしていない息子を誘うなんてことは、絶対にないだろう……
「架史さん」
「マスター、どうかしましたか?」
「これをどうぞ」
店長が手にしていたのは、ギターケースを小さくしたような物。
あの大きさからすると、きっと中身はヴァイオリンだろう。
「マスター、これは彼方がよく弾いていた」
「受け取ってください、私からの感謝の気持ちですよ」
「いえ、受け取れませんよ、このヴァイオリンはこの店の名物じゃないですか」
「こんな辺境の地で、私が料理人をやってこれたのは全て彼方のおかげなんですから。
これは私から彼方への、感謝の気持ちです、受け取ってやってください」
店長と親父、きっとこの2人にしかわからない、何かバックストーリーがあるのだろう。
信頼のおける人に、自分が大切にしている物を渡す、きっとそれは万国共通だろうな。
「本当に、よろしのですか?」
「どうぞどうぞ、ですが、またこの地に戻ってくることがあったら、また私の店に顔を出してください」
「はい、勿論ですよ……あ、それじゃあ私からも1つお願いを、もう一度だけ、弾いていただけませんか」
「喜んで……」
店長はヴァイオリンを取り出すと、軽く音を鳴らしてから1呼吸。
目を瞑った店長の手にした弓が、ヴァイオリンの上を軽やかに流れ始めた。
何の曲だかはわからない、だけど、とても透き通った綺麗な音色だ。
親父も店長と同じように目を瞑り、ヴァイオリンの音に神経を集中させていた。
そっか、親父がこの店をお気に入りにしたのは、きっとこのヴァイオリンの音色なんだろう……
……
親父が運転する車がハイウェイを走り抜ける。
開け放った窓から流れ込んでくる風がとても心地良い、食後のちょっとした親父とのドライブだ。
「なあ親父、親父があの店が好きだった理由って?」
「料理が美味いことも、マスターの人柄が良いこともあるが、1番はあのヴァイオリンの音色だな」
「やっぱり、だけど親父、ヴァイオリンなんて聞くんだ」
「時々な、飛行機なんかの移動中は案外暇だから」
車はどんどん街を離れ、ドライブにはもってこいの煩くない所へと移り変わっていく。
「なあ、ハモン……」
「何?」
「色々と、迷惑かけるな……」
「え……」
2度目の沈黙、普段の親父では決して言うことのない言葉が発せられた。
謝罪の言葉、俺にはそう感じられた。
「私の仕事上、移っても移っても腰が落ち着くことがない、お前には私の仕事に付き合わせてしまっているようなものだ
この街も移り住んでまだ半年だ、そろそろ慣れ始めたころだろうが、また1からやり直し」
一体、今日の親父はどうしたというのだろう?
「日本を出る時だってそうだ、お前には悪いことをしたよ……」
「なんの、話だよ?」
「居たんだろ、付き合ってる人?」
親父の問いかけに、俺は返答を返すことができなかった。
恥ずかしいような、くすぐったいような、初心な人間なんだとその時初めて思った。
「お前にも悪いが、その子にも悪いことをした……ハモン、私が憎くないか?」
「は? 何言ってるんだよ?」
「お前の人生、お前の好きなようにやりたいというのが普通だ、しかし、それは私のせいで全て束縛されている
学校にしても、住処にしても、人付き合いにしても……あいつなら、きっと私を止めただろう」
「お袋か?」
「あぁ……」
俺のお袋は、残念ながらすでにこの世には居ない。
物心つく前に、病気で亡くなったと、小さい頃親父に教えてもらった。
お袋の記憶など何1つなく、親父が持っていた写真だけが僅かばかりのお袋の痕跡。
そんな写真を見ても、当然俺にはお袋の顔などわかる筈もない。
その時から、親父は男手1つで俺を育ててくれたんだ。
親父の仕事が波に乗ったのはそれから少し後のこと、仕事が波に乗って、何とか生活は送れるようになった。
変わりに、俺と親父の間に、会話というものが失われていったわけだけど……
「あいつが生きてさえいれば、私が海外へ飛ぶことさえも許しはしなかっただろうな。
たとえ許したとしても、私1人で行くことになっただろうが……」
「親父、お袋って……どんな人だったんだ?」
「私とは正反対な人だ、家庭も顧みず、朝から晩まで仕事をする私とは大違い。
遅く帰ってくる私のことを毎日待ち、私が帰ってくる前に眠っていることは一度もなかった」
「毎日、凄いな」
「全くだ、しかし、その優しさがあいつに病気を煩わせてしまたのかも知れん。
そうだとしたら、あいつを殺したのは私も同じだな……」
ハイウェイを走る対向車のライトが、俺たちの車を眩しく照らし出す。
ライトに照らされて映った親父の顔は、今まで見たこともないほどに、寂しげな表情をしていた。
「親父のせいじゃないだろ、偶然だよ」
「子供に慰められる父親か、ははは、私もすっかり歳をとったもんだ」
「だけど、親父はどういった経緯でお袋と出会ったんだ? お袋アメリカ人だったんだろ?」
俺に流れるハーフの混血、日本人の親父と、アメリカ人のお袋から譲り受けた物。
俺の瞳が完全な黒ではないのも、僅かばかりブロンドの混じった髪も、全てお袋の血から受け継がれている。
「あいつとは、こっちの取引先での交渉中のことだ。
私は会社の取引役に選ばれ、こっちに来たわけだが、その時、取引側の代表者があいつだった」
「職場恋愛、とは少し違うか」
「お互い恋愛感情なんて全くない、取引をどうにか有利に進めようと必死だった。
私もあの頃はムキになって、あいつもタジタジだったらしい」
その後、取引に成功した親父の会社が祝勝会を行い、酔った親父を介抱したのが、書類を届けに来たお袋だったらしい。
結構変わった馴初めだったんだな、敵会社の社員と恋に落ちて、か……
親父がお袋のことを話してくれるなんて、今日が初めてのことだ。
いや、違う……俺も親父も、意図的にお袋の話題を避けていただけなのかもしれない。
お袋のことを話す親父の顔は、いつもの仕事に対してのみ真剣な表情ではない。
もう随分と長い間見ていなかった、俺の親父としての、そんな表情だった。
「ハモン、今更何か言える立場じゃないが……お前には、父親でいられる時間が少し足りなすぎたかもしれないな」
「親父……!」
泣いている、あの親父が泣いている。
ボロボロではない、ほんの少しだけど、親父の頬には涙が伝ったであろう濡れた跡が、社内の明かりに照らし出されていた。
「男親は駄目だな、こんなことで泣いているようでは……」
「……」
俺と親父の、この街で過ごす最後の夜はこうしてふけていった。
交わす言葉もなかった2人だが、こんな日だからこそ、2人とも話したいことを話せたのではないだろうか。
今まで、良い気分のしなかった引越しも、今日ばかりは心から感謝をしていた。
親父と話しができたこともそうだが、親父の1面を知ることができたことが、俺はただ嬉かった。
……
「ほら、航空券だ」
親父から航空券を受け取り、2人で搭乗手続きを済ませる。
「私は少し煙草を吸ってくる、時間になったらまた落ち合おう」
「わかった」
何の荷物も持たない軽い恰好で喫煙場所を探しにいく親父を見送り、俺は備え付けのベンチに腰掛けた。
「はぁ、ここも今日でお別れか……」
もう慣れたことだけど、やっぱり離れるのは少し物悲しい気持ちになる。
まあ、別れる人が居ないだけ、幾分か良いのかもしれないけど……
「……」
内ポケットにしまってあった手帳を取り出し、パラパラとページを捲る。
日本にいるころ、住まいから学校までの道のりを覚えるために買った物、今でも活用している。
パラパラページを捲る中、ある場所でふと手が止まった。
『川崎 四年後にこの公園でまた』
走り書きされたそんな一言、たったこれだけの言葉でしかないが、俺には大切な約束。
「……憐」
帰ってきたら、また公園で再会しよう、あいつの提案した2人の再会場所だ。
もう半年もあいつとは顔を合わせていない、今頃あいつは、元気でやっているのだろうか?
やっぱり、1回くらい電話した方が良かったかもな……
「……いや、これで良いよな」
溜めて溜めて溜めて、再会の時にいっきに開放すれば良い、きっとそうした方が、お互いに最高の再会になるだろうから。
「あと3年か……まだ先は長いな」
ふうっと小さな溜め息を1つ、背筋をベンチに合わせるように軽く伸ばし、電光掲示板に視線を移した。
「まだ離陸まで2時間か」
映し出された電光掲示板と、親父に渡された航空券の時刻を照らし合わせる。
離陸時刻は……「AM10:38」、と表示されていた。
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