【4月27日(日)】


【一条】
「お昼過ぎって云ってたからたぶん大丈夫だとは思うけど」

今の時刻は1時12分、俺と羽子さんの時間に対する捉え方だが同じなら十分に予定時間だ。
とはいえ一抹の不安はある、電話をすれば確実なんだけど……

【一条】
「部屋の前まで来て電話するのも変な話だよな、ここは大丈夫だと信じて」

ピンポーン

【羽子】
「ちょうど良い時間ですね、お待ちしていましたよ、一条さん」

扉を開けて招き入れてくれた羽子さんの顔は明るい笑顔。
白いスカートと、黒いラインが印象的な薄い黄色のかかったブレザーが、きりりとした羽子さんのイメージにとてもよく合っていた。

【一条】
「ブレザーですか、ちょっと意表をつかれましたね」

【羽子】
「あまりヒラヒラしてふわふわした軽くて薄い服は好きじゃないんです、やっぱり変でしょうか?」

心配そうに自分の姿を上から見下ろしていき、後ろも確認する意味で軽くターン。
スカートとブレザーの色を変えたらなんだか学校の制服に見えなくもない、白いネクタイをしているから余計にそう見えてしまうのかもな。

だけどこの羽子さんはとてもシックリとくる、変に短いスカートや薄手の服はちょっと想像できかねる。
いやまあ着てみたら似合うと思うんだけど、きっと羽子さんから進んで着るようなことはないんだろうな。

【一条】
「似合ってますよ、抱きしめたいくらいです」

【羽子】
「なっ! わ、私はそういうつもりでこういう恰好をしているわけではないですからね!」

【一条】
「わかってますよ、予想通りの反応をしてくれますね」

【羽子】
「もぅ……私で遊ばないでください、とりあえず中へどうぞ。
いつもの部屋で待っていてください、私もすぐに行きますから」

……

【羽子】
「お待たせしました」

【一条】
「結構遅かったですね、何してたんですか?」

【羽子】
「女の子にあれこれ聞いてはいけませんと昨日云いましたのに、もう忘れてしまったんですか?」

【一条】
「おっと、それもそうでしたね、野暮なこと聞きました」

【羽子】
「ふふ、別に構いませんよ、これを用意していたんです」

テーブルに置かれた白い皿の中には、一口大にカットされた茶褐色のクッキーが盛られていた。
皿の上には真っ白な敷紙が敷かれ、敷紙の白とクッキーの濃い茶色の色合いがとても綺麗だ。

【羽子】
「お茶請けになるようなものが見当たらなくて、これしかなかったんですがよろしかったらどうぞ」

【一条】
「それじゃあ、いただきます」

クッキーを1つ手に取ると、予想していた物とは違うことに一瞬驚いた。
冷たい、今まで冷たいクッキーという物に出会ってないのでまずそこで驚いてしまった。

冷たいクッキーなんてあるんだと感心しながら1口、また驚いてしまう。
クッキーってこもっとサクサクとしている物じゃなかっただろうか?
歯が柔らかく沈み込み、サクサクといったフレーバー的なものは感じられない、かわりにコリコリした、これは胡桃かな?

【羽子】
「お口に合いますか?」

【一条】
「ええ、最初はちょっと驚きましたけど、美味しいですね」

【羽子】
「そうですか、良かったです」

【一条】
「あんまり甘い物って知らないんですが、これってクッキーですよ、ね?」

【羽子】
「確かに見た目はソフトクッキーのように見えるかもしれませんが、全くの別物。
これはブラウニーというケーキの1つですよ」

【一条】
「へえ、これケーキだったんだ、意地汚いようですが、もう1つ良いですか?」

【羽子】
「ええどうぞ、上手くできているか心配だったんですが……一安心です」

今の科白がちょっと引っかかる、「上手くできているか心配」ということはこれは。

【一条】
「これっともしかして、羽子さんの手作りなんですか」

【羽子】
「ええっと、一応はまあ」

恥ずかしげに頬をぽりぽりと掻く、料理は苦手だと云っていた羽子さんがお菓子作りとは。
やっぱり女の子だから、甘い物は作れるということだろうか?

【羽子】
「あの、か、勘違いをしないでくださいね。
これは確かに私が作りましたけど、私1人で作ったのではなく、マスターに手伝ってもらったんです」

【一条】
「マスターが? あの人お菓子作りもできるんですね、何でもできる人なんだなぁ」

【羽子】
「お菓子作りなんて初めてですから簡単なのをとお願いしたら、これを教えていただいたんです。
初めて作った物ですから味にはあまり自信が無かったんですが、一条さんが美味しいと云ってくれて良かったです」

【一条】
「もしかして、午前中はこれを作っていたんですか?」

【羽子】
「はい、午前中に作って冷蔵庫で冷やしておいた物をお出ししたんです。
暖かいうちに食べても美味しいらしいんですが、冷たくても美味しいというので」

【一条】
「だけど、どうして急にお菓子作りなんてしようと思ったんですか?」

【羽子】
「それはその……お休みの日には、好きな人と一緒に甘い物でも食べながらゆっくりしたいじゃないですか」

云ってて恥ずかしくなったのか、両手をギュウッと握り締め、肩を強張らせながら下を向いてしまった。
こんな姿を見せられたら、美織でなくてもすこしからかってみたい衝動に駆られるな。

……いや、今それをやったらきっと怒られる、まだ早すぎるかな。

【一条】
「なんだか可愛い発想ですね、だけど、俺もそういうの嫌いじゃないですよ」

【羽子】
「か、可愛いは少し余計です……」

【一条】
「はは、羽子さんも食べてみたらどうですか、よくできていますよ」

【羽子】
「そ、そうですか、では私も……」

まだ照れているのか、少しおぼつかない手つきでケーキを1つ口に運ぶ。

【羽子】
「んぅ……んくんく………コクン…あ、本当です、結構美味しいです。
あ、私ったら何の飲み物を持ってこないで、すぐに何か持ってきますね」

【一条】
「あ、待った、それなら俺が淹れますよ」

【羽子】
「え、一条さんがですか? でも私の部屋にはインスタントしかないですから私でも簡単にできるんですが」

【一条】
「大丈夫です、今日はこいつをもって来ましたから」

羽子さんの部屋に来る前に買って来たこいつの出番かな。

【羽子】
「それは……『Assam』、紅茶の銘柄ですね、一条さんは紅茶がお好きなんですか?」

【一条】
「数少ない俺の趣味の1つですよ、ケーキをご馳走になりましたからお茶は俺が淹れますよ」

【羽子】
「でも、私の部屋にティーポットは無いですよ……」

【一条】
「心配ありませんよ、普通のポットで大丈夫です。
台所、貸してもらっても良いですか?」

【羽子】
「それは構わないですが、本当に一条さんにさせてしまって良いんですか?
教えていただければ私が淹れますが、勿論私には無理と云うのであればでしゃばるわけにはいきませんけど……」

【一条】
「無理というよりも、火傷するかもしれませんから俺に任せてください」

【羽子】
「そうなんですか、ちょっと残念です。 だけど一条さんが淹れてくれたお茶も飲んでみたいですので、こちらへどうぞ」

……

【一条】
「ティーポットでなくてもこれくらいのポットであれば十分ですよ。
後はこいつが完全に沸騰するまでしばらくの辛抱ですね」

【羽子】
「ですがちょっと驚きです、一条さんが紅茶に詳しいとは知らなかったです」

【一条】
「詳しいというほどではないですよ、いつの間にか知識が入ってきてしまっていたんですよ」

これも全部新藤先生のおかげ、病院ではコーヒーを淹れてくれることが多かったけど、紅茶の知識の方がなぜだか多かった。
診察室でお茶をして、新藤先生と一緒に俺まで看護婦さんに怒られたのも今となっては……今でもあんまりい想い出じゃないな。

【一条】
「そろそろ良いですかね」

ポットの蓋を開けると、中に閉じ込められていた湯気がボアっと一気に放出される。
眼鏡でもかけていればレンズが真っ白になっているな、羽子さんがそんなことをしてくれたらちょっとキュンとするかもな。

【一条】
「お湯が沸いたら後は飲む量にあわせて好きなだけ、今回はアッサムですから渋めが良いですね」

俺がいつも飲む倍くらいの茶葉をポットの中へ入れる、これをそのまま飲むのはちょっと辛いかもな。

【一条】
「火を止めて、余熱でゆっくりと茶葉の香りと味がお湯に移るまで待ちます。
これはBOPですから時間にしてそうですね……2、3分ってところですね」

【羽子】
「BOPってなんですか?」

【一条】
「茶葉の刻みの大きさのひとつで、ブロークンオレンジペコのことですよ。
細かさが大体2、3ミリの物がそう呼ばれるんです」

【羽子】
「ふあぁ、私の知らないことばかりです、お詳しいですね」

【一条】
「ちょっとかじっただけですよ、あ、牛乳ありますか?」

【羽子】
「ありますよ、必要とあらば出してきますが」

【一条】
「お願いします」

【羽子】
「ふふ、かしこまりました」

軽く頭を下げ、まるでメイドか執事のようなポーズを取る。 礼儀正しい羽子さんにはなんだかとてもよく似合っていた。
だけど牛乳があって良かった、無かったらこの紅茶を飲むことはきっと断念せざるをえなかった。

【羽子】
「はい、おまちどうさまです」

【一条】
「ありがとうございます、さっきの部屋に持って行っても良いですか?」

【羽子】
「はい」

……

【一条】
「まず牛乳をカップに注いで、ここでこいつの出番です」

取り出したのは紅茶と一緒にワンコインで買ってきた茶こし、こいつがあれば普通のポットでも問題なく淹れられる。
先に牛乳の注がれたカップのやや上に茶こしを構え、そこに熱々の紅茶をゆっくりと注いでいく。

そのまま注げば茶葉も出てきてしまうけど、茶こしのおかげで茶葉がカップに落ちることは無い。

カップに注ぎながら立ち上る香りを確かめる……よし、茶葉も十分に開ひらいているみたいだな。

【一条】
「これででき上がりです、まずはこのまま飲んでみてください」

【羽子】
「ありがとうございます……ふぅ……ん……」

軽く息を吹きかけて冷ましてからゆっくりと口に運ぶ、だけど熱かったのか一瞬だけ肩がビクリと跳ねた。
小さく舌を出し、舌を冷ましてから改めて紅茶に口をつけた。

【羽子】
「んぅ……あ、良い香り。 ミルクティーなのに紅茶の香りが全く損なわれてないんですね。
あれだけ茶葉をたくさん入れたのに苦くないです、それどころかとてもまろみがあります」

【一条】
「ミルクティーにするならアッサムが一番ですから、香りも上手く出てくれたみたいで良かったですよ。
砂糖は入れてないですから好みで入れてください、ですが甘い物と一緒に飲むんだったら砂糖は入れない方がお互いの味を邪魔しないですよ」

【羽子】
「それではこのままの方が良いですね、あく」

1口ケーキをかじり、もむもむと口を動かしてから紅茶を1口。

【羽子】
「本当ですね、ケーキが甘いですから紅茶に砂糖が入ってなくても気にならないです。
それにケーキを食べた後なのに紅茶の香りが消えないなんて、一条さんの淹れ方がお上手なんですね」

【一条】
「そう云ってもらえると嬉しいですよ」

俺も紅茶を1口、うん、まろみある中にもやんわりと舌に訪れる苦味。
味も十分だ、人に振舞うことなんて滅多に無いから緊張したんだけど上手く淹れられたみたいだ。

【一条】
「そういえば、今日の予定って決まってなかったんですか?」

【羽子】
「最初から決まっていましたよ、云ったじゃないですか、好きな人とゆっくり過ごしたいって」

そう云うと羽子さんがずりずりと身体を寄せ、俺の肩にもたれかかるような感じで身体を落ち着けた。

【羽子】
「今日はこのままゆっくりと過ごしませんか? 外に出るのも良いですけど、お休みの日は部屋でゆっくりとしていたいです。
この部屋の方が、人目を気にせずに一条さんに寄りかかったりできますから……」

【一条】
「……はは、やっぱり可愛いですね」

【羽子】
「余計なことは云わないで良いです……」

【一条】
「恥ずかしがり屋ですね、だけどそんなところ、好きですよ」

空いている腕を羽子さんの腰から回し、抱き寄せるような感じで少しだけ力を込めた。

【羽子】
「ぁ、もう、強引ですね」

【一条】
「寄りかかってきた側の科白とは思えないですね」

【羽子】
「それもそうですね、だけど不思議ですね。 クラスに転校生が来ると聞かされた時は、私には関係の無いことと思っていたんですが
それが今ではこういう関係で、一条さんと初めてお会いしたと気はまさかこうなるとは思いもしなかったですよ」

【一条】
「それは俺とて同じことですよ、初めて合った時は迷惑かけましたから」

【羽子】
「あれは一条さんが悪いのではなくて、全て宮間さんに非があるんですよ。
教室のしかもドアの前で騒がしくしていたら危ないというのに、何度も云ったんですが全く聞く耳持たずで」

はぁっと小さな溜め息が、羽子さんの身体を通して俺の腕に伝わってくる。

【羽子】
「だけど、もしあそこで宮間さんが私に注意を受けなければ、一条さんとはただのクラスメイトで終っていたかもしれないんですね。
そう考えると、少しだけあの人にも感謝をしなければいけませんね」

【一条】
「今度2人でお礼でも云ってみますか?」

【羽子】
「それは嫌です、あの人に頭を下げるのも嫌ですけど、宮間さんのことですからきっと私をからかってきます」

【一条】
「羽子さんは美織の茶化しに過敏に反応しますからね」

【羽子】
「す、すいません……男の方とお付き合いなんてしたことが無いですから。
ああいったことには慣れてなくて、つい声を荒げたりと恥ずかしい姿を……」

【一条】
「その際は俺がフォローするから大丈夫ですよ」

【羽子】
「……前回のあれ、フォローだとは云いませんよね?」

前回というと、図書室で咄嗟にキスをしたあれのことだろう。
あれは確かに俺の判断ミスだった、あの後俺は羽子さんにこっぴどく怒られたもんな。

【羽子】
「学校ではああいったことは禁止ですから、不特定多数の人がいるところなんですからいつ誰に見られてしまうとも限らないんですよ」

【一条】
「あれは俺も反省してますよ、今度から学校ではしないですからご安心を」

【羽子】
「そうしてもらえると安心です、私だっていきなりされるとドキドキしてしまうんですから」

【一条】
「ドキドキですか、羽子さんちょっと……」

【羽子】
「ぇ……うぅ!」

軽く顎を持ち上げ、僅かに上を向いた羽子さんの唇に自分の唇を重ね合わせる。

【羽子】
「ぷぁ!…………むぅ、一条さん」

【一条】
「学校では駄目だって云われましたから、今やってみました」

【羽子】
「そんな屁理屈みたいなことしないでください、いきなりはドキドキするって云ったじゃないですか……」

【一条】
「顔真っ赤ですね、誰も見てないけどやっぱり恥ずかしいですか」

【羽子】
「当たり前です……うぅー、いつも私ばっかりこんな眼にあって、悔しいです……」

両腕をギューっと寄せて悔しさを表現している、やっぱり俺と2人でいるときの羽子さんって可愛いな。
2人の時だけこんなだからいつも意地悪したくなる、これはちょっと止められないかも……

だけど、俺は本当にこんなことをしていて良いのだろうか……?

【一条】
「……」

【羽子】
「ぁ……一条さん?」

両腕を羽子さんの肩口から回し、包み込むように胸元で腕をクロスさせる。

【一条】
「俺に、人を好きになる資格なんてあるんでしょうか……?」

【羽子】
「え、なんでそんなことを……」

【一条】
「羽子さんも知っての通り俺の中にはオレとは全く別の俺が存在します。
そんな危ないものを潜ませている俺が、人を好きになって良いんでしょうか……」

前にも一度、羽子さんに告白された時にも頭によぎった考え。
あの時は状況が状況だったということと、羽子さんの涙を見て自分の中で感情が押さえられなくなってしまったために
答えを出さずに羽子さんへと応えてしまった。

だけどやっぱり、俺が近くにいるということは羽子さんにとって大きな害である。
羽子さんはそれでも、自分に危害が加えられてしまっても良いのだろうか……?

【羽子】
「いつまでも、悩み続けなくても良いんじゃないでしょうか」

【一条】
「……」

【羽子】
「人は誰にせよ、本当の自分と偽りの自分を共存させながら生活をしているんです。
一条さんは人一倍そのことを悩み、自分のことよりも他の人の安全のことを悩み続けていましたね」

【一条】
「自分が傷付くのは良いですが、他の人を、特に知り合いを傷付けるのだけは絶対に避けたいですから」

【羽子】
「……私からしてみれば、一条さんのその答えは間違っていると思います」

【一条】
「どういうことですか……?」

【羽子】
「……自分を傷付けないでください、自分が負けてしまっては全てが間違った方向に進んでしまいます」

腕の中でもそもそと身体を動かし、俺と向き合うと顔を胸へと軽く押し付けた。

【羽子】
「それから、1人で悩み続ける必要も無いんですよ。
1人で答えが出ないのでしたら他の方に頼るのも良いんです、それは決してルール違反ではないんですから。
私もいますから……そういう時は何より私に相談をしてほしいです、これでも一番一条さんを思う女の子なんですから」

【一条】
「羽子さん……」

【羽子】
「1人では動かすことができない物も、助けてくれる人がいればきっと動かせるんです。
悩みも同じです、1人で悩み続けるよりも、誰かと一緒に分け合った方が解決も早いですから。
一条さんが求めていただけるのなら、私はいつでも彼方の力になりますから……」

胸から顔を上げ、そのままごくごく自然に、引き寄せられるように羽子さんの顔が近付き……

【羽子】
「ん……あむ……」

唇が交わされる、俺からではなく羽子さんから。
俺がやる遊び心のような意地悪心のような物が一切無い口づけ、同じキスでも感情1つでこうまでも違うのか……

PrrrrrrPrrrrrr……

規則的な電子音楽が口づけを交わしたままの2人の間を裂くように鳴り響く。

【羽子】
「……タイミング、悪いですね」

なんだか名残惜しそうに唇を離し、机の上で鳴り続ける携帯を手に取って相手を確認すると。

【羽子】
「ぁ……」

羽子さんの表情がにわかに曇る、唇を端を少し噛締めるようにしたその表情が
なんだか怒っているように感じられた……

【羽子】
「すいません……少し外させてもらいますね」

申し訳なさげに頭を下げ、携帯を持って部屋を後にした。

【一条】
「……はぁ」

キス後の余韻に浸りながら、俺は羽子さんの思いやりと、そこからくる疑問について考えていた。

「自分を傷付けないで」、「1人で悩む必要は無い」この2つがやはり引っかかっている。
俺は羽子さんの言葉を真っ向から否定する現場を見てしまっている。

屋上でのリストカット、あれは今の羽子さんの言葉全てを否定してしまっている。

自分で自分の体を傷付け、誰にもそのことを話さずに1人で押さえ込んでいる。
俺のこととなるとあんなに親身になって答えてくれたのに、どうして自分ではリストカットなんてしているんだろう……

【一条】
「お手洗い貸してもらおうかな……」

別にトイレが近いわけではないが、頭の中で色々なことが混ざり合いすぎているために少し頭をすっきりとさせたい。
顔でも洗えば少しはスッキリするだろう、そんな軽い気持ちで部屋を出ると……

【羽子】
「はい、はい……わかりました」

羽子さんの声が聞こえた、そんな羽子さんの声はどこか寂しげで
それでいて怒りを感じさせるような冷たい対応だった。

【羽子】
「はぁ、またその話ですか……その話はもう断っておいたはずですが」

何かの約束事でもあったのだろうか? しかもそれを一度蹴ったにもかかわらずまた誘われている。
そんな感じの会話なのだろうか?

【羽子】
「え、そ、そんな急に! どういうことなんですか?」

急に声が慌ただしくなる、一体どんな話の流れに焦りを感じているのだろう?

【一条】
「……」

悪いとは思いながらも、俺はその場を動くことができなくなっていた。
敵意じみたものが向けられたその電話の主、それは一体誰なんだ……?

【羽子】
「私にはまだ無理です、はい、ですから…………そうですか、ですがいくら待っても答えは変わらないですから、それでは……」

電話が終ったのか、はぁっっと一際大きな溜め息が聞こえた。
羽子さんにとってさっきの電話は良い話ではないみたいだな……

羽子さんに見つかる前にサッと部屋に戻る、どうやら羽子さんに対する疑問がまた増えちゃったみたいだな。

……

【羽子】
「すいません、お待たせしてしまいましたね」

部屋に戻ってきた羽子さんの声にはさっきのような敵意の色は無く、いつもと同じような声に感じられる。
しかし、それが偽りでつくろっていることはさっきの会話を聞いていればすぐにわかること。

【一条】
「あの、羽子さん……」

【羽子】
「どうかしましたか?」

聞くべきなのか聞かざるべきなのか、羽子さんの剣幕からしてあまり話したくはない内容かもしれない。
だけどさっきの羽子さんの言葉を借りるなら、1人で悩み続ける必要は無い。

俺は羽子さんの恋人だ、羽子さんが俺の力になってくれると云ったように、俺も羽子さんの力になれるんならなってやりたい。
頼ってもらえるのなら頼ってもらいたいのだけど、きっと羽子さんは俺を頼ろうとはしない。

それが彼女、『枯志野 羽子』という人物なんだ……

【一条】
「……」

俺が羽子さんに聞くことは簡単だけど、羽子さんがそれに答えてくれる可能性はたぶん低い。
答えてくれたとしても、一番大事な核の部分はきっと濁されてしまうだろう。

無理矢理聞くわけにもいかず、俺の口から言葉が続くことは無かった。

【羽子】
「?」

止まっている俺に首をかしげ、どうしたんだろうといった表情を見せる。
聞きたいのに聞くことができない、そんなもどかしさからか俺は羽子さんの身体をひしと抱き寄せた。

聞くことが許されないのなら、せめて俺がいるということを伝えたくて……

【羽子】
「ひゃう、と、突然ですね」

【一条】
「すいません、こんなことしかできなくて……」

【羽子】
「……こんなことなんて云わないでください、私は十分に嬉しいですよ……ありがとうございます」

後ろから抱きしめる恰好なので羽子さんの表情は見えていない、それでも羽子さんの顔が笑っているであろうと予想できる。
今の俺に相談できないのであれば、俺が相談できるような男になれば良いだけのこと。

いつまでも羽子さん1人を悩ませることは心苦しすぎるから。

【羽子】
「本当に……変われるんですね、人の心というものは……」

【一条】
「ずっと変わらずにいることは難しいですけど、変わろうとすることはとても簡単です。
羽子さんのおかげで、俺も変わることができたんですから」

【羽子】
「私のおかげで、ですか……なんだか嬉しいですね」

しゅるりと俺の腕を抜けて俺と対峙し、俺の眼を見ながら羽子さんは継げる。

【羽子】
「だけど……私には、私を変える力が無い……」

【一条】
「ぇ……」

さっきまでの声の色とは明らかに違う、酷く寂しげなその声。
違和感だけが羽子さんに宿り、交差する瞳さえもなんだか悲しげな冷たい表情へと変わっていた。

【羽子】
「ぁ……」

フラリと羽子さんの体が揺れ、そのまま力なく体が崩れていく。
そんな咄嗟のでき事でも俺の身体は反応し、羽子さんが倒れてしまう前にその身体を抱きとめていた。

【羽子】
「ぃ、いつっ!」

抱きとめた腕にビクリと震えが伝わり、羽子さんからは苦悶の声が上がった。
どこか痛むのだろうかと思ったが、俺の手が当たる場所を見てピンときた。

そこは羽子さんの左腕、そこは羽子さんが自分の体を傷つけている場所だった……

【羽子】
「あ、す、すいません……ちょっと目眩がしてしまいました」

【一条】
「目眩、ですか……」

【羽子】
「お恥ずかしいですね、こんな場面で急に目眩だなんて。
……一条さん、少しだけわがままを聞いてもらえますか?」

【一条】
「なんですか?」

【羽子】
「ベッドまで、運んでいただけますか、まだ少し頭がふわふわするんです……」

【一条】
「お安い御用ですよ」

羽子さんの身体をひょいと抱き上げ、なるべく揺らさないように気を配りながら羽子さんの体をベッドへと横たえる。

【羽子】
「ありがとうございます……お客様にお世話をさせるなんて、駄目ですね私は」

【一条】
「きっと疲れているんですよ、ゆっくりと休んでください」

【羽子】
「申し訳ないですがそうさせてもらいます……この埋め合わせは近いうちにきっとしますから」

【一条】
「埋め合わせなんて良いですよ、それよりも早く元気になってくださいね」

【羽子】
「……はい、がんばります」

……

【一条】
「疲れ、じゃないんだろうな……」

羽子さんの言葉、それからさっきの目眩を見れば疲れではないことは明らかだった。
どうして急に羽子さんが目眩になんてなったのか、きっと俺の予想は合っているんだろうけど。

……やっぱり聞くことができなかった。

俺が聞いてしまうことで羽子さんを傷付けてしまうことは明らかだ。
俺がそんなことを聞いたら羽子さんは一体どんな顔をするのだろうか?

踏み込みたいうのだけど踏み込めない、それが2人の関係に害を及ぼしてしまうのならなおさらだ。

羽子さんの助けになりたいと願う自分と、羽子さんとの関係を壊したくない自分。

【一条】
「いったい、俺はどうしたら良いんだろうな……」





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