【4月26日(土)】


【一条】
「ふうむ……」

机の上に教科書を広げ、練習問題とのにらめっこが続いている。
これは羽子さんからの指令、金曜日に羽子さんをアパートまで送った後にこんなことを云われた。

……

【羽子】
「ここを日曜日までにやっておいてくださいね、もしやっていなかったら、酷いですからね」

……

酷いですからと云う羽子さんの表情は清々しいまでの笑顔、前にもあんな表情をされたことがあったな。
あの顔は俺に放棄する権利は無い、完全にそう云っている顔だった。

そんなこんなで教科書を広げて挑戦してはいるものの、どうにもペンが進まない。
羽子さんがいればわからないところを教えてくれるから何とかいけるんだけど、俺1人だとやっぱりペンは動かない。

シャープペンシルの頭をくわえて上下に振ってみる、口の中にプラスチックの固い感触が残った。

【一条】
「ああぁぁ……駄目だ」

くわえていたペンがポロリとこぼれ、白紙に近いノートの上をコロコロと転がっていく。

【一条】
「はぁ……」

羽子さんにやれとは云われたけど、こいつはちょとやそっとじゃ終わりそうにないな。

……

【一条】
「うぅーん……はぁ」

盛大に伸びをしながら緑の絨毯の上に寝転がる。
音という音が全て消されてしまったような静寂の世界、ここはあの川原の土手の上。

部屋に閉じこもって勉強を続けても効率が悪いので、こうやって気分転換に来たわけだけど。
ここに来てしまったら、下手すると夜まで帰らないかもしれないな。

勉強とは全く無縁なこの川原、最後に訪れたのはおよそ1週間前。
羽子さんと街に行った帰りに寄ったんだった……

【一条】
「……」

記憶を失い、なんの期待も持たずにやってきたこの街で、俺の思いは見事に打ち砕かれた。
誰にも干渉せず、1人で過ごしていれば自分に痛みは無い、そんなことを考えていたあの時の俺はもういない。

今の俺が1人になりたいと云っても、きっと俺を1人にはさせてくれない。
自意識過剰とも取れるかもしれないが、俺の周りにはそんな人ばかりが集まりすぎている。
そんな人たちに揉まれながら、自分1人で塞ぎこんでいた俺は消されてしまった。

この街では、本当にいろいろなことがありすぎる……

転校初日から廓に眼を付けられ、2日目には水鏡に泣いているところを見られたり。
もう1人の俺の存在を知ることになったり、あの2人に死ぬことをいさめられたり……

そして何より、羽子さんと付き合うことになったり……

【一条】
「……」

俺はいつごろから、羽子さんに惹かれていたのだろうか……?

本屋で会った時かな、それから気がつけばいつも近くにいるような人になっていて。
最初はそんな感情なんて無かったはずなのに、いつの間にか俺は羽子さんに惹かれていた。

思い返してみると、普段の学校で見る羽子さんと俺の前でだけ見せる羽子さんの顔はいつだって違っていた。
学校の中ではいつでも厳格で、キリリとした表情を絶やすことの無いちょっと近寄りがたいような女の子だったのに。
俺と一緒にいた時は、近寄りがたさを感じさせない笑顔も出て、何かを云われれば恥ずかしがったりする普通の女の子と大差の無い印象だった。

もしかすると、俺はそんなところに惹かれていったのかもしれないな。

ギャップに男は弱いとよく云うけど、まさに俺はそれそのものだな。
付き合い始めてからの羽子さんは、それまでとは違う本当の女の子らしさのようなものが見え隠れしている。
知的で普通よりも大人びて見えいた今までとは違う、歳相応の本当の羽子さんのようなものが。

【一条】
「ふぅ……」

オカリナを取り出し、軽く口に当てて息を吹き込んだ。
静かな川原の中に俺のオカリナの音がとてもよく響く、閉鎖空間ではないために音はすぐに掻き消えてしまうが、反響が無いぶんだけとても透き通って聞こえた。
このオカリナには僅かばかりの俺の記憶が残っていた、それが今吹いているこの曲だ。
他の記憶は全部失われてしまったのに、この曲だけは忘れることがなかった。

誰のなんていう曲で、いつごろから俺が吹けるのかはわからないけど、俺に残されていた数少ない記憶の1つ。

オカリナを吹き終わると、ワンテンポ遅れて音の存在もサッと消えていく。

パチパチパチ……

【一条】
「え……?」

【水鏡】
「相変わらずお上手ですね、先輩」

【一条】
「水鏡……いるならいるって云ってくれよ……って!」

水鏡は寝転がっている俺の頭の上の方から現れた、下はよりによってスカート。
ということはどういうことかというと……

【一条】
「おわ!」

視界に水鏡の下着を捉えてしまい、慌てて体を起こす。
心臓が変な鼓動を始めてしまうのを必死に押さえ、ぜぇぜぇと変な息遣いで呼吸を整えていく。

【水鏡】
「どうかしましたか?」

【一条】
「どうかしたじゃなくて! なんで頭の方に立つの!」

【水鏡】
「いけませんか?」

【一条】
「普通に考えて駄目だろ、俺よりもお前が……」

【水鏡】
「下着が見えるから、ということですか?」

唇に指を当て、たいしたことじゃないのにどうしてそんなに驚くんだろう? というような顔をされた。
いや、普通の女の子はそこで悩まないと思うんだけど……
確かに見せる下着ってファッションもあるけど、水鏡のは見せてるわけじゃないからそういうものではないだろう。
だとしたら普通は水鏡の方が焦るはずなのに、恥ずかしくないのだろうか……?

【水鏡】
「先輩が気をつけろと云うのであれば、今後は気をつけます」

【一条】
「普通は最初から気をつけると思うんだけど……」

【水鏡】
「もう下着の話は終わりにしましょう、コホン。
こんなところでどうしたんですか? 先輩」

別にコホンって云わなくて良いと思うんだけど、もしかして今になって下着のことが恥ずかしくなたのだろうか?

【一条】
「特にどうしたってわけでもないんだけど、気分転換、かな?
ここは静かだから、昼寝なんかするにはもってこいだから」

【水鏡】
「そうですか、確かにここは静かですね……静かすぎて、逆に怖くも思いますが」

【一条】
「怖い、か……水鏡は静かなのは嫌い?」

【水鏡】
「煩いよりは良いですが、静かすぎるのもあんまり好きではないです。
静かでしたから先輩のオカリナの音も良く聞こえたのは良かったですが」

【一条】
「そりゃどうも」

【水鏡】
「隣、失礼しても良いですか? あ、もしかして彼女さん近くにいたりするんですか?」

【一条】
「生憎今日は1人だよ、水鏡がそれでも良いんだったらどうぞ」

それでは、と小さく言葉で繋ぎ、俺の横へと水鏡も腰を下ろす。

【一条】
「そういえばさ、水鏡っていつも屋上からこの川見てるよな」

【水鏡】
「ええ、まあ……」

【一条】
「一度川岸に立っていたこともあったな」

【水鏡】
「……ストーカーですか?」

【一条】
「なんでそういうこと云うの……」

【水鏡】
「冗談です」

声には変化も無く、表情も見えないので本当に冗談で云っているのか疑いたくなる。

【一条】
「屋上ではこの奥を見ているって云ってたけど、ここに何か思い入れでもあるのか?」

【水鏡】
「私自身にとってはたいしたことではないのですが、そうですね……思い入れがあるといえば、とても深い場所なんです」

まるで謎かけのような答え、きっと教える気がはなから無いのだろう。

【水鏡】
「本当は私だけではなく、先輩にも関係があるんですよ」

【一条】
「俺が? なんでまた?」

【水鏡】
「それは………秘密ですね」

クスリと、本当によく見なければ判別できないくらいに小さな笑みを見せた。
だけど水鏡に関係あってさらには俺にも関係のあることって、なんなんだ……?

【一条】
「気になるけど、教える気なんて無いんだろ?」

【水鏡】
「残念ながら、きっともう先輩には教える必要の無いことですから……」

【一条】
「そう云われると余計に知りたくなるな」

【水鏡】
「先輩に襲われたとしても、喋る気は無いですから」

【一条】
「そんなことしないよ……」

こう云うことしかできない、俺の中であいつが目覚めてしまったら何をしでかすかわかったもんじゃない。

【水鏡】
「先輩……これ以上……」

何かを云おうとしたのだろうが、そこで口が止まってしまって後が続かない。
これ以上なんだというのだろうか?

【水鏡】
「……すいません、なんでもないです」

【一条】
「そう……」

頭を振るって話すことを止めてしまった水鏡に、俺が無理に聞くわけにもいかない。
きっと水鏡なりの考えがあって云うことを止めたんだろうしな。

【水鏡】
「先輩、もしですよ、もしも一度だけこの世の中に『奇跡』を起こせるとしたら、先輩はどんなことに使うと思いますか?」

いきなり突拍子も無いファンタジーな会話を振られてしまった、少しの間思考が完全停止してしまったじゃないか。

【一条】
「と、唐突だね……意図的に起こしたらそれはもう『奇跡』じゃないよね」

【水鏡】
「……なるほど、『奇跡』は全て可能性の上にだけ成り立つIF(もし)の世界。
そこに作為が存在すればそれは『奇跡』ではない、それは『脚本』でしかありませんね」

【一条】
「上手い表現をするね……だけどさ、『奇跡』ってのは実在するんだよな」

それは俺自身が一番良く知っている、俺が今ここでこうしているのも全ては『奇跡』が起こした偶然の世界。
俺の意識が戻ったのは紛れも無い『奇跡』、しかし、限りなくゼロに近い可能性を引き起こすために『奇跡』は代償を要求した。

それが記憶の消去、俺の記憶は『奇跡』に奪われ、その代わりとして今の時間を与えてもらった。

俺にとって、『奇跡』は感謝する事象でもあり、同時に忌み嫌う事象でもあるんだ……

【一条】
「水鏡はさ、『奇跡』って良いことだと思う?」

【水鏡】
「本来であれば、『奇跡』は喜ぶべき事柄ですが……そんな質問をするということは、先輩には何か訳ありなんですね?」

【一条】
「まあちょっとだけね……『奇跡』っていうのは必ずしも良いことだけじゃないんだ」

『奇跡』に裏と表が存在するのならば、俺におとずれた奇跡は表と裏の両方。

『奇跡』によって死ぬことから助けられ、今の時間を過ごさせてもらっているのが表。
『奇跡』によって全てを奪われ、何も知らない世界に1人取り残されてしまった辛さが裏。

これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのかはあの時の俺にはよくわからなかった。
全てを失い、過去にしがみつこうとしていた俺には悲しむべきこととして捉える気持ちの方が大きかったのかもしれない。

だけど今、そのベクトルは見事に逆転をしている。

悲しんでばかりの止まった生活じゃ事態は一向に好転しないということを、俺は知ることができたんだ。

【一条】
「昔は奇跡って言葉自体嫌いだったけど、今ではそうでもないかな」

【水鏡】
「そうですか、それで話を少し戻しますが、もし先輩に『奇跡』を起こせることができたら、どんなことを起こすんですか?」

【一条】
「……何にも起こさないんじゃないかな」

【水鏡】
「え……?」

【一条】
「意外な答えだろ? だけど俺に一度だけ『奇跡』を起こす力が与えられたとしても、俺はきっとその力を行使しない。
『奇跡』は偶然によって生まれるもの、そこにいくら認められているとはいえ人が手を加えるのは違う気がするんだ。
勿論これは俺個人の意見だから、他の人はなんて云うのかはわからないけど」

誰よりも『奇跡』のありがたさ、迷惑さを俺は知っているつもりだ。
あんな辛い時間を、人が手を加えて引き起こしてはいけないんだ……たとえそれが、その人にとって頼みの綱だとしても。

奇跡は偶然が、偶然は確立が決めるもの、そして確立は奇跡があるという前提によってのみ存在できる。
この3点が作り出すバランスの中に、人の手を加えることは許されない。

人が手を加えてしまえば、必ずどこかでバランスは崩れて全てが綺麗にまとまることなんてありえないんだ。

【水鏡】
「なんだか先輩らしい答えですね……」

【一条】
「俺らしいって云われてもピンとこないけど、そ云う水鏡はどんな『奇跡』を起こすつもりなんだ?」

【水鏡】
「先輩の自論を云われてしまった後には少し云い辛いんですが……気持ちを、伝えると思います」

【一条】
「気持ちって、好きな人でもいるの?」

【水鏡】
「そういうわけではないんですが、もうどうやっても伝えることができない人に、私の想いを伝えたい。
折角の奇跡をそんなどうでも良いような私的なことに使って、と先輩に云われてしまうのかもしれないですけど」

【一条】
「そんなこと云わないよ、普通は私的なことに使うのが当然だと思うけどね」

もうどうやっても伝えることができない、水鏡はさっきそう表現した。
ということは、水鏡が想いを伝えたい人というのはもう……

【水鏡】
「あの時の私は想いを伝えることなんて絶対にできませんでしたから。
もし奇跡に頼ることができるのなら、私はそれに頼ってでも想いを伝えたかった。
少しでも私が力になれればと思ったんですが、私の力なんて要らなかったみたいでした……」

恥ずかしかったのか、頬をポリポリと掻いてみせた。
きっと水鏡にも何か辛いことが前にあったのだろう、それがなんであるかを俺が知ることはきっと無いのだろうな。

【水鏡】
「あ、そろそろ失礼しますね」

少しよろめきながら立ち上がり、お尻と裾の辺りについた埃をささっと払い落とす。
下着が見えてしまわないように配慮してくれているのか、とても軽く、撫でるようにして埃を落としていた。

【水鏡】
「先輩、さようならです」

【一条】
「また学校でね」

【水鏡】
「彼女さんに知られると怒られますよ」

【一条】
「大丈夫、そんなにやきもち焼きじゃない……と思うから」

【水鏡】
「だと良いですね」

軽く頭を垂れ、土手の上の方へトテトテと軽い足取りで上っていった。
俺ももう少ししたら気分転換止めないとな、明日羽子さんに怒られちゃうよ。

……

【美織】
「それで、羽子とはどの辺りまで進んだの?」

【みなよ】
「もう結納まで進んでるの〜??」

なんで俺は今この2人に尋問まがいのことをされているんだ?
俺はアパートに帰ろうとしただけなのに……全部あのポニーテールのせいだ。

【一条】
「はぁ……」

【美織】
「溜め息つかない、生気が逃げていくよ」

【一条】
「普通は幸せじゃないのか……?」

【美織】
「生気が逃げれば早死にして幸せも逃げる、行き着く先は同じだから気にしないの」

随分と間を端折っている気がする、溜め息程度で生気が減るんなら会社の重役は皆早死にしてるよ。

【みなよ】
「問題発言だよ、今度学会で発表した方が良いよー」

【一条】
「先輩、冗談って言葉と恥って言葉は知ってますよね?
もし学会で発表するとその両方を同時に味わうことができますよ……」

【みなよ】
「おぉ、一条君がいつになくブルーでブラックだよ、そんな時は月餅食べると虹色世界になるよー」

虹色っていうのはあらゆる色が混ざって混沌とした一番不味い状況なような気がするのだけど……

【美織】
「まあ先輩の天然は置いておくとして、羽子とはどこまで進んでるのか話しなさいよ」

【一条】
「なんでそんな羽子さんのことばっかり食いついて来るんだよ」

【美織】
「だってさあ、あの羽子の恋愛話だよ。 こんな美味しいネタに飛びつかない訳無いじゃない。
あいつをこの手のネタでいじくるときっと面白いよー、くしし」

【一条】
「あんまそういうことするなよ、というかお前羽子さんのこと嫌いじゃなかったのか?」

【美織】
「嫌いだったよ、それはもう顔を見るのも嫌だったね、だって完璧が意思を持って歩いているようなやつだよ。
だ・け・ど、マコと付き合いだしてからはその完璧が言葉1つで簡単に崩れちゃって、初心すぎてなんか楽しくない?」

【一条】
「ってことはだ、美織は羽子さんのこと嫌いではないの?」

【美織】
「完璧すぎるのが嫌いだっただけで、ああいった弱点がある羽子は嫌いじゃないかな」

完璧すぎる、か……羽子さんは自他共に厳しく考えすぎていることがある。
それが他人と衝突を生む可能性があるということを、美織は体現してくれている。

その完璧が崩れてしまった羽子さんには美織も拒絶反応が無いみたいだし、常から完璧であることはマイナス要素の方が多そうだ。

【みなよ】
「羽子ちゃんって子に会ってないからわからないけど、そんなに普段堅い子なの?」

【美織】
「堅いを通り越して関わりたくない女ベスト3くらいに入る勢いだよ。
それがマコの前だとデレーっとしちゃって、それを指摘すると顔真っ赤にして反論するのが楽しいんだよね」

【一条】
「俺に同意を求めるなよ……確かに顔赤くして反論すると可愛いなぐらい思うけどさ」

【美織】
「くしし、あの羽子に可愛いって思えるとは愛だね、愛。
あたしはあいつがヒラヒラの服着てても可愛いなんて思わないだろうな、マコも想像してみたら」

【一条】
「ふむぅ……」

羽子さんにヒラヒラの服……黒と白のモノクローム調のスカート、所々にリボンがあしらわれて少しフランス人形チックな羽子さん。
……良いんじゃないだろうか? 元が良くできているために、きっとそんな服も結構着こなせそうな気がする。

最近ではそういった服飾に随分と眼が向けられている、もし俺が買って持って行ったら着てくれるんだろうか?
きっと最初はイヤイヤをされるような気がするけど、何度かお願いすれば案外着てくれるような……

【美織】
「おーい、妄想世界に浸ってないで早く戻ってこーい」

【一条】
「……へ、な、何?」

【美織】
「焦りすぎ、そんな露骨に想像しなくても」

【みなよ】
「男の子は想像力豊かだから、女の子はそれ以上に豊かだけどねー」

【美織】
「うわ、先輩からなんか危ない発言出たよぉ……」

【一条】
「美織が余計なこと云うから……」

……

【みなよ】
「ばいばーい」

大宇宙先輩は帰る方向が違うのでここでお別れ、今日も1日月餅だらけだった……見てる方が嫌になりそう。

【一条】
「……あ、しまった、勉強やってない」

ちょっとした気分転換のつもりで外に出たはずなのに、結局4分の1近くを費やしてしまった。

【美織】
「勉強? 嘘ばっかり、マコが自分から進んで勉強する訳ないない」

【一条】
「進んでではないんだけど、羽子さんにやれって云われちゃってさ」

【美織】
「で、やってるんだ。 うわー、早くも尻にしかれてるよ」

【一条】
「なんとでも云ってくれ」

【美織】
「ま、マコがそれで良いんならあたしは特に云うこともないけどね。
羽子がいるとなんだか云いそびれちゃうんだけど、がんばんなさいよ」

ポーンと背中を叩かれた、きっと羽子さんがいる前じゃ照れくさくて云えないんだろうな。

【美織】
「1年次からあいつと一緒で、いつだって厳格すぎてつまんないやつだと思ってたのに。
まさかマコとくっついちゃうなんてね、ちぐはぐすぎるコンビのような気もするけど、逆にそれだから良いのかもね」

【一条】
「どういうことだよ?」

【美織】
「完璧すぎる羽子には、完璧から一番遠いようなマコが一番あっているってこと。
授業は居眠りかもしくはサボってばっかり、そんなどうしようもないところを羽子は放っておけなかったのかもね、母性本能ってやつ?」

【一条】
「随分と俺の評価低いんだな……否定はしないけど」

【美織】
「なんにせよ、他の男にとられたりしないようにしっかりと捕まえておくんだよ。
ああ見えて顔だけは良いから、初めて見た男は案外簡単にひっかかっちゃうぞ」

【一条】
「心得ておくよ、顔だけは良いって云うのは羽子さんに代わって否定しておくけど」

【美織】
「あらあら、ラブラブだねぇ……だ・け・ど、羽子を盗られるよりも、マコをあたしが取っちゃうかもね」

手をピストルのような形に見立て、バーンと声に出すと同時に撃つようなポーズ。

【美織】
「前にも云った通り、あたしはいつだってフリーだから、羽子に苛められたらいつでもお姉さんが慰めてあげるわよ。
それじゃあまた月曜に、明日羽子と何か進展あったら教えてねー」

いつものように腕を大きくブンブンと音でも聞こえてきそうなくらい大袈裟に振りながら、十字路で別れを告げる。

【一条】
「進展なんて云われても、もうほとんど済んでいるようなものだけどね……」

これ以上進展するとしたら、もう最終地点以外行き着く先はないのかな。

……

PrrrrrrPrrrrrr……

机に向かって終らない勉強にうんうん唸っていると、規則的な携帯の着信が横槍を入れてくる。
画面に表示されている名前は『枯志野 羽子』、羽子さんみたいだ。

【一条】
「はい」

【羽子】
「あ、夜分遅く今晩はです、一条さん」

【一条】
「今晩は、何か急ぎの用事ですか?」

【羽子】
「急ぎというわけではないのですが、明日のことを少し話しておきたいと思いまして」

日曜は羽子さんが、「私のために空けておいてほしい」と云ったので空けてあるが、具体的なことは何1つ決めていなかった。

【羽子】
「私の勝手で申し訳ないんですが、お昼過ぎに私の部屋に来ていただけますか?」

【一条】
「それはかまいませんけど、午前中に何かするんですか?」

【羽子】
「それは秘密です、女の子はいつも忙しいんですよ、それから、女性にあれこれ聞くのは紳士の態度ではないですよ。
一条さんも、少しは女の子の気持ちのわかる人になってほしいですね」

【一条】
「気がきかないですいません、これからは気にかけます」

【羽子】
「ふふ、良いんですよ……それでは、明日はよろしくお願いします」

電話の向こうで小さく頭を下げられたような気がして、俺も電話の向こうの羽子さんに向かって小さく礼を返す。

【一条】
「こちらこそ、ではまた」

【羽子】
「はい、お休みなさい、一条さん」

ふふっと小さな笑みの漏れた音を残し、電話はツーッツーッと規則正しい電子音へと変わっていた。

【一条】
「羽子さん、なんだか楽しそうだったな」

案外弾んだ声に、何を計画しているのかと楽しみなようなちょっと不安なような……

【一条】
「後は……こいつをどうにかして解いてしまわないとな」

残された数学の問題全10ページ分、まだ夜は長いんだ。
ゆっくりと行こうじゃないか……とりあえず朝になっても終っていないという可能性は考えない方向で。





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜