【4月28日(月)】


【男性】
「はい、お待ちどう」

マスターが持ってきてくれた紅茶から、ふわりとブランデーの香りが鼻を抜けていく。
俺が座る席の反対側に向かい合う形で座る、こうやってマスターと向かい合って座るのは初めてだな。

【男性】
「学校の方は良いんですか?」

今はまだ昼前の11時、今日は月曜日だから普通に学校がある。
それなのに俺がここにいるということは、まあ……サボったわけだ。

【一条】
「なんだか、学校に行く気が起きないんですよ」

【男性】
「いけませんねえ、そんなことでは羽子ちゃんに怒られますよ?」

【一条】
「今はちょっと、羽子さんに会えるような感じじゃないんです……」

【男性】
「おや、喧嘩でもしたんですか?」

【一条】
「そういうことではないんですが、ねえ……」

曖昧な返事を返す俺に、マスターの顔が疑問顔へと変わった。

【男性】
「何か羽子ちゃんのことで悩みごとですか?」

【一条】
「悩みといえば、悩みかもしれないですね……」

【男性】
「よろしければ私に話してはもらえないですか、君と一緒なったので大丈夫とは思っていましたが。
君の様子からするとどうも良い方向に向いているとは云えないようですからね」

マスターの眼はとても真剣に、実の子供を見るような眼に変わっていた。
羽子さんが子供の頃から知っているというからには、俺以上に羽子さんに対して思うことがあるのだろうな……

【一条】
「マスターは、普段の羽子さんを知っていますか?」

【男性】
「普段というのは私の店に来るのではない、学校での羽子ちゃんということかい?」

【一条】
「そうです」

【男性】
「……残念ながらわからないな、君がそんなことを云うということは
私が見ている羽子ちゃんと君が見ていた羽子ちゃんは違うということかい?」

【一条】
「学校での羽子さんは、俺の前やマスターの前で見せるような顔をすることが無いんです。
厳しい眼を崩さずにまるで他人を寄せ付けないようにしているような、常に緊張状態を続けているような感じなんです」

【男性】
「他人を寄せ付けない、か……」

しばらく何かを考えるように眼を閉じ、深く息をついてからマスターは話を始めた。

【男性】
「それはもしかすると、いや」

【一条】
「何か心当たりがあるんですか?」

【男性】
「無い、と云えば嘘になるのだけど……当人ではない私があまり口に出して良いことではないんだ。
しかし、きっと羽子ちゃんが君に話すことは無いだろうな……」

【一条】
「そうですか、やっぱりそうですよね」

いくらマスターといえど、羽子さんの秘密をそう易々と話せるわけがない。
マスターが話してしまうことで、俺だけでなく羽子さんとマスターの間にさえ亀裂が生まれかねないんだ。

それを考慮すれば、マスターといえど云うことはできないよな……

【男性】
「ですが、羽子ちゃんは君を選び、君は羽子ちゃんを選んだ。
だとすればもう私がいる必要は無いでしょうね……一条君、1つだけ聞かせてください。
これから私が何を話しても、羽子ちゃんに対する気持ちは変わらないと約束していただけますか」

【一条】
「ど、どうしたんですか急に?」

【男性】
「羽子ちゃんが話さずに止まっているというのなら、私が話して動かそうというわけですよ。
勿論羽子ちゃんはそれを良しとしないでしょうが、それでは君にも迷惑がかかりますから。
もし私が話すことで君の気持ちが変わってしまったというのなら、私としては2人に別れてもらう方が良いと思っていますので」

真剣な視線を崩すことなく、真っ直ぐに俺の眼を見つめられる。
それはいつもの気さくなマスターの眼ではなく、敵でも見るような鋭い視線。

たぶん俺はマスターに試されている、ここでの返答1つでマスターの俺に対する立場は180度変わりかねない。

だからこそあんな視線をしているのだろうけど、生憎マスターの視線はあまり効果が無い。
だって、俺の答えなんてはなから決まりきっているんだ。

【一条】
「羽子さんの何を知ったとしても、俺に心変わりは無いですよ。
そんな軽い気持ちで付き合っているわけではないですから」

【男性】
「ふふ、君ならそう云ってくれると思っていましたよ」

敵を見るような視線から一転、いつもの気さくなマスターの視線へと変わっていた。

【男性】
「羽子ちゃんが他を寄せ付けない緊張状態を続ける理由……それはたぶん彼女の両親のせいでしょうね」

【一条】
「え、親御さんのせい、ですか?」

【男性】
「ええ、羽子ちゃんから両親の話を聞いたことはありますか?」

【一条】
「詳しくではないですが、親父さんが外交官だということだけは」

【男性】
「父親は外交官、母親は国際的な弁護士なんですよ、羽子ちゃんの両親は」

へえ、親父さんだけでなくお袋さんまでもそんな凄い仕事についていたのか。
両親が外国語に堪能ということで、羽子さんも外国語を勉強しているのだろうか?

【男性】
「両親が2人とも世間一般ではエリートと云われる職についています。
元々母親の方は日本で弁護士業をしていたんですが並外れた実力でね、海外へと眼を向け始めたんです。
その辺りから少しずつ、羽子ちゃんは変わっていったのかもしれないですね……」

【一条】
「変わっていった?」

【男性】
「羽子ちゃんに口止めされていたから云いませんでしたが、私は以前羽子ちゃんの家で働いていたんですよ」

【一条】
「え……そうだったんですか?」

【男性】
「はい、まだ羽子ちゃんが産まれるるよりずっと前から私は枯志野の家で働いていたんです。
あの頃から大成する人だとは思っていましたが、予想通り羽子ちゃんの父親は大成して外交官に。
彼が外交官になる少し前、彼と交際をしていた女性、羽子ちゃんの母親に当たる女性と婚約したんです」

マスターは昔を懐かしむように軽く宙を見上げ、ほぅっと小さく息を吐いた。

【男性】
「やがて羽子ちゃんが産まれ、それを見届けると彼は外交官として海外へ。
私は彼から彼女の助けをしてくれと云われてその場に残り、彼女と羽子ちゃんの成長をサポートしていきました。
それから羽子ちゃんも育って手がかからなくなると、彼女は休んでいた弁護士業を再開させ、その実力から海外へと視野を広げていったんです」

【男性】
「両親がともに海外へと行くことで、私も枯志野の家から去ることにしました。
羽子ちゃんの世話は母親が雇った家政婦がしてくれるということでしたので、私も何の心配事も無く今の仕事へと身を移したんです」

聞くだけなら順風満帆に進んでいるように聞こえるのだけど、一体どこで羽子さんが変わってしまっていたというのだろう?

【男性】
「何か気付くことはありませんか?」

俺には特に気になる点が思いつかず、軽く首を傾げることで受け答えを行った。

【男性】
「羽子ちゃんは子供の頃をほとんど両親とともに過ごしてはいない、ということですよ。
そしてたぶんこのことが、今の羽子ちゃんの障害の1つとなってしまっているのかもしれないんです」

【一条】
「両親と過ごしていないことが、ですか?」

【男性】
「ええ、私が枯志野の家を出た頃にはもう羽子ちゃんは小学校に行っていました。
いくら羽子ちゃんがしっかりしていた子だとはいえ、子供は子供です、両親が身近にいないということはあまり良いことではなかったでしょう。
両親がいない寂しさを誤魔化すために、何かで無防備な自分を隠してしまう必要があった、そんな気がするんですよ」

【一条】
「それが、あの羽子さんの態度だと?」

【男性】
「私はそう思いますよ、そんな小さい頃に作ってしまった盾を所持したまま育っていってしまった。
あの歳になると、もう捨てたくても捨てきれないところまで羽子さんには染み付いてしまっているのかもしれないですね」

今度はハァっと大きく溜め息をつき、行き場の無い視線を宙へと彷徨わせた。

【男性】
「そんなことは害にしかならないと羽子ちゃんならわかるようなものだけど、いまだにそれを続けているということは
何か私の知らない事情があるのでしょうね……」

【一条】
「羽子さん、寂しいんでしょうか?」

【男性】
「かもしれないですね……もう何年も顔を合わせたという話を聞かないですし。
もし寂しいのだとしても、君がいれば解消されるような気もするんですが」

【一条】
「俺では役不足、ということなんでしょうか……?」

【男性】
「それは無いだろうけど、君を持ってしても足りない何かがあるのかもしれないね。
子供の頃の障害というのは、大人になっても案外深く残っているものですから」

子供の頃の寂しさ、その寂しさを誤魔化すためにあの態度をとって押さえつけ
その押さえがきかなくなってしまったから自らを傷付けてしまった、ということなのだろうか?

……無くはないのかもしれないけど、どうしても寂しさとリストカットは1つに繋がってこない。

【男性】
「羽子ちゃんの性格を知っている君ならわかると思いますが、彼女は人に頼ることを嫌う子です。
それと同時に不完全を嫌う、世間で云うなら完璧主義者といっても良いでしょう」

【一条】
「全くその通りだと思います」

【男性】
「あれは両親の影響なんですよ、彼女の両親はともにできた人でしたから、そんな両親を見て育てば
例え一緒に過ごした時間が短くとも、子は親の真似をしようとするものです」

両親譲りの完璧主義体質、ということか。
そんな完璧主義体質が、羽子さんには自分を誤魔化すということをさせているのかもしれない。

完璧に見せるために自分の弱いところは決して見せず、いつも完璧な自分を演じ続ける。
もしかすると、近付かれてその弱さが露呈することを恐れていたためにあんなにも他人を寄せ付けない雰囲気を出していたのかもしれないな。

【男性】
「羽子ちゃん自身もきっと悩んでいるでしょう、それでも他を頼ろうとしない性格上1人で悩み続ける。
そんな時、彼女の助けになれるであろう人は君なんです、もし彼女が助けを求めるようなことがあったら、聞いてやってください……」

【一条】
「羽子さんは俺に、悩みを話してくれるんでしょうか……?」

【男性】
「たぶん進んで話すことは無いでしょう、ですが君は羽子ちゃんが気を許した彼氏なんだ。
彼氏ならば多少は強引な手を使っても大丈夫です、近いうちに彼女の偽りは取り除いてやった方が良いかもしれませんね」

【一条】
「強引にと云われても、付け込む隙が無いことには強引にも出られないですよ」

【男性】
「完璧は一見隙が無いように見えますが、案外最も簡単なところに隙が隠されているものですよ。
私にはその隙がどこにあるのかはわかりませんが、君ならばもう気がついているんじゃないんですか?」

羽子さんが隠している付け込む隙、それはたぶんあの腕のことだろう。
彼女は俺が何も知らないと思っているのだろうが、俺は羽子さんが腕を傷つける現場をこの眼で見ている。

もし俺が羽子さんの『完璧』を打ち崩すとしたら、狙いはそこしかない。

【男性】
「今度の2人揃ってのご来店までに、羽子ちゃんの偽りを取り除けていてくれると私としてはありがたいですよ」

はははっと苦笑を残し、マスターはカウンターの奥へ。
マスターと長い時間話していたために咽が乾き、注文していたのを忘れていたブランデーティーに口をつける。

すっかり冷めてしまった紅茶の味は少し苦味が強いが、鼻に抜ける香りはとても鮮烈で。
俺の気持ちに整理をつけるにはちょうど良いできになっていた。

……

【男性】
「またのご来店を、今度は羽子ちゃんも連れてね」

マスターに昼食をご馳走になり、その後もゆっくりと話し込んでしまった。
気が付けば時間はもう2時をまわっていた、普段なら午後の授業に退屈して眠っている時間だな。

【一条】
「はぁ……俺もそろそろ、止まってばかり待つばかりじゃいけないのかもしれないな」

羽子さんの完璧は崩さなければならない障害だ、何とかしてそれを崩したいのだけど相手はあの羽子さん。
こちらもそれ相応の準備をしていかない限り打ち負かされてしまう確率が高いだろう。

【一条】
「明日は忙しい日になるかもしれないかな……」

羽子さんの完璧を打ち崩し、演じる必要の無い羽子さんに変わってもらう俺の計画は、少しずつ前に動き始めていた。





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